Top:Yoshinobu Tokugawa
Middle: Mother with two children - standing.
19th century
Below: Garment manufacturer.
19th century

生を封印する物悲しさ

Photo-Graph
2009.7.02

完璧な引きこもりと言っていいほど毎日ぼくは仕事場にこもりっきっている。そうしないと仕事がなかなか片づいてくれないこともあるのだが、実は‘チョー’がつくほど出不精な性分によるところが多い。
しかし一区切りついて気が向くと、時折知り合いの写真屋さんまで出かけていくことがある。仕事柄の古いおつきあい。ところが、労働環境のデジタル化以降めっきりお金にならない客になってしまった。でもそんな気まぐれな突然の来訪者でも、いやな顔ひとつせず迎え入れてくれる。ぼくにとってここはいつだって峠茶屋のようなオアシスなのである。
「戸を開けると星が見える」という、何ともロマンチックで珍しい姓の店主、戸星さんと弟さんの二人が先代から引き継いだこのお店は当地で唯一ライカ(Leica)の買える専門店だ。多くのカメラ好きに愛され続け、晴れて昨年、水澤工務店施工によるギャラリー併設の新築ショップ[栄光堂]を完成させて新たな一歩を踏み出した。ショップと同時に開始されたブログからその熱中ぶりが伝わってくるように、戸星さんは最近菜園作りにはまっているらしい。新鮮な野菜を収穫すると、早朝わが家まで回り道して、そっと玄関脇に置いていってくれたりするので二重に癒されている。
さて、写真が日本に渡来した1848年からおよそ40年後、徳川最後の将軍、慶喜が明治のアマチュア・カメラマンとして写真に夢中になったことはよく知られている。最上段は、明治20年頃の狩猟姿の徳川慶喜のポートレートだが(茨城県立美術館蔵)激動の前半生と較べると、何とも道楽人生のゆるゆるモードに包まれているではないか。戦後しばらく、カメラは小さな家が一軒買えるほどの贅沢品だったそうだ。だから当時写真を撮るのは羽振りのいい旅館のご主人やお金持ちの道楽家に限られていて、写真が残されること自体、特別なことだったのだ。そんな時代のことを茶飲み話で戸星さんは楽しそうに教えてくれる。一回りほど年長の戸星さんと交わすとりとめもないそんな会話は、仕事で加熱した頭をそっとクールダウンしてくれる。思えばぼくは昔から、年上の親父さんがとても好きだった。小学生の時分、学校から帰るとすぐさま近所の銭湯に出かけては高い椅子によじ登り、番台の親父さんと向き合って将棋ばかりしていたことを思い出す。
ある日、戸星さんはふとぼくに「どうして写真を撮らないの?」と聞いてきた。そうだ、ぼくはどうして写真を撮ってこなかったのだろう。そんなこと改めて考えてみることもなかった。もちろん仕事で必要な撮影を自分ですることもあるし、グラフィックデザイナーという職業上、写真には日常的に接しているのに、(表現としての)“写真を撮る”ことをこれまで意識したことは一度もなかった。今でこそシャッターを押せば、後は至れり尽くせりのおまかせ機能がフォローしてくれて、それなりにきれいに撮影することができるが、やはりきちんとした写真を撮るためには、露出やライティング、色補正やアングル、ピントといった基本的な修練が求められる。これらは至極理論的な道理に基づく修練で、実はぼくはこれをかなり苦手とする。1、2の次に3を飛ばして4にいってしまいたくなる。早い話が面倒くさいのだ。若い頃は森山大道中平卓馬アラーキ篠山紀信といった写真家の作品に触れる機会はあったけど、ついに心揺さぶられることはなかった。最近話題となっている写真家の作品も知らないわけではないけど、センサーが一向に反応してくれない。
ただ10年ほど前、何度か行動を共にする機会のあった写真家・港千尋さんの装幀を担当したことを機に、あまり足を運んだことのない写真展をのぞいてみたり、港さんの著書を通じてそれまで無縁だった写真世界のことを少しだけ垣間見ることになる。なかでもアンリ・カルティエ=ブレッソン(Henri Cartier-Bresson)の仕事はとても興味深かった。トリミングの手法で写真から宿命的に発生してしまう物語性をはぎ取り、意味を宙づりにしてしまうという発明はブレッソンならではのものである。また、アンセル・アダムス(Ansel Adams)の風景写真のように、おそろしく高密度で精緻に凝着したディティールを前にすると、モノとしての写真の存在感に圧倒されてしまう。これは絵画では決して再現しえない写真ならではの真骨頂であろう。庭園美術館で見たメイプルソープ (Robert Mapplethorpe)のシルバープリントからも、古典的ともいえる写真表現の底力がひしひしと伝わってきた。長きにわたって絵画に課せられていたひとつの呪縛、つまり現実を写し取るという呪縛が、写真の発明によって解き放たれたことは間違いない。解放された絵画は、そこから精神性の奥深くまでダイビングしていく近代絵画史の旅を開始した。では、写真における精神性の旅はどこに向かっていったのか。
ぼくは、マン・レイ(Man Ray)のような絵画表現に近い実験的な試みに心踊ることもなく、デジタル技術を駆使した挑戦的な試みにもあまり関心がない。唯一魅かれるのは古い写真である。もちろんさっき撮った写真だって古い写真だ。写真はいつだって過去の記憶の1葉にすぎない。だから古い写真とは古いだけでない、そういった意味での記憶の1葉を示している。再現性のクオリティや作品としての完成度はあまり関係ない。ただ映っていればいい。それらはブレッソンのはぎ取った物語性がしっかりと沈殿しているものばかりだが、どれもこれもがどこか物悲しい。ぼくはこれが写真の本質なのではないかと密かに思っている。日常という大地を彷徨う風のようにさまざまな生はとらえどころなく、不確かでリニアなものだ。しかし写真はその流れを一瞬だけせき止めて、生を封印してみせる。ロラン・バルト(Roland Barthes)は、写真は死を写すメディアであると言ったそうだが、シャッターが押された瞬間、そこに定着された被写体に死の影が帯びることは避けられない。死に向かう「真」を「写」しとる写真という媒体。未開の人々や初めてレンズを向けられた日本人は、魂が抜き取られてしまうと抵抗感を示したそうだが、おそらくその時彼らが直感したものはこの死の影だったのではないだろうか。戦後生まれのぼくには誕生当時の写真が残されていない。初めて撮られたという3〜4歳頃の写真を眺めると、べそをかいてそれはひどい顔をしている。今でもぼんやりとその時の恐怖感が残っているほどだ。いったいぼくは何に怯えていたのだろう。上の写真は19世紀のイタリアで撮影されたスナップである。何の変哲もないただの昔のスナップ。もちろんここに映っている人々はもう誰も生きていない。だから悲しげなのではなく、生を封印する写真というメディアの本質そのものが物悲しいのだ、と眺める度にぼくは考えてしまう。


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