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2020.10.10

MONOLOGUEのスタートは2007年3月26日。ちなみに3月26日はぼくの本当の誕生日だったから。本当の誕生日って?と訝しく思う方もいるだろうが、ぼくが生まれた時代は、出生届けには一週間の猶予期間があったそうだ。早生まれのぼくはそのまま届け出ると、小学校に入学するときなどには年度はじめに生まれた子どもに比べ1歳近く幼いことになる。そこで両親はこう考えたのだろう。「この子が小さなまま小学校に入学して、大きな同級生に囲まれて生活するのは可哀想だ。ならば一週間届け出を遅らせて、遅生まれの先頭にしてあげよう」と。かくして、ぼくの戸籍上の誕生日は4月2日となっている。さて、この両親の選択が良かったのは悪かったのか、ぼくは未だに判断しかねているのだが…。
例えば、予防接種は生年月日の早い順に受けていたので、いつも決まってぼくは一番先頭で腕まくりして並んでいた。集団予防接種は昭和23年7月ころから開始された。しかし、昭和33年に注射針を一人ごとに交換するとの規則改正があったものの、その後も注射器の連続使用は使い捨て注射器が普及する昭和63年頃まで続いたといわれ、ずっと注射針は使い回されていたのだ。結果、我が国にB型肝炎が蔓延してしまったことを受け、平成元年にB型肝炎感染者らが国に対して損害賠償請求訴訟を提起。平成18年1月、最高裁判所の判決により国の責任が確定した。所謂「B型肝炎訴訟」である。昭和63年まで注射器針の交換は徹底されず、その連続使用を放置し続けた国の責任は大きい。不幸にも感染してしまった被接種者には言葉もないが、一番最初に注射されていたぼくの感染リスクは極めて低かったことの幸運は、両親の選択によってもたらされたものと感謝しなくてはならない。
もちろん良いことばかりではない。成長の度合いは幼少期の人格形成に少なからず影響を及ぼすものだが、少しだけ底上げされて入学したぼくは、負けてなるものかといった反骨精神のようなものが希薄だった。しかも何となく(生意気にも)同級生が子どもっぽく思えて、一人遊びをしたり、年上や大人と接することを好むような、つまりちょっと社会性に欠けた、風変わりな少年になっていた。小学校から帰るとすぐに近所の温泉に出向いては、番台の親父さんの将棋の相手をしたりしていた。一度だけ出席したことのある小学校の同級会でも「お前はホント昔から変わっていたよな」と同級生からしみじみ言われると、そうなんだと妙に納得する自分がいる。人格形成というのはもちろん後天的、かつ自覚的に自分の責任に於いて形成していくものと考えていたが、案外、自分が置かれた幼少期の環境にも影響されていたのかもしれない。
また、性質が反転するということもあるのだろうか。記憶を辿ると、思春期までのぼくはせっかちで落ち着きがなく、靴を脱げば必ず右と左の靴は離ればなれにひっくり返り、引き戸を開ければ開けっ放し、閉めるように叱られればビックリするほど大きな音を立てて閉めたり、始終母親の小言が後ろから追いかけてくるのが日常だった。獣道ではないが「お前の歩いたあとはすぐ分かる」と言われていたのに、今ではどうだろう。物がちょっと曲がっていると気になって揃えずにはいられない。日記も書きはじめたら一日も欠かすことなく続けていたり、(日記として残し始めたのが1985年9月22日からなので、35年以上続けていることになる)定常処理、つまりルーティンは日常の儀式といってもよいくらい日課となっている。一体、いつからこのように性質が反転してしまったのだろう。まったく記憶がない。子どもの頃に注意され続けてたことが深層意識に沈殿し続け、長じて地殻変動の隆起によってせり上がってきた結果なのだろうか。そうするとこれから、地震のメカニズムのようにプレートとプレートにひずみがたまり、やがて限界に達すると、突然大きな揺れに見舞われて元に戻ってしまうのかもしれない。それはそれで何だか怖い気もしてくるのだが、思い悩んでいても仕方ない。成るようになれ!ケセラセラだ。
このblogもそんな反転したぼくの性質から生じたもので、ある日思い立ち、スタートしてからすでに13年と6ヶ月。投稿数にして136。投稿画像をまとめてみて思わず出てきた言葉は「よくもまぁ、飽きもせず」だった。当初は一ヶ月に数本の投稿だった。やがて毎月1回の投稿が定着し、2014年9月1日からは隔月投稿に変更して現在に至っている。
今度のテーマは何にしようと考えていると、やがてぼんやりと話しの輪郭のようなものが浮かび上がってくる。たいがい、その切っ掛けは偶然見たTV番組だったり、知り合いと交わす会話の最中だったりするのだが、実は形をなさない多くのテーマの種は、ぼくの頭の中にある小さな庭に眠っている。それがある日その中の1本がひょっこりと芽を伸ばしてきて次のテーマとなっていく。そしてスケッチをするように細い幹にすこしずつ肉づけをしていくと、時に枝は思わぬ方向に伸びていったりする。毎月1回の投稿以降、ぼくのblogが長文となることが多いのは、つい枝葉を伸ばしてしまうぼくの癖と呼応しているようだ。
「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、ゆかいなことはあくまでもゆかいに」。(日経新聞の追悼記事より)これは井上ひさしの言葉だそうだが、ぼくのblogはスタートからずっとこの言葉に逆行しているようだ。しかも何の一貫性もない。徒然の思いつき投稿なので、美術や音楽やエッセイとジャンルもバラバラ。タイトルもなく、投稿年月日しか表示していない。だから、過去の投稿を探そうとしても、書いた本人でもなかなか見つからない。そんな不親切きわまりないblogにやっと遅まきながら反省。そこで全投稿にタイトルを付け、左側に目次のリスト表示を加えたので、興味のあるタイトルをクリックすればすぐに投稿本文が表示されるようにした。そんな気紛れblog、今後は隔月投稿から不定期投稿となります。

井伏鱒二 甲州随筆選
1954年 甲府・談露館にて亡父が撮影した井伏鱒二近影
RICO RICO Wine image (First Version)
RICO RICO Bottle (First Version) : All Lineup
RICO RICO : White Wine Label
RICO RICO : Red Wine Label
Rico Rico : White Bottle & Carton
RICO RICO Wine image (Second Version)
RICO RICO Bottle (Second Version) : All Lineup
RICO RICO : White Wine Label
RICO RICO : Red Wine Label
RICO RICO : Rose Wine Label
ワイン専門誌『Winart』 Cover
ワイン専門誌『Winart』 Covers

