Three pieces of oil painting
by Francis Bacon
Portrait (1974, Photograph by Michael Holyz)
and his atelier whole view
(1998, Photograph by Perry Ogden)

2013.7.02

「知識は力なり」で名高い16世紀のイギリスの哲学者フランシス・ベーコンとは同名異人の画家がいる。フランシス・ベーコン(Francis Bacon・1909〜1992)。彼の絵をぼくが初めて見たのは10代半ば過ぎだった。(もちろん印刷物で)存命だったベーコンは当時すでに55歳前後となっていて、著名な現代美術家として活躍中。アメリカでの初となる回顧展がグッゲンハイム美術館で開催されていた頃だった。

デフォルメされた人物像やタッチは独特で、他の誰もこんな絵は描いていなかった。彼の絵を見ていると、具象でも抽象でも、本当はそんなことどうでもいいことじゃないかという気さえしてくる。作品は色彩や形、タッチ、質感が渾然一体となって、彼が偏執するイメージへと姿を変えながら迫ってくるような不思議な魅力に満ちていた。漠然と画風のイメージに燻製のベーコンを重ね合わせていた当時のぼくは、惹かれながらもそこに肉感的な怪しさを嗅ぎつけ、それ以上近づくことはなかった。

そして時は半世紀近く流れるのだが、5月のある日、没後の大規模な回顧展としてはアジア初となるベーコンの展覧会が東京国立近代美術館で開催されていることをNHKの「日曜美術館」で知った。(現在は終了し、豊田市美術館へ巡回して9月1日まで開催中)番組では大江健三郎浅田彰、映画監督のデヴィッド・リンチ(David Keith Lynch)らが登場して作品の魅力を読み解いていた。原画を1枚も見ていないぼくが偉そうなことは言えないけれど、“現代の人間像”を作り上げようとしていた、“人間の本質”を表現しつづけた、実存的である、といったコメントはどれもあまり心にとどまることはなかったが、唯一番組で印象に残るシーンがあった。第二次世界大戦中、喘息のため兵役不適格となったベーコンは民間空襲警備員として短期間働く。そのときに目にした多くの死体の(人間はつまるところ肉の塊にすぎないのだという)記憶が、その後の彼の作風に大きく影響を与えたという場面だ。

フクロウみたいな風貌も懐かしくなったぼくは、さっそくネット検索して久しぶりに作品をチェック。すると、YouTubeに10分弱のスライドショーが投稿されていて、あらためて画業を辿ってみるとその比類ない世界は健在だった。時には画家というより、映像作家やイラストレーターにも近い感性を垣間見せたり、年代によって作風も変化しているが、一貫しているのは物語を壊し続けようとする強い意志の存在だ。

作家には作品が残る。そこにその人物のすべてが凝縮されているという人もいるが、作品が生成される背景には生い立ちや逸話が寄り添っている。もちろん、それらは所詮頼りない推測の手立てにすぎないのだが、ときには腑に落ちることもある。そこで、生涯の真実を取り逃がすことは避けられないと承知しつつ、ベーコンの生い立ちを辿ってみたい。研究者のように年代別に作品傾向を分析、解説することに興味はない。ぼくが知りたいのは作品の生成に寄り添ったと思われる、彼にまつわる個人的な出来事だけである。

ベーコンはアイルランドの首都ダブリンに5人兄弟の第二子として生まれる。(兄と弟は早世)

家系は哲学者ベーコンの傍系にあたるという説もあるが定かでなく、ベーコン本人も疑わしいと語っている。

両親はイングランド人。折り合いの悪かった父親は元陸軍士官で競走馬の調教師。母親は裕福な家の出身で、その持参金と遺産相続分が家計を支えた。

第一次世界大戦が始まる頃、一家はロンドンに移住するが、その後も度々ダブリンと英国の間で引越しを重ねる。喘息を患っていたベーコンはほとんど学校に行かず、家庭教師から教育を受けながら、アイルランド独立運動の真っ最中の周囲を取り巻く、その「暴力」性の中で多感な時期を送る。

同性愛にめざめた17歳頃、母親の洋服を着ていたのを父親に見咎められる。そして翌年、友人とベルリンとパリに旅行した際、パリで見たピカソの展覧会に影響を受けて水彩や素描を描き始める。その後ロンドンに戻ってアトリエを構え、20歳から2年ほど、テキスタイルや家具をデザインするインテリア・デザイナーとして働くが、当時の作品にはル・コルビュジエやアイリーン・グレイの影響が見受けられるというのも面白い。並行してオーストラリア人画家、ロイ・ド・メストルに油彩を学びはじめるが生活は苦しく、従僕など様々な仕事でくいぶちをしのぐ日々が続く。

民間空襲警備員として働き、多くの死体を目にしたのは30歳の頃で、その翌年、父親が没する。34歳の時、サウス・ケンジントンにアトリエを借り、ベーコンが惜しみない愛情を注いだ人物といわれるベーコン家の乳母だったジェシー・ライトフットと住みはじめる。このアトリエは8年後に乳母が死去した際、失意の内に売却してしまうが、後々手放したことを後悔し、思い出深い土地を離れることができずに以降その周辺のいくつかの部屋を転々としたらしい。

また、ベーコンは生涯で数多くの同性の愛人を持った。ベーコンについての論評で名高いマーティン・ハリソンによると、性的にはマゾで殴られたりムチで打たれたりするのを好み、そのまま激しい性行為に及んだという。「絵画とセックスと死に向き合ったからこそ、ベーコンの絵は人を興奮させる。語りも解説もすべて省き、見る人間と絵との間の距離を破壊して、直接神経を刺激するんだ」とハリソンは言う。

1992年4月28日、主治医の忠告を無視して恋人の居るスペインに赴き、マドリッドで客死する。享年82歳。 (参考資料:日本経済新聞アートレビュー東京国立近代美術館・展覧会情報

「私は自分のことを画家とは思っていない。“偶然と運の媒体”だと捉えている。」 饒舌だったベーコンはこのように生前多くの言葉を残している。これら彼の肉声からは、さらに一歩踏み込んだ生成の秘密が垣間見えてくる。

*

「ほら、僕のアトリエには、写真が床のそこいらじゅうに散らばっているだろう、どれもこれもひどく傷んで。友達の肖像を描くのに使って、それをそのままとってあるんだがね。僕は人間そのものよりは、こうした参考資料を基にした方が描きやすいんだ。それだと独りで仕事ができるし、気持ちもずっと自由だし。描いている時は誰にも会いたくないんだ、たとえモデルにでもね。でも、これらの写真は備忘録で、特徴だとか細かい点だとか、正確を期すということで僕の手助けになったわけだ。役には立った。でもただの道具さ」(『フランシス・ベイコン対談 ミッシェル・アルシャンボー』. 訳:五十嵐賢一 発行:三元社 1998 p12)

「絵画のテーマとは何なのか、絵画とは何なのかということは、これは説明できるものではない。不可能だと思う。おそらく、僕に言えるのは、自己流で絶望しながら、自分の本能に従って、あっちに行ったりこっちに行ったりしているということだな」(同上 p56,58)

