Randy Newman
Tina Weymouth(Tom Tom Club)
戦車模型
Claude Lévi-Strauss
折口 信夫
菊池 武夫(BIGI)
Les morceaux refusés

2019.7.01

地元に居る時は、ほぼ毎日のように顔を出しているJAZZ喫茶がある。日本中探したら同名店舗はたぶん100は下らないと思うその名は「Aroma」。ぼくの友人デザイナーが、行きつけだったその店の亡くなったマスターの跡を継いで、ここ10年ほど経営している。店の奥に鎮座するのは、アンプが年代もののプリAccuphase C-240と真空管のメインAIR TIGHT ATM-1、そして大きなスピーカーセット(JBL 2405+JBL LE85+ALTEC 511B+JBL 4507+JBL 2235H)。このコンビネーションが生み出す温かく深い音色が店内に満たされるといよいよAromaの開店だ。ショップのテーマは「1975年」。コンセプトは「あの日、あの時のまま」。1975年は2代目マスターの藤井くんが上京して初めてJAZZ喫茶なるものに感動したメモリアルイヤーなんだとか。壁には額に納まったお気に入りデザインのLPレコードジャケットが飾られ、棚にはノスタルジックなグッズがディスプレイされていて、隅から隅まで彼の嗜好で統一された店内の時間はたしかに1975年で止まっているかのようだ。
そんなAromaに開店以来、足繁く通ってきたぼくだがここ数年会うのを楽しみにしている常連がいる。ドアを開けるときまってカウンターの一番奥からニコニコしながら片手を振るSさんだ。彼は個人で高校生たちを教える塾を生業としていたが、それで生計を立てているという風もなく、どちらかと言えば道楽の範疇におさまる生業であるようにみえた。娘さんが一人いるらしいが、奥さんとは事情があって長らく別居していると聞いていた。そして数年前に同居していた母親を見送ったあと、母屋に暮らす高齢の父親と別棟に住む彼は微妙な距離感で敷地内同居生活を送っていた。経済的には余裕があるようで傍から見たらずいぶん羨ましい自適な暮らしぶりだ。年齢はぼくより10歳ほど若く高校の後輩なのだが、その外見は実年齢より遙かに老けて見えるのには訳がある。少年時代に無謀な運転者による交通事故に巻き込まれた彼は、その時頭部に受けた衝撃による後遺症で、それ以来ずっと苦しみを背負うことになった。あらゆる痛みという痛みは経験してきたと語る彼は毎月ひと抱えもある薬を医師から処方され服用し続けてきた。発作を抑えるクスリはそのまま逆読みするリスクとなって彼の身体を蝕み続け、麻酔すると命に危険が及ぶ成分も含まれる服用薬も処方されていたので、虫歯の治療ができないことも彼の老いの風貌を加速する要因となっていた。車を運転していた時期もあったようだが、病名が確定してからは免許は返納せざるを得ないし、自転車すら乗ることも許されないから、もっぱら移動手段は徒歩となる。しかし徒歩とて無理はできない。歩道で発作に突然襲われて気を失ってしまったり、炎天下を歩いて熱中症で倒れ救急搬送された事もあったそうだ。また、季節の変わり目には膝や腰の痛みにも苦しんでいた。そんな事情を知れば放っておくわけにもいかない。彼の自宅はAromaから15分ほどの距離なので、ぼくは彼が帰るときには当たり前のように送って行くようになった。もちろん、そんな思いを抱いていたのはぼくだけではない。ぼくの行けない日には、暗黙の内に何人かが分担して彼の足となっていた。
人生には明暗がつきものだが、ここからは明るい部分の話。Sさんはこれまで旺盛な好奇心によって深い知性を育んできた。彼の精神のバックボーンとなってきたのは驚くほど幅広い分野にまたがる膨大な読書量。そこにJAZZやROCKをはじめとする音楽大陸のディープなリスニング体験も加わる。そして、呆れるほど様々に派生する奔放な趣味嗜好。ぼくとは方向性は異なるが、ファッションに対する独特のこだわりもあった。これらすべてがSさんのこれまで体験してきた様々な記憶と重層的にブレンドされて彼の口から語り出されてくる。この数年間にぼくらは、旧知の間柄といってもよいほど日々濃密な会話を重ねてきた。またそれでは飽きたらず、今日語りきれなかった思いを長文メールにして深夜送ってくるSさんに、ぼくもならばと返信する。こうして夜な夜な交わされる長文メールはすでに相当な量となっている。
付き合いの切っ掛けは、初めて彼の隣りに腰掛けたぼくがアメリカのシンガーソングライター、ランディ・ニューマンのことを話したことだった。彼が深くリスペクトしていたニューマンのことをこれまで地元では誰とも話したことはなかったのだという。それから堰を切ったように、ほとんど話題に上らないような渋いミュージシャンたちの事をぼくらは語りあった。特に彼のお気に入りは、アメリカのロックバンド、トーキングヘッズ(Talking Heads)でベースを担当していたティナ・ウェイマス(Tina Weymouth)。彼女の所属するニューウェイブユニット、トムトムクラブ(Tom Tom Club)のライブをイタリアまで観に行ったほど夢中になっていた時期もあったようだ。ぼくはJAZZに関してはほとんど知らないことばかりなので、そっちの話題は藤井くんをはじめJAZZ好きの客らと盛り上がっていた。ガラケーのSさんはスマホもPCも使わないからネット注文ができない。なのに欲しいCDは沢山あるから、藤井くんに頼んでヤフオクで落札してもらったり、ノートパソコンを借りてCDにコピーする方法を教えてもらい、Aromaで長時間作業したり、ぼくがAmazonに代理注文したりして、彼のミュージックライブラリーは次第に厚みを増していった。
趣味嗜好もいろいろある。例えば、彼が収集してきたNゲージの鉄道模型などはぼくも格安でたくさん分けてもらったが、極めつけは戦車模型作りだ。どうして戦車に惹かれるのか詳しく聞いたことはないが、米粒のようなキャタピラパーツを根気よく組み立てて作業をスタートさせ、呆れるくらい手間暇をかけて、やっと両手の平にのるほどの大きさの戦車を完成させる。そんな労作が何台もあるのに、まだ未開封の箱が幾つも積み重ねられているらしい。それに一体誰が読むんだろうと思う戦車の専門書を手に入れて、嬉しそうに説明してくれるのだが、そんな時のSさんはぼくの知らない大きな子どもになっている。
また、彼は名古屋の大学時代には歴史学者の網野善彦氏に多大な影響を受け、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』や『野生の思考』を愛読し、折口信夫に誘われるように愛知県北設楽郡奥三河の花祭で熊野信仰から伝わる神事芸能に度々触れるなど、旺盛な知的好奇心を持続させてきた。南方熊楠の活動にも興味津々で、当然のことながら中沢新一さんの仕事にも深い尊敬の念をはらいながら向き合っている。だからぼくらは(往々にして脈絡がなく、とりとめのない進路をとることが多いのだが))時間さえ許せばいつまでも尽きることなく話込むことができるのだ。
ファッションに関しても、彼なりのこだわりがある。菊池武夫が創始者となるBIGIをこよなく愛し、そのテイストをベースとして国内外の様々なブランドからチョイスした靴やソックスで足元から帽子に至るまでを彼なりのコーディネートでまとめて楽しんでいる。彼のワードローブは見たことはないが、ほぼ毎日取っ替え引っ替え変身してぼくらの前に現れるので、口さがない者などは「あの短い移動距離で毎日衣装替えして一体誰に見せるんだ」などと嫌味を言うが、ぼくには分かる。それは彼が自身のために行っている儀式なのだ。女性の化粧にも言えることだが、ファッションはもう一人の別な自分に変化するツールなのだ。昨日とは少し違う今日。今日とはちょっと違う明日にしよう。ぼくらの心理は日々こうして変化を欲するゆらぎをもって動いていく。それが生きているささやかな証しとなったり活力となったりすると感じるからだ。だから、ファッションは決して他人や異性を意識しただけのものではない。基本的には、今日を過ごす自身への意欲表明なのではないだろうか。
ところで、Sさんはマスターの藤井くんと似ているところがあって、それは彼らの嗜好の時計が或る時期を境にピタッと止まっていることだ。それ以降の現象にはほとんど興味を示さない。或る時期に蓄積された記憶を溺愛してるから、本人にしか実感できない描写が何度もループされる。あたかも、そこに築きあげられた愛すべき世界がずっと現在の自分を支えてきたし、これからも支え続けていくだろうと確信しているかのようだ。ぼくは意識的に攪乱を試みるが、気づけば彼らの愛すべき世界にちゃんと戻されてしまうから、ぼくも「なんちゃって愛すべき世界の住人」となって会話を楽しむことにしている。なぜなら、その感覚は同時期を潜ってきてるぼくにも無縁の世界ではないし、(それとこれは会話を楽しむことができる一番重要な理由なのだが)彼は本質的にとても「やさしい男」なのだから。見た目は厳つくて強面。以前はよくヤクザと間違われたそうだ。しかも気に食わない輩には悪態つくし、彼の甲州弁は今ではめずらしいくらい本格的なものなので、ぼくが遙か昔に聞いた筋金入りのネーティブと同レベル。しかし、甲州人の特質がそうであるようにぶっきらぼうな人ほど、その奥には繊細な一面が隠されていることが多い。ある晩、ぼくが送った亡き母の思い出に触れたブログを読んだ彼は「どーしてくれるんですか。涙が止まらないですよ」と返してきた。本人の居ないところではその人物の悪口は言わないフェアな面もあり、涙もろくて細やかな心遣いの出来る男だった。「だった」とぼくは過去形で書いているが、彼は今年の4月初旬、この世を去ってしまった。
それは本当に突然のことだった。Aromaの常連たちと日曜日に日本五大桜の1本に数えられている埼玉県北本市の石戸蒲ザクラ見学に行く事になっていて、その前日の土曜日、いつものように閉店近くに一緒に出て彼を送って行くつもりだったから、ぼくは用事を済ませてから夕方Aromaに行くと、さっきSさんが体調が悪くなって帰ったばかりだと藤井くんが言う。自分で胃腸薬買ってきたりしたものの脂汗がとまらず見るからに具合悪そうな様子で、いつも体調崩したときに相談している男性に迎えに来てくれるよう電話をかけて呼び、その人に連れられて帰ったらしい。それまでも何度か彼は店で体調を崩して横になっていたこともあったから、ぼくらは「またか」といった気持ちで、そのうち元気になってやって来るだろうなんて、深刻には考えていなかった。しかし、知人が連絡しても返信もなく、それ以来情報が途切れていたから次第に不安が募ってきていたのだが、入院しているのだろうと思っていた。ぼくらが彼の死を知らされたのはそれから5日後のことだった。彼は高齢の父親が住む隣りの別棟で一人亡くなっていたのを発見されたそうだ。おそらくAromaで具合が悪くなったその日の夜には亡くなっていたのかもしれない。その翌日ぼくらが満開の桜を眺めていた時には、すでに旅立っていたんだと考えると胸が締めつけられる。数日後、家族らによって葬儀はしめやかに執り行われた。告別式場入口には故人を偲ぶスナップや戦車模型など縁の品々が並んでいた。その中に楽譜が2枚。曲名をよく見ると「Love in Vain」とあった。この曲はThe Rolling Stonesの演奏で有名だが、原曲はRobert Johnsonのブルースの古典。伊藤比呂美さんの秀逸な訳がある。
*
Love in Vain
(「訳詞ではなく直訳」:伊藤比呂美)

