Portrait_
Mark Isham (1951-)
Koga Masao (1904-1978)
Andres Segovia (1893-1987)

音楽の叙情性

Lyrical Music
2011.11.01

数年前、Brian Eno(ブライアン・イーノ)が好きなぼくならこれは好みかもしれないと、息子がネットから入手した音源をCDにコピーして持ってきてくれた。CDにはMark Isham(マーク・アイシャム)とペン書きしてあった。調べてみるとマーク・アイシャムはアメリカのミュージシャンだった。トランペットやシンセサイザー奏者として、ストーンズヴァン・モリソンジョニ・ミッチェルデヴィッド・シルヴィアンらのアルバムに参加しているが、本領は映画音楽。1990年にはグラミー賞も受賞しているとwikipediaにあった。なるほど収録された曲には、古きよき昭和の映画にエンディングで流れてきそうな叙情的な音楽が随所に収められていて、ぼくはしみじみとした気持ちに浸りたいときなどに、ふと思い出してはこのアルバムを何度も聴きかえしてきた。

そういえば、かつてぼくも父親に音楽を聴かせたいと思ったことがあった。闘病生活に疲弊しきっていた父は、見舞いに行ってもいつも表情は硬く、見るからに辛そうだった。そこでぼくは父が昔酔っぱらって帰宅したときによく口ずさんでいた古賀政男の曲などをセレクトしてカセットテープにダビングし、枕元で聞けるようコンパクトなラジカセにセットして病室に持っていった。それらは『影を慕いて』『酒は涙か溜息か』『人生の並木路』といった古賀メロディーの代表作や美空ひばりの『悲しい酒』など、戦後の流行歌ばかりをピックアップした、いわば昭和の叙情をテーマとしたコンピレーションだった。西日が差し込む晩冬の病室に懐かしい曲が流れはじめると、父の表情は次第にほぐれて、いつもの父の顔に戻ったかのように見えた。亡くなる一ヶ月ほど前のことだった。

日本の大衆音楽である演歌は、西洋音楽の7音階から第4音と第7音を外した、五音音階を使用する音階法を特徴とするという。そしてこの音階法を確立したのが古賀メロディであるとされることから、古賀政男は演歌の巨匠などとよばれたりする。しかし、「艶歌」や「怨歌」とも字を当てられる、いわゆる酒場唄としての演歌と古賀メロディは異母兄弟のような違いがあるのではないかという気がしてならない。

演歌は元々「演説歌」の略語であり、明治時代の自由民権運動の産物のプロテストソングとして出発している。袴姿でバイオリン片手に政治を風刺する歌を歌ったのが演歌師とよばれる人たちだった。添田唖蝉坊は演歌師の草分けとして名高いが、大正時代になると洋楽手法を導入した鳥取春陽などが登場してくる。『籠の鳥』で一世を風靡するが、まだ当時このヒット歌謡は演歌でなく「はやり唄」とよばれていた。この頃の演歌師の面影は、現代の演歌師として活動している宮村群時の演奏に偲ぶことができる。

さて、古賀政男は7歳で父親と死別するまでの幼年期を福岡で過ごし、その後朝鮮にわたり、故郷喪失の悲しみとともに多感な少年期を過ごした。帰国後はマンドリンやギターを通じてクラシック音楽を研鑽する青年期を送り、明治大学マンドリン倶楽部の創設にも参画する。この頃にワルツ・ギター合奏曲として発表されたのが名曲『影を慕いて』だ。

1969年に創刊された音楽雑誌「ミュージック・マガジン」(1980年まではニュー・ミュージック・マガジン)には70〜80年代の数年にわたり「日本の芸能100年」という連載記事が掲載されていた。これは数人の研究者が年代順にリレー形式で日本の芸能について執筆を重ねた、実に読み応えあるシリーズだった。おそらくこの中の記述だったと思うのだが、古賀政男はあるとき来日したスペインのギタリストAndres Segovia(アンドレス・セゴビア)の演奏に強い衝撃を受ける。セゴビアは、それまで田舎の楽器と見下されていたギターを、ヴァイオリンと同じようにクラシック音楽の楽器といわれるまでの地位に引き上げた「現代クラシック・ギター奏法の父」と讃えられているギター奏者だ。演歌師の音楽に親しみ、マンドリンやギターを通じてクラシック音楽にも触れた古賀政男は、ギター演奏の変革者、セゴビアというスペインのギタリストの音楽と出会う。そしてこの運命的な出会いが、実は演歌に連なる古賀メロディーを誕生させたのだという内容だった。この出会いが偶然だったか必然だったのかわからないが、異国間のブレンドから生み出された音楽が、昭和を生き抜いた多くの人々の心に深く染みこんだことを考えれば、やはり日本人にとって幸福な出来事だったといえるだろう。

