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FUSE_cover : Neville Brody
RAY GUN_cover : David Carson
RAY GUN_spread
RAY GUN_spread
EMIGRE_cover : Emigre

デザインのエッジ

Cutting-edge of Design
2011.3.02

ロンドンのネビル・ブロディ(Neville Brody )とカリフォルニアのデビッド・カーソン(David Carson)は80後半から90年代にかけてもっとも世界的に有名になったグラフィックデザイナーといえるだろう。作風の異なるこの二人に共通していたのは、デザインの重要なサブセットであるタイポグラフィと果敢に向き合い、鋭く時代に問いかける仕事を残したことだった。
文字そのものの誕生は紀元前2500年頃、メソポタミア地方のシュメール人がつくりだした楔形文字(くさびがたもじ、せっけいもじ)がその起源といわれる。複製の道具としてのタイポグラフィは活版印刷とともに誕生したが、それは印刷だけに限定されたものではない。石彫、木活字、鋳造活字とさまざまな素材を介して発展を重ね、90年代におけるデジタルフォントの誕生以降、物質素材から解き放たれたタイポグラフィは0と1とに分解され、電子媒体にフォントデータとして格納されるという劇的な変貌を遂げることになった。さらにタイポグラフィ概念の拡張に伴い、レタリングやカリグラフィ、そして書など、本来タイポグラフィの周縁に位置付けられていたものまでも呑み込んできた。
世界には固有の言語に比例して夥しい固有の文字が存在するが、現代の地球を覆い尽くすタイポグラフィのメインストリームはやはりアルファベットである。アルファベットは紀元前800年頃、フェニキア人がつくった22文字の子音からなるフェニキア文字をベースとしている。その後シナイ文字からギリシア文字へと変遷を重ね、たった26文字のローマ字が生まれた。我が国には中国から伝播した漢字に加え、ひらがなやカタカナもある。そして今やこのアルファベットも、日本語の一部といってもよいほど深くぼくらの生活に根を張っている。こうしてみると日本におけるタイポグラフィの有り様は、世界の中でも相当に特殊なものだといえるだろう。そんなぼくら日本人が、デザインを通じてアルファベットのタイポグラフィと向き合おうとすると否応なく歴史的・文化的背景の違いに直面せざるを得ない。
ひっくり返して考えてみよう。「ひらがな」は漢字の草体を起点として主に女性が用いていたといわれるが、もし、ぼくらの言語がアルファベットと同じくらいシンプルな構造をしているこの50字足らずの「ひらがな」しか持っていなかったとしたらどうだろう。何世紀にもわたってずっと「ひらがな」だけで考え、読み、語ってきた民族が「ひらがな」だけでデザインをする。単純な構成要素は次第にソフィスティケートされ、あるいは分解され、長い時間を経て思いつく限りの夥しい意匠が生み出される。やがて、最早やり尽くされてしまったのではないかという絶望感に襲われてしまったとしても不思議ではない。20世紀前半にヨーロッパに興ったモダニズム運動を、重厚な歴史・文化に対する閉塞感が生み出したリアクションだったと考えると、極東のぼくらがその運動の本質を等身大で実感することはなかなか難しい。それと似た歯がゆさを、ブロディやカーソンの仕事を見る度にぼくは感じていた。
ネビル・ブロディはMacintoshでデザインする第一世代として、ニューウエイブ・ミュージックと呼応するように80年代半ば、タイポグラフィ専門誌「Fuse」(表紙:写真最上段)のアートディレクションでデザインシーンにデビューした。彼のデザインに、ロシアアバンギャルドエミル・ルーダー(Emil Ruder)などを輩出したスイス・スタイル(International Typographic Style)の残香が漂うのは、ロンドン・カレッジ・オブ・プリンティング(LCP)卒という経歴故か。加えて、写真とタイポグラフィを大胆に対比させる手法などには、同じ頃ニューヨークで活躍していたファッション系アートディレクター、ファビアン・バロン(Fabien Baron)の力業にも通じるものがある。その後、バロンのデザインは世界中のファッション&カルチャー雑誌を中心に多くのフォロワーを生み出したが、日本では音楽雑誌「Cut」の中島英樹などのデザインにバロンの深い波動が感じられる。ともあれブロディは、ヨーロッパ人らしいお行儀の良さもわずかに残しつつ、タイポグラフィを重層的に溶解して新しいグラフィックの可能性をぼくらに見せてくれた。20年も経つとなにやら妙に懐かしさも感じるが、Macintoshという新しい道具を手に入れた若者の嬉々とした高揚感がそのデザインから伝わってくる。
