2013.4.01

「春が来た」

春が来た 何処に来た

山を越え 谷越えて

おらちの里に おらちの山に

夢に見た 田舎に

いつまで経っても 夢の田舎

窓に向かって 口ずさむ歌 (※1)

ユピタイヤイオー 1年経てば

ユピタイヤイオー 2年目までは

ユピタイヤイオー 3年すれば

ユピタイヤイオー 4年目ごろは (※2)

(※1・※2 リフレイン)

ますます田舎は 遠くなる

遠くなる

(作詞作曲:細野晴臣)

この曲は有名な童謡(高野辰之作詞、岡野貞一作曲)とは同名異曲の『春が来た』。1971年に発表された小坂忠のソロ・アルバム「ありがとう」B面の一曲目に入っていたこの曲は、小坂忠が在籍していたエイプリル・フールのバンドメンバーだった細野晴臣の作品。(エイプリル・フールは「はっぴいえんど」の前身バンドと言われている)しかし『春が来た』は小坂のオリジナルソングでなかったせいか、残念ながらYouTubeで見つけることができなかった。

ところでこのデビューアルバムは、ジェイムズ・テイラーの影響を色濃く残している。1970年発表のアルバム『Sweet Baby James』(『Fire & Rain』)のヒットで脚光を浴びたナイーブな彼の音楽は、小坂忠、細野晴臣、加藤和彦など、当時の日本ミュージシャンにも多大な影響を与えたといわれている。ギター1本携えて人間の悲哀を描き出す静かな歌声は、ヒッピームーブメントの熱狂と挫折に疲れた若者達の心に深く染みこんだ。いち早く小坂忠や細野晴臣らは、このジェイムズのフィーリングを楽曲に取り込んだ。そして発表されたのが、この「ありがとう」だった。プロデューサーは日本ロカビリー御三家の一人、ミッキー・カーチス(MickeyCurtis)。今聴き直すとけっこう軽い印象だが、当時としては先進的サウンドだった。それを象徴していたのがジャケットデザイン。担当したのはデザイン集団「WORK’SHOP MU」。2つ折りジャケットの4面すべてに矢吹申彦によるイラストが展開されている。ポール・デイビスアンリ・ルソーばりの牧歌的でちょっとシュールなタッチで描き出された架空の情景には当時の空気感がよく表れている。

サウンドは大瀧詠一を除く「はっぴいえんど」の面々や石川鷹彦(バンジョー)、大野克夫(スティールギター)といった芸達者なスタジオミュージシャンたち。そしてデビュー前の荒井由美もピアノで参加していた。このアルバムにはエッジのきいた時代意識に古き良き時代へのノスタルジーがブレンドされていた。このミスマッチがかっこいいでしょうと問いかける都会育ちの彼らにとって、「おらちの里」は憧れの日本の原風景だったようだ。「ありがとう」の代表曲「機関車」を再演している動画を見ていたら、70年代のそんな彼らの原風景が甦ってきた。

ところで山国ネイティブのぼくは、「おらちの里」に『春が来た』をずっとリアルに体感している。山国の春の訪れはとても分かりやすい。冬の眠りから覚めた生き物たちは、春分の頃を境にざわざわとうごめきはじめ、日増しにその生命力の波動は大きくなってくる。そしてやがて波動は五感の隅々にまで染みわたってきて、おらちの里に春が来たんだぞと知らせてくれる。萌黄色とピンク色した躍動感がむんむんと乱舞する春はエロティックですらある。名前通り4月生まれのぼくにとって、子ども時分からずっと春は自分の季節だと思っていた。

ところが今や国民病となってしまった花粉症によって、ぼくの春は20数年前から憂鬱な季節になってしまった。日本で花粉症が初めて発見されたのは1961年、アメリカからの外来種ブタクサの花粉だったそうだ。有名なスギ花粉症は2年後の1963年に日光で初めて報告されている。以後年々その患者数は増え続け、現在10人に1人は花粉症に苦しんでいるという。山々に囲まれたぼくの居住地域は花粉の宝庫のみたいなところなので、ピーク時には1立方センチメートルあたりおよそ4,000個以上の花粉が飛散しているなんて話を聞くと、気持ちのよい季節のはずなのに外に出るのも恐ろしくなってくる。こうしてスギとヒノキの飛散時期は重なりながら2〜5月頃まで続く。この時期は気流に乗って中国大陸から黄砂も飛来し、最近では微小粒子状物質(PM2.5)と呼ばれる有害粒子までやってくる、ホントにやれやれな「おらちの里の春」となってしまったものだ。

気の滅入る話題が続くが、ぼくの場合、アレルギー反応は花粉だけでなく季節の変わり目などにも頻繁におこるので、ほとんど1年中何らかのアレルギーに悩まされている。以前病院でアレルゲン検査をしてもらったら、もっとも大きな反応を示していたのがカビやダニ、細菌などが混ざった室内塵(ハウスダスト)。次に反応が顕著だったのがさまざまな植物の花粉類だった。憂鬱な春には二種類の症状のどちらかが出る。クシャミや鼻水、鼻づまり、目の痒みといった典型的な花粉症の症状が出る場合と、湿疹、じんましんのような痒みを伴う皮膚症状として現れる場合がある。しかしこの二つが同時に発症することはない。おそらく「ぜんそく」と「アトピー」の関係のように、同じアレルギー症状でも年齢や時期などによって症状がどちらかに移行するケースに近いのではないかと推測している。

皮膚症状は皮膚科で処方してくれる、湿疹や皮膚の痒みを改善する薬を定期的に服用してコントロールしている。症状に応じて量は調整してよいと言われているので、副作用のない腸内細菌ビヒダス菌をカプセルにしたBB536と併用しながら、1日2錠服用する処方を2日に1錠のペースにまで抑えるようにしていた。それでも出てしまう湿疹にはステロイドを含む副腎皮質ホルモン剤の軟膏を塗って抑える。軟膏も、顔や首や身体と部位によって含有度合いの異なるものを数種使い分けるのでけっこう面倒くさい。

花粉は時期が限定されるし、マスクや空気清浄機などで対策も比較的とりやすいが、ハウスダストはなかなか難題だ。アレルギーの元凶の多くが140種類にもおよぶチリダニ(House dust mite)の仲間だと分かっていても有効な手立てはなかなか見つからなかった。「世界中でまずダニのいない家はない」と言われるほどポピュラーな存在のダニを洗濯や布団の天日干しなどで殺すことはほとんど無理なのだという。加えて、死がいやフンまでアレルギーの原因となるので、これはもうお手上げである。そんなこんなで「なるようになれ」とずっとあきらめていたが、最近ネットで「RAYCOP」という商品を見つけた。

ダニが好む繁殖スポットは「寝具」「ソファー」「カーペット」。なかでも布団、ベッド、枕にもっとも集中し、人は10万〜数百万匹ものダニと一緒に寝ているといわれると、アレルギーのない人は気にする必要ないけど、あまり気持ちのいいものではない。「RAYCOP」は「増やさない」「殺す」「取り除く」の3つのケアを目的に、韓国人医師が開発した紫外線照射と吸引を組み合わせるという技術でハウスダスト除去に特化した衛生家電。世界各国での販売実績や英国アレルギー協会から世界初の認定を受けたふとん専用ダニクリーナーだというので、どうせやるならと一番強力なモデルを先日購入した。到着した日からさっそく使ってみる。吸引したものが目で確認できるから、これはけっこうクセになる。繰り返すことで効果が増すというので、連日一週間ほどまめにケアしたらなんと湿疹がピタリと止まったではないか。2年も飲み続けていた薬は到着後は1錠も服用することなく、アレルゲンの減少を体感している。いやいや、何事もやってみるものだ。