そうだね、わたしは女を追って駅へ行った
スーツケースを手に持って
そうだよ、わたしは女を追って駅へ行った
スーツケースを手に持って
あああ、言うのはつらい
言うのもつらいことなんだ
愛ってものがそっくりむだなときもある
わたしの愛はそっくりむだになっちゃった

汽車が駅に入ってきたとき
わたしは女の目をのぞきこんだ
そうだよ、汽車が駅に入ってきたとき
わたしは女の目をのぞきこんだ
あああ、寂しいと思った、わたしは寂しかった
どうしようもなかった、ただ泣くだけだった
わたしの愛はそっくりむだになったんだ

そうして汽車だよ、それが駅を出たんだ
尾灯が二つ、ともっていた
そうなんだよ、汽車だよ、それが駅を出たんだ
尾灯が二つ、ともっていた
おおお、ブルーの灯はわたしのブルース
赤い灯がわたしの心
ああ、わたしの愛はむだになった

いい、いい、いい、いい、おおお
ふうう、ウィリー・マエ
えいえいえいえいえいえいえい
ふうう、ウィリー・マエ
えいえいえい、へいへいへいへい
ひひひ、いいい、おおお、おおう
わたしの愛はなにもかもむだになった
(注:ウィリー・マエ=Willie Maeというのはロバート・ジョンソンが愛した実在の女性の名前)
*
実は「Love in Vain」は、ぼくが若い頃に自家録音した音源に入っていた曲で、あるきっかけがあってSさんはそれを聴く機会があったのだが、その後こんなメールを送ってくれていた。「オーバーダビングですか。いや、ヴォーカルだけでも感心したのに、あのスライド気味なギターに『センスの良いギターだなぁ』と思っていたので驚きです。僕はかつてアコギで元祖ロバート・ジョンソンのラヴ・イン・ヴェインに挑戦して、タブを採譜まではしたものの見事に挫折した経験があります。しかし、小林さんは心で良い曲を選ぶんですね。ラヴ・イン・ヴェインなんて当時でもマイナーだったでしょうに…」こんなやりとりがあったから、楽譜を見たぼくにはぴんと来るものがあった。採譜を彼は思い出して眺めていたのだろうか。そして傍らにあったその楽譜が縁の品となったのか。もしくはギター片手に再挑戦してたのかも知れない。
今となって思い当たることが他にもある。亡くなる5日前にSさんは1枚の真っ白なCDを渡してくれた。彼が2年間プロミュージシャンの指導を受けて習得したギター演奏が披露されているシャンソンのアルバムだという。ヴォーカルの女性とベース奏者は共に存命のプロミュージシャンなので公開をずっと封印してきたが、ぜひ一度聴いてみて欲しいと。アルバムタイトルはLes Morceaux Refusés(レ モルソール ルフュゼ)。ギターを担当する彼の演奏はなかなかの出来映えだったので、素っ気ない無地CDにぼくは勝手にジャケットデザインをして返すつもりだった。(最下段写真)
ここ数年ぼくらは夜な夜な長いメールを交わしてきたと前述したが、そのメールはおびただしい数にのぼる。しかし、亡くなる前日に彼から届いたメールはちょっとこれまでのものと違っていた。死を予感していたのだろうか。いつもなら0時前には終了するメール交信なのに、夜中の2時に彼からのメールが届く。すでにウトウトしていたぼくは着信音で目覚めて寝ぼけ眼でメールを開く。「夜分済みません。寝ているでしょうね。でも、言える人が小林さんしか居なくて…」とはじまり、それはおそろしく長くヘビーな内容だった。そこには彼の心の奥にずっと淀み続けていてどうにもならない懊悩が吐露されていた。墓場まで持っていくつもりだったのにどうしても誰かに話さずにはいられなかった、そんな切実さが伝わってきた。ぼくはしばらく寝床に横たわって考えてからこんな返信をした。
「春の夜更けに相応しい話ではないですか。桜の花はなかなか埋めることの出来ない記憶を鮮明に蘇らせる不思議なチカラを秘めてるようです。そして、気紛れな思いつきでしたが、因縁深いCDのジャケットをデザインしてよかったと思いました。心が少しでも軽くなってもらえたら嬉しいです。」しかし結局、彼にそのジャケットを見せることは叶わなかった。
四十九日も終わった梅雨の晴れ間のある日、ぼくはSさんの墓参りに向かった。抜けるような青空の下で花を手向けてから墓に手を合わせる。そして見てもらえなかったCDを墓石に立てかけ、JBLのBluetoothスピーカーを置いて彼の大好きだったティナ(Tom Tom Club)のYouTube動画を再生して、Sさんの嬉しそうな顔を思い浮かべながら一緒に耳を傾けた。ぼくらの今生最後の日となってしまった亡くなる3日前、いつものようにAromaを一緒に出て彼の自宅近くにあるセブンイレブンまで乗せていく。「どうもすみませんでした」とぼくに声をかけ、降りるとかならず車が見えなくなるまで手を振るバックミラーに映った彼の最後の姿が目に浮かんでくる。墓地を後にする前にもう1曲。選んだのは小田和正の『さよならは言わない』。もちろんぼくも、さよならは言わないよ、瀬戸博幸さん。
(小田和正の公式ナンバーは国内では非公開動画となっていてカバーのみ。オリジナルが聴けるからとリンクしたのは海外サイトの動画)

Mike Posner
Passenger[Michael David Rosenberg]
Kaleo
Sigur Rós
Of Monsters and Men
Björk
Calavera : Dia de los Muertos
C.W.Stoneking
Sweet Jazz Trio

2019.5.01

今日から日本は新時代の「令和」が始まり、花粉乱舞する春から、いよいよ本格的に生命が躍動をはじめる初夏を迎えた。自動車に例えるなら、スピードも徐々に乗ってきて、安定走行に入ったというところだろうか。そんな日々に彩りを添えるのはやっぱりMusic。そこで今回は、ここ半年ほどマイブームとなっている音楽のお話。

何事にも切っ掛けというものがある。発端は自室で観るテレビの買い換えだった。カタチから入る性癖のあるぼくが目をつけたのは、これ以上ミニマルにならないというくらいシェイプされたフォルムをもつSONY BRAVIA OLED A1シリーズだった。訪れた家電店で偶然見かけた4K有機ELディスプレイに再現される映像の美しさに「今のテレビってここまで進化したのか」とぼくは思わず息をのみ、有機EL特有の漆黒によって引き締められた映像の美しさに感動してしまった。ロゴさえ見つけることが難しいほどそぎ落とされたスリムなフレームの中に、その鮮明な映像だけが浮かんで見えるシンプルさも潔い。なんでもサウンドは「Acoustic Surface」という画面自体を背後から振動させる画期的な構造がもたらす自然な再生音がセールスポイントのひとつとなっていたのだが、普段ぼくはイヤホンで視聴しているので、この映像と一体化されたサラウンドの臨場感は残念ながらまだ未体験のまま。ともあれ、こうして一番小さいタイプ(とはいっても55v型だが)のBRAVIA A1が自室にセッティングされることになった。

まず、店頭で体験したあの感動を再現しようと、公開されている美しい4Kデモ映像をいくつもネットからダウンロードする。そんな中に『Italy by Drone(4K)』という動画があったのだ。空からイタリアのベニス、リド、ブラーノ、ムラノ、ヴィチェンツァやベロナを俯瞰するドローン映像で、地中海特有のまぶしい陽光降り注ぐ運河や、おもちゃ箱をひっくり返したようなカラフルな壁の町並みを舐めるように写し出している。そこにBGMとして流れてきたのがMike Posner(マイク・ポズナー)”I Took A Pill In Ibiza“だった。Posnerは31歳になるアメリカのシンガーソングライター。2010年にソングライターとしての才能を開花させ、ジャスティン・ビーバーに曲を提供するなどミュージシャンとしての成功をおさめたが、その後は厳しい現実の壁に突き当たって低迷する日々を送っていた。そこである日、彼は様々なしがらみを捨ててユタ州に向かう。そして、山奥にこもって、バンの車内で質素な生活を送る日々を選んだ。その体験の中で、それまでの過去の成功がもたらした虚しさを曲に描きだし、生まれたのが”I took a pill in Ibiza”だった。皮肉なことに当初は悲しげなこのアコースティックなフォークソングはパッとしなかったが、ノルウェーのデュオSeeBがEDMリミックスとしてカバーした途端、ヨーロッパでブレイク。ビルボード・ホット100でも5位まで登りつめるヒット曲となり、Posnerは再び脚光を浴びることとなった。その後、この曲は2017年グラミー賞『年間最優秀楽曲』にもノミネートされることになりPosnerは復活を果たす。中性的な歌声で、過去の栄光を皮肉り、「ぼくが知っているのは悲しい歌だけなんだ」と4Kのドローン映像とはミスマッチなフレーズを繰り返す。ぼくが惹かれたのは、その独特なハスキーで高音のボーカルだった。さっそくYouTubeで、彼の楽曲を検索試聴してコンピアルバムを作り、そのハイトーンボイスを楽しんでいた。なかでもぼくが好きなのはナイーブでキュートな”One Hell Of A Song“。Remix版の軽快さもなかなかステキだ。

