つげ義春の世界

Nejishiki
2009.10.01

9月15日の深夜、NHKの「プロフェッショナル仕事の流儀・闘いの螺旋、いまだ終わらず〜漫画家・井上雄彦」をチラ見していたら、つい引き込まれて最後まで見てしまった。吉川英治の小説『宮本武蔵』をもとにした青年漫画『バカボンド(放浪の人)』を執筆する漫画家・井上雄彦の日常に密着した取材番組だった。1998年からモーニングに連載が開始されたこの作品は、なんと10年以上も続く大長編連載漫画だ。どこかでうっすらとこの『バカボンド』を目にした記憶はあるが一度もきちんと読んだことはない。
井上雄彦という人は24時間制作に没頭する日々を切れ目なく送っているにもかかわらず、一点でしっかりと実生活に根を張り、誠実さというか堅実さを漂わせている。腕の立つ職人のように気負いや浮ついたところが感じられない。一口に漫画家といってもそれはいろんな人がいるわけで、度々TVに登場しては気の利いたコメントを量産する小利口な漫画家などを見るにつけ、ぼくはこういう職人タイプには無条件で好感をもってしまう。鹿児島県出身の42歳。幼年期には水島新司の『ドカベン』が好きだったそうだが、鋭い画風はさいとう たかをの系譜に連なるような気がする。なにしろ素晴らしく絵がうまい。台詞がなくてもわずかな表情だけで豊かな表現力を発揮できるタイプの漫画家だと思う。
ところでずいぶん乱暴な仕分けだけど、少年を傾向別に野球少年と漫画少年に分けるとしたら、ぼくは間違いなく後者だった。しかし、運動神経もないのに背番号3のついたユニフォーム姿の写真が残っているくらいだから、野球も大好きなハイブリット少年だったとも言える。親の話では、物心ついた頃から身の周りにある紙切れに少しでも白いスペースを見つけると何かしら描きつけていたそうだ。自作の落書きが整理箱に入りきらないで困ったという記憶もある。小学生になれば『少年』や『少年画報』といった月刊誌では飽き足らず、近所の貸し本屋に入り浸るようになる。小さな駅の脇に隠れるようにその店はあって、たしかぼくと同年配の双子姉妹がいた。その家にはまったく男性の気配がなかったから、もしかしたら母子家庭だったのかもしれない。ちょっと暗くてひんやりとした店内に通っては、当時お気に入りだった辰巳ヨシヒロの陰鬱でシリアスな社会派漫画なんかを抜き出しては片っ端から読み漁っていた。
やがて漫画が動き出す。ウォルト・ディズニーのアニメーション映画を劇場で初めて観た時の驚きは今でもはっきりと覚えている。それまで見た日本のアニメーションといえば、ぎこちなく動きまわるキャラクターたちばかり。いかにも作り物っぽい印象がつきまとっていてあまりイケてなかったのに、このアメリカのキャラクターたちはどうだろう。見たことないくらい動きはなめらかでリアルだし、表情豊かでファンタスティック。でも感動もそこまでだった。どんなに巧妙な仕上りでも、それはどこまでいっても作りものの世界のまま。そんなこといえば、あらゆる表現物は作りものの世界に過ぎないともいえるわけだが、そっと心に沁み込んできて、作りものでないリアルな感情と重なり合うことは有りうるわけで、そんな表現物を漫画を通じてぼくは探し求めていた。
日本漫画史の神様みたいな手塚治虫は確かに大天才だった。あれだけ漫画表現に人生のすべてを捧げた生き方を貫徹した人はそういないし、残された作品群もその生き方と才能に見合うフロンティア・スピリットの輝きを湛えたものばかりだ。そんな濃密でハイレベルな作品をたくさんつくってくれたのに、ぼくはディズニー同様に夢中になることができなかった。生来、手塚治虫は生真面目で誠実な人だったのだろう。だから作品がどんなにシリアスで革新的なものであっても、結局は理想主義的な印象がつきまとうものだから、何となく物足りなさを感じていた。その反動で、早く良い子を卒業したかったぼくは水木しげる白土三平に夢中になり、二十歳過ぎには、これでいいのだ!の赤塚不二夫ハレンチ学園永井豪も登場してきたので、この漫画の国で少しも淋しいと思ったことはなかったのだ。
