平時のニューヨークには人波み
封鎖された中国武漢
人が消えたアメリカ首都ワシントン
銀座八丁目からは一丁目が見通せる
コロナ禍のフランスの街並み
週末の東京銀座
最大の感染者数の出たニューヨーク
スーパーの棚から商品が消えたスペイン
まるで戦時中のようなイタリアの光景
ロックダウンされたイギリス
インド・ムンバイにて(2020年4月5日撮影)。(c)AFP /Punit Paranjpe
スペイン・マドリードにて(2020年3月28日撮影)。(c)AFP / Gabriel Bouys
Eric Kaz

コロナのあとさき

COVID-19
2020.5.01

基本的に時事ネタは避けることにしているが「3.11」や、いま世界を覆い尽くしている「新型コロナウイルス(COVID-19)」はそうもいかない。現在も4月7日7都府県に発令されて、その後全国にまで拡大された緊急事態宣言期間のただ中。年明けから今日に至るまで、日増しにあふれ出してくるコロナ情報に辟易しながらも目をそらすこともできず、次第に心が疲弊していく。感染を広げない基本的な対処法の啓蒙は重要だが、テレビをつければ、連日増えていく感染者数が報告され、ヒタヒタとウイルスが身近に迫ってくるぞとささやきかけてくる。フェイクやデマには惑わされないでと言いつつ、それらに踊らされる状況が報道され、人影の消えたニューヨークの街並みが映し出されると、まるで映画を観ているような錯覚に陥るのだがすぐに、いやこれは現在進行形の出来事なのだと思い直す。よく指摘されていることだが、このパンデミックを作りだした最大の要因は、人間の移動拡大を持続する現在社会の構造が生み出したもので、本来なら中国の武漢という一地域の風土病に過ぎない疫病がここまで急拡散されることもなかったはず。新型コロナウイルス厄害は第2次世界大戦以来の試練であると国連事務総長は危機感をあらわにするが、そんな喧噪の中でも春になれば桜が咲く。しかし今年はことのほかもの悲しい春の光景だ。75年前、東京はこの桜の季節に空襲にあって上野の山で焼け残った桜が花を咲かせたが、花見客はひとりもいない。作家の坂口安吾は、満開の桜の下には「人間の気と絶縁した冷たさ」があったと記していると紙面に紹介されていた。(朝日新聞「日曜に想う・4月12日)今年の「絶縁した冷たさ」は空襲などでなく、集うことを許さぬ疫病への恐れによるもので、そこに不穏な世情によって消えた笑みとともに尖った感情も投射されている。また、「カドメイアの勝利」というギリシャ神話に由来することわざも紹介されていた。勝つには勝ったが負けたのに等しい打撃をこうむる、そんな勝ち方のことをいう。いま起きつつある深刻な経済への痛手のことだ。ウイルスは封じても、刺し違えるように多くの人が困窮の波間に沈んでしまう恐怖が世界中を暗く覆いはじめている。そもそもこの新型コロナウイルスには打ち勝つという言い方があてはまるのだろうか。
新聞を開くと、昨夜のテレビ報道が活字でリフレインされ、やや学術的な説明が付け加えられているのだが、ぼくらに日々届く情報はどのくらい信じられるものなのだろうという疑問もわいてくる。連日不安感を煽る報道番組を眺めていてもなかなか新型コロナウイルスの実体は伝わってこない。そこで、いま分かっている事実だけでもきちんと知りたいと思い、情報ソースをTVからYouTubeに切り替えてみると、堀江貴文さんのホリエモン・チャンネルで「新型コロナウイルスについて専門家に聞く!」という番組が目にとまった。前編と後編で計45分ほどのインタビュー番組で、堀江さんと米国国立衛生研究所のアレルギー感染症研究所・博士研究員である峰宗太郎さんとのやりとりは興味深かった。堀江さんは一般人の抱く疑問点を整理して的確に質問していた。対して、峰さんは科学者としての視点から、やや感染しやすく毒性も高めに変異した新型コロナウイルスの特性や、これまでに判明していること、そしてまだ分かっていないことなどを科学的に明快に説明していた。例えば人間のDNA(二重螺旋)に対してウイルスの遺伝子はRNA(一重螺旋)なのでエラー訂正されにくく非常に変異しやすいとか、今回の新型コロナウイルスは鼻水に含まれる量がとても多い。その飛沫が様々なものに不着することによって引きおこされる接触によって感染する可能性がとても大きいとか、基本的なウイルス特性のレクチャーには成る程と納得するものがたくさんあった。渡航制限はピークコントロールのひとつの手法として、医療のキャパを上げておくまでの時間稼ぎという点では意味があるが、感染を防ぐ決めてとはなりにくい。また終息に関しては、ウイルスを押さえ込んだとか症例が無くなったというような臨床的なことではなくて、社会がどこまで許容したかということと、治療法が開発されたりワクチンが出てきて恐るるに足らなくなり、行動が落ち着いてきたときなのではないか。つまり、季節性インフルエンザのように社会的に許容されて一応の安全を得たという感覚を人々が抱いたときにはじめて終息と言えるのではないかという。
そして今回顕著なのは、ぼくらを取り巻く環境変化。2014年の新型インフルエンザの時と大きく状況が変わったのはSNSの爆発的発達。これによってウイルスとは別種の不安感が巻き散らかされている現状がある。WHOはインフォデミックという言い方をしているが、まさに情報が感染している状況がコロナ禍に折り重なっている。ただ暗い話しだけではない。いま世界中の科学者たちが、同時進行でこのウイルスに立ち向かっているという明るい状況も伝わってきた。世界の人があまねく安全と安心を得たという、その日に向かって昼夜活動し続けてくれていることが今日の微かな光明となっている。そしていま、心しなくてはならないのは、判明している情報を元に「正しく恐れる」こと。
これまで、ぼくはウイルスについて何一つ知らなかった。「正しく恐れる」ためには「正しく知る」ことも重要だ。生物学者の福岡伸一さんが新聞で連載している「動的平衡・ウイルスという存在・生命の進化に不可避的な一部」を読むと、少しだけ理解することができる。やや難解な記述もあるが全文転載する。

