Cover & Plates
WILLIAM EGGLESTON AT ZENITH
William Eggleston

2015.3.01

夜空の雲は見えないけれど、ときおり月光の底から浮かび上がってみせては、「ぼくらは夜も漂い続けているのだよ」と不意に語りかけてきたりする。こうして白い雲は日が落ちると黒い雲になる。太古から雲は空の一部であったし、或るときは空そのものとなる。雲はブルーの画布に溶け込みながら、自在に描きだす無限の絵画でぼくらの視線を上空に誘い続ける。足元はよく見てるぼくらも、上にある世界のことは意外と多くは知ってはいない。その存在は当たり前すぎて敢えて意識することもないのだが、誕生から生を閉じるまで、浮かぶ雲は常にぼくらの記憶に寄り添って存在している。空にふんわり漂う雲を眺めていると、強ばった心が解きほぐされていくような心地よさに満たされ、静かに移動していくその一切れに己を重ねてみたりする。

空の風景は実に多彩だ。あるとき雲は切れ間から射す光と共演してドラマチックな光景を創りだし、ぼくらの視線を釘付けにしたりする。まるで天へと続く階段のようなその美しい造形に目を奪われた経験は誰しも1、2度あるはずだ。ヨーロッパでこの現象はヤコブの梯子(Jacob’s Ladder)と呼ばれている。聖書の中に出てくるヤコブの見た夢の話に由来し、梯子は天使が天から地上へと上り下りするために架けられているのだと。この現象を晩年の開高健は好んで「レンブラント光線」と言い、宮沢賢治は「光のパイプオルガン」と表現している。

この現象は「チンダル現象」の一種である「薄明光線」であると科学的には説明されている。すなわち、「おもに、光の波長程度以上の大きさの球形の粒子によって光が散乱現象を起こす「ミー散乱」によって太陽光が散乱し通路のように見える」現象であるという。「ミー散乱」は雲が白く見える一因となっているといわれるが、科学的にどうであれ、大事なことはそこに繰り広げられる幻想的な現象が、荘厳で神秘的な美しさを湛えているという事実だ。或る日、或る時、空を見上げれば、誰でもその荘厳な光景を心に焼き付け、天に向かって意識を解き放つことができるのだ。

さて、この空に漂う雲とは如何なるものなのか?惑星表面の大気中に浮かぶ水滴や氷の粒のことを雲と呼び、地上が雲に覆われると霧となる。また、雨や雪を生み出す降水現象の発生源でもある雲は、ぼくらの頭上にいつとはなしに現れては、形を変えながら気づかれることもなく通り過ぎていく。研究者によれば雲はできる形と発生する高度によって以下の10種類に分類できるのだそうだ。

エベレスト山(8,848m)より高い5,000〜13,000mの高度に発生する雲は1-巻雲(けんうん)、2-巻積雲(けんせきうん)や3-巻層雲(けんそううん)で、これらは上層雲と呼ばれている。巻雲はハケで掃いたような繊細な形状で「すじ雲」と呼ばれ、高層の空気の流れが速くなる秋によく見られる。巻積雲は秋を代表する雲形で、形が崩れやすい小石をばらまいたような形状から「うろこ雲」、「いわし雲、あるいは「さば雲」などと呼ばれている。巻層雲は「かすみ雲」や「うす雲」と呼ばれ、空を薄いベールで覆うようにできる雲。

そこからやや高度を下げると、中層雲と呼ばれる3雲形が現れてくる。4-高積雲(こうせきうん)、5-高層雲(こうそううん)、そして6-乱層雲(らんそううん)だ。ともに高度は2,000〜7,000m。高積雲は羊の群れのように見えることから「ひつじ雲」と呼ばれ、雲片が厚いため横から光が射す朝方や夕方に特に美しい姿を見せる雲。高層雲は空一面、薄灰色や乳白色に覆って空を平坦な一様色に染め上げる比較的地味な雲で「おぼろ雲」とも呼ばれている。そして乱層雲は長時間雨を降らせる「あま雲」、「ゆき雲」とも呼ばれ、暗く陰鬱な秋雨の季節の主役雲。

残る4種はともに富士山(3,776m)より下、2,000m付近に発生する雲で下層雲と呼ばれる7-積乱雲(せきらんうん)と8-積雲(せきうん)、9-層積雲(そうせきうん)と10-層雲(そううん)の4雲形。積乱雲は地上付近から13,000mの高さまで届く背の高い雲だが、分類上は下層雲となっていて、夏などにはお馴染みの雷や夕立を起こす「入道雲」と呼ばれる巨大雲。積雲は雲の代名詞とも言われる綿菓子のような雲。雲と言ったら真っ先に思い浮かぶのがこの雲形。そして曇り空を演出するのが層積雲。1年中発生し、「くもり雲」や「まだら雲」と呼ばれている。最後の層雲は一番低い所にできる雲で、小高い山などを覆うため山沿いに暮らす人々には馴染み深い雲である。(出典:自然人.net たった10種類だけの無限「雲の名前を覚えよう。」)

