アルチュール・ランボオ(Arthur Rimbaud)
アンリ・ファンタン=ラトゥール作『テーブルの片隅』 前列左よりヴェルレーヌ、ランボオ(1872年、オルセー美術館蔵)
17歳のアルチュール・ランボオ エティエンヌ・カルジャ(フランス語版)による肖像写真(1871年10月)
11歳のランボオ(1866年の初聖体拝領)
ポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)
ヴェルレーヌとランボオ
ヴェルレーヌが描いたランボオの絵がもとになっている ヴァランティーヌ・ユゴーによる雲の上を歩くランボオ
母ヴィタリー・ランボオ(1890年頃)
ハラールのランボオ(1883年頃)
妹イザベルが描いた瀕死のランボオ(1891年)

永遠の未完〈アルチュール・ランボオ〉

Arthur Rimbaud
2020.3.01

多くの人は『ランボー』といえば即座にシルヴェスター・スタローン主演のアクション映画のシリーズを思い浮かべるかもしれない。しかし、中にはぼくのように、青春期に焼き付いた記憶が甦り、19世紀フランスの詩人、アルチュル・ランボオだ!と応える人もいるのではないだろうか。出会いは10代の後半。耽読したというほどではなかったものの、父の書斎で発見して譲り受けた2冊と、小遣いで購入した『世界の詩集6 ランボー詩集(金子光晴訳)』の計3冊を交互に夢中になって読みふけった一時期があった。『世界の詩集6 ランボー詩集』は角川書店・昭和42年初版。巻末には芥川比呂志、朗読による『いちばん高い塔の歌』のソノシートが付いていて、金子光晴や串田孫一らも監修していたのになんとなく物足りなさを感じてしまっていた。しかし、書斎にあった2冊は思い出深い。すでに酸化で黄ばみ、表紙は見当たらず、綴じも解れてボロボロになっているから、開くと細かな紙片が膝元に落ちてくるような古書だが、どうしても処分することができずに今も手元に残っている。共に初版本で、小林秀雄訳の『アルチュル・ランボオ 地獄の季節』(白水社)は昭和5年10月発刊。もう1冊は中原中也訳の『ランボオ詩集』(野田書房)。奥付はないのだが、中也の後記には昭和12年8月21日とある。そして、その2冊、どちらの訳も甲乙つけがたい。
当然のことながら、文学作品は原作者の母国語で創作されるから、その言葉の背後にある文化や独特のニュアンス、そして(とくに詩は)言語の音感や韻を踏むことによって醸し出されるリズムも作品を構成する重要な要素となる。10代のぼくも、オリジナルをダイレクトには味わえない翻訳には限界があるのだろうと直感していた。海外の書物を味わうということには、まるで手袋をして痒いところを掻くようなもどかしさがつきまとうことは避けられないことだと…。だからこそ、異国の読者たちには原作者の表現したエッセンスを損なうことなく、異なる言語で再構築する翻訳というジャンルが生み出されてきたわけで、誰が翻訳したのかということはその作品を味わう上でとても重要なこととなるはずだ。その意味で、立場こそ違うが評論家の小林秀雄と詩人である中原中也による(昭和初期の古めかしい言葉使いではあるものの)良質な翻訳を通じてランボオと出会えたことは、ぼくにとって幸運な出来事だったと思う。
アルチュール・ランボオ(1854.10.20〜1891.10.9)はフランスの東北方ベルギー境に近いシャルル・ヴィルに生まれ、わずか37歳で没したのは日本の年代にすると明治24年のことだった。しかし、彼の芸術家としての生涯はさらに短命で、20歳前には早くも終焉をむかえ、そこを境に彼の人生は「断絶」「反転」「再生」などいかなる言葉でも説明のつかない軌跡を描く。詩作を捨て去ったランボオはヨーロッパ各地の放浪を経て、商人としてアフリカ奥地へと旅立って様々な障害に立ち向かい、そして力尽きた。小林秀雄は『地獄の季節』の序文でその登場をこのように記している。

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この学星が、不可思議な人間厭嫌の光芒を放ってフランス文學の大空を掠めたのは、1870年より73年まで、15歳にして、既に天才の表現を獲得してより18歳にして、自躯らその美神を絞殺するに至るまで、僅かに3年の期間である。この間に、彼の怪物的早熟性が残した處(2500行の詩とほぼ同数の散文詩に過ぎない)が、今日19世紀フランスの詞華集に、無類の寶玉を與へてゐる事を思ふ時、ランボオの出現と消失とは恐らくあらゆる國々、あらゆる世紀を通じて文學史上の奇蹟的現象である。