茶碗の葡萄酒

Koshu Wine
2020.9.01

ぼくはまったくといってもよいほどアルコールが苦手なので、正真正銘の「下戸」と言えるだろう。対義語には「上戸」があてられていて「うわばみ」とか「ざる」とも呼ばれている。さしずめ横綱格は「酒豪」というところか。元来、「戸」とは律令制の課税単位のことで、婚礼のとき酒量を決める際に「上戸」「中戸」「下戸」と定めたことから、酒の飲めない人を「下戸」と呼んだのが由来となっているようだ。
まず、アルコールが体内に入ると肝臓には、紅潮、頭痛、吐き気、頻脈などを引き起こす毒性の強い「アセトアルデヒド」という物質が分泌される。これを分解するのが「アルデヒド脱水祖素酵素2=ALDH2」。「下戸」はこのALDH2の活性が低い「低活性型」もしくは「不活性型」と呼ばれる体質であるといわれている。実はALDH2はモンゴロイド系特有のもので、ヨーロッパ系やアフリカ系にはみられないんだとか。
そんなアルコールが苦手なぼくが、唯一少しだけ口にできるお酒がある。それはワイン。麦から作るウイスキーやビールは駄目なのに、葡萄から造るワインなら少しだけ飲めるということは、もしかしたら、なだらかな山辺に広がる葡萄棚に囲まれた風景の中で育ったことと無縁ではないのかもしれない。デラウェアや地元の固有種である甲州などの生食用葡萄を栽培する畑が、暮らした自宅周辺には数多くあった。小学校の通学路もそんな葡萄畑の脇道だったから、季節によって変化していく畑の様子も幼少期の懐かしい残像となっている。
ところで、あと1ヶ月で21世紀になろうかという時に、山梨県立文学館の開館十周年を記念してコンパクトな本が刊行された。あとがきには当時の館長であった紅野敏郎氏によるこんな記述が残されている。「…文学館開館十周年の記念品の話が出たとき、井伏の「甲州」にまつわる随筆を精選して編むことがベスト、ということに決まりました。「コルボオ叢書」の一冊になっている『厄除け詩集』のような、瀟洒で、身近に置いて読みやすい、滋味深い本、これを皆さまにおとどけするのが、文学館らしい風貌姿勢と判断いたしました。風貌姿勢という言葉は、井伏鱒二の愛用語です。「甲州」の自然と人ともかかわり、あたたかく、きびしいまなざし、抑制の利いた文体、それをこの本から読みとっていただければ幸甚です…」
こうして、甲州との体験を根っことしたふくよかな作品7編がおさめられた「井伏鱒二 甲州随筆選」が刊行され、ぼくはこの小冊の装幀を担当した。そこにとくに印象深い、好きな小編があって、その4頁にも満たない「葡萄の村」は本の最後におさめられている。1941年、『新女苑』11月号に発表された作品だが、最後の数行を転載する。
*
「…山のなかの工場とはいへ、今まさに活気旺溢のところである。同時に、山麓の農家でも各自の忙しさに違いはない。御主人は総指揮を相勤め、奥さんやお嬢さんまで自ら動員して青果を籠に詰めてゐる。雇ひの人は発送の荷造りをする傍ら、ほの暗い納屋に入って葡萄酒搾りも勤めるが、その機械といふのが甚だ原始的である。ハンドルを廻すとギイガラガラといふ音がする。
しかしこのやうな活気も忙しさも、秋が終わると共にすべておしまひになる。葡萄棚の葡萄はすつかり摘み尽くされ、葡萄の葉は海老色に色づいて来る。さうして、やがて初めてひと霜の来る夜は、一夜のうちに葡萄の葉がみんな散り尽くしてしまふ。葡萄の葉は一せいに散る。その散る音ははらはらと散るなどと、形容するやうな生ぬるいものではない。
広い広い幾つもの葡萄畑の葉が、みんな一夜のうちに散つてしまふ。ばらばらばらざあざあざあと音をたて、まるで木立のなかで時雨の音を聞いてゐる感じである。夜ふけにこの音をじつと聞いてゐると、誰しも疑ひなく万感胸に迫つてゐるものがある。幾ら葡萄園に住みなれたお婆さんでもお爺さんでも、この物淋しい音を聞く夜は、きつと夜眠ることができないだらう。ざあざあざあ……ばらばらばら……と散つてゐる。きつとお婆さんもお爺さんも、寝床から起きて来て炉の火をかきおこし、戸外の葡萄の葉の時雨の雨にじつと耳を傾けてゐることだらう。」
*
この時、時雨の音に耳を傾けているのはお婆さんやお爺さんだけではない。子どもだったぼくも、まだ薄暗い朝方の寝床の中でたしかに何度も聞いていたのだ。そうして、冬の気配を届ける葡萄時雨の季節が何度も通りすぎていった。枯れた葡萄の葉が晩秋の風にあおられ、擦れて出るおよそ植物らしからぬ独特のガラガラという乾いた響きは、「冬がもうそこまでやってきているぞ」という葡萄畑から届く合図だった。だからぼくにとって、グラスの底に沈殿するワインにまつわる記憶のルーツは、葡萄畑が奏でる時雨の音をいっぱいに浴びた酒樽から立ちのぼる香りの奥に漂っている。母親の生家は比較的大きな葡萄園を営んでいたので、ひと山越えて折々に遊びに行った時の思い出は葡萄にまつわるものがとても多い。収穫時期ともなれば甘酸っぱい香りが充満する作業場の片隅で、搾りたての果汁100%の葡萄ジュースをふんだんに飲むことができたし、みな大人たちは、一日の仕事が終われば自家醸造した一升瓶に詰めた葡萄酒を茶碗に注いで酌み交わしていた。だからワインを口に含むと、そのフルーティーな口当たりの奥から、漂ってくる香りとともに葡萄色の懐かしい記憶も蘇ってくる。
長じて、ぼくはデザイナーとなり、ワイナリーの醸造家らとのおつきあいや、ラベル・デザインなど、ワインとの係わりも次第に増えてきた。それに地元ではワインは重要な地場産業と位置づけられているので、風土や地域文化を引き継ぐ産業としての期待も背負っていて、食生活の変遷に伴ってワインに対する認識も変化してきたので、もうワインを葡萄酒なんて呼ぶ人は今ではほとんど見かけることもない。
ワインはフランス語で「Vin」、英語で「Wine」、イタリア語では「Vino」、ドイツ語は「Wein」と、ヨーロッパ発祥の果実酒というイメージが強いが、きわめて歴史の古いこの酒は新石器時代にすでに醸造されていたとされている。世界最古のワイン醸造の痕跡はジョージアで発掘された紀元前8000年前の陶器の壺の発見によって、この地が現時点では最古の発祥地。ジョージアはコーカサス山脈の南麓、黒海の東岸にあたり、北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと隣接する交通の要衝で、日本では2015年までグルジアと言われていた国だ。そしてワインは中東、イラン高原、古代エジプトなどを中心とする広い地域で愛飲されるようになり、地中海岸沿いを拠点としていたフェニキア人によって古代ギリシアやローマ帝国を経て、広くヨーロッパへと伝播されていった。キリストがワインを自分の血と称したことからワインはキリスト教の聖餐式において重要な道具となったのは有名な話だが、この中世ヨーロッパでは儀礼のための飲み物であったから、日常の飲み物として広まるようになったのは中世後期からと言われている。そして、ブルゴーニュワインが銘酒として有名になり、ルネサンス以降、娯楽としてのワインの飲酒として発展、定着して現在に至っている古典的な果実酒なので、ワイン醸造家や愛好家らは深いこだわりをもってワインと向き合っている。ワイナリーの経営者はどことなく他の地場産業者からは感じられない独特の誇りをもってワイン造りをしている印象が強い。様々な物語を内包するワイン造りの風土は、一つの文化であるという誇りなのだろう。ワインを愛飲する人々からも、その奥深さを愛でる楽しみとこだわりがミックスされた、これもある種の誇りと呼べるような意識が感じられる。
だからぼくは、そうした世界観によって成り立つワインとデザインを通じてかかわる場合には心して向き合わなければと考えてきた。ワインの産地で昔から活動してきたので、必然的に多くのワインのラベルデザインをしてきたが、とくに記憶に残っているのが、CAINZの『RICO RICO』Wineだ。サントリーが輸入元となったチリワインの白、赤、ロゼのシリーズで、初期デザインと第二期デザインの2タイプがある。「RICO RICO」とはスペイン語で「美味しい!美味しい!」という意味らしいが、「安くて、しかも美味しい」をアピールしたこの商品は、売場ではダンボールに納まって山積みされるので、とにかくスッキリとシンプルで分かり安いイメージとなることを意識してデザインした。初期デザインは白と赤の2アイテムでスタートしたので、落ち着いたグリーンとワインレッドの配色にアクセントカラーのシルバーとゴールドを振り分けた。そしてメイン・ビジュアルには螺旋状に絡み合う葡萄の蔓を金銀で刷り分けた
元来、葡萄は蔓植物で、植物学ではヴィティス属 / ブドウ属と分類されている。蔓性の植物は蔓の先端を不規則に動かしながら伸びて支柱などに触れると、接触した反対側の細胞が伸長し、その結果蔓が支柱に巻きつく葡萄は「巻きひげ類」のタイプに属する。(『三省堂新生物小事典』)子ども時代に枯れた葡萄畑の脇に刈り取られ積み上げられた葡萄の蔓を散々みてきたから、使い古された葡萄の房なんかでなく、ぼくはこの独特な形状の蔓にフォーカスしてみようと思い定めていた。丁度季節も秋になっていたので、さっそく傾斜地に葡萄の畑が広がる近くの山の麓に向かい、何本か枯れた蔓を採集してきた。あらためて観察すると実に有機的で複雑な形状をしている。電子顕微鏡で覗いたことはないけれどDNAの二重螺旋構造を連想させるオーガニックでエレガントなフォルム。これという蔓を選び出し、接写して切り抜き加工を施して白地に横に配置すれば、ワインボトルを並べたときにボトルを束ねるロープのようにも見えるはず。幸いデザインも好評で異例のロング&ベストセラーとなった
そして数年が経ち、初期ラベルのリニューアル依頼が入ってきた。さて今度はどうしようか、としばらく悩んだすえにイメージを一転させ、有機的な形状で可愛らしい、子どもの絵本のようなラベルにしようと考えた。モチーフとしたのは17〜19世紀にイングランド、フランス、イタリアで制作された刺繍のためのスケッチを元にした。刺繍するための下絵なので、見られることを意識していないから、線も自由闊達でのびのびとしている。×印はボタンの付く場所というのもご愛嬌。(このイラストは「ミクロコスモスⅠ・Ⅱ」の書籍デザインでも活躍してくれた)モノクロの線画に塗り絵の要領で着彩を施すとカラフルでファンシーなイメージに生まれ変わって、思いのほか可愛らしいワインラベルとなったと思う。
変化していくということはどういうことなのか。愛着のあったものを捨て去り、明日の後ろ姿に目を凝らす決意表明なのだろうか。愛着と飽きは常に表裏一体で存在するもの。もうそろそろ変わらなきゃって腰を上げる変化もあるし、稲妻に打たれたような衝撃が促す変化もある。このワインラベルシリーズの変化は性格の異なる姉妹と向き合うような戸惑いもあるのだが、ぼくはどちらにも忘れがたい愛着を感じている。
ワインは発祥地域の文化風土を纏って、豊潤な広がりと深淵な風味を楽しむ、とても奥深い世界を届けてくれる飲物だ。もちろん他のお酒だってワインと遜色のない独自の魅力を湛えているのだが、ワインにはどことなくスタイリッシュでお洒落なイメージが根付いている。ワインと言えば、ぼくは仕事の資料として、2000年前後に美術出版社から季刊で発行されていたワイン専門誌『Winart(ワイナート)』を定期購読していた。特にワインに興味があったということでなく、購読理由は別にあった。本誌のArt Directionを担当していた岡本一宣氏の仕事を見たかったからだった。この『ワイナート』以外に新潮社の『SINRA(シンラ)』や文藝春秋の『ノーサイド』といった雑誌で、岡本一宣氏のデザインにはずっと興味を抱いていた。一言で言えば彼のデザインは、歌舞伎の見得に近い気がする。(歌舞伎で「見得(みえ)を切る」というのは正しい言い方ではなく、本来は「見得をする」が正しいのだそうだ)モダンでシンプルで歯切れがよく、イメージ写真に大胆にメリハリをつけた文字を配置して、(極端に大小を付けて対比させる手法)当時、イッセン風と呼ばれるスタイルを確立していた。メインはずっしりとした和文のモリサワゴシックMB101シリーズ。そして、繊細なセリフ書体の英文字を小さく添えてアクセントとする。こうして文字に密度の差をつけて対比させるテクニックと、そこに色文字を組み込んで、文字をビジュアル化していく特徴的なバランス感覚は音楽的ですらあった。一見やり過ぎ!と思えるのに、全体感ではやはりちゃんとバランスをとっている。料理の盛りつけをさせたら間違いなく素晴らしい仕事をするに違いないと思わせるような、ぼくとほぼ同年輩の長崎出身のエディトリアル・デザイナーだ。念頭に置いている言葉は「美は存在の力」だという。その言葉は、自身の美意識に寄せる信頼の大きさを物語っている。厚みが7cmもある、ぶ厚い彼の作品集の表紙タイトルは『岡本一宣の東京デザイン』と命名されている。ここに「東京デザイン」とあるのは何故なんだろう。面識はないので確かめようもないのだが、距離感や密度の違いでなく、長崎から東京までの心の大地の道程が、どこかワインを通じて希求する道程と重っているのかもしれない、と思ったりもした。ワインの本家とされるヨーロッパへの憧れと、ここにしかないもう一つの日本独自のワインの世界を育てあげることへの情熱。その二つがブレンドされた道程の先にある「存在の力」と言い切れる、なにものかを求める旅。
と、ここまで考え、酒の飲めないぼくは、子どもの頃に見た光景へと再びループする。どうしても、大人たちが手にした茶碗に注がれたあの葡萄酒のことを思い浮かべてしまうのだ。子どものぼくには口をつけることのできなかった、あの茶碗酒。ぼくにとってのワインは、深淵な風味の世界を湛えるWineでなく、やっぱり、時雨音の染み込んだ葡萄酒だ。未だ飲んだことのない、未来が注がれた葡萄酒なのだ。どこか遠くから、高田渡の歌声が聞こえてくる。
*
酒が飲みたい夜は

酒が飲みたい夜は 酒だけではない
未来へも 口をつけたいのだ
日の明けくれ うずくまる腰や
夕暮れとともに しずむ肩

血の出るほど 打たれたホホが
そこでも ここでも
まだ ほてっているのに
うなじばかりがまっさおな 夜明けを
まっさおな 夜明けを待ち望んでいる

酒が飲みたい夜は ささくれだった指が
着物の様に着た夜を剥(は)ぐ
真夜中の大地を 掘りかえす
夜明けは 誰のぶどうのひとふさだ

(作詞:石原吉郎 作曲:高田渡)

