Ry Cooder
Joachim Cooder
[ Into The Purple Valley ] Album jacket
Ry Cooder & Susan Titelman
Photo : Paloma Seychelle Cooder

2019.11.01

ちょうど1年前の2018.11.01に紹介したブルースギター奏者の堀内良二さん。ぼくらはときどき誘い合っては珈琲を飲みに出かけている。話題はやはり音楽が中心だが、同年なので世相や健康問題、そしてこれからの事など、とりとめもなく話は広がっていく。彼はぼくと違って若い頃から世界を旅して、様々な国々の人々とも触れ合ってきてるから、とてもグローバルな感覚を持っている。また、インドで感染したウイルスによって生死を彷徨う経験も経ているので、事の本質を見極める感覚も体得しているようにみえる。ぼくらは互いに似た風土に育ち、同時代を生きてきたので、多くの言葉を費やさなくても共感できる部分がとても多い。必然的に会話もストレスを感じることなく活き活きと躍動していく。ある日、良二さんは「最近のライ・クーダー、凄くいいですよね」と話しかけてきた。なんでも、図書館にあるパソコンのYouTubeで偶然観かけたらしい。(彼はPCやスマホは持っていない)Ry Cooder(ライ・クーダー)と聞けば、ぼくも穏やかではいられない。1970年のデビューアルバムから約半世紀にわたって興味を抱き続けてきたコアなフアンだと自負もしているし、1978年の虎ノ門・久保講堂での初来日公演(単独ライブ)にだって駆けつけた。彼の音楽はとても一言では括りきれない多面性をもっているが、同時にアメリカの良心を感じさせる希有なミュージシャンだともぼくは思っている。ともすればコマーシャリズムに流されがちなアメリカの音楽業界とは一線を画し、多民族共生国家アメリカという国が、その多民族であるが故に醸成されてくる奥深さを感じさせてくれる数少ない音楽家でもある。

Ry Cooderは1947年にカリフォルニア州ロサンゼルスで生まれた。4歳のときにナイフによる事故で片目を失明し、以後義眼となっていたことを、ぼくはWikipediaで初めて知った。本名はRyland Peter Cooderとあるが、風貌からはどことなく彼にはラテン系の血が流れているような印象がある。16歳から本格的な音楽活動を始め、様々なバンドを経て、1970年にソロ・デビューを果たす。

少し、ライ・クーダーの軌跡を年譜風に俯瞰してみよう。デビューアルバム名は『ライ・クーダー・ファースト(Ry Cooder)1970年』。彼の音楽スタイルはスタートから独特なものだった。その風変わりな音作りを「ストリングス・アレンジをフィルターとして、ブルース、フォーク、ロックンロール、ポップスの興味深い融合を創造している」とBrett Hartenbach(音楽に関するメタデータのデータベースサイト・オールミュージック (allmusic)の寄稿者でミュージシャン)は評している。

それから、アメリカの古い曲を中心に選曲された『紫の峡谷(Into the Purple Valley)1972年』、名曲のみならず、アメリカのフォーク及びブルースの失われ、無視されてきた曲にも目を向けたアルバム『流れ者の物語:Boomer’s Story(1972年)』、「ライ・クーダーは世界恐慌の前に書かれた曲であろうが、先週書かれたばかりの曲であろうが、良い曲は良いということを理解している」「幅広い要素を含み、知的で、徹底的に楽しめる作品であり、『パラダイス・アンド・ランチ』はライ・クーダーの代表作であり続けている」と前述のBrett Hartenbachに評された『パラダイス・アンド・ランチ(Paradise and Lunch)1974年』とライ・クーダーは精力的にアルバムを重ねていく。

70年代後半には、ファースト・アルバム以来の風変わりな作品であり、とびきり楽しめるアルバムの一枚でもあると評された『チキン・スキン・ミュージック(Chicken Skin Music)1976年』(鳥肌もののミュージックって意味か!)、初期ジャズや20世紀初頭のクーン・ソングや宗教歌を取り上げた、やや教育的アルバム『ジャズ(Jazz)1978年』、R&B/ソウルをベースとして初めてデジタル・レコーディングされたアルバム『バップ・ドロップ・デラックス(Bop till You Drop)』1979年などへと続く。

80年代は『ボーダーライン(Borderline)1980年』、『スライド・エリア(The Slide Area)1982年』、『ゲット・リズム(Get Rhythm)1987年』の3作。

90年代からは、第36回グラミー賞の最優秀ワールド・ミュージック・アルバム賞を受賞した『ア・ミーティング・バイ・ザ・リヴァー(A Meeting by the River)1993年』(インドのミュージシャンV・M・バットとの共演作)、1996年にはキューバに赴き、コンパイ・セグンドといったキューバの老ミュージシャンたちとアルバム『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ(Buena Vista Social Club)』をレコーディングして、1997年の第40回グラミー賞において最優秀トロピカル・ラテン・パフォーマンス賞を受賞するなど、欧米を中心に高い評価を受け、1999年封切りのヴィム・ヴェンダース監督による同名の映画も話題となった。

この時期から彼は積極的に世界のさまざまな地域に根付いてきた固有の音楽に目を向けはじめる。キューバ人ギタリストのマヌエル・ガルバンとの連名アルバム『マンボ・シヌエンド(Mambo Sinuendo)2003年 』(第46回グラミー賞)もそんな1枚。続く『チャヴェス・ラヴィーン(Chávez Ravine)2005年』は、ロサンゼルスのメキシコ系アメリカ人コミュニティーを題材とした〈カリフォルニア三部作〉の第一作目となるコンセプト・アルバムだ。二作目の『マイ・ネーム・イズ・バディ(My Name Is Buddy)2007年』では、時空を超えて旅するバディという主人公の赤猫が労働者や農民、そして黒人など抑圧された人々の目撃者となる。最終章は『アイ・フラットヘッド(I, Flathead)2008年』。カントリーミュージシャンを主人公として、ビートニクやDIY文化、SFなどの要素を含んだ戦後のカリフォルニアが描き出されている。こうした歴史やそれにまつわる物語にこだわりを示すライ・クーダーのストーリーテラーとしての側面が2000年を機に明確になってくる。

それから、アイルランドのバンド、ザ・チーフタンズ (The Chieftains) との共作『サン・パトリシオ(San Patricio)2010年』では、アイルランドの伝統音楽やケルト音楽に近代的なアレンジを施し、ロックやポップスとの融合を試みている。続く『プル・アップ・サム・ダスト・アンド・シット・ダウン(Pull Up Some Dust and Sit Down)2011年』は経済危機、『エレクション・スペシャル(Election Special) 2012年』では大統領選にインスパイアされ、ここで彼は経済格差、銀行、ウォール街、共和党、移民政策、イラク戦争、グアンタナモ収容所などに対して痛烈な批判を加えていて、社会への問題意識を作品に反映させる試みをはじめている。

こうして60年代から活動するヴェテラン・ミュージシャン、ライ・クーダーには、アメリカン・ルーツ・ミュージックの探求者、ブルース、フォークをはじめ、カントリー、テックス・メックス、ジャズ、ハワイアン、アフリカ音楽やラテン音楽など、世界に点在する固有な音楽の紹介者としての学究的な側面、そして言うまでもなくスライドギターの名手、そして味わい深いボーカリスト、アレンジャー、映画音楽家と、多彩な表現の集合体としてのミュージシャン像が明確になってくる。

さて、そこで良二さんが賞賛していたYouTubeのライブを早速ぼくも探してみると、おそらくこれだろうという3本の動画が見つかった。聴きはじめてすぐに「なるほど!」と良二さんの言葉に納得。ライ・クーダーが蓄積してきた音楽のエッセンスがここには凝縮されている。ライのギタープレイはシンプルなギター・バッキングに徹していて、決して派手なソロパートでテクニックをアピールなどしていない。うーん、本当に素晴らしい演奏だ。良二さんのギター演奏もこれ見よがしな早弾きでなく、どちらかと言えばスローなスタイルなのだが、一つ一つの音は独特の存在感をもって伝わってくると言われている。近々ライブの計画があって、若いミュージシャンらと音合わせをしている良二さんはこんなことを言っていた。みんなテクニックがあって音楽の知識もすごく豊富なんだけど、演奏するとなんだか妙に真面目なんだよね。グルーヴ感が足りないから演奏がフラットな印象になっちゃう。だから上手に演奏はしてはいるんだけど、聴いてる人が楽しめる音楽になっていない。多少下手くそだって、うねりを感じるような演奏なら、聴いてる人に「ノリ」や「一体感」が伝わっていくからね。本当に大事なのは自分が楽しいと感じて演奏することで、テクニックなんか二の次でいいんだ。これはすごく参考になるから、さっそくメンバーにこのライ・クーダーの動画見せるつもりだと語っていた。「楽」しみながら「音」を奏でるから「音楽」なんだね、良二さん。

その3本の動画は、『Straight Street(真っすぐな道)』、『The Prodigal Son(放蕩息子)』、『Everybody Ought to Treat a Stranger Right(見知らぬ人には親切に)』。クレジットにはLive in studioとある。ライの息子くらい歳の離れた若い3人のミュージシャンとのスタジオパフォーマンス映像で、アップも多用された映像なので演奏の指さばきもよく分かる。あとで知ったのだが、ここでドラムを叩いているハンサムな若者は何とクーダーの実の息子である、ドラマー、パーカッショニスト、キーボード奏者のヨアヒム・(ハーバート)・クーダー(Joachim Cooder)だった。YouTubeにはヨアヒムの動画もアップされていて、父親のライがベースでサポートしてる『Everyone Sleeps in the Light (Live at McCabe’s)』で彼のヴォーカルを聴くことができる。ちなみにその動画でキーボードとコーラスを担当している女性ミュージシャンはヨアヒムの妻で、ロサンゼルスを拠点に活動するシンガーソングライター、ジュリエット・コマジェア(Juliette Commagere)。

これらの動画はライ・クーダーの最新作『The Prodigal Son:放蕩息子(2018年)』に収録された3曲でもある。アルバムは、アメリカ音楽の古層から掘り起こされたブラックゴスペル(黒人霊歌)とホワイトゴスペル(白人霊歌)を中心に、現代的に解釈したカヴァー8曲とオリジナル3曲で構成されている。彼の音楽のルーツであったアメリカ大衆音楽では、ブルーグラスとゴスペルの深い結びつきがあったが、十代のころからブルーグラスを聴いてバンジョーを習っていたライはツアーをきっかけに、ブルーグラスを通してゴスペルを見直していったことが、この最新作アルバム制作にあたってはインスピレーションの源になっていたのだという。

ではまず『Straight Street』を聴いてみよう。これは1940〜50年代にかけて流行したコーラス・スタイルで歌うゴスペル・カルテットのピルグリム・トラベラーズのカヴァー。彼らの原曲からライは印象的なメロディを抜き出して、軽やかなマンドリンのストロークに乗せて、ゆったりとしたバッキングでしみじみと歌う美しいミディアムナンバーに仕上げている。ホーンもメロディアスな奏法でなく、環境音楽っぽい音色で包み込むようにサポート。どことなく眠りを誘うグルーヴ感で知られるアメリカのトランペット奏者ジョン・ハッセル(Jon Hassell)の音色を連想させる。そして、ヨアヒム・クーダーのドラムプレイは、柔らかくて固い(これを胴鳴りの深い”やわらかたい”というのだそうだが)スネアの音色で、いまのトレンドにもなっている現代的なアメリカーナ風アレンジの味付けとなっている。

続く曲は、一転してロック調ナンバーのアルバム・タイトルトラック『The Prodigal Son(放蕩息子)』。ヨアキムのエイト・ビート・パーカッションが歯切れ良いし、ライのギターもかなりのノリノリ・プレイ。小指に嵌めたガラスのバーでお得意のスライド奏法も披露している。ちなみにスライドギターのバーは金属製が一般的だが、ライはガラスの音色を好んでいるのでもっぱらガラス・バーを愛用しているという。(ボトルネックの語源は、昔のブルースマンが酒瓶を割ってネックを指に嵌めたことに由来している)この曲を聴くと、ライのヴォーカルはずいぶん力強く、そして深くなってると実感する。明らかに若い頃より、ヴォーカルの表現力が豊かになっている。『放蕩息子』とは、新約聖書ルカの福音書でキリストが語ったとされる、神のあわれみ深さに関する放蕩息子の喩え話をルーツとしているトラディショナル・ソング。つまりこれはその伝承曲のようである。

