ファッションの第六感
新しい服に袖を通すとその日は少しだけ軽やかな気分になって、見慣れない自分に出会ったような新鮮な気持ちになる。その属性はすぐにあらかた代わり映えしない本質に吸収されてしまうのだが、確かに身につけるもので気分が左右されることってあるんじゃないだろうか。あまりしっくりしないコーディネートだったりすると、なんとも冴えない1日になってしまうから、ぼくは前夜に翌日の取り合わせをぼんやりと考えておくようにしている。時には天候に合わせて変更することもあるけれど、あらかじめコーディネートをイメージしておくクセがついてしまった。薄着の夏場よりも、重ね着やマフラーなど小物パーツが増える肌寒い季節の方がコーディネートの楽しみは大きくなる。ファッションなんてあまり興味なかった昔だったら考えられないことだ。あの頃はとりあえず着心地がよくて、それなりにまとまっていたらそれでOK。ファッションにお金をかける余裕もなかったし、楽しむという発想そのものが希薄だった。そんなぼくにも今に至る転機は何度かあったが、やはり1980年代ブームとなったDCブランドの登場が大きな契機となった。
80年代後半にはブランドショップの広告仕事が増え、お付き合いもあってコム・デ・ギャルソンのピンストライプスーツを1着購入した。当時、川久保玲率いるギャルソンはモノ・トーンのアンチモードでDCブランドブームの先陣をきっていた。このよれよれコットンのネイビースーツがどうしてこんなに高いんだよ、と躊躇したけど思い切って買ってみたのだ。おおげさに言えば、この時ぼくは閉じていたファッションという扉のノブを回してしまったのだ。不思議なことにこのスーツを着ると、フツーじゃないなにかが滲み込んできて、ぼくの心を包み込むような気がしたのだった。これはたしかに川久保玲の表現なのだが、実はぼくの内部にもこれと似た感覚が横たわっていて、この服を着ることによって呼び覚まされてしまう。その事実が洋服という媒体を通じて伝わってくるような、そんな感覚を初めて味わった。
コム・デ・ギャルソンといえば、吉本隆明と埴谷雄高の論争を思い出す。成り行きをシンプルにまとめたページを見ると、ことのはじまりは1984年、女性雑誌「an an」にコムデギャルソンを着て登場した吉本隆明を埴谷雄高が「資本主義のぼったくり商品を着ている」と批判したことだった。吉本は消費社会肯定の立場から、今までの古典的な大問題(たとえばマルクス主義の問題)と同じ資格でデザイナー川久保玲の仕事(今まで「小」問題とされてきたファッションなどの「サブ・カルチャー」)を「重層的に」とらえ評価する。雑誌「アンアン」は、吉本にコム・デ・ギャルソンを着せて登場させ、自宅のリビングを改装した書斎の「シャンデリア」のもとで仕事する吉本を大写しした写真を載せた。埴谷雄高は「それを見たらタイの青年は悪魔と思うだろう」と述べて、吉本と論争がしばらく続いたのだ。吉本隆明「重層的な非決定へ」における吉本氏の反論はこうだ。
「アンアン」という雑誌は、先進資本主義国である日本の中学や高校出のOLを読者対象として、その消費生活のファッション便覧の役割をもつ愉しい雑誌です。総じて消費生活用の雑誌は生産の観点と逆に読まれなくてはなりませんが、この雑誌の読み方は、貴方の侮蔑をこめた反感と逆さまでなければなりません。先進資本主義国日本の中級ないし下級の女子賃労働者は、こんなファッション便覧に眼くばりするような消費生活をもてるほど、豊かになったのか、というように読まれるべきです。(「コムデギャルソン店舗マップ」より)
かたや埴谷にしてみたら、吉本がぼったくりの服なんか着て宣伝のお先棒を担ぐのは我慢ならない。こんな服のどこがいいんだ?という気持ちだったのだろう。 大戦をくぐり抜け、物ひとつ無い時代から再出発した両人だったが、要するに文学の世界に住まっていて原価発想しか知らなかった埴谷さんには、思想を具現化した川久保玲の表現(あるいはアート)がもたらす付加価値そのものが理解できなかったということなのだろう。
吉本さんがギャルソンの服を着た背景にはこんなこともあった。フィリップ・ジョンソン(建築家)やウィレム・デ・クーニング(画家)などといった芸術家たちがギャルソンの服を着たポートレートの写真集を、以前ギャルソンは制作したことがあった。国外のアーティストやミュージシャンをカタログのモデルにした理由を川久保玲はこのように説明している。
「根本的な理由は気恥しさ。男性がモデルの顔で服を着ている様子を見るのが気恥しかったんです。オムの服は、人生を送ってきたことによって出てくる“何か”を待っている人に着てもらいたいというポリシーで作っています。その根本的な姿勢は、生き方つまり人で表現するしかなかったんです」