昨日は一昨日の明日

Archives 1991~2009
2020.7.01

ぼくが主宰しているBOSCOサイトのTOPページには、BOSCOを俯瞰してもらえるように、大きな画面で34の事例が自動的に入れ替わり、ランダムにループしている。その下には「Library」直近事例のサムネイルが4つ並んでいて、クリックすると各事例詳細ページが表示される。サムネイル(thumbnail)とは画像や印刷物ページなどを表示する際に、視認性を高めるために縮小させた見本のことで、親指(thumb)の爪( nail)のように小さく簡潔であるという意味からきている。そして右下の「View more」から事例一覧ページに移るようになっていて、移動したページには、これまた夥しい数のサムネイルが並んでいる。時系列順にこれまで制作してきた数多くの事例が掲載されていて、任意のサムネイルをクリックすると、その中には関連詳細事例が表示され、スクロールして各事例のデザインイメージを見ることができる。つまり掲載事例は「入れ子状構造」となっているので、すべてのLibrary事例を確認するためには(試したことはないが)おそらく半日以上かかるかもしれない。
掲載事例の多くはブランディングに関するもので占められている。シンボルやマーク、ロゴタイプからスタートして、そのブランドを構成するさまざまなツールがデザイン展開されている。掲載されているものは個々の事例なので、本当はそれらを貫くブランディングコンセプトこそ伝えたい根幹なのだが、これがなかなか難しい。クライアントにプレゼンした企画書を公開してもあまり意味がない。それらは住宅を例にとってみれば、趣意書、構造図、平面図、立面図、パースなどの断片的なプランにすぎない。やはり、仕上がった住宅を見学体験してもらう事がもっとも手っ取り早いのだが、サイトではそれも叶わない。したがって断片的なイメージの集積で感じ取ってもらうしかない。さらに、実際に商品展開されている売り場のsnapや、店舗外観・内観などのsnapでその全体像のイメージを補完をしてもらうことになる。
BOSCOの場合、クライアントの業態がホームセンターやスーパー(スーパーマーケットではなく、1フロアで衣食住すべてを扱う小売業における巨大店舗となるメガストア[megastore])、コンビニなどがメインなので、やはり食品が中心となるが、それにとどまらず、日用品をはじめ、生活に関するあらゆるジャンルが対象となる。日本のホームセンターはおよそ10万アイテムを揃える世界でも例を見ない業態で、実に幅広いアイテムを網羅しているので、それらと向き合うと、あたかも「生活をまるごとデザイン」しているような気がしてくる。さらに、それらの中に書籍などのエディトリアルのデザインやサイトデザイン、また、プロダクトデザインや店舗関連の建築デザインが点在して事例全体のアクセントとなっている。改めて見直すと本当にいろいろなデザインをしてきたんだと感慨深いものがある。個性のプチ集合体であるBOSCOなのだが、それでも何か一貫したトーンがにじみ出ているように感じられるのも、今さらながら不思議な気がしてくる。ここにまとめられている事例は2008年からのものなので、「Library」は、いわばそんなBOSCOの12年分の集積と言えるだろう。
言うまでもないことだが、デザインされた事例はぼくらの表現には違いないのだが作品と呼ぶようなものではない。自己完結する表現物ではなく、市場における購買対象者を想定した、クライアントとの協同制作物なのだ。デザインは企画、製造、販売までの流れの中で一部分を担うセクションにすぎない。そこで「たかがデザイン」、「されどデザイン」の気概をもって、さまざまな制約条件の中からもっともクライアントの要望に近い最適解を探す仕事なのだと考えている。そして、ぼくらの成果はシンプルに売れ行きとして数値で示されてくるのだが、数値化できない付加価値をときには生み出すという成果も忘れてはならない。求められること、応えられること、展開される舞台、購買者を包む時代感覚、それらが連動しながら動き続ける中でぼくらの仕事は試され、成り立っている。
こうして、ぼくがデザイン活動をスタートして46年が経った。しかし、現在サイトで掲載されている事例は、その年月の四分の一に過ぎない。近年の仕事の大半はブランディング事例で埋め尽くされていて、今も継続中のそれらの仕事が現在のBOSCOの中核を成すものなので、それ以前の埋まっている仕事をあらためて掘りおこすつもりなどなかったのだが、年明けから予想外の出来事が発生した。新型コロナウイルスである。その後の感染防止のために余儀なくされた長い自粛期間中、ある日突然、ぼくは下の地層から埋まっていた仕事をピックアップしてみようと思い立った。常々デザイナーは回顧することが似合わない職種で、生涯現役を貫くべきと考えていた。しかし、10年前の仕事も昨日の仕事も過去のものであることに違いはなく、こんな時でなければできない事をしてみるのもいいかも知れないと思い直してみた。そこで30年ほど遡ってみようと考え、「Archives」というコンテンツをサイトに加えてみることにした。掲載事例は合計15点に絞ってみた。すべてこれらはBOSCOとして発表してきたものだが、デザインそのものは、ぼく個人の仕事である。一番古い事例は1991年で、一番新しい事例は2009年。パンフレットなどのグラフィック、書籍や雑誌のエディトリアル、そして店舗環境グラフィックも含まれている。多くの事例はブランディングに較べてクライアントの要望や購買者への意識は抑えられていて、各テーマへの共感が色濃く表現されているデザインとなっている。
TOPページ「Library」サムネイルの下に新たに追加された「Archives」の4つのサムネイルが表示されている。「Library」の場合と同様にクリックすると詳細ページに移動できるが、右下の「View more」で15事例の一覧ページに移るので、そこから各事例紹介ページに移動してご覧いただきたい。ちなみに以下は各事例のキャプション一覧となる。

1-「アール・イマキュレ-ダウン・希望の原理」は、ダウン症の人たちの創作アトリエとして活動しているアトリエ・エレマン・プレザンの活動を紹介した、多摩美術大学芸術人類学研究所主催による展覧会とシンポジウムを紹介するために制作された小冊子である。[制作年:2009年]

2-「アール・イマキュレ-ダウン症の人たちの感性に学ぶ」は、ダウン症の人たちの創作アトリエとして活動しているアトリエ・エレマン・プレザンと多摩美術大学芸術人類学研究所による協働プロジェクト「ダウンズタウン・プロジェクト」の活動を紹介するために制作された小冊子である。(助成:財団法人セゾン文化財団)[制作年:2007年]

3-「Down’s Town」は、多摩美術大学芸術人類学研究所とアトリエ・エレマン・プレザンが協同で立ち上げた「ダウンズタウン計画」の紹介パンフレット。表紙デザインは所長・中沢新一氏とアトリエ代表の佐藤よし子さんと一緒に3人でPCの前で即興で作り上げた。また、随所に使われているイラストや描き文字も佐藤よし子さんによるものである。

[制作年:2007年]

4-「Sol」は日本グラフィックデザイナーズ協会山梨地区の1991~1993年までの交流会活動報告書として制作されたA3サイズの大判ブックレット。中には招待者であるサウンドデザイナーによる3DサウンドCDが納められている。サンプリングされた水の音や女性の声などが英詩朗読とミックスされ、デジタル処理を駆使して再構成されている。

[制作年:1994年]

5-Poster『homage to spirale :「スピラーレ」に捧ぐ』

『Spirale(スピラーレ)』は1953~1964年の間にスイスで発行された美術雑誌である。カンディンスキー、パウル・クレー、モンドリアンといった構成主義の画家たちはそこでさまざまな「若い芸術」のための異部門間による国際的フォーラムを試みた。この4連ポスターは、運動体『Spirale』のダイナモとなった初々しい試みの数々に捧げるオマージュ。どんな時代も、“はじまりの心”に希望は集う。半世紀前、わたしたちの世界に誕生したこれら“はじまりの心”の萌芽は、幾多の異種交配を経た真新しい樹木へと成長を遂げ、未来の子どもたちの前に大きくその枝葉を広げることとなるだろう。なお、各ポスターのビジュアルエレメントは本書から引用し再構成されている。[制作年:2000年]

6-清里の父と呼ばれ、異国の地で理想郷を創ろうとしたポール・ラッシュ。彼の残した思想は100の言葉に凝縮されている。これを機に記録写真を全てデジタル化し、様々なカラーによるWトーンで再現した。この書籍のデザインでは、これらの画像と100の言葉がセットにしてまとめられている。カバーの穴からは100の言葉の原文が見えるようにした。また、1968年と2003年の清里の風景を空撮した画像を対比して見返しを構成。大きく変わってしまったもの、そして何も変わっていないものが視覚化されている。

[制作年:2003年]

7-「ミクロコスモスⅠ・Ⅱ」は、中沢新一氏の比較的短い文章を集めて編まれた二部仕立ての書籍デザイン。造本は開きやすくエレガントなフランス製本とし、カバーには彫りの深いエンボスによってハンガリー語の綴りが再現されている。(表紙文字は顔料箔押し)また、帯、カバー、本扉などに採用されたイラストは、17~19世紀にイングランド、フランス、イタリアで制作された刺繍のための原画を元にしている。[制作年:2007年]

8-「対称性人類学Ⅱ・狩猟と編み籠」は中沢新一氏による芸術人類学叢書Vo.1として、2008年に講談社より発刊された書籍デザイン。本書では装幀に加えて本文の造本設計も担当している。裏表紙の写真は石川直樹氏「New Dimension」より。[制作年:2008年]

9-「自然とエロスの宗教・シヴァとディオニュソス」は芸術人類学叢書Vo.2として、2008年に講談社より発刊された書籍デザイン。本書は装幀のみで、裏表紙の写真は天野移山氏撮影による「ネパール・シヴァのリンガ」より。[制作年:2008年]

10-「Sems(セム)」は、中沢新一氏が主宰するゾクチェン研究所通信としてデザインされた。B5判・第6+7合併号とA5判・第8号がある。8号は「ジョン・グールド鳥類図譜総覧」より転載。発行はゾクチェン研究所と照光寺宗教文化研究所。[制作年:2004年・2008年]

11-「夜の知恵」は2006年、多摩美術大学に誕生した芸術人類学研究所の初代所長となった中沢新一氏が、開所式のために編んだ私家版冊子である。デザインは中沢氏が隣りに座り一緒に制作。著者と共にブックデザインするという幸運に恵まれた思い出深い作業となった。

ちなみにこの研究所のリフォームを担当した遠藤治郎さんは、先にボスコのリフォームを依頼した建築家で、中沢氏の希望で、芸術人類学研究所とボスコのインテリアは兄弟のように似通っている。[制作年:2006年]