3曲目の『Everybody Ought to Treat a Stranger Right(見知らぬ人には親切に)』のオリジナルは、ゴスペル音楽の先駆的存在として知られる、宣教師でもあったブラインド・ウィリー・ジョンソンのナンバーから。ライはLION&HEALYの9弦のアコースティック・ギターに持ちかえて、間奏やエンディングではボトルネック・ギターが炸裂。やっぱり名手ライのスライドギターはツボにはまると格好いい!ヴォーカルも演奏も、とてもグルーヴィー。ところで、作者のブラインド・ウィリー・ジョンソン(”Blind” Willie Johnson)は福音伝道師として宗教歌を語り継いだ人物だという。「ブルーグラス―一つのアメリカ大衆音楽史」の著者であるブルーグラスを含む民俗音楽を研究家ニール・V・ローゼンバーグは、ブルーグラスとゴスペルの関係についてこのように語っている。

「ブルーグラスを育んだアパラチア地方には膨大な数の山岳宗派が存在していた。ならば宗派同士が反目しあってもおかしくないが、そこには“すべての人が自分自身の説教師であるという広く信じられている感覚”が存在した。人々は教会に通うことを重視しなかったが、それでも宗教についてよく語り、考えていた。つまり、ブルーグラス・ゴスペルは世俗的な文脈で語られる神聖なるものについての対話であると定義できる」。

最後にもう1曲。このアルバムでぼくが一番好きな楽曲『You Must Unload(汝捨て去るべし)』を聴いてほしい。お洒落やお金や権力を愛するクリスチャンに対して〈すべてを捨てて、身軽になりなさい〉と語りかけるこの曲のオリジナルは、ブラインド・アルフレッド・リード(Blind Alfred Reed)による1927年に録音されたゴスペル・タッチのブルーグラス・ナンバー。ライのカバーはマンドリンのイントロに導かれてはじまる。そして、ゆったりとしたビートを大らかなライのヴォーカルが包み込む。この歌声には、ぼくが半世紀近く聴き続けてきた彼らしさが濃縮されている。途中から聞こえてくるマーチングドラムに、アルフレッド・リードへのオマージュを想わせる哀愁を帯びたフィドル(バイオリン)の音色が重なってくる。

アルフレッド・リードは1880年にヴァージニア州アパラチア山岳地方の貧農白人層の子供として生まれ、生まれつき盲目であった彼は幼い頃にフィドルの手ほどきを受けた。その時代、多くのブラインド・ミュージシャンは街角などで演奏をして生計を立てていたが、彼もその一人だった。アルフレッド・リードの代表曲は『How Can A Poor Man Stand Such Times And Live?』。ブルース・スプリングスティーンのカヴァーで有名な曲だが、ぼくにはライ・クーダーのデビューアルバムに収められてたこちらのカヴァー(1974年の映像なのでライも若々しい)の方が断然馴染み深い。リードの曲には時代に翻弄されたり、虐げられた人々の辿り着いた、諦観に溢れているものが多いが、ライ・クーダーは初期から一貫して、こうした弱者への共感を自分の音楽に反映させてきたミュージシャンだった。そして、音楽を通じて世界各地に脈々と継がれてきた歴史の語り部となったライ・クーダー。彼は決して古き良き時代へのノスタルジア主義者などではない。原石となっていた音楽を、鋭い視点で現代に必要な音楽へと磨き上げ、神聖なるものについて音楽という世俗的な方便で問い続ける生粋のプロテスト・シンガーなのだと思う。

同時に彼は世界中の音楽の魅力を探し求めた遺跡発掘師のようなミュージシャンでもあった。黒人のブルース、ゴスペル、ディキシー・ランド・ジャズ、白人のフォーク、カントリー、ブルーグラスなどを探し求めて国境沿いの田舎町や港町を移動する。さらに太平洋の島々からラテンアメリカのキューバや沖縄までと、ライの音楽は各地を旅することで制作されてきた。しかし、その間のアルバムセールスは伸び悩み、次第に家族の生活もままならなくなって、旅を続けることを諦めざるをえなくなってしまった。そんな彼の窮地を救ったのは映画の世界だった。映画に音楽で彩りを与えるライの才能を見出したウォルター・ヒル監督の「ロング・ライダース」(1980年)を皮切りに、「 ボーダー 」「 ストリート・オブ・ファイアー 」「パリ・テキサス(『Paris, Texas』は彼の代表曲となった)」「クロスロード」「ブルーシティ」「ジョニー・ハンサム」と、映画スクリーンの中で再び才能を開花させ、そこからまたひとつ音楽家としての自身の世界を広げていった。

ところで、ライ・クーダーが『The Prodigal Son(Live in studio)』の動画でギターを弾くボトルネックの指先を見ていて、彼の薬指にずっとあったマリッジリングが消えてることに気づいた人がいた。さっそく調べてみたら驚いたことに49年連れ添ったスーザン・タイトルマン(Susan Titelman)と昨年離婚したらしいと書いてあった。スーザンはワーナーブラザーズの重役で著名なプロデューサー、ラス・タイトルマン(Russ Titelman)の妹。もちろんヨアキムの母親でもある。写真家のスーザンはライのジャケット写真も数多く手がけ、『紫の峡谷:Into the Purple Valley』でライとスーザンは、オープンカーに乗り、悪天候の中を不安げにドライブを続ける二人を演じ、裏ジャケットでは青空の下を笑顔でドライブするカップルという映画のワンシーンのように仲むつまじいツーショットで収まっていた。しかし、この長年おしどり夫婦として連れ添ってきたスーザンとライに何があったのか。今回、『The Prodigal Son』のジャケ裏ポートレートの撮影者クレジットにはPaloma Seychelle Cooderとある。どうやらこの人物は、ヨアヒムとジュリエットの娘。つまり、ライの初孫パロマちゃん(2歳)が、おばあちゃんのスーザンに代わっておじいちゃんを撮っている。人生にはいろんなことがある。いろいろあるのが人生なんだな。ライ・クーダー、71歳。それでは『You Must Unload(汝捨て去るべし)』の歌詞で、そろそろさよならしよう。(散文化した和訳は蜷川泰司氏による)

*

you must unload(汝捨て去るべし)

Now you fashion-loving christians sure give me the blues
You must unload, you must unload
You’ll never get to heaven in your jewel-encrusted high-heel shoes
You must, you must unload

(さて、汝、おめかしに夢中のキリスト教徒たちよ(you fashion-loving christians)
おかげでこっちはすっかり憂鬱になる
汝、捨て去るべし、汝、捨て去るべし)
(そんな宝石を鏤めたハイヒールでは、天国へは決して行かれないのに
汝、汝、捨て去るべし)

For the way is straight and narrow and few are in the road
Brothers and sisters, there is no other hope
If you’d like to get to heaven and watch eternity unfold
You must, you must unload

(だって道は品行方正、実直にして、たどれる者の数はごく限られ
兄弟姉妹たちよ、それ以外の望みはないのだから
もしも天国を求め、そこに開かれる常しえを望むのであれば
汝、汝、捨て去るべし)

And you money-loving christians, you refuse to pay your share
You must unload, you must unload
Trying to get to heaven on the cheapest kind of fare
You must, you must unload

(さても汝、お金に目がないキリスト教徒たちよ(you money-loving christians)
おまえたちは然るべき分担の支払いも拒む
汝、捨て去るべし、汝、捨て去るべし
天国に行くのも、いちばん格安の運賃で済ませようとする
汝、汝、捨て去るべし)

For the way is straight and narrow and few are in the road
Brothers and sisters, there is no other hope
If you’d like to get to heaven and watch eternity unfold
You must, you must unload

(だって道は品行方正、実直にして、たどれる者の数はごく限られ
兄弟姉妹たちよ、それ以外の望みはないのだから
もしも天国を求め、そこに開かれる常しえを望むのであれば
汝、汝、捨て去るべし)

And you power-loving christians in your fancy dining cars
You must unload, you must unload

(さても汝、力を愛でるキリスト教徒たちよ(you power-loving christians)
意匠もこらした一等の食堂車に乗り込んで
汝、捨て去るべし、汝、捨て去るべし)

We see you drinking whiskey and smoking big cigars
You must, you must unload

(目に入るのは、ウィスキーを飲み、どでかい葉巻もくゆらすその姿
汝、汝、捨て去るべし)

For the way is straight and narrow and few are in the road
Brothers and sisters, there is no other hope
If you’d like to get to heaven and watch eternity unfold
You must, you must unload

(だって道は品行方正、実直にして、たどれる者の数はごく限られ
兄弟姉妹たちよ、それ以外の望みはないのだから
もしも天国を求め、そこに開かれる常しえを望むのであれば
汝、汝、捨て去るべし)

You must, you must unload

(だって道は品行方正・・・・だって道は品行方正・・・・)

[destination: LyricFind / songwriter: Alfred Reed / Song lyrics © Peermusic Publishing]

Bruno Funari
「ブルーノ・ムナーリ展(世田谷美術館)」フライヤー
役に立たない機械
シリーズ「陰と陽」
シリーズ「無題
ジャンニ・ロダーリと共作した絵本と挿絵の習作
シリーズ「小ざるのジジ」
シリーズ「偏光の映写」
シリーズ「オリジナルのゼログラフィーア」
シリーズ「ペアーノ曲線の色彩」
シリーズ「おしゃべりなフォーク」
シリーズ「読めない本」

2019.9.01

画家にせよ、ミュージシャンにせよ、デザイナーにせよ、凡そ表現するものにとって、自分のスタイルや作風を確立するまでには実に多くの時を費やす。そこに至るまでの試行錯誤を乗り越えたものだけが、産みの苦しみを経た大切な収穫物を手にすることができる。しかし、世の中にはそんなハードルをいとも容易く乗り越えてしまう天才も存在する。しかも、彼らは次々と異なる収穫物を手中に収めるので、この人物の内部には複数の天才が潜んでいるのではないだろうかと考えてしまうほどだ。

そこで即座に思い浮かべるのは、キュビスムの創始者として知られる画家パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)。1881年にスペイン南部のアンダルシア地方で誕生したピカソは幼い頃からその画才をいかんなく発揮し、美術教師であった父は早々に息子は自分を凌駕してしまったと実感して筆を折り、絵の道具を全て息子に譲ったと伝えられている。当初ピカソは美術学校に入学するが、すぐにアカデミズムな環境で学ぶことの無意味さを悟って中退し、バルセロナとパリを行き来して独学の道を歩み出す。孤独で不安な青春時代を表す表現の代名詞ともなった「青の時代」は、ピカソが若干二十歳のころから開始されている。その後、モンマルトルに部屋を借りたピカソは、このパリの地から多彩な画家人生を本格的にスタートさせた。「ばら色の時代」(1904年~1907年)、「アフリカ彫刻の時代」(1907年~1908年)、セザンヌ的キュビスムの時代(1909年)、分析的キュビスムの時代(1909年~1912年)、総合的キュビスムの時代(1912年~1918年)、新古典主義の時代(1918年~1925年)、シュルレアリスム(超現実主義)の時代(1925年~1936年)、ゲルニカの時代(1937年)、晩年の時代(1968年~1973年)と実に目まぐるしく彼は画風を変化させていく。また、「仕事をしているとき以外は、一人でいることができなかった」と言われるほど孤独を恐れたピカソは、その女性遍歴も華やかだった。付き合う女性が変わる度に作風が変化したピカソだったが、そんな彼の人生の中でずっと灯り続けていたものがある。妻さえアトリエに入ることを許さなかったピカソには、特別に入室を許したかけがえのないパートナーがいた。それは幼少の頃から大好きだった鳩である。重要なモチーフでもあった鳩はピカソの生涯の友だったと言われている。

彼の創造した幾つもの「…時代」と呼ばれる作風にはそれぞれの魅力が湛えられている。もちろんそれはピカソが類い希なる天賦の才能をもった画家だから為し得たものだったからだろうが、同時にどうしてそんなことが可能なんだろうという素朴な疑問も湧いてしまう。その秘密が残された語録の中に隠されているかもしれない。

「明日描く絵が一番すばらしい」

「ミュージアムをひとつくれ。埋めてやる」

「絵画は、部屋を飾るためにつくられるのではない。画家(私)は古いもの、芸術を駄目にするものに対して絶えず闘争している」

「労働者が仕事をするように、芸術家も仕事をするべきだ」

「誰でも子供のときは芸術家であるが、問題は大人になっても芸術家でいられるかどうかである」

「昔、母は私にこう言った。お前が軍人になれば、将軍となるでしょう。修道士になれば、法王となるでしょう。そして私は画家となり、ピカソとなった」

「ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ」

「私は対象を見えるようにではなく、私が見たままに描くのだ」 

(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』語録より)