さて、片や西海岸のカーソンはさらに破天荒でパワフル。テキサス生まれのカーソンは、社会学の学士号を取得して高校で教師をしたり、世界ランキングにも入るサーファーとして活躍したこともある異色の経歴をもつ。1992年に創刊された「Ray Gun」誌(表紙:写真二段目。下が本文見開きページ)のアートディレクションで一躍注目を浴びた。カーソンのデザインにはタイポグラフィ、写真、そしてさまざまなサブカルチャーのエッセンスイメージが切り刻まれ、再構築されている。「彼はやりすぎた」と批判されるほど、タイポグラフィを過激に解体化してみせた。無国籍な夥しいタイプフェイスは砕け散った波の飛沫のようにノイジーで奔放なグラフィックとして放り出されている。「Ray Gun」に掲載された、本文を読むことのできない暗号化された文字で組んだブライアン・フェリーのインタビュー・ページ(下から二段目の見開きページ)などはその極地といえよう。過去にカーソン本人とロビーですれ違ったことがある。背丈はぼくと同じくらい。白人男性としてはかなり小柄な方だ。ただ身のこなしはサーファーらしく俊敏そうだった。カーソンのグラフィックは、一貫してぼくにとっては異国に住まう異人の仕事であったが、委細構わずがむしゃらに突き進むその邁進力には理屈抜きに恐れ入ってしまう。
また、90年代タイポグラフィ・ブームの一翼を担った、同じ西海岸はバークレーのデザイン集団「エミグレ(Emigre)」によるデザインもカーソンと密接にリンクしている。フランス革命期に外国に亡命した貴族らのことを示すエミグレ (Émigré)はその名の通り、オランダやチェコからの移民たちによって設立され、オリジナル・タイプフェイスの販売や論文などの発表活動、そして実験性の高い雑誌「Emigre」(表紙:写真最下段)の発行も重ねていた。カーソンとコラボレートしたり同時代的に両者はベクトルを重ねながらも、エミグレの仕事はカーソンほどの過激さは感じさせない。初期に発売された「Matrix Script」シリーズや「Triplex」といったフォントはぼくもずいぶん愛用した。当時買い集めた「Emigre」は今見ても実験精神にあふれていて見飽きることがない。生真面目に可読性、視認性を追求してきた西欧生まれのそれまでのタイプフェイスに較べると、むしろ誘目性に特化したといわれるエミグレ書体は、人なつっこくてキュートな魅力にあふれている。
さて、デザイナーとしてアルファベットのタイポグラフィとどのようにかかわっていくのか。この問いかけはぼくにとって長年の課題だったが、いまだに解きほぐされることなく漂い続けている。定期購読しているデザイン雑誌「+81」の最新号「Inspirational Typography issue」には、世界中の先鋭的タイポグラフィの現在形がピックアップされている。まさに百花繚乱。デジタル技術を駆使した思いつく限りの試みがストックされている。しかしいくらバリエーションが分厚く集積しても基本的なタイポグラフィの構造は何一つ変わらないし、それは結局リフレインに過ぎない。新鮮な空気は次第に失われていく。するとどこからかブロディやカーソンのような人物が現れては、デザインの世界に裂け目を入れ、ぼくらは酸欠状態から少しだけ息を吹き返す。この繰り返しがタイポグラフィの歴史でもあったような気がする。
ずいぶん昔の話になるが、複数の字体が混在する不思議な日本のグラフィックデザインという観点から特集が組まれ、ドイツのあるデザイン雑誌からぼくは取材を受けたことがある。その頃、書き間違えてしまったり、鏡文字になった漢字やカタカナをTシャツなどにデザインしたりするのがヨーロッパで流行していた。しかしぼくらは、その若いデザイナーたちのエスケープへの試みを笑うことなどできないだろう。彼らは過去のぼくらでもあったのだから。当時、そのドイツ人編集者からみた日本の状況は一種のカオスとして映っていたようだ。「Magic」は「マジック」であり、「魔法」や「まじっく」、「majikku」でもある。そして実は「Magic」も、異国のアルファベット、日本語化したアルファベット、共通語としてのアルファベットと重層化している。さまざまなアルファベットがぼくらの中に存在している。物心ついたときからすでに身近にあったぼくらのアルファベット。
今の気分としてはこの重層化したアルファベットを、漢字やひらがな、カタカナと並置しておく感覚が一番自然な向き合い方ではないかとも思う。ブロディやカーソンのように背後からの重圧を感じることもなく、かといって異国様式の表層と戯れる軽薄さとも距離を置く。そして、ドグマやトレンドの枝道に迷い込まないよう注意をはらいながらすべてを均等に並置しておくこと。この自然体が好ましいと考えている。
分厚い西欧文明のリアクションとして誕生したモダンも突然出現した異国の文化運動だったと捉えるのではなく、実はそのモダンの仲間たちはずっと昔からぼくらとともにあったものだったと認識すると、様相はきっと変わってくるはず。伊勢神宮や桂離宮のシンプリシティは、江戸文化という先取りされたポストモダンによってろ過されてきた。そして近代主義という回り道はあったものの、DNAに静かに沈殿しながら不変のOS(オペレーティングシステム)として機能し続けていた古層の記憶は、ろ過されたシンプリシティとブレンドされて新しい子どもたちに託される。もはや西でも東でも北でも南でもない未来を拓く可能性は、原宿や渋谷に生息する奔放なギャルの感性の深部にすでに兆(きざ)しているのかもしれない。


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