そんな検索サーフィン中にぼくはPosnerとよく似た歌声のミュージシャンを発見する。楽曲はどれもなかなか良い。いや、すごくいい!ということで次に夢中になったのはPassenger(パッセンジャー)。このミュージシャンの本名はMichael David Rosenberg(マイケル・デヴィッド・ローゼンバーグ)といって、35歳になるイングランド出身のフォークロック・シンガーソングライター。Passengerは彼がメインボーカルおよび作曲担当していたバンドの名称だったが、2009年のバンド解散後、ソロ活動するようになってもそのまま彼はバンド名を使い続けることにした。ぼく的にはDavid Rosenbergの方がしっくりくるし恰好いいと思うんだけど…。Passengerはイングランド人の母親とユダヤ系アメリカ人の父親との間に生を受け、現在もイングランドのブライトンに在住している。16歳で学校をやめ、ストリートミュージシャンとしての生活を経て晴れてプロとなる。多くの国でヒットチャート第1位にランクインした”Let Her Go“は彼のベストシングルでつとに有名だが、ぼくは最初に聴いた”Runaway“が印象深い。ちなみにメイキングを観ていたら、このOfficial Video映像の撮影をしているカメラマンは東洋人(もしかしたら日本人?)だった。

Passengerの音楽はPosnerと較べると、ブリティッシュフォークの流れを汲むような湿り気を帯びた哀愁を漂わせている。そして、何と言っても殉教者のようなひげ面から紡ぎ出される独特な歌声が魅力的。海辺で女性コンテンポラリーダンサーが舞う”To Be Free“の映像を観ていると、つくづく彼はイングランド人なんだなと感じる。背景を彩るのはイタリアやアメリカ西海岸のようなスカッとした青空ではなくて、灰色を帯びたグレイッシュな空だ。紹介したい曲がたくさんありすぎて困ってしまう。のびやかなブリティッシュフォーク”Why Can’t I Change“。叙情的な名曲”When We Were Young“や、心温まるロマンティックな”Beautiful Birds“もある。また、Passengerは何曲もカバーを演奏しているが、ぼくが特に好きなのはBob Dylanのカバー”Girl From The North Country“。そしてぼくのPassenger Best 1は”Home”。この曲はいろんなバージョンがあるが、Rimixの”Home (Steezmonks Remix)“なんて何回繰り返し聴いたことだろう。

*

[Home]

They say home is where the heart is but my heart is wild and free

我が家とは心のある場所、と人は言う でも僕の心は野性的で奔放

So am I homeless or just heartless?

だから僕には家がないのかも それとも、ないのは心?

Did I start this? Did it start me?

僕が心を作ったのか?心が僕を作ったのか?

They say fear is for the brave for cowards never stare it in the eye

恐れるのは勇敢な証しだ、と人は言う だから臆病者の眼には恐れがない

So am I fearless to be fearful does it take courage to learn how to cry

僕は恐れを感じるために不敵になるんだろうか 泣き方を学ぶためにも勇気はいるんだろうか

※So many winding roads  so many miles to go  and oh.

いくつもの曲がりくねった道 とても長い道のり

Oh they say love is for the loving  without love maybe nothing is real

愛は愛するためにあると人は言う 愛がなければ、何も本物にはならないと言う

So am I loveless or do I just love less

僕には愛情がないのだろうか、それともただ愛情が小さいだけ?

Oh since love left. I have nothing left to fear

愛があるならば  恐れるものなんて何もない

※So many winding roads  so many miles to go

いくつもの曲がりくねった道  とても長い道のり

※When I start feeling sick of it all.  It helps to remember I’m a brick in a wall

僕が全てのことに嫌気がさしたら  思い出そう、自分は壁の一部のレンガなんだと

Who runs down from the hillside to the sea. When I start feeling that it’s gone too far

丘から海まで転がり落ち  あまりに遠くまで来過ぎたと感じたら

I lie on my back and stare up at the stars. I wonder if they’re staring back at me

寝そべって星々を見上げよう. 星たちだって僕を見つめ返しているのかもしれない

When I start feeling sick of it all.  It helps to remember I’m a brick in a wall

Who runs down from the hillside to the sea. When I start feeling that it’s gone too far

I lie on my back and stare up at the stars. I wonder if they’re staring back at me

*

音楽好きは節操もなく、どんどん脇道に逸れながら探索サーフィンを続ける。やがてぼくの関心は北上してアイスランドに辿り着く。今度の音楽は少しワイルドで力強い。アイスランド・モスフェルスバイルで2012年に結成された4人編成のロックバンド、Kaleo(カレオ)と出会ってしまったのだ。Kaleoはハワイ語でサウンドを表す言葉だそうだが、その音楽の図太さはボーカル・ギター・ピアノ・作詞担当の Jökull Júlíusson (一体何と発音するんだろう)のボーカルによるところが大きい。ルックスと歌声のギャップも面白い。 “Save Yourself” (LIVE at Fjallsárlón)は、何と氷河の上で演奏してる。おー、やっぱりアイスランドだ!(Kaleoは2015年からはアトランティック・レコードと契約したのでアメリカテキサス州オースティンに滞在している)なので、歌詞は英語が多いがアイスランド語の曲もなんとも味がある。”Automobile“なんて正統的なロックナンバーだけどなかなか恰好いいし、出しゃばらなくて渋いリードギター、寡黙なベース、ボーカルもサポートするドラムスと、メンバーのポジショニングもピッタリ決まってる。アイスランドは日本の四国より小さな国なのに、前にもとりあげたポストロックバンドSigur Rós (シガーロス)やOf Monsters and Men (オブ・モンスターズ・アンド・メン)、それにご存じBjörk (ビョーク)だっている実は音楽大国なのだ。

どちらも2015年リリース曲だが、まるで短編映画のようなSigur Rósの”Hoppípolla“や、モノクロ・クチパクパフォーマンス映像が新鮮なOf Monsters and Menの”Human“と、相変わらず彼らのアイスランド魂は健在。もちろん、アバンギャルドで革新的な活動を持続しているBjörkだって負けてはいない。ビョークという命名は、カバノキ(樺の木)という意味がその由来なのだそうだが、イギリス出身の映像作家クリス・カニンガムがミュージックビデオを担当したレズビアンロボットの”All is Full of Love“は当時とても衝撃的だったが、そのリリースは1997年なので、あれはもう20年以上も前の衝撃だったことになる。そして21世紀初頭のいま、孵化する昆虫をオマージュしたエロティックで官能的な最新作”arisen my senses“を視聴すると、彼女のその実験的姿勢にまったく揺るぎがないことがわかる。

ところで、YouTubeは視聴中にサイドバーに関連動画のサムネールが表示される。ぼくはある日、そこに骸骨のお面をつけたミュージシャンのジャケットを見つけた。メキシコには街中がカラベラ(=ガイコツ) で溢れかえる盛大な祝祭「死者の日」(Dia de Muertos)がある。それは日本のお盆にあたるもので、死者を迎えて死者を称え、そして死者を送るお祭りだ。その期間は仮装した老若男女が、それぞれ思い思いの可愛い骸骨となって街にくり出す。カラフルで陽気なメキシカンHalloweenのお盆版みたいなイメージか。そこで、この骸骨のお面ミュージシャン、C.W. Stonekingの”We Gon’ Boogaloo” Live at KDHXをさっそくクリックしてみると、おー、いいじゃない!茶目っ気たっぷりで、ラフな、人食ってる感がなかなか好感もてる。ガールズバンド従えてノリノリ演奏。次の曲、ラテンアメリカ版「なまはげ」みたいな”Zombie“も益々微笑ましい。タコス・チリコンカーン・ナチョスなどメキシコからの影響を受けたアメリカ南部やテキサス州周辺の料理はTex-Mex、つまり「テキサスとメキシコ混交の」という意味のテックスメックス料理と呼ばれてるが、音楽も同様にアメリカ南部のメキシコ系音楽はTex-Mex(テクス・メクス)と呼ばれることが多い。このC.W. Stonekingの音楽は、ブルースコードをベースにそのテクス・メクスを存分にふりかけたご機嫌サウンドといえるだろう。彼の調理室ストッカーには戦前のブルースサウンドはもちろん、ニューオリンズジャズ、jugバンド、カリプソ、アーリーロックンロール、ゴスペルなんかの素材がぎっしりと詰まってる感がサウンドからしっかり伝わってくる。音質は全然シャープじゃなくてモゴモゴしてるし、そこにデジタルのデの字もないけど、彼の音楽にはその方が相応しい。これって立派な(それにちょっと不良な)大人の音楽だと思う。なのに、ときには”On a Desert Isle“のようなしっとりとしたアコースティックブルースを聴かせてくれたりするのも憎らしい。こんなC.W. Stonekingをぼくはてっきり生粋のアメリカ南部辺り生まれのミュージシャンと思っていたら、何と彼はオーストラリア生まれの45歳だったから、世界は広い。

こうして各国に点在するマイブーム・ミュージックをあれこれ堪能してきたが、そろそろ最後に締めくくりのデザートとなるアルバムを1枚。リゾナーレ八ヶ岳のショッピングモールにスウェーデンをテーマにした「naTur」というショップがある。店内には北欧の息づかいが伝わってくるグッズがところ狭しと並んでいて、スカンジナビア好きのぼくは、いつも前を通るとどうしてもドアを開けてしまうのだが、あるとき店内に流れていたのが、ストックホルムで結成されたドラムレス・ワンホーン・トリオSweet Jazz Trioのアルバム「Soft Sound from a Blue Cornet」だった。トランペットより柔らかいコルネットの音色は、バンド編成をギターとウッドベースだけのトリオとすることで、心にしみこんでくる心地よいJazzに仕上がっていた。ぼくは早速、このあたたかくて包容力がある美しいアルバムを購入し、いろんなシーンで愛聴している。詳しいディスコグラフィーがないので分からないが、3人のミュージシャンは間違いなく高齢だろうし、音色もルックスに相応しい「いぶし銀」。金管楽器のコルネットなのに、その音色からビオラとかチェロのような室内弦楽器の中低音の響きを連想させられるのもちょっとびっくり。変哲もないシンプルな楽器の組み合わせと繊細でバランスのとれたサウンドアンサンブルで、こんなに極上のベルベット・トーンが生み出せるなんてまさに熟練の技。静かなのに、強い。シンプルなのに、多様。やはりJazzって大人の音楽なんだなぁ。いやいや、Jazzだけじゃない。音楽があって本当によかった。世界中から、ぼくの聴覚へと届けられる多様な快感を、まだまだ味わうことができるこの幸せに感謝しなくては。

Twin Peaksの森の映像
『ツインピークス The Return』
エンディングロールに登場するバンドのライブスナップ
DVD&ブルーレイ・ボックス・パッケージ
空に出現するスカイホールの2シーン映像