しかし、薬も衛生家電も所詮は対症療法や原因療法。むしろ事の本質は過剰な免疫反応をおこしてしまう体質にこそある。免疫反応は異物を排除する生物には不可欠な生理機能といわれるが、不必要に過剰に反応する体質はやはり自然な状態とは言い難い。アレルギーに振り回され続けていると、対症療法の西洋医学より漢方薬による体質改善などを考えた方がよいと勧められたりもする。行きつけの皮膚科医師に言わせると、なぜアレルギーをおこしてしまうかなんて本当はまだよく分かっていないんだそうだ。体質にもよるが、ぼくのような症状は加齢によって引き起こされる要素が強いという。人間は酸素なしには生きていくことはできない。しかし、活性酸素が過剰に生成されると体内にさまざまな酸化ストレスを発生させてしまう。簡単に言えば、人間も歳を取ると次第にカラダが錆びついてくるということらしい。それがアレルギー症状として現れる。生きるということは、同時にすでに死につつあるということでもあるわけだけど、考えようによってはこうした過剰な免疫反応だって生きているからこそのメカニズム。「おーい、まだお前は生きてるんだぞ」と、アレルギー症状はくどいほど何度も伝えにやってくるのである。

「きゃりーぱみゅぱみゅ」
“きゃりーオフィシャルブログ”より

2013.3.03

きゃりーぱみゅぱみゅ」のフルネームは“きゃろらいんちゃろんぷろっぷきゃりーぱみゅぱみゅ”(Caroline Charonplop Kyarypamyupamyu)と申すらしい。1993年東京生まれのB型で、読者モデル出身のファッションモデル兼歌手。特に興味があるわけじゃないけど、ボイスチェンジャーを駆使するテクノポップユニットのPerfume(パフューム)同様、彼女たちのように現実感を限りなく希薄に装った女の子たちの登場は前から何となく気になっていた。 現実世界をスライスして、その隙間に不思議なバーチャル(仮想)な世界を埋め込み、そこを住まいと定める彼女らの振る舞いから悲壮感は一切伝わってこない。コミックへの共感と連動するかのように海外での人気も相当なものらしいから、こうしたファンタジックでドリーミーなアイドルたちの近未来路線は、来るべき日本の輸出文化産業へと案外密かな成長を遂げているのかもしれない。

『HARAJUKU』のアイコンとして見出された「きゃりーぱみゅぱみゅ」は、仮想を現実に反転させながら事業化を目論むプロジェクトチームの核として存在している。つまり「時代の気分」が求める、今最も象徴的なキャラクターとして掬い上げられた商品というわけだ。ほとんどのアイドルはこれと同じ構造から生み出されているのだが、近未来路線をひた走る彼女たちの新しさは、アンドロイドのように限りなく人間臭さを消し去っている点だろう。

そういえば先日、NHKの「東京カワイイ★TV」に、究極のアニメ顔の少女が登場していた。東欧はウクライナから初来日した19歳のアナスタシヤ・シパジナちゃん。彼女は、人間(3D)でもアニメ(2D)でもない、2.5次元スタイルの少女なんだという。でも、ウクライナ語をしゃべったりすると、なーんだやっぱり人間なんだと、ちょっと引いてしまう。番組テーマの「原宿+(ミーツ)アキバ」では、このほか昭和レトロ(昭和はすでにレトロとなっているらしい)バージョンで、顔を白塗りした若者たちも紹介されていた。ぼくなんか「これって山海塾(さんかいじゅく)じゃん」なんて思うんだけど、彼らは顔を白く塗ることで元の顔を葬ってしまい、さまざまなファッションアイテムでコーデ(コーディネートのことをそう言うらしい)しながら「和ってカンジ(?)」を目指しているとのたまう。現実の仮想化は、ここでもひたひたと進行している。

実在しないバーチャルアイドルとして「初音ミク」はつとに有名だが、黎明期のその原点と目されるのは『超時空要塞マクロス』(1982年〜)に登場したキャラクター「リン・ミンメイ」の存在だ。このアイドルキャラクターの劇中での歌唱曲が、現実の音楽市場でポップソングとしてヒットしたことはアニメ界のエポックメイキングな出来事と言われている。声優を担当した当時大学生だった飯島真理は、これを足がかりに歌手デビューを果たす。以前、ぼくはヴァン・ダイク・パークスをよく聴いていた頃、彼のアルバム『Calypso』の収録曲『東京ローズ』できいたこともない名前の日本人の女の子が歌っていて印象に残っていたが、それがあの飯島真理だった。実は仮想と現実の逆転現象はすでに80年代に起きていたのだった。

「リン・ミンメイ」は仮想から現実へ、かたや「きゃりーぱみゅぱみゅ」は現実から仮想へと、ベクトルは逆であっても、どちらも同じ欲望から生み出されていることに違いはない。これらの反転現象を支えているのは、現実を拒否する非現実感への本能的な共感願望なのだから、重い現実に抗おうとするこの現象は、やっぱりどこまで行っても現実的な出来事なのだ。

ところで、日常の中でバーチャルなリアルが実感される瞬間がある。いつ頃からだろうか、ぼくは街中にいると不思議な感覚にとらわれることがあった。何となく自分がコミックやマンガの世界に迷い込んでしまったような気持ちになってしまうのだ。コスプレっぽいファッションの子とすれ違う時に感じることもあるし、居酒屋などの飲食店が、まるでコミックの中に登場するような店名で営業していたりすると、漫画の登場人物になったような気がしてくる。これって、まるで昔読んだ雑誌の中で展開されていた情景そのものではないか。店名に限らず、ユニフォームや商品のネーミングなど、隅々にまでこうしたコミックの感覚は染みこんでいるし、客層だって同世代であれば、きっと抵抗なくお店に溶け込むことができるはずだ。

漫画少年だったぼくは、ある時期を境にすっかりその世界から遠ざかってしまった。だから日本漫画やアニメの歴史をリニアに捉えることができないので、こうした情景を生み出したルーツが一体どの辺りにあるのかは分からない。でも、80年代前期にヒットした『うる星やつら』とか、後期の『キャプテン翼』などの洗礼を受けたコミック世代が、今の社会の中核を担う年代だと考えれば、この情景もなんとなく合点がいく。起業する時、彼らは店名はどうしようかと考える。思春期に読んだ文学全集が人生に少なからぬ影響を与えることがあるように、その時の彼らがコミックから影響を受けて発想したとしても少しも不思議なことではない。それに子どもの命名だって、一昔前ならコミックの世界でしか存在しなかったような名前が今では決して珍しくない。つまり、たかがコミックなんて馬鹿にできないくらい、サブカルチャーは甚大な影響力を秘めていたわけだ。当時のコミック制作現場で活動していた作家や編集者たちは、仮想に酷似してきたこの現実をどう感じているのだろうか。娯楽や趣味文化において、サブカルは主流派あっての少数派(マイノリティ)。ところがいまや、かつてのサブカルはポピュラーカルチャーへと変貌し、ポスト・サブカルは次々と産声を上げようとしている。

