上部:アマゾンプライムエアー・コンセプト動画スナップ。
下部:新宿裏通り風景とバー店内イメージ。

2014.1.01

世界各地でMillennium=ミレニアム(千年紀)という言葉が飛び交った西暦2000年の3千年紀スタートから、早いものでもう14年が経ってしまった。その時、2014年は近未来と言えなくもないほど先の事だったはずなのに、気づくとぼくらはもうその近未来に生きている。

ところで未来についてぼんやりと考えるとき、人は空や天井を見上げるような姿勢をとることが多い。俯いて考えるとき、未来という言葉は似合わない。むしろ行く末と言った方がしっくりくるわけで、どうやら人は未来という言葉の中に何かしら明るい兆しを含ませようと願うものらしい。

インテル(Intel)やグーグル(Google)には「未来研究員(フューチャリスト)」というスタッフがいるそうだ。そこで彼らが活用する技法は、SFプロトタイピングと呼ばれている。

〈SFプロトタイピングとは、インテル社の製品開発を支える未来予測手法であり、それこそハリウッドのSF映画のような世界を参考にして、一種のゲーム感覚で、ありありと未来の生活の姿を思い描き、その中で普通に使われている製品、テクノロジー、社会問題を通じて、人間にどのような変化や影響を及ぼすのかを考える思考実験と位置付けている。それこそ短編のSF小説を書き上げてしまう事例もある。(The Liberty Webより)〉

たしかに数十年前に発表されたSF作品のいくつかのビジョンはすでに現実のものとなっているわけで、この未来研究員、要するにSF作家たちの想像力を活用しながら近い未来を想像し、その世界で求められるであろう技術や製品を先駆けて開発してしまおうという企業戦略が生み出した新しい職種ということになる。でもどこかしら「先んずれば人を制す」で、誰よりも早く時代のニーズを先取りして成功を収めようとする、競争社会の世知辛さも感じてしまう。(グローバル企業の旗手Intel、Googleなんだから、それは当たり前の話でもあるのだけれど)

しかし、実は近未来はすでに着々と現実のものとなりつつあるようだ。例えばアマゾンで実用化を模索しているのが「オクトコプター(8つのプロペラの小型無人機)」による配達サービス「Amazon Prime Air(アマゾンプライムエアー)」。(公開されているコンセプト動画を見るとアマゾンが何考えているか一目瞭然だ)半径16kmの範囲内でGPS(全地球測位システム)を使い、アマゾンで取り扱う86%にあたる約2.3kgまでの商品をピンポイントで届けてしまおうという計画。一戸建てならまだしも、マンションはどうするの?とか、何万もの無人機が空を行き交っている光景を想像するだけでぞっとするとか、一般の人々の反応はいたって冷ややかなようだ。それに新聞配達や運送業といった職種を圧迫したり、それに代わる雇用が新たに生み出されるようにも思えない。アマゾンだけでなく、アメリカの宅配ピザ大手「ドミノ・ピザ」も無人機で空から宅配する実験動画をユーチューブ上で公開したり、同じくアメリカの物流大手「UPS」や欧州の物流大手ドイツポストDHLも無人機による配送テストや研究を進めていて、10年以内にこうした宅配サービスの市場規模は82億ドル(約8400億円)に拡大するというアメリカ調査会社の予測もあるそうだ。

ただ懸念されるのは、この技術の転用についてだ。ちょっと想像力働かせれば、オクトコプターは配達だけでなく、パパラッチよろしく個人の敷地に潜入して密かに写真を撮影したり、無人機による爆弾テロにだって利用できそうな技術であることはすぐに思いつく。この連想の背景にはいうまでもなく、アフガニスタンやパキスタンで多くの無実の市民を殺害しているアメリカの武装無人機の存在がある。人が直接人を傷つけるのでなく、そこに無人機やロボットを介在させることで、自身への危険を回避しながら目的を達成することへの嫌悪感が人々の心理の底に根強く横たわっている。卑怯者への嫌悪感とロボット恐怖症は表裏一体。まったくロボットに罪はないのだし、コラムニストのモーリーン・ダウドがUSAトゥデー紙から引用している以下のような平和的事例なら、それはそれで「勝手にしたらいい」とは思うのだが。

「すでにあらゆる企業が規制をかいくぐって無人機を利用している。不動産関係者は豪華な物件をビデオ撮影し、カメラマンはハワイのサーファーたちの映像を集め、西部の農家は自分の土地を監視し、カリフォルニアのワイン醸造業者はブドウの熟成具合を確認している。」そしてこのように結ばれている。 「ロボット恐怖症の人たちがすぐに商品を受け取れる方法がある。店に買いに行けばいいのだ」(朝日新聞のコラム「The New York Timesから」より)