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ランボオに強く感銘を受けた人も、まったく読んだことのない人も様々だろうが、その作品はこのブログなどで到底紹介しきれるものではない。ただ、10代後期のぼくがランボオに惹かれたのは、その詩から放射される(神を神殿から曳きずりおろすような)凶暴なまでに純粋な試みと、なによりその作者が自分と同年齢の若者であったことによる。加えて、その後の20年におよぶ彼の人生との対比も比類のないものであったからである。
瞬く間に駆け抜けたランボオ最晩年の作品『地獄の季節』は、それまでの定型の詩の形式を打ち破って奔流する詩想を書きとめた散文詩だが、直訳すると「地獄に於けるある季節」。その「地獄」とは単なる文学青年の地獄であり、ランボオにとっての文学とは文学青年の事業であった、と小林は書いている。この原稿をランボオは母親から金を貰い、ブラッセルのPoot商會という出版社に1873年10月に持ち込んだものの、途中ですっかり嫌気がさしてしまい、文学生活を放棄した証しに手元の原稿や写しなどをすべて暖炉に投げ入れて焼却してしまう。しかし幸運なことに印刷屋に金を払わなかったため、先方が出版用原稿を渡してくれなかった。おかげで、のちにこの原稿は本屋の倉から発見され、初版なるものが完全に残ることとなった。小林秀雄は、1972年の春からおよそ1年間、ブラッセル、ロンドン、シャルルヴィルなど放浪の中で書かれたこれらの散文は、詩より遙かに重要で、また見事であると記している。
ランボオと運命を交差させた詩人がいた。天性の叙情詩人であったポール・ヴェルレーヌは17歳のランボオの『酩酊の船』の名調に感動して「偉大なる魂、疾く来れ」と10歳年下であるシャルルビルの一野生児をパリに呼び寄せた。小林曰く、すばらしい駄々っ子を発見するものは、すばらしい駄々っ子でなければならない。ヴェルレーヌにとってつねにランボオは驚愕の的であった。そして、すっかりうまのあった2人はイギリス・ベルギー・北仏と各地を転々する放浪の旅を続けたが、(彼らの仲立ちをしたものは文学だけでなく同性愛であったという説もある)1873年の7月、ブルッセルで破綻を迎えることとなる。なお、この2人の詩人の破壊的な愛と魂の交歓を描いた戯曲『太陽と月に背いて』(Total Eclipse)が1968年にイギリスの劇作家クリストファー・ハンプトンによって発表された。また、1995年にはハンプトン自身の脚本により、ランボウを演じたレオナルド・ディカプリオ主演で映画化もされている。
『地獄の季節』を書き上げたランボオ19歳となるその年の夏、彼はヴェルレーヌとともにパリから放浪の旅に出た。しかしその旅で再会はしたものの、もはやランボオの心が戻らないことを悟り、酩酊してピストルを手にしたヴェルレーヌは、壁にもたれたランボオに向かって引き金を絞った。弾丸はランボオの左手に命中し、致命傷とはならなかっものの、この出来事によってヴェルレーヌは2年間収監されることとなる。この交錯した2人の詩人の顛末は、ともに印象派を代表する画家となったフィンセント・ファン・ゴッホポール・ゴーギャンとの交友を想起させる。そんな事を考えていたら、たまたまその時に読んでいた児童文学作家、梨木香歩の新刊エッセイ集の一編にこんなくだりを発見する。

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ー前略ー 以前読んだある随筆に、小林秀雄と中原中也の関係について「終始(めんどうをみる)親と(めんどうをかける)子の関係であった」というようなことが書いてあった。破滅型の詩人であった中也を、自らのドロドロに周囲を巻き込んで生きていくしかない「子」タイプとしたのである。では「親」タイプとはそのドロドロをきっちり自分で引き受け、外に出さない分別を弁えた人、ということになるだろうか(小林氏がそうであったかどうかは知らない。中也との関係性においてはそうだったのかもしれない)ー後略ー『やがて満ちてくる光の』85〜86p『新しい大人』新潮社)

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だとすれば、親と子がそれぞれに向き合った詩人ランボオ像は、親と子2つの視点を持つことになる。ぼくのランボオ初体験を形作ることなった、この2冊の書物が親子の関係性で繋がっていたとすれば、父の書き込みが残る古書を子であるぼくがなぞるように読み進めるのも不思議な因縁と思えてくる。中也は訳書の後記でこんなことを書いている。