ぼくはこのモノクロ写真がいたく気に入って、何枚も選んでは黒縁額装して、仕事場や部屋に飾ったりしていた。いまも寝室の壁でこちらを見つめているのはJoseph Kosuth(Artist)なのだが、むかし田舎の親戚の家なんかを訪ねると、座敷にはかならずご先祖の肖像画がかけられていた。まだ写真技術が普及していなかった時代には遺影を(おそらくは鉛筆画による)肖像画で残すことが一般的だったようだ。不安定きわまりない現世を生き抜く我々を、ご先祖には見守っていてほしいという願いなのだろうか。先祖でなく異国の芸術家ではあるけれど、ぼくもこれらのポートレートに守護されているような気持ちになることがある。だから、暗いと家人には評判はあまりよろしくないのだが、額を下ろしたことはない。ギャルソンを着た芸術家たちもみんなけっこう様になっていたから、たぶん吉本さんも似合ってたんだと思う。
そんなことがあってから25年以上にわたって、ぼくはコムデギャルソンの服を買い続けてきたことになる。一貫してしっくりくると感じられるブランドはギャルソンだけだった。たいがい出張などで上京したついでにショップをのぞくことが多いのだが、地方暮らしではそうそうマメに通うこともできない。地元でもひいきにしているギャルソンのショップが1店あるけれど、如何せん入荷する品数が少ない。それにギャルソンは一つのデザインをそんなに量産しないからすぐに売り切れてしまい、気に入ったものを手に入れるのには運も必要となってくる。そこで一時期、新作の中からぼくに似合いそうなものをピックアップして送ってもらっていたことがあった。東京の丸の内店にセンスの良い男性スタッフがいて、彼は自分の見立てた商品を頼んでもいないのに勝手に送ってくるのだが、いつもなかなかの商品が入っているのでつい何点かは購入することになる。基本的にギャルソンはこういうことはしないし(画像を携帯に添付することすら拒否される)、後にも先にもこんなことをしてくれたのは彼だけだった。(ささやかなブログとはいえ掟破りを暴露してはまずいのかもしれない。でも、退職した彼はすでに別なショップを立ち上げているので、まぁいいか)
青山本店ではよく男優とすれ違うことがある。この人たちもギャルソン着てるのかと、ちょっと照れくさいような、複雑な気持ちになる。川久保玲も見かけたことがある。スタッフに混じって商品の並べ変えをしていたんだけど、派手なスニーカーを履いた魔法使いみたいで、小柄ながらけっこうな迫力だった。それからお隣りの、ヘルツォーク&ド・ムーロンの設計で話題となったプラダ青山店では、何と来日していたミウッチャ・プラダが、お店の長椅子に座っていてビックリしたこともあった。実物は全然、イタリアのおばさんなんかじゃなくて、とってもチャーミングな女性だった。
ファッションデザイナーという職業は、現代における欲望のシャーマンのような存在なのかもしれない。ファッションを通して表現する彼らは時代感覚と深く切り結び、同時にアートとも永続的な関係を保ちながら嗅覚を研ぎ澄まし、人々に潜在する欲望を媒介者として具現化させようとしているかに見える。彼らの提示物を身にまとったぼくらは、それに触発され、ほんの少しだけ自身に潜んでいた欲望を垣間見ることができるようになる。ファッションは自己表現であるなんてこと言う人もいるが、そうではないと思う。正確に言うなら、ファッションはブレンド(種類・品質の異なったものを数種混合すること)である。ファッションデザイナーの提示に共感した自分が、自身に内在する欲望をそこに混ぜ合わせてみて1日限りのささやかなワークショップ(体験型講座)を体験する。あるいは、それ楽しもうとする個人的行為だ。たかがファッション、されどファッション。おそまきながらぼくも、デザインの潜在力や、そこから生み出される付加価値に投資することの意味を、これらの積み重ねを通じてほんの少し理解できるようになってきた気がする。