12-雨畑硯は日本における最高の硯と呼ばれ王座を占めている。その地で何百年間も手作業で製作を続けている雨宮弥兵衛家のブローシュアデザイン。タイトル文字は明治時代の活版刷りから拾って組まれ、黒が二度刷りされた硯の写真は、風合いのある薄手用紙からぼんやりと浮かび上がり、カラー写真と対比させて、デザインアクセントとなっている。全体感に和を意識した意匠である。[制作年:2007年]

13-「造本・山本育夫詩集・新しい人」は手漉き和紙160枚あまりに手巾刷りされ、それらの和紙の束は5人のアーティストによって制作された箱に納められた。これらの試みは1991年にドイツ・フランクフルトのブックフェアーにセッティングされ、多くの人々が関わった「new man device」と命名されたこのプロジェクトのためにポスターとパンフレットが制作された。[制作年:1991年]

14-「Paper Jewelry Book」はSol 2のシリーズデザインとして構想され、ジュエリーデザイナーの園部悦子、黒川興成2名によるオリジナルジュエリーデザインをペーパーで再現できるようにしたブックレットデザインの試みである。各型紙はカラーのトレーシングペーパーに包まれている。後にこれらのジュエリーデザインは金属によって再現され、商品化された。[制作年:1996年]

15-新宿高島屋11階の全フロアーに誕生したDigital Square 21 ベスト電器の壁面グラフィックデザイン。デパート内にオープンする初の家電店には、他店のような法被を羽織ったスタッフの姿はなく、デジタル時代の幕開けとなった新世紀に相応しい、カジュアルな佇まいのスタッフたちがポロシャツ姿で対応した。(施工はスペースによる)[制作年:2000年]

平時のニューヨークには人波み
封鎖された中国武漢
人が消えたアメリカ首都ワシントン
銀座八丁目からは一丁目が見通せる
コロナ禍のフランスの街並み
週末の東京銀座
最大の感染者数の出たニューヨーク
スーパーの棚から商品が消えたスペイン
まるで戦時中のようなイタリアの光景
ロックダウンされたイギリス
インド・ムンバイにて(2020年4月5日撮影)。(c)AFP /Punit Paranjpe
スペイン・マドリードにて(2020年3月28日撮影)。(c)AFP / Gabriel Bouys
Eric Kaz

コロナのあとさき

COVID-19
2020.5.01

基本的に時事ネタは避けることにしているが「3.11」や、いま世界を覆い尽くしている「新型コロナウイルス(COVID-19)」はそうもいかない。現在も4月7日7都府県に発令されて、その後全国にまで拡大された緊急事態宣言期間のただ中。年明けから今日に至るまで、日増しにあふれ出してくるコロナ情報に辟易しながらも目をそらすこともできず、次第に心が疲弊していく。感染を広げない基本的な対処法の啓蒙は重要だが、テレビをつければ、連日増えていく感染者数が報告され、ヒタヒタとウイルスが身近に迫ってくるぞとささやきかけてくる。フェイクやデマには惑わされないでと言いつつ、それらに踊らされる状況が報道され、人影の消えたニューヨークの街並みが映し出されると、まるで映画を観ているような錯覚に陥るのだがすぐに、いやこれは現在進行形の出来事なのだと思い直す。よく指摘されていることだが、このパンデミックを作りだした最大の要因は、人間の移動拡大を持続する現在社会の構造が生み出したもので、本来なら中国の武漢という一地域の風土病に過ぎない疫病がここまで急拡散されることもなかったはず。新型コロナウイルス厄害は第2次世界大戦以来の試練であると国連事務総長は危機感をあらわにするが、そんな喧噪の中でも春になれば桜が咲く。しかし今年はことのほかもの悲しい春の光景だ。75年前、東京はこの桜の季節に空襲にあって上野の山で焼け残った桜が花を咲かせたが、花見客はひとりもいない。作家の坂口安吾は、満開の桜の下には「人間の気と絶縁した冷たさ」があったと記していると紙面に紹介されていた。(朝日新聞「日曜に想う・4月12日)今年の「絶縁した冷たさ」は空襲などでなく、集うことを許さぬ疫病への恐れによるもので、そこに不穏な世情によって消えた笑みとともに尖った感情も投射されている。また、「カドメイアの勝利」というギリシャ神話に由来することわざも紹介されていた。勝つには勝ったが負けたのに等しい打撃をこうむる、そんな勝ち方のことをいう。いま起きつつある深刻な経済への痛手のことだ。ウイルスは封じても、刺し違えるように多くの人が困窮の波間に沈んでしまう恐怖が世界中を暗く覆いはじめている。そもそもこの新型コロナウイルスには打ち勝つという言い方があてはまるのだろうか。
新聞を開くと、昨夜のテレビ報道が活字でリフレインされ、やや学術的な説明が付け加えられているのだが、ぼくらに日々届く情報はどのくらい信じられるものなのだろうという疑問もわいてくる。連日不安感を煽る報道番組を眺めていてもなかなか新型コロナウイルスの実体は伝わってこない。そこで、いま分かっている事実だけでもきちんと知りたいと思い、情報ソースをTVからYouTubeに切り替えてみると、堀江貴文さんのホリエモン・チャンネルで「新型コロナウイルスについて専門家に聞く!」という番組が目にとまった。前編と後編で計45分ほどのインタビュー番組で、堀江さんと米国国立衛生研究所のアレルギー感染症研究所・博士研究員である峰宗太郎さんとのやりとりは興味深かった。堀江さんは一般人の抱く疑問点を整理して的確に質問していた。対して、峰さんは科学者としての視点から、やや感染しやすく毒性も高めに変異した新型コロナウイルスの特性や、これまでに判明していること、そしてまだ分かっていないことなどを科学的に明快に説明していた。例えば人間のDNA(二重螺旋)に対してウイルスの遺伝子はRNA(一重螺旋)なのでエラー訂正されにくく非常に変異しやすいとか、今回の新型コロナウイルスは鼻水に含まれる量がとても多い。その飛沫が様々なものに不着することによって引きおこされる接触によって感染する可能性がとても大きいとか、基本的なウイルス特性のレクチャーには成る程と納得するものがたくさんあった。渡航制限はピークコントロールのひとつの手法として、医療のキャパを上げておくまでの時間稼ぎという点では意味があるが、感染を防ぐ決めてとはなりにくい。また終息に関しては、ウイルスを押さえ込んだとか症例が無くなったというような臨床的なことではなくて、社会がどこまで許容したかということと、治療法が開発されたりワクチンが出てきて恐るるに足らなくなり、行動が落ち着いてきたときなのではないか。つまり、季節性インフルエンザのように社会的に許容されて一応の安全を得たという感覚を人々が抱いたときにはじめて終息と言えるのではないかという。
そして今回顕著なのは、ぼくらを取り巻く環境変化。2014年の新型インフルエンザの時と大きく状況が変わったのはSNSの爆発的発達。これによってウイルスとは別種の不安感が巻き散らかされている現状がある。WHOはインフォデミックという言い方をしているが、まさに情報が感染している状況がコロナ禍に折り重なっている。ただ暗い話しだけではない。いま世界中の科学者たちが、同時進行でこのウイルスに立ち向かっているという明るい状況も伝わってきた。世界の人があまねく安全と安心を得たという、その日に向かって昼夜活動し続けてくれていることが今日の微かな光明となっている。そしていま、心しなくてはならないのは、判明している情報を元に「正しく恐れる」こと。
これまで、ぼくはウイルスについて何一つ知らなかった。「正しく恐れる」ためには「正しく知る」ことも重要だ。生物学者の福岡伸一さんが新聞で連載している「動的平衡・ウイルスという存在・生命の進化に不可避的な一部」を読むと、少しだけ理解することができる。やや難解な記述もあるが全文転載する。

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ウイルスとは電子顕微鏡でしか見ることのできない極小の粒子であり、生物と無生物のあいだに漂う奇妙な存在だ。生命を「自己複製を唯一無二の目的とするシステムである」と利己的遺伝子論的に定義すれば、自らのコピーを増やし続けるウイルスは、とりもなおさず生命体と呼べるだろう。しかし生命をもうひとつの別な視点から定義すれば、そう簡単な話にはならない。それは生命を、絶えず自ら壊しつつ、常に作り替えて、あやうい一回性のバランスの上にたつ動的なシステムである、と定義する見方-つまり、動的平衡の生命観に立てば-、代謝も呼吸も自己破壊もないウイルスは生物とは呼べないことになる。しかしウイルスは単なる無生物でもない。ウイルスの振る舞いをよく見ると、ウイルスは自己複製だけしている利己的な存在ではない。むしろウイルスは利他的な存在である。
今、世界中を混乱に陥れている新型コロナウイルスは、目に見えないテロリストのように恐れられているが、一方的に襲撃してくるのではない。まず、ウイルス表面のたんぱく質が、細胞側にある血圧の調整に関わるたんぱく質と強力に結合する。これは偶然に思えるが、ウイルスたんぱく質と宿主たんぱく質にはもともと友だち関係があったとも解釈できる。それだけではない。さらに細胞膜に存在する宿主のたんぱく質分解酵素が、ウイルスたんぱく質に近づいてきて、これを特別な位置で切断する。するとその断端が指先のようにするすると伸びて、ウイルスの殻と宿主の細胞膜とを巧みにたぐりよせて融合させ、ウイルスの内部の遺伝物質を細胞内に注入する。かくしてウイルスは宿主の細胞内に感染するわけだが、それは宿主側が極めて積極的に、ウイルスを招き入れているとさえいえる挙動をした結果である。
これはいったいどういうことだろうか。問いはウイルスの起源について思いをはせると自ずと解けてくる。ウイルスは構造の単純さゆえ、生命発生の初源から存在したかといえばそうではなく、進化の結果、高等生物が登場したあと、はじめてウイルスは現れた。高等生物の遺伝子の一部が、外部に飛び出したものとして、つまり、ウイルスはもともと私たちのものだった。それが家出し、また、どこかから流れてきた家出人を宿主は優しく迎え入れているのだ。なぜそんなことをするのか。それはおそらくウイルスこそが進化を加速してくれるからだ。親から子に遺伝する情報は垂直方向にしか伝わらない。しかしウイルスのような存在があれば、情報は水平方向に、場合によっては種を超えてさえ伝達しうる。それゆえにウイルスという存在が進化のプロセスで温存されたのだ。おそらく宿主に全く気づかれることなく、行き来を繰り返し、さまようウイルスは数多く存在していることだろう。
その運動はときに宿主に病気をもたらし、死をもたらすこともありうる。しかし、それにもまして遺伝情報の水平移動は生命系全体の利他的なツールとして、情報と交換と包摂に役立ってきた。いや、ときにウイルスが病気や死をもたらすことですら利他的な行為といえるかもしれない。病気は免疫システムの動的平衡を揺らし、新しい平衡状態を求めることに役立つ。そして個体の死は、その個体が専有していた生態学的な地位、つまりニッチを、新しい生命に手渡すという、生態系全体の動的平衡を促進する行為である。かくしてウイルスは私たち生命の不可避的な一部であるがゆえに、それを根絶したり撲滅したりすることはできない。私たちはこれまでも、これからもウイルスを受け入れ、共に動的平衡を生きていくしかない。 (朝日新聞「福岡伸一・動的平衡」4月3日掲載より)

