上から
甲斐駒ヶ岳神社
高尾穂見神社
檜峯神社
木戸口神社
榛名神社
湯の奥山神社
(すべて2点づつ)

2017.11.01

昔から特別帰巣本能が強いのか、ぼくは家から遠く離れるほどに落ち着かなくなり、次第に引き籠もりがちな性分が形成されてきたようだ。仕方なく出かけた旅先では、枕の違いが気になって寝付けなかったり、すぐに体調が狂ってしまい一刻も早く家に帰りたくなってしまう。だから仕事がらみの遠出では余程のことでないかぎり、極力日帰りするようにしてきた。こんな放浪癖と対極にあるような性分なので、海外旅行などはぼくにとっては限りなくハード ルの高いものとなる。本来、旅行は退屈極まりない日常から抜け出せる楽しみとなるはずなのに、そうならないのはつくづく損な性分と言われそうだが、ぼくはこれっぽっちも損などとは思わずに、自分を限定づけるこんな性格と折り合いをつけながらこれまで生きてきた。

それが50歳も過ぎる頃から男の更年期症状というのだろうか、体調の変化が徐々に現れ、思い返せば還暦を迎えるまでの10年間はとても不安定な時期だった。病名がつくほど決定的に不調なわけではないが、まるでモグラたたきのようにいつも身体は不調の移動を繰り返していた。運勢によれば、60を越せば次第に安定期に移行していくとある。たしかに還暦過ぎるとそこが竹のひと節だったかのようにそれまでの自分から脱皮して、新たな自分に生まれ変わったような気がしてきた。時を同じくしてその頃から仕事の都合で定期的な出張に出ることになり、ほとんど日帰りなのだが群馬、埼玉、この両県に向かう機会が増えてきた。ただこの地域、電車だと乗り換えを含むとかなり時間がかかってしまう。そこで往復でおよそ300km強の距離を自動車で移動することにした。中央道から圏央道、そして関越道に乗り継ぐルートをここ数年で通算300回近く往復してきたのではないだろうか。車は基本的に自分のペースで移動できるので、わがままなぼくには向いている移動手段と言えるし、元々運転が嫌いではないのでさほど疲れも残らない。それやこれやが契機となったのか、その後ぼくの帰巣本能にも少しずつ変化が現れ、小旅行ならさほど苦にならなくなってきた。現金なもので、人生の折り返しをとうに過ぎたのだから、これまで自身が封印してきた旅行をここらで少しづつ解いてみようという意欲が湧いてきた。

そこでぼくは毎月2~3泊の小旅行をすることにした。もちろん仕事の都合もあるからそう長くは休めない。本当なら一週間から10日ほどの休暇をとって遠出もしたいところだが、そうもいかない。ならばせめて毎月は出ることにしようと、ここ数年は判で押したように毎月出かけ、その旅先は相当な数になるが、指を舌で湿らせて風の吹くまま気の向くまま、寅さんのような気軽な一人旅を心掛けている。旅先は車で移動可能なエリアなので、暑い時期は比較的涼しい小布施や軽井沢や小諸辺りまで。寒い時期は温暖な静岡の熱海とか箱根、御殿場を目指すことが多い。時には群馬の奥の伊香保や沼田市辺りまで足を延ばすこともある。厳冬期はやはり雪道は避けたいので、どうしても県内をウロウロすることが多い。はじめの頃、勝手が分からず旅慣れないぼくは、有名な観光地をピックアップして見学したりしていたのだが、どこに行っても予定調和というかワクワク感に乏しく、さして代わり映えしない光景ばかりなのですぐに飽きてしまった。それに(自分のことは棚に上げて言うのだが)時間と余裕もあるリタイアした年配者たちを必ず大勢見かけるので、せっかくの旅行なのに何とも心が弾まない。

気がつくとぼくの関心は次第に自然に向けられるようになってきた。かといって別に山歩きやトレッキングに夢中になったわけではない。たまにはその真似事をして汗をかいたりもするけれど、むしろ、こんなところにこんな風景があったのかと発見することに楽しみを覚えるようになってきた。不思議な自然の造型美は、またとない旅のご馳走となる。いままで家から離れて知らない土地を眺めてみたいなどと考えたこともなかったぼくは、遅まきながら出かけるようになって、暮らしてきた土地のことはもちろん、日本各地のことなど何も知らなかったなぁ、と痛感させられた。あちこち移動して見たからってそれが何なのだ、それで想像力や空想力が膨らむのか?と問いかけるもうひとりの自分もいるが、やはり移動できる喜び、予期せぬ出会いの喜び、五感で体感できる喜びには抗いがたいものがある。

その最たるものが各地に点在する神社である。当初、騒々しい観光地から逃げ出すように向かったのが神社だったが、そのうち事前に探した神社を目指すことが増えてきた。中でも長野の諏訪湖周辺4か所にある諏訪大社は全国に約25,000社もある諏訪神社の総本社だけあって堂々と風格ある佇まいだが、他にもなかなか味わい深い神社が数多く点在している。

まずはお膝元から。山梨県北杜市白州白須の甲斐駒ヶ岳神社はここが甲斐駒ケ岳登山の起点となるため、多くのハイカーが集う場所でもある。ほとんどの神社は杉の大木茂る清浄閑静な森に鎮座しているが、この神域の森もなかなかのもの。本社は今からさかのぼること約280年前に駒ヶ岳講信者によって建立され、その駒ヶ岳講は地元はもとより京浜、阪神地区にまでも広がる多くの講社によって結成されたのだそうだ。活動が最も盛んだったのは江戸時代末期。それから現在にいたるまで、随所に建立されている数多の石碑などからは往時の篤い信仰の跡がうかがわれる。甲斐駒ヶ岳山頂の奥宮に対して、ここは前宮(里宮)と位置付けられていて、境内を抜けると尾白川にかかる吊り橋があり、黒戸尾根登山道へと続いている。ちなみに尾白川は、建御雷神から生まれた天津速駒と言う白馬が住んでいたことに由来し、この白馬の尾から名付けられたとされているが、夏期に訪れた際には吊り橋付近の渓流沿いは涼を求める多くの家族連れで賑わっていた。

日本では甲斐駒ヶ岳のように山岳信仰の対象となる山が摩利支天と呼ばれている場合があるそうで、道理でこの神社にも摩利支天の文字が各所に点在している。摩利支天の原語は太陽や月の光を意味し、陽炎を神格化したものだそうだ。また、甲斐駒ヶ岳神社の主祭神は「だいこくさま」とよばれている大己貴神(おおなむちのかみ・大国主神)。こうした背景もあってか境内の霊神碑、石碑、石像は、どれも活力がみなぎっていてバラエティーに富み、時にユーモラスでさえある。神社から受ける全体感からは信仰と向き合う真摯さや、白衣を着て鈴振りながら登拝する先達や行者、講員たちのエネルギーが伝わってくるのだが、その本社の一角にひっそりと糸のように細く落ちる滝がある。神域とされている空間なのだそうだ。これは勝手な想像だが、この神域は本社が建立される際の基点となっていたのではないだろうか。うまく伝えられないが、この水の神域にはそう思わせる人知を超えた自然のもたらす地のエネルギーの波動が満ちていた。

他にも山梨には思い出深い神社がたくさんある。永正16年(1519年)に本殿が武田信虎によって造営された、山梨市に在る大井俣窪八幡神社(通称、窪八幡神社)。そして南アルプス市高尾にあるのは高尾穂見(ほみ)神社。来歴は古く、平安時代の書物「延喜式神名帳」に穂見神社として名前を残し、集落の北から林道を進む標高850mの櫛形山中腹に鎮座している。この地に稲作が伝えられた弥生時代に建立されたと覚しき穂見を名乗る神社が櫛形山地を囲む一帯には何社も点在しているが、この立派な拝殿やひときわ目を惹く神楽殿は山中の神社の中で群を抜いている。商売繁盛や養蚕の神社として県内外に広く知られ、甲斐駒ヶ岳神社同様、東京や長野など遠方にも高尾講が存在している。2016年の2月、山梨の大学で開催された講演会を終えた中沢新一さんと初めて訪れてから、その後何度か足を運んでいるが、神社に残る寄進帳を見ると諏訪の人物がたいへん多く、昔から諏訪とこの櫛形とは深い交流が結ばれていたことがうかがわれる。現在も上今諏訪など諏訪を含む地名が多く残り、諏訪の御柱祭に較べればいささか小規模ではあるが、同じ7年サイクルで櫛形でも御柱祭が執り行われている。

