Snapshoots at
Institute of Modern Art
1969-71

ぼくは学校が大嫌いだった・続編

I hate school!-2
2009.4.02

2008.12.03投稿「ぼくは学校が大嫌いだった」の続編です。学校生活への拒否反応も限界に達していた高校卒業以降のこの話で完結します。
芸大油絵科の受験に失敗したぼくは、大半の美大受験生が進んだ美術予備校でなく、新橋にある現代美術研究所という小さな研究所に入ることにした。ここはキュービズムを専門とする美術評論家・植村鷹千代氏が主宰する私塾で、すでに芸大生となっていた二人の先輩がここから受験していたこともあり、年2〜3人しか採らないという受験生枠にぼくはなんとか潜り込みたいと考えた。画家の推薦状が必要だったので、父の知人であったシュールレアリズムの画家・米倉寿仁氏を訪ねて推薦状をいただき、無事入所することができたのだった。ちなみに作詞家の安井かずみさんや美術家の李禹煥氏(リー・ウーハン)もここで学んだことがあるそうだ。
入所早々、午前中は石膏デッサン、午後は裸婦モデルを立ててのデッサンと油彩制作。夜はプロの画家や美大生、そして社会人の研究生も加わり、再びモデルさんに向かってクロッキーやデッサン。決して誇張でなく1日平均16時間くらい描き続けた。土日もあまり休んだ記憶がないし、郷里にもほとんど帰ることなく、若さとはいえ驚くほどどっぷりと美術に浸かりきる日々を送る。
ちょうど60年安保闘争がピークを迎える騒乱の時代で、ぼくが卒業した年には安田講堂が学生たちに占拠され、東大受験も行なわれなかった。だから現役で大学生となった同級生の中には、ほとんど学ぶことができないという人も大勢いたはずだ。そんなハレの風が吹き荒れる中、まるで台風の目の中にいるように、ぼくの中には喧騒をよそに静かな時間が淡々と流れていた。もちろん周囲の人々が時代のムーブメントに無関心だったわけでなく、連日社会人の研究生たちの熱のこもった討論が所内でも繰り広げられていたし、彼らと同様にぼくの中にも得体の知れない時代意識が日増しに染み入ってきたのだが、それらを覆い尽くすかのように美術への関心が厚みを増していった。
ここでぼくに大きな影響を与えたのが所長である斉藤秀一氏だった。ヴァザルリに近い画風の作家でもあった斉藤さんは、終戦後、青年将校としてシベリアに抑留され、厳しい収容所生活を生き抜いてきた人だ。筋金入りのマルキシストとして帰国を果たし、植村先生との出会いからこの現代美術研究所の創設にかかわり、以来表現活動と並行して所長として多くの若い画学生たちと歩みを共にしながら影響を与え続けてきた、まさに「現美の主」のような人物だった。
中沢新一さんの「イカの哲学」で紹介されている原作者・波多野一郎氏もシベリアで4年間もの強制労働に耐えたが、この間叩き込まれた徹底した共産主義化教育に対し、その力量を認めつつも判断を保留し続け、ソ連の対極にあったアメリカのヒューマニズム(人間主義)を自分の眼で確かめてみようとしたところに波多野さんの素晴らしさがある、と中沢さんは評価しているが、斉藤さんも波多野さんに近い健全なバランス感覚をもっていた人だったと思う。決して思想的にぼくらを染め上げようとはしなかったし、世界を裸眼で直視しようとする姿勢は一貫していたってリベラルなものだった。斉藤さんにとってのヒューマニズムは絵画表現の模索に内包されていたのかもしれない。キャンバスの中で膨らみ、ねじれ、拡張し続ける希望にあふれた遠心的な斉藤さんの抽象絵画を思い出す度にそんな気がしてならない。
生粋の江戸っ子で、夏は毎日同じ高そうな黒い麻のポロシャツを着続けているものだから、洗濯しないんですか?と聞いたら、気に入った服は同じものを10着ほど買って毎日取り替えているのだという。こういうダンディズムもあるんだと田舎者のぼくは驚いた。また、研究所でお腹がすくと皆即席ラーメンを作って食べていたが、銘柄は明星食品の「中麺(チュンメン)」と決まっていて、茹で上げ時間も秒単位で設定されていた。試行錯誤の末に決定されたこの斉藤レシピは壁に貼られ順守されていた。今思い出すと笑ってしまうけど、当時は確かにこれが一番おいしいと思ったし、皆1日おきに食べていたほど、中麺中毒者となっていた。
