上から、20代の良二さんと
最初で最後となったTOO MUCHのアルバム。
3枚目は、御坂生まれの幕末の侠客、
そして尊王攘夷派の志士だった
黒駒勝蔵の碑の前に立つ良二さんと三上寛。
その下は、日本ブルースハープ界の草分けだった
妹尾隆一郎氏のバースデイライブで歌う良二さんの
2013年のスナップ。
一番下は良二さんが最もリスペクトする
伝説のロックギタリストJimi Hendrix。

2018.11.01

青春時代の記憶に残る「伝説の人」がいる。正確に言えば2人いるのだが、今回登場するのはその中の1人。定かな定義は分からないが、ぼくの「伝説の人」とは、会ったことはないがいろんなところから「どうやら凄い人がいる」という噂が流れてきて次第に集積していき、やがてその人物のイメージが像を結び、ぼくだけの物語の「伝説の人」となる。実像とは大いに異なるのだろうが、構わない。だってそれは、ぼくだけの物語に住まう「伝説の人」なのだから。

高校時代にリョージさんという凄いギタリストがいる、と複数の友人の噂を耳にしていた。しかしそれ以上詳しい情報はなにも入ってこないので「へぇ−、そんな人がいるんだ」と漠然と聞き流していた。それから数年後、ぼくが東京から郷里の甲府に戻ってきたある時、一度だけ演奏しているリョージさんを偶然見かけたことがある。街なかにある狭いライブハウスのステージで(たしかそこは「ラムネ堂」と呼ばれていた)エレキギターを弾いていた人物を指さして連れが「あれがリョージさんだよ」と教えてくれた。2005年10月の山梨放送でブルースギタリストのリョージさんの特集番組が制作されたとき「全身ギタリスト」というタイトルが冠せられてたが、ソリッドなギターの音色とともに記憶に残っているのは、正に全身ギタリストが其処に居たという鮮烈な印象だった。(一番上の写真が20代のリョージさんなので、たぶんこんな感じだったはず。)その「伝説の人」を垣間見てから40数年後のある日、ぼくは思いがけなくその人と向かい会うことになる。

以前のブログでも紹介したアコギ制作者、サカタギターの坂田久さんが経営しているカレー屋さんに出かけて、いつものようにカウンターに腰掛けると隣りでやけに元気で滑舌のいい人が深沢七郎とか三上寛とか、ぼくが素通りできない人物の名をあげて熱心に久さんに語りかけていた。しばらく黙って聞いていたが、とうとうぼくは好奇心を抑えきれず、「失礼ですが」と話かけてしまった。それがリョージさん、つまりぼくの「伝説の人」、堀内良二さんだった。ぼくと同じ歳と知ってすぐに意気投合したものの、ぼくは良二さんの実像についてはほとんど何も知らない。そこで後日、ぼくがブログに良二さんのことを書こうとしてる事を知った彼は手書きの克明な記録・資料を渡してくれた。ミュージシャンって何となく自由奔放なイメージを抱きがちなのだが、実は良二さんのように誠実で、緻密で、高い理想を持ち続けているミュージシャンだっているのだ。(当たり前のことだけど…)ということで、ここからの文章はその資料に基づいたものとなる。

良二さんは山梨の果実の里、御坂町に生まれ、中学生の頃に甲府に移住する。高校は市内に2校ある進学校のうち、ぼくとは別の学校に進学していたので、当然ぼくらの接点はまったくなかった。1968年頃、PANIC(パニック)というバンドに加入した良二さんは、TESCOという楽器メーカー主催のバンドコンテストで全国優勝を果たし、在学中からギタリストとしてその名を馳せていた。同年の秋にはベンチャーズ山梨公演の前座も務めたのだが、本人によれば、そもそもギターに興味を持ったきっかけは中学生の頃に偶然楽器店から流れてきた、あのテケテケテケというベンチャーズのエレキギターのサウンドだったというから、前座として演奏するまでにわずか5年ほど要していないわけで、ギタリストになるまでのそのスピードの早さに先ず驚かされる。そして1969年の高校卒業を待ち、進学せずに芸能プロダクションに就職する初の学生として、ゴールデンカップスやパワーハウスといった有名バンドが所属する音楽事務所「東洋企画」に入社してプロデビューを果たす。ここから良二さんの音楽遍歴が本格的に開始されるわけだが、1970年には京都でバンド「TOO MUCH」を結成。TOO MUCHはテキサス州出身のBill Ashを含む日米混成4人組の即興ブルースロックバンドで、活動期間はわずか8ヶ月間だった。この結成の直前、新宿「風月堂」に出入りしていた良二さんは、京大西部講堂での伝説的ライブアルバムを残したロックバンド「村八分」のギタリスト、山口富士夫と出会って3ヶ月間同居する。この時期2人はユニットも結成していたが、「TOO MUCH」の誕生と共に自然消滅。しかし、山口富士夫が他界する2013年まで音楽で結ばれた2人の交流は続く。その後、良二さんは様々なミュージシャン達と交流しながら、目まぐるしいコンサート活動を通じてその腕を磨いていったが、1971年5月に渡印することになる。その大きな要因となったのが、日本という国への失望感だった。

1970年、海外からジミヘンジャニス・ジョプリンをはじめドアーズ、クリームといった、当時の世界のロックシーンを彩るミュージシャンらを招いて、富士山の裾野で日本版「ウッドストック」を実現しようとした壮大な野外ロックコンサート「フジオデッセイ」が計画されていた。そこで国内から選ばれたバンド「TOO MUCH」は彼らとステージをともにすることが内定し、出演契約書も届いていたから、ここでロックギタリスト・堀内良二がメジャーデビューするはずだった。しかし、運命というのは時として心ない悪戯をするものだ。この時期は世界的な規模で反政府運動の機運が高まっていて、当時の政権がそうした運動の温床になってはと危惧したのか、もしくは計画の中止するよう圧力をかけてきたのか真相は定かでないが、突然計画は中止されることになってしまった。人生で最もワクワクする瞬間から一転してどん底へと突き落とされた良二さんは否応なく人生の岐路に立たされる。開催されていたら人生は大きく変わっていたのかも知れないという気持ちを封印して、失望した良二さんは「こんな保守的な日本社会にいても自分の本当の音楽は追究できない」と海外に出ることを決意する。その再生プランは、旅人と求道者の聖地・インドからシルクロードを辿ってRockの聖地・ロンドンを目指すというものだった。こうして1971年5月から1975年10月に 帰国するまでの良二さんの放浪の旅がはじまる。

まずスタート地であるインド、ネパール、アフガニスタンにはまり、そこで1年間のヒッピー生活を送る。アフガニスタンでは、タージマハルを目指していた小杉武久率いる「タージマハル旅行団」と出会い、旧交を温める。(その小杉さんは今年10月12日に帰らぬ人となってしまった。合掌。)それからシルクロードを辿り、イスタンブールからはオリエント急行でスイス、イタリア、そして地中海南岸からスペインへ移動。マコルカ島では中華レストランで中国人らに混じって働いたりしてからアンダルシア地方を巡って北アフリカ、モロッコに入る。アルジェリアでは日商岩井セメント工場建設プロジェクトの飯場に居候したり、サハラ砂漠探検も経験した。そしてイタリアに再入国してからドイツ、デュッセルドルフで旧友であり良二さんの最大の理解者であるドイツ在住の画家・赤井富士夫氏と再会。1974年からロンドン・キルボーンに1年間滞在し、再びドイツに向かって赤井宅に居候した後、帰国する。

世界の現実と向き合ったこの5年あまりの放浪の旅は、ミュージシャンとして、そしてひとりの人間として何ものにも代え難い人生体験となり、彼の人生を深化させていった。 郷里に戻ってからの良二さんは家庭を持ち、映画が好きだったこともあり、当時はまだ珍しかったVIDEOレンタルショップを営みながら、並行して1990年までは度々コンサートやセッションにも参加している。実はこの時期、子どもに見せようとSnow Manを注文したぼくは、お店で良二さんの奥さんからVIDEOを受け取った記憶がある。しかしその後、奥さんは病のため1991年に若くして他界してしまった。傷心の良二さんはこれを境にギターを封印して、残された3人の子育てに専念することになる。だがそのBlues魂の灯火が消されることは決してなかった。1995年の阪神・淡路大震災発生を機にチャリティロックコンサートを企画してギタリストとして復活。また、地元放送局の番組「BLUES NIGHTS」のDJを2年間つとめ、さまざまなBLUESやROCKを紹介すべく精力的に活動してきた。