※註:動的平衡(どうてきへいこう、英語:dynamic equilibrium)とは、物理学化学などにおいて、反応が停止した状態にあるのではなく,正方向と逆方向の反応速度が等しくなったため,見かけ上は反応が停止したように見えること。すなわち,平衡は外見上静的に見えるが,実際は動的状態にあると考える。

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これが科学的な視点が示す厳格な現実というものだ。ウイルスと向き合う心構えとするしかない。それにしても、この国の政府の対応を見ていると、危機管理の脆弱さが無残なほど浮き彫りになってくる。危機的状況に対してまったく素人だった事を露呈した政治家たちや偏差値の高いとされている高級官僚たちが次々と繰り出す信じられないほど拙い発想の数々を見せられると、これはもう生き残る工夫は自分でするしかないんだという気持ちになってくる。誠意の裏打ちを欠いた何という空疎な言葉の羅列。
翻って、3月18日にドイツのメルケル首相が国民に向けてテレビでスピーチした演説和訳を読むと、民主主義を根幹に据えた国のリーダーが下した政治決定は透明性をもった明瞭なものだった。量子化学の博士号をもち、研究者だったメルケルは、ウイルス研究所や科学者たちの意見を参考に、出来る限り事実を正確に把握した上で問題を整理して、国が何をすべきか、そのためになぜ国民を必要としているか、そしてひとり一人が何が出来るか、分かりやすい言葉で、しかし強い決意を秘めて語りかけていた。そして、彼女は次々と具体的な対策を打ち出し、広い層の信頼を取り戻した。それまで下がっていた支持率をV字回復させた言葉の力。彼女が言うのだからそうしようと多くの人たちが考えたのは、深い疲労をにじませながら残った力をふりしぼるように、民主主義と科学的事実の最大公約数を理性とともに自身の言葉で語りかける人物への信頼感からだろう。ナルシストな政治家が目立つ現在の世界の中で、カリスマ性を感じさせないメルケル首相はとても貴重な存在に思えてくる。日本と同じ敗戦国であるドイツには、信じるに足る人物を自国のオープンな民主主義国家のリーダーに選んだ人々の成熟度の高さを感じる。さらに印象的だったのは、この状況で文化を守る強い姿勢を打ち出していることだ。芸術、文化に関わっている人たちへの申請と受給は何よりもスピード重視し、申請は自己申告のみとする。詳細な審査は後にすればいい。生き延びてもらうことが先決だという判断。(補助金詐欺は刑罰の対象にとなり、後々に詳細な審査がある)手厚い支援の背景にあるのは、ドイツでは文化や芸術が重要な産業の1つであるという事実だ。と同時に、何百万人もの人々が苦しめられた自由のない独裁の日々があったドイツの歴史が、芸術や文化の自由を高く評価する要因の一つとなっているのだろう。このような状況だからこそ、ないがしろにされがちな文化が大切にされていると実感できることは素晴らしい。
先日、Facebookで知人がシェアしていたアメリカの都市フレズノの在住するNancy Moraという女性がソックスをマスクに作り替える実演映像を観た。なるほど人間にはブリコラージュという知恵があったんだ、グローバル化で失ったのはこうした知恵なんだと思い至る。コロナは熱に弱いので、繰り返し使えるようにマスクも煮沸したり乾燥機に入れたり(電子レンジも試してみた)、紫外線にも弱いので日干しも効果的だ。また、紫外線殺菌機も有効なんだから、日焼けサロンは機器をマスク除菌サービスに業務転換するとか、マスクが買えないかとドラッグストアに列をなす前に工夫できることはいろいろあるはずだ。
絵本作家の五味太郎さんは愛情をこめて「ガキ」と呼ぶ子どもたちへ、これがチャンスだと呼びかける。先行してFacebook、そして朝日新聞に掲載されたメッセージはとてもシンプル。

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(前略)むしろおれ、ガキたちにこれがチャンスだぞって言いたいな。心も生活も、乱れるがゆえのチャンス。自由なんてのは存在しなくて、あると思うから不自由を意識しちゃう。誰でも引力や天気にあらがって生きてるわけだし、鳥は自由でいいななんて言うのは、鳥の大変さ、不自由さをわかってない人。不自由なのは前提だもん。限られた材料や選択肢の中で、悩むしかない。大人も子どもも。これを機に、十分悩みましょうよ。(#withnews)

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子どもにとって教育は「権利」だと憲法に書いてあるのに、6歳になったら必ず小学校に行き、しかも学校も先生もほぼ選べない。……これに耐えれば卒業証書、修了証書、退職金と続いていく。で、疲れちゃって考えるのをやめていく。それを繰り返しているうちに、自分が何がしたいかわからなくなっていく。……だから、チャンス。だって、学校も仕事も、ある意味でいま枠組みが崩壊しているから、ふだんの何がつまらなかったのか本当は何がしたいのか、ニュートラルに問いやすいときじゃない?働き方も国会も、色んなことの本質が露呈しちゃってる。五輪延期も、オリンピックより人の命って結構大事なんだなとやっと再認識したんだろうし、優先順位がはっきりしてくる。感染者が何人、株価がどう、と毎日ニュースで急カーブのグラフばかり見せられて、グローバルと言っても、心でグローバルしてたんじゃなくてお金がグローバルしてただけなんだとしみじみ思うよね。……戦後ずーっと「じょうぶな体」がいいと言われてきた。それはつまり、働かされちゃう体。「かしこい頭」っていうのは、うまく世の中と付き合いすぎちゃう頭で、きりがないし、いざという時に弱いからね。今こそ、自分で考える頭と、敏感で時折きちんとサボれる体が必要だと思う。心っていう漢字って、パラパラしていていいと思わない?先人の感性はキュートだな。心は乱れて当たり前。常に揺れ動いて変わる。不安定だからこそよく考える。もっと言えば、不安とか不安定こそが生きてるってことじゃないかな。(朝日新聞4月14日 絵本作家 五味太郎さんから「ガキ」たちへ。「休校はチャンスだぞ」より抜粋)

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新型コロナウイルスの出現で、あきらかになってきたことがたくさんある。ずっと棚晒しにされていた問題点も浮き彫りになってきた。コロナ前と、コロナ後。元通りになれば安堵できるのか。息を潜めて過ごす生活にも慣れてくると、コロナ前の世界は本当はかなり歪んだものだったんだと気づかされてハッとする。これがひとつのターニングポイントとなるかもしれないという予感。そんないまの心境に一番近いテキストがある。それは、「ウィルスの独白 LUNDIMATIN」。「わたしが葬り去るのはみなさまではありません。一個の文明を葬り去るのです」というウィルスの独り言。フランス語のオリジナルサイトをデザインはそのままで和訳したサイトがあるが、ちょっとクセのある訳なので読みにくい。夜光社という出版社が運営するサイト「HAPAX」にもLUNDIMATINで3月21日に掲載された「ウィルスの独白 LUNDIMATIN」の日本語訳がアップされていて、こちらの訳の方が断然読みやすい。長文だが、ぜひこちらから一読を。
最後にこんなときだからこそ、穏やかな気持ちにしてくれる楽曲がほしくなる。1970年代、ぼくが愛聴していたEric Kazというアメリカのミュージシャンがいた。歌が上手いわけでもなく、美声でもない。でも、彼の歌声は誠実さにあふれている。それは、自身の奥底からわき上がってくる感情をまっすぐに伝えようとする誠実さだ。真っ暗な森に足を踏み入れ、一歩一歩を感じながら歩き、そして黄金を掘り当てたような、宝くじに当たったような、恋に落ちたような、空からの落雷をガラス瓶に閉じ込めるようにして出来た曲を(Eric Kazによる書き下ろしエッセイより引用)オーバーダビングせずに1度か2度の完璧な演奏で全てが上手くいくように試みる。そんな姿勢で自分の音楽と向き合っていた彼が、なんと41年ぶりに素敵なアルバムを作ってくれた。(リリースは2015年)それまでの期間、彼はソングライターとして多くのミュージシャンに素晴らしい曲を提供してきた。そして、突然またアルバムを作ってみようと思い立ち、新たに誕生した7曲は彼の希望で楽曲はダウンロードでなくCDのみ。でも2曲だけはYouTubeでも視聴できる。ぼくの一番好きな「Sanctuary」も入っていたので、ぜひ聴いてみてほしい。そこから、ぼくらの心に寄り添うようにEric Kazの歌声が聞こえてくる。いちばん深い闇夜に、すぐそばで感じる息づかい。其処は心を包み込む聖域(Sanctuary)。其処こそが聖域なんだ。明日もあると、いいな。ずうーっとあったら、いいな…。

アルチュール・ランボオ(Arthur Rimbaud)
アンリ・ファンタン=ラトゥール作『テーブルの片隅』 前列左よりヴェルレーヌ、ランボオ(1872年、オルセー美術館蔵)
17歳のアルチュール・ランボオ エティエンヌ・カルジャ(フランス語版)による肖像写真(1871年10月)
11歳のランボオ(1866年の初聖体拝領)
ポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)
ヴェルレーヌとランボオ
ヴェルレーヌが描いたランボオの絵がもとになっている ヴァランティーヌ・ユゴーによる雲の上を歩くランボオ
母ヴィタリー・ランボオ(1890年頃)
ハラールのランボオ(1883年頃)
妹イザベルが描いた瀕死のランボオ(1891年)