先日、六本木で1時間ほど時間つぶしをしなくてはならなくなって国立新美術館へ足を運んだ。当日は、第16回文化庁メディア芸術祭・受賞作品展と武蔵野美術大学や多摩美術大学など東京五美術大学の卒業・終了制作展が開催されていて、この2会場を駆け足で眺めてみた。内輪の観覧者ばかり目立った卒業・終了制作展に較べると、メディア芸術祭・受賞作品展の会場は盛況そのもの。若者たちであふれ返っていた。ポスト・サブカルの芽吹きに目を凝らそうとするが、(新進気鋭の出品者たちには失礼だとは思ったが)溢れんばかりの幻想の洪水にゲップが出てしまい、ぼくは早々に会場をあとにした。

以前は仮想だったはずの世界が、ふと気づくと現実にスライドしていて、仮想としか思えない現実が生み出されている。かと思えば、現実は限りなく仮想に憧れながらその世界に溶け込もうとしている。こうした雁行関係にある仮想と現実は交互に入れ替わりながら、これからも延々と移ろっていくのだろうが、そのどちらも人間の幻想から立ち現れてくるものだから、どこまでいっても人間というレンジから決してはみ出すことはないような気もしてくる。しかし「仮想」や「現実」を生み出すこの幻想は、人間にとってどんな意味をもっているものなんだろう。

先日の朝日新聞の『読書』に、横尾忠則さんの戸惑いぎみの書評が載っていた。テーマとなった書物は「死ぬのが怖い」 慶応大学教授・前野隆司〈著〉。印象的だったので一部抜粋してみる。

「…本書の目的は著者の「生きているのが楽しくて仕方ない」ということを人に伝えるためだそうだ。死を恐れないためには生は幻想であることを認識する必要がある。生も死も大差ない、本来、心もない、もともと何もない、人はすでに死んでいるのも同然。生きていること自体、勘違いで、人間は知情意のクオリアという幻想を持った生物で、人間には過去も未来もない。あるのは「今」だけ。あとは全て幻想。だから今しかイキイキと生きられない、と。…」

生は幻想なのだから、過去も未来も幻想の産物で、あるのは「今」だけ。じゃあ、幻想している「今」って一体何なんだろう。たとえそれは幻想にすぎないと言われても、幻想の過去や未来に支えられた「今」を生きているのだと思うのは、やっぱり幻想なんでしょうか、前野さん。

上から
ホテル出発前に辺りを散策する。
吹雪の中で車にチェーンを装着。
下2点は積雪イメージ

2013.2.02

今年は寒い!でも、毎年同じこと言ってるような気もするから、これは老化現象のひとつなんだろうか。先月中旬にちょっとまとまった雪が降って、首都圏でも久しぶりの積雪をニュース番組では大きとりあげていた。たまに東京に雪が降ると、少し大騒ぎしすぎるんじゃないかと思う。「何だよ!それくらい。こちとらそれが日常だよ」と、雪国の人たちは苦々しく思っているはずだ。

ま、それはともかく、ぼくはその翌日、県外出張のため車で向かうことになった。当日は一転して晴れ上がり、眩しいくらい良い天気。いつも入る高速道路ICに近づくと、カーナビの様子がどうもおかしい。手前の交差点を曲がれとか言うので、ナビが故障したんだろうかと思っていたら、IC入口手前の左車線にトラックや乗用車が列をなして止まっているではないか。何のことはない、昨日の雪で高速道路が交通止めとなっていたのだ。仕方ないのでそのまま直進して、交通止めの終点となっているICを目指すことにした。ところがしばらく進むと渋滞した国道で、結局ほとんど動けなくなってしまった。iPhoneで調べてもなかなか欲しい情報が見つからない。電話してPCで情報収集してもらっても、現在の交通止め区間くらいしか分からず、時だけが刻々と過ぎていく。最寄りの駅から電車で向かっても到底間に合いそうもない。結局1時間ほどして今日はもう無理だと判断し、事情を説明して約束をキャンセルするお詫びの連絡を入て引き返すことにした。翌日の新聞によれば、結局ICが開通したのはそれから5時間後のことだった。いつ開通するとも分からないIC入り口に居並ぶ車列の中でじっと待っているドライバーの心境というのは一体どのようなものなのか。あきらめ?忍耐?淡い期待?今度機会があったら窓越しに声をかけて聞いてみよう。進むことも引き返すこともままならず、欲しい情報は何にも入ってこない。そんな車中で、ぼくが「悪夢の白い一日」と名付けた過去の記憶が突然蘇ってきた。

21世紀に入って間もないある年の1月下旬、雑誌創刊に向けた編集会議を長野山中のホテルですることになった。メンバーは中沢新一さん、写真家の港千尋さん、縄文図像研究者の田中基さん、当時中沢さんのアシスタントを務めていた馬淵千夏嬢(現在は講談社の学術文庫出版部に所属する編集者)、そして担当出版社の編集者とぼくの6名。甲府駅に集合して駅前で「ほうとう」を食べ、ボスコに移動して会議資料の準備などをしてから、一行は夕方ぼくの車でホテルに向けて出発した。(当時ぼくの乗っていたワゴン車にはマックス7名が乗車可能だった)道中はワイワイと楽しく盛り上がり、夕刻には目的地のホテルに無事到着。温泉と料理で寛いだあとは、遅くまで編集会議という充実の一日を終えた。問題はその翌日だ。

目覚めると辺り一面すっかり雪景色に変わっていた。それも半端な雪ではない。駐車場へ行くと車はみんなスノーマンみたいになっていて、どれが自分の車なのか分からない。一番上の写真は、雪に埋まったホテル周辺を朝散策している様子で、この時点ではまだ余裕が感じられる。今思えば、その日はじっとホテルで静かに過ごすべきだった。しかし売れっ子二人(中沢さんと港さん)はどうしても翌日には東京に戻らなくてはならないということで、ぼくらは山を下り、最寄りの駅を目指すことにした。

まず車の雪を下ろして出発の準備をしなくてはならない。ところが運転席側のドアが開かない。大雪に気が動転していたのだろう、あまりの寒さに鍵穴が凍ってしまったのだと早合点し(冷静に考えれば絶対にそんなことはない)、ホテルで湯を沸かしてもらいヤカン片手に鍵穴周辺を溶かしてみたり、まったく笑い話にもならない。結局、助手席側がエマージェンシーキーで開いたので一件落着。たぶん寒さでバッテリーが低下してしまい、すべてのドアキーをコントロールしている運転席側受信装置が作動しなくなっていたのが原因だったようだ。なんとかエンジンもかかり、いざ出発。しかし、雪はますます強く降ってくる。一応4本スタッドレスタイヤは履いていたものの新品でなかったためかこの大雪ではあまり用を成さない。仕方ないので途中見つけたガソリンスタンドでチェーンを購入して後輪にセット。(写真2枚目)しかし、ワイパーを最大スピードにしても降りつける雪で前が殆ど見えないから、度々止まって手で雪を掻き落とす。しかも広い道路に出るまでは小道を、まだかなり進まなくてはならない。周りに車もほとんど走っていない。一番怖かったのは雪で周りがまっ白になってしまい、どこからどこまでが道路なのかまったく分からなくなってしまったことだった。これは本当に恐ろしい。何度も脇の畑に乗り上げる。幸い窪みや川に落ちることだけは何とか免れたけど、正直いま、すごく危険な状況かも、とその時ばかりはかなり焦ってしまった。車中のメンバーも「危ない、危ない!」を連発して大騒ぎ。