良二さんが出会った多くのキーパーソンの中でも、特に最も影響を与えられたと語っているのは妹尾隆一郎氏だ。惜しくも2017年12月に亡くなってしまったが、ブルースハーモニカの分野では日本を代表するミュージシャンでBLUES & ROCK界の古株である。この妹尾氏と良二さんの後輩ギタリストの寺田一仁氏がメンバーとなっているBLUESバンド「SENO-TERA」に良二さんはパワーをもらいながら、2000年以降もBlues魂を探求する旅を続けている。ではそれを支える原動力はなんだろう。良二さん曰く、BLUESの基本は単純な3つのコードで成り立っている。それをどう解釈するかによってさまざまな独自のスタイルは生み出されていく。BLUESのシンプルな3コードの中に潜むのは奥深い多様性なのだ。良二さんはそれを「BLUES MAGIC」と名付けた。「BLUES MAGIC」は人種や時代を問わずソウル(魂)をもった音楽の探究者たちを終点のない旅に誘い続けているし、自分も「BLUES MAGIC」にとりつかれたギタリストなのだと。

ところがそんな良二さんは、訪れた何度目かのインドへの旅でウイルスに感染してしまい、徐々に身体が蝕まれてしまった。何年か潜伏していたウイルスによって、とうとう身体の各部が炎症を起こし、一時は命も危ぶまれた時期もあったそうだ。しかし、幸い一命を取りとめた良二さんは長い治療期間を経て、次第に生活のリズムを取り戻すまでに回復してきた。最後に残ったのは膝の痛みだった。そこで今年の夏、手術する決意を固め、今は術後のリハビリに励む日々を送っている。「ぼくはとにかく自分の足で立って歩きたい。誰の手も借りず1人で電車に乗って東京に行き、懐かしい仲間と会ったり、ライブにも行ってみたい」その一念でどんな辛いリハビリにも耐える決意なのだと語っていた。この前向きな姿勢は間違いなく音楽を探究する旅の中で培われてきたものだろうし、やっぱり良二さん、生き方がBLUESだよ。

戦後同じ年に生まれた良二さんとぼくは、片やミュージシャンとして、片やデザイナーとして、別々な場所で同じ時代を生きてきた。熱く音楽について語る良二さんがときおりふっと垣間みせる、はにかんだ笑顔を見ると、ぼくはあのラムネ堂でギターを弾いていた良二さんを思い出す。そして、その二つの表情の間に横たわる長い年月の流れに浮き沈みしている喜怒哀楽が見えてくる。音楽上での失望や苦難もたくさんあっただろうが良二さんがもっとも心折れそうになった出来事は、あまりにも早すぎる奥さんとの別れだろう。そこからどう立ち直っていったのか言葉少なめに語ってくれた。傷心の良二さんは、ひがなぼんやりと当時住んでいた家から見える山ばかり眺めていたという。やがてその山は生まれ故郷の御坂で子ども時代に毎日眺めていた小高い山とオーバーラップしてくる。海辺で育った子どもらが水平線の彼方に明日を見つけようとするように、ぼくら山国で育つ子どもたちは、あの山の向こうに在るという幻のような幸せに目をこらす。

*

山のあなたの 空遠く

「幸い」住むと 人のいう

噫(ああ)われひとと 尋(と)めゆきて

涙さしぐみ かえりきぬ

山のあなたに なお遠く

「幸い」住むと 人のいう

*

このカール・ブッセの「山のあなた(上田敏 訳)」にはさまざまな解釈がある。幸せを探しに行ったけれど欲しかった幸福は見つからず、涙を浮かべて帰ってくるしかなかったという解釈や、その幸福ならあなたが探しに行った場所よりも確かもっとずっと遠い山の向こうにあるのにとか、いやそうではなくて実はそれははじめから足元にあったのだという読み解きもある。いずれにしてもこれは決して青春の詩などではなく、年を重ねるごとに重みを伴って迫ってくる詩なのだと思う。幼少期の原風景は、元少年少女らの終わることのない探求の旅を、背後からいつまでもいつまでも静かに包み、そして見守っている。

上からamazon fire TV。
次の3点はPENGUINS spy in the huddle。
3点目の手前がスパイカメラペンギン。
下から5点はplanet earthから。

2018.9.01

ここ数年継続している定期小旅行の宿で過ごす夜、最初のうちは読みかけの本を開いたりTVを観ていたが、番組はどの局も代わり映えしない内容だし、ニュースもスマホチェックで事足りてしまう。そこで、購入した映画のDVDや録画してもなかなか時間がとれずに観られなかった収録物をブルーレイディスクなどにコピーして、宿の備え付けプレーヤーで鑑賞したりしていたのだが、それも次第に物足りなくなってきた。

そこでハタと閃いたのが自室で夜な夜な観ているAmazonのFire TV-4Kだった。これはTVに接続して使うセットアップボックスの小さな出力機器で、Apple TVと同じく、専用機器をTVのHDMI端子に接続してWi-Fiにつなぐだけで、5万タイトルもあるAmazonビデオの映画やYoutube、スポーツやニュース番組が見放題となるデバイスなのだ。prime会員なら享受できる膨大なコンテンツサービス環境は実に豊富で、観はじめたら本当にきりがない。動画ライフにはまり、使いはじめたら止められずにリモコン片手に自宅に引き籠もってしまう人も出現しているとどこかで読んだ記憶があるが、さもありなん。見始めたら次々と興味がスライドしたり、スキップしていくので、その深い視覚情報の沼に引き込まれてしまう気持ちも分かるような気がするが、スマホ依存もそうだけど、結局は本人の自己責任で活用するものだから、向き合い方も千差万別と考えたらよいのだと思う。しかしこうした多様なコンテンツが出現してくると、横並びで代わり映えしない地上波番組などからは次第に人々は離れていってしまう時代になるのもそう遠い話ではないかもしれない。インターネットを介して配信されるデジタルオーディオ、ビデオコンテンツを高精細テレビで視聴するAmazon Fire TVは、HuluやNetflixなどの有料アプリなどを使うとさらにTV番組、映画、音楽、スポーツ、ゲームなど幅広いラインアップからさまざまなコンテンツが楽しめることになる。機器の仕様は、厚さ10mmほどの65mm角の本体と電源アダプタ、それに長さ150mmほどのコンパクトなリモコンだけで、あっけないほどシンプルこの上ない。そこでぼくはこれを旅先に持って行って、宿のTVに接続すれば、夜は退屈しないのではと考えたのだ。

結果は大正解!今やほとんどの部屋はWi-Hiが完備されている環境なので、慣れれば2〜3分の接続設定で試聴が可能となる。4K対応なので画質も驚くほど鮮明だ。また、音声認識対応リモコンなのでいちいち入力しなくても、タイトルや俳優・監督名、ジャンルなどを言うだけでAmazonビデオの映画やTV番組が検索できる。例えばYoutubeだけでも、世界中からあらゆるカテゴリーの動画がアップされていて、コンテンツは恐ろしく広く奥深い。仮にお気に入りのミュージシャンを検索すると、すぐにそのミュージシャンの楽曲タイトルが表示されるので、観たいビデオをクリックすると音楽ビデオがスタートする。早送りやストップも自在だし、終了すると次々と関連動画が自動再生されるので、放っておけばいつまでもお気に入りのミュージシャンの関連映像が途切れることはない。時折挿入される広告は3秒ほど我慢すればスキップできるから、これはYoutubeを試聴するための使用税だと考えることにしている。必要最小限のボタンしかついていないリモコンも優れもので、さぞかし初期設定は難しいのではと危惧していたが、さすがAmazonという感じでサクサクと設定して簡単に設定完了できる。先行機種の第2世代Fire TV Stickと比較すると、第3世代であるこのAmazon Fire TVは価格がほぼ倍なのだが、高画質対応なので4K動画視聴に適しており、ゲーム環境が更に快適になったり、動画再生がスムーズになりさらに進化していると伝えられているが、ともあれAmazon Fire TVはこうしてぼくの小旅行の夜の恰好の友となった。