「制作中に絶望的な状態になると、ありきたりの写実的な絵にならないよう、絵の具を使ってほとんどありとあらゆることをやるのです。つまり、ぼろきれやブラシでカンヴァス全体をこすったり、何でもかんでも使ってゴシゴシやったり、テレビン油や絵の具などを投げつけたりして、理性に基づいて描いた明瞭なフォルムを破壊しようとします。そうしていくうちに、フォルムがいわば自ら変化していって、私が作った形ではなく、自分自身の形におさまるのです。そうすると、自分が何を欲しているのかがわかってきて、カンヴァス上の偶然の産物に手を加えられるようになります。たぶんこうした過程を経て、自分の意図だけに基づいて描いた場合より有機的な絵ができるのです」(デイヴィッド・シルヴェスター著「肉への慈悲」小林等訳)

*

また、彼はこうも語っている。「画家のアトリエは科学者の実験室のようなものなのかもしれない」。そのベーコンのアトリエがダブリン市立ヒュー・レーン美術館内に復元されている。(写真最下段)

足の踏み場もないほどのすさまじい光景も相当な迫力ものではあるが、これほど興味深いアトリエもない。日本経済新聞アートレビューの担当記者、窪田直子さんが復元されたアトリエの様子をこのように記している。

「このアトリエからはおびただしい数のモノが発見されたが、ただ1つ、見つからなかったものがある。ベーコンの「パレット」だ。一般的な絵の具や道具のほか、家庭用ペンキ、スプレー式顔料、顔料をすくうのに使ったと思われる食事用ナイフやスプーン、ペンキを塗るためのローラー式スポンジなども見つかっている。自由奔放な画家はパレット代わりに絵の具チューブが入っていた紙箱、皿、ボウルなどを使っていたらしい。さらにはドアや壁、天井の板で絵の具を混ぜたり、色を試したりしていたようなのだ。色鮮やかな抽象絵画のような絵の具の跡は、復元されたアトリエ内で目にすることができる。アトリエからはマークス&スペンサーで手に入れたお気に入りのコーデュロイのズボン数枚のほか、切り刻まれた端切れも発見されている。ベーコンはドア板などに盛った絵の具をこうした布きれでこすり取り、カンバスに押し当てることも試みた。ざらついた質感やかすれて消えかかったような効果を出すためにカシミヤのセーター、リブ編みの靴下やタオル地のガウン、髪をとかすくしやほうきなどを使うこともあったという。

アトリエの復元プロジェクトにかかわったヒュー・レーン美術館のマルガリータ・カポック博士によると、移設時にはアトリエ内につもったホコリも一緒に箱詰めされた。ベーコンがカンバスに独特の質感を与えるため、指ですくいとったほこりをぬれた絵の具の中にこすりつけたことを知っていたからだ。

「この健康的とは言い難い部屋で、ベーコンが長年制作を続けられたのは驚くべきこと」とカポック博士は言う。ほこりまみれの雑然としたアトリエからは、カドミウム・オレンジの顔料が入った29個のビンが見つかった。不透明で彩度が高いことからベーコンが好んで使ったこの絵の具は、強い毒性でも悪名高いのである。」

*

こうしたさまざまな情報群から、ひとつの光景が浮かびあがってくる。画家はたった一人のアトリエで、自身の理性が造形したフォルムをことごとく破壊し、そこから肉への慈悲に満ちた真新しく有機的な何ものかを生みだそうと格闘し続けた。彼の絵は、そのプロセスを視覚化した報告書である。

中沢新一さんは著書「森のバロック」の序文で、伝記の真実なるものに関して、ヴァレリーの次のような言葉を引用している。

「ある人の生涯を書く。かれの作品、かれの行為、かれの言ったこと、かれについて言われたこと、しかし、かれの生涯のうちでもっとも深く体験されたものは、取り逃がしてしまう。かれが見た夢、独特の感覚や局部的な苦悩や驚きや眼差し、偏愛したあるいは執拗につきまとわれた心像、たとえば放心状態に陥ったときなどに、かれの内部で歌われていた歌、こうした一切は認知しうるかれの歴史以上に、かれその人なのである。(ポール・ヴァレリー「邪念その他」「ヴァレリー全集」第四巻、清水徹・佐々木明訳、筑摩書房、1977年、369頁)」

かくして、画家フランシス・ベーコンのもっとも深く体験されたものは永遠に封印されてしまったが、幸いにして報告書が残されている。それを開くと、偶然と運の媒体から生み出された、神経をより強烈に刺激する挑戦的試みの数々がぼくらを興奮させようと、絶えることのない波動を送り続けてくるのである。

Photograph_
Weeping Willow
by Yoshiyuki Toboshi
Shop of The Jazz Coffee Shop Aroma
by Masaki Fujii

2013.6.01

先月とりあげた「強行遠足」で、昭和32年に到達地最長記録を樹立されたのは岩間さんという方だと判明した。現在も元気に教会関係の仕事に従事されているそうだ。教えてくれたのは、日頃オアシスにしている写真屋さん「栄光堂」店主の戸星善行さん。(2009.7.02にも登場)なんでも、この岩間さんのお兄さんがよく来店していて、その方から弟さんの記録樹立の話を聞かされていたようだ。

ところでこの「栄光堂」の店内にはミニギャラリーが併設されていて、いつ行っても小ぶりな写真作品がひっそりと展示されている。中庭を望むテーブルを包み込むように作品は配置され、いつ訪れても気持ちの良い、心休まる空間だ。展示品は所縁の深いカメラマンや顧客、写真愛好家の作品などさまざま。そして、写真家でもある店主の日常スナップがときおり何食わぬ顔で(かなりの頻度で)紛れ込んでいる。

当店はライカ特約店ということで、もちろん戸星さんの愛機もライカである。ブレッソンよろしく、肌身離さず携帯して撮り溜めているというその作風には、押しつけがましさは一切感じられない。本人が自身の写真について語ることはほとんどないが、肩の力の抜け具合が実に絶妙で、その佇まいから深く写真と向き合ってきたことが伝わってくる。写しとられているのはリアルな情景なのに、詩情豊かな眼差しによって濾過された光景は不思議な抽象性を宿している。興味深いのは、戸星作品のモチーフのほとんどが身辺の風景から見出されていることだ。ことさら獲物を探してくり出すこともせず、自然体で日常に身を置き、静かにその瞬間が訪れるのを待っている。これは客商売の達人でもあるその姿勢と見事に重なりあっている。

上の写真はたまたま先日展示されていた戸星作品の1点で、住まい近くの柳をモチーフにしている。一片の雲もない晴れ渡った空。そして、そこを横切る1本の飛行機雲が柳をそっと支えている。風に踊るしなやかな新芽は清々しく、あっという間に過ぎ去ってしまう青春期を想起させる実に爽やかな一葉だ。下のカットはその直前に撮られたものだそうで、ほぼ同じアングルだが、飛行機雲が見当たらない。たったそれだけの違いなのに、写真の意味合いはまったく異なってくる。そして近似するこの2枚の違いはとても大きい。ここが写真の面白いところだ。たまたま柳に向かってくる飛行機のシャッターチャンスはほんの1、2秒。その時、カメラが手元にあり、レンズを向け、シャッターを切るという行為なくして、この瞬間の記録は決して残ることはない。