ところで今年7月に放映されたNHKスペシャル 「 列島誕生 ジオ・ジャパン 奇跡の島は山国となった」はとても印象的な内容だった。日本列島の成り立ちを描くドキュメンタリー番組で、島国にして山国という奇跡の大地はどんなドラマを経て今の姿となったのかという3000万年に及ぶ奇跡の島の誕生物語だ。ユーラシア大陸の極東で引き裂かれる地殻変動が発生し、大陸に低地が出来始めた。そして1500万年前には日本海となる大きな窪みが形成されたが、この時点では日本列島の原型はまだ関東を境に南北に分離された状態だった。この二つを接続したのは、太平洋プレートに南から進入してきたフィリピンプレートによって引きおこされた海底火山の爆発によるもので、何と奇跡的に一直線上に連続的に発生したことによって偶然もたらされたものだという。こうして分離された大地の間にまず進入してきたのが櫛形山系、次に御坂山系、そして丹沢山系と次々と玉突き状態で進入して、一つの日本列島の原形が形成された。つまり、櫛形はこのような雄大な地質の歴史を背負った地域だったのだ。

では、隣りに位置する御坂山系にはどんな神社があるのだろうか。ぼくのお気に入りは「ブッポウソウ」と啼くコノハズクが確認された地として有名な檜峯(ひみね)神社だ。御坂町上黒駒から神座山林道という林道へと入り、「檜峯」の由来となったヒノキ林に囲まれた山道をおよそ4kmほど進むと檜峯神社へとたどり着く。標高約1100mの社殿奥には御神木である推定樹齢300年以上の御神木の大杉が立ち、その雄大な姿は生命力を湛えて神々しい。御坂山系の鬱蒼とした巨木林の深い静寂に包み込まれた神社の社殿一帯には、さながら神々の庭といった趣きがある。

長野にも多くの神社が点在しているが思わぬ所にひっそりを存在する神社があったりして、この地の懐の深さを実感させられる。初夏のある日、蓼科からの帰り道で茅野市を移動中に道路脇に立つ欅だろうか、大木が目に入り呼び止められた気がして車を停め、その先に目をやると潺(せせらぎ)を跨ぎ、林へと誘うように続く狭い石段の先に石鳥居が見える。さっそく石段を下るように歩を進め、さらにその奥にある「天照大神宮」と記された質素な木製鳥居をくぐるとやっと神社が見えてきた。茅野市芹沢地区にあるこの神社は諏訪大社の小宮の一社である木戸口神社とよばれている。小さな祠を中心にして境内の四隅には御柱が立っていたが、印象的だったのは石の小祠に丸石が納まっていたことだった。男女像を彫り込んだ双体道祖神の多い長野で丸石を発見することはあまりないから、これにはちょっと驚いた。この神祠境内には数本の小川が流れているので、水の神社といった趣きもある。一番大きな裏側の小川は乙女滝に繋がっているのだそうだ。大木に誘われるように偶然こんな神社に出会うと、なんだか得したような気持ちになる。これも旅の小さな贈り物と言えるだろう。

さて近県の群馬まで足を延ばすと、またひと味違う神社もある。今年初秋に訪れたのは群馬県高崎にある榛名(はるな)神社。榛名湖から10分ほど山道を進むと樹林の先にある榛名川のせせらぎに沿うように参道入口が見えてくる。ここは関東屈指のパワースポットと言われてるそうだが、なるほど足を踏み入れた途端に辺りに点在する奇岩や古木の奇景には圧倒される。榛名神社の歴史は古く、用明天皇元年(586年)に祭祀の場が創建されたと伝えられている。御祭神が祀られてた御姿岩の洞窟や武田信玄が箕輪城攻略の際に矢を立て戦勝を祈願したとされる矢立杉は国の天然記念物となっている。そしてその奥に立つ、本社・幣殿・拝殿、国祖社・額殿、神楽殿、双龍門、神幸殿、随神門の 6棟計は国の重要文化財となっている。まさに大地のエネルギーがみなぎる堂々たる風格を有する神社といった印象だった。

ほとんど神社はレベルの差こそあれ、こんな場所にこそ神社を構えなければと思わせるようなロケーションに建っているケースが多い。はじまりは1本の大木だったのかもしれない。御神木とも称される木々は古神道における神体のことで、神域の意味も同時に内包するとされている。つまり、実は自然が神社誕生の必然を用意しているわけで、人間はそれを感受して造営に向け行動を起こしたのだろう

最後にもっとも記憶に留めておきたい神社のお話。山梨には山里の温泉がたくさんあるが、古くから湯治場として栄えた下部温泉はぼくが小学生の頃に盲腸の術後に祖母とともに湯治(とうじ)に訪れ、数日過ごした思い出の温泉でもある。ふと思いたち、半世紀ぶりに訪れてみると今はもうすっかり寂れてしまい往時の面影はない。翌日気落ちして宿を後にする際に、せっかくここまで来たのだから国指定重要文化財になっている門西家(もんざいけ)住宅に行ってみようと思いついた。細くくねった下部温泉街の道を上り、更に山道を進んだところに湯之奥という集落がある。ここに建つのが江戸初期の入母屋造りの旧家、門西家住宅だ。湯之奥金山や山林管理などをして、湯之奥村名主や関守を代々つとめてきたのが家主だという。比較的コンパクトな民家建築といった印象なので肩すかしを食ったような気がしたが、徒歩でさらにその先の細い坂道を登って行くと、急な沢に落ち込む手前のウラジロガシ群生の中に集落の最奥部に思いがけなくひっそりと鎮座する神社が見えてきた。朽ち果てた状態で検索してもまったく情報はないが、どうやら「湯の奥山神社」と呼ばれていたようだ。ここから先はすべてが深い沢に呑み込まれる、そんな結界のような場所にその痕跡をとどめ忘れ去られた神社は、今も強い霊性の磁場に包み込まれていた。すくなくともぼくにはそのように感じられた。沢を隔てた隣りには、日蓮宗総本山である身延山久遠寺が建つ身延山がそびえている。日蓮がインドの霊鷲山に見立てて信仰の山として位置づけたとされている身延山だが、霊性の磁場としては、この湯の奥山神社だって少しも引けは取らないのではないだろうか。神社は磁場の目印に過ぎず、その奥には絶えず自然から湧き上がってくるものがある。そして片時も絶えることなく脈々とスピリチュアリティがそこには流れ続けているのだと神社は語りかけてくる。

上から2点は典型的な吉田のうどんイメージと
自宅の座敷をランチタイムだけ開放する吉田の伝統的スタイルのお店。
(画像は「みさきうどん」の店内)
その下3点は格差社会のイメージ画像類。
下の2点はフォークシンガーの故 高田渡と息子の高田漣。

2017.9.01

12年ほど前のある時期、ぼくは知人のTさんと往復書簡もどきメールを交換しあっていた。Tさんは高校の2年先輩にあたる人で、大学卒業後の出版社勤務を経て、100年近く続く実家の家業を引き継ぐために山梨に戻ってきた。40年ほど前のことだった。精力的に県内観光業界の牽引役として活躍してきたTさんは、ある時自身の店舗で販売する土産品に満足できないからと、オリジナル商品の開発を思いたった。それから単独土産品店としては例を見ないほど多くのPB商品を企画開発していくのだが、ぼくはその時期にTさんと引き合わされる機会があって、一手にデザインを託されることになった。

ぼくらには多くの共通点があったのだが、ぼくに持ち合わせていなかった能力をTさんは持っていた。Tさんは何事にも興味を示すと、抜群の理解力を発揮して「難しく考えることはない。簡単なことだよ」と言ってはすぐにマスターしてしまう。そんな人並み外れた集中力や実行力を持っていた。それは典型的なお旦那気質といえるものだった。しかし、弱点は多くの旦那衆がそうであるように、達成した途端に飽きてしまい、次の対象に興味を移してしまうことだった。それはそれでフレキシブルであるともいえるし、事業を展開していく上では、その気質が有利に働くこともある。

逆に生来不器用な人はどうだろう。別に法則があるとは思わないが、道を究めたと評される人物は、往々にして出だしにおいてつまずくケースが多いような気がする。絶望的なほど不器用だったり、呑み込みが悪かったり、とにかくなかなか順調とはほど遠い滑り出しにもかかわらず、粘り強く高い志に向かう牛歩の歩みから次第に輝きを増してきたりする。持って生まれたこうした気質によって、その後の人生の歩み方が別れていくということが多々あるようだ。

その後日本の観光業は、時代意識や購買意識の変化によって大きく変革を余儀なくされていくことになった。やむなくTさんは、マスターした蕎麦打ちを活かして、その地域に伝わる伝統料理を継承する蕎麦屋を開店し、蕎麦打ち道場も主宰して、家業を土産品店から徐々にシフトしていくことにした。往復書簡は丁度そんな時期に交わされたものだった。以下の抜粋は、他愛もないうどん談義から格差問題へとテーマを移しながら、当時のぼくらの変化に対する戸惑いや考察が反映されている。