例えばこんな映画がある。過酷な環境で生き抜くペンギンの極限の親子愛を追った「PENGUINS」。シーズン1のエピソード1では、南極のコウテイペンギンやフォークランド諸島のイワトビペンギン、そしてアタカマ砂漠のフンボルトペンギンを追う。凍てつく南極から灼熱の熱帯まで、自然界で最も献身的な親たちの物語をカメラは記録していく。そこで活躍するのはペンギンたちの群れに潜入するスパイカメラ。ペンギンのそっくりさんにはカメラが巧妙に組み込まれていて、遠隔操作で彼らの生態を余すところなく捕らえることができる仕掛けだ。そのスパイカメラペンギンを仲間と認識しているペンギンたちの中には求愛行動をとってくるものまで出てくるから微笑ましい。さらにダミーペンギンから生み落とされた卵や側に置かれる岩のレプリカにまでカメラは仕込まれていてあらゆるアングルから群れの様子を克明に観察する。ちゃっかり4輪タイヤのヒナもいるのはご愛敬だ。こうして長期間にわたってくまなく記録されるペンギンたちの生態はとても興味深く、子孫を次代に繋いでいくための涙ぐましい数々の努力の物語は感動的だ。

またじっくりと集中して鑑賞出来るときに選ぶのがPLANET EARTHシリーズだ。『プラネットアース』(Planet Earth)はイギリスのBBCによる自然ドキュメンタリーシリーズで(日本のNHK、アメリカ合衆国のディスカバリーチャンネルとの共同制作番組でもある)、日本では仲間由紀恵さん、ココリコ田中直樹さん、動物写真家 岩合光昭さんなどさまざまな出演者らによる吹き替え版が衛星放送NHKスペシャルでも放映されている。シーズン1には11のエピソード、シーズン2には6つのエピソードが収録されている。

シーズン1

エピソード1「生きている地球」(英題:”From Pole to Pole”)

エピソード2「淡水に命あふれる」(英題:”Fresh Water”)

エピソード3「洞窟 未踏の地下世界」(英題:”Caves”)

エピソード4「乾きの大地を生きぬく」(英題:”Deserts”)

エピソード5「高山 天空の闘い」(英題:”Mountains”)

エピソード6「草原 命せめぎあう大地」(英題:”Great Plains”)

エピソード7「海 ひしめく生命」(英題:”Shallow Seas”)

エピソード8「極地 氷の世界」(英題:”Ice Worlds”)

エピソード9「ジャングル 緑の魔境」(英題:”Jungles”)

エピソード10「森林 命めぐる四季」(英題:”Seasonal Forests”)

エピソード11「青い砂漠 外洋と深海」(英題:”Ocean Deep”)

シーズン2

エピソード1「島 生命の小宇宙」(英題:”Islands”)

エピソード2「熱帯の森 ひしめく命」(英題:”Jungles”)

エピソード3「砂漠 不毛の大地」(英題:”Deserts”)

エピソード4「草原 緑のゆりかご」(英題:”Grasslands”)

エピソード5「高山 天空の闘い」(英題:”Mountains”)

エピソード6「都市 新天地への挑戦」(英題:”Cities”)

「誰も見たことのない地球の素顔」を制作コンセプトに、各エピソードではドローンによる天空の視線や超小型防震雲台を駆使した生き物の目線で、全編をHDカメラで収録した極上の映像で展開されている。各テーマにそって練り込まれた企画を選りすぐりのスタッフらが、気の遠くなるような時間と手間(そして予算も)をかけて制作したそれらの映像はどれも博物学的姿勢に貫かれていて、思わずこちらも姿勢を正して見入ってしまう。

これを観て即座に思い出すのは、ナショナル・ジオグラフィックだ。学術誌でありながら絵や写真を多用した雑誌として知られるこの科学誌は1888年に「National Geographic Magazine」として創刊された由緒ある雑誌だ。誌面に載るのは1万枚から選ばれたほんの1、2枚というきわめて厳格な掲載基準で、最高品質の記録写真を掲載してきたことでも知られている。世界36カ国語で発行されていて、今では180か国以上で850万人が定期購読している。発行元のナショナルジオグラフィック協会はワシントンD.C.に本部を置く非営利科学教育団体だが、2015年にメディア部門を21世紀フォックスに売却したので、現在の同誌の発行元は新会社であるナショナル・ジオグラフィック・パートナーズとなっている。ただ、ナショナル・ジオグラフィックにはこんな批判もある。「第三世界の人々は異国的なものとして描かれる。理想化され、1つの歴史観に沿った形にそぎ落とされ、性的特色を付与される。男権主義的修辞技法、異文化の接触を一方的観点で見ること、世界を階層化された構造として見ていながら客観性を主張していること。(Wikipedia)」などである。また、アメリカの既成の体制や企業の利権と密接に関連しているといった批判もある。しかし、1888年以来、8,000件を超える研究や調査プロジェクトを支援し、世界に関する知識の向上に貢献してきたことは間違いない。ナショナル・ジオグラフィックは動画配信もしているが、スケールとクオリティにおいては、矢張り『プラネットアース』には適わない。やはり牙城は動画でなく、基本的には静止画メディアという事なのだろう。

『プラネットアース』(Planet Earth)に話を戻そう。観るたびにどのエピソードも実に贅沢に作り上げられているとつくづく思う。8,000m級の高山をさらに上空から捉えた天空の視線。鳥になって山肌を滑空するような信じられないアングル。何時間も息を潜めて根気よく待ち続け、運良く撮影された劇的瞬間。長くても15秒ほどのそれら貴重な記録映像を丹念につなぎ合わせ、自然が垣間見せる感動的な瞬間を生き生きと見せてくれる『プラネットアース』。世界中で日々放映されるどんな映像よりも、時間、予算そして情熱をかけて、ぶ厚く積み重ねられたこの番組を観ていると、自分が体験したリアルな実感ではないけれど、多様で、豊潤で、美しくて過酷なこの世界の片隅に今こうして生きていることの幸せを噛みしめることができるのだ。

上から企画展フライヤー類。
下の2点は美術館全景とファサード風景。

2018.7.01

「1543年にポルトガル人が種子島を訪れてから、日本はヨーロッパ人からさまざまなことを学んだ。鉄砲、地球儀、メガネ、カボチャ、スイカ、トウモロコシやタバコなどの伝来である。しかし日本人はヨーロッパ人のことを『南蛮人』と呼んでいた。『南蛮人』とは南から来た野蛮人という意味である。

ヨーロッパも同様で、古代ギリシャではギリシャ語を話さない民族を『barbar』と呼んでいた。これは野蛮人という意味である。ローマ時代にはローマ人以外の民族はもとよりキリスト教徒ではない民族も『barbar』と呼んでいた。これは、どこでも同じで、自分の属する民族の考え方や文化が正当で優秀であり、他民族は野蛮で劣等であるという偏見を持った考え方である。植民地時代に起きた、先住民族への殺戮、虐待や搾取といった、人間性を無視した蛮行はこの考え方によるものである。

1904年にパリのトロカデロ民族誌博物館を訪れたピカソは、そこにあった、アフリカやオセアニアの美術を見て愕然とした。そこには、疑いもしなかったヨーロッパ的な美意識とはまったく異なった考え方の美術が存在していたからである。これをきっかけにピカソが新しい美術運動であるキュビズムを始めたことはよく知られている。

日本では、ヨーロッパや中国以外の歴史や文化を学ぶ機会がほとんどない。しかし、実際には、民族の数と同じだけ異なった考え方や文化が存在するのである。また、必ずしも、科学先進国や文明国の美術の方が勝っているという確証はないのである。

アフリカはもとより、アジア、オセアニア、インドネシア、フィリピン、ヒマラヤ、そして日本にも先住民族が住んでいて独特の考え方と文化を持っている。それらの美術は、ときには強く、恐ろしく、そして美しく私たちに語りかけてくる。『グローバル化』という言葉が叫ばれて久しいが、本当のグローバル化とはさまざまな民族の文化や美術を知ることではないだろうか。(AFRICAN ART MUSEUM図録『AMAZING SPIRITUAL ART』前書きより)」

人間は自分とは違うと認識すると排他的行動をとってしまうのに、同時にその差異に衝撃を受けたり、魅惑されたりもするアンビバレンス(両義的)な生き物だ。その揺れ幅は、相違が大きいほど顕著になってくるが、厳密に言えば自他の揺れ幅がまったく同じ人間なんて存在しないわけで、それぞれが微妙に異なる振幅をもって生きている。

ところで、ぼくには大きな揺れ幅を実感できる場所がある。甲斐駒ヶ岳の絶景が見渡せる山梨県北杜市長坂町の山中に立つ美術館「AFRICAN ART MUSEUM」だ。冒頭で、世界各地の先住民族の文化や美術について図録に書き記した、館長である伊藤満さんが長年収蔵してきたコレクションを公開しようと思い立たなければ、文化的対岸に暮らすぼくが、人類発祥の地ともいわれるアフリカ大陸に伝わる造形物と向き合うこともなかっただろう。