今は誰だってカメラさえあれば写真は撮れるし、選びきれないほど多くの記録方法の選択肢も用意されている。しかし、何を、どう撮るか。ただその二つだけのシンプルな要素で写真が成り立っていることも事実。プロフェッショナルとアマチュアを隔てる境界も定かでないが、ぼくらを取り巻くこの世界の不思議に目を凝らすわずかな写真家にだけ、気まぐれな世界はそっとご褒美を置いていくことがある。あっという間に消え去っていく夥しい泡沫から選び出されたたった一粒。その凍結された情景に人々が心を重ねるとき、それは写真がもたらす歓びとなる。

さて、一般的に日本では、柳といえばシダレヤナギを指すことが多い。なかなか種類も多く、生命力の強い木らしい。よく川や池の周りに植えられるのは、強靭な根を持って、埋没してもすぐに発芽してくる逞しい生命力をもっているからなんだという。ほっそりとした優雅な枝振りはどうみても女性的な風情をたたえているが「柳に雪折れなし」という言葉もある通り、一見頑強そうに見える木などより、柳ははるかにしなやかでタフな一面をもっている。これは人間にも当てはまりそうだ。馬力を誇る屈強の男性が案外ポキッと折れてしまったりするのに、ひ弱な女性が「柳に風」と、さまざまな逆風を受け流す粘り強さを見せたりして、生命力とはなかなかに奥深い。昔、中国では旅立つ人に柳の枝を折って手渡し送る習慣があったそうだが、これは「しなやかな枝はなかなか折れないので、その枝の中に『返る=帰る』という思いをめた」と、村上春樹のエッセイにも書いてあった。

また、柳がらみで、そのエッセイに紹介されていたジャズナンバーがある。ビリー・ホリデーの『柳よ泣いておくれ(Willow Weep for Me)』。失恋の想いを柳の木に切々と訴えかける内容で、これがなぜ柳なのかと考察している。英語圏ではシダレヤナギはweeping willowと呼ばれていて、weepには「すすり泣く」や「しだれて垂れ下がる」という意味があるからなのだそうだ。日本なら柳といえば怪談だが、いずれにしても柳という木にはどこかしら「擬人化」してしまいたくなる不思議な生命力が備わっているんじゃないかというお話。

まるで夢見のように話は脈絡もなくスライドしていくのだが、ぼくにはオアシスが実はもうひとつある。気が向いたとき仕事場から自転車で向かうと丁度よい距離にあるジャズ喫茶に出かけていく。ジャズの音色に満たされた店内に入るとカウンターに腰掛けて、煎れたての一杯のコーヒーを味わう。「Amoma」というこのお店を経営してるのはグラフィックデザイナー仲間のフジヰさん。デザインの仕事を絞り込み、3年と8ヶ月ほど前から久しくクローズしていたここを引き継いで好きなジャズを聴かせるお店をはじめた。マッキントッシュの真空管アンプを通して大きなJBLスピーカーから店内に流れるジャズナンバーの音色は温かく、そして深い。常連には自宅では味わえない本格的な音質を求めて、CDを携えてやってくる人もいる。

(ところで後日、ぼくのいいかげんな記憶を、ブログを読んだフジヰさんがそっと補足してくれた。正しくは以下の装備となるそうだ。スピーカーはJBLだがアンプ類は国産。プリはポピュラーな大昔のLUX MAN、CL35。パワーはAIR TIGHT ATM-1(今では軽自動車が買えるくらいするらしい)。スピーカーのホーンはアルティックだが、高・中・低ともJBL。中域のドライバーのみオリンパスで使われていた名器とのこと。これらの装備、門外漢のぼくにはちんぷんかんぷんだけど、好きな音楽を愛情を持って受け止めようとする姿勢はしっかり伝わってくる。こうして手塩に掛けたお店は、いわばフジヰさんのオーディオルームみたいなものだから、客が来なければソファーに沈み、大好きなジャズ三昧の至福の時間を過ごしているそうな)

また、フジヰさんはデザインと並行して長いキャリアをもつカメラマンでもある。気が向くと撮れたてのステキな写真をメールに添付して送ってくれたりする。ほぼ同世代のフジヰさんとは同業ということもあり共通となる話題には事欠かないが、ぼくらはさほど多くの会話は交わさない。話さなくても通じあえるということは、リラックスできるとても重要な要素だと思う。「やあ、どうも」で、それから一杯。一言、二言、そして「じゃあ、また来るね」。だから、オアシスなのである。

ただ、ジャズだけはなぜかこれまで夢中になって聴いたことがない。決して苦手だったり嫌いなわけではない。ジャズっていいなぁと思うことだってある。ジャンルを問わずこれまでいろいろな音楽を聴いてきたのに、不思議なこともあるものだ。その昔、ぼくにとってジャズは「大人の音楽」だった。60年代、甲府の中心街にあるビルの地下に一軒のジャズ喫茶があったので、高校生のぼくは興味本位でその店に入ったことがある。紫煙もうもうとたちこめる薄暗い店内は、圧倒されるような大音響のジャズで満たされていた。恐る恐る歩を進めると、ソファーに沈み込む客たちが見えてきた。皆一様に目を閉じて、難しい顔をして聴き入っていた。「あっ、こりゃ、大人の音楽だ」と、その時ぼくの中にジャズは随分と乱暴にインプットされてしまった。上京してからは新宿の「Pit inn」や「DUG」にも行ったことがある。ジャズ喫茶の草分け「DUG」を1967年に開店した中平穂積さんには一度会ったことがある。立ち振る舞いやその時いただいた名刺のデザインがとてもステキだった。そんなことはよく記憶しているのに、肝心のジャズについては何も覚えていない。中平さんは1961年に初来日したアート・ブレイキーの撮影を皮切りに多くのジャズミュージシャンを写真に残し、ジャズ・フォトなるジャンルを開拓しながら現在もジャズ人生を謳歌している経歴を見ると、日本大学芸術学部写真学科卒業とあるから、その活躍ぶりは写真とジャズが自然な形で融合した結果なんだろう。

ぼくにはそんなこともあったけど、やっぱり大人になんかなりたくないなという青臭さを引きずったまま、その後ジャズと再会することもなく歳を重ねてしまった。どうやら夢中になれない要因は、ジャズに何かが足りないのではなく、ぼくの中にジャズに夢中になる何かが足りなかったんだということのようである。

ま、ジャズの話はともかく、オアシスの主人であるこのご両人に共通するのは、忍耐と覚悟が求められる「自然体の待ちの姿勢」だと思う。もちろんこれは簡単なことではない。客商売はいつ来るか予測できない、気まぐれな来客で成り立っている。商い(=飽きない)とはよくいったものだ。ぼくも昔ちょっとだけお店の真似事をしていたことがあるから、じっと待つことに耐えられなければ成り立たない商いの苦労なら、少しだけ分かる。

ところで商いの極意だが、これは樹木の心に通じるんじゃなかろうか。子ども時分、木ってすごいなと感心したことがある。だって、大地に根を張った木は植え替えられでもしないかぎり、生まれてから死ぬまで一歩も動くことはない。そんなの当たり前じゃない、何馬鹿なこと言ってんのと笑われそうだけど、考えてみればやっぱりこれはすごいことだ。賢治の詩ではないけれど、雨の日も風の日もじっと立ち続ける樹木は、人知を越えた力によって支えられている。移動とは無縁の一見不自由きわまりない運命をただ静かに受けとめ、枝が折れても葉が散っても踏ん張りながら光合成と大地の滋養によって辛抱強く成長を重ねていく。自然体。気取らず、飾らず、身構えず。ゆったりと肩の力を抜いて、穏やかな心で淡々としなやかに日常を過ごしていく。

