別離
4月5日に86歳で亡くなった詩人で評論家の大岡信さんの死を悼んで、故人と親交の篤かった詩人、谷川俊太郎さんの詩が新聞に寄せられていた。
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大岡信を送る 2017年卯月
本当はヒトの言葉で君を送りたくない
砂浜に寄せては返す波音で
風にそよぐ木々の葉音で
君を送りたい
声と文字に別れを告げて
君はあっさりと意味を後にした
朝露と腐葉土と星々と月の
ヒトの言葉よりも豊かな無言
今朝のこの青空の下で君を送ろう
散り初(そ)める桜の花びらとともに
褪(あ)せない少女の記憶とともに
君を春の寝床に誘(いざな)うものに
その名を知らずに
安んじて君を託そう
(4月11日・朝日新聞)
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万感の思いを胸に納めて、「言葉よりも豊かな無言」と記す詩人の言葉は波音や葉音、そして桜の花びらに想いを託す。ところで、ぼくは偶然、谷川俊太郎さんと並んで座る機会が一度だけあった。上京し、午後閑散とした地下鉄で移動中、到着した四谷駅で、開いた向かいの扉から小柄な老人が乗り込んできて、ぼくのとなりに腰を下ろした。一瞬見覚えのある顔だなぁと思案して、すぐにそれが谷川俊太郎さんだと思いあたった。ぼくより先に下車するまでのほんの5分足らずの出来事だったが、すっと背筋を伸ばして身じろぎもせず真っ直ぐ前を見据えている年齢を感じさせない佇まいが印象的だった。
昔は「君」と呼べる友のいる安心感があった。叱ってもらえる人がいるという安心感もあった。しかし歳を重ねるにつれ、そうしたかけがえのない人やお世話になった人との別れが次第に現実のものとなってくる。その時、残された者たちは別離とどう向き合うのか。
宮澤賢治に大きな影響を与えた妹トシの死。トシは賢治にとって自分を最も理解してくれる存在であった。妹は彼の心の支えであり、心強い同志でもあり、そこには慕情さえも…。
下の3編は賢治が別れのその日、万感を込めて詠んだ『永訣の朝』と『松の針』、そして『無声慟哭』。その日から賢治は7ヶ月間詩作することはなかった。
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「永訣の朝」
けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ ) ※
うすあかくいっそう陰惨な雲から
みぞれはぴちょぴちょふってくる
(あめゆじゅとてちてけんじゃ )
青い蓴菜のもようのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゅとてちてけんじゃ )
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといういまごろになって
わたくしをいっしょうあかるくするため
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを・・・・・・
「松の針」
さっきのみぞれをとってきた
あのきれいな松のえだだよ
おお おまへはまるでとびつくやうに
そのみどりの葉にあつい頬をあてる
そんな植物性の青い針のなかに
はげしく頬を刺させることは
むさぼるやうにさへすることは
どんなにわたくしたちをおどろかすことか
そんなにまでもおまへは林へ行きたかったのだ
おまへがあんなにねつに燃され
あせやいたみでもだえてゐるとき
わたくしは日のてるとこでたのしくはたらいたり
ほかのひとのことをかんがへながら森をあるいてゐた
《ああいい さっぱりした
まるで林のながさ来たよだ》 ※
鳥のやうに栗鼠りすのやうに
おまへは林をしたってゐた
どんなにわたくしがうらやましかったらう
ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
わたくしにいっしょに行けとたのんでくれ
泣いてわたくしにさう言ってくれ
おまへの頬の けれども
なんといふけふのうつくしさよ
わたくしは緑のかやのうへのも
この新鮮な松のえだをおかう
いまに雫もおちるだらうし
そら
さわやかな
terpentine (ターペンタイン)の匂もするだらう
「無声慟哭」
こんなにみんなにみまもられながら
おまえはまだここでくるしまなければならないのか
ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ
また純粋やちひさな徳性のかずをうしなひ
わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき
おまえはじぶんにさだめられたみちを
ひとりさびしく往かうとするか
信仰を一つにするたったひとりのみちづれのわたくしが
あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて
毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
おまへはひとりでどこへ行こうとするのだ
(おら おかないふうしてらべ) ※
何といふあきらめたやうな悲痛なわらひやうをしながら
またわたくしのどんなちひさな表情も
けっして見遁さないやうにしながら
おまへはけなげに母に訊くのだ