アフリカのマスクを中心に紹介された企画展の開催中、知人に誘われてAFRICAN ART MUSEUMを初めて訪れたときの驚きは忘れられない。ピカソも衝撃をうけたというその造形は、まったくぼくとは異なるルーツから生み出されていることだけははっきりと分かった。しかし不思議なことに、見たこともないはずなのに、それはどこか懐かしさを感じさせるスピリチュアルな創造物だった。また、日本髪や相撲の化粧回しを連想させる造作もあって、昔の日本人はこれらからインスピレーションを得たのではないかと思わせる(そんなことはもちろんあり得ないのだが)立像もあった。ただ、ぼくは願い事や夢が抽象化された実に印象的なそれらの造形が「barbar=野蛮人」によって作られたものとは思わなかったし、直感的にこれは美術品として受け止めるべきものではないとも感じた。

展示されていたマスク類の多くは儀礼のための道具としての造形物である。仮面に関してはすでに6,000年前には現在のものと変わらない造形が存在しているようで、その起源は想像以上に古い。また、マスクの制作に携わる家系は限られおり、形や技巧の伝承も、限られた家系内で限定的に伝えられてきたようである。1945年以降制作されていないこうした造形物を現在入手するためには、サザビーなどのオークションで落札するか(しかし、その落札額は驚くほど高額となっている)個人コレクターから譲り受けるしか方法はないのだという。

アフリカの造形物を大別すると、マスク、立像、道具、装身具、武具、楽器、それにテキスタイルで、その用途も儀礼用、芸能用、祈祷用、墓標や装身具と多岐にわたっている。印象的なのは、造形物がそれぞれ民族特有のスタイルを有し、またバラエティに富んでいて独自性も豊かであること、そして何よりものびやかさを感じさせることである。普段馴染んでいる世界とまったく異なる、こうしたさまざまな文明や美意識の存在を目の当たりにすると「古今東西、人間の作ってきた造形物は実に多彩で奥深く、世界は本当に豊かなんだ」と実感し、さまざまな異なる種類の花々で埋め尽くされる人類の多様性の大樹を思い浮かべてしまうのである。

それからというもの、美術館は12月から3月までは冬季休館となるが、新春から晩秋までときおり気が向くとぼくは長坂を目指し、異文化の定期鑑賞を楽しんでいる。あるとき、受付に座っていた館長の奧さんが、開館にまつわるこんな話をしてくれた。伊藤さんは友人を訪ねた帰り道に偶然、甲斐駒ヶ岳の絶景が見渡せるこの八ヶ岳南麓を通りかかり、ほとんど瞬間的にここに私設美術館を建てようと決心してしまった。この出来事は家族にとって、まさに青天の霹靂だったという。しかし、こうした衝動的行動は案外珍しくないのかもしれない。この八ヶ岳南麓にあるレストランやカフェの経営者らから、ぼくは似たような話を何度か聞いたことがあった。土地の持つ磁場によって瞬時に人生が定まってしまうということがあるのだろう。真っ新な状態で、これからの人生をここで過ごすと決める瞬間には「ここからはじめる」という清々しさがあるが、これはなにも現代人に限ったことではないのかもしれない。おなじ南麓に位置する富士見の井戸尻考古館を訪れて、この地に集落を構えた縄文の人々に想いを馳せたことがあったが、遠景に雄大な山々を望み、こんな日当たりの良いなだらかな丘陵地なら、縄文人ならずともきっと住みたくなるに違いないだろうなとその時思った。世界にはノマド(nomad=遊牧民)もいるが、大半は定住者である。生まれ育った土地、出会った伴侶と暮らす土地、仕事で定まることになった居住地と、定住する地もさまざまだが、誰しも「ここからはじめる」と決心する瞬間はあったはずだ。しかしその清々しさは、日常の流れに押し流され、気がつくと何となく成り行きでここで暮らしていたという思い込みに覆い隠されてしまっているのではないだろうか。

それから何度か通っているうちに、名古屋生まれの伊藤さんが実は以前ぼくと同業者であったことが判明した。美大を卒業後、資生堂のデザイン室に就職をした伊藤さんは、そこで定年までグラフィックデザイナーとして勤務していたことを知る。共通の知人デザイナーも数人いたので、展覧会を鑑賞した後に、ついデザインの話などで長居してしまうことも度々あった。しかしぼくの知る限り、デザイン活動と並行してこのようなコレクターとなり、美術館まで建ててしまったデザイナーは伊藤さんを除いて他に知らない。

「AFRICAN ART MUSEUM」の収蔵品はアフリカのマスク、立像、楽器、テキスタイル、道具、武具など1,800点と、アジア、オセアニア、インドネシア、フィリピン、台湾、ヒマラヤなどの美術品700点のおよそ2,500点。しかしそれ以外に、伊藤さんは多くを語らないのだが、実は長年刀剣鍔の収集もしているらしい。ただ、こちらは主に業者間との取り引きをメインとしているため公開されていないので詳細は謎のままである。また、伊藤さんにはこんな一面もある。お菓子の「花林糖(かりんとう)」に一家言を持っていて、本当の花林糖とは二度揚げされていなくてはならないと主張している。日本で一番美味しいと推奨する東京(詳細は忘れてしまった)の花林糖は残念ながら今ここには置いてないのだが、「今日は私が二番目に美味しいと認定している長野の花林糖があるのでどうぞ仕上がれ」とお茶を添えて振る舞っていただいたことがある。食後感想はというと、残念ながらぼくにはその二度揚げの微妙な味覚の違いを判別することはできなかったが、もちろんとても美味しい花林糖だった。それからというもの、花林糖を食べるたびにアフリカの仮面や立像を思い出す。異国の古の造形、土地の磁場に引き寄せられたコレクター、そして花林糖がぼくの中で分かち難い記憶の鎖の輪となっているからである。

上は野生展・展示風景:
ステファニー・クエール
『Old Boar and Orangutan』
(写真:淺川敏)
下3点は
銀座メゾンエルメスの
ウィンドーディスプレイ展示風景

2018.5.01

アートってなんだろう。今では、いわゆる「芸術」の略式表記として用いられているが、元来は単に「人工のもの」という意味の「技術」に含まれるひとつの概念だったようだ。英語のアート、フランス語のアール、ドイツ語のクンストなどと呼ばれた「芸術」は、近代以降「技術」から分化して、「良い技術」「美しい技術」として「アート」という呼称を引き継ぐことになった。我が国では、明治時代からリベラル・アーツの訳語の由来をもつ日本語の「芸術」は、正式表記では「藝術」となっていた。それが「芸」と略記されることになったのは第二次大戦後のことで、技芸・技能一般、特に文芸を表す「芸」の「術」ということになる。

人類は「芸術」がなくても生存はできるだろうが、人間らしく存在できるのか?と問われれば、はてなと考えこんでしまう。人類以外の動物は(おそらく)「芸術」など必要としていない。しかし、人間が動物との間に通路を拓こうとする時には、「芸術」は大切な1本の通路となる。ぼくは若い頃アートを志したことがあったが、いまだに疑問符ばかりで、「アートってなんだろう」と思い巡らせる日々が続いている。

「藝」と「芸」には微妙な落差がある。略記されて権威色は薄くなり、市民権を得たアートはより身近に感じられるようになった分、アートという表現がなんとなくペラっとしたフラットな印象を与えているような気がしてならない。「アートで過疎地を活性化」とか「アートで元気になる」などというスローガンを聞くと、「何だかなぁ」という気持ちになってしまう。地域芸術祭企画の第一人者といわれる北川フラムさんは、地域づくりと芸術をつなぐ取り組みを1990年代から続けている。「フラム」は本名でありノルウェー語で「前進」を意味するそうだが、なかなか「芸」の分野では出色の野心家である。少し脇道に逸れるが、デザイン分野でも似たようなタイプの人物がいる。ロングライフデザイン活動家のナガオカケンメイさんだ。彼は「日本デザインセンター」入社後、デザイナーの原研哉さんと共に「原デザイン研究所」設立に参加。その後独立し、2000年にD&DEPARTMENT PROJECT」を立ち上げて、現在は各地に直営店やパートナーショップを展開している。「D&DEPARTMENT」は、その土地の作り手と生活者を結びつけ、その土地「らしさ」について学び、対話する場を提供するショップと位置づけられている。