薫風に新芽を揺らすこの柳の写真を眺めていると、木立の彼方で楽しげに舞う、ぼくのよく知っている市井(しせい)の写真家たちがオーバーラップしてくるのである。

2013.5.02

先日、所用で長野の小諸に行ってきた。小諸といえば、強行遠足。何の事やら一向に???な人には謎であっても、経験者には「あっ、あのことね」と瞬時に理解できる、今回はそんなちょっとパーソナルな話題です。

小諸と聞けば条件反射的に甦るのが、この強行遠足と呼ばれる母校だった高校の思い出。何しろ大正13(1924)年から2012年まで86回も続いた、全国的にも有名な長距離歩行行事なのだ。男子は夕方、学校から出発する。そして翌日の昼まで20時間の制限時間内に、甲府から小諸までの佐久往還(102.1km)を歩ききるハードなコースに毎年、全学年の生徒たちが挑戦する。女子は日中、三軒屋から小海までの全長33.0kmに挑戦。ただし、これはぼくが在学していた頃の話なので、時代によってコースはさまざまに変遷を重ねている。

年表によると、女子が初めて参加したのが昭和25(1950)年。そして、男子コースに終点が設定されたのは昭和37(1962)年の事で、それ以前は行けるところまで行ってよいというスパルタンなルールだった。親友の中沢新一さんともよくこの話題で盛り上がったものだが、曰く、過去の猛者は気づくと日本海が見えてきて新潟まで到達しちゃったそうだよと言うのだが、いくらなんでもそれはないでしょう。真実はこうである。到達地の最長記録は昭和32(1957)年に樹立された、長野県大町市簗場(やなば)までの167.1km(1人)。学年は明記されていないが仮に3年生だったとすれば、昭和14年生まれあたりで、ご存命なら74歳くらいか。いや、これほどの記録保持者であればきっと今もご健在なはず。

当時のぼくはスタートした日の日付が変わらないうちに戻ってきてしまう軟弱な高校生だったが、せっかく入学したんだからと、2年生の時一度だけ真剣に挑戦したことがある。最初から終点を目指し、順位を競おうと考えている生徒たちは、まず意気込みが違う。のんびり歩き出すぼくらを尻目にスタート地点から走り出し、数十キロはマラソンで先頭集団を構成しながら競い合う。そんな根性も体力もないぼくは、ただひたすら亀のようにテクテクと歩き続けることにする。同レベルの友人たちと散歩気分でワイワイ冗談言い合いながら、それはそれでけっこう楽しく小諸を目指す。 長時間歩き続けると足にできるマメによってリタイアを余儀なくされるケースが多い。そこでスニーカーにパッドを敷いたり、地下足袋やワラジまで試したり、校友らは思い思いに工夫を凝らして臨んでいたが、ぼくは少しくたびれた履き慣れたスニーカーで、むしろ歩き方に注意しようと考えた。意識したのは、架空の白線の上を両足で踏みながらできる限り真っ直ぐ、一定の速度を保ちながら歩き続けることだった。これが功を奏したのか、マメに苦しむこともなく順調に距離を消化していった。しかし、日も暮れて峠道にさしかかる頃には、連れは一人二人と離ればなれとなり、足取りとともに口数も次第に重くなってくる。一休みしたらそのまま立ち上がれなくなるような気がして、とにかく辛抱して歩き続けた。日付の変わる頃だったろうか、真っ暗な山道で、気づくとぼくは一人っきりになっていた。不思議なことに心細さは感じない。この非日常的な状況を楽しむ余裕が生まれてきて、なんだかこのまま、どこまでも歩いて行けるような不思議な自信さえ沸いてきた。

そのうち、気を紛らわすために何かしてみようと思い立ち、当時夢中になっていた宮沢賢治の詩集『春と修羅』の序を暗誦してみることにした。「わたくしという現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です」という、あの有名な一編だ。ところが中盤の「…(あるいは修羅の十億年)…でさしかかると、その先の「すでにはやくもその組立や質を変じ」がどうしても出てこない。何度繰り返しても、はやりそこで止まってしまう。夜道で一人悩んでいても仕方ないので賢治は断念することにした。

そこで今度はビートルズのアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band)」を丸ごと歌ってみようと仕切り直すことにした。楽曲すべてを架空のブラスバンド「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のショウに仕立てたこのアルバムは、世界初のコンセプト・アルバムといわれているが、オープニングからエンディングまで組曲風に楽曲がパッチワークされているので40分近く一気に歌い続けることができるのだ。多くの音楽好きの若者たち同様、ぼくも意味などよく理解してなくても、そらで歌えるくらい聴き込んでいたので、一人アカペラでなんとかエンディングまで歌いきることができた。カラダは長野の山道をテクテク歩いていても、その間ココロは「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の一員だ。

そうこうしているうちに、海ノ口の手前の坂道が折り重なる山中にさしかかる。底冷えがもっとも堪える時刻だ。すると前方にうどんの屋台が見えてきた。電灯越しに立ち上る湯気が「熱いうどんで、冷えた身体を温めなよ」とぼくを誘惑している。悪い予感が一瞬よぎったが、おにぎりも食べ尽くし、寒さと空腹に抗えずその湯気の誘惑にぼくは負けてしまった。うどんは信じられないくらい美味かったけど、予感通りその後1時間、腹痛に苦しみながら貴重な時間を無駄にしてしまった。何とか遅れを挽回しようとしたものの、努力も空しく終着点の10kmほど手前で敢え無く時間切れ。うどんさえ食べなかったら俺も小諸に…という、ちょっと情けない悔いとともに、ぼくの強行遠足初挑戦は幕を閉じた。

「だったら翌年もう一度チャレンジすればいいのに」とか「OB強行遠足もあるし」とか言われそうだけど、目標達成に向かっての挑戦を目指していたわけではなく、一度きりのプロセスこそが重要なんだと思っていたので、ぼくの強行遠足はそれでおしまい。「パンタ・レイ」(人は同じ川を二度わたれない)と、かのヘラクレイトスも言っている。(丁度その日は、この言葉を引用していた写真家、田中孝道さんの小諸のアトリエに向かっていた)

思い返せば、この経験がぼくに残してくれたものは決して小さくはなかった。一定のペースで、無理さえしなければ、どこまでも歩き続けることができる。その夜ぼくの中に芽生えたこの根拠のない自信は、その後の人生で「継続することの力」へと繋がるバトンを用意してくれた。この「継続は力なり」の出典は、住岡夜晃(すみおか やこう)という、大正から昭和初期に広島で活動した宗教家の詩なのだそうだ。それはこんな讃嘆の詩(さんだんのうた)の一節。

青年よ強くなれ

牛のごとく、象のごとく、強くなれ

真に強いとは、一道を生きぬくことである

性格の弱さ悲しむなかれ

性格の強さ必ずしも誇るに足らず

「念願は人格を決定す 継続は力なり」 (後略)