やっとの思いでなんとか広い道路に辿りつき、他の車も見えてきたのでこれで助かったと思ったのも束の間、近隣の駅に行ってみると電車なんかすべて運休で運転再開の見込みもたっていないという。やはりこのまま車を進めるしかない。免許証所持者は、ぼくと港さんだけなのでここからは交代で運転することにした。国道を走ればいつもなら1時間ほどで甲府に戻れるから、この状況なら2〜3時間はかかるかも、なんて甘い考えだったとすぐに思い知らされる。国道はすでにすごい渋滞で、まるで亀の行進状態。それでも少しづつ動いていた車列は、次第の止まる時間が長くなり、とうとうピタリと動かなくなってしまった。日は傾いてくるし、この渋滞がどう解消されていくのか全く情報は入ってこない。当時はスマホなんてないから携帯電話で情報収集するしかない。あちこち電話して、インターネットで調べてもらっても何も分からない。必要な情報が、それを切実に必要としている人たちに、もっとも必要な時に伝わってこないという現実を痛感させられる。この国にはそういう危機管理に対するシステムがまったく用意されていないのだ。たぶんその状況はいまも同じようなものだろう。日本はずっと昔から、危機管理が本当に苦手な国だった。

その時、ぼくらはつくづく羊みたいな国民なんだなぁと思った。自然現象が引きおこしたことなんだから、ジタバタしたって仕方ない。じっと受け入れるしかないよ。黙々と車列の中で静か待っている人々の表情には、そんなあきらめの心境が読み取れる。中にはディズニーランドのアトラクション待ちみたいに、けっこうこの状況を楽しんでいる若者たちもいる。これが外国だったら、騒ぎ出したり暴れ出す人々も出て来るんじゃないだろうか。主張すればいいというものではないが、黙々と亀の行進を続ける隣りや対向車線の車列を眺めていて、かつて日本はこんな風にあの大戦に突き進んでいってしまったのかもしれないなんて考えてしまった。

なんとか雪は止んだが、車はまだ動かない。暗くなり気温も下がってきたので、暖をとるために車はアイドリングを続けるしかない。お腹も段々空いてきたので、誰かがお土産に買っておいた和菓子をみんなで食べ分ける。そうだ、ワインもあったぞ。でも、ワインオープナーがない。仕方ないので車に装備された道具類からドライバーを捜し出して栓のコルクを削り込み、混ざった細かなコルクを口から吹き出しながらワインを飲む。ぼくは運転するので口をつけなかったが、あのワインはさぞ格別だったことだろう。動き出す気配もないので、食料調達班が歩いてコンビニを探し出す。めぼしいものはあらかた売り切れで棚はガラガラだったが、それでも何とかカップ麺を手に入れて、お店でお湯を入れてもらい、無事全員夕食にありつくことができた。何キロも先にある大きなホテルにはまだ空き室があることが分かったが、この状況では車を乗り捨ててそこに歩いて行くこともできない。国道沿いの旅館も看板を手立てに予約の電話を入れるが、どこも満室という返事。なら道路沿いのモーテルでも、と思いきや、非情にも軒並みクローズの立て札が。やれやれこれじゃ最悪車中で夜明かしか、と半分覚悟する。

こういう閉塞状況では、心理としてかならず外部に繋がろうと考える。皆、各々携帯で連絡を取り合い現在の事態を説明し、相手に慰められたりするが、もちろんそれ以上状況の進展はのぞめない。結局大人しく羊の群れに戻るしかないのだ。じっとしていても仕方ないから車に2人くらい残っては、入れ替わり情報収集に当たる。どうやら現在の状況は、道路を塞いでいる故障車や脱輪した車を処理したり、除雪車も出て運行整備を進めているらしい。何となく口づてにそんな情報が伝わってきた。そして3時間くらい経ったら少しづつ動きはじめた。暗いアイスバーン状態の国道をチェーンを巻いた車にガクガク揺られながら、時速20kmくらいで出発地にノロノロと戻っていく。さすがに疲れてきた。一人二人と居眠りし始めた車内は次第に静かになっていく。結局、甲府に到着したのは、日付も変わる真夜中。朝、ホテルを発ってから18時間後のことだった。ぼくの自宅に到着して人心地つけ、こうして悪夢の白い一日はやっとその幕を閉じた。

閉鎖空間に長時間一緒にいると、何か不思議な連帯感が生じてくるものだ。一時期、ぼくらは会う度にあの日のことを語り合ったものだった。昨年の秋にも、青山ブックセンターで『野生の科学』『洞窟のなかの心』刊行記念として実現した中沢さんと港さんの対談でもどうやら話題となって、「「中沢さんに着いていったら遭難しかけて大変だった」と港さんが大暴露。「平坦な道からじゃ見られない景色だったでしょ?」と中沢所長が切り返し」なんてやりとりがあったみたいだ。

非日常的な出来事は過ぎてしまえば、忘れがたく懐かしい思い出になるのだろう。でも、諦めの悪いぼくは、ああいう状況で流れに身を任せることができず、「外とつながっていたい」「現在の状況を把握したい」「じっとしていられない」と、どうしても足掻いてしまう。だからやっぱり悪夢はいつまでたっても悪夢のままなのだ。束縛や拘束は根源的な恐怖となっている。いつも自由に選択できる環境を維持したい。これは誰だって願ってること。でもぼくはあの出来事の反動で、人一倍そこにエネルギーを注ぎ込む習性が身についてしまった。 かの美空ひばりは「 川の流れのように」で歌っている。

*

知らず知らず 歩いて来た

細く長いこの道

振り返れば 遥か遠く

故郷が見える

でこぼこ道や 曲がりくねった道

地図さえない それもまた 人生

ああ 川の流れのように

ゆるやかに

いくつも時代は過ぎて

ああ 川の流れのように

とめどなく

空が黄昏に染まるだけ

生きることは 旅すること

終わりのないこの道

愛する人 そばに連れて

夢探しながら

雨に降られて ぬかるんだ道でも

いつかは また 晴れる日が来るから

ああ 川の流れのように

おだやかに

この身をまかせていたい

ああ 川の流れのように

移りゆく

季節 雪どけを待ちながら

ああ 川の流れのように

おだやかに

この身をまかせていたい

ああ 川の流れのように

いつまでも

青いせせらぎを聞きながら

(作詞 秋元康 )

*

あぁ、ぼくの人生は、いつになったらこの身をまかせられるようになるのだろうか。

Three from the top
Live from Music Hall of Williamsburg
Live st KEX Hostel Iceland Airwaver ‘11
Three from the bottom
from “Leaning Towards Solace”
Sigur Rós Valtari Mystery Films

2013.1.01

新しい年がはじまった。今日はいつも真っさらで、昨日を薄いヴェールで覆っていく。折り重なった過去は輪郭を次第に滲ませながらセピアトーンへと変色し、そこにノスタルジーが醸成されていく。ノスタルジー(仏:nostalgie)は未来を対象としていない。過ぎ去った時代を懐かしむその郷愁や追憶の感情は、負の部分が取り除かれた個人的な嗜好を反映したイメージとして再構成されていく。

先日、中沢新一さんがススメてくれた映画を観る。iTunes Storeからレンタルした、ウディ・アレン(Woody Allen)監督の「ミッドナイト・イン・パリ(Midnight in Paris)(2011年公開)」。ハリウッドの売れっ子脚本家が、憧れていた1920 年代のパリに彷徨い込むロマンティック・コメディだ。ぼくが好きな当時の芸術家も大勢登場していて、ソックリさんよろしくさまざまな俳優が見事に演じているので、まるでタイムスリップしたような気持ちになって楽しんだ。コール・ポーター(Cole Porter)も素敵だったし、ダリ(Salvador Dalí)なんか笑ってしまった。とてもユーモアにあふれた「パリ賛歌」の作品だったが、エンディング近くで主人公がこんなことを言っていた。