〈食後感想文〉

ごぶさたをしています。気がつけば、季節はすでに春から初夏へと移ろい、日々の流れに翻弄される我が身を憂える今日この頃であります。

ところで先日、甲斐絹に関する仕事で富士吉田に行った折、昼食にと誘われ、当地の繁盛店と誉れ高い「うどん屋」に連れていってもらいました。江戸末期から昭和にかけてこの郡内地方の基幹産業は養蚕や機織りでしたが、その担い手となっていた忙しい女性に代わって炊事を受け持った男性たちが強い力で地粉をこねて打ったのが、コシ、硬さ、太さを特徴とする吉田のうどんの始まりだと言われてますね。

着けばびっくり、入口には10人ほど入店待ちの行列が。駐車しているナンバーをチェックすると半数以上は近県のものでした。これは期待できるぞと、はやる心を抑えてテーブルにつきました。地元の人は最低2品頼むものだと同行者に促され、ぼくは「つけうどん」と「肉うどん」を注文。(「肉うどん」、吉田では馬肉です。細かなバラ肉が申し訳程度脇に添えられているのです。)麺の硬さは吉田としては平均的なものだそうですが、食感は正直言って相当な固さです。すいとんの長い棒をきざみキャベツと一緒に噛みしめながら、これは一種の苦行だと思いました。悪戦苦闘するぼくが食べ終えるのを待ちきれず、連れ達はさらにもう1品追加注文するではありませんか。もう、信じられません。唯一こだわりを感じたのは、お店が独自にブレンドしたという七味唐辛子だけでした。

それにしてもまったくこんな食べ物に、行列してまで群がる現象を一体どう理解したらいいのでしょう。これからやって来る総低収入化社会に備えてのサバイバル・トレーニングか、はたまた幼年期の恒常的な粗食生活へのノスタルジーなのか、謎は尽きません。まぁ、行列といっても、狭い店内の非効率なテーブル配置やうどんが無くなり次第商い終了の3時間という営業時間を考えたら、さほど驚くこともありませんが…。甲州はいろんな意味で本当に貧しい地域なのですね。その貧しさを逆手にとって、しぶとく商売にしてしまうのも甲州人特有の智恵なのでしょう。バブルを潜り抜けてきた日本人には、貧しさだって今や立派なトレンドなのかも知れません。今の自分たちを支えているバックボーンは、実はこうした貧しさなんだと実感するために、時折長いすいとん棒と格闘するのも、それはそれで意味ある行為と言えなくもありません。逆説でなく、貧しさの中に新種の豊かさを発見しなくてはならない時代になってきたのだと思います。Tさん、このあたりにこれからの商売を切り開いていく鍵が秘められているような気がするのですが、いかがなものでしょう。

〈Tさんからの返信〉

「貧しさの中から新種の豊かさを発見する」。確かにそうともいえます。しかしながら、貧しい人たちを相手に商売として成功するには、かなりの規模とボリュームが必要となり、したがって資本力が必要となるのではないでしょうか。つまり、一億総中流意識から、じわじわと富めるものと貧困層の二極化の傾向を感じます。

これもアメリカを手本としてきた日本経済の当然の帰結かもしれません。あくまでも経済的な豊かさを追求したい人と、あきらめながら貧しさの中に言い訳のように精神的な豊かさを求める人たちです。自分がどちらに属するのかは言うまでもありませんが、下手をすると大貧民になりかねない現在の経済環境の中、小金をしっかり抱いて、生きている間、飢えることの無いように願うばかりです。これが凡人の考え方であり、このような人たちを相手に大もうけできる人は、一握りの大金持ちなのでしょう。不思議なことに、お金はお金が大好きで、磁石に吸い寄せられるように大金持ちの所に吸い寄せられて行きます。まとまったお金を持っている人には、金利でさえも10%ぐらいは稼げる経済環境です。 10億円で年間1億円 20%税金を払っても8.000万の収入です。一方1.000万程度では0.01%の金利を稼ぐのもやっとです。

こんな時代では、まともに働いて収入の無いときに備えることなどできるはずもありません。若者に勤勉な労働を期待することも出来ず、刹那的な生き方をとがめることも出来ません。いっそのこと、階級制度で一攫千金が実現不可能な社会を選択したほうが幸福感を得やすいのかも知れません。誰もがビルゲイツになれる可能性を持つ時代のほうが多くの不幸をもたらすことになるのではと考えたりします。最善でも金持ち層から少しでも掠め取るべく、スキルを積み上げて小規模な展開しか出来ないのがほとんどの小商売人の行く末ではないでしょうか。深く考えず、刹那的な幸福感が少しでも続けば良いと考えられる人たちは幸せです。そういう幸せな人になれればとも思います。

〈再びTさんへの返信〉

懲りもせず、また返事を書こうとしているぼくは、たぶん暇なのです。今日いっぱいまでは、かなり呑気なのです。忙しいTさんは律義にこんなぼくにつきあう必要ありませんからご一読後はどうぞ忘却の彼方へとご出発ください。

おっしゃるように、このまま貧富二極化の流れがさらに加速されていくことは必至ですね。貧困層を餌にしながら資産家は肥大し続け、膨大な数にのぼる貧民が、一握りの大金持ちを支えていくような経済システムは益々強固なものとなっていくでしょう。貧困層全域に疫病のように蔓延する絶望と諦観。考え得る貧困層の抵抗など、それこそ富裕層の想定範囲内にすっぽりと収まるような限定的なものでしかないといった、市場世界はまさに出口なしの絶望的状況です。

さらに、こうした強固な経済システムが送り出してくる商品や仕事が人々の暮らしそのものを壊していることも事実です。「仕事が暮らしを壊す」。高度成長期に誰がこんなことを想像したでしょう。勤勉な日々の集積の結果が、自らを絶望的に貶める強固な経済システムという怪物を育て上げ、壊れた暮らしの中で不安におののく荒廃した諦観しか残すことができなかったとは…。「豊かな物質に囲まれた貧しい心」にまつわるお題目は、経済システムの周囲を堂々めぐりしながら「だからといってどうしようもないじゃん」化石となって思考を鈍化させるか停止させようとしています。金持ちが幸せなのか不幸なのかなんてまったくぼくの想定外だし、知ったこっちゃないのですが、いかにこの息苦しい世界が人間の想像力を破壊してしまっているのか、日々の報道から絶え間なくぼくらに向かってこうした現実が突きつけられてきます。もはやぼくたちの現代が何を失ってきたのかは、はっきりしています。

先日(2005年4月16日)、出演先の北海道で急死してしまったミュージシャンの高田渡さんがつくった曲があります。広場で並んで腰かけ息子に語りかける「漣(れん)」という曲です。(「漣」は彼の息子の本名です)

『漣(れん)』

漣とぼくは居る

二人で居る

野原に座って居る

空を見上げて居る

「見えるものは みんな人のものだよ」

「うん」と漣は言う

親のぼくも頭が悪いが、どうやら息子も似ているらしい

「見えないものは みんなぼくらのものだよ」

「うん」

「腹減ったか?」

「腹減った」

(Fishin’on sunday の収録曲で、中川イサトのアコギ演奏をバックに、高田渡がボソボソと朗読している)

貧乏人で頭の弱い父親が息子に語りかけます。「見えるものはみんな人のものだよ。見えないものはみーんな、ぼくらのものだよ。」神様は想像力をちゃんと貧乏人のために残しておいてくれたのです。そんなの負け犬の言いわけだ、となじる人もいるでしょう。でも、想像力がお金で買えるわけではありませんよね。市場経済の合理性からは決して生まれることのない、個別性に満たされたものは確かに存在し得る。想像力によって結びつけられた関係性の中で成立する商品というものだってあるはずです。それがぼくは「貧しさの中の新種の豊かさ」なのだと思うのです。でも、これって少しも新しいことなどではないのですね。今や手のつけられないモンスターに成長を遂げてしまった経済システムが、数値化することのできない貧しさの中に息を殺して潜んでいた豊かさを、一周した「新しさ」へと押し上げているだけなのかもしれません。個人として、この世界がつくられている常識に従って生きる必要はない。そう考える人が一人づつ増えていけば、いつかいつか世界は変わっていく。楽観的にそう信じたいものです。

*

さて、それから12年後のぼくらはといえば、「加齢」は間違いなく忍び寄ってきてはいるものの、いまだ「枯れて」はおらず、「侘び」、「寂び」とも無縁。相変わらずぼくの仕事は、de(前に=未知の=見えないもの)sign(しるすこと=形を与える)。「見えないものは、みんなぼくのものか?」。それを可能にする想像力がはたして心のどこかにまだ残っているのか、自問の日々は続く。

Elbphilharmonie Hamburg
Das NDR Elbphilhamonie Orchester
Herzog & de Meuron (HdM)
Yasuhisa Toyota