北川フラムさんやナガオカケンメイさんに共通しているのは、自身の能力を表現者からプロデューサーへとシフトすることで評価を獲得したことだろう。これも得難い能力であり決して否定するものではないが、意地悪い言い方になってしまうけど、どうしても他人のふんどしで相撲を取っている感が否めない。多くの作り手は物作りは得意だが、売り方はよく分からない。そんな不器用な葛藤や宿命を抱える作り手に代わって、ぼくらがアピールいたしましょうとプロデューサーは作品を評価し、ピックアップする。多くの人々に必要とされるものでマーケットは成り立っているのだが、物作りに伴う逡巡や痛み(それも含めて丸ごと芸である、という言い方もあるのだが)は不要なものとして切り捨てられ、プロデューサーに評価された作品だけが商品となっていく。作家もアピールしてもらえるんだからと、ちょっと卑屈になってはいないだろうか。でも、プロデュースするってそういうことでしょう?って言われたら、たしかにそうなんだけど…。

話をアートに戻そう。かつてのバブル前夜、西武百貨店やセゾングループを率いた堤清二さんは80年代文化の担い手として果敢にアートを事業に結びつける活動を展開していた。軽井沢のセゾン現代美術館は西武グループの創業者堤康次郎が収集した美術品に、セゾングループによって現代美術コレクションが加えられていることで知られている。昨年、数十年ぶりに訪れてみたが、80年代の活気との落差に驚いた。まさに「つわものどもが夢の跡」。それに「現代美術」が、かつての輝きをすっかり失ってしまっていることに言い知れぬ淋しさも感じてしまった。ジャスパージョーンズラウシェンバーグアンセルム・キーファーもたしかに其処に在るのだが、まるで20世紀美術の残像のように佇んでいた。30〜40年も昔の表現をいまだに「現代」と呼ぶのも無理がある。しかし「ちょっと前の現代美術」とか「かなり昔の現代美術」というわけにもいかないから、近年は「コンテンポラリー・アート」なんて言い方で括られることも多い。

そんなこんなで21世紀になってからは、アートに対する関心はすっかり薄くなり、ぼくは展覧会に足を運ぶ事もめっきり少なくなってしまった。昔のTV CMでこんなのがあった。虫にきびしく、人にやさしい水性キンチョールCMで、神社の境内に腰掛けた父親(大滝秀司)が商品を片手に「キンチョールはどうして水性にしたんだ?」とつぶやくと隣りに座る息子(岸部一徳)が「それは地球のことを考えて空気を汚さないように…」と喋り出すとそれを遮るように父親が「つまらん!お前の話はつまらん!」と返すCMだ。相応しい例えとは言えないかもしれないが、ぼくがアートに興味を失った気持ちもそれに近いかもしれない。表現ごっこしているように感じられたり、あるいは露骨に戦略的だったり、他人の幻想をこれでもかと見せつけられるのはもううんざり!そんな気持ちになっていた。とはいえ美術に興味を失ったわけではなかったから、現代美術以外の絵画や日本画は時折鑑賞していた。そんなある日、中沢新一さんから案内状が届く。彼がディレクターとなって企画した21_21 DESIGN SIGHT 企画展「野生展 (Wild:Untamed Mind):飼いならされない感覚と思考」だ。以下はディレクターズ・メッセージ。

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人間みんなが同じ世界に生き、同じような体験をして、夜見る夢も同じようになっていく現代に、まだ管理され尽くしていない、まだ飼いならされていない心の領域が、どこかに生き残っている。私たちはそれを「野生の領域」と呼ぶことにした。

この「野生の領域」に触れることができなければ、どんな分野でも新しい発見や創造は不可能だ。

どうやったら、私たちは心の中の「野生の領域」に触れることができるか、どうしたらそこへの通路を開くことができるか。生活と仕事の中でこの「野生の領域」への通路を開く鍵を発見することが、「野生展」のテーマである。 中沢新一

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そこでぼくは、会期末近い今年1月末、六本木ミッドタウンにある会場に足をはこんだ。会場の導入部には(ぼくらには)お馴染みの丸石が鎮座していて紹介パネルが掲示されていた。次のコーナーに進むと、人間の文化と生活の心の土台となる思想を残したと中沢さんが敬愛する、明治時代の日本が生んだ大博物学者、南方熊楠(みなかたくまぐす)の粘菌学、神話学や民俗学に関する足跡を辿る資料展示空間が広がっていて、これは濃密な素晴らしい企画展示だった。やがて参加作家らによる作品展示空間に移動する。参加作家は、青木美歌、井上嗣也、aircord、大森克己、エルンスト・ガンペール、ステファニー・クエール、黒田征太郎、しりあがり寿、鈴木康広、田島征三、立花文穂、遠山孝之、西村裕介、渡邊拓也の面々。美術家、写真家、イラストレーター、デザイナーとジャンルもさまざま。会場に入るとひとつの作品の前でぼくの足が止まり、視線は釘付けとなった。そこには、歳をとったイノシシとオランウータン(Old Boar and Orangutan)の荒々しいタッチで焼き上げられた塑像が2体。作家はステファニー・クエール(Stephanie Quayle)。藁束の横に置かれた切り株に座り込むオランウータンと猫足台座に置かれた古びたマットに座るイノシシの何という一体感。人間の意識が動物の体内に潜り込み、そこから再び生命力とともに吹き出し、凝結したような造形はチャーミングですらある。これこそ野生!

ステファニー・クエール(Stephanie Quayle)は1982年生まれの英国女性彫刻家。英国出身といっても生地はマン島である。マン島はグレートブリテン島とアイルランド島の間にあるアイリッシュ海に浮かぶ小さな島だ。両親はこの島の田園地帯で農場を経営しており、彼女は雄大な自然や多くの動物に囲まれて育ったことが自分の作風に大きな影響を与えているとインタビューで語っている。現在もこの農場にスタジオを構え、やはり彫刻家であるパートナーのダレンの協力を得て創作活動を続けているが、彼女の作り出す動物の彫刻作品は粘土を素材とした造形で、最終的には窯で焼き上げられるセラミックアート作品と位置付けられている。

ステファニーの制作はまずドローイングからはじまる。そして多くのドローイングを経て彫刻に至るまでのプロセスこんな風に語っている。

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描きながら動物たちのなかに深く入り込んで、彼らのことを理解しようとしています。ですので、観察すればするほど、ドローイングを繰り返せば繰り返すほど、実際に粘土で作品を作るときに、より素早く作品へ動物たちの生命感を取り込むことができるのです。

制作するとき、使用する粘土の性質に無理をさせずに生かせるよう、動物と粘土のバランスをよく考えます。もし違ったタイプの粘土を使う場合、見た目や雰囲気が変わってきますから、スムーズなものを選ぶか、目の粗いタイプにするかの決断はとても重要です。ドローイングのときも同じですが、出来る限り自由にのびやかに制作作業をしようと心がけています。作品が、創造時のエネルギーを灯し続けていてほしいので、手を加えすぎて動物の魂が抜け、単なる描写彫刻になってしまう前に、作業の手を止めるようにしています。(『ANIMAL by Stephanie Quayle』出版:aty inc. 発行所:LimArt より)

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数え切れないほどのドローイングやスケッチを重ね、その記憶がまだ瑞々しさを保っているうちに一気に塑像していく。指の痕跡を留めた荒削りなタッチはそのまま残し、決してディティール再現はしない。こうして造形化された動物の天性には生命力が湛えられ、繊細な心さえ宿しているかのようだ。ステファニーは粘土という素材に特別の思いを抱いているという。大地から得られる粘土は、瞬間的な判断を感覚的に受け入れてくれる。そのあと窯の炎で魔法のように堅く焼き締められる。以下の言葉から、この古代から残る工程に強い魅力を感じている彼女の想いが伝わってくる。

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大地からダイレクトに得られる粘土には、オブジェに動物としての何かを灯せるのかもしれません。人類誕生と同じくらい古くから、人間は粘土で物を作ってきました。大地から得た泥をそのままの存在として扱うという、とても根源的なこと…。私は今まで人間が行ってきたことをそのまま続けているだけなのです。(中略)粘土で作品を制作することは、もの作りの歴史全体に触れる神秘的な作業だと思います。制作する作品がどのようなものであれ、人類の長い歴史のなかで粘土で作品を作ってきた過去の人々が関わってくるのです。3万2千年が経った今でも、自分は当時の人々と全く同じことをしているーそう考えるたびに、私は嬉しくなります。