「現在はいつだって退屈な時代だ。現在から逃げて黄金時代に行きたいと願う。人はいつも別な時代に憧れるようになる。」そして、こう続ける。「“現在”って不満なものなんだ。それが人生だから」「何か価値あるものを書こうと思ったら幻想は捨てるべきなんだ。過去への憧れもその1つだよ」

幻想を捨てることは本当に難しい。幻想を持たないと前に進んでいけないと錯覚したり、夢や希望がいつのまにか幻想にすり替わってしまうことだってある。確かに今は退屈なものだ。でもぼくらが生きているのは、いつだって今でしかないってことを忘れてはいけない。

例えば、退屈きわまりない現在の音楽状況。J-POPは青年の主張みたいな青臭い歌詞を、トレンディなサウンドに乗せたものが多くてどれも代わり映えしない。海外のミュージックシーンだって、美味しいところ取りのアソートミュージックばかりで、もううんざり。しかしだからといって、あの頃の音楽は混じりけがなくて輝いていたよなー、なんて決して嘆いてはいけないのだ。心に音楽が届いてこないと嘆く前に、もっともっと耳を澄ませてみよう。きっとぼくが知らないだけなんだ。そんな気持ちで伸ばしていたアンテナに、ある日届いた曲がある。

アイスランドの新人バンド「オブ・モンスターズ・アンド・メン(OF MONSTERS AND MEN)」のファーストアルバム「マイ・ヘッド・イズ・アン・アニマル(My Head Is An Animal )」の挿入歌  「リトル・トークス(Little Talks)」。これは、いい。グルーヴィーなくせにナイーブなサウンドは、まるでアマチュアバンドのような鮮度を感じさせる。ツインボーカルとツイン・アコースティックギター+電気ギター、ベースとオルガン、それにアコーデオンやトランペットが加わりドラムが締める男女混合6人組バンド。いろんな楽器を駆使して、クラシカルなのに新しい試みを展開するバンドはカナダのアーケイド・ファイア(Arcade Fire)が有名だけど、“アイスランドのアーケイド・ファイア”とも異名をとるこのオブ・モンスターズ・アンド・メンの方が断然面白い。シンプルな編成のバンドも潔くていいけれど、ぼくは昔からいろいろな楽器(とくにアコーデオンやバンドネオン、ホーンやクラリネットといった地味な楽器類)を駆使するカラフルなサウンドが好きだった。

でもこの 「リトル・トークス」の力強くて疾走感のあるサウンドに乗せて歌われているのはけっこうシリアスな内容だ。妻が認知症、または記憶障害を引き起こす病気になってしまった老夫婦を歌ったもの、あるいは亡くなってしまった夫と残された妻が交わす心の会話と、歌詞が連想させる設定には諸説あるようだが、発病する前の妻の姿がオーバーラップしてくる前者の解釈の方が興味深い。このオールド・カップルの会話として訳されたものがネットで紹介されていた。

*

Little Talks(世間話)

古くてがらんとしたこんな家をあちこち歩き回るのはもうイヤなの(妻)

だったら手をつなげばいいじゃないか 一緒に歩いてあげるよ(夫)

寝ようとすると階段がきしむから眠れやしない(妻)

きっとこの家が「お休み」って言ってるんだよ(夫)

自分が誰かわからなくなる時もあるの(妻)

そんな姿を見てるのは本当に辛いよ(夫)

昔の自分と今の自分,どっちの自分が「本当の自分」なのかは決められないけど

それでも「人生」っていう船に乗ってる限り

いずれ目的地に着くんだから

自分の中にずっともう一人の自分がいて,その人が邪魔してるの(妻)

その人に伝えてくれないか?「世間話ができくなって寂しいよ」って(夫)

だけど,じきにこんな気持ちも忘れてしまう。そして2人の思い出も一緒に消えていくの(妻)

昔はよく外で遊んだよね?毎日が充実してたし幸せだったよ(夫)

自分が間違ってるのか正しいのかわからなくなる時もあるの(妻)

気のせいだよ ちょっとヘンな気がするだけだ(夫)

昔の自分と今の自分,どっちの自分が「本当の自分」なのかは決められないけど

それでも「人生」っていう船に乗ってる限り

最終目的地には着けるんだから

私が何を言っても取り合わないで無視してね

そんなのただのたわごとで意味なんかないんだから

昔の自分と今の自分,どっちの自分が「本当の自分」なのかは決められないけど

それでも「人生」っていう船に乗ってる限り

いずれ目的地に着くんだから

もうわからなくなっちゃったんだね

君が壊れていくのをずっと見てたよ

ここにいるのはもう昔の君じゃない ただの君の抜け殻だ

2人の間には溝が出来て,何をしても元には戻らない(夫)

だからもう行かせてちょうだい そうすればまたじき会えるじゃないの(妻)

もう少しだけ待ってよ

頼むから,もうちょっとだけそのままでいて

昔の君には夢の中で会うからいいんだ(夫)

昔の自分と今の自分,どっちの自分が「本当の自分」なのかは決められないけど

それでも「人生」っていう船に乗ってる限り

いずれ目的地に着くんだから

*

この曲の間奏部に登場するホーンの女性、堂々としていてやけにかっこいい。もちろん魅力の要は女性ボーカリスト、ナンナ(Nanna Bryndís Hilmarsdóttir(絶対に覚えられそうもない))の歌声だ。私って上手に歌えるんだからモードで朗々と歌われると興ざめしてしまうけど、彼女の歌い方はとてもキュート。ひとつひとつ言葉を目の前に置いていくような歌唱法はかなり個性的だ。「Love Love Love」や「Slow and Steady」といったナンバーには、そんな彼女らしさがとてもよく生かされている。先日、Apple SiteでiPhone 5のプロモーションビデオ見ていたら、デビューアルバムの巻頭曲「Dirty Paws」のメロディが流れてきて、へぇ〜、っと思ってしまった。

アイスランドは面白い国だ。ノルウェー人とケルト人をルーツとするこのアイスランド共和国(Lýðveldið Ísland)は人口わずか32万人の島国で、北海道と四国を合わせた程度の小さな国だ。(人口は僕の居住している県のなんと3分の1にすぎない!)世界でもっとも汚職が少ない国ともいわれているが、金融立国の推進化が災いし、2008年リーマンショックで主要銀行が経営危機に陥ってしまった。急遽銀行の国営化を試みたものの、負債が国家財政規模を超えていたので債務不履行となってしまったのは記憶に新しい。その後、輸出額が増加したことで景気は次第に回復しつつあるという。また、日本と同じ捕鯨賛成国でもある。ミュージシャンではビョーク(Björk)が有名だが、彼女は声帯ポリープ治療のため、現在活動休止中らしい。ミュージシャンといえば、ぼくはこの国のポストロック (post rock) バンド、シガー・ロス (Sigur Rós)がとても気に入っている。ポストロックという用語の起源は、批評家のサイモン・レイノルズ(Simon Raynolds)の1994年に書いた記事が起源とされていて、「ロックの楽器をロックとは違う目的に使用し、ギターをリフやパワーコードのためでなく、音色や響きをつくるために使う」音楽を指しているとWikipediaで紹介されている。たしかに彼らの紡ぎ出す旋律は環境音楽のようであり、サウンドトラックのようでもある。そのファルセットヴォイスを包み込むミニマルでmelodicなサウンドには(ぼくは行ったことはないけど)アイスランドの空気感が色濃く漂っている。