これら10種類の雲形はパレットに絞り出した単色の絵の具のようなものだ。各雲形は季節の気象条件にそって溶け合ったり重なり合いながら様々な模様を描きだしていく。日常の雑事に流されるぼくらはときおり手を休めては、宇宙に連なる広大なセシリアンブルーの空間に漂う雲を眺め、彼らに包み守られながら惑星の表皮(=大地)に住まう自身の存在を実感するのである。そして、眺める者の心情は上空の絵画とシンクロしながらゆるやかに移動を続け、決して静止することはない。静止することはないのだが、暫しとどまってみたいと願うことはある。そんな時、人は空にレンズを向けてシャッターを切るのだろう。

ところで雲の写真家には気象台OBが大勢いるようだ。そんなOBの一人、鈴木正一郎氏の写真展を見て雲の美しさ、形の面白さにひかれ、それが雲の写真を撮りはじめるきっかけになったという海老沢次雄さんも元は気象台職員だった。栃木県出身の海老沢さんは2000年4月から、ぼくの地元である甲府地方気象台に転勤し、精力的に山梨の雲を撮影し続けたことをぼくは新聞のコラムで知った。

「雲の写真は毎日が撮影のチャンスだが、出たとこ勝負みたいな一面がある。鈴木さんの写真集に『出た、見た、写せ』という言葉がある。これが雲の写真撮影の大事な点。だからカメラは常に離さず持ち歩いている」と話している。甲府は「四方を山に囲まれていることもありいろんな姿の積雲、積乱雲が数多く出る。夏は入道雲の宝庫、甲府の1年分は栃木の3年分に当たる」。赴任以来、海老沢さんはそんな甲府盆地の空に驚かされるばかりだったという。また、人気の雲の写真家といえば何といってもHABU氏だろう。ドラマチックな空と雲の風景はどれも印象的なものばかりだ。このように印象的な雲の情景を記録した写真集は数多くあるが、「ふつうが満ちている」雲ばかりを収めたものはめずらしい。そんな写真集を、ぼくは行きつけの写真屋さんで見せてもらった。アメリカの写真家William Eggleston(ウイリアム・エグルストン)の写真集『AT ZENITH』である。タイトルは「天頂で」とでも訳すのだろうか。さっそくぼくも購入してみる。本書についてはこんな紹介も見つけた。

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1978年ジョージアからテネシーに車で旅する途中で、ウィリアム·エグルストンは初期のインスタントカメラを使って車窓から空を撮影した。出来上がったイメージは、古典的なフレスコ画を思わせた。翌日エグルストンは地面に仰向けに寝転がって上空を撮影し続けた。セシリアン・ブルーの空とそこに浮かぶ雲。エグルストンはこのシリーズをウェッジウッド・ブルーと題し、1979年にシリーズ中15点を選び20部限定の写真集として出版する。本書『AT ZENITH』は1979年の『ウェッジウッド・ブルー』をベースにしたデザインに、33点の作品を収録。88p 33x25cm 2013 English

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淡いブルーの布貼り表紙の空押しされた枠内に一葉の空の写真が貼られている。見返しも同系の淡いブルー。ミニマルに配置された文字色も黒とブルーのみ。ホワイトフレームの中に収まった写真は、対向ページに何も印刷されていないので、見開きで邪魔されることなく1点づつ鑑賞できる贅沢なレイアウトとなっている。淡々と切り取られた空と雲の変化に、「淡泊すぎて物足りなさを感じてしまう」という購入者のレビューもあったが、ぼくはエグルストンの意図は、この単調で何気ない情景の配列にこそあるのではないかと思う。ページをくくっていくと、雲はやがて空を覆い尽くし、厚みを増して白からグレーに変化してゆき、陰鬱な表情を見せてくる。そして写真集の中心で青空はすべてグレイッシュなトーンに覆いつくされるのだが、やがてそこから僅かに光の兆候が現れ、後半に繋がれていく。ページをめくるにつれて雲の隙間から再び現れはじめる青空に読者は澄み切った希望を感じとり、やがて見慣れた情景と向き合う安堵感に浸ることになるのだ。この振幅する写真集の魅力は、vimeoの逆モーション映像(PhotoBookStore.co.uk)を見ると多少なりとも感じとれるかもしれない。

エグルストンの作品に満ちている「ふつうの情景」については、とても分かりやすい解説があった。それは「ほぼ日」の『写真がもっと好きになる 菅原一剛の写真ワークショップ』。「エグルストンの写真は“大切なふつう”で満ちている。」で、こんな風に紹介されていた。

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そんなエグルストンの写真は、たしかに時にはシニカルで、とても文学的な側面も、あるにはあるのですが、何よりも、印象的だったのは、“標準レンズ”の回にお話ししたような、おそらく世界中の誰にとっても共有できる、“大切なふつう”でいっぱいだったのです。(中略)そこには土地だとか、場所を超越した、“この世界のすがた”のすべてが写っているように感じるのです。そして今回、改めて「それって何なのだろう?」と、その理由を考えてみたのですが、その時に、ぼくが一番最初に思い出したのは、京都に住む、ある職人さんの話でした。それは、ぼくがまだ20代だった頃のある日、 取材で、京都の茶筅職人さんを訪ねたときのことでした。彼は、来る日も来る日も、あの竹で出来ている茶筅作りというとても細かい作業を続けているわけです。ぼくは、その作業を見ながら「大変だなあー」と思って、「根気のいる仕事ですね。」と声をかけたところ、その職人さんは、静かにほほえみながら、「普通はな、いろんなことをしたり、いろんなものを見た方が、いろんなことを知ったようなつもりになるもんやけど、こうやって、同じことばっかりやっていても、だからこそ、見えてくることもたくさんあるんやで」と、話してくれました。