2017.7.01

2017年1月11日、ドイツ・ハンブルグのエルベ川の運河沿いに完成したコンサートホールで、こけら落としの演奏会が開催された。オケはこのホールを本拠にする「NDR エルプフィルハーモニー(NDR Elbphilharmonie Orchestra、旧称:北ドイツ放送交響楽団)」。首席指揮者はトーマス・ヘンゲルブロック。やがて演奏が始まるのを固唾を呑んで待つ観客の耳に流れてきたのは、上階観客席の通路に立ったオーボエ奏者カレフ・ユリウスの奏でる「オウイデイウスによる6つの変容」から「パン(ブリテン)」のメロディ。ホール全体に響き渡る澄んだ音色はやがて糸を引くように遠ざかり、ふくよかなオーケストラの楽曲「瞬間の神秘」から「呼びかけ、エコー、プリズム(デュティユー)」へと引き継がれていく。続く3曲目は客席の中に立つ、世界中から絶賛されるカンターテナー歌手・フィリップ・ジャルスキーの歌声にバトンタッチされていく。傍らで伴奏するのはハープのマグレート・ケール。「ラ・ペツレルリーナ」からの楽曲は「高き天球から(カヴァリエーリ/アルキレイ)」。

*

私は いと 高き天球から来た

いと 高き 天球から来た

美しい歌声のセイレーンに付き添われ

私の名はハルモニア

人である汝らの元に降りてきた

翼を羽ばたかせ 火災が天に昇る

*

このようにコンサートは、客席から奏でる音楽とステージで奏でるオーケストラの音楽とが交互に、ときに静かに、ときに高らかに、あたかも会話するかのように進行していく。外では楽曲に合わせてカラフルなイメージパターンが、暗闇に浮かび上がるように建物の外壁に最新技術プロジェクションマッピング(Projection Mapping)によって投影されている。ハンブルグのランドマークとして計画され、2007年の着工から9年の歳月を経てやっと完成した「エルプフィルハーモニー・ハンブルク(Elbphilharmonie Hamburg)」はその夜、ホールは音楽の命が吹き込まれる瞬間を迎えていた。

今年5月1日に放映されたNHK BSプレミアムシアター ドキュメンタリー「エルプフィルハーモニー」。このホールが様々な苦難を乗り越えながらも完成までに漕ぎ着ける過程と、晴れやかなお披露目コンサートの模様が合計4時間にわたって紹介された。ボタンの掛け違いから発生する膨大な無駄な時間と経費。意見の対立や反目。世界最高水準のホールを誕生させる巨大プロジェクトに対して生み出される悪意と、それを凌駕する多くの善意と情熱。ドイツ文化の奥深さが伝わってくる4時間だった。

2007年にハンブルグ市は、運河沿いに建つ倉庫の歴史ある外壁は残し、内部を完全撤去して、そこに観客がオケと指揮者を囲むように座るコンサートホールの建築を計画した。建物設計を担当したのは、プリツカー賞をはじめ数々の賞を重ね、2000年のテート・モダン、2003年の東京・プラダ青山店、2008年の北京国家体育場(通称「鳥の巣」)などで世界から注目を浴びているスイス・バーゼルのヘルツォーク&ド・ムーロン( Herzog & de Meuron)。そもそもこの番組を見たのも、以前からこの建築家ユニットに興味を持っていたからだった。そして最高水準のホール作りを託されたのはウィーンから招かれた音楽ホール総監督・クリストフ・リーベン・ゾイッター。さらにホール水準の要となる音響を任されたのは、日本人の音響設計家で永田音響設計所属の豊田泰久

まず、この建物を強く印象づけるのは王冠を連想させる屋根のシルエットだ。そして下には湾曲した1,000枚以上の1枚50,000ユーロの窓からなる美しいガラス壁が連なるシルエットを支えている。ガラスは様々な耐久テストが繰り返され、5ヶ所の共同作業によって製作された。各層ごとにコーティングされて最終的には4層になる。建物内の温度上昇を抑える遮光層。500パターンの水玉模様を組み合わせるため、すべての窓が違う模様になり、一番外側の層にはクロームメッキを施して、建物が船のレーダーを反射するように配慮された。こうしてガラスは完成するまでにドイツ国内を7回移動を繰り返し、工程の最後にはイタリアのパドバにある特注かまどで焼かれ、波状に曲げられる。複雑なガラスの層を痛めずに曲げられるのはこの会社の技術しかなかった。こうして時間とお金をかけた世界に一つしかない、トータル5,000トン以上もある1,100枚の異なる窓でできたガラス壁が用意された。

しかし、良いものは高くつく。次第に膨らみ続ける建築費用。綿密に組み上げられた8,000トンの屋根を支える鉄骨だったが、その組み方は建設の不安材料となった。社内の検証結果と異なると、2011年に建設会社は屋根の構造が力学的に安全でないことを理由に工事を中止する。本当にそうなのか、それとも施工費をつり上げるためなのか、議論は激化した。設計者と建築会社は互いにその責任をなすり合い、やがて好意的だった市民の目も次第に厳しくなる。工事現場の周りでは抗議集会が開かれる日もあった。中止に伴う経費の増大で財政難に陥った市は、市立病院を複数売却するがそれでも足りず、ホールの予算や完成の日程はあいまいとなっていく。そこで市議会の調査委員会は20人の証人喚問を行った。その結果明らかになったトラブルの原因は、建築会社と設計者がそれぞれ別々に市と契約したことによる複雑な契約関係と早期の公示や市の管理が行き届かなかったことにあると判明。市は契約した建設会社を見限って独自に工事を進めるか、裁判を続けるか検討を重ね、いよいよ2012年12月、建物の将来を決める時がきた。建築会社は契約の抜本的な見直しと、2億ユーロの上乗せを条件に工事の再開を申し出ていたのだ。結局、市は和解の道を選んだが、その代償は高くついた。前市長時代の2009年の初見積りの建設コストは、現市長の2013年には10倍にまで膨らんでしまった。総額7億8,900万ユーロ。

ともあれ、工事はなんとか再開された。残るは大ホール。新旧の建物の間には公共広場“プラザ”が設けられ、公演中には汽笛が聞こえたり、併設ホテルや住宅に音が響いたりしないようにしなくてはならない。その解決策は「浮き床工法」。ホール全体を二重構造にして床下にスプリングを入れるとホールは浮いた形となり完全に遮音される。

ホールの要となる音響設計を担当した豊田チームの残響目標はわずか2秒だった。そこで、天井には“白い皮膚”と呼ばれる反響板が設置されることになる。建築家のヘルツォークは死者を連想させる“白い皮膚”という呼び名を嫌い、これは化石化した甲殻類だと主張する。主原料はバイエルン地方の石切場でとれる石膏を磨り潰し、古紙を混ぜて溶かして固めた板状の石膏板だ。表面を固くしすぎるとエコーが出てしまう。逆に吸収がよすぎると音がこもってしまう。適正な固さとなった石膏板は1枚づつドリルで建物の屋根と同じ波模様に彫り込まれて、1万枚の石膏板が巨大モザイクを作り出す。歴史的な音楽ホールの天井や壁には美しい彫刻や装飾が施されている事が多いが、それで音が分散されて響きが柔らかくなるからなのだ。こうして何ヶ月もかけて天井に取り付けられたパネルの総重量は1,800トンで大型旅客機3機分の重さになる。また、座席と観客はホールで音を最も吸収する要素となるため、客席の音響テストが参加者を集めてイタリアのリミニの研究所で実施された。座面の材質は音響的には硬い方が好ましいが、建築家は座り心地を重視する。豊田はクッションとカバーの間に空気が残っていると音響に影響すると主張し、全ての座席カバーは座面に直貼りされる事になった。2,000席の椅子が設置されて音響の仕事は終了する。ホールの遮音性は高く、音漏れは一切ない。豊田が調整できることはもう何もない。

最後の仕上げは、ガラスの雫でホールを取り囲むこと。通常の電気用の吹きガラスは底が厚くて上部が薄い。しかし照明効果を考えると上部は厚くしたい。上部が厚いガラス玉が成功するのは2つに1つだが、この建築家の要望に応えられる工房があった。通常とは異なるやり方で吹きガラスを作る、エルベ川上流のチェコの山地にある家族経営のガラス工房がホールを照らす光りの雫を丹念に作りあげた。こうして予定から6年遅れの2016年に、やっとホールは完成した。次は演奏家たちがホールに命を吹き込む番だ。

機能もデザインも最高でこそトップクラスのホールと言える。そこで設計には楽員の声が反映された。建築家は楽員から様々な意見や要望を吸い上げ、練習に集中できる楽器ごとの個室や、舞台裏には休憩や調整をする空間を用意した。リハーサルの緊張をほぐし、運河の景色や川や空で楽員の心を癒やす場も建物には組み込まれている。ホールの音響はオケの演奏にダイレクトに影響する。互いの音をよく聞くようになり、ホールの澄んだ響きを身をもって感じた楽員は初リハーサルで自分の出す音に感動して涙した者もいたという。音楽をよく理解できる響き。透明感のある崇高な雰囲気を宿す響きがそこにあった。