ところでその彼らの4年ぶりとなる新作『Valtari(ヴァルタリ〜遠い鼓動)』のリリースに伴いスタートした映像プロジェクト、「シガー・ロスの世にも奇妙な映像実験」がすごくエキサイティングだ。コンペティションに参加した1000近くのエントリー作品の中から選ばれた映像が現在公開されている。どの実験映像もシガー・ロスの音楽に多彩な視覚的アプローチを試みている。 なかでも最終作品の「Leaning Towards Solace」が印象的。触れそうで触れない、指と指で有名な(「ミケランジェロの『アダムの創造』」)システィーナ礼拝堂天井画のイメージを介して、輪廻転生が暗示されるエンディングは切なくも、清々しい。バックに流れる『Valtari』からのピックアップ連結曲『Dauôalogn』と『Varúô』が静かに心に染みこんでくる。これは文句なしの2012年マイ・ベストソング。いつまで公開されているのかわからないけど、クレジットの末尾にある「Vimeoで見る」の下にあるアドレスをクリックすると各作品を堪能することができる。(公式サイトによれば、この映像16作品の発売が決定され、国内盤は2/20にリリースされるようだ)

というわけで、アイスランドミュージックはこのところちょっとしたマイブームなのだが、オブ・モンスターズ・アンド・メンといい、シガー・ロスといい、彼らの音楽にはまぎれもない今が息づいている。要は自分次第。ぼくがまだ知ることのない、そしてこれからも知ることがないだろう多くのものが世界にはあふれていて、退屈な現在は実はなかなか捨てたものではないのだ。そしていつだって、世界中に点在する「はじまり」から、まさに今、未来は誕生しようとしている。

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Customization page of NIKEiD. site
999.9 X TOYOTA 86
Special Collaboration Model S-86T

2012.12.01

ぼくらが日々購入する商品の多くが大量生産によって生み出されている。その始まりは1865年から1900年までと定義される第二次産業革命の時代にまで遡る。

大量生産を構成する要素は3つあるといわれている。1つ目は互換可能な部品の量産化。つまり、規格の標準化である。2つ目は、作業の標準化と作業管理を体系化する「科学的管理法」といわれるシステムの導入だ。そして3つ目が有名なフォード・システムと呼ばれる、ベルトコンベアを活用した移動式組立生産システムの発明だ。労働力と機械は大きな工場に集約され、生産力を向上させたものづくりがこうして開始された。この工業化によって効率的で、しかも安価な製品が続々と多くの人々の手元に行き渡ることになった。誕生からおよそ1世紀。工業化は驚異的なスピードで発達をとげ、新たなエネルギー革命、機械化の技術革新、輸送手段の発展、そして雇用拡大などとともに資本主義経済を支える原動力となってきた。

高度成長期のとばくちだったぼくらが子どもの時代には、テレビを買った家に近所の人々が集い、目を輝かせながら小さなモノクロ画面を凝視していたものだった。当時、三種の神器と呼ばれた、炊飯器、冷蔵庫、テレビはもちろん大量生産の産物品なのだが、それを所有するということは、やっと人並みの暮らしを手に入れたことの証でもあった。人と同じものを所有することが、あんなにも誇らしかった時代を思い起こすと、できれば人と同じものは持ちたくないという現代の購買意識の変遷には隔世の感を禁じ得ない。

では、来るべき第三次産業革命はすでに始まっているのだろうか。原子力エネルギーを利用する現代がまさにそうなのだという人がいれば、いや、IT革命こそが第三次産業革命だという人もいる。先日の新聞には、その延長線上に新たな主張が掲載されていた。

「ワイヤード」の編集長、クリス・アンダーソン氏は「ものづくりの民主化」こそが第三次産業革命なのだと主張する。大量生産型ものづくりはなくならないが、独占はもう終わる。それは個人の多様なあり方を尊重する小さな市場が草の根で広がりはじめているからだという。生産個数は、多くても一万個ほどのニッチな市場に向けて、アイデアに富んだ製品を届ける。それを可能にしたのは、ウェブ空間の特徴が産業のあり方にも適用されはじめているからなのだそうだ。もはや専門家でなくても、ものづくりを起業することができる。大企業に所属している必要もなければ学歴もいらない。必要な人たち同士が結びつくフレキシブルな生産システムがあればいい。誰もが情報やツールを平等に使える新しい家内工業の時代が到来したのだと主張していた。かくいう彼も、自宅で始めた無線飛行機作りをきっかけに会社を立ち上げ、共同経営者はネット上でアドバイスしてくれた20代のメキシコの青年だとか。趣味から出発した人々はジムに通うような気分で「メイカーズ」と呼ばれる工房に行き、仲間たちとの出会いを通じて試作を繰り返し、「メイカー」となっていく。わずか数年間でものづくりを起業するなんてこれまで不可能だったことが、今ではもう夢物語でないのだ。

こうした、新たなものづくり環境への呼び水となったのは、言うまでもなく、必要なものはあらかた手に入れてしまった現代人の購買意識の変化だろう。暮らしの中で商品の使い分けがとても鮮明になってきた。機能性を満たし、品質感があって、しかも安価であれば量産品でも一向に構わない。そのかわり、自分がこだわりを持つものには妥協はしたくない。こんな使い分け意識が鮮明になってきている。この背景には、量産の対極に位置付けられる手作り感の希少性に惹かれたり、沢山は要らないから、自分が本当に欲しいと感じるものだけでいいという欲求が横たわっている。人々は許された経済力の範囲内で、実にクレバーにこうした使い分けをしながら様々な商品を選別している。もちろん量産メーカーだってこの辺の意識変化はすでにお見通しで、あの手この手の戦略を練ってきている。そんな実例を二つほどあげてみよう。

ぼくは気に入った靴がなかなか定まらずに試行錯誤を繰り返してきたが、1年ほど前、履きやすくてスタイリッシュなスニーカーを探していて「NIKEiD」サイトを見つけた。ここの売りはパーツの細部にわたってカラーや素材が選べることだ。まずベーシックなシューズを選んでカスタマイズをスタートする。いくつか用意された「デザインインスピレーション」から選択して細部調整することも可能だ。各パーツの素材を選択したらカラーも選ぶ。靴底の色や形状も選べるし、シューレース(靴紐)もスペアと2種セットになっている。立体塗り絵の感覚でシミュレーションを重ねると、リアルタイムで商品画像にその選択が反映されていく仕組みだ。回転したり、ズームしたり、別なアングルで確認することもできる。オリジナルのネームを入れることも可能なモデルもある。とにかく選択肢が幅広いので、何だか自分がシューズデザイナーになったような気持ちにしてくれる。デザインは保存しておけるので、時間と意欲さえあれば、このサイトでいくらでもデザインを楽しむことができる。長年蓄積したノウハウを生かしながら実に巧妙にカスタマイズさせ、あたかも1点ものを手に入れたような(錯覚)気持ちにさせてしまうのは、さすがNIKEだなあと感心させられる。デザインが決定したらカートに追加して、サイズなどの必要事項を入力すれば注文完了だ。入力情報はチャイナの組立部門に送信され(これは憶測)、3週間もすればローマ字宛名シールが貼られたシューズボックスが中国から直送されてくる。たぶん地方から出てきた女の子たちが、オーダーシート片手に「これ、変なデザインじゃない」なんておしゃべりしながら、ひがな製造にいそしんでいるのだろう(これも憶測)。すべてレザー仕立てにして、カラーもシックに抑えるとあまりスニーカーっぽく見えないので、ぼくはすっかりこのNIKEiDにはまってしまった。それにカスタマイズの自由度が高い割には、けっこうリーズナブルなのだ。量産品の製造工程に一手間かけることで、擬似的な1点ものに変身させるこのNIKEマジックは、現代人の購買意識の変化に柔軟に対応したシステムだと思う。