永遠の未完〈アルチュール・ランボオ〉

Arthur Rimbaud
2020.3.01

多くの人は『ランボー』といえば即座にシルヴェスター・スタローン主演のアクション映画のシリーズを思い浮かべるかもしれない。しかし、中にはぼくのように、青春期に焼き付いた記憶が甦り、19世紀フランスの詩人、アルチュル・ランボオだ!と応える人もいるのではないだろうか。出会いは10代の後半。耽読したというほどではなかったものの、父の書斎で発見して譲り受けた2冊と、小遣いで購入した『世界の詩集6 ランボー詩集(金子光晴訳)』の計3冊を交互に夢中になって読みふけった一時期があった。『世界の詩集6 ランボー詩集』は角川書店・昭和42年初版。巻末には芥川比呂志、朗読による『いちばん高い塔の歌』のソノシートが付いていて、金子光晴や串田孫一らも監修していたのになんとなく物足りなさを感じてしまっていた。しかし、書斎にあった2冊は思い出深い。すでに酸化で黄ばみ、表紙は見当たらず、綴じも解れてボロボロになっているから、開くと細かな紙片が膝元に落ちてくるような古書だが、どうしても処分することができずに今も手元に残っている。共に初版本で、小林秀雄訳の『アルチュル・ランボオ 地獄の季節』(白水社)は昭和5年10月発刊。もう1冊は中原中也訳の『ランボオ詩集』(野田書房)。奥付はないのだが、中也の後記には昭和12年8月21日とある。そして、その2冊、どちらの訳も甲乙つけがたい。
当然のことながら、文学作品は原作者の母国語で創作されるから、その言葉の背後にある文化や独特のニュアンス、そして(とくに詩は)言語の音感や韻を踏むことによって醸し出されるリズムも作品を構成する重要な要素となる。10代のぼくも、オリジナルをダイレクトには味わえない翻訳には限界があるのだろうと直感していた。海外の書物を味わうということには、まるで手袋をして痒いところを掻くようなもどかしさがつきまとうことは避けられないことだと…。だからこそ、異国の読者たちには原作者の表現したエッセンスを損なうことなく、異なる言語で再構築する翻訳というジャンルが生み出されてきたわけで、誰が翻訳したのかということはその作品を味わう上でとても重要なこととなるはずだ。その意味で、立場こそ違うが評論家の小林秀雄と詩人である中原中也による(昭和初期の古めかしい言葉使いではあるものの)良質な翻訳を通じてランボオと出会えたことは、ぼくにとって幸運な出来事だったと思う。
アルチュール・ランボオ(1854.10.20〜1891.10.9)はフランスの東北方ベルギー境に近いシャルル・ヴィルに生まれ、わずか37歳で没したのは日本の年代にすると明治24年のことだった。しかし、彼の芸術家としての生涯はさらに短命で、20歳前には早くも終焉をむかえ、そこを境に彼の人生は「断絶」「反転」「再生」などいかなる言葉でも説明のつかない軌跡を描く。詩作を捨て去ったランボオはヨーロッパ各地の放浪を経て、商人としてアフリカ奥地へと旅立って様々な障害に立ち向かい、そして力尽きた。小林秀雄は『地獄の季節』の序文でその登場をこのように記している。

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この学星が、不可思議な人間厭嫌の光芒を放ってフランス文學の大空を掠めたのは、1870年より73年まで、15歳にして、既に天才の表現を獲得してより18歳にして、自躯らその美神を絞殺するに至るまで、僅かに3年の期間である。この間に、彼の怪物的早熟性が残した處(2500行の詩とほぼ同数の散文詩に過ぎない)が、今日19世紀フランスの詞華集に、無類の寶玉を與へてゐる事を思ふ時、ランボオの出現と消失とは恐らくあらゆる國々、あらゆる世紀を通じて文學史上の奇蹟的現象である。

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ランボオに強く感銘を受けた人も、まったく読んだことのない人も様々だろうが、その作品はこのブログなどで到底紹介しきれるものではない。ただ、10代後期のぼくがランボオに惹かれたのは、その詩から放射される(神を神殿から曳きずりおろすような)凶暴なまでに純粋な試みと、なによりその作者が自分と同年齢の若者であったことによる。加えて、その後の20年におよぶ彼の人生との対比も比類のないものであったからである。
瞬く間に駆け抜けたランボオ最晩年の作品『地獄の季節』は、それまでの定型の詩の形式を打ち破って奔流する詩想を書きとめた散文詩だが、直訳すると「地獄に於けるある季節」。その「地獄」とは単なる文学青年の地獄であり、ランボオにとっての文学とは文学青年の事業であった、と小林は書いている。この原稿をランボオは母親から金を貰い、ブラッセルのPoot商會という出版社に1873年10月に持ち込んだものの、途中ですっかり嫌気がさしてしまい、文学生活を放棄した証しに手元の原稿や写しなどをすべて暖炉に投げ入れて焼却してしまう。しかし幸運なことに印刷屋に金を払わなかったため、先方が出版用原稿を渡してくれなかった。おかげで、のちにこの原稿は本屋の倉から発見され、初版なるものが完全に残ることとなった。小林秀雄は、1972年の春からおよそ1年間、ブラッセル、ロンドン、シャルルヴィルなど放浪の中で書かれたこれらの散文は、詩より遙かに重要で、また見事であると記している。
ランボオと運命を交差させた詩人がいた。天性の叙情詩人であったポール・ヴェルレーヌは17歳のランボオの『酩酊の船』の名調に感動して「偉大なる魂、疾く来れ」と10歳年下であるシャルルビルの一野生児をパリに呼び寄せた。小林曰く、すばらしい駄々っ子を発見するものは、すばらしい駄々っ子でなければならない。ヴェルレーヌにとってつねにランボオは驚愕の的であった。そして、すっかりうまのあった2人はイギリス・ベルギー・北仏と各地を転々する放浪の旅を続けたが、(彼らの仲立ちをしたものは文学だけでなく同性愛であったという説もある)1873年の7月、ブルッセルで破綻を迎えることとなる。なお、この2人の詩人の破壊的な愛と魂の交歓を描いた戯曲『太陽と月に背いて』(Total Eclipse)が1968年にイギリスの劇作家クリストファー・ハンプトンによって発表された。また、1995年にはハンプトン自身の脚本により、ランボウを演じたレオナルド・ディカプリオ主演で映画化もされている。
『地獄の季節』を書き上げたランボオ19歳となるその年の夏、彼はヴェルレーヌとともにパリから放浪の旅に出た。しかしその旅で再会はしたものの、もはやランボオの心が戻らないことを悟り、酩酊してピストルを手にしたヴェルレーヌは、壁にもたれたランボオに向かって引き金を絞った。弾丸はランボオの左手に命中し、致命傷とはならなかっものの、この出来事によってヴェルレーヌは2年間収監されることとなる。この交錯した2人の詩人の顛末は、ともに印象派を代表する画家となったフィンセント・ファン・ゴッホポール・ゴーギャンとの交友を想起させる。そんな事を考えていたら、たまたまその時に読んでいた児童文学作家、梨木香歩の新刊エッセイ集の一編にこんなくだりを発見する。

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ー前略ー 以前読んだある随筆に、小林秀雄と中原中也の関係について「終始(めんどうをみる)親と(めんどうをかける)子の関係であった」というようなことが書いてあった。破滅型の詩人であった中也を、自らのドロドロに周囲を巻き込んで生きていくしかない「子」タイプとしたのである。では「親」タイプとはそのドロドロをきっちり自分で引き受け、外に出さない分別を弁えた人、ということになるだろうか(小林氏がそうであったかどうかは知らない。中也との関係性においてはそうだったのかもしれない)ー後略ー『やがて満ちてくる光の』85〜86p『新しい大人』新潮社)

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だとすれば、親と子がそれぞれに向き合った詩人ランボオ像は、親と子2つの視点を持つことになる。ぼくのランボオ初体験を形作ることなった、この2冊の書物が親子の関係性で繋がっていたとすれば、父の書き込みが残る古書を子であるぼくがなぞるように読み進めるのも不思議な因縁と思えてくる。中也は訳書の後記でこんなことを書いている。

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ー前略ー いつたいランボオの思想とは? ー 簡単に伝はう。バイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつて基督教とは、多分一牧歌としての價値を有つてゐた。さういふ彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかつた筈だ。その陶酔を發想するといふこともはや殆ど問題ではなかつたらう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン伝つてゐることも、要するにその陶酔の全一性といふことが全てで、他のことはもうとるに足りぬ、而も人類とは如何にそのとるに足りぬことにかかづらつてゐることだらう、といふことに他ならぬ。 ー中略ー つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲劇も喜劇も、恐らくは茲に發した。所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。勿論夢といふものは、容れられないからといつて意義を減ずるものでもない。然しランボオの夢たるや、なんと容れられ難いものだらう!伝換えれば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂わば凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰も在るには在るが行き道の分らなくなつた寶島の如きものである。 ー後略ー 『ランボオ詩集』後記251〜253p野田書房)』

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親と子の2つの視点を意識して再読すると、中也の訳は何となくランボオと併走している感がある。ところが、小林秀雄の訳からはどこか父性を含む俯瞰の視点が感じられる。親と子の関係といえば、ランボオ家も興味深い。陸軍大尉だったランボオの父フレデリックは任地につき不在しがちだったが、妻とはまったく性格があわず、やがて家に戻らなくなる。母親マリー・カトリーヌ・ヴィタリー・キュイフはロッシュ村の小地主の娘で、第2子アルチュル・ランボオの1歳上の兄、生後1か月で死去した3歳下の妹と4歳下の妹、そして6歳下の妹フレデリック・マリー・イザベルと4人の子どもたちを女手一つで育てた。末の妹イザベルは1891年、マルセイユで右脚の切断を宣言されたランボオのもとに故郷シャルル・ヴィルから駆けつけ、ろくに家によりつかなかった兄を肉親の深い愛情で包み、つきっきりで看病して彼の死を看とった。一方、ヴィタリーはランボオにとっては、厳格なカトリックで口やかましく戒告するのを義務と心得る情味の乏しい母親だったようだ。ランボオは反発しながらも学校では模範的で早熟な優等生として天才、神童と称された。ほとばしるランボオの詩行の隙間に「神」、「聖人」、「祈り」、「罪」、「天使」といった基督教に連なる言葉が随所に埋め込まれているのは、敬神家であった母の影響を強く受けたことと深く関係している。ランボオの研究書にも、その親子関係について、特に2人の性格の類似性とそれゆえの反目と愛情に焦点を当てた評伝も残されている。孤高の人物と言われる人でも、いかなる関係性の影響からも逃れることはできないし、それと無縁な人間は存在しない。
ランボオの生涯の過半は孤独な放浪とともに送られた。17歳でパリに出奔も、懐中無一文の浮浪者として逮捕されシャルル・ヴィルに逆戻り。その20日もたたぬうちに野宿をしながら今度はブルッセルに向かうも、この旅も散々な結果に終わる。しかし、彼は1971年2月、屈することなく再びパリを目指す。折しも普仏戦争(プロイセン=フランス戦争)終了後の混乱期で、新政府に対するパリの失業者や零細市民らの不満は爆発寸前で、暴徒たちはパリを2ヶ月あまり占拠して略奪破壊をほしいままにした。これはのちにパリ・コミューンと呼ばれたが、その波に揉まれたランボオは在来フランス風な詩の破壊に身を賭けようとシャルル・ヴィルに帰り、いよいよ腰を据えて詩作に向かう決意を固める。次なるパリ行きの目的は文学だった。1972年の春、ランボオをパリに呼び寄せたヴェルレーヌとともに、ビスケットを囓りながら新たな放浪を開始する。ヴェルレーヌは妻と家を捨ててまで、魅了されたランボオとの旅を選びとったのだが、ランボオの変心によってそれは悲劇的な絶縁で幕を下ろす。「彼等の心情は、不幸にもあまりに純情過ぎたのだ、各々その情熱の化學の仕事に忙しかつた。」と小林秀雄は記す。20歳のランボオは手元の原稿を全て破棄して、永遠に文学の世界から去るべく、芸術家でなく実行家としてもうひとつの放浪を開始することになる。ランボオは至る所の国語を習得しつつ、イギリス、ドイツ、イタリア、スペイン、ジャワ(インドネシア)、スカンジナヴィア、エジプト、シブル島、アラビア、エチオピアと各地を転々とする。イギリスではフランス語教師、スペインではドン・カルロス党員、ジャワではオランダの志願兵、スカンジナヴィアでは曲馬団の通訳、アフリカ内地では珈琲・香料・象牙・黄金の商人、隊商の頭、探検家、などなど。20年近い漂泊の末、1891年、アフリカで滑液膜炎に罹り、マルセイユの病院に送られたこの大歩行者の片足は切断され、12月10日にランボオは一商人として、妹イザベルに看取られて死んだ。このような憑かれたように放浪を繰り返す精神とは、一体どのような力を内在させているのだろうか。それは、ほとばしる「瞬間の力」の鎖。「継続は力なり」。歳を重ねるごとに深く頷く。と同時に、対極に在る「瞬間の力」に強く惹かれる。彗星の如く一瞬輝き、潔く消え去るその束の間の瞬間の力。小林秀雄はその「宿命的な瞬間の力」をこのように記述している。