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ー前略ー いつたいランボオの思想とは? ー 簡単に伝はう。バイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつて基督教とは、多分一牧歌としての價値を有つてゐた。さういふ彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかつた筈だ。その陶酔を發想するといふこともはや殆ど問題ではなかつたらう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン伝つてゐることも、要するにその陶酔の全一性といふことが全てで、他のことはもうとるに足りぬ、而も人類とは如何にそのとるに足りぬことにかかづらつてゐることだらう、といふことに他ならぬ。 ー中略ー つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲劇も喜劇も、恐らくは茲に發した。所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。勿論夢といふものは、容れられないからといつて意義を減ずるものでもない。然しランボオの夢たるや、なんと容れられ難いものだらう!伝換えれば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂わば凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰も在るには在るが行き道の分らなくなつた寶島の如きものである。 ー後略ー 『ランボオ詩集』後記251〜253p野田書房)』

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親と子の2つの視点を意識して再読すると、中也の訳は何となくランボオと併走している感がある。ところが、小林秀雄の訳からはどこか父性を含む俯瞰の視点が感じられる。親と子の関係といえば、ランボオ家も興味深い。陸軍大尉だったランボオの父フレデリックは任地につき不在しがちだったが、妻とはまったく性格があわず、やがて家に戻らなくなる。母親マリー・カトリーヌ・ヴィタリー・キュイフはロッシュ村の小地主の娘で、第2子アルチュル・ランボオの1歳上の兄、生後1か月で死去した3歳下の妹と4歳下の妹、そして6歳下の妹フレデリック・マリー・イザベルと4人の子どもたちを女手一つで育てた。末の妹イザベルは1891年、マルセイユで右脚の切断を宣言されたランボオのもとに故郷シャルル・ヴィルから駆けつけ、ろくに家によりつかなかった兄を肉親の深い愛情で包み、つきっきりで看病して彼の死を看とった。一方、ヴィタリーはランボオにとっては、厳格なカトリックで口やかましく戒告するのを義務と心得る情味の乏しい母親だったようだ。ランボオは反発しながらも学校では模範的で早熟な優等生として天才、神童と称された。ほとばしるランボオの詩行の隙間に「神」、「聖人」、「祈り」、「罪」、「天使」といった基督教に連なる言葉が随所に埋め込まれているのは、敬神家であった母の影響を強く受けたことと深く関係している。ランボオの研究書にも、その親子関係について、特に2人の性格の類似性とそれゆえの反目と愛情に焦点を当てた評伝も残されている。孤高の人物と言われる人でも、いかなる関係性の影響からも逃れることはできないし、それと無縁な人間は存在しない。
ランボオの生涯の過半は孤独な放浪とともに送られた。17歳でパリに出奔も、懐中無一文の浮浪者として逮捕されシャルル・ヴィルに逆戻り。その20日もたたぬうちに野宿をしながら今度はブルッセルに向かうも、この旅も散々な結果に終わる。しかし、彼は1971年2月、屈することなく再びパリを目指す。折しも普仏戦争(プロイセン=フランス戦争)終了後の混乱期で、新政府に対するパリの失業者や零細市民らの不満は爆発寸前で、暴徒たちはパリを2ヶ月あまり占拠して略奪破壊をほしいままにした。これはのちにパリ・コミューンと呼ばれたが、その波に揉まれたランボオは在来フランス風な詩の破壊に身を賭けようとシャルル・ヴィルに帰り、いよいよ腰を据えて詩作に向かう決意を固める。次なるパリ行きの目的は文学だった。1972年の春、ランボオをパリに呼び寄せたヴェルレーヌとともに、ビスケットを囓りながら新たな放浪を開始する。ヴェルレーヌは妻と家を捨ててまで、魅了されたランボオとの旅を選びとったのだが、ランボオの変心によってそれは悲劇的な絶縁で幕を下ろす。「彼等の心情は、不幸にもあまりに純情過ぎたのだ、各々その情熱の化學の仕事に忙しかつた。」と小林秀雄は記す。20歳のランボオは手元の原稿を全て破棄して、永遠に文学の世界から去るべく、芸術家でなく実行家としてもうひとつの放浪を開始することになる。ランボオは至る所の国語を習得しつつ、イギリス、ドイツ、イタリア、スペイン、ジャワ(インドネシア)、スカンジナヴィア、エジプト、シブル島、アラビア、エチオピアと各地を転々とする。イギリスではフランス語教師、スペインではドン・カルロス党員、ジャワではオランダの志願兵、スカンジナヴィアでは曲馬団の通訳、アフリカ内地では珈琲・香料・象牙・黄金の商人、隊商の頭、探検家、などなど。20年近い漂泊の末、1891年、アフリカで滑液膜炎に罹り、マルセイユの病院に送られたこの大歩行者の片足は切断され、12月10日にランボオは一商人として、妹イザベルに看取られて死んだ。このような憑かれたように放浪を繰り返す精神とは、一体どのような力を内在させているのだろうか。それは、ほとばしる「瞬間の力」の鎖。「継続は力なり」。歳を重ねるごとに深く頷く。と同時に、対極に在る「瞬間の力」に強く惹かれる。彗星の如く一瞬輝き、潔く消え去るその束の間の瞬間の力。小林秀雄はその「宿命的な瞬間の力」をこのように記述している。