ところで当時の「ミュージック・マガジン」には他の音楽雑誌と異なり、音楽を音楽という文脈だけで捉えるのでなく、多層な文化に連動しながら複眼的視点で捉え直そうとする姿勢が感じられた。そこには一貫して創刊者である音楽評論家、中村とうよう氏の編集理念が色濃く反映されていたと思う。しかしその中村氏は今年7月に突如亡くなってしまった。自死の直前まで、収集してきたレコード・楽器・書籍など、音楽関係の膨大な資料をすべて武蔵野美術大学に寄贈する作業を進めていたそうだ。昭和の終焉を実感させる出来事となったが、ぼくの中では昭和の残像や残響はいつまでも漂い続け、なかなか幕は下りそうにない。

昭和を色濃く縁取ってきた古賀メロディー。その底流には、リリシズムの大河が横たわっている。抒情性の歴史は、叙情詩の発祥が古代ギリシャにまで遡るとされるから相当に古いものだ。しかし近代の抒情性はこうした詩形より、音楽に見いだされることが多いのではないだろうか。そこには悲しみ、哀愁、切なさなどが含まれるが、同時にそのいずれでもない、さらに深い情緒がともなう複雑な感情表現といえそうだ。ヨーロッパのトラッドフォークには「静と動」の様式で構成された楽曲に叙情性を感じさせるものが多いといわれるが、近代人が胸を締めつけられるような切なさを超えた先に、さらに深い感動を覚える叙情性を求める理由は一体どこにあるのだろうか。

先月の中旬、地元の文学館で開催されている企画展「深沢七郎の文学」の講演会のために久しぶりに中沢新一さんがやってきて、ぼくも1日同行することになった。当日の中沢さんの「奇跡の文学」と題する講演はとても印象的なものだった。日本の近代文壇に突如登場した深沢七郎の文学は否定しようのない普遍性に深く根ざしていて、こんな文学は日本、いや世界でも類例のない奇跡の文学である。そしてそれがこの甲州で生み出されたことを、そこに生きる人々はもっと誇りに思っていいのではないかと語りかけていた。これまでこんな視点から深沢七郎の文学が語られたことがあっただろうか。それについてここで多くは触れないが、そこで深沢文学と対比させた近代文学の特性についての興味深い指摘も印象に残った。

明治維新以後、ヨーロッパから日本に伝わってきたモダンの潮流。それは個人主義や自由主義を包摂する近代意識である。子どもの頃のふるさとや母性などが一体となった共同体の記憶は深層意識の中で生きているのに、デラシネ(〔根なし草の意〕故郷を喪失した人)な孤独な個人となった近代意識は、その落差を埋めることができずに苦しみ続けることになる。そして、素顔と仮面の狭間で満たされることのない苦悩や欲求に突き動かされるかのように、太宰治や三島由紀夫といった作家から、酒や恋愛をテーマとした文学が生み出される。近代文学のほとんどは、そうした共同体から分離した眼をもって作り出されたものだったと中沢さんは言う。これはなにも文学に限らない。世界を覆い尽くす近代人の共通意識であった。

そこでぼくは共同体の記憶へと誘ってくれる水先人や伴走者として、叙情性を近代が欲したのではないかと考えてみた。文学や音楽の叙情性を湛えた物語の奥に見え隠れするのは、共同体の記憶を取り戻そうと願う祈りや希望なのではないかと。昭和初期の古賀政男の音楽。昭和37年に流れた小林旭の『北帰行』から、昭和52年の中島みゆきホームにて』まで、昭和歌謡の叙情性は途切れることはない。その中でぼくがもっとも近代意識の孤独と切なさを感じてしまう曲は、1951年生まれのフォークシンガー、そして現代美術家の朝比奈逸人が作詞・作曲した『トンネルの唄』だ。この曲は高田渡がとりあげて広く知られる曲となった。いろんなカバーがあるが、やはり高田渡の弾き語りバージョンが一番切ない。(youtube では唯一ここで5分55秒から8分57秒まで試聴可能だ。)


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