ぼくの「継続力」はそんなに立派なものじゃないけれど、コツコツと積み重ねることでもたらされる、なにがしかの力については少しだけ実感することはできたと思う。

しかし、あらためてその道程を辿ってみると、よくまぁこんなに長い道のりを一気に歩き通したものだと、今更ながらに当時の若さの潜在力に驚いてしまう。と同時に、それから半世紀近く経ってSPORTS CARでその道のりを追体験する現在の自分にもちょっと複雑なものがある。あるのだが、それが時間の経過というものではないかと納得するもう一人の自分がいる。

2013.4.01

「春が来た」

春が来た 何処に来た

山を越え 谷越えて

おらちの里に おらちの山に

夢に見た 田舎に

いつまで経っても 夢の田舎

窓に向かって 口ずさむ歌 (※1)

ユピタイヤイオー 1年経てば

ユピタイヤイオー 2年目までは

ユピタイヤイオー 3年すれば

ユピタイヤイオー 4年目ごろは (※2)

(※1・※2 リフレイン)

ますます田舎は 遠くなる

遠くなる

(作詞作曲:細野晴臣)

この曲は有名な童謡(高野辰之作詞、岡野貞一作曲)とは同名異曲の『春が来た』。1971年に発表された小坂忠のソロ・アルバム「ありがとう」B面の一曲目に入っていたこの曲は、小坂忠が在籍していたエイプリル・フールのバンドメンバーだった細野晴臣の作品。(エイプリル・フールは「はっぴいえんど」の前身バンドと言われている)しかし『春が来た』は小坂のオリジナルソングでなかったせいか、残念ながらYouTubeで見つけることができなかった。

ところでこのデビューアルバムは、ジェイムズ・テイラーの影響を色濃く残している。1970年発表のアルバム『Sweet Baby James』(『Fire & Rain』)のヒットで脚光を浴びたナイーブな彼の音楽は、小坂忠、細野晴臣、加藤和彦など、当時の日本ミュージシャンにも多大な影響を与えたといわれている。ギター1本携えて人間の悲哀を描き出す静かな歌声は、ヒッピームーブメントの熱狂と挫折に疲れた若者達の心に深く染みこんだ。いち早く小坂忠や細野晴臣らは、このジェイムズのフィーリングを楽曲に取り込んだ。そして発表されたのが、この「ありがとう」だった。プロデューサーは日本ロカビリー御三家の一人、ミッキー・カーチス(MickeyCurtis)。今聴き直すとけっこう軽い印象だが、当時としては先進的サウンドだった。それを象徴していたのがジャケットデザイン。担当したのはデザイン集団「WORK’SHOP MU」。2つ折りジャケットの4面すべてに矢吹申彦によるイラストが展開されている。ポール・デイビスアンリ・ルソーばりの牧歌的でちょっとシュールなタッチで描き出された架空の情景には当時の空気感がよく表れている。

サウンドは大瀧詠一を除く「はっぴいえんど」の面々や石川鷹彦(バンジョー)、大野克夫(スティールギター)といった芸達者なスタジオミュージシャンたち。そしてデビュー前の荒井由美もピアノで参加していた。このアルバムにはエッジのきいた時代意識に古き良き時代へのノスタルジーがブレンドされていた。このミスマッチがかっこいいでしょうと問いかける都会育ちの彼らにとって、「おらちの里」は憧れの日本の原風景だったようだ。「ありがとう」の代表曲「機関車」を再演している動画を見ていたら、70年代のそんな彼らの原風景が甦ってきた。

ところで山国ネイティブのぼくは、「おらちの里」に『春が来た』をずっとリアルに体感している。山国の春の訪れはとても分かりやすい。冬の眠りから覚めた生き物たちは、春分の頃を境にざわざわとうごめきはじめ、日増しにその生命力の波動は大きくなってくる。そしてやがて波動は五感の隅々にまで染みわたってきて、おらちの里に春が来たんだぞと知らせてくれる。萌黄色とピンク色した躍動感がむんむんと乱舞する春はエロティックですらある。名前通り4月生まれのぼくにとって、子ども時分からずっと春は自分の季節だと思っていた。

ところが今や国民病となってしまった花粉症によって、ぼくの春は20数年前から憂鬱な季節になってしまった。日本で花粉症が初めて発見されたのは1961年、アメリカからの外来種ブタクサの花粉だったそうだ。有名なスギ花粉症は2年後の1963年に日光で初めて報告されている。以後年々その患者数は増え続け、現在10人に1人は花粉症に苦しんでいるという。山々に囲まれたぼくの居住地域は花粉の宝庫のみたいなところなので、ピーク時には1立方センチメートルあたりおよそ4,000個以上の花粉が飛散しているなんて話を聞くと、気持ちのよい季節のはずなのに外に出るのも恐ろしくなってくる。こうしてスギとヒノキの飛散時期は重なりながら2〜5月頃まで続く。この時期は気流に乗って中国大陸から黄砂も飛来し、最近では微小粒子状物質(PM2.5)と呼ばれる有害粒子までやってくる、ホントにやれやれな「おらちの里の春」となってしまったものだ。

気の滅入る話題が続くが、ぼくの場合、アレルギー反応は花粉だけでなく季節の変わり目などにも頻繁におこるので、ほとんど1年中何らかのアレルギーに悩まされている。以前病院でアレルゲン検査をしてもらったら、もっとも大きな反応を示していたのがカビやダニ、細菌などが混ざった室内塵(ハウスダスト)。次に反応が顕著だったのがさまざまな植物の花粉類だった。憂鬱な春には二種類の症状のどちらかが出る。クシャミや鼻水、鼻づまり、目の痒みといった典型的な花粉症の症状が出る場合と、湿疹、じんましんのような痒みを伴う皮膚症状として現れる場合がある。しかしこの二つが同時に発症することはない。おそらく「ぜんそく」と「アトピー」の関係のように、同じアレルギー症状でも年齢や時期などによって症状がどちらかに移行するケースに近いのではないかと推測している。

皮膚症状は皮膚科で処方してくれる、湿疹や皮膚の痒みを改善する薬を定期的に服用してコントロールしている。症状に応じて量は調整してよいと言われているので、副作用のない腸内細菌ビヒダス菌をカプセルにしたBB536と併用しながら、1日2錠服用する処方を2日に1錠のペースにまで抑えるようにしていた。それでも出てしまう湿疹にはステロイドを含む副腎皮質ホルモン剤の軟膏を塗って抑える。軟膏も、顔や首や身体と部位によって含有度合いの異なるものを数種使い分けるのでけっこう面倒くさい。

花粉は時期が限定されるし、マスクや空気清浄機などで対策も比較的とりやすいが、ハウスダストはなかなか難題だ。アレルギーの元凶の多くが140種類にもおよぶチリダニ(House dust mite)の仲間だと分かっていても有効な手立てはなかなか見つからなかった。「世界中でまずダニのいない家はない」と言われるほどポピュラーな存在のダニを洗濯や布団の天日干しなどで殺すことはほとんど無理なのだという。加えて、死がいやフンまでアレルギーの原因となるので、これはもうお手上げである。そんなこんなで「なるようになれ」とずっとあきらめていたが、最近ネットで「RAYCOP」という商品を見つけた。