もう1例は眼鏡メーカー。国産ブランドの999.9(フォーナイン)はプロダクトとしての完成度がとても高い。眼鏡に限らず、機能性をある意味極めたプロダクトは、デザインから入るプロセスでは決して到達できない機能美が備わっている。ぼくが999.9のグラスを選ぶ理由はそこにある。

先日久しぶりにサイトを覗いてみたら「TOYOTA86」とコラボした「カスタマイズによって完成するドライビンググラス」が紹介されていた。ぼくはスポーツカーの86シリーズにはほとんど興味はないが、TOYOTAからの呼びかけに999.9が応じて限定生産したというこの製品はちょっと気になったので、上京したついでに新宿伊勢丹メンズ館にあるshopに立ち寄ってみた。すでに完売間近という「Option kit」には、グレーとブラウン2タイプのグラス、2種類のテンプル、同じく2種類の鼻あてがセットされていて、この中から好きな組み合わせを選ぶことができるのだそうだ。NIKEほど選択肢は多くないが、ショップスタッフと相談しながら、自分の好みに合わせてカスタマイズする手法はとても似通っている。かけ心地はもちろん、手に取った感触や質感も気に入ったのでその場で購入することに決めた。度付きカラーグラスにした場合、完成まで2週間ほど待たなくてはならないが、自分の希望が反映された商品なのだからと、NIKE同様、待つこともあまり苦にならないからユーザー心理とは不思議なものだ。

この2例はかなり量産寄りのケースだが、量産と手作りの境界にはこれからさまざまな「民主化されたものづくり」が集結されていくことだろう。少量生産型メイカーは世界中で産声を上げ、あたかもグローバル化とバランスをとるかのように、そうしたヴィレッジ化は加速されていくのではないだろうか。名もない工人が作る生活具の美しさを再発見した民藝運動のように、新しい誕生のカタチを手にしたものづくりは、ネット社会がもたらした新世紀の民藝運動となっていくのかもしれない。

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"Peace, Ideology and Fraternity"
Dramatized photo, 1915,
The Stables, The Workshop,
Women Sculptor, Three generations
( Italian Photographs Volume 13 )

