Warner-Pioner Corpration,Japan
L’opéra Fragile (1981)
Warner-Pioner Corpration,Japan
Venèzia (1984)
CBS/SONY INC TOKYO JAPAN
加藤和彦の闇
夢は曠野を 駆けめぐる Vodka
ピアノを苛立たせる Vodka
情熱と絶望の 間をぬって 人は踊る
運命の舞台裏で 糸を引くのは 見えない手
人生の舞台裏で 糸を引くには 見えない手
これは1981年に発表した加藤和彦のアルバム「Belle Excentrique」の「ディアギレフの見えない手(Diaghilev, L’homme-Orchestre)」からの1節。加藤はこの安井かずみの歌詞をビロードのような艶やかで肉厚なメロディーに乗せて歌い上げた。ぼくは「帰ってきたヨッパライ」を同時代の歌として耳にしていたが、加藤和彦の音楽を一番熱心に聴いていたのが、このアルバムをはさむ上の3枚が発表された時期だった。一番上は「うたかたのオペラ(L’opéra Fragile)」(1980年)。続く「Belle Excentrique」と、一番下が「Venèzia」(1984年)。3作ともDrumsは初期サディスティック・ミカ・バンドのメンバーでもあった高橋幸宏が担当し、他の2作には細野晴臣、坂本龍一、そして矢野顕子といった後の「チームYMO」の面々がバックを手堅くサポートしている。ジャケットデザインも「L’opéra Fragile」は奥村鞍正さん、後の2枚は渡邊かをるさん。そして妖艶なPaintingは画家の金子国義さんが担当している。これらアルバムからは80年代特有のハレの空気感が今も濃厚に伝わってくる。
3作はともに当時加藤とは私生活のパートナーでもあった作詞家・安井かずみとの共作によるものだ。これまで数多くのヒット曲をてがけてきた彼女がこの時期から仕事を加藤との共作作業に絞って、ほんとうに自分が書きたかったものだけを表現しようとしていたことを先日見たTVのアーカイヴ番組でぼくは知った。そこであらためて聴きなおしてみると、まるでミュージシャン加藤和彦がシャーマンとなって安井かずみをこの世界に再来させようとしているかのような錯覚にとらわれる。ほどなく訪れる死別によって彼らの幸福な並走に終止符が打たれるのだが、それを期にやがてぼくの中でも彼らの音楽への興味は急速に薄れていってしまった。ぼくは加藤和彦の音楽に包まれた安井かずみを見つめていたのかもしれない。
若い頃通ったことのある美術研究所に、かつて安井かずみも在席していた時期があり、当時の話を所長から何度か聞かされていた。彼女はほんとうに典型的な都会のお嬢さんだったようで、田舎育ちのぼくとは違う世界で育った人なんだと話を聞きながら思ったものだった。
この3作におさめられている曲の舞台も多くはヨーロッパやニューヨークの街々。映画のワンシーンのように異国を背景に男女の心の機微が描かれている。加藤和彦はスーツを仕立てるためだけにわざわざロンドンまで出向いたり、良いと認めたものには金に糸目をつけなかったそうだから、嗜好面においてもこの二人は深く共鳴しあっていたのだろう。行間に漂う何ともゴージャスで洗練された高尚な美意識は時として鼻につくこともあったけれど、それでもぼくが聴き続けていたのは詞の背後に忍び込む諦観とか自身を遠景に置いてみる覚めた視線、そして屈折した心情を変幻自在にデフォルメしながら包み込む練り込まれたサウンドに魅せられたからなんだと思う。そこには60年代から世界中で生み出されたポップスのエッセンスが巧みに引用されていた。即座に思い浮かぶのがアメリカ生まれのミュージシャン、ライ・クーダー。彼は学者のような緻密な分析力とあくなき探求心で世界中から素晴らしい音楽を採取し、再構築してみせるぼくの大好きなミュージシャンである。この時期の加藤和彦は和製ライ・クーダーといってもいいほどのパッションとプロフェッショナルな技を繰り出し、希有なパートナーと共に屈折した心情を音楽の中に封じ込めてみせた。
ところでぼくは、加藤和彦の音楽は本質的にはゴージャスな砂糖菓子の世界だと思っている。ドノバンに傾倒してトノバンと呼ばれていた時代の「家をつくるなら」や「あの素晴らしい愛をもう一度」、「白い色は恋人の色」などといった初期の代表曲は彼ならではの柔和な穏やかさにあふれていて、そこにわずかな含羞も含まれているのが何ともほほ笑ましい。人はリアルな世界に疲れた時、そっと砂糖菓子が欲しくなることがある。だからぼくは決して揶揄する意図があって彼の音楽を砂糖菓子と言っているのではない。本当に上質な砂糖菓子だと思っているのだ。
そしてもうひとつの側面はアジアの音楽家としてのウエットな一面。詩人サトウ・ハチローの詞をもとにした「悲しくてやりきれない」や朴世永・高宗漢の詞曲「イムジン河」の再構築、そして辞世歌「感謝」などからは、アジアンチックな郷愁漂わせる京都人としてのもう一人の加藤和彦が現われてくる。砂糖菓子の背後に潜む静謐な深い闇。常に誰かに自身を添わせ、重ね合わせて表現を模索してきた音楽家が闇の中にひっそりと佇んでいる。
偶然にも自死の前日、隣りに彼が立っていた一瞬があった。10月15日午後3時30分頃、用あって六本木ミッドタウンに車を乗り入れ、ぼくはビル内のディーン&デルーカ・ショップでコーヒーを飲みながら一休みしていた。ふと左隣りから季節はずれのマドラスチェックのハーフパンツ、そしてカラフルなストライプ・サンダルを履いた長身の人物が視界に入ってきた。頼りなげに細く伸びた白い足が印象的だった。ちらっと斜め後ろから眺めると金色の短い髪だった。ずいぶん派手な老いた外国人もこんな場所には来るんだなぁと思ってそれきり視線を外してしまった。しばらくして向かいに座っていた連れからそれが加藤和彦だったことを知らされた。彼はその時一人で赤かぶのマリネをワンカップ買い求めていたそうだ。もしそれが最後の晩餐のメニューだったとしたら、彼の人生に比してそれはあまりにも質素でつつましいものではないか。いや、だからこそ、そこにはぼくなどの計り知ることのできない必然の計らいがあったのかもしれない。ディアギレフの見えない手によって…。