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世界各地で発表活動を展開しているステファニー・クエールの作品はファッションとも親和性が高いのか、コムデギャルソンの川久保玲がトータルプロデュースするドーバー ストリート マーケット ギンザには彼女の白い像が展示されていたし、2016年から2017年にかけては「銀座メゾンエルメス(HERMÈS)」のウィンドーにも彼女の作品群が展示された。都会のまっただ中に荒ぶる混沌を据え、完成を見る者の意識にゆだねようとした。銀座メゾンエルメスのサイトにある「URBAN JUNGLE」ページには、ステファニーのインタビュー動画がアップされているのでぜひご覧いただきたい。そこから流れてくる彼女の肉声コメントを聞いていたら、ぼくも嬉しくなってきた。人生を豊かにしてくれるアートの灯は消えてなかったのだ。

上から
RitaOra
Kyla La Grange
Anne Marie
Calum Scott
Ed Sheeran
Justin Bieber
古坂大魔王
Justin Bieberとピコ太郎

2018.3.02

ぼくはDJの草分け小林克也さんが大好きだ。克也さんが1975年に桑原茂一とプロジェクトを開始して、その翌年に伊武雅刀を加えたスネークマンショーには、ラジカルなコントに挿入される先鋭的な選曲センスを存分に楽しませてもらった。その克也さんも1941年生まれで今年76歳。2006年に胃がん、2012年には前立腺がんを患ったものの見事に復活し、今年「小林克也&ザ・ナンバーワン・バンド」名義で25年ぶりのオリジナルアルバムを発表するなどと気を吐く永遠のロック小僧ぶりは健在だ。その彼のライフワークともいえる洋楽番組「ベストヒットUSA」は1981年にスタートしている。中断もあったが2003年からはBS朝日で復活。欠かさず見るというほどでないが、ぼくはチャンネルサーフィンで放映中だとつい見入ってしまう。ロックの創成期からずっとリスナーとして並走してきたからこそ見えるポップスの神髄をシンプルなコメントで伝えてくれる克也さんは伝道師として、今とても貴重な存在だ。

しかしベストセラー書籍と同じで、万人受けするポップミュージックはめったに琴線に触れることがなかったので、ぼくはずっと和洋ポップスから遠ざかっていて、一癖も二癖もある音楽ばかり好んで聴いていた。海外のポップスを耳にする機会は少ないが、国内のヒット曲などは日頃テレビから流れてくるのでそれなりに触れてはいた。しかし、どれを聴いても同じテンポの一卵性双生児のような曲ばかりで見分けはつかないし、もちろん琴線に触れることもない。それでも英語のフレーズをサンドした早口歌詞に耳を澄ますと、思いのほか生真面目な内容だったりするので楽曲とのギャップに軽く驚いたりもするのだが、「ベストヒットUSA」を見ているそんなぼくに克也さんは「いやいや、中にはイカしたやつもあるんだぜ。こんなのはどうかな?」とヒット曲を毎週見繕って聴かせてくれる。

昔はラジオにかじりついて音楽番組に夢中になっていたが、今はミュージックビデオ。つまり楽曲をアピールするために制作された曲とイメージが統合されたいわば短編映画と一体で味わうのが一般的な音楽の楽しみ方となっている。業界的に表現すれば、音楽録音の販売促進を目的としたマーケティングデバイスということになるのだろう。それにともなって聴き方もラジオから流れる曲を受信して想像力を駆使しながら自己編集していた聴き方から、一方的に発信されるイメージを受け止める味わい方に変化している。ミュージックビデオの発祥はザ・ビートルズにまで遡るという説が一般的に浸透しているようだ。新曲がリリースされるたびにテレビ番組に呼ばれることにウンザリしていたビートルズは、演奏シーンとイメージ映像をドッキングさせた映像作品を発明した。それがミュージックビデオの起源であるという説だ。こうした現象は1980年代にアメリカに登場したMTVで急速に一般化していった。 (MTVとはMusic Televisionの略でニューヨークとロンドンに本部を置くアメリカの若者向けのケーブルテレビ・チャンネル)

はじめの頃はライブパフォーマンスを撮影したビデオが主流だったが、次第にアニメーションを含む幅広い撮影技術を駆使したさまざまなアプローチが試みられるようになってきた。そしてミュージックビデオは1983年にリリースされたマイケル・ジャクソンの「スリラー」で一気に市民権を得ることになる。「スリラー」は、いうまでもなく有名なおよそ14分にもおよぶホラー映画風のショートフィルム。特殊メイクの狼男やゾンビが繰り広げる演技やダンスが楽曲と渾然一体となった作品は当時のミュージック界に衝撃を与えた。ちなみにこの作品はショートフィルム史上初のアメリカ議会図書館永久保存フィルムとなっているのだそうだ。当初は映画監督が手掛けることが多かったが、やがてミュージック・ビデオ専門の監督が誕生する。逆にそこから映画監督に転身した人物も多いという現象まで生まれていて、ポップミュージックは聴覚と視覚を一体化した表現として日々世界中で生み出されている。

昨年末だったか、いつものようにぼくが「ベストヒットUSA」を観ていたら、2017年の総括番組としてビルボード (Billboard) シングル年間ヒットチャートが紹介されていた。アメリカで最も有名な音楽チャートであるBillboard Hot 100からベスト20曲が流れてきて、「なるほど、これが今の洋楽シーンのサウンドなのか」と聴いていたら何だか興味がわいてきた。実はこれには伏線があって、ぼくはカナダのポップミュージシャン、ジャスティン・ビーバー(Justin Drew Bieber)のアルバムや曲を何十曲もダウンロードして愛聴していたのだ。これもきっかけは「ベストヒットUSA」である日流れていた「What Do You Mean?」。ビーバーは才気溢れる青年だが、驚いたのは彼の世界観を腕利きプロデューサーや名うてのプロたちが綿密なチームワークによって協働作業しながら実現していたことだ。新世紀のポップミュージックは個人からチームにバトンタッチされたかのようで、それからというものぼくはビーバーの曲を集めては楽しんでいた。イマだなぁと感じたのは、徹底してデジタル編集されたクリアでシャープなサウンド。80年代ロックが地上波時代のモゴモゴとしたサウンドとすれば、ビーバーサウンドは4Kや8Kといったエッジの効いた高解像度音。そして音源の位置まで感じさせる、いわばハイレゾ的な広がりと余韻までも再現されている。さらに表現力を支えるテクニックも格段に進化している。彼に限らず世界的な現象としてテクニックはすごく底上げされていてみんな当たり前に上手なので、懐メロがやけに素人くさく感じられてしまう。もちろん昭和の味わいも否定はしないが、やはり時代は確かに流れているんだと実感する。もちろん、音楽を成立させる原形は魂のバイブレーションであることに変わりないし、技術やテクニックが魂にバイブレーションを起こすわけでもない。ただ、受信機の基準値が変化しているのは事実なので、それを念頭に表現と向き合わなくてはならない。これはなにも音楽に限ったことでなく、多くのジャンルの共通現象でもあるんだと思う。

そこでぼくはYouTubeで2017年のBillboard Hot 100を全曲チェックして、そこから30曲ほど気に入った曲を選び、暇さえあればiTunes Storeで楽曲購入しては、就寝前や車中や散歩中のBGMなど様々なシーンでじっくりと聴いている。すると少しずつ気づくことも出てきたのだが、例えばイントロが一様に短い。この謎はすぐ解けた。楽曲はiTunes Storeなどからネットで1曲買いするのが主流となってきているので、購入するかどうかは30秒ほど可能な試聴で判断される。つまり、昔のような長〜いイントロはすぐスルーされてしまうのだ。必然的に、瞬時に心を掴む楽曲組み立ての工夫が求められてくるわけだ。ちょっと世知辛い傾向ではあるが、これも時代の要請なのだろう。また、音が隅々までデジタル化されているから、音像がくっきりと粒だって感じられるので刺激的。触覚的ですらある。ぼくが夢中になって聴いていた頃の音楽、たとえばロックバンドの典型的編成といえば、ボーカルの両サイドにリードギターとリズムギターが控え、バックでベースとドラムスが支える編成。そこに時にはキーボードなどが脇から情感を醸し出す。こんな感じだったが、現代の楽曲構造はほぼデジタル音で組み上げられていて、ボーカルでさえ一つの楽器と位置付けられている印象がある。歌い演奏するミュージシャンが主役だった時代から、制作環境も大きく変わった今、その座は楽曲を組み立てるプロデューサーにバトンタッチされたかのようだ。必然的に音楽を創る人々の意識やそれに伴うスタンスも微妙に変化してくる。たとえば音楽と向き合う自身を冷静に俯瞰する視点、そして楽曲がどのように時代と関係性を結んでいくのか戦略的に構想する視点などが求められている新世紀のポップミュージックは実にクールだ。もちろんこれはぼくの私感に過ぎないのだが…。