*

ー前略ー 宿命というふものは、石ころのやうに往来にころがつてゐるものではない。人間がそれに対して挑戦するものでもなければそれが人間に対して支配権をもつものでもない。吾々の灰白色の脳細胞が壊滅し再生すると共に吾々の脳髄中に壊滅し再生するあるものだ。ー中略ー 創造といふものが、常に批評の尖頂に据ってゐるといふ理由から、藝術家は、最初に虚無を所有する必要がある。そこで、あらゆる天才は、恐ろしい柔軟性をもつて、世のあらゆる範型の理智を、情熱を、その生命の理論の中にたたき込む。勿論、彼の錬金の坩堝に中世錬金術士の詐術はないのだ。彼は正銘の金を得る。然るに、彼は、自身の坩堝から取出した黄金に、何物か未知の陰影を讀む。この陰影こそ彼の宿命の表象なのだ。この時、彼の眼は、癡呆の如く、夢遊病者の如く見開かれてゐなければならない。或いは、この時彼の眼は祈祷者の眼でなければならない。何故なら、自軀らの宿命の相貌を確知しようとする時、彼の美神は逃走して了ふから。藝術家の脳中に、宿命が侵入するのは、必ず頭蓋骨の背後よりだ。宿命の尖端が生命の理論と交錯するのは、必ず無意識に於いてだ。この無意識を唯一の契點として彼は「絶對」に参與するのである。見給へ、あらゆる大藝術家が、「絶對」を遇するに如何に慇懃であつたか。「絶對」に譲歩するに如何に巧妙であつたか。蓋し、ここにランボオの問題が在る。若し心理的に見るならば、18歳で文學的自殺を遂行したランボオは藝術家の魂を持つてゐなかつた、彼の精神は實行家の精神であつた。彼にとつて詩作は象牙の取引と何等異なる處はなかつた、と言ふのは恐らく正しい。然しかかる論理が彼の作品を前にして泡沫に過ぎない所以は何か。吾々は彼の絶作「地獄の一季節」の魔力が、この作品後、彼が若し一行でも書く事をしたらこの作は諒解出来ないものとなると云ふ事實にある事を忘れてはならない。彼は、無禮にも禁制の扉を放って宿命を引摺り出した。然し彼は言ふ。「私は、絶え入らうとして死刑執行人などを呼んだ、彼等の小銃の銃尾に噛み付く爲に」と。彼は、神を、自意識の背後から傍観したのではない。彼は美神を捕へて刺違へたのである。恐らく此處に、極點の文學がある。ー後略ー

*

では、最後に『地獄の季節』の『地獄の夜』、『錯亂 Ⅱ』に挿入された「永遠」と称される有名なランボオの一節を小林秀雄の訳で…。海と空は祈念の交合を繰り返し、かき混ぜられた混沌の世界へと戻っていく。それは永遠の未完、永遠のリフレイン。

*

また見付かつた、
驚かしなさんな、永遠だ、
海と溶け合ふ太陽だ。


獨居(ひとりゐ)の夜も
燃える日も
心に掛けぬお前の祈念、
永遠の俺の心がしかと見た。


人間共の祈りから
世間、平(ならし)の逆上(のぼせ)から
お前は、そんなら手を切つて、
飛んで行くんだ、何かを抱いて。


もとより希望があるものか
願ひの筋もあるものか
堪忍袋と智識(あたま)がありやあ、
刑罰なんざ覺悟の前だ。


明日といふ日があるものか、
深紅の燠(おき)の繻子の肌、
それ、そのあなたの灼熱が、
人の義務(つとめ)といふものだ。


また見付かつた、
驚かしなさんな、永遠だ、
海と溶け合ふ太陽だ。

ニセフォール・ニエプス「馬引く男」1825年撮影
ニセフォール・ニエプス「ル・グラの窓からの眺め」
ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール 「世界で初めて人間を撮った写真」1838年
エドワード・ターナー「英国で発見された世界最古のカラー映像」1901~02年
紙として現存する最古のカラー写真 ルイ・オーロン「アジャンの街並み」1877年
エセルドレダ・ジャネット・ラングによるオートクローム、1908年
フリードリヒ・パネトによるオートクローム、1925年
日本最古の写真 「田中光儀像」(左)・「石塚官蔵と従者」(右)ともに1854年
カラー化ツール「Colourise」で変換した「赤子の頃の姉」
モノクロプリント「青島時代の母」
カラー化ツール「Colourise」で変換した「青島時代の母」
カラー化ツール「Colourise」で変換した「姉と僕」1967年
モノクロプリント「幼年期の僕」
カラー化ツール「Colourise」で変換した「幼年期の僕」