その通り。待つのではなく行動すればいいのだ。セブンイレブンの鈴木会長は、今後の企業戦略としてネットビジネスを加速させると発言している。自社の確立しつつある店舗網を利用して、ネット注文した商品を最寄りのショップで受け取れるようにする。この手法なら他社の追従を許すことなく、アマゾン、ヤフーや楽天に対抗できるとの計算だ。技術の是非は結局、使い手次第。どこまでいっても人間の問題ということになる。

ところでSFといえば、昔ぼくはハヤカワ文庫などのSF小説ばかり読みあさっていた時期があった。面白いもので作家もタイプによって、同じSF 小説といってもその作風は大きく異なってくる。映画化もされた「日本沈没」の小松左京はさしずめ社会派の代表格。また、軽妙かつエスプリの効いた作風で、ショートショートの神様と呼ばれた星新一は、先日故人となってしまったセゾングループを率いた堤清二(辻井喬)同様、上場企業(星製薬)経営者としての顔も持つめずらしいSF作家として記憶されている。スラップスティックの大家、筒井康隆は現役の最も著名なSF 作家であろう。冒険物やサスペンス&ミステリーなら、日本SF第二世代の田中光二山田正紀らがいる。劇画のようなSFなら、やっぱりウルフガイ・シリーズの平井和正。彼は漫画「エイトマン」の原作者でもある。しかしなんといっても印象深い作家は半村良だった。

30近い職業を転々とした後、作家デビューした半村良の作品には、松本清張に連なる深い人間観察から生み出された作品が少なくない。『石の血脈』などで「伝奇SF小説」と呼ばれるジャンルを開拓した半村だが、人情小説や風俗小説などにもその才能を存分に発揮した。バーテンダーの経験もある半村は、新宿裏通りにあるルヰというバーのバーテンダー、仙田を登場させ、『雨やどり(現在は集英社文庫)』を含む8つの短編に、彼を軸とした人間模様を情感豊かに描いてみせた。この『雨やどり』はSF作家としては初めて直木賞も受賞している。ファンの中にはSF作品に与えられたものでなかったことを惜しむ声もあったが、文春文庫の解説で長部日出雄が指摘しているように、連作の底に流れているのはやはりSF的な発想と構造であったという見方もできそうだ。それはこのような指摘であった。

「…若い頃は面白くないバーテンだと言われ、派手な男に先を越されて下積みが長かった。しかし、その分じっと他人の人生の流れを見守っているような所があって、作家とか芸人とか、或いは平凡なサラリーマンでも何かひとすねしたような性分の客には、仙ちゃん仙ちゃんと言って可愛がられたものである。(『かえり唄』)

…いつの間にか、仙田も昔に戻り切っていた。顔のまん中で三組ほどの客を監視し、両眼の隅でもう一組ずつとらえている。だから目玉は動かない。緊張しなければできない芸当であった。仙田は背骨をしゃんと伸ばし、どこを見ているのか判らない目付きで、次々と命令を発していた。(『昔ごっこ』)

そのような視線、あるいは目配り心配りに、客がどのように映っていたのかは、『おさせ伝説』の一部に活写されている。不遇な実力者、情報通、性技の達人、駄洒落好きの三枚目……など、それぞれ自分の好みの役柄を演じている客たち—。バーで働く女の人や男のなかには、自分のほうが役者になっている感じの人も時折いるけれども、仙田はつねに裏方の眼で、脚光を浴びている客や女の人たちを見て来たのである。

こういうと、いかにも仙田が作者の分身であるかのようにおもわれるかも知れないが、そうした常識的な見方をも、最後の『愚者の街』において、作者はくるりと引繰り返してしまう。この作品には「あきらかに作者自身をおもわせる駒井啓介という作家が出て来て、「一見してバーの男と判る蝶タイの男」を、高校時代の友達に「こいつはこの近くで壺という店をやっている仙田だ。よく俺の小説に出てもらっている」と紹介し、またその友達に向かって、次のような言葉も口にしている。