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ウイルスとは電子顕微鏡でしか見ることのできない極小の粒子であり、生物と無生物のあいだに漂う奇妙な存在だ。生命を「自己複製を唯一無二の目的とするシステムである」と利己的遺伝子論的に定義すれば、自らのコピーを増やし続けるウイルスは、とりもなおさず生命体と呼べるだろう。しかし生命をもうひとつの別な視点から定義すれば、そう簡単な話にはならない。それは生命を、絶えず自ら壊しつつ、常に作り替えて、あやうい一回性のバランスの上にたつ動的なシステムである、と定義する見方-つまり、動的平衡の生命観に立てば-、代謝も呼吸も自己破壊もないウイルスは生物とは呼べないことになる。しかしウイルスは単なる無生物でもない。ウイルスの振る舞いをよく見ると、ウイルスは自己複製だけしている利己的な存在ではない。むしろウイルスは利他的な存在である。
今、世界中を混乱に陥れている新型コロナウイルスは、目に見えないテロリストのように恐れられているが、一方的に襲撃してくるのではない。まず、ウイルス表面のたんぱく質が、細胞側にある血圧の調整に関わるたんぱく質と強力に結合する。これは偶然に思えるが、ウイルスたんぱく質と宿主たんぱく質にはもともと友だち関係があったとも解釈できる。それだけではない。さらに細胞膜に存在する宿主のたんぱく質分解酵素が、ウイルスたんぱく質に近づいてきて、これを特別な位置で切断する。するとその断端が指先のようにするすると伸びて、ウイルスの殻と宿主の細胞膜とを巧みにたぐりよせて融合させ、ウイルスの内部の遺伝物質を細胞内に注入する。かくしてウイルスは宿主の細胞内に感染するわけだが、それは宿主側が極めて積極的に、ウイルスを招き入れているとさえいえる挙動をした結果である。
これはいったいどういうことだろうか。問いはウイルスの起源について思いをはせると自ずと解けてくる。ウイルスは構造の単純さゆえ、生命発生の初源から存在したかといえばそうではなく、進化の結果、高等生物が登場したあと、はじめてウイルスは現れた。高等生物の遺伝子の一部が、外部に飛び出したものとして、つまり、ウイルスはもともと私たちのものだった。それが家出し、また、どこかから流れてきた家出人を宿主は優しく迎え入れているのだ。なぜそんなことをするのか。それはおそらくウイルスこそが進化を加速してくれるからだ。親から子に遺伝する情報は垂直方向にしか伝わらない。しかしウイルスのような存在があれば、情報は水平方向に、場合によっては種を超えてさえ伝達しうる。それゆえにウイルスという存在が進化のプロセスで温存されたのだ。おそらく宿主に全く気づかれることなく、行き来を繰り返し、さまようウイルスは数多く存在していることだろう。
その運動はときに宿主に病気をもたらし、死をもたらすこともありうる。しかし、それにもまして遺伝情報の水平移動は生命系全体の利他的なツールとして、情報と交換と包摂に役立ってきた。いや、ときにウイルスが病気や死をもたらすことですら利他的な行為といえるかもしれない。病気は免疫システムの動的平衡を揺らし、新しい平衡状態を求めることに役立つ。そして個体の死は、その個体が専有していた生態学的な地位、つまりニッチを、新しい生命に手渡すという、生態系全体の動的平衡を促進する行為である。かくしてウイルスは私たち生命の不可避的な一部であるがゆえに、それを根絶したり撲滅したりすることはできない。私たちはこれまでも、これからもウイルスを受け入れ、共に動的平衡を生きていくしかない。 (朝日新聞「福岡伸一・動的平衡」4月3日掲載より)