『ギネスブック』で最も多作な美術家であると記されているが、多作を生み出す秘密はなかなかその姿を現してくれない。象徴的なことがある。それはピカソの本名だ。出生証明書によると、その本名は「Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno Cipriano de la Santísima Trinidad Ruiz Picass(パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・チプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・ピカソ)」。さらに洗礼名はといえば、「Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno María de los Remedios Crispiniano de la Santísima Trinidad Ruiz y Picasso(パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピニアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ)」である。冗談でしょ?と思うだろうが本当のお話。これではまるで、次々と変遷する彼の画風そのものではないか。

さて、ぼくの属しているデザインのジャンルでも、ピカソに負けない多重人格的アーティストがいる。彼の名はブルーノ・ムナーリ(Bruno Munari 1907〜1998 )。ほぼ20世紀をめいっぱい生きたイタリアを代表する美術家でありデザイナーだ。昨年の11月から今年の1月末まで、彼の日本最大級の回顧展が世田谷美術館で開催された。ぼくは観覧しなかったが、知り合いが400頁に迫ろうというぶ厚い「ブルーノ・ムナーリ展」の公式図録兼書籍をプレゼントしてくれた。もちろんこれまでもムナーリの仕事は断片的に見ていたが、彼の全貌をこの図録で知ったぼくは正直驚いてしまった。まさにその仕事ぶりは変幻自在かつ百花繚乱。とにかく活動の幅がやけに広い。絵画、彫刻、グラフィックデザイン、インダストリアルデザイン、絵本、著述、そして晩年は子どものための造形教育にまで幅を広げている。図録に寄稿されている岩崎清氏(ブルーノ・ムナーリ研究者)のタイトルは「視覚言語の海へ」だが、正にムナーリの仕事は幾筋もの川が注ぎ込む海のようだ。一見バラバラな異なる表情の川なのに、海に注がれ交じり合うと、確かにそこから彼が生涯をかけて追求した造形思考が浮かび上がってくる。

活動の幕開けは、ムナーリの出生地であるミラノで誕生の2年後にはじまった新しい芸術運動「未来派」との出会いだった。ムナーリは未来派創立宣言を発表した詩人のフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティと18歳の時に出会い、未来派の一員となる。そして1930年代に入り、初期の彼の代表作となる「役に立たない機械」を発表する。モビールは動く彫刻(キネティック・アート)の一種だが、芸術作品として初めて創始したのはアメリカの彫刻家のアレクサンダー・カルダーと言われている。しかし、カルダーが発表したのは1932年。近い発想をしたムナーリの「役に立たない機械」の制作年は1933年なので、ほぼ同時期に異なる場所でモビールは誕生したと言えるのではないだろうか。絵画に動きを取り入れる試みは未来派の重要なテーマの一つであった。ムナーリは紙や板や棒を糸で結んで吊り下げ、かすかな風でそれらのパーツを動かすことを思いついた。それは、平面から飛び出して空間で羽ばたく絵画片に近いイメージで、現代のぼくらには何の違和感もないのびやかな表現だが、当時は親しい友人らにも理解されなかったようだ。未来派時代には絵画作品を数多く残した。「再構築宣言」で提起された「解体と再構築」、「運動の軌跡」、「時空の連続性」、「科学的素材や光の使用」、「回転や繰り返しといった運動への志向」などは、以後のムナーリの仕事を考える上で重要なキーワードとなっていく。絵画制作と並行してデザイン事務所も立ち上げたムナーリは、ミラノのリキュール製造元であるカンパリの販促ツールとなる詩集「カンパリの吟遊詩人」で挿絵を担当したり、第2次世界大戦が終結するまで様々な書籍・雑誌制作に携わっていった。

戦後の開放感もあったのだろうか、ムナーリはその範囲を急激に広げてジャンルを跨いだ活動を開始するのだが、その中心に据えたのはやはり絵画だった。1950年に発表された「陰と陽」のシリーズは組み合わせるユニットを正方形に限定して、視覚的な動きを誘発する構成で様々な試みを模索している。しかし、ぼくはこの「陰と陽」と並行して制作された「無題」シリーズの方に強く惹かれてしまう。モダンでありながら詩的。しかもエレガントな、角丸方形や楕円の有機的でフラットな色面による、ミロを連想させる抽象的コンポジションは、彼が到達された最も純度の高い様式ではないだろうか。ムナーリ・シリーズのベストは?と問われたら、ぼくは即座にこの「無題」シリーズをあげるだろう。

その後、ムナーリは具体芸術運動にも関わっていく。この運動はデ・ステイル解散後に結成されたグループ「アール・コンクレ」において定義された「シンボルや物語性も含めて現実を模索・喚起させるものを持たない[具体]という思想」を引き継いでいる。語感に反して造形的には幾何学的なバランスを重んじる抽象主義的な特徴も持つが、造形的な形は何かを表現したものでなく、「その形や色や動きが、それ以外の何ものも表していない」という即物的な提唱が作品にはこめられているのだという。絵画以外にはグループ「アール・コンクレ」の印刷物やグラフィックなどの出版事業にも積極的に参加して、「陰と陽」、「役に立たない機械」、「直接の映写」、資料集「読めない本」といった作品を発表している。その後に続く運動としては、1962年頃から開始されたアンテ・プログランマータ運動がある。これは複数のアート集団が統合されたもので、特徴としては認知心理学や新しいテクノロジーを応用したもので、造形的にはキネティック・アートやオプティカル・アートの作品などであった。そこで作家たちが意識したのは作品の完成ではなく、作品を成立させる状況、あるいはそのプロセスだった。こうした志向は現代にも引き継がれていて、来日した知り合いのドイツ人デザイナーが、自分たちの活動で最も意識していることは「Gestalt(ゲシュタルト)」であるとさかんに力説していたことを思い出した。つまり、仕上がったデザインよりも重要なことは、そこに至るまでの全体性のある構造であると。本来Gestaltは「かたち」を表す言葉だが、心理学の基本概念では、部分からは導くことのできない一つのまとまった有機的で具体的な全体性のある構造をもったものということになる。

ムナーリが参画した思想性を強く意識した活動のように、1950年頃までは文化の集団思想が活発化して、さまざまな運動として世界規模で展開されていった。例えば、1917〜1930年、オランダで生まれた純粋抽象美術のデ・ステイル(De Stijl)。ドイツでは “形態は機能に従う” をモットーとした、ヴァルター・グロピウスが創立したバウハウス(Bauhaus)。ロシアでは1920年代に抽象的で表情豊かな構造形態を様々な機械的モチーフに組み合わせるデザイン運動であるロシア構成主義 (Constructivism)。スイスでは数学的なグリッドをベースとして左右非対称のレイアウトしたり、サンセリフの書体を革新的手法で組み合わせたインターナショナルスタイル。この運動の中心的人物はスイス人グラフィックデザイナーのヨゼフ・ミューラー=ブロックマン。そしてこれら様々な運動に参画したのはデザイナーだけでなく、ピエト・モンドリアン、パウル・クレー、ワシリー・カンディンスキーといった画家や建築家のヴァルター・グロピウスやヘリット・リートフェルト、写真家のモホリ=ナジ・ラースローなど、幅広いジャンルを巻き込んでモダニズム運動が展開された時期だった。そうした変革思想の潮流に押し出されるように、さらなる文化運動の方向性を模索する動きが20世紀半ばにはピークを迎えることになる。

20世紀文明の批判的同伴者となった幾多の文化運動が試みた真摯な試行錯誤の中で、ムナーリが柔軟に活動していた印象を与えるのは、おそらく彼のデザイナー的な資質が影響を与えていたからではないだろうか。彼は運動参画と並行して絵本に関心を注ぐようになる。きっかけは5歳になる息子に与える良い絵本が見つからないと実感したことからスタートした。ムナーリは子どものために新しい絵本シリーズを10冊制作したが、このシリーズは頁サイズに変化をつけたり大小のフリップが挟み込まれたり、絵本を構成する基本となる言葉と絵だけでなく、紙自体やその形体なども表現の媒体として活用するなど、それまでにはなかった新しい試みに満ちたものだった。更に1960年代にはシリーズ「少年少女のための本」など、ムナーリは編集責任者、グラフィックデザイナー、作家として関わり、6年間でなんと66冊もの絵本を出版した。また、イタリアを代表する児童文学作家、ジャンニ・ロダーリともコラボレーションしている。この二人の希有な才能の結実によって6冊の絵本が生まれた。ムナーリの中には「技術」と「遊び」が分かち難く結びついていた。必然的に、活動は絵本や遊具にとどまらず、その延長として「未来の社会を作る男性と女性は、今の子どもたちだ」と、子どものためのワークショップ活動も開始されていく。ここまで書き進めてきて、ぼくは思わずため息をついてしまう。これらはまだムナーリの活動のごく一部にすぎないのだから…。

彼はとどまることなく挑戦を続ける。プロダクト作品「小ざるのジジ」で第1回コンパッソ・ドーロ賞を受賞(ムナーリはこの賞の創立メンバーでもあった)。そしてそのおよそ20年後に、ムナーリは「コンパッソ・ドーロ賞を無名品に」と主張して有名デザイナーらによる製品でなく、日用品にこそ光をあてるべきだとプロダクトデザイン界に一石を投じる。さらに、「直接の映写」ではスライド・プロジェクターでフィルムの代わりに羽根や糸、カラーセロファンなどをマウントに挟んで壁に映写する作品を発表したり、この延長上に光の振動方向を制限できる偏光板を組み合わせることを思いつき、無色に見える素材から偏光板によって鮮やかな色彩を生み出した作品「偏光の映写」も発表して、気負うことなく誰もが生活の中で気軽に楽しめる美術を提案した。この「偏光の映写」は1960年、東京国立近代美術館で上映されているが、1958年にムナーリ宅で鑑賞した瀧口修造はその魔術に魅了され、色彩の変化を自然の事象と重ねて変化し続けることの美しさとそれによる人間の感受性の呼応を、ムナーリの解説の翻訳にあたって詩の形で謳ったという逸話も残されている。

ムナーリの試みは続く。次は考古学の復元の手法と呼ばれるアイデアを美術表現に取り入れる試みである。これは恐竜の骨や土器の欠片などの一部分から全体像を推定する手法で、紙片台紙に並べて線を引き、形へと導いていく「空間のオブジェの理論的再構成」というシリーズで、誰でも簡単に出来そうなやり方で、誰も見たこともない作品を生み出した。また新しい技術もムナーリにとっては格好の画材となる。1959年にハロイド社(後のゼロックス社)によって世界初の事務用PPC複写機「914」が登場すると、早速ムナーリはそれを制作メディアとして活用して「オリジナルのゼログラフィーア」シリーズを発表し、何度も展覧会で実演している。1970年出版の「ゼログラフィーア ランク・ゼロックス機の創造的使用法の資料」にはこんな一節がある。「視覚芸術の制作者が担う課題のひとつは、実験し、道具を探し、それらの道具を、制作を容易にするあらゆる『手仕事の秘密』とともに、次世代へと受け渡すことである。」これは、あらゆる人にオリジナル作品の制作が可能となるという、ゼログラフィーの新しい公共性の提唱ともなった。

学問に触発された例として、ムナーリは数学と美術の結びつきにも強い関心を示した。イタリアの数学者、ジュゼッペ・ペアーノが発見したペアーノ曲線は、曲線(1次元)で埋め尽くしていくことで、結果的に正方形(2次元)が生み出されるという理論で、ムナーリはこの理論からのインスピレーションを得て「ペアーノ曲線の色彩」シリーズを発表する。数学的構造に心理的要素の強い色彩を取り入れると何が起こるのかに関心があったと述べている。

彼の観察眼は際限なく複眼化していく。ある時何気なく眺めていたフォークが手そのものに見えた事に発想を得て生まれたのが「おしゃべりなフォーク」と名付けられた「ムナーリのフォーク」シリーズ。この視覚的擬人化は無機質な物体を表情豊かな別なものに変換する発想のマジックでもある。

こうしてムナーリの百花繚乱の足跡を追っていっても、まだまだ語り尽くせないのだが、最後に芸術とデザインを自由闊達に行き来した彼らしい試みとして、大きな主題と位置づけていた「文字」の事を少しだけ。ムナーリが文字について切り拓いた道は3本あると言われている。1本目は「読めない本」のように文字をまったく排除して色と形体のみで構成すること。その成果は「本に出会う前の本」へと引き継がれていった。2本目は「アルファベットの本」のように文字を図像に変化させたり、逆に図形の組み合わせから文字を作ったり、文字がオブジェ化するようなユーモラスなアプローチと文字表現の可能性を模索した仕事。そして3本目は「未知の国の読めない文字」のように、象形文字や記号からまったく新しい文字を作ったり、誰も読むことができない文字を作ったりした。そして、限りなく絵に近づいた文字を生み出したムナーリは文字を意味から開放したのだった。