2019.3.01

ぼくは今でこそ車ばかり乗ってるが、昔はこのまま、この二本の脚でどこまでもどこまでも歩いていけるような気持ちになったこともあるくらい、歩くのが大好きだった。大地を踏みしめて歩を進めると、心は本能的な充足感に満たされる。動いている身体に乗った頭の中では、じっと座っている時には動き出すこともなかった部分が目を覚まし、活動をはじめる。そして、視界に入ってくる情景を眺め、刻々と変化する空気の流れや香りを五感で感じとりながら、移動する快感に身を委ねていく。

現存する生物のうちで直立二足歩行が可能な生物はヒトだけである言われている。いやいや、ペンギンだって鳥類やカンガルー、熊、猿などいろいろいるじゃないかと反論もあるかもしれない。しかし、ペンギンの大腿骨は脊椎に対してほぼ直角であり、下腿骨のみが垂直となっている。つまり、常に膝を曲げた状態なので、正確には直立二足歩行とはいえない。常時二足歩行を行う動物もいずれも骨盤と大腿骨の構造上、大腿骨を脊椎に対して垂直に立てることはできず、直立二足歩行を無理にすれば脱臼してしまう。このように自然界に直立二足歩行があまり見られないのは、腰や膝への負担が大きく、エネルギー効率が悪いためであると考えられている。

では、どうしてヒトは直立二足歩行するのか。これにはさまざまな仮説がある。両手が自由になるため食料を運べるし、手に武器を持って効率的な狩猟も可能となる。また、頭を高くするので遠くを見通せることや、水中を歩けるとか、移動効率、体温調節など諸説あるものの、まだ定説はない。直立二足歩行の長所としては、重い頭を支えることが可能となったこと。体重に比してヒトの頭部の重量は全ての動物の中で最も大きいので、結果としてヒトは体重に比して巨大な脳容積を得ることができ、全動物中最も高い知能を得たのだと言うのだが、これは「鶏が先か、卵が先か」という因果性のジレンマと一緒で、巨大な脳を得たので直立二足歩行するようになったのかもしれないと考えたりもする。もちろん欠点もたくさんある。ヒト以外の動物は痔や腰痛、胃下垂、ヘルニアなどの疾患に苦しむことはない。これには重力が関係しているようだ。膝への負担からくる障害やふくらはぎのむくみもヒト特有のもの。重い頭部を支える細く弱い首にも負担がかかるし、四足歩行に較べるとバランスが悪く倒れやすい。喉、心臓、腹部、股間等の急所が多い胴部前面を常に晒す危険もあり、内臓を保持するために骨盤底を発達させる必要があるため出産には困難がともない、胎児を小さく未熟な状態で出産しなければならない。さらに直立二足歩行には高度な身体能力が求められるから、習得するのに長期間の身体の成熟が求められ、生まれてから1年程度の訓練を必要とすること等々。(すべてWikipediaによる)かように長所短所ある直立二足歩行だが、実に複雑な仕組みの上に成り立つ歩行法なので、ホンダのASIMOだって、到底ヒトには遠く及ばない。

ところで先日TVを観ていたら、55歳から地図の測量を始めた伊能忠敬を紹介していた。忠敬は江戸時代に正確な日本地図をつくるため、目印と目印の間の距離を歩いて測ったので、そのために一定の歩幅で歩く訓練もしていたそうだ。一説では180cmと長身だった彼のその1歩は正確に69cmで、その歩数から距離を算出したという。夜の間も地図づくりは続く。北極星などの星を観測して自分の位置を割り出し、測量が正しいかどうかを確かめる。こうした作業を粘り強く延々と繰り返し、全国を旅すること17年。こうしてついに正確な地図「大日本沿海輿地全図」が完成した。17年かかったということは55歳から72歳までなので、江戸時代であればかなりの高齢者による偉業達成ということになる。さらに1日に歩く距離は平均60kmという健脚ぶり。なぜそんなことが可能だったのか。答えはその歩き方にあった。

江戸時代以前の日本人の多くはナンバ歩きという歩き方をしていたそうだ。これは右手と右足、左手と左足をそれぞれ同時に出して前に進む歩き方である。現代人に多くみられる歩き方は右手と左足、左手と右足をそれぞれ交互に出して肩と腰をねじりながら歩く、いわゆる西欧人の歩き方が一般的だが、これだと身体の軸をひねりながら歩くため腰や膝に負担がかかるので長距離を歩くのは難しい。さらにこの歩き方だと和服では襟元や着物の帯も緩みやすいし、武士は日本刀が邪魔になる。一方ナンバ歩きは身体が軸ぶれしないため疲れにくく、飛脚のような長距離歩行が可能となる。農民や行商人などは重い荷物を運ぶため、身体がぶれないよう歩かなければならないので必然的にナンバ歩きとなる。ちなみに天秤を担ぐときや相撲の鉄砲、また段梯子を登るときとか阿波踊りなどもナンバだという。試しにぼくもトライしてみたが、すぐに西欧人の歩き方に戻ってしまう。それに何となくユーモラスな歩き方だなと思っていたら、ゴリラの走り方もナンバだそうなので納得。ということで、伊能忠敬の健脚を支えていたのはナンバ歩きにあったというその話題はとても興味深かった。

さて、話を戻そう。歩くのが大好きだったぼくは、それまでも自宅から散歩に出ることはあったが、住宅沿いの歩道を歩くだけなので結局飽きてしまい、ずっと休止状態だった。ところが、実はここ数年散歩を再開しているのである。汗ばかりかき、ときには熱中症の危険さえあるし、少しも快適でない夏場の2〜3ヶ月は休んでいるが、それ以外の季節は少しくらいの雨が降ってもほぼ毎日出かけることにしている。自宅から車で15分ほどの山裾にある駐車場にパークして、そこから幾重かに曲がりくねった上り坂の山道を15〜20分ほど歩き、中腹にある小さな神社で一休みしてからUターンして、下り坂をのんびりと戻る往復約30分ほどのコースだ。何と言っても林の中の道なので木陰が多く、空気も清々しくて心地良い。今のような真冬の季節でも、すっかり葉をおとした木立はまるでベルナール・ビュフェの荒々しい素描のようだし、さらにその木立ストライプの先にはイギリス・ロマン主義の画家、ウィリアム・ターナーの絵画のように、青空に雲が流れるのびやかな風景が広がる。そして極めつけのご馳走は、どの角度からも楽しめる「今日だけの富士山」。その手前には盆地の町並みも広がっている。この盆地、近世に成立した地誌類の『甲斐国志』『甲州噺』などには、太古に盆地がかつて湖底であったと考える湖水伝説が伝わっている。そうした伝承を残す神社も盆地を取り囲むように鎮座しているが、甲斐の湖は地質学的な定説とはなっていない。ハイカラ好きの太宰治は「シルクハットを倒(さか)さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた(中略)きれいに文化の、しみとおっているまちである。」と『新樹の言葉』に残しているが、もっと大きなこの盆地の宝物は、東西南北に広がるそれぞれに異なる4つの個性をもった稜線シルエットを戴いていることではないかとぼくは思っている。さらにもう一つ宝物に加えたいのは、闇に包まれた盆地が満天の星のような輝きに満たされる光景だ。散歩の醍醐味は五感で味わう楽しみなのだが、これらは散歩における「眼のご馳走」。

ところで、すれ違う人たちは高齢者が多い。歩き方や姿勢で遠くからでも一目でそれはすぐに分かる。年齢的にはぼくもそのお仲間になるので、出来るだけ背筋や脚を伸ばして、若者のそれを見習おうと心掛けている。散歩には筋力の衰えを抑えて現状維持する効果があると言われるが、たしかに、歩きはじめてすぐに身体が重かったり軽かったりと体感するので、散歩が体調のバロメーターとなっていることは間違いない。仕事の都合で散歩できない時などは、何となくやり残した気持ちになってしまうのだが、そんな風にスッキリしなくなったらしめたもの。ここまで時間はかかったが、日々のウォーキングは今ぼくにとって欠かせないものとなってきている。こんなに長続きしたのは無理のないほどよい距離であることと、コースに木陰が多いので心地よく歩けること。それに折々の季節を体感できることも理由のひとつ。頭上では鳶が悠然と旋回を繰り返したり、鴉とのテリトリー争いを繰り広げたり、目をこらせばちょっとした自然のドラマも味わえる。

歩くことがもたらす快感には科学的な理由もある。散歩の効用の一つに挙げられるのが、身体の隅々の毛細血管にまで新鮮な血液が行き渡る事だと言われている。血液を通じて脳の前頭葉に酸素が送り込まれると、注意力・思考力・意欲などが上昇する。同時に爽快感を生み出すセラトニンの分泌も促す。このセラトニンは夜になるとメラトニンという物質に変化する。これは睡眠物質なので、日中の爽快感はイコール、夜の快眠となる。そして、新鮮な血液によって脳内の神経繊維が活発に結びつくようになり、行き詰まった思考をリセットし、リラックスしながら同時に注意力も上がるので、新しい解決法やアイデアが生まれる効能もある、と良いことづくめなのだが、これは目的地にただ向かうだけの苦行のような歩行では決してもたらされない。歩くことを楽しむ外向きの散歩でなくてはならないという条件がついているのだ。

これから春を迎えて新緑の季節ともなれば、散歩コースは一気に生命力溢れる風景に一変する。そしてその緑のヴェールの中に歩を進めると、ぼくはきまってある光景を思い出す。それは『ツイン・ピークス』の新シリーズ『Twin Peaks The Return』の随所に挿入される森のシーンだ。ぶ厚い緑のマントを羽織った森には、葉を揺らせ小枝をなびかせるそよ風が流れている。ドラマでは、羽根を休める鳥たちや数えきれない様々な動植物たちを呑み込むその森は、現実世界と異界を連結する装置として象徴的に描かれている。不思議なことに、ぼくは散歩をはじめると、途端に自分が『Twin Peaks The Return』の森の中を歩いているような錯覚にとらわれるのだ。そして実は、その錯覚を味わいたくて、日々のウォーキングを続けてきたのかもしれないとさえ思うこともある。