*

ー前略ー 宿命というふものは、石ころのやうに往来にころがつてゐるものではない。人間がそれに対して挑戦するものでもなければそれが人間に対して支配権をもつものでもない。吾々の灰白色の脳細胞が壊滅し再生すると共に吾々の脳髄中に壊滅し再生するあるものだ。ー中略ー 創造といふものが、常に批評の尖頂に据ってゐるといふ理由から、藝術家は、最初に虚無を所有する必要がある。そこで、あらゆる天才は、恐ろしい柔軟性をもつて、世のあらゆる範型の理智を、情熱を、その生命の理論の中にたたき込む。勿論、彼の錬金の坩堝に中世錬金術士の詐術はないのだ。彼は正銘の金を得る。然るに、彼は、自身の坩堝から取出した黄金に、何物か未知の陰影を讀む。この陰影こそ彼の宿命の表象なのだ。この時、彼の眼は、癡呆の如く、夢遊病者の如く見開かれてゐなければならない。或いは、この時彼の眼は祈祷者の眼でなければならない。何故なら、自軀らの宿命の相貌を確知しようとする時、彼の美神は逃走して了ふから。藝術家の脳中に、宿命が侵入するのは、必ず頭蓋骨の背後よりだ。宿命の尖端が生命の理論と交錯するのは、必ず無意識に於いてだ。この無意識を唯一の契點として彼は「絶對」に参與するのである。見給へ、あらゆる大藝術家が、「絶對」を遇するに如何に慇懃であつたか。「絶對」に譲歩するに如何に巧妙であつたか。蓋し、ここにランボオの問題が在る。若し心理的に見るならば、18歳で文學的自殺を遂行したランボオは藝術家の魂を持つてゐなかつた、彼の精神は實行家の精神であつた。彼にとつて詩作は象牙の取引と何等異なる處はなかつた、と言ふのは恐らく正しい。然しかかる論理が彼の作品を前にして泡沫に過ぎない所以は何か。吾々は彼の絶作「地獄の一季節」の魔力が、この作品後、彼が若し一行でも書く事をしたらこの作は諒解出来ないものとなると云ふ事實にある事を忘れてはならない。彼は、無禮にも禁制の扉を放って宿命を引摺り出した。然し彼は言ふ。「私は、絶え入らうとして死刑執行人などを呼んだ、彼等の小銃の銃尾に噛み付く爲に」と。彼は、神を、自意識の背後から傍観したのではない。彼は美神を捕へて刺違へたのである。恐らく此處に、極點の文學がある。ー後略ー

*

では、最後に『地獄の季節』の『地獄の夜』、『錯亂 Ⅱ』に挿入された「永遠」と称される有名なランボオの一節を小林秀雄の訳で…。海と空は祈念の交合を繰り返し、かき混ぜられた混沌の世界へと戻っていく。それは永遠の未完、永遠のリフレイン。

*

また見付かつた、
驚かしなさんな、永遠だ、
海と溶け合ふ太陽だ。


獨居(ひとりゐ)の夜も
燃える日も
心に掛けぬお前の祈念、
永遠の俺の心がしかと見た。


人間共の祈りから
世間、平(ならし)の逆上(のぼせ)から
お前は、そんなら手を切つて、
飛んで行くんだ、何かを抱いて。


もとより希望があるものか
願ひの筋もあるものか
堪忍袋と智識(あたま)がありやあ、
刑罰なんざ覺悟の前だ。


明日といふ日があるものか、
深紅の燠(おき)の繻子の肌、
それ、そのあなたの灼熱が、
人の義務(つとめ)といふものだ。


また見付かつた、
驚かしなさんな、永遠だ、
海と溶け合ふ太陽だ。


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