Earphone : SHURE SE310

2010.10.01

音楽のない仕事場はどうも落ちつかない。これまで一度も会社勤めの経験のないぼくは、ずっと何かしら音楽を流して仕事をする習慣が染みついてしまっているので、気にいったBGMは労働条件の必須アイテムとなっている。
昔はコンピレーションしたテープを持ち込んだり、1枚づつレコード(懐かしい!)をかけ直したりしていたので、思い返せば音楽を聴く合間に仕事をしてたような、それはそれはのんびりとした時代だった。CD化されてからは5枚連続再生できるプレーヤーを利用して多少仕事に集中できるようになったが、デジタル時代の到来によってそんなBGM環境は一変する。JBLのパソコン用スピーカーをセットして、もっぱらMac iTunesのライブラリーに読み込んだ曲をリピート再生する方法に移行したが、やがてそれも飽きてくると、今度はiTunesの中にあるさまざまなジャンルのラジオ局から気の向いたものをチョイスしては一日中流しっぱなしというスタイルが定着してきた。各ストリームには100〜200もの局が登録されているので、その選択肢は相当なものだ。どこもほぼ切れ目なく音楽だけが流されているので、まあ、有線放送と似たようなものだけど、世界各地のさまざまなwebラジオ局を試してみるのもけっこう楽しいものである。時折ナレーションが入る局もある。それが聞きなれない言語だったりすると、今やインターネットは世界規模でシステム構築されているんだということが実感させられる。最近はジャンルも次第に定着されて、Ambient(環境音楽)113ストリームの中から、「Groove Salad from SomaFM」とか「radioio AMBIENT」などといった局をその日の気分で選んで聴いていることが多い。
ところで前から不思議に思っていたのだけれど、これらラジオ局は一体どこで収益をあげて運営されているのだろう。コマーシャルしていても言語が理解できないからそれが広告であるとは気付かないのか、それとも音楽そのものがコマーシャルソングだったなんてことがあったりして、フシギ、フシギ。 誰か知っていたらぜひ教えてほしい。
さて、こうした鑑賞環境の変遷にともなって、必然的に音楽との向き合い方も多様化してきた。昔はそれなりにきちんと音楽と向き合って聴いていたのに手軽に扱えるようになるにつれ、音楽はなんとなく回りに漂っているという印象が強くなり、存在感が次第に希薄になってきた。車に乗って聴く音楽は、職場のBGMよりやや近く感じられ、iPodにイアホンを差し込んで聴く音楽とはしっかり対峙するという風に、ぼくの音楽の聴き方は重層化してきた。しかし、お手軽に音楽を扱ってきた報いなのだろうか、最近とみに音楽に対する興味が薄れてしまった。帰宅してもまったく聴かないこともあり、目薬の点眼中にクラシック音楽に耳を傾けることがあるくらいだった。
そこでこれではいけないと反省し、ぼくはもう一度きちんと音楽と向き合うためにイアホンを変えてみることにした。これまで使っていたものはiPodの純正品。「そんな音は論評に値しない」と本格的なオーディオマニアからは酷評されていたiPodだが、高品質なイアホンに変えてみるだけでその音は一変するときいていたので、何かよい製品はないかと探してみることにした。
ネット検索学習の末、絞り込んだ製品はSHURESE310-KJ。遮音性がきわめて高い本格的なカナル型イアホンだ。カナル型とは耳栓のような構造から遮音性を発揮しダイレクト感がより高まるイアホン構造のことで、このタイプは低音から高音までスマートな音揚感があって、同シリーズの上位機種と較べても抜群にバランス感に優れているという評価が決め手となった。さっそく購入して試してみると、やけにコードの擦れる音がして何だこりゃと戸惑ったが、セッティングが間違っていた。「シュアー掛け」と俗に言われるそうだが、コードを耳の上を通して後ろ回しに装着すると最適なフィット感が得られるという正式なセッティング方法が図解入りでSHUREサイトに紹介されていたので、これで準備OK。iPod本体より高額だったが、なるほど伊達にお金はとってないなと思わせる音質である。音の解像度が高いというか、音像がくっきりと立ち上がってくる。こんな音がここに隠れていたんだといった小さな発見もある。今まで聴いていた音はなんて平板なものだったんだろう。おかげでこれなら音楽と復縁が果たせそうだ。
ところで今回の学習過程で初めて「エージング」という言葉を知った。本来、老化(aging)を意味する言葉だが、プロダクトの場合、特にオーディオにおいては製品が安定動作するまで動作させることを「エージング(=鳴らし込み)」と呼ぶのだそうだ。測定上の違いはほとんどなくても、人間の耳にははっきりとその違いがわかるというから人間に備わる潜在能力というのは本当にたいしたものだ。早いものでは数日、通常一週間から3ヶ月、長いものは3年を要する場合もあるという。エージング用にノイズの入ったCDまで売っている。暖機運転とか慣らし運転のようなものなのだろうか。しかしそんなに長くかかると、それまでに製品自体が壊れてしまいかねないような気もする。ところでこうしたことは何もプロダクトに限ったことでなく、例えば人間関係にだってあてはまるのではないだろうか。どうエージングしてもダメな場合もあるかもしれない。ただ、さまざまなノイズを経て緩やかに能力を発揮してゆくというこのプロセスにはなにやら深淵な意味が隠されているような気がしてきた。

先日TVを見ていたら姜尚中さんが出ていて、いろんな音楽鑑賞変遷の末に最近はバッハをよく聴くようになってきたと言っていた。両親や大切にしていた親友もすでにこの世にはおらず、そんな時に還暦を迎えた自分の心にしみ込んできたのがバッハの音楽だったという。その音色は「このまま生きていきなさい」と語りかけてくる肯定の癒しであると同時に、きちんと生きなければならないという静かな叱咤激励の声でもあるという話にちょっと共感してしまった。

新しいイアホンが来てから、ぼくの心にもしみ込んできた曲がある。それは無印BGMシリーズの最新版15に収められている曲、「Holy Year Music-The Purification of the Blessed Virgin Mary」。このアルバムにはチェコ・バロック時代の作品が収録されている。この国の人々に長く愛されてきたヤン・ディスマス・ゼレンカの曲を中心に、同国で活躍中の精鋭のミュージシャンたちによって演奏されているチェコ・バロックの数々。中でも哀感を湛えたこの曲は、印象的な主旋律を奏でるメインとなる楽器が入れ替わりながら、小節ごとに一瞬途切れるという構造をもっていて、まるで真珠の連なる首飾りのような可憐な印象を与えている。ブレスをつぐ度に訪れる一瞬の静寂。その度に少しだけ切なくなる。 音楽にとって重要なリフレインは、聴くものの心を揺さぶるとても大切な要素だ。またあのメロディが繰り返されるという期待感。そして今度はちょっとだけ違ったという心地よい驚き。この反復する快感は多くの楽曲に活用されているが、すべてがその特性を十二分に発揮しているわけではない。ゆっくりとエージングを重ねながら、この小品をぼくはリフレインの名曲としてひっそりと記憶していたいと思う。