ダニが好む繁殖スポットは「寝具」「ソファー」「カーペット」。なかでも布団、ベッド、枕にもっとも集中し、人は10万〜数百万匹ものダニと一緒に寝ているといわれると、アレルギーのない人は気にする必要ないけど、あまり気持ちのいいものではない。「RAYCOP」は「増やさない」「殺す」「取り除く」の3つのケアを目的に、韓国人医師が開発した紫外線照射と吸引を組み合わせるという技術でハウスダスト除去に特化した衛生家電。世界各国での販売実績や英国アレルギー協会から世界初の認定を受けたふとん専用ダニクリーナーだというので、どうせやるならと一番強力なモデルを先日購入した。到着した日からさっそく使ってみる。吸引したものが目で確認できるから、これはけっこうクセになる。繰り返すことで効果が増すというので、連日一週間ほどまめにケアしたらなんと湿疹がピタリと止まったではないか。2年も飲み続けていた薬は到着後は1錠も服用することなく、アレルゲンの減少を体感している。いやいや、何事もやってみるものだ。

しかし、薬も衛生家電も所詮は対症療法や原因療法。むしろ事の本質は過剰な免疫反応をおこしてしまう体質にこそある。免疫反応は異物を排除する生物には不可欠な生理機能といわれるが、不必要に過剰に反応する体質はやはり自然な状態とは言い難い。アレルギーに振り回され続けていると、対症療法の西洋医学より漢方薬による体質改善などを考えた方がよいと勧められたりもする。行きつけの皮膚科医師に言わせると、なぜアレルギーをおこしてしまうかなんて本当はまだよく分かっていないんだそうだ。体質にもよるが、ぼくのような症状は加齢によって引き起こされる要素が強いという。人間は酸素なしには生きていくことはできない。しかし、活性酸素が過剰に生成されると体内にさまざまな酸化ストレスを発生させてしまう。簡単に言えば、人間も歳を取ると次第にカラダが錆びついてくるということらしい。それがアレルギー症状として現れる。生きるということは、同時にすでに死につつあるということでもあるわけだけど、考えようによってはこうした過剰な免疫反応だって生きているからこそのメカニズム。「おーい、まだお前は生きてるんだぞ」と、アレルギー症状はくどいほど何度も伝えにやってくるのである。

「きゃりーぱみゅぱみゅ」
“きゃりーオフィシャルブログ”より

2013.3.03

きゃりーぱみゅぱみゅ」のフルネームは“きゃろらいんちゃろんぷろっぷきゃりーぱみゅぱみゅ”(Caroline Charonplop Kyarypamyupamyu)と申すらしい。1993年東京生まれのB型で、読者モデル出身のファッションモデル兼歌手。特に興味があるわけじゃないけど、ボイスチェンジャーを駆使するテクノポップユニットのPerfume(パフューム)同様、彼女たちのように現実感を限りなく希薄に装った女の子たちの登場は前から何となく気になっていた。 現実世界をスライスして、その隙間に不思議なバーチャル(仮想)な世界を埋め込み、そこを住まいと定める彼女らの振る舞いから悲壮感は一切伝わってこない。コミックへの共感と連動するかのように海外での人気も相当なものらしいから、こうしたファンタジックでドリーミーなアイドルたちの近未来路線は、来るべき日本の輸出文化産業へと案外密かな成長を遂げているのかもしれない。

『HARAJUKU』のアイコンとして見出された「きゃりーぱみゅぱみゅ」は、仮想を現実に反転させながら事業化を目論むプロジェクトチームの核として存在している。つまり「時代の気分」が求める、今最も象徴的なキャラクターとして掬い上げられた商品というわけだ。ほとんどのアイドルはこれと同じ構造から生み出されているのだが、近未来路線をひた走る彼女たちの新しさは、アンドロイドのように限りなく人間臭さを消し去っている点だろう。

そういえば先日、NHKの「東京カワイイ★TV」に、究極のアニメ顔の少女が登場していた。東欧はウクライナから初来日した19歳のアナスタシヤ・シパジナちゃん。彼女は、人間(3D)でもアニメ(2D)でもない、2.5次元スタイルの少女なんだという。でも、ウクライナ語をしゃべったりすると、なーんだやっぱり人間なんだと、ちょっと引いてしまう。番組テーマの「原宿+(ミーツ)アキバ」では、このほか昭和レトロ(昭和はすでにレトロとなっているらしい)バージョンで、顔を白塗りした若者たちも紹介されていた。ぼくなんか「これって山海塾(さんかいじゅく)じゃん」なんて思うんだけど、彼らは顔を白く塗ることで元の顔を葬ってしまい、さまざまなファッションアイテムでコーデ(コーディネートのことをそう言うらしい)しながら「和ってカンジ(?)」を目指しているとのたまう。現実の仮想化は、ここでもひたひたと進行している。

実在しないバーチャルアイドルとして「初音ミク」はつとに有名だが、黎明期のその原点と目されるのは『超時空要塞マクロス』(1982年〜)に登場したキャラクター「リン・ミンメイ」の存在だ。このアイドルキャラクターの劇中での歌唱曲が、現実の音楽市場でポップソングとしてヒットしたことはアニメ界のエポックメイキングな出来事と言われている。声優を担当した当時大学生だった飯島真理は、これを足がかりに歌手デビューを果たす。以前、ぼくはヴァン・ダイク・パークスをよく聴いていた頃、彼のアルバム『Calypso』の収録曲『東京ローズ』できいたこともない名前の日本人の女の子が歌っていて印象に残っていたが、それがあの飯島真理だった。実は仮想と現実の逆転現象はすでに80年代に起きていたのだった。

「リン・ミンメイ」は仮想から現実へ、かたや「きゃりーぱみゅぱみゅ」は現実から仮想へと、ベクトルは逆であっても、どちらも同じ欲望から生み出されていることに違いはない。これらの反転現象を支えているのは、現実を拒否する非現実感への本能的な共感願望なのだから、重い現実に抗おうとするこの現象は、やっぱりどこまで行っても現実的な出来事なのだ。

ところで、日常の中でバーチャルなリアルが実感される瞬間がある。いつ頃からだろうか、ぼくは街中にいると不思議な感覚にとらわれることがあった。何となく自分がコミックやマンガの世界に迷い込んでしまったような気持ちになってしまうのだ。コスプレっぽいファッションの子とすれ違う時に感じることもあるし、居酒屋などの飲食店が、まるでコミックの中に登場するような店名で営業していたりすると、漫画の登場人物になったような気がしてくる。これって、まるで昔読んだ雑誌の中で展開されていた情景そのものではないか。店名に限らず、ユニフォームや商品のネーミングなど、隅々にまでこうしたコミックの感覚は染みこんでいるし、客層だって同世代であれば、きっと抵抗なくお店に溶け込むことができるはずだ。

漫画少年だったぼくは、ある時期を境にすっかりその世界から遠ざかってしまった。だから日本漫画やアニメの歴史をリニアに捉えることができないので、こうした情景を生み出したルーツが一体どの辺りにあるのかは分からない。でも、80年代前期にヒットした『うる星やつら』とか、後期の『キャプテン翼』などの洗礼を受けたコミック世代が、今の社会の中核を担う年代だと考えれば、この情景もなんとなく合点がいく。起業する時、彼らは店名はどうしようかと考える。思春期に読んだ文学全集が人生に少なからぬ影響を与えることがあるように、その時の彼らがコミックから影響を受けて発想したとしても少しも不思議なことではない。それに子どもの命名だって、一昔前ならコミックの世界でしか存在しなかったような名前が今では決して珍しくない。つまり、たかがコミックなんて馬鹿にできないくらい、サブカルチャーは甚大な影響力を秘めていたわけだ。当時のコミック制作現場で活動していた作家や編集者たちは、仮想に酷似してきたこの現実をどう感じているのだろうか。娯楽や趣味文化において、サブカルは主流派あっての少数派(マイノリティ)。ところがいまや、かつてのサブカルはポピュラーカルチャーへと変貌し、ポスト・サブカルは次々と産声を上げようとしている。