一市民の幻想に過ぎなかった町のランドマーク計画は苦難の末に建設され、あらゆる醜聞を退け、建物の心臓は鼓動を始めた。理想、夢、希望、忍耐、熟慮、寛容、喜びが惜しむこと無く注ぎ込まれた、芸術という名の樹木はドイツの大地に文化の根を張り巡らせていく。ステージからはオケとプレトリウス合唱団よる「5声と通奏低音のためのモテット」から「あなたはなんと美しいことか(ヤコプ・プレトリウス)」が流れ出し、澄んだ響きにホールは満たされていく。

*

あなたはなんと美しく麗しいことか

いとしい乙女よ

あなたは歓喜に包まれている

あなたの立姿はまるでシュロの木のよう

あなたの胸はたわわなぶどうの房のよう

行こう いとしい人よ 見に行こう

ぶどう畑に花が咲いているだろうか

もしザクロの花が満開だったら

あなたに心をささげよう

私の心をささげよう

(参考情報:2017年5月1日放映NHK BSプレミアムシアター ドキュメンタリー「エルプフィルハーモニー」ナレーション、スーパー。またオープンに先駆け、先行取材した旅レポブログでもプロジェクトを俯瞰することができる)

西野洋作品集「西野洋 思考と形象」関連画像。

2017.5.01

4月5日に86歳で亡くなった詩人で評論家の大岡信さんの死を悼んで、故人と親交の篤かった詩人、谷川俊太郎さんの詩が新聞に寄せられていた。

*

大岡信を送る 2017年卯月

本当はヒトの言葉で君を送りたくない

砂浜に寄せては返す波音で

風にそよぐ木々の葉音で

君を送りたい

声と文字に別れを告げて

君はあっさりと意味を後にした

朝露と腐葉土と星々と月の

ヒトの言葉よりも豊かな無言

今朝のこの青空の下で君を送ろう

散り初(そ)める桜の花びらとともに

褪(あ)せない少女の記憶とともに

君を春の寝床に誘(いざな)うものに

その名を知らずに

安んじて君を託そう

(4月11日・朝日新聞)

*

万感の思いを胸に納めて、「言葉よりも豊かな無言」と記す詩人の言葉は波音や葉音、そして桜の花びらに想いを託す。ところで、ぼくは偶然、谷川俊太郎さんと並んで座る機会が一度だけあった。上京し、午後閑散とした地下鉄で移動中、到着した四谷駅で、開いた向かいの扉から小柄な老人が乗り込んできて、ぼくのとなりに腰を下ろした。一瞬見覚えのある顔だなぁと思案して、すぐにそれが谷川俊太郎さんだと思いあたった。ぼくより先に下車するまでのほんの5分足らずの出来事だったが、すっと背筋を伸ばして身じろぎもせず真っ直ぐ前を見据えている年齢を感じさせない佇まいが印象的だった。

昔は「君」と呼べる友のいる安心感があった。叱ってもらえる人がいるという安心感もあった。しかし歳を重ねるにつれ、そうしたかけがえのない人やお世話になった人との別れが次第に現実のものとなってくる。その時、残された者たちは別離とどう向き合うのか。

宮澤賢治に大きな影響を与えた妹トシの死。トシは賢治にとって自分を最も理解してくれる存在であった。妹は彼の心の支えであり、心強い同志でもあり、そこには慕情さえも…。

下の3編は賢治が別れのその日、万感を込めて詠んだ『永訣の朝』と『松の針』、そして『無声慟哭』。その日から賢治は7ヶ月間詩作することはなかった。

*

「永訣の朝」

けふのうちに

とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ

みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ

(あめゆじゅとてちてけんじゃ ) ※

うすあかくいっそう陰惨な雲から

みぞれはぴちょぴちょふってくる

(あめゆじゅとてちてけんじゃ )

青い蓴菜のもようのついた

これらふたつのかけた陶椀に

おまへがたべるあめゆきをとらうとして

わたくしはまがったてっぽうだまのやうに

このくらいみぞれのなかに飛びだした

(あめゆじゅとてちてけんじゃ )

蒼鉛いろの暗い雲から

みぞれはびちょびちょ沈んでくる

ああとし子

死ぬといういまごろになって

わたくしをいっしょうあかるくするために

こんなさっぱりした雪のひとわんを

おまへはわたくしにたのんだのだ

銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの

そらからおちた雪のさいごのひとわんを・・・・・・

「松の針」

さっきのみぞれをとってきた

あのきれいな松のえだだよ

おお おまへはまるでとびつくやうに

そのみどりの葉にあつい頬をあてる

そんな植物性の青い針のなかに

はげしく頬を刺させることは

むさぼるやうにさへすることは

どんなにわたくしたちをおどろかすことか

そんなにまでもおまへは林へ行きたかったのだ

おまへがあんなにねつに燃され

あせやいたみでもだえてゐるとき

わたくしは日のてるとこでたのしくはたらいたり

ほかのひとのことをかんがへながら森をあるいてゐた

《ああいい さっぱりした

まるで林のながさ来たよだ》 ※

鳥のやうに栗鼠りすのやうに

おまへは林をしたってゐた

どんなにわたくしがうらやましかったらう

ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ

ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか

わたくしにいっしょに行けとたのんでくれ

泣いてわたくしにさう言ってくれ

おまへの頬の けれども

なんといふけふのうつくしさよ

わたくしは緑のかやのうへのも

この新鮮な松のえだをおかう

いまに雫もおちるだらうし

そら

さわやかな

terpentine (ターペンタイン)の匂もするだらう

「無声慟哭」

こんなにみんなにみまもられながら

おまえはまだここでくるしまなければならないのか

ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ

また純粋やちひさな徳性のかずをうしなひ

わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき

おまえはじぶんにさだめられたみちを

ひとりさびしく往かうとするか

信仰を一つにするたったひとりのみちづれのわたくしが

あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて

毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき

おまへはひとりでどこへ行こうとするのだ

(おら おかないふうしてらべ) ※

何といふあきらめたやうな悲痛なわらひやうをしながら

またわたくしのどんなちひさな表情も

けっして見遁さないやうにしながら

おまへはけなげに母に訊くのだ

(うんにゃ ずゐぶん立派だぢゃい けふはほんとに立派だぢゃい)

ほんたうにさうだ

髪だっていっそうくろいし

まるでこどもの苹果(りんご)の頬だ

どうかきれいな頬をして

あたらしく天にうまれてくれ

(それでもからだくさぇがべ) ※

(うんにゃ いっこう)

ほんたうにそんなことはない

かへってここはなつののはらの

ちひさな白い花の匂でいっぱいだから

ただわたしはそれをいま言へないのだ

(わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)

わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは

わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ

ああそんなに

かなしく眼をそらしてはいけない

※あめゆきとってきてください

※ああいい さっぱりした

まるではやしのなかにきたやうだ

※あたしこわいふうをしているでせう

※それでもわるいにほひでせう

*

エリック・クラプトンは最愛の息子コナー(享年4才)を転落事故で亡くした。打ちのめされた日々を送る彼は、その深い悲しみや苦しみと向き合うために音楽に救いを求める。そして生まれたのがあの名曲『Tears in Heaven』だったことはよく知られている。クラプトンはここで(Eric Clapton – Tears in Heaven live Crossroads 2013)歌われているように、コナーの死後12年の時を経て、やっと『Tears in Heaven』の演奏を封印することができたのだった。

*

Would you know my name if I saw you in heaven?

Would it be the same if I saw you in heaven?

I must be strong and carry on.

‘Cause I know I don’t belong here in heaven.’

父さんの名前覚えてるかな?

もし君の居る天国で会ったとしてもね

前と同じようにしてられるかな?