白黒とカラー写真

Monochrome & Color
2020.1.01

最古の写真(映像)は何だろう。それはフランスの発明家ニセフォール・ニエプスが1825年に撮った、『Un cheval et son conducteur』(馬引く男)という説と、最初に彼が撮ったのはフランスのサン・ルゥ・ド・バレンヌにある彼の邸宅の窓から見た「ル・グラの窓からの眺め」だという説もある。しかし「馬引く男」は写真というよりデッサン(素描)に近い印象だ。「ル・グラの窓からの眺め」といえば「そういわれればそんな風に見えるかも」という朦朧とした画像である。世界で初めて「人間」を撮った写真は、1838年頃に写真家ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが捕らえた写真。当時は長い露光時間が必要だったから、ここには幸運にも長時間動かずにいた靴磨きが豆粒のように写っている。紙として現存する最古のカラー写真はルイ・オーソンが1877年に撮影したアジャンの街並みで、これはだいぶ写真らしい。そして、世界最古のカラー動画映像と認定されているのは、1901~1902年頃に写真家兼発明家だったエドワード・ターナーによって撮影された映像で、彼の子どもたちや金魚とひまわりが残されている。
カラー写真にはもうひとつの系譜がある。それは、1907年にオーギュスト・リュミエール&ルイ・リュミエール兄弟が発明した「オートクローム・リュミエール」という技法。染めたジャガイモのデンプンと感光性の乳剤の層を用いることでより正確な自然描写を写真にもたらした技法だった。なるほど、これまでのカラー写真に比べると色調もナチュラルな印象だが、1930年代に発明された明るくて実用的なコダクローム・フィルムによって衰退してしまった。(そのコダクローム・フィルムも、2009年にはデジタルカメラの台頭によって同じ運命を辿ることになるのだが…)
そうなると日本最古の写真も見たくなるのだが、それはペリーが来航した際に同行していた写真家・版画家のエリファレット・ブラウン・ジュニアが撮影した6枚の写真だ。うち5枚は国の重要文化財指定されていて(残る1枚はハワイの博物館に所蔵)いずれも銀板写真に「June 1st 1854」と書かれている。映像はといえば、1894年あのトーマス・エジソンによって撮影されたスペイン舞踏(ダンサーは1894年まで米国に滞在)の映像の後に、日本で撮られた川下りや雨の中を番傘をさして歩く人々、人力車、三味線や鼓にあわせて扇子を広げて舞う少女たちの情景などが映し出されている。正確な年代や場所は不明だが1800年代の貴重な日本の映像で、おそらく最古の映像であろうとされている。これらの写真や映像を見て、最古だから何なのだ!という人もいるかもしれないが、ぼくは常々、写真というメディアは、ただただ古いということだけで意味があると考えているし、ここが起点となったという、もうひとつの意味も重なりあってくる。写真とは「どう撮るか」と、「何を撮るか」と、そして「何が写っているのか」と、幾重もの意味が重なり合ってくる不思議なメディアなのではないだろうか。
ところで今年、ウェブサイト「映像でみる明治の日本」が国立映画アーカイブと国立情報学研究所との共同で立ち上げられた。そこで国立映画アーカイブが所蔵する映画の中から、映画草創期の明治時代に日本人によって撮影された映画をデジタル化して公開している。公開されているラインナップは、例えば「歌舞伎・紅葉狩」、「大相撲の活動写真」、「日本南極探検」、「明治45年4月4日 藤田男爵 葬式の実況」、「忠臣蔵」など明治の日本人の暮らしぶりが映されたものばかりで、100年前だってやっぱり今と地続きなんだと実感できたり、いやいや、身のこなしは現代人とは違うなぁ、とか飽きることなく見入ってしまう。
昔の写真や映像はほとんどがモノクローム。ぼくらもそれが当たり前という前提で見るからとくに違和感は感じないのだが、考えてみれば、当時の人々の眼にはもちろんカラーの世界が広がっているわけで、モノクロームの写真や映像は、後世のノスタルジックに完結されたひとつのイメージにすぎないということになる。デジタルデータでは、カラーから彩度を減らしていくと最終的にはモノクロームに行き着くのだが、写真技術創成期のモノクロームは技術的にはカラー再現は困難という限界の結果だった。また、フィルムなので現像や焼き付けといった工程でさまざまな調整が加えられていくことになる。
では、動物の視覚から世界はどのように見えるのだろう。昔は「犬の視界は白黒だ」と言われていたが、どうやらそうではないようだ。犬は赤緑色盲なので、人間が赤・緑・青の光3原色を感受することができるのに対して犬は紫青と黄緑しか感受できず、さらにはこの中でも緑と黄緑、黄色、オレンジ、赤の色合いを区別することができないのだという。視力も弱く2〜3m以内の物しかハッキリと見ることができない。両眼視野に関しては人間の120度に対して犬は80度程度。(出典:犬 目−犬の目を知る〜ペット☆犬をモット知ろう)猫も似たようなものだが、鳥類は逆に視覚が人間より格段に優れているといわれ、人間には見えない紫外線を感知する器官も持っているため、人間とは別の世界を見ているともいわれている。YouTubeに犬・ネコ・鳥・ネズミ・ヘビ・ハエ、サメ、魚などの動物たちが見ている世界を再現したムービー「How Animals See The World」がアップされている。なるほど、こんな風に見えるのか。しかしなんとなく、これは映画『プレデター』(Predator)の世界だなぁ。日頃慣れ親しんでいる人間の感覚からすると何とももどかしい動物もいる。視覚はもとより、動物固有のさまざまな感覚は各生命体によって限定付けられているが、それを補完する感覚も発達していて一様ではない。だから(当たり前のことだが)ぼくら人間が見ている世界は真実の世界ではなく、人間固有の世界なのだと認識しておいた方がいい。
さて人間界に戻って、芸術写真について考えてみよう。戦前はマン・レイ、戦後はデヴィッド・ハミルトンらの名が浮かぶが、それらは単なる記録写真でなく、現実を抽象する芸術的表現として見るものに迫ってくる。白から黒までの階調(灰色)は、カラーに較べればリアルさには欠けるが、陰影で色彩を表象する解釈的な表現となる。こうして人々には「モノクローム=芸術写真」というイメージが記憶されてきたからか、1976年にアメリカ人フォトグラファーのウィリアム・エグルストンがニューヨーク近代美術館MOMAでの個展にカラー写真を発表すると、その是非を巡って全米で論争となった。この出来事は、そうした蓄積された記憶の残像によって引き起こされたものだったといえるだろう。当時すでにカラー写真は広く浸透していたが、主に報道や広告で使用するものとされていた。つまり芸術的表現ではなかったのだ。しかし、逆にカラー写真にこそ芸術性を見出そうとするムーヴメントも芽生えはじめていたから、この論争は生まれつつあった新しいムーヴメント「ニューカラー」へと第一歩を踏み出す契機となったのだった。
このように写真や映像にまつわるモノクロとカラーの関係性は時代や技術の変化とともに離反、接近、融合を繰り返し、そして今、ときは2020年。着彩技法「オートクローム・リュミエール」の登場から112年経って、写真や映像を取り巻く環境は大きく様変わりしている。まず、デジタル技術によって白黒写真をワンクリックでカラー化できるツールが続々と生まれている。ほんの数秒で自動的に白黒写真に色付けをするって、これはどういう技術なんだろう。実際に試してみると、あっけないほど簡単にカラー変換は終了する。しかもその再現精度はかなりのもので驚かされる。ただし、これらはあくまでも、もっともらしい色で生成するため、ときには失敗したり、不自然な変換をする場合もある。AI(人工知能)の発展を支える重要な技術にディープラーニング(深層学習)という手法があるそうだ。それは人間が自然に行うタスクをコンピュータに学習させる機械学習の手法のひとつだが、おそらくそうした技術の活用によって、これからカラー変換はさらに自然でリアルな再現に間違いなく近づいていくことになるだろう。
ぼくは数あるツールの中で定評のある「Colorise」というアプリをダウンロードしてカラー化してみたのだが、対象画像を選んでワンクリックすると、ほんの数秒でカラー化が終了する。ぼくらの世代では、まだ古いアルバムを開けば家族の白黒写真が残っていることが多いのではないだろうか。ぼくの幼少期の写真は、まだ戦後の物資が不足している時代だったせいもあり4歳頃からで、写真撮影自体が特別な事だったから数えるほどしか残されていない。戦前、両親は仕事の関係で満州、そして青島で暮らしていたので、中国大陸で生まれた姉や兄の記録写真は比較的沢山残されていた。特に数年前に早世した姉のスナップは初めての子ということもあってか、親は様々な生活シーンで誕生の喜びに導かれるようにシャッターを切っていたことが残された写真から伝わってくる。葬儀の後、姉の家に残されていたアルバムを甥に複写を依頼し、デジタルデータとして送ってもらっていたので、今回はそれらを中心に100枚ほどを一気にカラー変換してみた。すると不思議なことに、それまで凍結されていた写真にまるで体温が戻ってきたかのように、生き生きと見えてくるではないか。もちろん、それは錯覚に過ぎないのだが、この変換作業には妙にわくわくさせられるものがあった。父親も写っているが、多くは母子のツーショット。数枚残されていた若き日の父を見ると「おい、おい、こんな若造なのに家族なんかもって大丈夫?」なんて心配になってしまうほど、ぼくの知っている父のイメージとはかけ離れていた。ところが、ぼくの知らない若い頃の母親の印象は新鮮だった。当たり前のことなのに、母親にはこんな初々しい時代があったんだと感じるのは、子どもにとってはある意味、未知の体験。姉たちが生まれた青島は日清戦争後、一時期ドイツがこの地を極東における本拠地としたこともあり、モデル植民地として街並みや街路樹、上下水道などが整えられ、西洋風の町並みが残っていたので、写真背景からも何となく西欧の香りが漂ってくる。それにしても彩りとは不思議な力を秘めているものだ。モノクロでは感じなかったのに、色彩によってじわっと呼び起こされた甘酸っぱい感情が湧き上がってきたことは小さな驚きだった。「色は世界の根っこから立ち上がる。色は世界のいのち、諸々の理念のいのちなのだ」。(ポール・セザンヌ
いま誰もが手にしているスマホやデジカメでもいとも簡単にモノクロ写真も撮れるのだが、それを記憶に留める証しとはしないだろう。やはり白黒写真はモノとしての実在感がある。それはまだカラー写真が一般的でなかった頃のフィルム現像と焼き付けによる、限定された時代の記録方法だ。やがて白黒写真を持っていること自体めずらしい時代が来るのはそう遠いことではないだろう。今回のカラー化でぼくが味わった驚きや感情は過渡的なものとして次第にフェイドアウトしていくのだろうし、同時にカラー化できるツールも過去の技術となってしまうに違いない。
先日、知り合いのカメラマンがこんな話しをしてくれた。このところスマホの撮影に関する技術の進化は目を見張るものがあって、誰でもシャッターを切れば相当クオリティの高い画像を簡単に手にする事ができる。トップレベルはXperiaで、その地位を支えているのは搭載されているSONYの技術力。同じその技術を活用しているAppleのiPhoneは、やや劣るレベルではあるものの、加工する豊富なアプリの量ではXperiaを凌駕していて、他社製品から群を抜いて充実している。だから女子にiPhoneが圧倒的に支持されているのは当然で、女子は自分をきれいに撮りたいからiPhoneを選ぶのだと。しかし、みーんな横並びの「きれい」で少しも個性的な美しさではないから、魅力的な写真とはほど遠いものだという。なるほど、そういうものかと思いながら、女子がiPhone愛用する理由はそればかりじゃないだろうから、ちょっと極端じゃない?とも思ってしまうのだが、いずれにしてもフィルムによる白黒写真と同じ写真とはいえ、なんとも隔世の感がある。
標準サイズの写真プリントといえば、ポピュラーなL判(89×127mm)。このサイズはコンパクトで持ち歩きしやすいし、ずっと馴染んできたサイズなので愛着もある。大切な写真を肌身離さず持ち歩いている人も多いだろう。写真にはさまざまな想いを宿すチカラが秘められている。プリント写真は想いを抱いた人が焼き付けた印画紙に、自分だけの記憶を重ねて定着させることのできる特殊なメディアだ。震災などの自然災害の時、行方不明になっている亡骸とともに、流されてしまった記憶が封印されている写真やアルバムを人々は探し続ける。写真は記憶の入口なのだ。写真は自分しか知らない記憶を開くパスワード。それは懐かしい記憶にワープする扉を開いてくれる。もちろんすべて記憶が甦るわけでなく、編集された断片的記憶であったり、ときには実際にはなかった事があたかもあった事であるかのように書き換えられていたりする。なぜ脳は事実を正確に記録しないのか。それは記憶のメカニズムによるもので、複数の情報の特徴をまとめたり抽象化したりすることは、記憶があいまいだからこそ可能になる。驚異的な記憶力をもつ人がバラ色の人生を送れないのは、鮮明な記憶のイメージによって、結果的には空想と現実の区別がつかなくなり、「忘れられない」ことに苦しむことになるからだといわれている。つまり、編集されて甦った心象風景こそが自分にとって必要な風景というわけなのだ。しかし前述したように、そんなノスタルジックな感傷も過渡期の出来事となってしまうのかもしれない。早晩、写真や映像を再現するメディアはプリントからデジタルデータに置き換わり、白黒プリントの存在も次第に忘れ去られていく運命にあるのだろうかと考えたりもするのだが、いや待てよ、という気もしてくる。例えば、デジタル化の波によって映画は撮影方法から鑑賞方法にいたるまでデジタルによって一変してしまった。しかし書籍の場合は、近いうちに出版業界には大転換が起きると予言されていたにもかかわらず、そうならなかった。相変わらず人々は書籍を手に取ってページを括っている。変化を受け入れるか否かは、個人に委ねられた選択の総量によるものなので、結局は予言は予言に過ぎない。
音楽を外に持ち出していつでもどこでも好きなときに楽しむことができるWALKMANiPodのような携帯型デジタル音楽プレイヤーの誕生によって音楽の聴き方が変わってしまったように、写真や動画の楽しみ方も今やすっかり様変わりしている。カメラ機能も進化しているスマートフォンの中には膨大な画像や動画をストックすることも可能となっているし、いつでもどこでも瞬時に見たいものを取り出すことができる。バックアップ(複製)も簡単だし、あっという間に送信して大勢の人々と共有だってできる。流されてしまったプリントを探し回る必要もないのだ。にもかかわらず、スマートフォンに馴染む新世代にとっての記憶の入口は、いまだ見つかっていない。デジタルデータの塊を所有しているという満足感と裏腹に、記憶の断片を取り出して向き合うという生身の感受性の衰退を引き留められるのだろうかという不安も残ったままだ。美味しいものは目の前に積み上げられているのに、肝心の胃がその美味しさを味わい、消化する能力を失ってしまっているのだ。だから、得るものと失うもののバランスをとらなくてはと思うのだが、なかなか容易なことではない。そのためには、暗夜と月夜、過剰と不足、統合と分化、苦と楽、光と闇、静と興奮、近辺と遠方、本道と間道、平凡と非凡、濃厚と淡白、偏愛と博愛、不純と純粋、前進と後退、饒舌と緘黙、必然と偶然、山辺と海辺などなど、いずれも等しく自覚し、体感し、包括しなければと、白黒写真とカラー写真の狭間で思いを強くする。

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