※註:動的平衡(どうてきへいこう、英語:dynamic equilibrium)とは、物理学化学などにおいて、反応が停止した状態にあるのではなく,正方向と逆方向の反応速度が等しくなったため,見かけ上は反応が停止したように見えること。すなわち,平衡は外見上静的に見えるが,実際は動的状態にあると考える。

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これが科学的な視点が示す厳格な現実というものだ。ウイルスと向き合う心構えとするしかない。それにしても、この国の政府の対応を見ていると、危機管理の脆弱さが無残なほど浮き彫りになってくる。危機的状況に対してまったく素人だった事を露呈した政治家たちや偏差値の高いとされている高級官僚たちが次々と繰り出す信じられないほど拙い発想の数々を見せられると、これはもう生き残る工夫は自分でするしかないんだという気持ちになってくる。誠意の裏打ちを欠いた何という空疎な言葉の羅列。
翻って、3月18日にドイツのメルケル首相が国民に向けてテレビでスピーチした演説和訳を読むと、民主主義を根幹に据えた国のリーダーが下した政治決定は透明性をもった明瞭なものだった。量子化学の博士号をもち、研究者だったメルケルは、ウイルス研究所や科学者たちの意見を参考に、出来る限り事実を正確に把握した上で問題を整理して、国が何をすべきか、そのためになぜ国民を必要としているか、そしてひとり一人が何が出来るか、分かりやすい言葉で、しかし強い決意を秘めて語りかけていた。そして、彼女は次々と具体的な対策を打ち出し、広い層の信頼を取り戻した。それまで下がっていた支持率をV字回復させた言葉の力。彼女が言うのだからそうしようと多くの人たちが考えたのは、深い疲労をにじませながら残った力をふりしぼるように、民主主義と科学的事実の最大公約数を理性とともに自身の言葉で語りかける人物への信頼感からだろう。ナルシストな政治家が目立つ現在の世界の中で、カリスマ性を感じさせないメルケル首相はとても貴重な存在に思えてくる。日本と同じ敗戦国であるドイツには、信じるに足る人物を自国のオープンな民主主義国家のリーダーに選んだ人々の成熟度の高さを感じる。さらに印象的だったのは、この状況で文化を守る強い姿勢を打ち出していることだ。芸術、文化に関わっている人たちへの申請と受給は何よりもスピード重視し、申請は自己申告のみとする。詳細な審査は後にすればいい。生き延びてもらうことが先決だという判断。(補助金詐欺は刑罰の対象にとなり、後々に詳細な審査がある)手厚い支援の背景にあるのは、ドイツでは文化や芸術が重要な産業の1つであるという事実だ。と同時に、何百万人もの人々が苦しめられた自由のない独裁の日々があったドイツの歴史が、芸術や文化の自由を高く評価する要因の一つとなっているのだろう。このような状況だからこそ、ないがしろにされがちな文化が大切にされていると実感できることは素晴らしい。
先日、Facebookで知人がシェアしていたアメリカの都市フレズノの在住するNancy Moraという女性がソックスをマスクに作り替える実演映像を観た。なるほど人間にはブリコラージュという知恵があったんだ、グローバル化で失ったのはこうした知恵なんだと思い至る。コロナは熱に弱いので、繰り返し使えるようにマスクも煮沸したり乾燥機に入れたり(電子レンジも試してみた)、紫外線にも弱いので日干しも効果的だ。また、紫外線殺菌機も有効なんだから、日焼けサロンは機器をマスク除菌サービスに業務転換するとか、マスクが買えないかとドラッグストアに列をなす前に工夫できることはいろいろあるはずだ。
絵本作家の五味太郎さんは愛情をこめて「ガキ」と呼ぶ子どもたちへ、これがチャンスだと呼びかける。先行してFacebook、そして朝日新聞に掲載されたメッセージはとてもシンプル。

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(前略)むしろおれ、ガキたちにこれがチャンスだぞって言いたいな。心も生活も、乱れるがゆえのチャンス。自由なんてのは存在しなくて、あると思うから不自由を意識しちゃう。誰でも引力や天気にあらがって生きてるわけだし、鳥は自由でいいななんて言うのは、鳥の大変さ、不自由さをわかってない人。不自由なのは前提だもん。限られた材料や選択肢の中で、悩むしかない。大人も子どもも。これを機に、十分悩みましょうよ。(#withnews)