その良い例が「PPAP」。2016年にYouTubeに投稿された「PPAP (Pen-Pineapple-Apple-Pen) =ペンパイナッポーアッポーペン」で一躍注目を浴びたピコ太郎こと古坂大魔王(本名・古坂和仁)は所謂ポッと出芸人ではなく、お笑いタレントやDJと並行して、テクノを取り入れた音楽コントなどを模索してきたミュージシャンの経歴を持つ人物だった。彼がテレビで「PPAP」誕生にまつわる話をしていて、これはなかなか興味深かった。わずか45秒の「PPAP」はギネス世界記録「全米ビルボードトップ100に入った世界最短曲」として認定されたとして話題になったが、この45秒間に古坂のさまざまな試行錯誤の成果が詰め込まれていたことがこの番組で明らかにされていた。例えばリズムを彼は100パターン以上用意して、どのスピードが楽曲コンセプトにもっとも相応しいか検討したそうだ。早すぎても意味が定着する前に流されてしまうし、逆に遅すぎると間延びして独特のユーモアが伝わらないと、間合いや強弱にも計算を尽くしている。また、制作予算がわずか10万ということもあって最小限のシンプルな設定にしたことが功を奏し、その真っ白いバックが子どもでも簡単に真似出来るダンスを際立たせているし、エンディングのヘロヘロ音も「偉そうな荘厳なサウンド」から「未知との遭遇風のサウンド」やら幾つものバリエーションから選び出されている。新旧の電子楽器を駆使して綿密に組み立てた戦略的かつ計算し尽くした制作方法は、現代の音楽界を席巻しているポップミュージックの制作方法に極めて近い。古坂はジャスティン・ビーバーを頭の隅にどこか意識しながら作ったと告白していたが、結果は彼の目論み通りとなった。「PPAP」が世界的に一気に拡散されることになったのは、この動画を見たジャスティン・ビーバーがツイッター上に紹介した「インターネット上の私のお気に入り動画」だったことは有名な話となっている。古坂大魔王は青森県青森市出身の44歳。2015年から青森市観光大使を務めている。かたや、その古坂がプロデュースするシンガーソングライターのピコ太郎は千葉県出身の54歳。78歳の新婚妻がいるとディティールもかなりきめ細かい。同一人物、一人二役なのにあくまでも二人は別人格という設定となっている。こうした物語を遠景として戦略的結晶の45秒の楽曲が据えられている。

ところで、Billboard Hot 100にランキングされている曲にラップ系の音楽が多かったのは意外だった。アメリカの若者がこれほどラップ好きだったとは!ラップはどちらかと言うとぼくの苦手なジャンルなので、魚の骨を選り分けるように避けてピックアップしたサウンドは、ロック・ブルース・ソウル・ラテン・カントリー・レゲエ・トランス・アフロ・アラブ・エレクトロニカ・ケルティック・サルサ・テクノ・ファンク・ヒップポップ・フォーク・ヘビメタ・マンボ・R&B・アンビエント等々、あらゆるジャンルの多様な地域性がフレキシブルにブレンドされていて、ここにあるのは分断された現実とはまるで別世界。人々の無意識に潜む願望が選びとった希求がポップミュージックの間から透けて見える。食わず嫌いだった最近のポップも向き合ってみると、なかなかどうして面白い。音楽に身をゆだねる快感に新旧はないのだから、もちろん昔の懐かしさも捨てがたいが、たまには新しい風に吹かれてみるのも気持ちいい。

※紹介写真ミュージシャンの各楽曲試聴は↓こちらから。

Rita Ora – Anywhere (Official Video)

Kyla La Grange – Cut Your Teeth

Anne-Marie – Ciao Adios [Official Video]

Calum Scott – You Are The Reason (Official)

Ed Sheeran – Perfect (Official Music Video)

Justin Bieber-What Do You Mean?

PIKOTARO(ピコ太郎- PPAP(Pen-Pineapple-Apple-Pen Official)ペンパイナッポーアッポーペン

PPAP (Pen Pineapple Apple Pen) (Long Version) [Official Video]

bosco
2018 new years card

2018.1.01

ぼくがデザインを始めたのは1974年。しかし実は71年から洋服店のショウウインドウ・ディスプレイなどデザインの真似事らしきことをしていた3年間があった。甲府駅前のビルの階段下にある極小空間を借り受け、リフォームを親戚の大工さんに頼んで赤・青・黄三原色の怪しげなオフィスを立ち上げた。そこでデザインオフィス(のようなもの)と手作りアンティークショップ(のようなもの)を並行させながら、まったく地に足はついてなかったが、今思い返せばかなり慌ただしい日々を送っていた。オフィスにはいろんな人が出入りを繰り返し、その頃がぼくの人生でもっとも喧噪に満ちた時期だったと思う。ただ2人分の机も並べられないほど狭い2坪ほどの空間では、次第にデザイン作業もままならなくなってきたので、ひとまず実家に戻り、応接間を占領して仕事場としたのが74年のことだった。事務所の電話番号下4桁を年号と同じ1974としたから創業年はよく覚えている。(ちなみに局番は51だから51-1974。「こい いくなよ で、仕事よ来い!出て行くなよ!」という語呂合わせ!)移転を考えていたときは、せっかく起業するのだからもっと見栄えのよい、どこか別の広い事務所を借りようかとも考えていたが、のちにメインクライアントとなる地元では知らない人はいないと言われるほど大成長した企業の社長が「無名の者に世間の人は1円だって恵んではくれない。余計な経費はかけないでもっと力がつくまでは自宅で充分」とアドバイスされ、実家の間借り起業を選択したのが20代半ばにさしかかる頃だった。

不遜もはなはだしいと叱られるかもしれないが、ぼくはどうしてもなりたいとデザイナーを目指したわけではないし、デザイナーという職業に憧れたこともなかった。そればかりか、やってることはデザイン以外の何ものでないのに、いまだに「気がついたらデザインをやっていた」とか「一応、デザイナーをしています」なんて言っている。

思い返せば、当時のぼくは間違いなくニート予備軍で、学歴はないし、教職免許も持っていない。それに会社勤めで人間関係を上手く築くなんてことはとても無理だと思っていた。実家に身を寄せるスネかじりの身のぼくに、実はデザイン以外にできることなど何もなかったのだ。そんな状況にもかかわらず、高校を出てからの2年間かなり濃密な美術修練の期間を経ていたので、ぼくは将来にさほど不安を抱くこともなく、根拠のない自信にあふれた生意気な若者だった。そして、「どんな人生になるのか分からないけど、好きなことをして暮らしたい」という人間として至極まっとうな、しかしとても困難を伴うに違いない漠然とした願いを抱いていたのだが、それは今ほど過酷な社会状況でなかった当時だからこそ許された楽天的希望だったと言えるだろう。ともあれ、ぼくのデザインの第一歩はこうして踏み出された。

ぼくが生業としたデザインはグラフィックデザインという分野で、主に印刷物を対象とするものだった。起業してから約20年後のパーソナルコンピューターの登場によって制作環境が一気にデジタル化されていくのだが、それまでのアナログ時代も印刷物が完成するまでの基本的制作プロセスはさほど変わらない。覚えなくてはならないことは山ほどあった。前述したようにぼくはデザインの専門教育を受けてないので、まったくの自己流で習得していくしかなかった。必然的に仕事が授業となり、現場が学校、各工程の職人さんらがぼくの教師となった。

当時はまだ写植という職種があって、ぼくらデザイナーは文字組を担ってくれる写植屋さんに依頼して印画紙に指定した文字を現像プリントしてもらい、それを版下という台紙に貼り付けてデザインを組み上げていく。写真はアタリと呼ばれるスケッチで指定しておく。こうして完成した版下の上に半透明のトレーシングペーパーを被せて色指定という作業に移行する。これはその名の通り色を指定していく作業。単色なら調色してインクを練り込んで作る特色という色選びをする。カラーの場合はCMYKという4原色を網点で掛け合わせて再現するので、仕上がりを想定して各色を%で指定していく。版下はモノクロだが、指定しているデザイナーの頭の中では視覚的にシミュレーションされたカラーが再現されているわけだから、今考えると相当高度なことをしていたことになる。それから次の工程で版下は製版屋さんに渡されて、そこで指定された情報に基づいてカラーごとに分色されたフィルムを作り、それをインクをのせる版に焼き付ける刷版という行程に移っていく。印刷屋さんこれら焼き付けられた版を印刷機に巻いて本刷りをする。最後に、刷り上がった印刷物は製本屋さんに渡されて、折ったり綴じたりの製本加工を経て印刷物は幾多の行程を経て完成する。このようにアナログ時代の印刷プロセスは、デザイナー、写植屋、製版屋、印刷屋、製本屋などが分業しながら一連の流れ作業で成り立っていた。したがって流れの源流に位置するデザイナーも1ユニットとしてそれなりの知識が必要とされていたから、ぼくは現場で場数を踏みながらそれらを習得していった。