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ひとところにいるからこそ、見えてくるものがある。忘れがちな日常に潜む大切なふつうの中に、世界全体が写ることもある。エグルストンもそんなことを考えながら仰向けに寝転がり、大空に向かってファインダーを覗いていたのかもしれないと思ったりした。

ウィリアム・エグルストンは1939年7月27日アメリカ・テネシー州メンフィス出身の75歳の存命フォトグラファー。初めてカラー写真を展覧会で発表した写真家として知られている。それまで芸術的な写真作品はモノクロで発表するもので、カラー写真は主に報道や広告で使用するものとされていた。エグルストン自身も当初は学生時代に友人より譲り受けたライカでモノクロ写真を撮っていたのだが、1976年ニューヨーク近代美術館MOMAにて開催した個展でカラー写真を発表し、カラー写真の保存に関する是非を巡って全米で論争を引き起こすこととなる。この出来事はカラー写真による表現の可能性を世に問うたエポックと位置づけられ、エグルストンは1970年代後半にアメリカで起こった写真の新しいムーヴメント「ニューカラー」の先駆者として記憶されるようになった。この論争のあと、81年にはキュレーターのサリー・オークレアがカラー写真を集めた展覧会「ザ・ニュー・カラー・フォトグラフィ」を開催して、同名の写真集を刊行している。ここに収録されたカラー写真の多くが、光の効果を印象的に用いたものであったため、過渡的に「ニュー・アメリカン・ルミニズム」という呼称が用いられたそうだ。今では美術作品としてのカラー写真は当たり前の表現方法となっているが、実はニューカラー(=New Color Photography)という運動が生み出した潮流の突端に現代の写真表現は漂っていることになる。

通常、ぼくらの網膜に映し出される光景はカラー映像として再現されているのに、モノクロをもうひとつの光景として認識するのは、まだカラー再現が不可能だった当時の写真技術史の記憶の残像によるものかもしれない。たしかにモノトーンには、光と影の関係が象徴的に濃度のみで表現されるという潔さがそこに在る。モノクロ表現が芸術的といわれる所以である。着色された写真や映像は、日頃見慣れているはずなのに、いや、だからこそ、何やら通俗的で作為的な印象すら感じてしまう。エグルストン論争の背景にもこんな心理が横たわっていたのではないだろうか。

さて、そんな人間の喧噪をよそに今日も雲は大空にのんびりと漂っている。子どもの頃一人になりたい時など、よく家の屋根に登っては、エグルストンのように寝転んでぼんやり空を眺めていたことを思い出す。大人になっても、思い立ち、野原に出かけてシートを広げて寝転んだりすることもあった。そこには分厚く横たわる時の隔たりがあるのに、心が解き放たれていく心地よさは何ひとつ変わらない。雲はどこからやってきて、どこへ行くんだろう、なんて考えながら空を横切っていく鳥をぽけっと見ていたりする。

1987年に公開されたデンマーク映画『バベットの晩餐会』パンフレットのために書かれた中沢新一さんのテキストが、『幸福の無数の断片』(河出書房新社刊)のⅠ-眼のオペラ「ただ一度だけ」に収録されている。この映画に登場する人間たちは「ずっと」と「一度だけ」のあいだを大きな振幅で生きていて、はじめからおわりまで、この映画のなかでは「一度だけ」と「ずっと」というふたつの言葉が、まるで通底音のように聞こえてくる。この映画の主役は、世にもゴージャスな晩餐会の料理なのではない。

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村人にとって、これは生涯にたった「一度だけ」の豪華な晩餐だった。そして、かつての料理長、舌と目の芸術家バベットにとっても、これが最後の晩餐となる。デンマークの小さな村で開かれたこの晩餐会は、たった「一度だけ」しか実現できないものだけに可能な、奇跡をおこすのだ。人間は「ずっと」と「一度だけ」のあいだに引き裂かれたまま、生きなければならない。でも、ここでは奇跡がおこったのだ。すばらしい料理が「ずっと」と「一度だけ」のあいだに、幸福な結婚の瞬間をつくりだしたからだ。

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いま雲が空に描き出しているのは一度だけ、生涯にたった一度だけ見ることのできる光景で、同じものは二度と見ることはできない。なのに、この心が解き放たれていく心地よさはずっと、このままずっと、いつまでも変わることがない。だから、ふたつに引き裂かれたぼくらは、たとえゴージャスな晩餐会の料理なんかなくたって、空に光が満ちてさえいたら、いつでも「ずっと」と「一度だけ」の幸福な結婚の瞬間に立ち会うことができるのだ。