語弊があるかもしれないが、知れば知るほど、ピカソやムナーリはやはり芸術的多重人格者なのかもしれない。ムナーリの目まぐるしい変遷に目をこらすと、そこからは彼の心象の原型がぼんやりと浮かび上がってくる。ムナーリの原風景は、幼いころ過ごしたバディア・ポレジネの街外れに流れるアディジェ川畔にあった木造水車小屋だと言われている。人間の営み、自然、そしてその境界線上にある素朴な機械。この3辺のトライアングルの中で誕生した表現者ブルーノ・ムナーリは、その中で詩的に、そして軽やかに遊び回る。「何ものでもない」そして「役に立たない」。そのことこそが肝要なのだ、と彼の全人格、そしておびただしい数にのぼる作品群が今も語りかけている。

[参考文献:求龍堂刊「ブルーノ・ムナーリ展」公式図録兼書籍の諸解説]

Randy Newman
Tina Weymouth(Tom Tom Club)
戦車模型
Claude Lévi-Strauss
折口 信夫
菊池 武夫(BIGI)
Les morceaux refusés

2019.7.01

地元に居る時は、ほぼ毎日のように顔を出しているJAZZ喫茶がある。日本中探したら同名店舗はたぶん100は下らないと思うその名は「Aroma」。ぼくの友人デザイナーが、行きつけだったその店の亡くなったマスターの跡を継いで、ここ10年ほど経営している。店の奥に鎮座するのは、アンプが年代もののプリAccuphase C-240と真空管のメインAIR TIGHT ATM-1、そして大きなスピーカーセット(JBL 2405+JBL LE85+ALTEC 511B+JBL 4507+JBL 2235H)。このコンビネーションが生み出す温かく深い音色が店内に満たされるといよいよAromaの開店だ。ショップのテーマは「1975年」。コンセプトは「あの日、あの時のまま」。1975年は2代目マスターの藤井くんが上京して初めてJAZZ喫茶なるものに感動したメモリアルイヤーなんだとか。壁には額に納まったお気に入りデザインのLPレコードジャケットが飾られ、棚にはノスタルジックなグッズがディスプレイされていて、隅から隅まで彼の嗜好で統一された店内の時間はたしかに1975年で止まっているかのようだ。
そんなAromaに開店以来、足繁く通ってきたぼくだがここ数年会うのを楽しみにしている常連がいる。ドアを開けるときまってカウンターの一番奥からニコニコしながら片手を振るSさんだ。彼は個人で高校生たちを教える塾を生業としていたが、それで生計を立てているという風もなく、どちらかと言えば道楽の範疇におさまる生業であるようにみえた。娘さんが一人いるらしいが、奥さんとは事情があって長らく別居していると聞いていた。そして数年前に同居していた母親を見送ったあと、母屋に暮らす高齢の父親と別棟に住む彼は微妙な距離感で敷地内同居生活を送っていた。経済的には余裕があるようで傍から見たらずいぶん羨ましい自適な暮らしぶりだ。年齢はぼくより10歳ほど若く高校の後輩なのだが、その外見は実年齢より遙かに老けて見えるのには訳がある。少年時代に無謀な運転者による交通事故に巻き込まれた彼は、その時頭部に受けた衝撃による後遺症で、それ以来ずっと苦しみを背負うことになった。あらゆる痛みという痛みは経験してきたと語る彼は毎月ひと抱えもある薬を医師から処方され服用し続けてきた。発作を抑えるクスリはそのまま逆読みするリスクとなって彼の身体を蝕み続け、麻酔すると命に危険が及ぶ成分も含まれる服用薬も処方されていたので、虫歯の治療ができないことも彼の老いの風貌を加速する要因となっていた。車を運転していた時期もあったようだが、病名が確定してからは免許は返納せざるを得ないし、自転車すら乗ることも許されないから、もっぱら移動手段は徒歩となる。しかし徒歩とて無理はできない。歩道で発作に突然襲われて気を失ってしまったり、炎天下を歩いて熱中症で倒れ救急搬送された事もあったそうだ。また、季節の変わり目には膝や腰の痛みにも苦しんでいた。そんな事情を知れば放っておくわけにもいかない。彼の自宅はAromaから15分ほどの距離なので、ぼくは彼が帰るときには当たり前のように送って行くようになった。もちろん、そんな思いを抱いていたのはぼくだけではない。ぼくの行けない日には、暗黙の内に何人かが分担して彼の足となっていた。
人生には明暗がつきものだが、ここからは明るい部分の話。Sさんはこれまで旺盛な好奇心によって深い知性を育んできた。彼の精神のバックボーンとなってきたのは驚くほど幅広い分野にまたがる膨大な読書量。そこにJAZZやROCKをはじめとする音楽大陸のディープなリスニング体験も加わる。そして、呆れるほど様々に派生する奔放な趣味嗜好。ぼくとは方向性は異なるが、ファッションに対する独特のこだわりもあった。これらすべてがSさんのこれまで体験してきた様々な記憶と重層的にブレンドされて彼の口から語り出されてくる。この数年間にぼくらは、旧知の間柄といってもよいほど日々濃密な会話を重ねてきた。またそれでは飽きたらず、今日語りきれなかった思いを長文メールにして深夜送ってくるSさんに、ぼくもならばと返信する。こうして夜な夜な交わされる長文メールはすでに相当な量となっている。
付き合いの切っ掛けは、初めて彼の隣りに腰掛けたぼくがアメリカのシンガーソングライター、ランディ・ニューマンのことを話したことだった。彼が深くリスペクトしていたニューマンのことをこれまで地元では誰とも話したことはなかったのだという。それから堰を切ったように、ほとんど話題に上らないような渋いミュージシャンたちの事をぼくらは語りあった。特に彼のお気に入りは、アメリカのロックバンド、トーキングヘッズ(Talking Heads)でベースを担当していたティナ・ウェイマス(Tina Weymouth)。彼女の所属するニューウェイブユニット、トムトムクラブ(Tom Tom Club)のライブをイタリアまで観に行ったほど夢中になっていた時期もあったようだ。ぼくはJAZZに関してはほとんど知らないことばかりなので、そっちの話題は藤井くんをはじめJAZZ好きの客らと盛り上がっていた。ガラケーのSさんはスマホもPCも使わないからネット注文ができない。なのに欲しいCDは沢山あるから、藤井くんに頼んでヤフオクで落札してもらったり、ノートパソコンを借りてCDにコピーする方法を教えてもらい、Aromaで長時間作業したり、ぼくがAmazonに代理注文したりして、彼のミュージックライブラリーは次第に厚みを増していった。
趣味嗜好もいろいろある。例えば、彼が収集してきたNゲージの鉄道模型などはぼくも格安でたくさん分けてもらったが、極めつけは戦車模型作りだ。どうして戦車に惹かれるのか詳しく聞いたことはないが、米粒のようなキャタピラパーツを根気よく組み立てて作業をスタートさせ、呆れるくらい手間暇をかけて、やっと両手の平にのるほどの大きさの戦車を完成させる。そんな労作が何台もあるのに、まだ未開封の箱が幾つも積み重ねられているらしい。それに一体誰が読むんだろうと思う戦車の専門書を手に入れて、嬉しそうに説明してくれるのだが、そんな時のSさんはぼくの知らない大きな子どもになっている。
また、彼は名古屋の大学時代には歴史学者の網野善彦氏に多大な影響を受け、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』や『野生の思考』を愛読し、折口信夫に誘われるように愛知県北設楽郡奥三河の花祭で熊野信仰から伝わる神事芸能に度々触れるなど、旺盛な知的好奇心を持続させてきた。南方熊楠の活動にも興味津々で、当然のことながら中沢新一さんの仕事にも深い尊敬の念をはらいながら向き合っている。だからぼくらは(往々にして脈絡がなく、とりとめのない進路をとることが多いのだが))時間さえ許せばいつまでも尽きることなく話込むことができるのだ。
ファッションに関しても、彼なりのこだわりがある。菊池武夫が創始者となるBIGIをこよなく愛し、そのテイストをベースとして国内外の様々なブランドからチョイスした靴やソックスで足元から帽子に至るまでを彼なりのコーディネートでまとめて楽しんでいる。彼のワードローブは見たことはないが、ほぼ毎日取っ替え引っ替え変身してぼくらの前に現れるので、口さがない者などは「あの短い移動距離で毎日衣装替えして一体誰に見せるんだ」などと嫌味を言うが、ぼくには分かる。それは彼が自身のために行っている儀式なのだ。女性の化粧にも言えることだが、ファッションはもう一人の別な自分に変化するツールなのだ。昨日とは少し違う今日。今日とはちょっと違う明日にしよう。ぼくらの心理は日々こうして変化を欲するゆらぎをもって動いていく。それが生きているささやかな証しとなったり活力となったりすると感じるからだ。だから、ファッションは決して他人や異性を意識しただけのものではない。基本的には、今日を過ごす自身への意欲表明なのではないだろうか。
ところで、Sさんはマスターの藤井くんと似ているところがあって、それは彼らの嗜好の時計が或る時期を境にピタッと止まっていることだ。それ以降の現象にはほとんど興味を示さない。或る時期に蓄積された記憶を溺愛してるから、本人にしか実感できない描写が何度もループされる。あたかも、そこに築きあげられた愛すべき世界がずっと現在の自分を支えてきたし、これからも支え続けていくだろうと確信しているかのようだ。ぼくは意識的に攪乱を試みるが、気づけば彼らの愛すべき世界にちゃんと戻されてしまうから、ぼくも「なんちゃって愛すべき世界の住人」となって会話を楽しむことにしている。なぜなら、その感覚は同時期を潜ってきてるぼくにも無縁の世界ではないし、(それとこれは会話を楽しむことができる一番重要な理由なのだが)彼は本質的にとても「やさしい男」なのだから。見た目は厳つくて強面。以前はよくヤクザと間違われたそうだ。しかも気に食わない輩には悪態つくし、彼の甲州弁は今ではめずらしいくらい本格的なものなので、ぼくが遙か昔に聞いた筋金入りのネーティブと同レベル。しかし、甲州人の特質がそうであるようにぶっきらぼうな人ほど、その奥には繊細な一面が隠されていることが多い。ある晩、ぼくが送った亡き母の思い出に触れたブログを読んだ彼は「どーしてくれるんですか。涙が止まらないですよ」と返してきた。本人の居ないところではその人物の悪口は言わないフェアな面もあり、涙もろくて細やかな心遣いの出来る男だった。「だった」とぼくは過去形で書いているが、彼は今年の4月初旬、この世を去ってしまった。
それは本当に突然のことだった。Aromaの常連たちと日曜日に日本五大桜の1本に数えられている埼玉県北本市の石戸蒲ザクラ見学に行く事になっていて、その前日の土曜日、いつものように閉店近くに一緒に出て彼を送って行くつもりだったから、ぼくは用事を済ませてから夕方Aromaに行くと、さっきSさんが体調が悪くなって帰ったばかりだと藤井くんが言う。自分で胃腸薬買ってきたりしたものの脂汗がとまらず見るからに具合悪そうな様子で、いつも体調崩したときに相談している男性に迎えに来てくれるよう電話をかけて呼び、その人に連れられて帰ったらしい。それまでも何度か彼は店で体調を崩して横になっていたこともあったから、ぼくらは「またか」といった気持ちで、そのうち元気になってやって来るだろうなんて、深刻には考えていなかった。しかし、知人が連絡しても返信もなく、それ以来情報が途切れていたから次第に不安が募ってきていたのだが、入院しているのだろうと思っていた。ぼくらが彼の死を知らされたのはそれから5日後のことだった。彼は高齢の父親が住む隣りの別棟で一人亡くなっていたのを発見されたそうだ。おそらくAromaで具合が悪くなったその日の夜には亡くなっていたのかもしれない。その翌日ぼくらが満開の桜を眺めていた時には、すでに旅立っていたんだと考えると胸が締めつけられる。数日後、家族らによって葬儀はしめやかに執り行われた。告別式場入口には故人を偲ぶスナップや戦車模型など縁の品々が並んでいた。その中に楽譜が2枚。曲名をよく見ると「Love in Vain」とあった。この曲はThe Rolling Stonesの演奏で有名だが、原曲はRobert Johnsonのブルースの古典。伊藤比呂美さんの秀逸な訳がある。
*
Love in Vain
(「訳詞ではなく直訳」:伊藤比呂美)