ところが、90年代半ばに始まったデジタル化でこのプロセスが一気に統合されていくことになる。コンピュータで卓上出版するという意味のDTP(Desktop publishing)の到来は印刷業界に大きな変化をもたらすことになった。デザイナーは烏口を研いだりロットリングで細い線を引いて版下製作したり、ポスターカラーで彩色する必要もなくなった。また、写真植字はデジタルフォントに置き換わり、写植のプロセスも不要となった。さらに製版の一部はデザイナーがパソコンのアプリケーション上で分色指示することで統合され、また製版もフィルムが不要となって直接刷版するダイレクト刷版システムにより、一部が印刷に統合される現象も起きていった。計算上は、プロセスがシンプルになることによって制作時間と費用が縮小されることになるが、実質的には、デザイナーと印刷所の倍増した作業量は従来の料金に吸収され、写植と製版は消えていく業種となってしまった。また、デジタル変革はデザインのフォーマット化も生みだし、そこそこのデザインならわざわざ専門職に依頼しなくても、それなりの印刷物を仕上げることが可能となった。こうして世紀をまたぎ、大きく変わった印刷を取り巻く環境の中で、デザイナーは生き延びていく術を新たに模索しなければならなくなってきた。

ぼくは割合早い時期から製造メーカーのクライアントとの出会いがあったので、印刷物と並行してさまざまなパッケージのデザインもしていた。パッケージデザイナーはペーパーの印刷物ほど受注機会がないので地方都市では数えるほどしかいなかったと思う。パッケージは紙以外に各種フィルムや缶などの金属など広範囲な素材で再現するため、デザイン手法や工程、そして制約条件も複雑になり、覚えなくてはならないことが山積みされてくる。加えてデザイン業務はCIブームもあって、具体的な成果物を伴わない企業のシンボルマークやLogotype、略称CIのコーポレート・アイデンティティ(Corporate Identity)やCIを構成する要素で企業が伝えたいイメージを効果的に表現する作業の略称VIのビジュアル・アイデンティティ(Visual Idntity)とデザイン範囲はますます広がっていったので、アンテナはより高く、また広範囲に張り巡らさねばならない状況になってきた。

起業する25年ほど前にぼくが描いた計画図は、まず5年くらいは技術習得の期間に充て、主に印刷会社からデザイン作業を下請け受注して研鑽を積むというものだった。次の5年は収入の柱を一定額確保しながら、少しづつクライアントを開拓して印刷会社からの受注比率を抑えて、逆に発注比率を高めていく。目標通り、起業から10年ほどで受注と発注の割合は半々となり、やがて業務がほぼ発注で占められるようになるまで約15年ほど費やした。もちろんそのためには直接デザインを受注しなくてはならない。広告代理店を経由した受注もあったが、直接でないぶん情報が歪んでしまい随分回り道を余儀なくされたり、辛い思いもさせられたので極力直接クライアントから受注することを心がけてきた。相手の顔が見えるから言い訳が許されず、結果を問われるシビアな仕事になるけれどその分やり甲斐もある。ぼくの性分にはこの方が合っていた。

もちろん、山もあれば谷もあった。やせ我慢していた時期に「好きなことをして暮らしたい」という希望が度々くじけそうになったこともあったが、それでも何とかしのぐことが出来たのは、「自分にはこれしか出来ない」と「嫌なことはしたくない(=嫌な人とは付き合いたくない)」という退路を断ったシンプルな覚悟だった。来月はどうなってしまうんだろうと頭を抱えるときには、「くよくよしても仕方ない。ケセラセラ、なるようになるさ」と朗らかな歌声が心の中から響いてくる。すると、なにか大きな存在が天上で計らっているように決まって空いた穴を埋める出会いがあった。

長年デザインをしてきて、ひとつだけ分かったことがある。希望が実現される。それは人との出会いに尽きるということだ。幹から枝が伸び、葉を広げるときには必ず節目となる新しい出会いがあり、そこから新たなネットワークが構築されていく。それを用意するのは運なのだろうが、運を呼び寄せるのはやはり自分自身。楽になると分かっていても、あえて我慢して嫌な人とは付き合わないぞと思い定めると、不思議なことに好い人たちに囲まれるようになってくる。何をもって好い人というのかは人それぞれだろうが、ぼくの場合はまずウマが合うこと、そして仕事相手は狡くなく潔い人であることに尽きる。「朱に交われば赤くなる」と「類は友を呼ぶ」は手を携えて、枝は節目を重ねながら空に向かって延びていく。こうして歳を重ねるごとに起業時に描いた計画図に近づくことができたのは幸せなことだったとつくづく思う。

デザインは一人で完結するものではない。依頼があって初めてスタートラインにつくことができる。そこが芸術などの表現行為ともっとも異なるところ。だから、依頼が持ち込まれるまでは頭の中を白紙にしておかなくてはならない。いつ何時どのような依頼が舞い込んできても、頭の中の真っ新な紙にスケッチが始められるよう、自然体をキープしておかなくてはならない。もちろん信念はデザイナーを支える大事な要素だが、それは自己主張したり自己表現するということでは決してない。むしろ可能な限り自我は消して臨みたい。ある要望を持って依頼してくるクライアントと、その要望を伝えたい対象者が居る。デザイナーはこの両者のどちらにも偏ることなく、厳密な意味の中間点で依頼された要望の具現化に知恵を巡らす。往々にしてクライアントの要望は絞られておらず、混沌と散らかって収拾がつかない状態で持ち込まれることが多い。こんな感じのものが欲しいと具体的な要望を示されることもあるが、話を聞き込むと本来の要望点はその奥に潜んでいて、それではまったく解決できないケースも少なくない。依頼者の要望をできる限り叶えて提案することは当たり前だが、それだけで関係が持続するわけではない。ときには良い意味での掟破りも必要になってくる。小さなサプライズを提案に仕込んでおくことで関係の鮮度が保たれる。こんなこともさまざまな経験から学んできたことだ。

デザインはとても感覚的な仕事だと多くの人はイメージしているようだが、実は感覚が求められるのは全体の10%にも満たないのではないだろうか。大半の作業は散らかった課題点の整理整頓に費やされる。さらに市場調査やマーケティング情報も参考にしながら、関連資料の収集や仕込みが欠かせないとても地味な作業の積み重ねによって成り立っている。ぼくは大切なことは「直感」と「緻密な作業」のバランスなのだと思っている。例えば、ヒアリング段階でぼんやりとデザインの着地点が見えてくることがある。これしかないのではないかというくらい明快な着地点が見えてくることもある。こうした直感は往々にして鮮度も高く、外れることはあまりない。直感は日々蓄積される膨大な意識下の記憶量によってもたらされるものだと思うのだが、実はここからが本当は大事。着地点を具現化するための緻密な作業が求められてくるからだ。安易にゴールを急ぐとスカスカな着地点となってしまう。そこに至るまでの法則はないから、こればかりは各々のやり方で編み出していくしかない。

デザインは社会性を伴った視覚伝達行為であり、対象者の意識を喚起させる力を内在させておくことが求められる。多くの場合対象者は幅広い生活者となるため、時代意識として投影されるさまざまな暮らしの事象には広く(そして出来れば深く)アンテナをはっておかなければならない。例えばパッケージデザイナーにとって、スーパーマーケットが図書館となるように、普通の生活感に目をこらす。普通というキーワードは最大公約数の別称だが、時にはその普通を潔く切り捨てる勇気も持たなくてはならない。いかようにもシフトできる自在さを体得しながら、デザイナーは変化し続ける市場動向の奥にうごめく時代感覚に目をこらし、大胆に着地点を直感する事が求められる。それはいわば発信者と受信者との間に交信現象をもたらす現代のシャーマン(祈祷師)のような存在なのかもしれない。それが「好きなことをして暮らしたい」と漠然と願った若者がそれなりの紆余曲折を経て辿り着いた心境だ。そして、現代のシャーマンを目指し、真っさらな白い紙とできる限り長く向き合っていたいと新たな年のはじまりに、また漠然とそんなことを願っている自分がいる。