『ツイン・ピークス』は1990〜91年にアメリカで放映されたTVドラマで、製作総指揮はデヴィッド・リンチとマーク・フロスト。海外ドラマブームの先駆けとなった全29話にもおよぶ長編シリーズで日本でも空前の社会現象となったので、当時はぼくも謎が謎を呼ぶ展開に夢中になったものだ。そして、このThe Returnだ。25年の歳月を経て放送された続編の新シリーズ(シーズン3)『ツインピークス The Return』は、2017年にぼくらの前に戻ってきた。出演者もFBI捜査官クーパー役のカイル・マクラクランやクーパー捜査官らの上司ゴードン・コール役の監督デヴィッド・リンチなど前シリーズのキャストほとんどが再結集しており、各俳優の変貌ぶりから25年という時の経過を感じとることができる。中にはすでに亡くなった俳優もいるので、新シリーズでは長期療養中という設定となっていたりする。

デヴィッド・リンチの作品はどれも難解だが、シュールで不思議な魅力に溢れている。だから『Blue Velvet』、『Lost Highway』、『Mulholland Drive』、『Inland Empire』とぼくは何作もディスクを購入して彼の世界を楽しんできた。何と言っても彼の作品の魅力のひとつに作中の音楽がある。すごく効果的に挿入されている楽曲は独特の選曲センスによってチョイスされているので、音楽の流れるシーンはどれも繰り返し観たくなるほど魅力的だ。もちろん『ツインピークス The Return』全18話にもエンディングロールには必ずバンドが登場する。ステージは田舎町ツインピークスにある酒場の設定。入れ替わり登場するバンド演奏は、ポップあり、カントリーあり、テクノやロック、ジャズとジャンルはとってもフレキシブル。実際、リンチ自身もあるインタビューでこんな発言もしている。「映画のサウンドとは、映像と音楽が一体となって動き続けるというもので、両者は結婚しているといえるほど重要な関係なんだ。この映画の中でもさまざまなサウンドが使われているけど、それらの瞬間にとって、それぞれのサウンドがとても重要なんだ。」音楽好きのぼくも、小鳥のさえずりや木立から聞こえる葉のそよぐ音を楽しんだ後にはAirPodsをセットして、その日の気分にフィットする音楽をセレクトしながら「耳のご馳走」を楽しんでいる。

『ツインピークス The Return』は、クーパー捜査官と、彼から分裂したドッペルゲンガー(=もう一人の自分)、そしてそのどちらでもないタギーと呼ばれるもう1人のクーパーの3つの人格の存在を軸に繰り広げられる。(DVD&ブルーレイ・ボックスのパッケージを開けると、クーパーと悪クーパーの間にダギー・ジョーンズが現れるという象徴的パッケージデザインで3つの人格の存在が表現されている)善と悪、陰と陽、白と黒、そしてこの二律背反のどちらにも属さない天使のような存在が挿入されて物語は「これは未来か、それとも過去か?」「これは現実か?それとも夢なのか?」と、謎が入れ子状になって繰り広げられていく。

また、時空を超えて別の次元にワープするシーンが18話の中で2回ほど出てくる。ある特定の緯度と経度の地点に立つと突然、青空や木立に穴があいてそこにのみ込まれてしまうのだ。気づけば、赤いカーテンに囲まれた部屋のソファーに腰掛けていたり、モノトーンの部屋で巨人の男と向き合っていたりする。そこに登場する不思議な人物たちの喋る声はすべて逆回しになっていて、どれもこれもデヴィッド・リンチの仕掛ける謎かけメッセージ。

こんなシーンもあった。デヴィッド・リンチ扮するFBI捜査官ゴードン・コールが昨晩見た夢を回想するのだが、彼はパリで捜査していて、知り合いの女性が話があるからカフェで会おうと電話で誘ってきた。そしてコーヒーを飲みながら向き合うと彼女は古い決まり文句を口にする。「私たちはみんな夢の中に生きているようなものよ」。それを聞いたゴードンが「分かった」と言うと、彼女は言った。「でも、その夢を見てるのは誰?」。強烈な不安に襲われた彼は、何が起きているのかと彼女が視線を転じた自分の背後を振り返ると、そこに居たのは若い頃の彼自身の姿だった。ぼくらが見聞きし感じている現実は、もしかしたら夢のような幻想なのかもしれない。ひとりひとりが自分の幻想を現実と思い込み生活しているのかもしれない。この問いかけをさらに精緻に理解するために、中沢新一さんの『森のバロック』第5章『粘菌とオートポイエーシス』の一節を引用してみよう。

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(2)南方熊楠は、生命にとって、現実と幻想の間の違いはない、と考えている。彼は自分の得たこの生命直感を、仏教の表現をかりて、論理化しようとしている。「…有罪の人が死に瀕しおると地獄には地獄の衆生が一人生まるると期待する。その人また気力をとり戻すと、地獄の方では生まれかかった地獄の子が難産で流死しそうだとわめく。いよいよその人死して眷属の人々が哭き出すと、地獄ではまず無事で生まれたといきまく」。この仏教的な世界のイメージでは、この世と地獄が鏡の像のような対称関係にあるものとして、描かれている。この世で罪を重ねて、死んでのち地獄へ行くべき因縁を重ねてきた人の生命は、この世の中だけで完結するものではなく、死に瀕しては、それは地獄の生命の状態に、反転鏡像のようにして、反映されていく。それはちょうど、この世で灯火がひとつ点けば、あの世で闇がひとつ増える、と描いた『涅槃経』の世界のイメージと、同じことをあらわしている。

このイメージを、もっと深く探求してみよう。この世に生きている人間は、人間としての生命システムをもち、そのシステムに特有の感覚器官や幻想力や思考力をもって、自分のまわりに、「現実」をつくりあげている。この「現実」は、時代によっても、また社会によっても変化する。しかし、その変化はあくまでも、人間としての生命システムの条件に拘束されている。ところが、この世の人間と、灯と闇の関係のような、深い「縁」で結ばれた地獄の住人にとっては、同じ世界がまったく違う光景として、とらえられているのである。仏教思想の中では、この世と地獄が、違う空間にあるとは、考えられていない。まったく同じ場所で、この世の人間と地獄の住人は、それぞれがまったく違う世界を見、人間が食事をつくるための火と思っているものが、同じ場所にいる地獄の住人にとっては、恐ろしい業火と見えるのだ。それは、地獄の住人に特有の生命システムによる。この世の人間の生命システムには開かれている真性に向かう知性の窓が、地獄的生命システムでは、閉ざされているのだ。彼らは、同じ場所、同じ世界にありながらも、そのために違う現実、違う幻想を見ていることになる。

この世の人間のあり方と、地獄の住人のあり方とは、たがいに鏡像のように、つながれている。もっと正確に言うと、この世の人間も、地獄の住人も、それ自体として完結している現象ではなく、より根源的ななにものかが(仏教は、その根源的な「なにものか」のことを、空、真如、心そのもの、連続するもの、などといった、さまざまな名前で表現しようとしてきた)、生命システムの条件に拘束されたときにあらわれる、現実であり、幻想であるものとしてとらえられている。つまり、それぞれの生命システムにとっての現実は、幻想と一体であり、また生物がいだく幻想もまた、現実をつくりだすのと同じ生命システムの条件から、つくりだされてくるということになる。生物にとって、現実と幻想の本質的な違いはない。あるいは、こう言ってよければ、現実なるものは、幻想と同じように、ない。(せりか書房刊『森のバロック』265〜266頁)

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こうしてぼくは、現実でも幻想でもない山道散歩に今日もでかける。歩き出して前頭葉に酸素が送り込まれ、セラトニンが分泌されてくると脳が徐々に活性化されてくる。そして、五感でご馳走を味わいながら、ふと足を止めて見上げるとそこにスカイホールが現れて、ぼくはワープする。赤いカーテンに囲まれたソファに座ったぼくは、今日も夢の中に生きているのかと考える。すると、決まって何処からか囁き声が聞こえてくるのだ。「でも、その夢を見ているのは誰?」

日光東照宮の陽明門や建物に施された彫刻類。
一番下は日光山輪王寺宝物殿のショップで購入した
寅年守御本尊の「虚空蔵菩薩」掛け軸仕様の仏画。

2019.1.01

豊作の守り神である年神は、初日の出とともに降臨されるという。それを高山から眺めればご来光となり、その光背を負うてお釈迦様は来迎されると仏教は説く。しかし、ぼくは日が昇る瞬間を眺めたことは一度もない。寝坊には、気づけば辺りはすでに明るくなっていて日の出はいつもあっけなく訪れるのだが、日没の瞬間を見届けたことはある。昨年の盛夏に、長野は富士見高原の1,430mの高地から、夕日が奥穂高岳の稜線に沈むまで30分ほどじっと日没を眺め続けた。これは実に面白い体験だった。夕日というのは別れを惜しむかのように空を茜色に染め上げていてなかなか沈まず、そのあいだ眺める者の心にはさまざまなことが去来するので、とても豊潤なひとときを与えてくれる。稜線に消えるまでのプロセスはあたかもスローモーションの映像を眺めているように、このまま茜色の光景が永遠に続いていくかのような錯覚にとらわれる。しかし、その輝きの上辺が稜線にすっと消え去る瞬間は、逆に実にあっけない。この静と動のコントラストが日の入りのプロセス、つまり、光と影のはざまにはあるのだと発見した。

光といえば「観光」の語源」は、「国の光を観る、もって王に賓(ひん)たるに利し」という「易経」の一説に由来するそうだ。賓とは敬うべきもの。つまり「国の威光を観察する」のが「観光」の本来の意味なのだが、現代の観光地は国の威光とはほど遠く、むしろそれは「光景」の「光」であろう。「光景」とは目前に広がる景色や眺めのことで、光(=景色)を観に行く「観光」は大正時代以降Tourism(ツーリズム)と訳されている。

ところで、昨年晩秋のぼくの「観光」は、ご来光の日を連想させる日光への旅だった。日光に赴くのは学生時代の修学旅行以来なのだが、栃木には活動の中で知り合い懇意にしているデザイナーも3人ほどいるので今回は少し遠出してみることにした。

1999年に世界文化遺産に登録された日光の構成遺産は、二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)、東照宮(とうしょうぐう)、輪王寺(りんのうじ)の2社1寺に属する103棟の建築物群と周辺の景観遺跡なのだが、やはり白眉は日光東照宮だろう。駿河国の久能山に葬られた徳川家康の遺骸は、「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し神として祀ること。そして八州の鎮守となろう(Wikipedia)」という家康本人の遺言から、3代将軍・徳川家光により、下野国日光に改葬され、分霊が勧請されたのが日光東照宮である。その威風は家康の遺言にある「小さな堂」とはほど遠い堂々たる造営である。日光では家康死去の翌年には社殿が完成していたが、それから17年後、徳川家光が日光社参し、その2年後より江戸、京都、大阪から集められた宮大工たちによっておよそ8年がかりの荘厳な社殿の大規模改築が進められた。そして完成の翌年には朝廷からの宮号授与を受け、東照社から東照宮へと改称。晴れて日光東照宮となった。