秋政権についた民主党の反対でさっそく凍結されてしまったが、いろんな漫画を網羅してストックしていこうという「アニメの殿堂」と呼ばれる国立メディア芸術総合センター構想にまつわる騒動ついて、漫画家たちはどう感じているんだろう。応援・支援は結構だけど、本音は「ほっといて欲しい」というところじゃないだろうか。ずっと漫画になんか目もくれなかった政治家たちが、海外人気を受けて手の平を返したように「世界に誇る日本アニメ」なんて持ち上げても「今さら、そりゃないぜ、おじさん」と多くの人がうさん臭さを嗅ぎ取っているようだ。およそサブカルチャーの原動力にはエログロナンセンスもたっぷりと吸い込んだ、良識派が眉をひそめるようなパワーがおおいに含まれるわけだし、そこのところを去勢されて殿堂入りしても魂を抜かれた仏になってしまう。ハコモノありきは論外だけど、邪魔しないことが最良の支援という極端な考え方だってあるわけだし、公平論で武装されたパブリックの中にサブカルチャーを再構成することの難しさや危うさは強く認識しておく必要があると思う。
多くの日本人は子どもの頃からいろんな漫画に囲まれて成長する。そしてやがて大半の漫画少年たちは漫画に愛着を抱きつつも、結局漫画家になることもなく、それぞれの大人になっていく。ぼくも漫画を含めて映画や小説、そして音楽とジグザグ寄り道しながら年を重ねてデザイナーとなり、いつしかまったく漫画を手にとることもなくなってしまった。
ただひとつの例外は、つげ義春だった。この漫画家だけは避けて通ることができなかった。1970年代前半に活躍したガロ系漫画家の元祖的存在といわれるこの作家をいたずらに偶像化する気はさらさらないが、決して多数派に支持されることはないだろう『ねじ式』や『ゲンセンカン主人』といった作品には抗いがたい魅力を感じてしまった。小学校卒業後、メッキ工やそば屋の出前持ちなどを経て貸し本作家としての活動を開始したという来歴や、強度な赤面恐怖症に悩まされるような神経症的特質も作品に透けて見えている。温泉めぐりの旅や夢の採集をテーマとした作品も多い。1976年に講談社から刊行された文庫『義男の青春」のあとがきで故・石子順造氏は次のように的確につげマンガを評している。「いいかえれば、それは、沈黙の言葉なのである。沈黙について説明した言葉ではない。語れば語るほど、語れないことがあらわれてくるといった表現。それが、つげの作品ではなかろうか。」
表舞台では希望にあふれたドリーミーなドラマが繰り広げられている。しかし絶望あっての希望なわけで、舞台裏では合わせ鏡のようにシュールで不条理な出来事が沸々と沸き上がっている。それら表裏丸ごとの舞台こそが、ぼくらの生きている世界そのものなのだから、つげ義春ほどその事実を深く抉り出し、見事にディズニーの世界を反転して示してくれた作家をぼくは知らない。
*写真上は晶文社刊『必殺するめ固め・つげ義春漫画集』のカバーで、ブックデザインはぼくの敬愛する平野甲賀氏だ。表題作の舞台は、村じゅうの家が温泉でつながっている或るかくれ里。夫婦で夕涼みしていたら、謎の元プロレスラー男に妻が手ごめにされた上、必殺するめ固めの技をかけられて、歩くことも口をきくこともできなくなってしまった男の苦悩と悲哀が描かれている。元来寡作な作家であったが、この作品を発表した1979年以降、進行したノイローゼの治療もあって休筆状態となり、1987年の『別離』を最後に現在までほぼ沈黙を続けている。写真下は1968年に発表されたガロ時代の代表作『ねじ式』の巻頭頁。22頁にわたる悪夢のようなオブセッション(脅迫観念)がシュールにパッチワークされている。


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