「お前らのいる世界では、行方不明者はよくないしるしだろうが、こっち側ではいいことなのさ。うまく行ってれば音信不通さ。それでいいんだ」

そういわれているこの作品の語り手の「私」は、早稲田を出て証券会社に勤めている、つまり一般の読者からするなら、自分たちとおなじカウンターの「こっち側」の人間であって、喋っている駒井のほうが「あっち側」の人間ということになる。作者は連作という形式を生かし、語り手の視点をカウンターという境界線で区切られているこちら側やあちら側へ移動させることによって、日常的な話を非日常的な物語に変えたり、非日常的な物語を日常的な現実と感じさせたりする転換の妙を生み出しているのである。〈中略〉そして読者は、この連作集を読み返すたびに、視点の転換による新しい発見に気がつき、やがて「あちら側」からも自分たちのいる「こちら側」の世界を見ることのできる、想像力の豊かな、すなわちはやさしくはあっても甘くはない、人生の苦さと辛さを知った人間通への道に導かれる筈である。(文春文庫『雨やどり』296〜298頁)ここで語られる「人間通」とはいったいどのようなものなのか。

「落語家を例に引いて話を始めたのは、作者が書いているあいだ新派の芝居を作っているつもりだったというこのシリーズが、わたしには落語の人情噺のようにおもわれたからで、最初の作品の『おさせ伝説』を雑誌で読んだときの印象は、いまも新鮮であり、読み始めて、まず感じられたのは、作者が並々ならぬ人間通である、ということだった。かりに一言でいうなら、これは人間通の小説であって、作者のSFあるいは伝奇ロマンに縦横無尽に展開される百科全書的博学は、つとに有名ではあるけれども、たとえばバーにおいては、下手なピアニストほどキーを強く叩く傾向がある。駆けだしだと、客の会話や笑い声に負けまいとして、余計強く弾く。それに、ピアノだと酔った客がすぐに手をだすが、エレクトーンだとどういうわけか触れようとしない。だからピアノよりは会話の邪魔にならず、客がネコフンジャッタをやりにくいエレクトーンに変えたのだった。……というような、おそらくどんな本を探しても出ていない知識を与えてくれる小説家は、たぶん半村良のほかにはいない筈であり、しかもこの一節からは、酒場の賑わいと紫煙のなかで、懸命に鍵盤を叩いている駆けだしのピアニストの横顔や、人差指一本でネコフンジャッタを頼りなくつついている酔客の姿など、ユーモアや皮肉やペーソスや実にさまざまな感慨を抱かせる光景が、鮮明に浮かび上がって来るのである。同上292〜293頁)

かように、SF小説と一口に言っても、そのフィールドは幅広く、奥深い。私小説でもなく、ノンフィクションでもないSF小説。そもそもSFとして普及するまで日本では、これらジャンルは「空想科学小説」「幻想科学小説」「未来科学小説」などと呼ばれていた。海外では、SFは科学小説ばかりではないという見解から、サイエンス・フィクションでなくサイエンティフィクション〔Scientifiction, Scientific+Fiction〕と呼ぶべきだという主張すらある。事実、前述した作家たちも、科学物、空想物、幻想物、未来物、冒険物などと分類することだってできそうなほど多彩である。共通しているのは「ちょっとありそうもないことが描かれていること」。逆に言えば「あったらすごく面白そうなことなのに、それを説明したり証明することはとても困難だからSFとして表現してしまえ」という人々が積み上げてきた表現領域ということになりそうだ。

「サイエンス・フィクション」の命名者は世界初のSF雑誌『アメージング・ストーリーズ (Amazing Stories) 』の初代編集長ヒューゴー・ガーンズバックであるといわれている。しかし、よく考えてみるとサイエンス・フィクションはアメージング・ストーリーズ と同義なのではという気もしてくる。amazing。つまり、あきれるような…、 驚くべき…、すばらしい…、大した…、 びっくりするような…、 めざましい…、 感心するような…、 見事な…、 不思議な…物語というわけだ。これこそSF精神そのものではないか。固定化された思考や見慣れた風景に抗うように、その狭間から突然出現してくる新生児たち。さまざまな息苦しい制約から放たれて、存分に空想力を発揮しながら未来に思いを馳せると、人々が胸躍らせるようなアメージングな物語が生まれてくる。そこに潜んでいるものは、将来利益を生み出しそうな技術のヒントなどだけではない。無益な、しかしあきれるような人間の自在な空想力こそ、実は未来へと歩みを進める轍となっていたのではないだろうか。願わくばそこには、決して「行く末」などではない、何かしら明るい兆しが差し込まれていてほしいものだ。今も黄ばんだ本を開くと、新宿の裏通りにひっそりと営業しているバーが現れる。そして「不思議な…」のスツールの横には、いつだって「すばらしい…」がちょこんと腰掛けている。だから、SFの世界に背を押されてきたぼくは、SF作家と呼ばれるすべての作者が「amazing未来研究員」なのだと思っている。