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子どもにとって教育は「権利」だと憲法に書いてあるのに、6歳になったら必ず小学校に行き、しかも学校も先生もほぼ選べない。……これに耐えれば卒業証書、修了証書、退職金と続いていく。で、疲れちゃって考えるのをやめていく。それを繰り返しているうちに、自分が何がしたいかわからなくなっていく。……だから、チャンス。だって、学校も仕事も、ある意味でいま枠組みが崩壊しているから、ふだんの何がつまらなかったのか本当は何がしたいのか、ニュートラルに問いやすいときじゃない?働き方も国会も、色んなことの本質が露呈しちゃってる。五輪延期も、オリンピックより人の命って結構大事なんだなとやっと再認識したんだろうし、優先順位がはっきりしてくる。感染者が何人、株価がどう、と毎日ニュースで急カーブのグラフばかり見せられて、グローバルと言っても、心でグローバルしてたんじゃなくてお金がグローバルしてただけなんだとしみじみ思うよね。……戦後ずーっと「じょうぶな体」がいいと言われてきた。それはつまり、働かされちゃう体。「かしこい頭」っていうのは、うまく世の中と付き合いすぎちゃう頭で、きりがないし、いざという時に弱いからね。今こそ、自分で考える頭と、敏感で時折きちんとサボれる体が必要だと思う。心っていう漢字って、パラパラしていていいと思わない?先人の感性はキュートだな。心は乱れて当たり前。常に揺れ動いて変わる。不安定だからこそよく考える。もっと言えば、不安とか不安定こそが生きてるってことじゃないかな。(朝日新聞4月14日 絵本作家 五味太郎さんから「ガキ」たちへ。「休校はチャンスだぞ」より抜粋)

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新型コロナウイルスの出現で、あきらかになってきたことがたくさんある。ずっと棚晒しにされていた問題点も浮き彫りになってきた。コロナ前と、コロナ後。元通りになれば安堵できるのか。息を潜めて過ごす生活にも慣れてくると、コロナ前の世界は本当はかなり歪んだものだったんだと気づかされてハッとする。これがひとつのターニングポイントとなるかもしれないという予感。そんないまの心境に一番近いテキストがある。それは、「ウィルスの独白 LUNDIMATIN」。「わたしが葬り去るのはみなさまではありません。一個の文明を葬り去るのです」というウィルスの独り言。フランス語のオリジナルサイトをデザインはそのままで和訳したサイトがあるが、ちょっとクセのある訳なので読みにくい。夜光社という出版社が運営するサイト「HAPAX」にもLUNDIMATINで3月21日に掲載された「ウィルスの独白 LUNDIMATIN」の日本語訳がアップされていて、こちらの訳の方が断然読みやすい。長文だが、ぜひこちらから一読を。
最後にこんなときだからこそ、穏やかな気持ちにしてくれる楽曲がほしくなる。1970年代、ぼくが愛聴していたEric Kazというアメリカのミュージシャンがいた。歌が上手いわけでもなく、美声でもない。でも、彼の歌声は誠実さにあふれている。それは、自身の奥底からわき上がってくる感情をまっすぐに伝えようとする誠実さだ。真っ暗な森に足を踏み入れ、一歩一歩を感じながら歩き、そして黄金を掘り当てたような、宝くじに当たったような、恋に落ちたような、空からの落雷をガラス瓶に閉じ込めるようにして出来た曲を(Eric Kazによる書き下ろしエッセイより引用)オーバーダビングせずに1度か2度の完璧な演奏で全てが上手くいくように試みる。そんな姿勢で自分の音楽と向き合っていた彼が、なんと41年ぶりに素敵なアルバムを作ってくれた。(リリースは2015年)それまでの期間、彼はソングライターとして多くのミュージシャンに素晴らしい曲を提供してきた。そして、突然またアルバムを作ってみようと思い立ち、新たに誕生した7曲は彼の希望で楽曲はダウンロードでなくCDのみ。でも2曲だけはYouTubeでも視聴できる。ぼくの一番好きな「Sanctuary」も入っていたので、ぜひ聴いてみてほしい。そこから、ぼくらの心に寄り添うようにEric Kazの歌声が聞こえてくる。いちばん深い闇夜に、すぐそばで感じる息づかい。其処は心を包み込む聖域(Sanctuary)。其処こそが聖域なんだ。明日もあると、いいな。ずうーっとあったら、いいな…。


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