そうだね、わたしは女を追って駅へ行った
スーツケースを手に持って
そうだよ、わたしは女を追って駅へ行った
スーツケースを手に持って
あああ、言うのはつらい
言うのもつらいことなんだ
愛ってものがそっくりむだなときもある
わたしの愛はそっくりむだになっちゃった

汽車が駅に入ってきたとき
わたしは女の目をのぞきこんだ
そうだよ、汽車が駅に入ってきたとき
わたしは女の目をのぞきこんだ
あああ、寂しいと思った、わたしは寂しかった
どうしようもなかった、ただ泣くだけだった
わたしの愛はそっくりむだになったんだ

そうして汽車だよ、それが駅を出たんだ
尾灯が二つ、ともっていた
そうなんだよ、汽車だよ、それが駅を出たんだ
尾灯が二つ、ともっていた
おおお、ブルーの灯はわたしのブルース
赤い灯がわたしの心
ああ、わたしの愛はむだになった

いい、いい、いい、いい、おおお
ふうう、ウィリー・マエ
えいえいえいえいえいえいえい
ふうう、ウィリー・マエ
えいえいえい、へいへいへいへい
ひひひ、いいい、おおお、おおう
わたしの愛はなにもかもむだになった
(注:ウィリー・マエ=Willie Maeというのはロバート・ジョンソンが愛した実在の女性の名前)
*
実は「Love in Vain」は、ぼくが若い頃に自家録音した音源に入っていた曲で、あるきっかけがあってSさんはそれを聴く機会があったのだが、その後こんなメールを送ってくれていた。「オーバーダビングですか。いや、ヴォーカルだけでも感心したのに、あのスライド気味なギターに『センスの良いギターだなぁ』と思っていたので驚きです。僕はかつてアコギで元祖ロバート・ジョンソンのラヴ・イン・ヴェインに挑戦して、タブを採譜まではしたものの見事に挫折した経験があります。しかし、小林さんは心で良い曲を選ぶんですね。ラヴ・イン・ヴェインなんて当時でもマイナーだったでしょうに…」こんなやりとりがあったから、楽譜を見たぼくにはぴんと来るものがあった。採譜を彼は思い出して眺めていたのだろうか。そして傍らにあったその楽譜が縁の品となったのか。もしくはギター片手に再挑戦してたのかも知れない。
今となって思い当たることが他にもある。亡くなる5日前にSさんは1枚の真っ白なCDを渡してくれた。彼が2年間プロミュージシャンの指導を受けて習得したギター演奏が披露されているシャンソンのアルバムだという。ヴォーカルの女性とベース奏者は共に存命のプロミュージシャンなので公開をずっと封印してきたが、ぜひ一度聴いてみて欲しいと。アルバムタイトルはLes Morceaux Refusés(レ モルソール ルフュゼ)。ギターを担当する彼の演奏はなかなかの出来映えだったので、素っ気ない無地CDにぼくは勝手にジャケットデザインをして返すつもりだった。(最下段写真)
ここ数年ぼくらは夜な夜な長いメールを交わしてきたと前述したが、そのメールはおびただしい数にのぼる。しかし、亡くなる前日に彼から届いたメールはちょっとこれまでのものと違っていた。死を予感していたのだろうか。いつもなら0時前には終了するメール交信なのに、夜中の2時に彼からのメールが届く。すでにウトウトしていたぼくは着信音で目覚めて寝ぼけ眼でメールを開く。「夜分済みません。寝ているでしょうね。でも、言える人が小林さんしか居なくて…」とはじまり、それはおそろしく長くヘビーな内容だった。そこには彼の心の奥にずっと淀み続けていてどうにもならない懊悩が吐露されていた。墓場まで持っていくつもりだったのにどうしても誰かに話さずにはいられなかった、そんな切実さが伝わってきた。ぼくはしばらく寝床に横たわって考えてからこんな返信をした。
「春の夜更けに相応しい話ではないですか。桜の花はなかなか埋めることの出来ない記憶を鮮明に蘇らせる不思議なチカラを秘めてるようです。そして、気紛れな思いつきでしたが、因縁深いCDのジャケットをデザインしてよかったと思いました。心が少しでも軽くなってもらえたら嬉しいです。」しかし結局、彼にそのジャケットを見せることは叶わなかった。
四十九日も終わった梅雨の晴れ間のある日、ぼくはSさんの墓参りに向かった。抜けるような青空の下で花を手向けてから墓に手を合わせる。そして見てもらえなかったCDを墓石に立てかけ、JBLのBluetoothスピーカーを置いて彼の大好きだったティナ(Tom Tom Club)のYouTube動画を再生して、Sさんの嬉しそうな顔を思い浮かべながら一緒に耳を傾けた。ぼくらの今生最後の日となってしまった亡くなる3日前、いつものようにAromaを一緒に出て彼の自宅近くにあるセブンイレブンまで乗せていく。「どうもすみませんでした」とぼくに声をかけ、降りるとかならず車が見えなくなるまで手を振るバックミラーに映った彼の最後の姿が目に浮かんでくる。墓地を後にする前にもう1曲。選んだのは小田和正の『さよならは言わない』。もちろんぼくも、さよならは言わないよ、瀬戸博幸さん。
(小田和正の公式ナンバーは国内では非公開動画となっていてカバーのみ。オリジナルが聴けるからとリンクしたのは海外サイトの動画)

Mike Posner
Passenger[Michael David Rosenberg]
Kaleo
Sigur Rós
Of Monsters and Men
Björk
Calavera : Dia de los Muertos
C.W.Stoneking
Sweet Jazz Trio

2019.5.01

今日から日本は新時代の「令和」が始まり、花粉乱舞する春から、いよいよ本格的に生命が躍動をはじめる初夏を迎えた。自動車に例えるなら、スピードも徐々に乗ってきて、安定走行に入ったというところだろうか。そんな日々に彩りを添えるのはやっぱりMusic。そこで今回は、ここ半年ほどマイブームとなっている音楽のお話。

何事にも切っ掛けというものがある。発端は自室で観るテレビの買い換えだった。カタチから入る性癖のあるぼくが目をつけたのは、これ以上ミニマルにならないというくらいシェイプされたフォルムをもつSONY BRAVIA OLED A1シリーズだった。訪れた家電店で偶然見かけた4K有機ELディスプレイに再現される映像の美しさに「今のテレビってここまで進化したのか」とぼくは思わず息をのみ、有機EL特有の漆黒によって引き締められた映像の美しさに感動してしまった。ロゴさえ見つけることが難しいほどそぎ落とされたスリムなフレームの中に、その鮮明な映像だけが浮かんで見えるシンプルさも潔い。なんでもサウンドは「Acoustic Surface」という画面自体を背後から振動させる画期的な構造がもたらす自然な再生音がセールスポイントのひとつとなっていたのだが、普段ぼくはイヤホンで視聴しているので、この映像と一体化されたサラウンドの臨場感は残念ながらまだ未体験のまま。ともあれ、こうして一番小さいタイプ(とはいっても55v型だが)のBRAVIA A1が自室にセッティングされることになった。

まず、店頭で体験したあの感動を再現しようと、公開されている美しい4Kデモ映像をいくつもネットからダウンロードする。そんな中に『Italy by Drone(4K)』という動画があったのだ。空からイタリアのベニス、リド、ブラーノ、ムラノ、ヴィチェンツァやベロナを俯瞰するドローン映像で、地中海特有のまぶしい陽光降り注ぐ運河や、おもちゃ箱をひっくり返したようなカラフルな壁の町並みを舐めるように写し出している。そこにBGMとして流れてきたのがMike Posner(マイク・ポズナー)”I Took A Pill In Ibiza“だった。Posnerは31歳になるアメリカのシンガーソングライター。2010年にソングライターとしての才能を開花させ、ジャスティン・ビーバーに曲を提供するなどミュージシャンとしての成功をおさめたが、その後は厳しい現実の壁に突き当たって低迷する日々を送っていた。そこである日、彼は様々なしがらみを捨ててユタ州に向かう。そして、山奥にこもって、バンの車内で質素な生活を送る日々を選んだ。その体験の中で、それまでの過去の成功がもたらした虚しさを曲に描きだし、生まれたのが”I took a pill in Ibiza”だった。皮肉なことに当初は悲しげなこのアコースティックなフォークソングはパッとしなかったが、ノルウェーのデュオSeeBがEDMリミックスとしてカバーした途端、ヨーロッパでブレイク。ビルボード・ホット100でも5位まで登りつめるヒット曲となり、Posnerは再び脚光を浴びることとなった。その後、この曲は2017年グラミー賞『年間最優秀楽曲』にもノミネートされることになりPosnerは復活を果たす。中性的な歌声で、過去の栄光を皮肉り、「ぼくが知っているのは悲しい歌だけなんだ」と4Kのドローン映像とはミスマッチなフレーズを繰り返す。ぼくが惹かれたのは、その独特なハスキーで高音のボーカルだった。さっそくYouTubeで、彼の楽曲を検索試聴してコンピアルバムを作り、そのハイトーンボイスを楽しんでいた。なかでもぼくが好きなのはナイーブでキュートな”One Hell Of A Song“。Remix版の軽快さもなかなかステキだ。

そんな検索サーフィン中にぼくはPosnerとよく似た歌声のミュージシャンを発見する。楽曲はどれもなかなか良い。いや、すごくいい!ということで次に夢中になったのはPassenger(パッセンジャー)。このミュージシャンの本名はMichael David Rosenberg(マイケル・デヴィッド・ローゼンバーグ)といって、35歳になるイングランド出身のフォークロック・シンガーソングライター。Passengerは彼がメインボーカルおよび作曲担当していたバンドの名称だったが、2009年のバンド解散後、ソロ活動するようになってもそのまま彼はバンド名を使い続けることにした。ぼく的にはDavid Rosenbergの方がしっくりくるし恰好いいと思うんだけど…。Passengerはイングランド人の母親とユダヤ系アメリカ人の父親との間に生を受け、現在もイングランドのブライトンに在住している。16歳で学校をやめ、ストリートミュージシャンとしての生活を経て晴れてプロとなる。多くの国でヒットチャート第1位にランクインした”Let Her Go“は彼のベストシングルでつとに有名だが、ぼくは最初に聴いた”Runaway“が印象深い。ちなみにメイキングを観ていたら、このOfficial Video映像の撮影をしているカメラマンは東洋人(もしかしたら日本人?)だった。

Passengerの音楽はPosnerと較べると、ブリティッシュフォークの流れを汲むような湿り気を帯びた哀愁を漂わせている。そして、何と言っても殉教者のようなひげ面から紡ぎ出される独特な歌声が魅力的。海辺で女性コンテンポラリーダンサーが舞う”To Be Free“の映像を観ていると、つくづく彼はイングランド人なんだなと感じる。背景を彩るのはイタリアやアメリカ西海岸のようなスカッとした青空ではなくて、灰色を帯びたグレイッシュな空だ。紹介したい曲がたくさんありすぎて困ってしまう。のびやかなブリティッシュフォーク”Why Can’t I Change“。叙情的な名曲”When We Were Young“や、心温まるロマンティックな”Beautiful Birds“もある。また、Passengerは何曲もカバーを演奏しているが、ぼくが特に好きなのはBob Dylanのカバー”Girl From The North Country“。そしてぼくのPassenger Best 1は”Home”。この曲はいろんなバージョンがあるが、Rimixの”Home (Steezmonks Remix)“なんて何回繰り返し聴いたことだろう。

*

[Home]

They say home is where the heart is but my heart is wild and free

我が家とは心のある場所、と人は言う でも僕の心は野性的で奔放

So am I homeless or just heartless?

だから僕には家がないのかも それとも、ないのは心?

Did I start this? Did it start me?

僕が心を作ったのか?心が僕を作ったのか?

They say fear is for the brave for cowards never stare it in the eye

恐れるのは勇敢な証しだ、と人は言う だから臆病者の眼には恐れがない

So am I fearless to be fearful does it take courage to learn how to cry

僕は恐れを感じるために不敵になるんだろうか 泣き方を学ぶためにも勇気はいるんだろうか

※So many winding roads  so many miles to go  and oh.