(うんにゃ ずゐぶん立派だぢゃい けふはほんとに立派だぢゃい)
ほんたうにさうだ
髪だっていっそうくろいし
まるでこどもの苹果(りんご)の頬だ
どうかきれいな頬をして
あたらしく天にうまれてくれ
(それでもからだくさぇがべ) ※
(うんにゃ いっこう)
ほんたうにそんなことはない
かへってここはなつののはらの
ちひさな白い花の匂でいっぱいだから
ただわたしはそれをいま言へないのだ
(わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)
わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは
わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ
ああそんなに
かなしく眼をそらしてはいけない
註
※あめゆきとってきてください
※ああいい さっぱりした
まるではやしのなかにきたやうだ
※あたしこわいふうをしているでせう
※それでもわるいにほひでせう
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エリック・クラプトンは最愛の息子コナー(享年4才)を転落事故で亡くした。打ちのめされた日々を送る彼は、その深い悲しみや苦しみと向き合うために音楽に救いを求める。そして生まれたのがあの名曲『Tears in Heaven』だったことはよく知られている。クラプトンはここで(Eric Clapton – Tears in Heaven live Crossroads 2013)歌われているように、コナーの死後12年の時を経て、やっと『Tears in Heaven』の演奏を封印することができたのだった。
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Would you know my name if I saw you in heaven?
Would it be the same if I saw you in heaven?
I must be strong and carry on.
‘Cause I know I don’t belong here in heaven.’
父さんの名前覚えてるかな?
もし君の居る天国で会ったとしてもね
前と同じようにしてられるかな?
もし君の居る天国で会ったとしたらさ
父さん強くならなくっちゃいけないな
それを続けて行かなくっちゃ
分かってるよ 父さんの居場所
天国じゃないって事はね
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人の悼み方はさまざまである。最後にもう一つ。
去る2016年3月2日投稿ブログで、2015年10月23日に急逝した友人のデザイナー、西野洋さんのことを書いたが、その後、彼と交流の深かった人々の中から自然発生的に作品集制作の話が持ち上がり、制作委員会に10名のデザイナーが参加することとなった。彼の残した思索や活動の軌跡を次の時代に結びつけようと、残された資料を整理・分類しながら分担して紹介する作業は、それから半年以上に及んだ。この小さなプロジェクトは、彼の思考や造形と向き合う貴重な時間を与えてくれたし、結果的にぼくらを再び繋げてくれた。名を連ねるぼくも、西野洋さんのスモールグラフィックを紹介する頁を担当したのだが、東京以外の地域で活動するメンバーはドイツのBaumann & Baumannさんらとぼくだけだったので、実質的な制作作業は美登英利さんと白井敬尚さんを中心に東京のメンバーが担ってくれた。
こうして生まれた一冊の書物は「西野洋 思考と形象(Hiroshi Nishino Philosophy and Design)」と名付けられ、デザインを生業とするものならではの追悼のかたちとなった。ゆかりのあったデザイナーたちへとバラバラに散っていた西野さんの思考と形象の記憶は、再びこの書物の中で統合され、再構築されることになる。そうして、それら記憶と記録の集合体は、彼がもっとも愛した書物という偲びの場で束の間の再生を果たすことが出来たのだと思う。
最後に、ぼくの好きなお別れの歌をご紹介。NHK BSで放送されていた「名探偵モンク」が最終回を迎えたが、そのエンディングでしみじみと流れていた、ランディ・ニューマン(Randy Newman)の「日々のこと(When i’m gone)」。 (※英歌詞付き動画なので、以下は和訳のみ)
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「When I’m Gone」
Randy Newman
一生迎えたくなかった
お別れの時がすぐそこ
悲しむ人がいても 先へ進まないと
寂しがるのは 分かってるけど
出会ったとき 私はボロボロで
思い出すより 忘れたいことばかり
闇を抜けるまで 見届けてくれた君
寂しがるのは 分かってるけど
控え目な男だから こういうのは苦手
でも支えてもらった せめてものお礼に
お別れでなく “またね”と言おう
私に向けた光は どうか消さないで
君がいたから 私は強く成長できた
寂しがるのは 分かってるけど
君がいたから 私は強く成長できた
寂しくなるのは きっと私のほう
寂しくなるのは 間違い無く私