先日、六本木で1時間ほど時間つぶしをしなくてはならなくなって国立新美術館へ足を運んだ。当日は、第16回文化庁メディア芸術祭・受賞作品展と武蔵野美術大学や多摩美術大学など東京五美術大学の卒業・終了制作展が開催されていて、この2会場を駆け足で眺めてみた。内輪の観覧者ばかり目立った卒業・終了制作展に較べると、メディア芸術祭・受賞作品展の会場は盛況そのもの。若者たちであふれ返っていた。ポスト・サブカルの芽吹きに目を凝らそうとするが、(新進気鋭の出品者たちには失礼だとは思ったが)溢れんばかりの幻想の洪水にゲップが出てしまい、ぼくは早々に会場をあとにした。

以前は仮想だったはずの世界が、ふと気づくと現実にスライドしていて、仮想としか思えない現実が生み出されている。かと思えば、現実は限りなく仮想に憧れながらその世界に溶け込もうとしている。こうした雁行関係にある仮想と現実は交互に入れ替わりながら、これからも延々と移ろっていくのだろうが、そのどちらも人間の幻想から立ち現れてくるものだから、どこまでいっても人間というレンジから決してはみ出すことはないような気もしてくる。しかし「仮想」や「現実」を生み出すこの幻想は、人間にとってどんな意味をもっているものなんだろう。

先日の朝日新聞の『読書』に、横尾忠則さんの戸惑いぎみの書評が載っていた。テーマとなった書物は「死ぬのが怖い」 慶応大学教授・前野隆司〈著〉。印象的だったので一部抜粋してみる。

「…本書の目的は著者の「生きているのが楽しくて仕方ない」ということを人に伝えるためだそうだ。死を恐れないためには生は幻想であることを認識する必要がある。生も死も大差ない、本来、心もない、もともと何もない、人はすでに死んでいるのも同然。生きていること自体、勘違いで、人間は知情意のクオリアという幻想を持った生物で、人間には過去も未来もない。あるのは「今」だけ。あとは全て幻想。だから今しかイキイキと生きられない、と。…」

生は幻想なのだから、過去も未来も幻想の産物で、あるのは「今」だけ。じゃあ、幻想している「今」って一体何なんだろう。たとえそれは幻想にすぎないと言われても、幻想の過去や未来に支えられた「今」を生きているのだと思うのは、やっぱり幻想なんでしょうか、前野さん。

上から
ホテル出発前に辺りを散策する。
吹雪の中で車にチェーンを装着。
下2点は積雪イメージ

2013.2.02

今年は寒い!でも、毎年同じこと言ってるような気もするから、これは老化現象のひとつなんだろうか。先月中旬にちょっとまとまった雪が降って、首都圏でも久しぶりの積雪をニュース番組では大きとりあげていた。たまに東京に雪が降ると、少し大騒ぎしすぎるんじゃないかと思う。「何だよ!それくらい。こちとらそれが日常だよ」と、雪国の人たちは苦々しく思っているはずだ。

ま、それはともかく、ぼくはその翌日、県外出張のため車で向かうことになった。当日は一転して晴れ上がり、眩しいくらい良い天気。いつも入る高速道路ICに近づくと、カーナビの様子がどうもおかしい。手前の交差点を曲がれとか言うので、ナビが故障したんだろうかと思っていたら、IC入口手前の左車線にトラックや乗用車が列をなして止まっているではないか。何のことはない、昨日の雪で高速道路が交通止めとなっていたのだ。仕方ないのでそのまま直進して、交通止めの終点となっているICを目指すことにした。ところがしばらく進むと渋滞した国道で、結局ほとんど動けなくなってしまった。iPhoneで調べてもなかなか欲しい情報が見つからない。電話してPCで情報収集してもらっても、現在の交通止め区間くらいしか分からず、時だけが刻々と過ぎていく。最寄りの駅から電車で向かっても到底間に合いそうもない。結局1時間ほどして今日はもう無理だと判断し、事情を説明して約束をキャンセルするお詫びの連絡を入て引き返すことにした。翌日の新聞によれば、結局ICが開通したのはそれから5時間後のことだった。いつ開通するとも分からないIC入り口に居並ぶ車列の中でじっと待っているドライバーの心境というのは一体どのようなものなのか。あきらめ?忍耐?淡い期待?今度機会があったら窓越しに声をかけて聞いてみよう。進むことも引き返すこともままならず、欲しい情報は何にも入ってこない。そんな車中で、ぼくが「悪夢の白い一日」と名付けた過去の記憶が突然蘇ってきた。

21世紀に入って間もないある年の1月下旬、雑誌創刊に向けた編集会議を長野山中のホテルですることになった。メンバーは中沢新一さん、写真家の港千尋さん、縄文図像研究者の田中基さん、当時中沢さんのアシスタントを務めていた馬淵千夏嬢(現在は講談社の学術文庫出版部に所属する編集者)、そして担当出版社の編集者とぼくの6名。甲府駅に集合して駅前で「ほうとう」を食べ、ボスコに移動して会議資料の準備などをしてから、一行は夕方ぼくの車でホテルに向けて出発した。(当時ぼくの乗っていたワゴン車にはマックス7名が乗車可能だった)道中はワイワイと楽しく盛り上がり、夕刻には目的地のホテルに無事到着。温泉と料理で寛いだあとは、遅くまで編集会議という充実の一日を終えた。問題はその翌日だ。

目覚めると辺り一面すっかり雪景色に変わっていた。それも半端な雪ではない。駐車場へ行くと車はみんなスノーマンみたいになっていて、どれが自分の車なのか分からない。一番上の写真は、雪に埋まったホテル周辺を朝散策している様子で、この時点ではまだ余裕が感じられる。今思えば、その日はじっとホテルで静かに過ごすべきだった。しかし売れっ子二人(中沢さんと港さん)はどうしても翌日には東京に戻らなくてはならないということで、ぼくらは山を下り、最寄りの駅を目指すことにした。