いくつもの曲がりくねった道 とても長い道のり

Oh they say love is for the loving  without love maybe nothing is real

愛は愛するためにあると人は言う 愛がなければ、何も本物にはならないと言う

So am I loveless or do I just love less

僕には愛情がないのだろうか、それともただ愛情が小さいだけ?

Oh since love left. I have nothing left to fear

愛があるならば  恐れるものなんて何もない

※So many winding roads  so many miles to go

いくつもの曲がりくねった道  とても長い道のり

※When I start feeling sick of it all.  It helps to remember I’m a brick in a wall

僕が全てのことに嫌気がさしたら  思い出そう、自分は壁の一部のレンガなんだと

Who runs down from the hillside to the sea. When I start feeling that it’s gone too far

丘から海まで転がり落ち  あまりに遠くまで来過ぎたと感じたら

I lie on my back and stare up at the stars. I wonder if they’re staring back at me

寝そべって星々を見上げよう. 星たちだって僕を見つめ返しているのかもしれない

When I start feeling sick of it all.  It helps to remember I’m a brick in a wall

Who runs down from the hillside to the sea. When I start feeling that it’s gone too far

I lie on my back and stare up at the stars. I wonder if they’re staring back at me

*

音楽好きは節操もなく、どんどん脇道に逸れながら探索サーフィンを続ける。やがてぼくの関心は北上してアイスランドに辿り着く。今度の音楽は少しワイルドで力強い。アイスランド・モスフェルスバイルで2012年に結成された4人編成のロックバンド、Kaleo(カレオ)と出会ってしまったのだ。Kaleoはハワイ語でサウンドを表す言葉だそうだが、その音楽の図太さはボーカル・ギター・ピアノ・作詞担当の Jökull Júlíusson (一体何と発音するんだろう)のボーカルによるところが大きい。ルックスと歌声のギャップも面白い。 “Save Yourself” (LIVE at Fjallsárlón)は、何と氷河の上で演奏してる。おー、やっぱりアイスランドだ!(Kaleoは2015年からはアトランティック・レコードと契約したのでアメリカテキサス州オースティンに滞在している)なので、歌詞は英語が多いがアイスランド語の曲もなんとも味がある。”Automobile“なんて正統的なロックナンバーだけどなかなか恰好いいし、出しゃばらなくて渋いリードギター、寡黙なベース、ボーカルもサポートするドラムスと、メンバーのポジショニングもピッタリ決まってる。アイスランドは日本の四国より小さな国なのに、前にもとりあげたポストロックバンドSigur Rós (シガーロス)やOf Monsters and Men (オブ・モンスターズ・アンド・メン)、それにご存じBjörk (ビョーク)だっている実は音楽大国なのだ。

どちらも2015年リリース曲だが、まるで短編映画のようなSigur Rósの”Hoppípolla“や、モノクロ・クチパクパフォーマンス映像が新鮮なOf Monsters and Menの”Human“と、相変わらず彼らのアイスランド魂は健在。もちろん、アバンギャルドで革新的な活動を持続しているBjörkだって負けてはいない。ビョークという命名は、カバノキ(樺の木)という意味がその由来なのだそうだが、イギリス出身の映像作家クリス・カニンガムがミュージックビデオを担当したレズビアンロボットの”All is Full of Love“は当時とても衝撃的だったが、そのリリースは1997年なので、あれはもう20年以上も前の衝撃だったことになる。そして21世紀初頭のいま、孵化する昆虫をオマージュしたエロティックで官能的な最新作”arisen my senses“を視聴すると、彼女のその実験的姿勢にまったく揺るぎがないことがわかる。

ところで、YouTubeは視聴中にサイドバーに関連動画のサムネールが表示される。ぼくはある日、そこに骸骨のお面をつけたミュージシャンのジャケットを見つけた。メキシコには街中がカラベラ(=ガイコツ) で溢れかえる盛大な祝祭「死者の日」(Dia de Muertos)がある。それは日本のお盆にあたるもので、死者を迎えて死者を称え、そして死者を送るお祭りだ。その期間は仮装した老若男女が、それぞれ思い思いの可愛い骸骨となって街にくり出す。カラフルで陽気なメキシカンHalloweenのお盆版みたいなイメージか。そこで、この骸骨のお面ミュージシャン、C.W. Stonekingの”We Gon’ Boogaloo” Live at KDHXをさっそくクリックしてみると、おー、いいじゃない!茶目っ気たっぷりで、ラフな、人食ってる感がなかなか好感もてる。ガールズバンド従えてノリノリ演奏。次の曲、ラテンアメリカ版「なまはげ」みたいな”Zombie“も益々微笑ましい。タコス・チリコンカーン・ナチョスなどメキシコからの影響を受けたアメリカ南部やテキサス州周辺の料理はTex-Mex、つまり「テキサスとメキシコ混交の」という意味のテックスメックス料理と呼ばれてるが、音楽も同様にアメリカ南部のメキシコ系音楽はTex-Mex(テクス・メクス)と呼ばれることが多い。このC.W. Stonekingの音楽は、ブルースコードをベースにそのテクス・メクスを存分にふりかけたご機嫌サウンドといえるだろう。彼の調理室ストッカーには戦前のブルースサウンドはもちろん、ニューオリンズジャズ、jugバンド、カリプソ、アーリーロックンロール、ゴスペルなんかの素材がぎっしりと詰まってる感がサウンドからしっかり伝わってくる。音質は全然シャープじゃなくてモゴモゴしてるし、そこにデジタルのデの字もないけど、彼の音楽にはその方が相応しい。これって立派な(それにちょっと不良な)大人の音楽だと思う。なのに、ときには”On a Desert Isle“のようなしっとりとしたアコースティックブルースを聴かせてくれたりするのも憎らしい。こんなC.W. Stonekingをぼくはてっきり生粋のアメリカ南部辺り生まれのミュージシャンと思っていたら、何と彼はオーストラリア生まれの45歳だったから、世界は広い。

こうして各国に点在するマイブーム・ミュージックをあれこれ堪能してきたが、そろそろ最後に締めくくりのデザートとなるアルバムを1枚。リゾナーレ八ヶ岳のショッピングモールにスウェーデンをテーマにした「naTur」というショップがある。店内には北欧の息づかいが伝わってくるグッズがところ狭しと並んでいて、スカンジナビア好きのぼくは、いつも前を通るとどうしてもドアを開けてしまうのだが、あるとき店内に流れていたのが、ストックホルムで結成されたドラムレス・ワンホーン・トリオSweet Jazz Trioのアルバム「Soft Sound from a Blue Cornet」だった。トランペットより柔らかいコルネットの音色は、バンド編成をギターとウッドベースだけのトリオとすることで、心にしみこんでくる心地よいJazzに仕上がっていた。ぼくは早速、このあたたかくて包容力がある美しいアルバムを購入し、いろんなシーンで愛聴している。詳しいディスコグラフィーがないので分からないが、3人のミュージシャンは間違いなく高齢だろうし、音色もルックスに相応しい「いぶし銀」。金管楽器のコルネットなのに、その音色からビオラとかチェロのような室内弦楽器の中低音の響きを連想させられるのもちょっとびっくり。変哲もないシンプルな楽器の組み合わせと繊細でバランスのとれたサウンドアンサンブルで、こんなに極上のベルベット・トーンが生み出せるなんてまさに熟練の技。静かなのに、強い。シンプルなのに、多様。やはりJazzって大人の音楽なんだなぁ。いやいや、Jazzだけじゃない。音楽があって本当によかった。世界中から、ぼくの聴覚へと届けられる多様な快感を、まだまだ味わうことができるこの幸せに感謝しなくては。

Twin Peaksの森の映像
『ツインピークス The Return』
エンディングロールに登場するバンドのライブスナップ
DVD&ブルーレイ・ボックス・パッケージ
空に出現するスカイホールの2シーン映像

2019.3.01

ぼくは今でこそ車ばかり乗ってるが、昔はこのまま、この二本の脚でどこまでもどこまでも歩いていけるような気持ちになったこともあるくらい、歩くのが大好きだった。大地を踏みしめて歩を進めると、心は本能的な充足感に満たされる。動いている身体に乗った頭の中では、じっと座っている時には動き出すこともなかった部分が目を覚まし、活動をはじめる。そして、視界に入ってくる情景を眺め、刻々と変化する空気の流れや香りを五感で感じとりながら、移動する快感に身を委ねていく。

現存する生物のうちで直立二足歩行が可能な生物はヒトだけである言われている。いやいや、ペンギンだって鳥類やカンガルー、熊、猿などいろいろいるじゃないかと反論もあるかもしれない。しかし、ペンギンの大腿骨は脊椎に対してほぼ直角であり、下腿骨のみが垂直となっている。つまり、常に膝を曲げた状態なので、正確には直立二足歩行とはいえない。常時二足歩行を行う動物もいずれも骨盤と大腿骨の構造上、大腿骨を脊椎に対して垂直に立てることはできず、直立二足歩行を無理にすれば脱臼してしまう。このように自然界に直立二足歩行があまり見られないのは、腰や膝への負担が大きく、エネルギー効率が悪いためであると考えられている。

では、どうしてヒトは直立二足歩行するのか。これにはさまざまな仮説がある。両手が自由になるため食料を運べるし、手に武器を持って効率的な狩猟も可能となる。また、頭を高くするので遠くを見通せることや、水中を歩けるとか、移動効率、体温調節など諸説あるものの、まだ定説はない。直立二足歩行の長所としては、重い頭を支えることが可能となったこと。体重に比してヒトの頭部の重量は全ての動物の中で最も大きいので、結果としてヒトは体重に比して巨大な脳容積を得ることができ、全動物中最も高い知能を得たのだと言うのだが、これは「鶏が先か、卵が先か」という因果性のジレンマと一緒で、巨大な脳を得たので直立二足歩行するようになったのかもしれないと考えたりもする。もちろん欠点もたくさんある。ヒト以外の動物は痔や腰痛、胃下垂、ヘルニアなどの疾患に苦しむことはない。これには重力が関係しているようだ。膝への負担からくる障害やふくらはぎのむくみもヒト特有のもの。重い頭部を支える細く弱い首にも負担がかかるし、四足歩行に較べるとバランスが悪く倒れやすい。喉、心臓、腹部、股間等の急所が多い胴部前面を常に晒す危険もあり、内臓を保持するために骨盤底を発達させる必要があるため出産には困難がともない、胎児を小さく未熟な状態で出産しなければならない。さらに直立二足歩行には高度な身体能力が求められるから、習得するのに長期間の身体の成熟が求められ、生まれてから1年程度の訓練を必要とすること等々。(すべてWikipediaによる)かように長所短所ある直立二足歩行だが、実に複雑な仕組みの上に成り立つ歩行法なので、ホンダのASIMOだって、到底ヒトには遠く及ばない。

ところで先日TVを観ていたら、55歳から地図の測量を始めた伊能忠敬を紹介していた。忠敬は江戸時代に正確な日本地図をつくるため、目印と目印の間の距離を歩いて測ったので、そのために一定の歩幅で歩く訓練もしていたそうだ。一説では180cmと長身だった彼のその1歩は正確に69cmで、その歩数から距離を算出したという。夜の間も地図づくりは続く。北極星などの星を観測して自分の位置を割り出し、測量が正しいかどうかを確かめる。こうした作業を粘り強く延々と繰り返し、全国を旅すること17年。こうしてついに正確な地図「大日本沿海輿地全図」が完成した。17年かかったということは55歳から72歳までなので、江戸時代であればかなりの高齢者による偉業達成ということになる。さらに1日に歩く距離は平均60kmという健脚ぶり。なぜそんなことが可能だったのか。答えはその歩き方にあった。

江戸時代以前の日本人の多くはナンバ歩きという歩き方をしていたそうだ。これは右手と右足、左手と左足をそれぞれ同時に出して前に進む歩き方である。現代人に多くみられる歩き方は右手と左足、左手と右足をそれぞれ交互に出して肩と腰をねじりながら歩く、いわゆる西欧人の歩き方が一般的だが、これだと身体の軸をひねりながら歩くため腰や膝に負担がかかるので長距離を歩くのは難しい。さらにこの歩き方だと和服では襟元や着物の帯も緩みやすいし、武士は日本刀が邪魔になる。一方ナンバ歩きは身体が軸ぶれしないため疲れにくく、飛脚のような長距離歩行が可能となる。農民や行商人などは重い荷物を運ぶため、身体がぶれないよう歩かなければならないので必然的にナンバ歩きとなる。ちなみに天秤を担ぐときや相撲の鉄砲、また段梯子を登るときとか阿波踊りなどもナンバだという。試しにぼくもトライしてみたが、すぐに西欧人の歩き方に戻ってしまう。それに何となくユーモラスな歩き方だなと思っていたら、ゴリラの走り方もナンバだそうなので納得。ということで、伊能忠敬の健脚を支えていたのはナンバ歩きにあったというその話題はとても興味深かった。

