佐藤晃一さんたちのこと
木枯らし舞う新橋駅に降り立ち東銀座方面に歩き出したものの、久しぶりの新橋駅周辺は景色が一変していてすっかり道に迷ってしまった。それでもなんとかリクルートビル1FにあるクリエイションギャラリーG8に辿り着き、「絵とコトバ 三人展」に入場。同郷で高校美術部の大先輩イラストレーター若尾真一郎さんと、お世話になりっぱなしの佐藤晃一さん、そして3度ほどお目にかかって親しくお話ししていただいた安西水丸さん3人組による(確か2度目の?)デザイン展である。ぼくは地方都市に住んでいて余程のことがなければデザイン展には足を運ぶこともないのだが、この3氏の表現に触れることは特別な意味あいをもっている。それはデザイナーになってから節目節目で少なからぬ影響を受けてきた人物がいま何を考えているのだろうと確認することの楽しみのようなものなのかもしれない。
若尾さんと安西さんは共にデザイン界を代表するイラストレーターとして、それぞれに独自の表現世界を築いている。イラストレーションというのは不思議な領域だ。あの世とこの世の仲立ちをするシャーマンのように、企業と顧客、ワタシとアナタ、ボクらとキミたち、ココとソコを繋ぐさまざまなイメージを紡ぎ出し、代弁者であり表現者であり、そのいずれでもない謎の絵師として、寄る辺なき身でこの世を浮遊しているように感じられる。しかも画家のように老成することも許されないという過酷な職業でもある。
佐藤さんはグラフィックデザイナーの大先輩である。深くて広い知性を背景に、これまた類例のない表現世界を積み上げてきた。僭越ではあるけれど、いつも佐藤さんの作品には、クレバーな濾紙で抽出されたデザインのエッセンスが見え隠れしていると思うのだ。もちろん真似できるはずもなく、ただただ呆けたようにその出来栄えに感嘆し、見つめ続けるしかないのだが。
今回の試みは、自作の俳句にグラフィックを添えるというもので、題して「俳グラ」という新領域への挑戦。(これはますます真似できないぞ)まず何といっても佐藤さんの句が深い。安西さんらと長年本郷で続けていたという句会の成果のたまものか。素人の域をとうに超えてグラフィックとしっかり拮抗している。日本には俳画というジャンルがあるが、この「俳グラ」には縦組みの俳画に対して横組みジャンル誕生といった趣がある。もちろん、いつものクレバーな濾紙で「モダンな和」がブレンドされているから、それは作品などという肩ひじはったものでなく、上質な遊びが佐藤さん特有の含羞とともにそっと差し出されているような印象を受ける。これは決して単なる「デザインごっこ」ではないと思う。(単なる「デザインごっこ」のいかに多いことか!)そこには必然からしっかりと生み出された表現がある。
さらに佐藤さんは文章の達人でもある。その昔、ぼくは中村とうようさんが出版していた「ミュージックマガジン」(その後「ニューミュージックマガジン」に誌名変更)という音楽雑誌を定期購読していて、80年代そこに連載されていた「YES EYE SEE」というコラムを愛読していた。音楽だけでなくデザインや絵画に関する考察も多かったので、この人ちょっと風変わりな音楽評論家だなぁ、なんて勝手に思いこんでいたぼくが、筆者である佐藤晃一という人物が実は新進気鋭のグラフィックデザイナーだったことを知ったのは、それからずいぶん後のことだった。考察は明快、簡潔、そしてほんの少しのアイロニーがふりかけられている。その塩梅が実に佐藤さんらしくて、この印象はご本人と会話してみてもまったく変わることがない。最後にその名文を、『ミュージックマガジン』「YES EYE SEE」第19回1983年7月「空のパノラマ」より、文末だけちょっと長めだが抜粋してみたい。
※なお、三人展は2月8日まで開催。まだ間に合いますので機会があったらぜひどうぞ。
「…雲ひとつない青空、灰色一色の空、月や星の空…今でも空はいつも、ぼくにはサイケデリックなものに見える。人からは「君はサイケデリックの正しい意味を知らぬのではないか」と言われそうだが、そんな風に空のことやサイケデリックの意味を取りちがえて風景をながめていられるうちは、ぼくも仕事が続けていけそうに思っているのだ。だから今でも仕事の手を休めて、空の写真を撮ることがある。いずれそのフィルムを使って作品を創りたいと、下心もあるにはあるのだが、どうやったらそれが作品などになるのか、現像所から帰って来たスライドをながめては、きまって途方に暮れてしまう。それでもシャッターを切ってしまうのは、自分にとって空を見ることが、今も永遠のポルノだからなのだろう。空色の向こうに広がる満天の銀河が、頭の裏がクラクラするような子供の頃のステキな視覚体験を、いまだにぼくにそそのかしてくるからなのだろう。遠くの空に向かってシャッターを落とすと、自分が光の速さで空のスクリーンに激突するような錯覚に襲われる。見ることはぼくにとって、いつも臨時ニュースなのだ。」