もし君の居る天国で会ったとしたらさ

父さん強くならなくっちゃいけないな

それを続けて行かなくっちゃ

分かってるよ 父さんの居場所

天国じゃないって事はね

*

人の悼み方はさまざまである。最後にもう一つ。

去る2016年3月2日投稿ブログで、2015年10月23日に急逝した友人のデザイナー、西野洋さんのことを書いたが、その後、彼と交流の深かった人々の中から自然発生的に作品集制作の話が持ち上がり、制作委員会に10名のデザイナーが参加することとなった。彼の残した思索や活動の軌跡を次の時代に結びつけようと、残された資料を整理・分類しながら分担して紹介する作業は、それから半年以上に及んだ。この小さなプロジェクトは、彼の思考や造形と向き合う貴重な時間を与えてくれたし、結果的にぼくらを再び繋げてくれた。名を連ねるぼくも、西野洋さんのスモールグラフィックを紹介する頁を担当したのだが、東京以外の地域で活動するメンバーはドイツのBaumann & Baumannさんらとぼくだけだったので、実質的な制作作業は美登英利さんと白井敬尚さんを中心に東京のメンバーが担ってくれた。

こうして生まれた一冊の書物は「西野洋 思考と形象(Hiroshi Nishino  Philosophy and Design)」と名付けられ、デザインを生業とするものならではの追悼のかたちとなった。ゆかりのあったデザイナーたちへとバラバラに散っていた西野さんの思考と形象の記憶は、再びこの書物の中で統合され、再構築されることになる。そうして、それら記憶と記録の集合体は、彼がもっとも愛した書物という偲びの場で束の間の再生を果たすことが出来たのだと思う。

最後に、ぼくの好きなお別れの歌をご紹介。NHK BSで放送されていた「名探偵モンク」が最終回を迎えたが、そのエンディングでしみじみと流れていた、ランディ・ニューマン(Randy Newman)の「日々のこと(When i’m gone)」。 (※英歌詞付き動画なので、以下は和訳のみ)

*

「When I’m Gone」

Randy Newman

一生迎えたくなかった

お別れの時がすぐそこ

悲しむ人がいても 先へ進まないと

寂しがるのは 分かってるけど

出会ったとき 私はボロボロで

思い出すより 忘れたいことばかり

闇を抜けるまで 見届けてくれた君

寂しがるのは 分かってるけど

控え目な男だから こういうのは苦手

でも支えてもらった せめてものお礼に

お別れでなく “またね”と言おう

私に向けた光は どうか消さないで

君がいたから 私は強く成長できた

寂しがるのは 分かってるけど

君がいたから 私は強く成長できた

寂しくなるのは きっと私のほう

寂しくなるのは 間違い無く私

一番上は坂田久さん近影。
2点目は祝還暦Liveでのスナップ。
3点目はSAKATO GUITARS MODELの
「New D-28M model, Serial Number 044.」
4点目はヴィンテージ「Martin D-18 (1941)」
そしてMartinを抱えるぼくの大好きな
マーク・ノップラーとエルヴィス。
下2点が永遠のスタンダード書体「Helvetica」

2017.3.01

略称「アコギ」呼ばれるアコースティックギターは、フォーク、トラッド、カントリーなどの伴奏楽器として親しまれてきたので、むしろフォークギターと呼んだ方がしっくりくるかもしれない。そのトップブランドといえば、やはりMARTINだろう。若い頃、ぼくの周りには「いつかはマーチン」と憧れていたフォーク愛好者たちが大勢いた。フォークギターにはおびただしいブランドが林立しているが、このマーチン、そしてギブソンは世界2大ブランドとして揺るぎない地位を確立している。

MARTINはギター製作を志して1833年にドイツからニューヨークに移住したクリスチャン・フレデリック・マーティンによって創業された。新天地で楽器店とギター製作を開始した彼は、紆余曲折を経て1837年にペンシルベニア州ナザレスに移住し、ギター製作を本格的に開始する。そして、いまや世界中のアコースティック・ギターの標準規格とも言われている14フレット・ドレッドノートが1934年に発表され、アコースティックギターの歴史はここから始まった。なかでもベストセラーモデルのD-28やD-35は、永遠のスタンダードとして、その後に続く様々なメーカーのお手本となり、愛され続けてきた。ちなみにシリーズ名称の“D”は、その大きなボディサイズが、当時(1910年代)世界最大のボディサイズを誇った戦艦「ドレッドノート号」のようだと例えられたことに由来した頭文字なのだという。

フォークギターにはピックガードが付いている。奏法にはピックではじく奏法と指で爪弾くフィンガーピッキングがあるが、ガット(あるいはナイロン)弦のクラシックギターは指弾きのみで基本的にピックは使わない。我が家にもくたびれたクラシックギターとフォークギターが一台づつあったのだが、大学を卒業して郷里に戻ってきた兄が大学時代にウエスタンバンドに参加していたので、新たにスティールギターやバンジョーもそこに仲間入りしていた。ぼくも学校から戻ると、これらをとっかえひっかえ見よう見まねで弾いていたが、スティール弦のフォークギターを抱えて、ピックで弾くとすぐに気分はフォークシンガーになるから不思議なものだ。英訳した辿々しい自作詩にメロディーをつけてオリジナル曲を作り、自宅の裏山にある高台に座って演奏を楽しんでいたのも懐かしい思い出だ。だからフォークギターといえば、いまだにそれはぼくの思春期を象徴する思い出のアイテムなのだ。

このアコースティックギターを自作する工芸家たちが、実は世界中にはたくさん存在していたことをぼくは最近知った。もちろん日本にもアマチュアから工房を構えるプロフェッショナルまで大勢が活動していて、ギター製作学校まで存在している。それらを、ぼくはギター製作者となった知人から教えてもらったのだ。

坂田久さんは地元で長いこと「ハーパーズミル」というカレー屋さんを経営していて、ぼくも彼の作る美味しいカレーがときおり無性に食べたくなり、細く長く通い続けていた客の一人だった。彼は青春時代の放浪期を経て、カフェカレーの原点ともいわれる吉祥寺にある老舗カレー屋「まめ蔵(まめぞう)」で修業を重ねる。この「まめ蔵」を開業した南椌椌(みなみくうくう)さんは絵本やテラコッタの作品で活動を続ける作家でもあり、奥さんは笠井叡に師事した舞踏家の山田せつ子さん。坂田久さんはこの名店で瑞々しい文化の香りと秘伝の味をたっぷりと吸収して、故郷の実家敷地内にログハウス風のお店を建てて、その経験と味を郷里に持ち帰ることにした。

坂田さんは並行して音楽活動も開始する。現在までに自作曲を収めたオリジナルアルバムを三作発表し、フォークシンガー友部正人さんとの深い交友を基点に広がったネットワークから、様々なライブを長年にわたって開催してきた。また、別棟に併設された音楽スタジオはミュージシャンたちのハブとして機能し、今では地元ミュージックシーンの重要拠点ともなっている。こうした活動から自然発生するかのように、40代半ばから坂田さんはギター製作者へとその軌道を大きくシフトしていくことになる。きっかけは奥さんの一言だったそうだ。ミュージシャンとしての大事な表現の相棒でもある数台のアコースティックギターをレストアしたり、リペアしていたが、なかなか思うようにならない。その様子を見かねた奧さんは「なら自分で作っちゃえば?」と言った。「あっ、そうか!」と、その何気ないひと言に納得し、運命の言葉に背中を押された彼はさっそくアコギ製作キットを買い求め、まったくの自己流でギター製作にのめり込んでいく。元々ミュージシャンとして、求めるサウンドの着地点がぼんやりと見えていた坂田さんは、大地から存分に水を吸い上げる若木のようにメキメキとその腕を磨いていったのである。

どの世界にも業界というものが存在する。楽器販売店が製作者と顧客の仲立ちをして商談を進める合理的販売システムによって受注と供給のバランスが保たれていく。しかし、はなから坂田さんはこうした業界という世界の中で活動する気はなかったから、それまで築いてきたミュージシャンとしてのネットワークを通じて細々と販売しながら、着実にその評価を積み重ねてゆくことにした。はじめの頃は展示会に参加しても、業界内からは冷ややかな反応しかなかったそうだ。しかし徐々に彼方此方から好意的な評価が届きはじめ、次第に風向きが変わってきた。弾いてみたらすぐに分かるその音色が力強く活動を牽引し、15年の時を経て「サカタギター」は紛う方なきブランドへと成長した。カレー屋さん、ミュージシャン、音楽プロデューサー、ライブ企画者、録音スタジオ経営と様々に展開してきた、一見回り道にも見えるこれら坂田さんの軌跡のすべてはギター製作という本流へと集約されているかのようだ。これが天職だったと予感している彼のここに至るまでの活動に無駄な瞬間などなかったのだ。

楽器は奏者と一体となって初めて花開く。だから基本的には、楽器は奏者が何を求めているのか知らなければ作り始めることすらできないものだ。そして豊かな包容力をもって奏者のイマジネーションを受けとめなくてはならない。こうした課題と来る日も来る日も向き合って、堂々とした自己流の製作者の道を坂田さんは歩み続けてきた。ギター製作を通じて自分を表現するのではない。逆に何処まで自分のエゴを消し去って製作出来るのか問われ続ける毎日なのだ。そうすれば奏者の世界観とともに成長し、並走していけるような楽器が生み出せるのではないか。そんな境地に近づきつつある坂田さんの話を聞きながら、ぼくはまったく違う、あることを思い起こしていた。

ぼくはグラフィックデザイナーなので使用する書体の選定はとても重要な要素だと常々考えている。和英ともにこれまで世界中で制作されてきた書体は膨大な数にのぼるが、その中で長い時を経て、様々な用途でその特性を発揮し、愛されてきた書体となると、かなり数は絞られてくることになる。オーソドックスで汎用性や可読性に富んでいて、しかも美しい。それがデザイナーにとってのスタンダードとなる。そんなスタンダード書体の横綱ともいえるのが「Helvetica(ヘルベチカ)」だろう。「Helvetica」とはラテン語で「スイスの」を意味する言葉だが、その来歴を辿れば当然スイスに行き着くことになる。