さて、話を戻そう。歩くのが大好きだったぼくは、それまでも自宅から散歩に出ることはあったが、住宅沿いの歩道を歩くだけなので結局飽きてしまい、ずっと休止状態だった。ところが、実はここ数年散歩を再開しているのである。汗ばかりかき、ときには熱中症の危険さえあるし、少しも快適でない夏場の2〜3ヶ月は休んでいるが、それ以外の季節は少しくらいの雨が降ってもほぼ毎日出かけることにしている。自宅から車で15分ほどの山裾にある駐車場にパークして、そこから幾重かに曲がりくねった上り坂の山道を15〜20分ほど歩き、中腹にある小さな神社で一休みしてからUターンして、下り坂をのんびりと戻る往復約30分ほどのコースだ。何と言っても林の中の道なので木陰が多く、空気も清々しくて心地良い。今のような真冬の季節でも、すっかり葉をおとした木立はまるでベルナール・ビュフェの荒々しい素描のようだし、さらにその木立ストライプの先にはイギリス・ロマン主義の画家、ウィリアム・ターナーの絵画のように、青空に雲が流れるのびやかな風景が広がる。そして極めつけのご馳走は、どの角度からも楽しめる「今日だけの富士山」。その手前には盆地の町並みも広がっている。この盆地、近世に成立した地誌類の『甲斐国志』『甲州噺』などには、太古に盆地がかつて湖底であったと考える湖水伝説が伝わっている。そうした伝承を残す神社も盆地を取り囲むように鎮座しているが、甲斐の湖は地質学的な定説とはなっていない。ハイカラ好きの太宰治は「シルクハットを倒(さか)さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた(中略)きれいに文化の、しみとおっているまちである。」と『新樹の言葉』に残しているが、もっと大きなこの盆地の宝物は、東西南北に広がるそれぞれに異なる4つの個性をもった稜線シルエットを戴いていることではないかとぼくは思っている。さらにもう一つ宝物に加えたいのは、闇に包まれた盆地が満天の星のような輝きに満たされる光景だ。散歩の醍醐味は五感で味わう楽しみなのだが、これらは散歩における「眼のご馳走」。

ところで、すれ違う人たちは高齢者が多い。歩き方や姿勢で遠くからでも一目でそれはすぐに分かる。年齢的にはぼくもそのお仲間になるので、出来るだけ背筋や脚を伸ばして、若者のそれを見習おうと心掛けている。散歩には筋力の衰えを抑えて現状維持する効果があると言われるが、たしかに、歩きはじめてすぐに身体が重かったり軽かったりと体感するので、散歩が体調のバロメーターとなっていることは間違いない。仕事の都合で散歩できない時などは、何となくやり残した気持ちになってしまうのだが、そんな風にスッキリしなくなったらしめたもの。ここまで時間はかかったが、日々のウォーキングは今ぼくにとって欠かせないものとなってきている。こんなに長続きしたのは無理のないほどよい距離であることと、コースに木陰が多いので心地よく歩けること。それに折々の季節を体感できることも理由のひとつ。頭上では鳶が悠然と旋回を繰り返したり、鴉とのテリトリー争いを繰り広げたり、目をこらせばちょっとした自然のドラマも味わえる。

歩くことがもたらす快感には科学的な理由もある。散歩の効用の一つに挙げられるのが、身体の隅々の毛細血管にまで新鮮な血液が行き渡る事だと言われている。血液を通じて脳の前頭葉に酸素が送り込まれると、注意力・思考力・意欲などが上昇する。同時に爽快感を生み出すセラトニンの分泌も促す。このセラトニンは夜になるとメラトニンという物質に変化する。これは睡眠物質なので、日中の爽快感はイコール、夜の快眠となる。そして、新鮮な血液によって脳内の神経繊維が活発に結びつくようになり、行き詰まった思考をリセットし、リラックスしながら同時に注意力も上がるので、新しい解決法やアイデアが生まれる効能もある、と良いことづくめなのだが、これは目的地にただ向かうだけの苦行のような歩行では決してもたらされない。歩くことを楽しむ外向きの散歩でなくてはならないという条件がついているのだ。

これから春を迎えて新緑の季節ともなれば、散歩コースは一気に生命力溢れる風景に一変する。そしてその緑のヴェールの中に歩を進めると、ぼくはきまってある光景を思い出す。それは『ツイン・ピークス』の新シリーズ『Twin Peaks The Return』の随所に挿入される森のシーンだ。ぶ厚い緑のマントを羽織った森には、葉を揺らせ小枝をなびかせるそよ風が流れている。ドラマでは、羽根を休める鳥たちや数えきれない様々な動植物たちを呑み込むその森は、現実世界と異界を連結する装置として象徴的に描かれている。不思議なことに、ぼくは散歩をはじめると、途端に自分が『Twin Peaks The Return』の森の中を歩いているような錯覚にとらわれるのだ。そして実は、その錯覚を味わいたくて、日々のウォーキングを続けてきたのかもしれないとさえ思うこともある。

『ツイン・ピークス』は1990〜91年にアメリカで放映されたTVドラマで、製作総指揮はデヴィッド・リンチとマーク・フロスト。海外ドラマブームの先駆けとなった全29話にもおよぶ長編シリーズで日本でも空前の社会現象となったので、当時はぼくも謎が謎を呼ぶ展開に夢中になったものだ。そして、このThe Returnだ。25年の歳月を経て放送された続編の新シリーズ(シーズン3)『ツインピークス The Return』は、2017年にぼくらの前に戻ってきた。出演者もFBI捜査官クーパー役のカイル・マクラクランやクーパー捜査官らの上司ゴードン・コール役の監督デヴィッド・リンチなど前シリーズのキャストほとんどが再結集しており、各俳優の変貌ぶりから25年という時の経過を感じとることができる。中にはすでに亡くなった俳優もいるので、新シリーズでは長期療養中という設定となっていたりする。

デヴィッド・リンチの作品はどれも難解だが、シュールで不思議な魅力に溢れている。だから『Blue Velvet』、『Lost Highway』、『Mulholland Drive』、『Inland Empire』とぼくは何作もディスクを購入して彼の世界を楽しんできた。何と言っても彼の作品の魅力のひとつに作中の音楽がある。すごく効果的に挿入されている楽曲は独特の選曲センスによってチョイスされているので、音楽の流れるシーンはどれも繰り返し観たくなるほど魅力的だ。もちろん『ツインピークス The Return』全18話にもエンディングロールには必ずバンドが登場する。ステージは田舎町ツインピークスにある酒場の設定。入れ替わり登場するバンド演奏は、ポップあり、カントリーあり、テクノやロック、ジャズとジャンルはとってもフレキシブル。実際、リンチ自身もあるインタビューでこんな発言もしている。「映画のサウンドとは、映像と音楽が一体となって動き続けるというもので、両者は結婚しているといえるほど重要な関係なんだ。この映画の中でもさまざまなサウンドが使われているけど、それらの瞬間にとって、それぞれのサウンドがとても重要なんだ。」音楽好きのぼくも、小鳥のさえずりや木立から聞こえる葉のそよぐ音を楽しんだ後にはAirPodsをセットして、その日の気分にフィットする音楽をセレクトしながら「耳のご馳走」を楽しんでいる。

『ツインピークス The Return』は、クーパー捜査官と、彼から分裂したドッペルゲンガー(=もう一人の自分)、そしてそのどちらでもないタギーと呼ばれるもう1人のクーパーの3つの人格の存在を軸に繰り広げられる。(DVD&ブルーレイ・ボックスのパッケージを開けると、クーパーと悪クーパーの間にダギー・ジョーンズが現れるという象徴的パッケージデザインで3つの人格の存在が表現されている)善と悪、陰と陽、白と黒、そしてこの二律背反のどちらにも属さない天使のような存在が挿入されて物語は「これは未来か、それとも過去か?」「これは現実か?それとも夢なのか?」と、謎が入れ子状になって繰り広げられていく。

また、時空を超えて別の次元にワープするシーンが18話の中で2回ほど出てくる。ある特定の緯度と経度の地点に立つと突然、青空や木立に穴があいてそこにのみ込まれてしまうのだ。気づけば、赤いカーテンに囲まれた部屋のソファーに腰掛けていたり、モノトーンの部屋で巨人の男と向き合っていたりする。そこに登場する不思議な人物たちの喋る声はすべて逆回しになっていて、どれもこれもデヴィッド・リンチの仕掛ける謎かけメッセージ。

こんなシーンもあった。デヴィッド・リンチ扮するFBI捜査官ゴードン・コールが昨晩見た夢を回想するのだが、彼はパリで捜査していて、知り合いの女性が話があるからカフェで会おうと電話で誘ってきた。そしてコーヒーを飲みながら向き合うと彼女は古い決まり文句を口にする。「私たちはみんな夢の中に生きているようなものよ」。それを聞いたゴードンが「分かった」と言うと、彼女は言った。「でも、その夢を見てるのは誰?」。強烈な不安に襲われた彼は、何が起きているのかと彼女が視線を転じた自分の背後を振り返ると、そこに居たのは若い頃の彼自身の姿だった。ぼくらが見聞きし感じている現実は、もしかしたら夢のような幻想なのかもしれない。ひとりひとりが自分の幻想を現実と思い込み生活しているのかもしれない。この問いかけをさらに精緻に理解するために、中沢新一さんの『森のバロック』第5章『粘菌とオートポイエーシス』の一節を引用してみよう。

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(2)南方熊楠は、生命にとって、現実と幻想の間の違いはない、と考えている。彼は自分の得たこの生命直感を、仏教の表現をかりて、論理化しようとしている。「…有罪の人が死に瀕しおると地獄には地獄の衆生が一人生まるると期待する。その人また気力をとり戻すと、地獄の方では生まれかかった地獄の子が難産で流死しそうだとわめく。いよいよその人死して眷属の人々が哭き出すと、地獄ではまず無事で生まれたといきまく」。この仏教的な世界のイメージでは、この世と地獄が鏡の像のような対称関係にあるものとして、描かれている。この世で罪を重ねて、死んでのち地獄へ行くべき因縁を重ねてきた人の生命は、この世の中だけで完結するものではなく、死に瀕しては、それは地獄の生命の状態に、反転鏡像のようにして、反映されていく。それはちょうど、この世で灯火がひとつ点けば、あの世で闇がひとつ増える、と描いた『涅槃経』の世界のイメージと、同じことをあらわしている。

このイメージを、もっと深く探求してみよう。この世に生きている人間は、人間としての生命システムをもち、そのシステムに特有の感覚器官や幻想力や思考力をもって、自分のまわりに、「現実」をつくりあげている。この「現実」は、時代によっても、また社会によっても変化する。しかし、その変化はあくまでも、人間としての生命システムの条件に拘束されている。ところが、この世の人間と、灯と闇の関係のような、深い「縁」で結ばれた地獄の住人にとっては、同じ世界がまったく違う光景として、とらえられているのである。仏教思想の中では、この世と地獄が、違う空間にあるとは、考えられていない。まったく同じ場所で、この世の人間と地獄の住人は、それぞれがまったく違う世界を見、人間が食事をつくるための火と思っているものが、同じ場所にいる地獄の住人にとっては、恐ろしい業火と見えるのだ。それは、地獄の住人に特有の生命システムによる。この世の人間の生命システムには開かれている真性に向かう知性の窓が、地獄的生命システムでは、閉ざされているのだ。彼らは、同じ場所、同じ世界にありながらも、そのために違う現実、違う幻想を見ていることになる。

この世の人間のあり方と、地獄の住人のあり方とは、たがいに鏡像のように、つながれている。もっと正確に言うと、この世の人間も、地獄の住人も、それ自体として完結している現象ではなく、より根源的ななにものかが(仏教は、その根源的な「なにものか」のことを、空、真如、心そのもの、連続するもの、などといった、さまざまな名前で表現しようとしてきた)、生命システムの条件に拘束されたときにあらわれる、現実であり、幻想であるものとしてとらえられている。つまり、それぞれの生命システムにとっての現実は、幻想と一体であり、また生物がいだく幻想もまた、現実をつくりだすのと同じ生命システムの条件から、つくりだされてくるということになる。生物にとって、現実と幻想の本質的な違いはない。あるいは、こう言ってよければ、現実なるものは、幻想と同じように、ない。(せりか書房刊『森のバロック』265〜266頁)