そもそもこの地に「日光」の字があてられる語源となったのは、820年、弘法大師(空海)がここを訪れた際に、二荒山(中禅寺湖の北にある男体山)の「二荒」を「にこう」と音読みしたことに由来するといわれている。その「にこう」の読みに対して「日光」の字が当てられ現在に至るわけだが、どうやらその字を当てたセンスのある無名の人物がいたことになる。ちなみに二荒山という名称も、更にさかのぼる782年に男体山を勝道上人が開山したときは、観音菩薩が住むとされる補陀洛山(ふだらくさん)と呼ばれていたので、これが訛って二荒山になったのだそうだ。各地に残る名称は、このように読み替えられたり、訛ったり、当て字されたり、さまざまに屈折しながら定着しているものが数多く見受けられる。今回はその二荒山神社までは足を伸ばせなかったので、一路、東照宮へと歩を進めることにした。

参道から奥を望むと東照宮の正門となる「一の鳥居」、通称「石鳥居」が見えてくる。鳥居をくぐるとそこから先は神域となる。石鳥居は神域の入口に相応しくそびえ立って見えるが、これは石段の幅や高さを微妙に変えることで生まれる、錯覚を利用した遠近法によるものだという。石鳥居の先に建つ五重塔にも工夫が施されている。塔の真ん中には屋根を固定するための心柱と言われる巨大な木の柱が垂れ下がっていて、この心柱は途中から鎖で吊られ、底部は磯石につかず浮遊させることで地震の縦横の揺れを振り子にして吸収する。このため、揺れを逃がすことができるのだという。東日本大地震の際にも損傷がなかったこの江戸時代に考案された免震機能は「東京スカイツリー」の地震制振システムにも応用されているというから、これぞ先人の知恵と言うほかはない。ちなみに634mの「東京スカイツリー」の高さは五重塔の標高とほぼ同じだというのだが、果たしてこれも偶然なんだろうか。

境内の導入口に控える日光山輪王寺の本殿はあいにく改修工事中だったので、まず宝物殿と輪王寺宮の庭園として作庭された逍遙園を散策する。逍遙とは気ままにそぞろ歩きすることの意だが、園内には琵琶湖の近江八景を模した大池があり、男体山など周囲の山々を借景として構成されている。この地泉回遊式庭園には造園された江戸初期から後期に至る意匠が混在し、巨石や石組みには桃山の特徴も残っているそうだ。そして隣接する輪王寺宝物殿に移動すると、ここには奈良時代後期、勝道上人の日光山を開山以来の長い歴史を物語る寺宝が収蔵されている。輪王寺に伝来する所蔵品は国宝1件、重要文化財49件、重要美術品7件、世界記憶遺産1件の各時代の仏教美術、そして徳川家康、家光の御遠忌法要にまつわる品々の展示に加え、江戸時代まで陽明門に祀られていた等身大の風神・雷神像が50年ぶりの修理を経て輪王寺に移管され、現在は宝物殿に公開されている。その前に立って仰ぎ見ると巨大フィギュアといった趣で、風神・雷神像はなかなかの迫力だった。

初代将軍の家康から15代将軍慶喜までのおよそ260年間に及ぶ、栄華を極めた江戸幕府。長期にわたる武家政権に集積されたパワーが、宝物殿のさまざまな展示物に表出していて、この権力の御威光ぶりがひしひしと伝わってくる。家康は三河国(愛知東部)の土豪・松平元康(幼名は竹千代)として生を受け、戦国武将として動乱期に頭角を現し、豊臣秀吉の死後に征夷大将軍として晴れて天下人となった。没後はその遺言に基づき、恒久平和を願う神となるための重要な儀式である日光改葬を経て、日光山から江戸や関東、日本全体を見守る「東照大権現」として家光らによって神格化されてきた。人から神となったこのジャパニーズ・サクセス・ストーリーが放出するオーラは宝物殿のみならず、東照宮を構成するすべての建造物群を覆い尽くしている。

ところで、ぼくは美術館や博物館のミュージアムショップではほとんどグッズを買うことはないのだが、宝物殿の受付に展示されていた菩薩の色紙には心動かされて、自分の干支である寅年守御本尊の「虚空蔵菩薩」を購入することにした。この尊蔵は慶安5年(1652)に宮中の御絵所にいた仏師「木村了琢」によって描かれたとある。了琢は江戸中期の画家で、名は喬久。絵所となって宝暦10年(1760)に56才で歿したそうだが、筆使いは実に精緻で画風には品性が感じられる。仏教絵画はインド、東南アジア、中央アジアや中国、チベットと各地に残るが、なかでもチベットのタンカと呼ばれる礼拝儀式に使用する曼荼羅・仏画がぼくは好きだ。了琢の画風はタンカに近いと感じたので一目で気に入った。この虚空像菩薩は虚空(大空)より無量の珍宝を雨のごとく降らせ一切を充足させるとともに、大空のように何事も包み込んでくれる仏様とあり、さっそくこの掛け軸仕様の仏画を自室の壁に掛けて、良い年が迎えられるよう祈願する。

極彩色といえば東照宮の建物群に施されている彫刻も実に絢爛豪華で、しかもなかなかPOP。故事逸話や遊びに興じる子どもたち、聖人賢人などの彫刻に加えて、おびただしい数にのぼる神獣(=霊獣・霊鳥)が祀られている。神の御霊が宿ると言われる神獣は日本では神使(しんし)とも呼ばれる神の使いで、神社で見かける「狛犬(こまいぬ)」などは代表的な例だが、良い事が訪れる直前にそれを伝えに現れる獣の姿をした神様の使いと伝えられている。東照宮に祀られている神獣は龍、竜馬(麒麟に似るが竜馬は2角で牙がない)、一息(龍に似てるが怪魚)、白沢(はくたく=人の言葉を話す聖獣)、象、猫、猿、唐獅子、鳳凰、鶴、亀、虎、兎、猪、鼠、牛、蛇、馬、羊、鳥、などなど。さながら、ここは神獣らが集う日光フィギュア動物園だ。ちなみに中国では「四大聖獣」や「四神(しじん)」と呼ばれる「麒麟」「鳳凰」「応龍」「霊亀」が親しまれているという。

東照宮の彫刻類は南光坊天海が総指揮、彫刻デザインは狩野探幽に一任されたと伝わっているが、多くの作品は作者不明とされている。しかし、国宝の東西廻廊の極彩色大彫刻は狩野理右衛門の下絵とあるし、回廊にある「眠り猫」は左甚五郎の作と言われるので、実際はデザイナー集団による協働作業だったのではないだろうか。東照宮彫刻のディレクターであった南光坊天海は戦国時代から江戸時代に実在した僧侶で政治家と言われているが、謎に包まれた人物でもある。家康・秀忠・家光と三代にわたって仕え、黒衣の宰相とも呼ばれたこの天台宗の僧侶は108歳という異例の長寿だったとか。 そして、デザイナーたちを束ねたアートディレクター役の狩野探幽は江戸時代初期の狩野派絵師としてつとに有名だが、江戸幕府の御用絵師となり山水、人物、花鳥といった幅広い作域でその手腕を存分に発揮した。個々の彫刻については様々に解説されているのでここでは割愛するが、東照宮のビジュアルイメージは彫刻といい「鳴き龍」の天井絵といい、生き生きとしてるし愛嬌もあり、なかなか可愛いいので、東照宮は江戸時代に誕生したアニメ感満載の彫刻テーマパークといった感がある。こんなにカラフルでPOPで楽しい彫刻類が建物を彩る東照宮に国内外の観光客が引きも切らず押しかけてくるのもむべなるかな。コミックと世界文化遺産が一体化しているスポットなんてそう滅多にはない。

さまざまな意匠の背景となっているのは仏教発祥の地であるインド、チベット、そして東南アジアに伝播した仏教美術様式なので、東照宮の背後にはそうした異国の香りが充満している。家康を神格化し、徳川幕府の威信を広くアピールする機能を果たしてきた東照宮だが、それもこれもすべて人間の創意。ときには権力の発信装置として、またときには濃密な観光の地として、時代を跨いでさまざまな人間の企てを吸着してきたのも、日光という自然が内包する地の力あってのこと。今回の訪問で改めてそう強く感じた。そこには関東以北の最高峰・日光白根山、男体山、女峰山などが連なり、噴火によって流れ出た溶岩は谷をせき止めて中禅寺湖などを造りだし、また流れ出た水は竜頭滝や華厳滝を落下して川となる。この変化に富んだ日光の地形は野鳥の楽園を誕生させ、多くの動植物を育みながら奥深い自然をつくりあげてきた。そして必然的に人はその地の力に吸い寄せられ、魅了され、物語を生み出していく。ぼくはこうした光景を各地でたびたび目撃する。いつでも自然は人に胸襟を開き、ときに厳しく、どんな人間の営為も静かに包み込んでいる。

上から、20代の良二さんと
最初で最後となったTOO MUCHのアルバム。
3枚目は、御坂生まれの幕末の侠客、
そして尊王攘夷派の志士だった
黒駒勝蔵の碑の前に立つ良二さんと三上寛。
その下は、日本ブルースハープ界の草分けだった
妹尾隆一郎氏のバースデイライブで歌う良二さんの
2013年のスナップ。
一番下は良二さんが最もリスペクトする
伝説のロックギタリストJimi Hendrix。

2018.11.01

青春時代の記憶に残る「伝説の人」がいる。正確に言えば2人いるのだが、今回登場するのはその中の1人。定かな定義は分からないが、ぼくの「伝説の人」とは、会ったことはないがいろんなところから「どうやら凄い人がいる」という噂が流れてきて次第に集積していき、やがてその人物のイメージが像を結び、ぼくだけの物語の「伝説の人」となる。実像とは大いに異なるのだろうが、構わない。だってそれは、ぼくだけの物語に住まう「伝説の人」なのだから。