また、ギャルソンは販促物にもファッションという領域を超えて果敢な取り組みをみせてきた。定期的に届くダイレクトメールにはいつもギャルソンがキャッチした「今」がさりげなく折り込まれているが、なんといっても白眉は1988年から1991年までに8巻発行された雑誌『Six』だろう。この期間は日本のバブル景気とピッタリ重なるわけで、仕様も相当ゴージャスだった。一部の顧客向けに少部数のみ発行されたこの8巻は、今や伝説のビジュアル誌となっている。大判サイズ(393×296mm)の各号はソフトカバーに納められ、カバーにバーコ(盛り上げ)印刷などを多用した手の込んだビジュアルブック仕立てとなっている。基本的には本文はファッション写真で構成されているが、もちろん服のディテールを伝える単なるファッションカタログではなく、ページを埋めるのは服のメッセージを伝えるために再解釈されたビジュアルの数々だ。こうした大胆な試みはプロデューサーである川久保はもちろんのこと、編集の小指敦子、アートディレクターの井上嗣也両氏の手腕によるところが大きい。(ぼくは密かに『Six』は井上さんの代表作だと思っている) 当時『Six』がどういった戦略で活用されたのかは定かでないが、ぼくの手元には1号と7号を除く6号分が残っている。ギャルソンのショップスタッフも耳にはするものの、実物は見たこともない伝説の雑誌だそうで、「6冊あるよ」と言うと驚かれたりする。しかも古書ネットではコレクターズアイテム化していて、各号15,750円〜30,000円とか、なかには美本全冊揃で20万!なんて値がついていたりしてビックリ。
『Six』とは「Sixth Sense=第六感」の意。このメディアについてギャルソンの広報を担当している武田千賀子さんはこのように語っている。
「アートとは思っていません。根本に必ず服を買って、着て下さるお客様の存在があるわけですから、その方たちに最も正しく伝える方法を考えるんです。ただ、一貫した美意識というのはあります。それがビジネスの基盤になっているんです。既成の方法で現せない“何か”を感じた人は「第六感」ということを言う。それはどこにあるのかわからない。灰色の脳細胞の奥の方? DNAの鎖の間? しかし確かに存在する。その証言になるかどうかはわからないが“シンパシー”という現象がある。言葉でもなく、もしかしたら洋服自体ですらないものに魅せられて集まってくる人がいて、結果として、服に身をまとい、そのことに喜びを感じる。そして流行が生まれる。ファッションの会社ですから、服で訴えることが当り前の手段ですよね。けれども最近思うことは、今、7つのブランドを持って、家具も手がけていて、そのすべてに共感するスピリットが、コム・デ・ギャルソンの本質なのではないか。そういうデザイン・パワーを持つ会社として考えていくことが、すなわちファッションを訴える方法じゃないかと感じているんです。もしかしたら遠回りかもしれないけど、大きな意味でコム・デ・ギャルソンの方向性を示すことにつながるではないかと・・・。そのスピリットのようなものは、必ずしも服でダイレクトにつたえるものではないし、言葉や体で表現できない、五感以外の感覚に訴えるものではないか。そんな思いをタイトルに込めてみたんです」
確かに『Six』には、バブル景気に浮かれる当時の世相にくさびを打ち込むような、無愛想で硬質な美が隅々にまで充満していたし、ぼくの「第六感」など怪しいものだが、『Six』にインスパイアされたことは間違いない。だから余計、ここ1〜2年、新作がなかなか心に響いてこない状況が何とももどかしい。往年の照射力が弱くなってきたのか、はたまたぼくの感性がずれてきたのか…。デザインやアイデアにリフレインを感じることが多くなり、出向いてみたものの結局欲しいものがなくてショップをあとにすることも少なくない。(ぼくはMen’sしか見てないので、これはあくまでも個人的な感想にすぎないのだが)仕方なく最近は複数の海外ブランドを放浪しながら、コーディネートを模索する日々が続いている。
そんなある日、あの『Six』をアプリ化したiPad App「Moving Six」を、ギャルソンが1年ほど前にリリースしていたことを知り、さっそく入手してみた。「Moving Six」はその名の通り、『Six』のエッセンスを再構成して視覚と聴覚に訴えかける動画アプリだ。クレジットを見るとDeveloped by Rei Kawakubo 以外は、すべて海外クリエーターの手によるものだ。『Six』ほどのインパクトはないが、これはこれでギャルソンらしさが凝縮されたメディアとして鑑賞することができる。ギャルソンによるギャルソンへのオマージュといったところか。(「Moving Six」は無料で現在もiTunesストアからダウンロードできる)。
『Six』から「Moving Six」までの20数年間、ぼくらを取り巻く環境は想像を超えるレベルで激変した。大きく変わってしまったこと。何一つ変わっていないこと。それを見極めることが必要だ。川久保玲が一線を退かない限り、ギャルソンのスピリットは不変であろう。服を身にまとうことで、欲望をブレンドする楽しみを教えてくれた彼女のことだ。そのうち、はっと息を呑むような新作でスピリットの健在ぶりを見せてくれるに違いない。