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こうしてぼくは、現実でも幻想でもない山道散歩に今日もでかける。歩き出して前頭葉に酸素が送り込まれ、セラトニンが分泌されてくると脳が徐々に活性化されてくる。そして、五感でご馳走を味わいながら、ふと足を止めて見上げるとそこにスカイホールが現れて、ぼくはワープする。赤いカーテンに囲まれたソファに座ったぼくは、今日も夢の中に生きているのかと考える。すると、決まって何処からか囁き声が聞こえてくるのだ。「でも、その夢を見ているのは誰?」

日光東照宮の陽明門や建物に施された彫刻類。
一番下は日光山輪王寺宝物殿のショップで購入した
寅年守御本尊の「虚空蔵菩薩」掛け軸仕様の仏画。

2019.1.01

豊作の守り神である年神は、初日の出とともに降臨されるという。それを高山から眺めればご来光となり、その光背を負うてお釈迦様は来迎されると仏教は説く。しかし、ぼくは日が昇る瞬間を眺めたことは一度もない。寝坊には、気づけば辺りはすでに明るくなっていて日の出はいつもあっけなく訪れるのだが、日没の瞬間を見届けたことはある。昨年の盛夏に、長野は富士見高原の1,430mの高地から、夕日が奥穂高岳の稜線に沈むまで30分ほどじっと日没を眺め続けた。これは実に面白い体験だった。夕日というのは別れを惜しむかのように空を茜色に染め上げていてなかなか沈まず、そのあいだ眺める者の心にはさまざまなことが去来するので、とても豊潤なひとときを与えてくれる。稜線に消えるまでのプロセスはあたかもスローモーションの映像を眺めているように、このまま茜色の光景が永遠に続いていくかのような錯覚にとらわれる。しかし、その輝きの上辺が稜線にすっと消え去る瞬間は、逆に実にあっけない。この静と動のコントラストが日の入りのプロセス、つまり、光と影のはざまにはあるのだと発見した。

光といえば「観光」の語源」は、「国の光を観る、もって王に賓(ひん)たるに利し」という「易経」の一説に由来するそうだ。賓とは敬うべきもの。つまり「国の威光を観察する」のが「観光」の本来の意味なのだが、現代の観光地は国の威光とはほど遠く、むしろそれは「光景」の「光」であろう。「光景」とは目前に広がる景色や眺めのことで、光(=景色)を観に行く「観光」は大正時代以降Tourism(ツーリズム)と訳されている。

ところで、昨年晩秋のぼくの「観光」は、ご来光の日を連想させる日光への旅だった。日光に赴くのは学生時代の修学旅行以来なのだが、栃木には活動の中で知り合い懇意にしているデザイナーも3人ほどいるので今回は少し遠出してみることにした。

1999年に世界文化遺産に登録された日光の構成遺産は、二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)、東照宮(とうしょうぐう)、輪王寺(りんのうじ)の2社1寺に属する103棟の建築物群と周辺の景観遺跡なのだが、やはり白眉は日光東照宮だろう。駿河国の久能山に葬られた徳川家康の遺骸は、「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し神として祀ること。そして八州の鎮守となろう(Wikipedia)」という家康本人の遺言から、3代将軍・徳川家光により、下野国日光に改葬され、分霊が勧請されたのが日光東照宮である。その威風は家康の遺言にある「小さな堂」とはほど遠い堂々たる造営である。日光では家康死去の翌年には社殿が完成していたが、それから17年後、徳川家光が日光社参し、その2年後より江戸、京都、大阪から集められた宮大工たちによっておよそ8年がかりの荘厳な社殿の大規模改築が進められた。そして完成の翌年には朝廷からの宮号授与を受け、東照社から東照宮へと改称。晴れて日光東照宮となった。

そもそもこの地に「日光」の字があてられる語源となったのは、820年、弘法大師(空海)がここを訪れた際に、二荒山(中禅寺湖の北にある男体山)の「二荒」を「にこう」と音読みしたことに由来するといわれている。その「にこう」の読みに対して「日光」の字が当てられ現在に至るわけだが、どうやらその字を当てたセンスのある無名の人物がいたことになる。ちなみに二荒山という名称も、更にさかのぼる782年に男体山を勝道上人が開山したときは、観音菩薩が住むとされる補陀洛山(ふだらくさん)と呼ばれていたので、これが訛って二荒山になったのだそうだ。各地に残る名称は、このように読み替えられたり、訛ったり、当て字されたり、さまざまに屈折しながら定着しているものが数多く見受けられる。今回はその二荒山神社までは足を伸ばせなかったので、一路、東照宮へと歩を進めることにした。

参道から奥を望むと東照宮の正門となる「一の鳥居」、通称「石鳥居」が見えてくる。鳥居をくぐるとそこから先は神域となる。石鳥居は神域の入口に相応しくそびえ立って見えるが、これは石段の幅や高さを微妙に変えることで生まれる、錯覚を利用した遠近法によるものだという。石鳥居の先に建つ五重塔にも工夫が施されている。塔の真ん中には屋根を固定するための心柱と言われる巨大な木の柱が垂れ下がっていて、この心柱は途中から鎖で吊られ、底部は磯石につかず浮遊させることで地震の縦横の揺れを振り子にして吸収する。このため、揺れを逃がすことができるのだという。東日本大地震の際にも損傷がなかったこの江戸時代に考案された免震機能は「東京スカイツリー」の地震制振システムにも応用されているというから、これぞ先人の知恵と言うほかはない。ちなみに634mの「東京スカイツリー」の高さは五重塔の標高とほぼ同じだというのだが、果たしてこれも偶然なんだろうか。

境内の導入口に控える日光山輪王寺の本殿はあいにく改修工事中だったので、まず宝物殿と輪王寺宮の庭園として作庭された逍遙園を散策する。逍遙とは気ままにそぞろ歩きすることの意だが、園内には琵琶湖の近江八景を模した大池があり、男体山など周囲の山々を借景として構成されている。この地泉回遊式庭園には造園された江戸初期から後期に至る意匠が混在し、巨石や石組みには桃山の特徴も残っているそうだ。そして隣接する輪王寺宝物殿に移動すると、ここには奈良時代後期、勝道上人の日光山を開山以来の長い歴史を物語る寺宝が収蔵されている。輪王寺に伝来する所蔵品は国宝1件、重要文化財49件、重要美術品7件、世界記憶遺産1件の各時代の仏教美術、そして徳川家康、家光の御遠忌法要にまつわる品々の展示に加え、江戸時代まで陽明門に祀られていた等身大の風神・雷神像が50年ぶりの修理を経て輪王寺に移管され、現在は宝物殿に公開されている。その前に立って仰ぎ見ると巨大フィギュアといった趣で、風神・雷神像はなかなかの迫力だった。

初代将軍の家康から15代将軍慶喜までのおよそ260年間に及ぶ、栄華を極めた江戸幕府。長期にわたる武家政権に集積されたパワーが、宝物殿のさまざまな展示物に表出していて、この権力の御威光ぶりがひしひしと伝わってくる。家康は三河国(愛知東部)の土豪・松平元康(幼名は竹千代)として生を受け、戦国武将として動乱期に頭角を現し、豊臣秀吉の死後に征夷大将軍として晴れて天下人となった。没後はその遺言に基づき、恒久平和を願う神となるための重要な儀式である日光改葬を経て、日光山から江戸や関東、日本全体を見守る「東照大権現」として家光らによって神格化されてきた。人から神となったこのジャパニーズ・サクセス・ストーリーが放出するオーラは宝物殿のみならず、東照宮を構成するすべての建造物群を覆い尽くしている。

ところで、ぼくは美術館や博物館のミュージアムショップではほとんどグッズを買うことはないのだが、宝物殿の受付に展示されていた菩薩の色紙には心動かされて、自分の干支である寅年守御本尊の「虚空蔵菩薩」を購入することにした。この尊蔵は慶安5年(1652)に宮中の御絵所にいた仏師「木村了琢」によって描かれたとある。了琢は江戸中期の画家で、名は喬久。絵所となって宝暦10年(1760)に56才で歿したそうだが、筆使いは実に精緻で画風には品性が感じられる。仏教絵画はインド、東南アジア、中央アジアや中国、チベットと各地に残るが、なかでもチベットのタンカと呼ばれる礼拝儀式に使用する曼荼羅・仏画がぼくは好きだ。了琢の画風はタンカに近いと感じたので一目で気に入った。この虚空像菩薩は虚空(大空)より無量の珍宝を雨のごとく降らせ一切を充足させるとともに、大空のように何事も包み込んでくれる仏様とあり、さっそくこの掛け軸仕様の仏画を自室の壁に掛けて、良い年が迎えられるよう祈願する。

極彩色といえば東照宮の建物群に施されている彫刻も実に絢爛豪華で、しかもなかなかPOP。故事逸話や遊びに興じる子どもたち、聖人賢人などの彫刻に加えて、おびただしい数にのぼる神獣(=霊獣・霊鳥)が祀られている。神の御霊が宿ると言われる神獣は日本では神使(しんし)とも呼ばれる神の使いで、神社で見かける「狛犬(こまいぬ)」などは代表的な例だが、良い事が訪れる直前にそれを伝えに現れる獣の姿をした神様の使いと伝えられている。東照宮に祀られている神獣は龍、竜馬(麒麟に似るが竜馬は2角で牙がない)、一息(龍に似てるが怪魚)、白沢(はくたく=人の言葉を話す聖獣)、象、猫、猿、唐獅子、鳳凰、鶴、亀、虎、兎、猪、鼠、牛、蛇、馬、羊、鳥、などなど。さながら、ここは神獣らが集う日光フィギュア動物園だ。ちなみに中国では「四大聖獣」や「四神(しじん)」と呼ばれる「麒麟」「鳳凰」「応龍」「霊亀」が親しまれているという。

東照宮の彫刻類は南光坊天海が総指揮、彫刻デザインは狩野探幽に一任されたと伝わっているが、多くの作品は作者不明とされている。しかし、国宝の東西廻廊の極彩色大彫刻は狩野理右衛門の下絵とあるし、回廊にある「眠り猫」は左甚五郎の作と言われるので、実際はデザイナー集団による協働作業だったのではないだろうか。東照宮彫刻のディレクターであった南光坊天海は戦国時代から江戸時代に実在した僧侶で政治家と言われているが、謎に包まれた人物でもある。家康・秀忠・家光と三代にわたって仕え、黒衣の宰相とも呼ばれたこの天台宗の僧侶は108歳という異例の長寿だったとか。 そして、デザイナーたちを束ねたアートディレクター役の狩野探幽は江戸時代初期の狩野派絵師としてつとに有名だが、江戸幕府の御用絵師となり山水、人物、花鳥といった幅広い作域でその手腕を存分に発揮した。個々の彫刻については様々に解説されているのでここでは割愛するが、東照宮のビジュアルイメージは彫刻といい「鳴き龍」の天井絵といい、生き生きとしてるし愛嬌もあり、なかなか可愛いいので、東照宮は江戸時代に誕生したアニメ感満載の彫刻テーマパークといった感がある。こんなにカラフルでPOPで楽しい彫刻類が建物を彩る東照宮に国内外の観光客が引きも切らず押しかけてくるのもむべなるかな。コミックと世界文化遺産が一体化しているスポットなんてそう滅多にはない。

さまざまな意匠の背景となっているのは仏教発祥の地であるインド、チベット、そして東南アジアに伝播した仏教美術様式なので、東照宮の背後にはそうした異国の香りが充満している。家康を神格化し、徳川幕府の威信を広くアピールする機能を果たしてきた東照宮だが、それもこれもすべて人間の創意。ときには権力の発信装置として、またときには濃密な観光の地として、時代を跨いでさまざまな人間の企てを吸着してきたのも、日光という自然が内包する地の力あってのこと。今回の訪問で改めてそう強く感じた。そこには関東以北の最高峰・日光白根山、男体山、女峰山などが連なり、噴火によって流れ出た溶岩は谷をせき止めて中禅寺湖などを造りだし、また流れ出た水は竜頭滝や華厳滝を落下して川となる。この変化に富んだ日光の地形は野鳥の楽園を誕生させ、多くの動植物を育みながら奥深い自然をつくりあげてきた。そして必然的に人はその地の力に吸い寄せられ、魅了され、物語を生み出していく。ぼくはこうした光景を各地でたびたび目撃する。いつでも自然は人に胸襟を開き、ときに厳しく、どんな人間の営為も静かに包み込んでいる。