2012.11.01

いつの時代もすぐれた教育者を社会は必要とする。人の育て方は、育てる人の数だけあるし、草木や野菜と向き合うのと同じように、誠実に愛情を注ぎ込み時間をかけて取り組まなければならない。ぼくにも出会うことのできた良い先生が何人かいた。反面教師も含めたら、その数はさらに増えることになるが、その時どきの出会いによって、ぼくの人生は微妙な軌道修正を繰り返してきたように思われる。
だから、歳を取りそれなりの経験を積んでくると、今度は自分も少しは恩返ししなければならないと考えるのだが、そこで、はたと途方に暮れるのだ。いったいどうしたら、人を育てるなんてことができるのだろう。考えれば考えるほど、まったく自分には能力の与えられていない不得意な分野なのだと痛感することになる。ただひとつだけ出来そうなことがある。育てることは無理だとしても、いっとき誠実に向き合うことなら、このぼくにもできるのではないか。
たまに事務所には働きたいと希望する若者の問い合わせが入ることがある。冷やかしでなく、熱意をもって希望していると感じた若者には、採用することはできないが、出来るだけ丁寧にお断りをするよう心がけている。
10年ほど前、サイトを見て入社したいと希望してきたひとりの学生がいた。彼は愛知の美術大学で学んでいて、卒業を間近に控えていた。彼の出身地でもある山梨の国立大学がシンボルマークを一般公募した際、見事に入選を果たした若者が実は彼であることをぼくは知っていた。それは大学から、決定したシンボルマークのアプリケーションデザインについての相談を受けていたからだ。彼はまだやや荒削りな学生らしさを残すものの、才能ある若者だと感じていたので、ぼくは送られたきた作品集の返事を出すことにした。思いのほか長文だが、以下がその全文である。巻末には、そのMくんからの返信メールも付記した。
結局、Mくんは無印良品のADでも知られる廣村正彰さんが主宰する廣村デザイン事務所に入社した。2008年には「日産自動車デザインセンター」のサイン計画で第15回CSデザイン賞金賞を廣村さんとの共同制作により受賞するなど、おもにサイン部門のデザイナーとして活躍しているようだ。結果的に彼のリクルート活動は大成功だったと思っている。
*
Mさん
ポートフォリオや履歴書、受取りました。お手紙もありがとう。
作品集はとても丁寧にまとめられていて、きちんとデザインと向かい合おうとしているMさんの姿勢が伝わってきました。若いデザイナーが陥りがちなテクニック先行の広告的あしらいもなく、バランス感覚のよい、好感のもてる仕上りとなっています。
習作色は現場での体験を積んでいけば薄くなっていくはずですから心配する必要はないでしょう。特に新聞記事をモチーフにした試みが面白いと思いました。こうしたトレーニングは、エディトリアルデザインに直結していって、すぐに活用することができそうです。
中部地域は岡本滋夫さんを中心としてポスター表現のとても盛んなところですよね。ポスターはずっとグラフィックデザインの華として君臨してきました。福田繁雄さんの反戦ポスター「VICTORY」などは、近代日本デザインの傑作のひとつとして評価することができると思います。
しかし日本の場合には、ポスターはややアート志向の強い発展を遂げてきてしまったように感じられます。その背景には、日宣美世代の大御所デザイナーたちを中心としたポスター至上主義があり、さらに言えば、それらは戦後デザイナーのアーティストに対する劣等感の裏返しであったのかもしれません。
本来、ポスターはロシアにおいてプロパガンダの手段として誕生したものです。ヨーロッパのデザイナーたちはアート志向など何処吹く風、1〜2色のポスターを朝デザインしたら、すぐに印刷に回し、翌日には路上に貼り出すんだという話を以前聞いたことがあります。つまりポスターは本来、こうしたスピード感をともなうダイレクトなメディアなんだということです。逆にずっと手元に残されていく書籍のデザインなどには、彼らは気の遠くなるような手間暇をかけてとても丁寧な仕事をしています。
ですからMさんのような若い人たちには、デザイン村のヒエラルキーの象徴として君臨してきたポスターの継承など無視して、果敢に向き合ってほしいと思います。ヴィジュアルメッセージの現場は今や、小は携帯電話の画面から、大は建築物に組込まれたり商空間に展開されたりと、大きく変貌をとげようとしているのですから。
これからどんなデザインとかかわっていくのかがひとつの問題となりますね。ひとくちにデザインといっても、もちろん様々な現場があります。たまたま入った職場から活動範囲を専門化していくというケースもあるでしょう。都市部に就職した人に多いケースです。逆に広いジャンルにまたがって全方位的な活動を志す人もいるでしょう。地方ではコンパクトな活動であれば可能となりますが、都市部ではメジャー・デビューを果したデザイナーでないとなかなか許されないことでしょう。
つまり、自分のデザイナーとしての活動範囲をどのようにとるのかという問題は、どこで働くのかという問題と密接にリンクしているわけです。
以前、岐阜県のデザイン・シンポジウムで講演した時に、デザイナーにおけるローカリズムについてこんな発言をしたことがあります。都市部で大きなビルディングを建てるプロジェクトに加わるという満足感もあるでしょう。地方で犬小屋みたいな小さな一戸建てを作りあげるという充足感もあるでしょう。都市部と地方を隔てているものは密度の問題だけです。質的条件は何ら変わることはないはずです。ですから地方で活動するデザイナーはメジャーな仕事に恵まれないということを盾にして、それを決してデザインの質の問題にすり替えてはいけない。と、まあこんな発言であったと記憶しています。どういう現場を選択するかは、若い人にとって悩ましい問題ではありましょうが、大事なことは自分がデザイナーとして社会とどのようにかかわっていくのが、自分にとって一番自然な方法なのかをよく考えてみることだと思います。そうすれば自ずからもっとも自分にふさわしい現場に近づいていくことになるはずです。
どんなジャンルについても言えることですが、今時代が求めているものはハイブリットなのだと思います。あらゆるレベルでの異種混合が必要とされています。新しい発想が求められているなんていう手垢のついたお題目は、まさにこうした必要性から噴き出してきているのです。ハイブリット現象が次々と生まれ出しているバイオテクノロジーのジャンルなどは、現代においては最もエキサイティングな現場のひとつといえるでしょう。どんなジャンルでも、オーソドックスでアカデミックなスタートをきった人々には、自身をこのようにハイブリット化していくことが今求められています。傍流から入ってきた人が活躍するケースが多いという事実も、このことと決して無関係ではないでしょう。
Mさんのポートフォリオを見てそんなことをふと考えました。それはとてもバランスよくデザインが捉えられていたからなのかも知れません。「遊び心」という意味ではなく、まったく異質なものをデザインに取込むラジカルさも欲しい、完成度が高いからこそついそんな欲がでてしまうのでしょうが…。
もうひとつ自分のものにして欲しいものがあります。それは言葉をもつことです。見ればわかるという姿勢はデザイナーを孤立させてしまいます。designの語源はde(前を=見えないものを)sign (しるす=現わす)ことだと言われます。しるそうとするものが言葉に置換えられないから視覚言語と言われるのですが、それはその能力を持った人でないとなかなか解読することはできません。残念ながら多くのクライアントに備わっているものではないのです。真摯にデザインと向き合えば、表現された色や形にはかならず必然性が出てくるはずです。どうしてこうなったのか記録した制作ノートを並行して残しておけば、もう一度客観的に自身を検証することもでき、なによりも確信をもってプレゼンテーションすることができます。自分の考え方を明快に主張することはとても大切なことです。もちろんそれがデザインの言いわけになっては何にもなりませんが、誰にでもわかる平易な言い方を心がけてください。業界用語を羅列しただけの代理店的用語では意味がありません。言葉に置換えてみることで散らかっていた問題がずいぶん整理されてくるものです。現にいま、Mさんにこんなに長い手紙を書いているのも、職場を求める若いデザイナーに自分だったら何を伝えられるんだろうか、少し整理してみたいという個人的動機もあるのです。言葉をもつことでデザインはさらに明快になり、力強くなってくれるはずです。
さて、就職の話をしなくてはなりませんね。私事になりますがかつてぼくは現代美術家を志望していました。しかし、70年代に始まったコンセプチャルアート(観念芸術)に失望してデザイナーを志しました。初めから就職するという選択肢はありませんでした。仕事は0から始めるものだと思っていたのです。デザインのデの字も通用しない商店主なんかと向き合いながら、手探り状態からの出発です。幸運な出会いもあって、クライアント、そして関連業者の人たちとの信頼関係を築きながら何とか綱渡りのようなデザイナー活動を今日まで続けてきました。ですからデザインはまったくの独学なのです。今の自分のデザインを支えているものは、実践の中でおぼえてきたことばかりです。クライアントの企業感覚とエンドユーザーの生活感覚、それを仲立ちするデザイン感覚、この三つのバランスの取り方は実践を通じて鍛えられてきました。これはおそらく特殊なケースなのでしょうが、このようにデザインとかかわってきたぼくに教えられることはあまりないのです。もっと正確に言えば、教えていくことにあまり興味がもてないのです。結局自分で飛び込み、考え、組立てていくしかないんだという気持ちがとても強いので、何か基本的な力をつけたいと考えているデザイナーに与えられるものはあまりありません。現場に対するこだわりが強いのかもしれませんね。教育機関からの誘いや審査員にも興味がわかないのは、受けてしまうと何か現役としての活動が終わってしまうような気がするからなのかもしれません。これまで成り行き上、ボスコで手伝ってくれたデザイナーたちとは、元上司としてでなくデザイナー同士としてのおつき合いをするようにしています。
とは言え、Mさんのようにボスコの仕事に共感を抱いてくれる人がいることは、とてもうれしいことです。時には給料はいらないから修業したいと言い出す人もいたり、以前、スイスにある美術大学の大学院生がデザイン年鑑でボスコの仕事を見て、海外実習の奨学金が国から出るので半年間働いてみたいと希望してきたこともありました。そんな時いつも思うのですが、人にはいくつかの能力というものが与えられていて、与えられなかった能力もあるのだということです。不安定な雇用状況という逆風条件はもちろんありますが、それよりもぼく自身が授かっている能力の問題が大きいように思われます。
Mさんにこうしてご返事を書いているのも何かの縁があるからなのでしょう。就職の希望者としてでなく、デザイナー同士としてのおつきあいをしていきましょう。ぼく自身、デザイナーの遠藤享さんや佐藤晃一さんとの出会いによって、それまでもっていたデザイン観を大きく変えられてきました。大切なことは、物怖じせず興味のあるものにはぶつかっていき、できる限り幻想を振り払って事実を見据えるリアルな体験を、若いうちから積み重ねることなのだと思います。

ボスコの仕事場をリフォームした時につくったブローシュアを同封します。もう5年も前のものになりますが、仕事をする空間や時間は、デザインをすることと同じように大切にしていきたいというぼくらの嗜好や姿勢が反映されたブローシュアとなっています。また共感する表現人たちへのオマージュでもあります。
印刷物はクイックマスターというイスラエル製のオンデマンド印刷機で刷られています。フィルムレスで通常のオフセット印刷に使われるインクとは異るものが使用されています。墨の階調が強調され、押し込みを強く感じさせるので、その版画に近い触感が気に入って時々使っています。
また、この文章はリョービイマジクスの本明朝新小がなで組まれています。(注:本文は縦組みの手紙)源流は金属活字「晃文堂明朝体八ポイント」から始まり、数次の改刻を経て最近デジタル化されたものです。キャラクターの不揃いが逆に判読性を高めていてとても不思議な可読性を発揮してくれる書体です。特に縦組みが美しいので、このところ愛用しています。デザイン情報としてご参考になれば幸いです。ではますますのデザインを。
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お返事どうもありがとうございました。
採用してもらえなかったのは非常に残念ですが、それ以上に感謝しております。
ポートフォリオを送ったのは、そちらの事務所が初めてだったんですが、
まさかこのような丁寧な対応をしていただけるとは思わず、非常に感激しました。
そして、デザイナーを目指して本当に良かったと思いました。
いつかデザイナー同志としてのお付き合いをしていただけるよう
これからも努力していきたいと思います。
本当にどうもありがとうございました。
御社の増々のご発展を心よりお祈りしております。
M