それからエネルギッシュな若者の吸収率を高めるのには体力を奪うのが一番手っ取り早いと(戸塚ヨットスクールみたいな体育会系の乗りじゃ決してなかったけど)デッサンはほとんど立って描き、最低週2日は徹夜していたのも抑留生活仕込みのノウハウか。さすがに夜中には絵は描かない。もっぱら討論に明け暮れていたのだが、実はこれがとても楽しかったのだ。連日、田原総一朗の「朝なま」に参加しているようなものだから、大人たちに混じってずいぶん鍛え上げられたし、ぼくにとっての格好の「夜中の学校」となっていた。夜が明けると銀座の安いサウナで汗を流し、隣りの日石本社ビル地下にある食堂で格安朝食をかきこんだあと椅子を並べて2時間ほど仮眠をとり、モデルさんを迎えるという毎日が続く。こうして斉藤さんには文字通り寝食を共にした合宿状態で指導し続けてもらった。思えばこれも家庭をもたずにお母さんと二人暮らししていた斉藤さんだったから可能だったことなのだろう。
研究所の方針でぼくら受験枠の研究生も9月までは受験から離れて、モダンアートの自由制作や展覧会の企画実行にかかわり、表現をしていくための基礎能力を身に付けていった。(二十歳で選抜3人展を銀座の画廊で開いた時には、まだ大学生だった中沢新一さんも駆けつけてくれて、ぼくの稚拙なキネティックアートを前に友情を示してくれたのも懐かしい思い出だ)専任コーチは斉藤所長だったが、月に一度開かれる合評会では植村先生の意見もうかがうことができた。何でも伊豆近辺のとある城主の家系だそうで、ほんとうにお殿様のような育ちの良さを漂わせる方だった。
それからこの研究所の歴代講師陣は豪華なもので山口薫片岡球子といった洋画界を代表する画家たちが名を連ねていて、当時ぼくが直接指導を受けたのが、午後の部の洋画家・福沢一郎氏(まさかその後、文化勲章を受賞されるとは)と、夜の部の多摩美術大学教授の杉全直氏の両氏。杉全先生は物静かで理知的。的確な指摘を俳句のように削ぎ落とした言葉で伝えてくれた。そして特に思い出深いのが福沢先生の指導だった。すでにその時にはフォーヴィスムの大家だったにもかかわらず、飾らず豪放な人柄はその画風に近似していた。キャンバス地が透けてみえるほど薄塗りの折り重なる色調が作品全体に深みを与え、これが福沢絵画の大きな魅力となっていたが、これは薄く溶いた絵の具を何種類も用意して、ポロックよろしく平らに置いたキャンバスにぶちまけ、偶然生まれた美しいディティールを手立てに描きあげていく手法だという。偶然から必然を導き出していく絵画表現の奥義でもある。「君、本当は芸大進学なんてどうでもいいことなんだよ」と言われたのを真に受けたわけではないが、次第に進学する意欲が希薄になっていき、受験は芸大1校のみ、もし合格したらすぐに退学しようと決めていた。そんな不遜な受験生に倍率30倍近い難関がくぐり抜けられるはずもなく、二浪となる頃にはここで学ぶことを超えられるところなんてあるんだろうか、などとまで考えるようになってしまった。
丁度その頃、観念芸術が登場してきた。雪崩を打ってこの新たな潮流に巻き込まれていく当時の美術界を尻目に、この観念芸術の在りように深く失望したぼくは退所して郷里に戻ろうと決めた。経緯を語ると長くなるので割愛しますが、とにかくこんな美術ならいらないやと生活を一度リセットして、もっとリアルな世界に近づいてみたいと漠然と考えはじめたわけです。
思い返せば、これが最後の卒業だったのかもしれない。この濃密な2年間はあんなに学校が大嫌いだったぼくにとって、結局最終学年の学校体験となっていたのだ。卒業証書もないし、植村先生も斉藤所長も福沢先生も杉全先生もすでにみんな故人となってしまったけれど、自由と社会、そして表現にまつわるフレキシブルなレッスンを通じて、自分の表現を支える多くの支柱はここで出会った人々に育ててもらった。あの新橋の片隅にある寂れたビルのちっぽけな空間で、何とかぼくは大人の仲間入りを果たすことができたのだ。
※上の写真は展覧会オープニングでの一コマ。左がぼくです。下の写真はたぶん展覧会打ち上げの際の記念写真。研究生全員ではないがこうして眺めるとほんとうに老若男女でバラエティーに富んでいる。向かって左端が斉藤秀一氏。(この人は膨大な知識が詰め込まれているからこんなに大きな頭になったんだろうなと、しみじみ後ろから眺めた記憶が甦る)前列中央で女性たちに囲まれるお殿様が植村鷹千代先生。そのすぐ後ろがぼくで、そのまたすぐ後ろで首を傾ける長髪の人物が、装幀家として活躍中の芦澤泰偉さん。


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