高校時代にリョージさんという凄いギタリストがいる、と複数の友人の噂を耳にしていた。しかしそれ以上詳しい情報はなにも入ってこないので「へぇ−、そんな人がいるんだ」と漠然と聞き流していた。それから数年後、ぼくが東京から郷里の甲府に戻ってきたある時、一度だけ演奏しているリョージさんを偶然見かけたことがある。街なかにある狭いライブハウスのステージで(たしかそこは「ラムネ堂」と呼ばれていた)エレキギターを弾いていた人物を指さして連れが「あれがリョージさんだよ」と教えてくれた。2005年10月の山梨放送でブルースギタリストのリョージさんの特集番組が制作されたとき「全身ギタリスト」というタイトルが冠せられてたが、ソリッドなギターの音色とともに記憶に残っているのは、正に全身ギタリストが其処に居たという鮮烈な印象だった。(一番上の写真が20代のリョージさんなので、たぶんこんな感じだったはず。)その「伝説の人」を垣間見てから40数年後のある日、ぼくは思いがけなくその人と向かい会うことになる。

以前のブログでも紹介したアコギ制作者、サカタギターの坂田久さんが経営しているカレー屋さんに出かけて、いつものようにカウンターに腰掛けると隣りでやけに元気で滑舌のいい人が深沢七郎とか三上寛とか、ぼくが素通りできない人物の名をあげて熱心に久さんに語りかけていた。しばらく黙って聞いていたが、とうとうぼくは好奇心を抑えきれず、「失礼ですが」と話かけてしまった。それがリョージさん、つまりぼくの「伝説の人」、堀内良二さんだった。ぼくと同じ歳と知ってすぐに意気投合したものの、ぼくは良二さんの実像についてはほとんど何も知らない。そこで後日、ぼくがブログに良二さんのことを書こうとしてる事を知った彼は手書きの克明な記録・資料を渡してくれた。ミュージシャンって何となく自由奔放なイメージを抱きがちなのだが、実は良二さんのように誠実で、緻密で、高い理想を持ち続けているミュージシャンだっているのだ。(当たり前のことだけど…)ということで、ここからの文章はその資料に基づいたものとなる。

良二さんは山梨の果実の里、御坂町に生まれ、中学生の頃に甲府に移住する。高校は市内に2校ある進学校のうち、ぼくとは別の学校に進学していたので、当然ぼくらの接点はまったくなかった。1968年頃、PANIC(パニック)というバンドに加入した良二さんは、TESCOという楽器メーカー主催のバンドコンテストで全国優勝を果たし、在学中からギタリストとしてその名を馳せていた。同年の秋にはベンチャーズ山梨公演の前座も務めたのだが、本人によれば、そもそもギターに興味を持ったきっかけは中学生の頃に偶然楽器店から流れてきた、あのテケテケテケというベンチャーズのエレキギターのサウンドだったというから、前座として演奏するまでにわずか5年ほど要していないわけで、ギタリストになるまでのそのスピードの早さに先ず驚かされる。そして1969年の高校卒業を待ち、進学せずに芸能プロダクションに就職する初の学生として、ゴールデンカップスやパワーハウスといった有名バンドが所属する音楽事務所「東洋企画」に入社してプロデビューを果たす。ここから良二さんの音楽遍歴が本格的に開始されるわけだが、1970年には京都でバンド「TOO MUCH」を結成。TOO MUCHはテキサス州出身のBill Ashを含む日米混成4人組の即興ブルースロックバンドで、活動期間はわずか8ヶ月間だった。この結成の直前、新宿「風月堂」に出入りしていた良二さんは、京大西部講堂での伝説的ライブアルバムを残したロックバンド「村八分」のギタリスト、山口富士夫と出会って3ヶ月間同居する。この時期2人はユニットも結成していたが、「TOO MUCH」の誕生と共に自然消滅。しかし、山口富士夫が他界する2013年まで音楽で結ばれた2人の交流は続く。その後、良二さんは様々なミュージシャン達と交流しながら、目まぐるしいコンサート活動を通じてその腕を磨いていったが、1971年5月に渡印することになる。その大きな要因となったのが、日本という国への失望感だった。

1970年、海外からジミヘンジャニス・ジョプリンをはじめドアーズ、クリームといった、当時の世界のロックシーンを彩るミュージシャンらを招いて、富士山の裾野で日本版「ウッドストック」を実現しようとした壮大な野外ロックコンサート「フジオデッセイ」が計画されていた。そこで国内から選ばれたバンド「TOO MUCH」は彼らとステージをともにすることが内定し、出演契約書も届いていたから、ここでロックギタリスト・堀内良二がメジャーデビューするはずだった。しかし、運命というのは時として心ない悪戯をするものだ。この時期は世界的な規模で反政府運動の機運が高まっていて、当時の政権がそうした運動の温床になってはと危惧したのか、もしくは計画の中止するよう圧力をかけてきたのか真相は定かでないが、突然計画は中止されることになってしまった。人生で最もワクワクする瞬間から一転してどん底へと突き落とされた良二さんは否応なく人生の岐路に立たされる。開催されていたら人生は大きく変わっていたのかも知れないという気持ちを封印して、失望した良二さんは「こんな保守的な日本社会にいても自分の本当の音楽は追究できない」と海外に出ることを決意する。その再生プランは、旅人と求道者の聖地・インドからシルクロードを辿ってRockの聖地・ロンドンを目指すというものだった。こうして1971年5月から1975年10月に 帰国するまでの良二さんの放浪の旅がはじまる。

まずスタート地であるインド、ネパール、アフガニスタンにはまり、そこで1年間のヒッピー生活を送る。アフガニスタンでは、タージマハルを目指していた小杉武久率いる「タージマハル旅行団」と出会い、旧交を温める。(その小杉さんは今年10月12日に帰らぬ人となってしまった。合掌。)それからシルクロードを辿り、イスタンブールからはオリエント急行でスイス、イタリア、そして地中海南岸からスペインへ移動。マコルカ島では中華レストランで中国人らに混じって働いたりしてからアンダルシア地方を巡って北アフリカ、モロッコに入る。アルジェリアでは日商岩井セメント工場建設プロジェクトの飯場に居候したり、サハラ砂漠探検も経験した。そしてイタリアに再入国してからドイツ、デュッセルドルフで旧友であり良二さんの最大の理解者であるドイツ在住の画家・赤井富士夫氏と再会。1974年からロンドン・キルボーンに1年間滞在し、再びドイツに向かって赤井宅に居候した後、帰国する。

世界の現実と向き合ったこの5年あまりの放浪の旅は、ミュージシャンとして、そしてひとりの人間として何ものにも代え難い人生体験となり、彼の人生を深化させていった。 郷里に戻ってからの良二さんは家庭を持ち、映画が好きだったこともあり、当時はまだ珍しかったVIDEOレンタルショップを営みながら、並行して1990年までは度々コンサートやセッションにも参加している。実はこの時期、子どもに見せようとSnow Manを注文したぼくは、お店で良二さんの奥さんからVIDEOを受け取った記憶がある。しかしその後、奥さんは病のため1991年に若くして他界してしまった。傷心の良二さんはこれを境にギターを封印して、残された3人の子育てに専念することになる。だがそのBlues魂の灯火が消されることは決してなかった。1995年の阪神・淡路大震災発生を機にチャリティロックコンサートを企画してギタリストとして復活。また、地元放送局の番組「BLUES NIGHTS」のDJを2年間つとめ、さまざまなBLUESやROCKを紹介すべく精力的に活動してきた。

良二さんが出会った多くのキーパーソンの中でも、特に最も影響を与えられたと語っているのは妹尾隆一郎氏だ。惜しくも2017年12月に亡くなってしまったが、ブルースハーモニカの分野では日本を代表するミュージシャンでBLUES & ROCK界の古株である。この妹尾氏と良二さんの後輩ギタリストの寺田一仁氏がメンバーとなっているBLUESバンド「SENO-TERA」に良二さんはパワーをもらいながら、2000年以降もBlues魂を探求する旅を続けている。ではそれを支える原動力はなんだろう。良二さん曰く、BLUESの基本は単純な3つのコードで成り立っている。それをどう解釈するかによってさまざまな独自のスタイルは生み出されていく。BLUESのシンプルな3コードの中に潜むのは奥深い多様性なのだ。良二さんはそれを「BLUES MAGIC」と名付けた。「BLUES MAGIC」は人種や時代を問わずソウル(魂)をもった音楽の探究者たちを終点のない旅に誘い続けているし、自分も「BLUES MAGIC」にとりつかれたギタリストなのだと。

ところがそんな良二さんは、訪れた何度目かのインドへの旅でウイルスに感染してしまい、徐々に身体が蝕まれてしまった。何年か潜伏していたウイルスによって、とうとう身体の各部が炎症を起こし、一時は命も危ぶまれた時期もあったそうだ。しかし、幸い一命を取りとめた良二さんは長い治療期間を経て、次第に生活のリズムを取り戻すまでに回復してきた。最後に残ったのは膝の痛みだった。そこで今年の夏、手術する決意を固め、今は術後のリハビリに励む日々を送っている。「ぼくはとにかく自分の足で立って歩きたい。誰の手も借りず1人で電車に乗って東京に行き、懐かしい仲間と会ったり、ライブにも行ってみたい」その一念でどんな辛いリハビリにも耐える決意なのだと語っていた。この前向きな姿勢は間違いなく音楽を探究する旅の中で培われてきたものだろうし、やっぱり良二さん、生き方がBLUESだよ。

戦後同じ年に生まれた良二さんとぼくは、片やミュージシャンとして、片やデザイナーとして、別々な場所で同じ時代を生きてきた。熱く音楽について語る良二さんがときおりふっと垣間みせる、はにかんだ笑顔を見ると、ぼくはあのラムネ堂でギターを弾いていた良二さんを思い出す。そして、その二つの表情の間に横たわる長い年月の流れに浮き沈みしている喜怒哀楽が見えてくる。音楽上での失望や苦難もたくさんあっただろうが良二さんがもっとも心折れそうになった出来事は、あまりにも早すぎる奥さんとの別れだろう。そこからどう立ち直っていったのか言葉少なめに語ってくれた。傷心の良二さんは、ひがなぼんやりと当時住んでいた家から見える山ばかり眺めていたという。やがてその山は生まれ故郷の御坂で子ども時代に毎日眺めていた小高い山とオーバーラップしてくる。海辺で育った子どもらが水平線の彼方に明日を見つけようとするように、ぼくら山国で育つ子どもたちは、あの山の向こうに在るという幻のような幸せに目をこらす。

