上から2点は典型的な吉田のうどんイメージと自宅の座敷をランチタイムだけ開放する吉田の伝統的スタイルのお店。(画像は「みさきうどん」の店内)その下3点は格差社会のイメージ画像類。下の2点はフォークシンガーの故 高田渡と息子の高田漣。

吉田のうどんと格差問題

Yoshida Udon
2017.9.01

12年ほど前のある時期、ぼくは知人のTさんと往復書簡もどきメールを交換しあっていた。Tさんは高校の2年先輩にあたる人で、大学卒業後の出版社勤務を経て、100年近く続く実家の家業を引き継ぐために山梨に戻ってきた。40年ほど前のことだった。精力的に県内観光業界の牽引役として活躍してきたTさんは、ある時自身の店舗で販売する土産品に満足できないからと、オリジナル商品の開発を思いたった。それから単独土産品店としては例を見ないほど多くのPB商品を企画開発していくのだが、ぼくはその時期にTさんと引き合わされる機会があって、一手にデザインを託されることになった。
ぼくらには多くの共通点があったのだが、ぼくに持ち合わせていなかった能力をTさんは持っていた。Tさんは何事にも興味を示すと、抜群の理解力を発揮して「難しく考えることはない。簡単なことだよ」と言ってはすぐにマスターしてしまう。そんな人並み外れた集中力や実行力を持っていた。それは典型的なお旦那気質といえるものだった。しかし、弱点は多くの旦那衆がそうであるように、達成した途端に飽きてしまい、次の対象に興味を移してしまうことだった。それはそれでフレキシブルであるともいえるし、事業を展開していく上では、その気質が有利に働くこともある。
逆に生来不器用な人はどうだろう。別に法則があるとは思わないが、道を究めたと評される人物は、往々にして出だしにおいてつまずくケースが多いような気がする。絶望的なほど不器用だったり、呑み込みが悪かったり、とにかくなかなか順調とはほど遠い滑り出しにもかかわらず、粘り強く高い志に向かう牛歩の歩みから次第に輝きを増してきたりする。持って生まれたこうした気質によって、その後の人生の歩み方が別れていくということが多々あるようだ。
その後、日本の観光業は時代意識や購買意識の変化によって大きく変革を余儀なくされていくことになった。やむなくTさんは、マスターした蕎麦打ちを活かして、その地域に伝わる伝統料理を継承する蕎麦屋を開店し、蕎麦打ち道場も主宰して、家業を土産品店から徐々にシフトしていくことにした。往復書簡は丁度そんな時期に交わされたものだった。以下の抜粋は、他愛もないうどん談義から格差問題へとテーマを移しながら、当時のぼくらの変化に対する戸惑いや考察が反映されている。

〈食後感想文〉
ごぶさたをしています。気がつけば、季節はすでに春から初夏へと移ろい、日々の流れに翻弄される我が身を憂える今日この頃であります。
ところで先日、甲斐絹に関する仕事で富士吉田に行った折、昼食にと誘われ、当地の繁盛店と誉れ高い「うどん屋」に連れていってもらいました。江戸末期から昭和にかけてこの郡内地方の基幹産業は養蚕や機織りでしたが、その担い手となっていた忙しい女性に代わって炊事を受け持った男性たちが強い力で地粉をこねて打ったのが、コシ、硬さ、太さを特徴とする吉田のうどんの始まりだと言われてますね。
着けばびっくり、入口には10人ほど入店待ちの行列が。駐車しているナンバーをチェックすると半数以上は近県のものでした。これは期待できるぞと、はやる心を抑えてテーブルにつきました。地元の人は最低2品頼むものだと同行者に促され、ぼくは「つけうどん」と「肉うどん」を注文。(「肉うどん」、吉田では馬肉です。細かなバラ肉が申し訳程度脇に添えられているのです。)麺の硬さは吉田としては平均的なものだそうですが、食感は正直言って相当な固さです。すいとんの長い棒をきざみキャベツと一緒に噛みしめながら、これは一種の苦行だと思いました。悪戦苦闘するぼくが食べ終えるのを待ちきれず、連れ達はさらにもう1品追加注文するではありませんか。もう、信じられません。唯一こだわりを感じたのは、お店が独自にブレンドしたという七味唐辛子だけでした。
それにしてもまったくこんな食べ物に、行列してまで群がる現象を一体どう理解したらいいのでしょう。これからやって来る総低収入化社会に備えてのサバイバル・トレーニングか、はたまた幼年期の恒常的な粗食生活へのノスタルジーなのか、謎は尽きません。まぁ、行列といっても、狭い店内の非効率なテーブル配置やうどんが無くなり次第商い終了の3時間という営業時間を考えたら、さほど驚くこともありませんが…。甲州はいろんな意味で本当に貧しい地域なのですね。その貧しさを逆手にとって、しぶとく商売にしてしまうのも甲州人特有の智恵なのでしょう。バブルを潜り抜けてきた日本人には、貧しさだって今や立派なトレンドなのかも知れません。今の自分たちを支えているバックボーンは、実はこうした貧しさなんだと実感するために、時折長いすいとん棒と格闘するのも、それはそれで意味ある行為と言えなくもありません。逆説でなく、貧しさの中に新種の豊かさを発見しなくてはならない時代になってきたのだと思います。Tさん、このあたりにこれからの商売を切り開いていく鍵が秘められているような気がするのですが、いかがなものでしょう。