1950年、スイスの活字鋳造所ハース社のエドゥアルト・ホフマン(Eduard Hoffmann)は、当時多く使われていた書体グロテスク(サンセリフ)に変わる新しいサンセリフ書体を作ろうと考えた。サンセリフとは縦と横が同じくらいの太さで設計されたいわゆるゴシック体と呼ばれる原形書体で、当時はグロテスク書体を呼ばれていた。ホフマンは美的センスにも卓越した能力を持ってはいたが、あくまでも経営者でありデザイナーではなかったから、制作をスイス人タイプフェイスデザイナーのマックス・ミーティンガー(Max Miedinger)に依頼する。やがて出来上がった書体にホフマンが修正指示を出し、そのくり返しが数年にわたって続けられた。そうして1957年にやっと完成し、手組み用活字として発表されたのが「ノイエ・ハース・グロテスク」(Neue Haas Grotesk)=「ハース社の新しいグロテスク(サンセリフ)」だった。そして版権をステンペル社に移行した1960年にその名品書体は「Helvetica」と命名された。

簡素で落ち着いていながら力強く、用途を選ばない幅広い汎用性も備えていたので、その後半世紀以上にわたって世界中のデザイナーたちから愛され続け、出版や広告の世界では必要不可欠な書体として名高いが、その誕生の背景には当時ヨーロッパで注目されていたスイス・スタイルの存在を忘れることはできない。ヨゼフ・ミューラー・ブロックマンエミール・ルダーといったデザイナーたちが旗手として活躍していたスイス・スタイルとは、格子状に沿って配置するグリッドシステムや、黄金比などの数値基準を活用したレイアウトをその特徴とするが、思想的にも彼らは国家や宗教に依存しないインターナショナルな思想に共感していたので、そうした無国籍の象徴としてサンセリフ体を積極的に使用していた。そこに「Helvetica」が登場したのだ。

「Helvetica」がここまで書体として普遍的な存在と成り得た理由は何だったのか。諸説あるだろうが、一言でいえば「書体として特徴を持たない点」。これに尽きるだろう。表現を邪魔しない器のような無機質な中立性。つまり中立的な佇まいが、逆にあらゆるタイプの個性を包み込むことを可能にする。使われることで初めて豊かな表情を生み出す懐の深さ。使用サイズの設定や組み方や置き方で様々にその表情を変えることのできる不思議な受容体。

こうして、サカタギターが半世紀以上の時空を隔てて、実は「Helvetica」と地下水脈で繋がっていたことを発見したぼくは、もちろん即座にそのことを坂田さんに伝えたことは言うまでもない。

上から5点
SL 55 AMGの外観と内部スナップ。
下から3点目は陸送された時点の内観。
下2点
車に乗り込む最晩年のジョブスと自宅庭のスナップ。
(右側がSL55 AMG)

2017.1.01

昨年来、年配者による暴走運転事故が急増している。これも高齢化社会がもたらす現象なのだろうが、ぼくだって間違いなく高齢者に含まれるわけで、人ごとでは済まされない。まだ老化による危険性を運転中に感じることはないけれど、いつまでステアリングを握り続けられるんだろうかという漠然とした不安はある。

そこで、年が改まったのでひとつ封印を解くことにする。封印というのも大袈裟だけど、ずっと書くのを戸惑っていたのは、寄せる愛着やうんちくを聞かされたら随分うんざりさせるだろうなという躊躇があったからだ。

実はぼくは4年前からTwo Seaterオープンタイプのスポーツカーに乗っている。車のメカニックは詳しくないし、スペックにもさほど興味はないのだが、若いころから自動車には人間が生み出した単なる工業製品を超えるSomethingを感じていた。現在、人類史上最速のスプリンターであるウサイン・ボルトの世界最高記録は100m、8秒65。1時間は3,600秒だから時速に換算するとおよそ41.62kmの速度ということになる。ところが車で走るぼくらが目撃するのはその2〜3倍の早さで流れる風景なのだ。普通の人間の身体能力なら決して見ることの出来ない風景を、自動車はいとも簡単に見せてくれる道具ということになる。だから、一義的には自走移動を実現する道具なのだが、同時にそれを操る人間に様々な感覚的情報をフィードバックしてくれる道具でもあるわけだ。

動く、曲がる、止まる、これが自動車の基本動作。これを高いレベルで実現し続けているメーカーがメルセデス・ベンツと言われている。もちろん車好きの面々には異論もあるだろうが、世界で初めて車という道具を生み出したメーカーであるベンツには、理詰めで技術を積み上げていく気質が伝統的に培われている。彼らは「人間は必ず間違いを犯すものだ」という前提から出発してモノ作りをする。例えば、操作パーツの位置などはほとんど大きな変更をしないので、新しいモデルに乗り込んでも、すぐに戸惑うことなく馴染むことができるし、人間の移動をサポートするための道具として徹底的に考え抜かれ、濃密に作り込まれている。エンジン音も含めて「乗り心地」「操作性」にはフィーリングとしか言いようのない領域があるからこそ、そこには各メーカーの味わいがあるのだが、「やっぱりこの感じだよね〜」という、何ともいえないズッシリとした「これぞ王道」的な安定感がベンツにはある。

20代で免許をとってしばらくはスバルサンバ、スカイライン、スバルレオーネといった国産の中古車を乗り継いできた。(いっとき、パタパタと独特のエンジン音をたてるポンコツのワーゲンビートルにも乗ったが故障続きですぐに手放す)初めてベンツに乗ったのは、28歳の時。クライアント先のクラシックカーコレクターだった社長さんからプレゼントされた1959年製の「220b」。通称「羽ベン」と呼ばれるアメ車風のテール・フィン付きボディ車で、白い硬めのステアリングはまるでバスのように大きく、ベンチシートも相まってオールデイズなアメリカンスタイルを醸し出していた。喫茶店からパーキングに戻るとヤンキー風の若者たちが「格好いいじゃん」なんて言いながら周りを取り囲みのぞき込んでいたこともあった。今思えば、20代のぼくなんかにはまったく似合わない車だったが、堂々とした風貌とその重厚な乗り心地を味わったぼくは、そこでベンツの洗礼を受けてしまったようだ。

2代目のベンツは30代半ばで横浜の直輸入業者から購入したユーズドカーの「190E」(W201)」。“5ナンバーで乗れるベンツ”と呼ばれた初代コンパクトクラスモデルだ。重厚な乗り心地は残しながら取り回ししやすく、京都まで遠出しても疲れない優れものだったから5年ほど愛用した。そして42歳で初めて新車購入した3代目は排気量2,960cc、SOHC6気筒のステーションワゴン「300TE」。ラゲッジスペースも広く、最大で7名乗れる利便性と高出力がもたらすパワフルで快適なロングツーリングが両立されたミディアムクラスのツーリングワゴンで、まさにぼくの人生のミディアム期間を共にしてくれた思い出の一台といえる。

なぜかここまで3台のボディカラーはすべて濃紺。そして4代目からの愛車はシルバーに変わっていく。ぼくが発売を心待ちしていたのは、2000年に満を持して発表されたCシリーズの上位モデル、排気量2,597cc、SOHC V型6気筒の「C240」。Cクラスでありながら、Sクラスで培った技術を踏襲しているから、まるでSクラスに乗っているような乗り心地を実現したと評価された優れもの。フロントを印象づけているつながった丸目ライトは、赤塚不二夫の「おそ松くん」に出てきて、すぐに「タイホする〜」と叫びながら拳銃を発射する目ン玉つながりのおまわりさんそっくりでなんとも言えない愛嬌がある。ぼくはどうも直線的なデザインより、やや丸みを帯びて、シェイプされてはいるがエレガントな印象を与えるフォルムに惹かれる傾向がある。このC240はとても完成度の高い車で、それから12年乗り続け、まだ家族が乗り継いでいる現役車だ。

ところで、このところ自動車のフロントビューが不機嫌になってきたというか、恐い印象を与えるフロントデザインが増えてきたような気がしてならない。発光部にLEDが使われるようになったことも関係しているのだろうか。それと、現在デザインを担っている各社のデザイナーはガンダムのようなメカ・アニメで育った世代が増えていて、中心的購入層の世代と重なっているのも無関係ではないのかもしれない。最近のレクサスをはじめとするトヨタ車のフロントは、スピンドルグリルと呼ばれる牙を剥いたような意匠で、例えは悪いが、1987年に封切りされたアメリカのSFアクション映画『プレデター』に登場する架空の地球外生命体の顔をぼくは連想してしまう。(気に入って購入したオーナーの方は悪しからず。あくまでもぼくが勝手に抱いた印象にすぎないので)どうやらこれは最近の世界的な傾向で、ベンツも2008年以降のモデルはちょっと強面な印象に変更されてしまったから、ぼくは5代目モデルはどうしたものかと考えこんでしまった。

