100Words by Paul Rusch
Kiyosato a Century Project

ぼくは学校が大嫌いだった・前編

I hate school!-1
2008.12.03

ぼくは学校が大嫌いだった。幼稚園は眠くもないのに昼寝を強要されるのが我慢できずに中途で退園。小学校では登校時間になるときまって腹痛がしてしょっちゅう休んでいたから、先生たちからは病弱児童と見なされていた。しかし今日は休んでもいいと親から許可が下りると腹痛はすぐに治ってしまい、後は日がな一日家の周りで遊びまわる。要は学校に行きたくなかっただけなのだ。別に深刻な苛めにあっていたわけでもなく、行けば行ったで楽しく過ごしていたから、変種の登校拒否児だったのかもしれない。ただ女の子は苦手だった。成長の早い大きな女の子には待ち伏せされて意地悪されたこともあったし、中学の担任女性教師からはけっこう理不尽な苛めにあった。たぶん可愛げのない子どもだったのだろう。でも、そんなぼくの学校生活は平均的なものだった。団塊直後の世代で、すし詰めだったけど学級崩壊はなかったし、今のようなギスギスした陰湿な苛めもなかった。あきらかにハンデキャップを背負った児童が各クラスに1〜2名はいたが、彼らを周囲がサポートするのは自然なことだった。
上の写真は以前装幀を担当した記録集「ポール・ラッシュ100の言葉」から抜粋した清里の子供たちのスナップだ。1960年頃、無料で牛乳が配られた時の様子だというから、ぼくも彼らと同年代ということになる。開拓という苦難の歴史を背負う清里だが、彼らが飲んでいるのは地区内にある高地の牧場から届けられた本物の牛乳であろう。羨ましいな。だってぼくらの給食にいつも出されていたのは、あの不味い脱脂粉乳だったから。年数回のお祝いの日に出される揚げパンが最高のご馳走だった。その日はどんなことがあっても登校したものだった。それにしても写真を眺めると、当時の子どもたちは腰が据わっているというか、重心が低いというか、見事な安定感ではないか。確かにみんな貧しかったけど、等しく貧しいという平等感がそこにあった。
そんな学校生活でも拒否反応を起こしたということは、思うに、たまたま出会った同級生たちと同じ空間で一定時間拘束され続けるという状況が、ぼくの気質にとっては容易に受け入れがたいものだったからなのだろう。高校を卒業する頃には、すでに我慢も限界に達していた。社会に順応していく能力は義務教育などを通じた集団生活から築かれてゆくものだが、そのプロセスにおいてぼくは甚だしく社会性に欠け、順応しにくい子どもだったようだ。
ではさぞかしブルーな幼少期なのかというとそんなことはない。十代前半まで一家が借家住まいしていたところは、東京の某企業家が別荘にしていた敷地内にあり、そこには管理者となっている家族とぼくら一家しか住んでいなかったので、思えば住まいの周辺はずいぶんゴージャスな環境だった。今では梅の庭園として、時期ともなれば入園者も集う広大な私有地だ。小山を擁し、芝生や見事な植栽、そして池や秘密の洞窟まであったりし、ここはまさにぼくのワンダーランドだった。オーナー一家は夏場の一時期しか来ないので、近所の子どもたちと一緒にこの敷地内でほんとうにいろんなことをして遊んで過ごすという幸せな借景の幼少期をおくることができた。ここに居を構えたことと、登校を強要しなかった親には今でも深く感謝している。考えようによっては、学校は社会の箱庭みたいなものだけど、狭い世界であることにかわりはない。当時のぼくはワンダーランドから与えられる滋養のおかげで、なんとかその狭い世界の中で心のバランスをとることができたのかもしれない。
長じて自分の気質を分析してみるとアンビバレント(二律背反)な一面が際立っていると思う。あんなに行きたくなかった学校も行ってしまうと別人となる。活動的でリーダーシップをすぐとりたがるような子どもだった。だから教師たちはぼくが登校拒否しているなんて考えもしなかっただろう。勉強熱心だけど病弱な子として記憶されていたはずだ。
この生来の気質は今も変わることはない。社会人となってからもずっとこのアンビバレントな両極を振り子のように行き来しながら生きてきたような気がする。振り幅が大きい時ほど中間点を強く意識する知恵も身に付けた。あんなにいやだった学校から開放され、自分の意思による人間関係を築きながら、時間や空間を自由選択できるようになっても、結局この気質が変わることはなかった。
この歳まで振り子を繰り返す中からやっと少しづつわかってきたことがある。人生は必然と偶然の糸が複雑に絡み合いとぐろを巻いているようなものなのだから、時に応じてどちらにも振れていける幅が人には必要なんだと思う。思うようにならない事実を吸い取ってくれる「良い加減」の幅である。無駄や遠回りも、意味あるものとするのはそのあとの生き方次第。ならば無駄なものなんてひとつも存在しないことになる。人は笑顔のあふれる中で泣きながらこの世に生まれ出る、そして泣きながら見送られる時には笑いながらこの世から去るのだ、かくのごとく生きるべしとは古いチベット仏教の教えだそうだが、この世に生のある限り、学校を出ても次々と別な学校(分校?)が立ち現われてきて、卒業することなんて叶わない。笑いながらこの世から去るためには、結局人は自分の気質と折り合いをつけながら学び続けるしかないようだ。だから大嫌いだったあの頃の学校も、やはりあの時代のぼくだけの学校だったのだ、と今では考えている。


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