*

山のあなたの 空遠く

「幸い」住むと 人のいう

噫(ああ)われひとと 尋(と)めゆきて

涙さしぐみ かえりきぬ

山のあなたに なお遠く

「幸い」住むと 人のいう

*

このカール・ブッセの「山のあなた(上田敏 訳)」にはさまざまな解釈がある。幸せを探しに行ったけれど欲しかった幸福は見つからず、涙を浮かべて帰ってくるしかなかったという解釈や、その幸福ならあなたが探しに行った場所よりも確かもっとずっと遠い山の向こうにあるのにとか、いやそうではなくて実はそれははじめから足元にあったのだという読み解きもある。いずれにしてもこれは決して青春の詩などではなく、年を重ねるごとに重みを伴って迫ってくる詩なのだと思う。幼少期の原風景は、元少年少女らの終わることのない探求の旅を、背後からいつまでもいつまでも静かに包み、そして見守っている。

上からamazon fire TV。
次の3点はPENGUINS spy in the huddle。
3点目の手前がスパイカメラペンギン。
下から5点はplanet earthから。

2018.9.01

ここ数年継続している定期小旅行の宿で過ごす夜、最初のうちは読みかけの本を開いたりTVを観ていたが、番組はどの局も代わり映えしない内容だし、ニュースもスマホチェックで事足りてしまう。そこで、購入した映画のDVDや録画してもなかなか時間がとれずに観られなかった収録物をブルーレイディスクなどにコピーして、宿の備え付けプレーヤーで鑑賞したりしていたのだが、それも次第に物足りなくなってきた。

そこでハタと閃いたのが自室で夜な夜な観ているAmazonのFire TV-4Kだった。これはTVに接続して使うセットアップボックスの小さな出力機器で、Apple TVと同じく、専用機器をTVのHDMI端子に接続してWi-Fiにつなぐだけで、5万タイトルもあるAmazonビデオの映画やYoutube、スポーツやニュース番組が見放題となるデバイスなのだ。prime会員なら享受できる膨大なコンテンツサービス環境は実に豊富で、観はじめたら本当にきりがない。動画ライフにはまり、使いはじめたら止められずにリモコン片手に自宅に引き籠もってしまう人も出現しているとどこかで読んだ記憶があるが、さもありなん。見始めたら次々と興味がスライドしたり、スキップしていくので、その深い視覚情報の沼に引き込まれてしまう気持ちも分かるような気がするが、スマホ依存もそうだけど、結局は本人の自己責任で活用するものだから、向き合い方も千差万別と考えたらよいのだと思う。しかしこうした多様なコンテンツが出現してくると、横並びで代わり映えしない地上波番組などからは次第に人々は離れていってしまう時代になるのもそう遠い話ではないかもしれない。インターネットを介して配信されるデジタルオーディオ、ビデオコンテンツを高精細テレビで視聴するAmazon Fire TVは、HuluやNetflixなどの有料アプリなどを使うとさらにTV番組、映画、音楽、スポーツ、ゲームなど幅広いラインアップからさまざまなコンテンツが楽しめることになる。機器の仕様は、厚さ10mmほどの65mm角の本体と電源アダプタ、それに長さ150mmほどのコンパクトなリモコンだけで、あっけないほどシンプルこの上ない。そこでぼくはこれを旅先に持って行って、宿のTVに接続すれば、夜は退屈しないのではと考えたのだ。

結果は大正解!今やほとんどの部屋はWi-Hiが完備されている環境なので、慣れれば2〜3分の接続設定で試聴が可能となる。4K対応なので画質も驚くほど鮮明だ。また、音声認識対応リモコンなのでいちいち入力しなくても、タイトルや俳優・監督名、ジャンルなどを言うだけでAmazonビデオの映画やTV番組が検索できる。例えばYoutubeだけでも、世界中からあらゆるカテゴリーの動画がアップされていて、コンテンツは恐ろしく広く奥深い。仮にお気に入りのミュージシャンを検索すると、すぐにそのミュージシャンの楽曲タイトルが表示されるので、観たいビデオをクリックすると音楽ビデオがスタートする。早送りやストップも自在だし、終了すると次々と関連動画が自動再生されるので、放っておけばいつまでもお気に入りのミュージシャンの関連映像が途切れることはない。時折挿入される広告は3秒ほど我慢すればスキップできるから、これはYoutubeを試聴するための使用税だと考えることにしている。必要最小限のボタンしかついていないリモコンも優れもので、さぞかし初期設定は難しいのではと危惧していたが、さすがAmazonという感じでサクサクと設定して簡単に設定完了できる。先行機種の第2世代Fire TV Stickと比較すると、第3世代であるこのAmazon Fire TVは価格がほぼ倍なのだが、高画質対応なので4K動画視聴に適しており、ゲーム環境が更に快適になったり、動画再生がスムーズになりさらに進化していると伝えられているが、ともあれAmazon Fire TVはこうしてぼくの小旅行の夜の恰好の友となった。

例えばこんな映画がある。過酷な環境で生き抜くペンギンの極限の親子愛を追った「PENGUINS」。シーズン1のエピソード1では、南極のコウテイペンギンやフォークランド諸島のイワトビペンギン、そしてアタカマ砂漠のフンボルトペンギンを追う。凍てつく南極から灼熱の熱帯まで、自然界で最も献身的な親たちの物語をカメラは記録していく。そこで活躍するのはペンギンたちの群れに潜入するスパイカメラ。ペンギンのそっくりさんにはカメラが巧妙に組み込まれていて、遠隔操作で彼らの生態を余すところなく捕らえることができる仕掛けだ。そのスパイカメラペンギンを仲間と認識しているペンギンたちの中には求愛行動をとってくるものまで出てくるから微笑ましい。さらにダミーペンギンから生み落とされた卵や側に置かれる岩のレプリカにまでカメラは仕込まれていてあらゆるアングルから群れの様子を克明に観察する。ちゃっかり4輪タイヤのヒナもいるのはご愛敬だ。こうして長期間にわたってくまなく記録されるペンギンたちの生態はとても興味深く、子孫を次代に繋いでいくための涙ぐましい数々の努力の物語は感動的だ。

またじっくりと集中して鑑賞出来るときに選ぶのがPLANET EARTHシリーズだ。『プラネットアース』(Planet Earth)はイギリスのBBCによる自然ドキュメンタリーシリーズで(日本のNHK、アメリカ合衆国のディスカバリーチャンネルとの共同制作番組でもある)、日本では仲間由紀恵さん、ココリコ田中直樹さん、動物写真家 岩合光昭さんなどさまざまな出演者らによる吹き替え版が衛星放送NHKスペシャルでも放映されている。シーズン1には11のエピソード、シーズン2には6つのエピソードが収録されている。

シーズン1

エピソード1「生きている地球」(英題:”From Pole to Pole”)

エピソード2「淡水に命あふれる」(英題:”Fresh Water”)

エピソード3「洞窟 未踏の地下世界」(英題:”Caves”)

エピソード4「乾きの大地を生きぬく」(英題:”Deserts”)

エピソード5「高山 天空の闘い」(英題:”Mountains”)

エピソード6「草原 命せめぎあう大地」(英題:”Great Plains”)

エピソード7「海 ひしめく生命」(英題:”Shallow Seas”)

エピソード8「極地 氷の世界」(英題:”Ice Worlds”)

エピソード9「ジャングル 緑の魔境」(英題:”Jungles”)

エピソード10「森林 命めぐる四季」(英題:”Seasonal Forests”)

エピソード11「青い砂漠 外洋と深海」(英題:”Ocean Deep”)

シーズン2

エピソード1「島 生命の小宇宙」(英題:”Islands”)

エピソード2「熱帯の森 ひしめく命」(英題:”Jungles”)

エピソード3「砂漠 不毛の大地」(英題:”Deserts”)

エピソード4「草原 緑のゆりかご」(英題:”Grasslands”)

エピソード5「高山 天空の闘い」(英題:”Mountains”)

エピソード6「都市 新天地への挑戦」(英題:”Cities”)

「誰も見たことのない地球の素顔」を制作コンセプトに、各エピソードではドローンによる天空の視線や超小型防震雲台を駆使した生き物の目線で、全編をHDカメラで収録した極上の映像で展開されている。各テーマにそって練り込まれた企画を選りすぐりのスタッフらが、気の遠くなるような時間と手間(そして予算も)をかけて制作したそれらの映像はどれも博物学的姿勢に貫かれていて、思わずこちらも姿勢を正して見入ってしまう。

これを観て即座に思い出すのは、ナショナル・ジオグラフィックだ。学術誌でありながら絵や写真を多用した雑誌として知られるこの科学誌は1888年に「National Geographic Magazine」として創刊された由緒ある雑誌だ。誌面に載るのは1万枚から選ばれたほんの1、2枚というきわめて厳格な掲載基準で、最高品質の記録写真を掲載してきたことでも知られている。世界36カ国語で発行されていて、今では180か国以上で850万人が定期購読している。発行元のナショナルジオグラフィック協会はワシントンD.C.に本部を置く非営利科学教育団体だが、2015年にメディア部門を21世紀フォックスに売却したので、現在の同誌の発行元は新会社であるナショナル・ジオグラフィック・パートナーズとなっている。ただ、ナショナル・ジオグラフィックにはこんな批判もある。「第三世界の人々は異国的なものとして描かれる。理想化され、1つの歴史観に沿った形にそぎ落とされ、性的特色を付与される。男権主義的修辞技法、異文化の接触を一方的観点で見ること、世界を階層化された構造として見ていながら客観性を主張していること。(Wikipedia)」などである。また、アメリカの既成の体制や企業の利権と密接に関連しているといった批判もある。しかし、1888年以来、8,000件を超える研究や調査プロジェクトを支援し、世界に関する知識の向上に貢献してきたことは間違いない。ナショナル・ジオグラフィックは動画配信もしているが、スケールとクオリティにおいては、矢張り『プラネットアース』には適わない。やはり牙城は動画でなく、基本的には静止画メディアという事なのだろう。

『プラネットアース』(Planet Earth)に話を戻そう。観るたびにどのエピソードも実に贅沢に作り上げられているとつくづく思う。8,000m級の高山をさらに上空から捉えた天空の視線。鳥になって山肌を滑空するような信じられないアングル。何時間も息を潜めて根気よく待ち続け、運良く撮影された劇的瞬間。長くても15秒ほどのそれら貴重な記録映像を丹念につなぎ合わせ、自然が垣間見せる感動的な瞬間を生き生きと見せてくれる『プラネットアース』。世界中で日々放映されるどんな映像よりも、時間、予算そして情熱をかけて、ぶ厚く積み重ねられたこの番組を観ていると、自分が体験したリアルな実感ではないけれど、多様で、豊潤で、美しくて過酷なこの世界の片隅に今こうして生きていることの幸せを噛みしめることができるのだ。