ちょうどその頃から仕事の関係で出張する機会が増えてきて、目的地まで電車で向かうと乗り継ぎも含めてとても時間がかかってしまう。電車に乗るのが苦手で、元々運転は嫌いじゃないから出張は自動車で移動することにした。往復約350kmの距離を最低月2回。それ以外にも遠出が増えたので、長時間でも疲れず、しかも快適に、より安全に移動できる車が欲しくなってきた。普通に考えたら長距離移動するんだから燃費の良い車種を選択するのだろうが、どこに行ってもプリウスやアクアのお尻ばかり見せつけられてウンザリしていたへそ曲がりのぼくはハイブリッド車にだけは乗るつもりはなかった。高速道路を何時間走っても疲れることなく、心地良く目的地に向かうために、ドライビングプレジャーを優先することにしたのだが、C240は良い車だけど遠出用としてはもうひとつ物足りない。

それまでぼくの中では長い間、漠然とオープンカーへの欲望がくすぶっていた。しかし、二人しか乗車できないし、オープン時の露出感はハンパないから、やっぱり実用的じゃないなと選択外だったが、歳もとったことだし、そろそろ乗っても生意気にはみえないかも、なんて気持ちに変化が生じてきた。「乗るんならやっぱりSLだな」と一度発火してしまった欲望はメラメラと燃え上がってしまったから大変だ。当時の2012年モデルのSLはすでに怖そうなフロントフェイスにモデルチェンジしてしまっていたし、ベンツ車のラインアップでも最上位に位置付けられる新車のSLはとても高額で手が出ない。それに、ぼくの欲しかったSL(Type R230)は丸目ライトの全体感がエレガントなデザインで、バリオルーフとよばれる歴代SLで初めて電動格納式ハードトップを採用したモデルだったが2007年で生産を終了していたので、入手するにはユーズドカーで探すしかなかった。

それからというもの、おびただしい販売業者サイトを夜な夜な検索していると、次第にユーズドカーの販売実態というものが見えてきた。例えば条件のよい個体情報を囮にして、問い合わせすると、それは直前に売れてしまったばかりだがこれはどうでしょう?と別な車を薦めてきたり、売らんかなの姿勢が露骨に感じられる販売業者が多かった。また、ぼくはデザイナーの端くれなので細部の意匠も気になってしまう。親父くさい木目調パネルやシフトノブも嫌だったし、ボディカラーはシルバーと決めていた。そして紆余曲折の末、やっとぼくの要望にかなうモデルが確定した。

それは「SL55 AMG」。ノーマルのSL500をベースにAMGが開発した5.5リッターV8コンプレッサー(スーパーチャージャー)ユニットを搭載したモデル。厳密には5,438ccとなる凄まじい加速力を発揮するこのエンジンユニットの組み立ては、レーシングカーのように1基ごとに一人の担当者がすべて手作業で行い、エンジンにはマイスターである担当者のサインプレートが添えられている。まず、大排気量エンジンのその勇ましい始動音に驚かされる。エキゾーストノートは独特の金属的な音色を含み、youtubeにはSL55 AMGのエキゾーストノートがたくさんアップされているほどだ。

それから、ハイパワーを受け止める先進のブレーキシステムSBCは電子制御で四輪独立した制動力制御を可能とし、ブレーキパッドのサイズもSL500のほぼ倍となり安全・快適性が向上されている。また、快適な乗り心地を実現するハイテク・サスペンションはABC(アクティブ・ボディ・コントロール)と呼ばれる、スプリングの代わりとなる油圧ユニットを採用した複数のパーツが複雑に組み込まれたシステムで2t近い車重をコントロールする。と、まるでCar雑誌のレビューみたいに書き連ねてしまったが、要するに電子部品の塊のようなこのモデルは発表当時、現代自動車工学の結晶と形容されたモデルだった。

当然、このような個体がオークションに出てくる可能性はあまり高くないし、素人が探し出すのは相当難しい。ここは信頼できるプロに託すしかないと考えたぼくが辿り着いたのは、京都にある欧州車専門の修理・販売会社だった。まず、サイトやブログから伝わってきたのは車に対する深い愛情だった。ここまでやるか!というほどの徹底的なメンテナンスは、本当に車が好きなければできないだろうと感じさせるものだったし、欧州車へのノウハウも蓄積されていて信頼できそうだ。さっそくメールで具体的な希望を伝えると丁寧な返信が届いた。なんでもこの会社の顧客のほぼ90%が地元以外の地域のユーザーなんだとか。これも信頼のバロメーターとなる。ワンオーナーで、屋根付きガレージに保管された禁煙車。そして毎年切れ目無く整備されて、その記録もきちんと残されている個体。それがぼくの希望した条件だった。すぐにそんな条件を満たす個体が出てくる可能性は低いものの、業者しか参加できないオークションにはそのうち必ず出てくるはず、気長に待ちましょうということですべてを託すことにした。そして待つことおよそ半年。ある日、やっと「条件にピッタリ叶う個体が出てきました」とメールが届く。オークション会場が東京だったから京都の会社が提携している業者に代理入札してもらうそうで、ぜひとも落札してくださいとお願いし、やっと夕方「無事、落札できました」と報告メールが届く。どうやら元オーナーは神田のマンションに住まう女性で、地下駐車場に保管されていたようだ。それに毎年、芝浦ヤナセでメンテナンス受けていたから、これ以上ないというほどのコンディションだという。やれやれ、待った甲斐があったというものだ。SLに乗る女性はそう多くないから、一体どんな人なんだろうと想像力を巡らせる。もしかしたら、銀座のママか?なんて馬鹿なことを考えているうちにメンテナンスを受けた注文品が陸送されてきた。配送先に指定した知り合いの自動車工場で到着した車のドアを開けると、保護シートにくるまれた室内からは新車の匂いが立ちのぼってきた。こうして一度も会ったことのない業者を介してその車は届けられ、その日からぼくの「SLな日々」がはじまることになる。

スポーツカーの宿命でシートが低いため、乗り降りは決して楽ではないが、ステアリング・フィールは思いのほか軽くて取り回しやすいし、重厚な安定感も流石。自慢のABCサスペンションはコンフォートを選択すると、道路の起伏を吸収してスポーツカーらしからぬソフトな乗り心地を味わえるし、高速道路でその加速力を試すのには検挙されないよう用心しなくてはならないが、なるほどというパワーや運転する歓びを体感することができ、やっぱりこれがSLのフィーリングなんだと実感させられる。燃費も無視できないし、環境に与える影響にも配慮しなくてはならないが、同時に車は操る喜びも与えてくれる。つまり、車は移動を可能にしてくれる道具であるとともに、心の隙間を少しだけ埋めてくれる道具でもあるのだ。たとえそれが錯覚に過ぎず、束の間の幻想なんだと分かっていても、平板な日常からもう一度生き返ったような気持ちになり、少なくともこの瞬間は自由なんだと感じさせてくれる、何ものにも代え難い素敵な瞬間を与えてくれる。

ぼくはかなり後になって知ったのだが、この「SL55 AMG」というモデルは故・スティーブ・ジョブズが讃え愛した車でもあったそうだ。なぜかジョブズはその愛車にナンバープレートをつけることを嫌い、「新車を買った場合は、ナンバープレートを登録してから車両に取り付けるまで最大6カ月間の猶予を設ける」というカリフォルニア州の車両法を活用してリース会社と協定を結んで新車に6カ月間乗ったあと車を売り払い、全く同車種の新車に乗り換えるという行動を繰り返して合法的にナンバープレートをつけない車に乗り続けていたそうだ。自分がナンバーによって規定されることを嫌うほど、彼の美意識は自由を欲していたのだろうか。ともあれ、いまでも彼の自宅の庭には、妻の車の横に寄りそうようにその愛車は保管されている。事実上のジョブズの遺作プロダクトとなったiPhone 4sにも、SL55 AMGと同質の濃密なテクノロジーと硬質な美意識、そしてエレガントな質感が凝縮されている、と「SLな日々」を過ごしてきたぼくは思っている。

さて、「愛車遍歴を辿れば、人生が見えてくる!」をコンセプトにしたBS日テレの人気番組「おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR, NO LIFE! 」では、毎回、番組終了間際に「あなたにとって、車とは?」というベタな質問をゲストにするのだが、ぼくならどう答えるのだろう。乗馬経験はないけれど、ドライビングにはどこか馬に跨り疾駆する快感にも通じるものが秘められているから、人馬一体に憧れるぼくの答えはこうなるだろう。「車とは?それは愛馬である」。