まず車の雪を下ろして出発の準備をしなくてはならない。ところが運転席側のドアが開かない。大雪に気が動転していたのだろう、あまりの寒さに鍵穴が凍ってしまったのだと早合点し(冷静に考えれば絶対にそんなことはない)、ホテルで湯を沸かしてもらいヤカン片手に鍵穴周辺を溶かしてみたり、まったく笑い話にもならない。結局、助手席側がエマージェンシーキーで開いたので一件落着。たぶん寒さでバッテリーが低下してしまい、すべてのドアキーをコントロールしている運転席側受信装置が作動しなくなっていたのが原因だったようだ。なんとかエンジンもかかり、いざ出発。しかし、雪はますます強く降ってくる。一応4本スタッドレスタイヤは履いていたものの新品でなかったためかこの大雪ではあまり用を成さない。仕方ないので途中見つけたガソリンスタンドでチェーンを購入して後輪にセット。(写真2枚目)しかし、ワイパーを最大スピードにしても降りつける雪で前が殆ど見えないから、度々止まって手で雪を掻き落とす。しかも広い道路に出るまでは小道を、まだかなり進まなくてはならない。周りに車もほとんど走っていない。一番怖かったのは雪で周りがまっ白になってしまい、どこからどこまでが道路なのかまったく分からなくなってしまったことだった。これは本当に恐ろしい。何度も脇の畑に乗り上げる。幸い窪みや川に落ちることだけは何とか免れたけど、正直いま、すごく危険な状況かも、とその時ばかりはかなり焦ってしまった。車中のメンバーも「危ない、危ない!」を連発して大騒ぎ。

やっとの思いでなんとか広い道路に辿りつき、他の車も見えてきたのでこれで助かったと思ったのも束の間、近隣の駅に行ってみると電車なんかすべて運休で運転再開の見込みもたっていないという。やはりこのまま車を進めるしかない。免許証所持者は、ぼくと港さんだけなのでここからは交代で運転することにした。国道を走ればいつもなら1時間ほどで甲府に戻れるから、この状況なら2〜3時間はかかるかも、なんて甘い考えだったとすぐに思い知らされる。国道はすでにすごい渋滞で、まるで亀の行進状態。それでも少しづつ動いていた車列は、次第の止まる時間が長くなり、とうとうピタリと動かなくなってしまった。日は傾いてくるし、この渋滞がどう解消されていくのか全く情報は入ってこない。当時はスマホなんてないから携帯電話で情報収集するしかない。あちこち電話して、インターネットで調べてもらっても何も分からない。必要な情報が、それを切実に必要としている人たちに、もっとも必要な時に伝わってこないという現実を痛感させられる。この国にはそういう危機管理に対するシステムがまったく用意されていないのだ。たぶんその状況はいまも同じようなものだろう。日本はずっと昔から、危機管理が本当に苦手な国だった。

その時、ぼくらはつくづく羊みたいな国民なんだなぁと思った。自然現象が引きおこしたことなんだから、ジタバタしたって仕方ない。じっと受け入れるしかないよ。黙々と車列の中で静か待っている人々の表情には、そんなあきらめの心境が読み取れる。中にはディズニーランドのアトラクション待ちみたいに、けっこうこの状況を楽しんでいる若者たちもいる。これが外国だったら、騒ぎ出したり暴れ出す人々も出て来るんじゃないだろうか。主張すればいいというものではないが、黙々と亀の行進を続ける隣りや対向車線の車列を眺めていて、かつて日本はこんな風にあの大戦に突き進んでいってしまったのかもしれないなんて考えてしまった。

なんとか雪は止んだが、車はまだ動かない。暗くなり気温も下がってきたので、暖をとるために車はアイドリングを続けるしかない。お腹も段々空いてきたので、誰かがお土産に買っておいた和菓子をみんなで食べ分ける。そうだ、ワインもあったぞ。でも、ワインオープナーがない。仕方ないので車に装備された道具類からドライバーを捜し出して栓のコルクを削り込み、混ざった細かなコルクを口から吹き出しながらワインを飲む。ぼくは運転するので口をつけなかったが、あのワインはさぞ格別だったことだろう。動き出す気配もないので、食料調達班が歩いてコンビニを探し出す。めぼしいものはあらかた売り切れで棚はガラガラだったが、それでも何とかカップ麺を手に入れて、お店でお湯を入れてもらい、無事全員夕食にありつくことができた。何キロも先にある大きなホテルにはまだ空き室があることが分かったが、この状況では車を乗り捨ててそこに歩いて行くこともできない。国道沿いの旅館も看板を手立てに予約の電話を入れるが、どこも満室という返事。なら道路沿いのモーテルでも、と思いきや、非情にも軒並みクローズの立て札が。やれやれこれじゃ最悪車中で夜明かしか、と半分覚悟する。

こういう閉塞状況では、心理としてかならず外部に繋がろうと考える。皆、各々携帯で連絡を取り合い現在の事態を説明し、相手に慰められたりするが、もちろんそれ以上状況の進展はのぞめない。結局大人しく羊の群れに戻るしかないのだ。じっとしていても仕方ないから車に2人くらい残っては、入れ替わり情報収集に当たる。どうやら現在の状況は、道路を塞いでいる故障車や脱輪した車を処理したり、除雪車も出て運行整備を進めているらしい。何となく口づてにそんな情報が伝わってきた。そして3時間くらい経ったら少しづつ動きはじめた。暗いアイスバーン状態の国道をチェーンを巻いた車にガクガク揺られながら、時速20kmくらいで出発地にノロノロと戻っていく。さすがに疲れてきた。一人二人と居眠りし始めた車内は次第に静かになっていく。結局、甲府に到着したのは、日付も変わる真夜中。朝、ホテルを発ってから18時間後のことだった。ぼくの自宅に到着して人心地つけ、こうして悪夢の白い一日はやっとその幕を閉じた。

閉鎖空間に長時間一緒にいると、何か不思議な連帯感が生じてくるものだ。一時期、ぼくらは会う度にあの日のことを語り合ったものだった。昨年の秋にも、青山ブックセンターで『野生の科学』『洞窟のなかの心』刊行記念として実現した中沢さんと港さんの対談でもどうやら話題となって、「「中沢さんに着いていったら遭難しかけて大変だった」と港さんが大暴露。「平坦な道からじゃ見られない景色だったでしょ?」と中沢所長が切り返し」なんてやりとりがあったみたいだ。

非日常的な出来事は過ぎてしまえば、忘れがたく懐かしい思い出になるのだろう。でも、諦めの悪いぼくは、ああいう状況で流れに身を任せることができず、「外とつながっていたい」「現在の状況を把握したい」「じっとしていられない」と、どうしても足掻いてしまう。だからやっぱり悪夢はいつまでたっても悪夢のままなのだ。束縛や拘束は根源的な恐怖となっている。いつも自由に選択できる環境を維持したい。これは誰だって願ってること。でもぼくはあの出来事の反動で、人一倍そこにエネルギーを注ぎ込む習性が身についてしまった。 かの美空ひばりは「 川の流れのように」で歌っている。

*

知らず知らず 歩いて来た

細く長いこの道

振り返れば 遥か遠く

故郷が見える

でこぼこ道や 曲がりくねった道

地図さえない それもまた 人生

ああ 川の流れのように

ゆるやかに

いくつも時代は過ぎて

ああ 川の流れのように

とめどなく

空が黄昏に染まるだけ

生きることは 旅すること

終わりのないこの道

愛する人 そばに連れて

夢探しながら

雨に降られて ぬかるんだ道でも

いつかは また 晴れる日が来るから

ああ 川の流れのように

おだやかに

この身をまかせていたい

ああ 川の流れのように

移りゆく

季節 雪どけを待ちながら

ああ 川の流れのように

おだやかに

この身をまかせていたい

ああ 川の流れのように

いつまでも

青いせせらぎを聞きながら

(作詞 秋元康 )

*

あぁ、ぼくの人生は、いつになったらこの身をまかせられるようになるのだろうか。