Botanical Art : Koji Kusunose

2011.10.02

ボタニカル・アートは植物学(Bortanical)と芸術(Art)を表すその語源通り、科学と芸術の二領域にまたがる植物画のことで、近年の自然志向を反映して日本でも静かなブームが続いている。その来歴は思いのほか古く、薬草を見分けるために古代エジプトなどで作られた図譜がその起源といわれている。まだ写真技術をもつことのなかった15〜16世紀の大航海時代には、未知の大陸で発見された植物などを記録する手立てとして発達し、17〜18世紀に入ると図鑑にまとめられたこれらの植物画は、貴族や商人たちの間でたいそう流行したそうだ。

ボタニカル・アートはできるだけ主観を交えない科学的視点に貫かれて描かれるため、必然的に匿名性を帯びた絵画と見なされることが多い。スタイルやルールについてはさまざまな定義があるが、基本的に実物大で描き、拡大縮小する場合には倍率を入れる。植物の特性は変えずに正確に美しく描写し、季節を超えて開花や結実を同じ画面に描いてもよい。また、背景や地面、花瓶・鉢などを入れないことなど現実的にはありえないが、そこにはできるかぎり植物の特性を端的に伝えるための視覚的な再編集が求められている。

植物画を描くことは自然の生み出した造型美に宗教的ともいえる敬虔な気持ちをもって向き合う、ある意味写経にも似た行為とも言えるのではないだろうか。しかし人間とは不思議なもので、どんなに私心や自我を消し去ろうと努めても、絵にある種の歪みが生じてしまうことは避けられない。人間は決してカメラになりきることはできないのだから、そこが実はボタニカル・アートの屈折した魅力ともなっている。

上の植物画は、すべて高知で制作活動するボタニカル・アーティスト、楠瀬浩二さんによるものである。 6歳年長の楠瀬さんとの出会いは今から28年前に遡る。当時ぼくは地元企業のデザイン顧問をしていて、その企業を介して楠瀬さんと出会った。80年代早々、その企業は新工場完成と本社移転に伴い、C.I(コーポレート・アイデンティティ)を導入することになった。新しいシンボルマークやロゴを基軸に広報ビジュアルを一新するこのプロジェクトの企画会社として白羽の矢が立ったのは、在京大手代理店を経由する名高いプロダクションでなく、なぜか四国は高知に本拠をおくデザインプロダクションだった。ディレクターとなったのは浜野商品研究所のブレーンで、インテリアデザイナーの泉順一さん(残念なことに泉さんは数年前帰らぬ人となってしまった)。泉さんは高知でPlaza Design Consultingという会社を主宰。そしてともにこのプロジェクトに、グラフィックデザイナーとして参加していたのが、泉さんの旧友でInk Spotというデザイン事務所の代表をしていた楠瀬さんだった。ぼくは現地デザイナーとしてこのプロジェクトに参加することとなり、足かけ3年にわたる協同作業は実に得難い経験となった。スパンの長い視点から組み立てられたプランニングと心理学的プレゼンテーション手法。問題点の抽出や現状分析から導き出される課題点や改善点。そこを基点にして、着実な具体化へと結びつけていく提案能力。こうした企画広報のイロハを、ぼくはこの出会いを通じて遅まきながら学ぶことができたのだ。

泉さんはかつて若かりし日の建築家、安藤忠雄氏と共に世界の建築を観て歩く旅に出る。そしてその道中、安藤の建築に対する凄まじいまでの情熱と集中力を目の当たりにして、この男と同じ世界で活動してもとても適わないと思い直し、進路のベクトルを建築からインテリアにシフトしていくことにしたのだと生前語ってくれたことがある。しかし泉さんはPlaza(=広場)の命名精神を見事に貫き、人間を真ん中に据えたそのデザイン思想を実践しながら多くの実績を重ねていった。大阪に拠点を移す頃には(株)PDCの代表として400名の社員を抱える企業に育てあげるまでになっていた。ボスコ設立時にはぼくが購入を希望していたCassina(カッシーナ)の家具類を特別価格で納入するよう販売元と交渉して門出を祝ってくれた。

楠瀬さんとのおつきあいは長きにわたり、そして深いものとなった。80年代、高知に新生INKSPOTを設立し、デザインオフィスに併設したギャラリー(ギャラリー・パン)では、1987年から1993年まで67回にもおよぶ展覧会をプロデュースして、楠瀬さんは岡本太郎や遠藤享といったさまざまなアーティストと親交を結びながら、その活動範囲を高知の文化活動にまで広げていった。そんなデザイナーの枠を超える活動の中から、高知産業デザイン振興協議会の設立や土佐鰹プロジェクトなどが生み出されてきた。楠瀬さんらが中心となって企画した「黒潮グラフィティ1991・1993」にはぼくも講演者として招かれたり、ボスコの設立パーティには友人デザイナーを伴って高知から駆けつけてくれたり、途切れることのない親交を重ねてきた。それに遠藤享さんと引き合わせてくれた楠瀬さんは、狭い井戸からぼくが抜け出るきっかけを作ってくれた恩人でもあった。

ほんとうに人との縁(えにし)とは不思議なものだ。縁が縁を結び、その縁はまた別な縁を引き寄せる。 ある日、楠瀬さんから電話が入った。その頃大阪のPDCに籍を置きデザイン活動していた楠瀬さんは、東京のある企業の会社案内のデザインコンペに参加することになったので一緒に参加してみないかと誘ってくれた。基本的にコンペは参加しないことにしていたぼくも、他ならぬ楠瀬さんの誘いということもあり、思い切ってプレゼンしてみることにした。結果は意外にもボスコのプランが受け入れられることになり、そこからその企業との10年以上にわたるつきあいが開始されることになった。こうしてボスコのデザインは、グラフィックから商環境の空間デザインへと広がり、そこからまた、現在取り組みに傾注している企業の仕事へと縁のバトンが渡されていくことになる。それもこれもすべて契機は楠瀬さんが引き寄せてくれたものだった。ぼくは誰が師匠だったのかと聞かれたら、それはデザインの基本を伝授してくれた上、展開していく道筋まで用意してくれた、この楠瀬さんをおいて他にいないと思っている。

しかしその人は、ある機を境に騒々しいデザインの世界ときっぱり決別をする。2000年頃より郷里の高知嶺北に移り住み、植物画家としての創作活動を本格化させていく。日がな一日、高知の山野に出かけては草花と向き合い、時折届く個展の案内状にはこんな一文も添えられていた。

「ここら辺りでは家のまわりや道端にもツクシやフキノトウがあちこちで顔をのぞかせ、川原にはネコヤナギが春の陽ざしに輝いている。そんな穏やかな光景を眺めていると、子供の時に過ごした街の都市化がすすむにつれて遠のいていく“原っぱ”の記憶が甦ってくるようで、心のひかれるままに「春芽秋実」を描いています。」

ずっと時代と切り結んできた楠瀬さんは、いまや自身の心に広がる広野を逍遙する旅人のようだ。二ヶ月に一度ほどの割合で「どうもどうも、元気でやってますか」と懐かしい長電話がかかってくる。世俗から離れた超然を気取る風もなく「デザイナー時代とくらべたら、毎日のんびりしたもんですわ」と土佐っ子の屈託ないその声を聞きながら、かつてはグラフィックデザイナーだった楠瀬浩二さんに先導されるように歩を進めてきたぼくは、その水先人が今見つめる視線の先に目をこらしてみるのだが、手元の清々しい数葉の植物画は水先人の平穏な心情をただにじませているだけだ。