〈Tさんからの返信〉
「貧しさの中から新種の豊かさを発見する」。確かにそうともいえます。しかしながら、貧しい人たちを相手に商売として成功するには、かなりの規模とボリュームが必要となり、したがって資本力が必要となるのではないでしょうか。つまり、一億総中流意識から、じわじわと富めるものと貧困層の二極化の傾向を感じます。
これもアメリカを手本としてきた日本経済の当然の帰結かもしれません。あくまでも経済的な豊かさを追求したい人と、あきらめながら貧しさの中に言い訳のように精神的な豊かさを求める人たちです。自分がどちらに属するのかは言うまでもありませんが、下手をすると大貧民になりかねない現在の経済環境の中、小金をしっかり抱いて、生きている間、飢えることの無いように願うばかりです。これが凡人の考え方であり、このような人たちを相手に大もうけできる人は、一握りの大金持ちなのでしょう。不思議なことに、お金はお金が大好きで、磁石に吸い寄せられるように大金持ちの所に吸い寄せられて行きます。まとまったお金を持っている人には、金利でさえも10%ぐらいは稼げる経済環境です。 10億円で年間1億円 20%税金を払っても8.000万の収入です。一方1.000万程度では0.01%の金利を稼ぐのもやっとです。
こんな時代では、まともに働いて収入の無いときに備えることなどできるはずもありません。若者に勤勉な労働を期待することも出来ず、刹那的な生き方をとがめることも出来ません。いっそのこと、階級制度で一攫千金が実現不可能な社会を選択したほうが幸福感を得やすいのかも知れません。誰もがビルゲイツになれる可能性を持つ時代のほうが多くの不幸をもたらすことになるのではと考えたりします。最善でも金持ち層から少しでも掠め取るべく、スキルを積み上げて小規模な展開しか出来ないのがほとんどの小商売人の行く末ではないでしょうか。深く考えず、刹那的な幸福感が少しでも続けば良いと考えられる人たちは幸せです。そういう幸せな人になれればとも思います。

〈再びTさんへの返信〉
懲りもせず、また返事を書こうとしているぼくは、たぶん暇なのです。今日いっぱいまでは、かなり呑気なのです。忙しいTさんは律義にこんなぼくにつきあう必要ありませんからご一読後はどうぞ忘却の彼方へとご出発ください。
おっしゃるように、このまま貧富二極化の流れがさらに加速されていくことは必至ですね。貧困層を餌にしながら資産家は肥大し続け、膨大な数にのぼる貧民が、一握りの大金持ちを支えていくような経済システムは益々強固なものとなっていくでしょう。貧困層全域に疫病のように蔓延する絶望と諦観。考え得る貧困層の抵抗など、それこそ富裕層の想定範囲内にすっぽりと収まるような限定的なものでしかないといった、市場世界はまさに出口なしの絶望的状況です。
さらに、こうした強固な経済システムが送り出してくる商品や仕事が人々の暮らしそのものを壊していることも事実です。「仕事が暮らしを壊す」。高度成長期に誰がこんなことを想像したでしょう。勤勉な日々の集積の結果が、自らを絶望的に貶める強固な経済システムという怪物を育て上げ、壊れた暮らしの中で不安におののく荒廃した諦観しか残すことができなかったとは…。「豊かな物質に囲まれた貧しい心」にまつわるお題目は、経済システムの周囲を堂々めぐりしながら「だからといってどうしようもないじゃん」化石となって思考を鈍化させるか停止させようとしています。金持ちが幸せなのか不幸なのかなんてまったくぼくの想定外だし、知ったこっちゃないのですが、いかにこの息苦しい世界が人間の想像力を破壊してしまっているのか、日々の報道から絶え間なくぼくらに向かってこうした現実が突きつけられてきます。もはやぼくたちの現代が何を失ってきたのかは、はっきりしています。
先日(2005年4月16日)、出演先の北海道で急死してしまったミュージシャンの高田渡さんがつくった曲があります。広場で並んで腰かけ息子に語りかける「漣(れん)」という曲です。(「漣」は彼の息子の本名です)

『漣(れん)』
漣とぼくは居る
二人で居る
野原に座って居る
空を見上げて居る
「見えるものは みんな人のものだよ」
「うん」と漣は言う
親のぼくも頭が悪いが、どうやら息子も似ているらしい
「見えないものは みんなぼくらのものだよ」
「うん」
「腹減ったか?」
「腹減った」
(Fishin’on sunday の収録曲で、中川イサトのアコギ演奏をバックに、高田渡がボソボソと朗読している)

貧乏人で頭の弱い父親が息子に語りかけます。「見えるものはみんな人のものだよ。見えないものはみーんな、ぼくらのものだよ。」神様は想像力をちゃんと貧乏人のために残しておいてくれたのです。そんなの負け犬の言いわけだ、となじる人もいるでしょう。でも、想像力がお金で買えるわけではありませんよね。市場経済の合理性からは決して生まれることのない、個別性に満たされたものは確かに存在し得る。想像力によって結びつけられた関係性の中で成立する商品というものだってあるはずです。それがぼくは「貧しさの中の新種の豊かさ」なのだと思うのです。でも、これって少しも新しいことなどではないのですね。今や手のつけられないモンスターに成長を遂げてしまった経済システムが、数値化することのできない貧しさの中に息を殺して潜んでいた豊かさを、一周した「新しさ」へと押し上げているだけなのかもしれません。個人として、この世界がつくられている常識に従って生きる必要はない。そう考える人が一人づつ増えていけば、いつかいつか世界は変わっていく。楽観的にそう信じたいものです。
*
さて、それから12年後のぼくらはといえば、「加齢」は間違いなく忍び寄ってきてはいるものの、いまだ「枯れて」はおらず、「侘び」、「寂び」とも無縁。相変わらずぼくの仕事は、de(前に=未知の=見えないもの)sign(しるすこと=形を与える)。「見えないものは、みんなぼくのものか?」。それを可能にする想像力がはたして心のどこかにまだ残っているのか、自問の日々は続く。


Blog Contents