「登攀者−帽子−」2002
「漂い始めた表面」2001
「油彩」 2007
「油彩」 2007

2010.8.02

今年の初春の遅い午後、ぼくは銀座の昭和通りを歩いていた。久しぶりにこちらに出向く用事があって少し時間が作れたものだから、いつも案内状を受け取るものの足を運ぶことが叶わなかった或る美術家の個展会場に向かっていた。油彩と立体作品は少し離れた二つの画廊に分けて展示されていた。最初に向かった画廊の扉を開けると、入り口付近で長身の男性が三脚を立てて作品を撮影していた。およそ20年ぶりの再会となる作家本人、橘田尚之さんだった。
高校時代から二十歳過ぎまでの間、美術を志していたぼくに最も影響を与えた人たちがいた。三つ年上の、橘田さんと田中さんという先輩である。二人は当時、キッタナカと呼ばれるほど良きライバルと周囲からも目される同級生で、ぼくは対照的などちらの才能にも惹かれていた。まず先に出会ったのが橘田さんだった。橘田さんは芸大絵画科に入学するまでの数年間、郷里に帰ってくる度に学校を訪れてはぼくらを指導してくれた。部室を訪れた数人の先輩の中でも、とりわけぼくは橘田さんから大きな影響を受けたので、いわば青春時代の師弟関係を結んでもらった人だと今でも思っている。
部活における先輩という存在は、美術に限って言えば予備校の講師のような存在といえるだろう。受験情報がほとんど入ってこない地方から美大を目指す高校生にとって、東京の予備校で浪人している先輩たちのレアな情報は何よりも貴重なものだったし、まだ入学を果たしていない先輩たちにとっても、それは後輩を指導することで自身の習熟度合いを計るよい機会となっていたのかもしれない。いま思えば信じられないほど謙虚に、ぼくらはなんでも吸収しようと身構えていた。あらゆるものがまだ青く、しなやかな芽吹きの季節だった。
石膏デッサンとは「見つめる」「描く」という単調な反復行為を通じて、存在物を形象化するプロセスの報告書のようなものだ。それを見れば、対象物をどのように観察し、解釈したのか、そして表現することができたのか如実に判断することができる。橘田さんとイーゼルを並べて石膏像に向かう度に、捉え方のスケール感の違いを痛感させられた。無口な橘田さんの姿勢は終始一貫していた。一言でいえば、それは小さく固まらないで大きく広がっていく、遠心的な絵画を目指す姿勢だ。あるいは見えないフレームの外側まで描くことができるのだと肯定する絵画を目指していたともいえる。とんだ勘違いだったかもしれないが、とにかく当時のぼくは、橘田さんの絵画と向き合う姿勢をそんな風に受け止めていた。ナビ派の画家、ピエール・ボナールのことを教えてくれたのも橘田さんだった。上京してからぼくは何度となく、その作品を見るために上野の西洋美術館を訪れた。ボナールならではの乾いた質感と、燃えたつような鮮やかな彩りは今も鮮烈に目に焼き付いている。
橘田さんの印象は一貫してぼんやりととらえどころがない。しかし出会った時から、茫洋としたヴェールの内部には強靱な意志が潜んでいることをぼくは知っていた。今ならそれをはっきりと断言することができる。当時ぼくの周囲には美術を志していた大勢の人たちがいた。そして半世紀近くたった今、表現活動を継続している人はほんの数人しかいない。
70年代は一緒にグループ展に参加していた時期もあった。その頃の橘田さんはリキテンシュタインのような歯切れの良い巨大なポップアートや、スチール部品を組み合わせたジャンクアートを出品していたこともあったが、70年代末期からは次第に作風は定まり、ぼくが美術雑誌などで橘田さんの作品を見かけるようになった頃には、酸化被膜を施したアルミニウム板による立体シリーズを本格的に展開するようになっていた。
やがて橘田さんの表現について、美術雑誌などでいくつか評論を見かけるようになる。どれもが美術界の中でしか理解されないような硬質な文章ばかりでおよそ興味をひかれるようなものではなかったが、ひとつだけ面白い指摘があった。橘田さんの立体作品は立体としての表現を目指したものではなく、平面表現を推し進める過程で結果として空間に張り出してきた平面体の集積である、とこんな大意であったかと思う。案内状には立体作品について作家自身のこんな一文も掲載されている。
「酸化皮膜を施したアルミニウム板で作った立体の内部は空洞である。一目見ればそれとわかるので視線は内部に行かず、錆の斑紋や斜めの構成等により表面を滑る。視線を風に例えると、表面の形状により浮力が生ずるのではないかと思えた。作り続けるうちに、このような身体感覚を伴った視線を得られる絵画を作りたいと考えた。」(「橘田尚之—アルミが飛ぶとき」作家訪問 美術手帳8月号1987)
立体は不思議な躍動感を宿しているのに、なぜか量感を主張することなく、あくまでも絵画的佇まいを崩さないので、鑑賞者は作家の言うように表面に視線を滑らせることになる。酸化皮膜とアルミニウムのコントラストが織りなす不思議なテクスチャーは、その境界においてさまざまな物語を紡ぎだしている。ふたつの身振りのせめぎあいから亀裂と起伏が交互に発生し、鑑賞者の視線を誘導する。それは作家がかつて辿ったであろう視線の追体験でもある。あたかも泉から同時に湧き出す悲劇と喜劇のように、対立する二項のどちらにも属さないもうひとつの場所を探し求める旅にも似た追体験とも言える。
久しぶりの再会に話もはずみ、二人して歩きながらもうひとつの会場に向かう。そこには絵画作品の小品が展示されていた。遠目には印象派絵画のようでなぜか懐かしさを覚える。このシリーズについての作家のコメントがある。
「絵画での空洞の具体化は二つの方向を生んだ。窪地や穴を描いた油彩と、キャンバスに穴をあけた作品である(キャンバスを切り抜き、アルミ板を嵌め込むと、空洞にふたをしたような気がした)。絵画を見る視線は内在するものを求めて、絵画の奥に入って行こうとする。しかし空洞が暗示されているので視線は横に逸れ、メデュームのざらつきや艶を感じながら表面を滑ることになる。」(ドローイング’90「視線の航跡」讀売新聞夕刊4/21 1990)
橘田さんは「奥行き」「視線」そして「空洞」を、常に身体感覚を仲立ちにして思考しているように感じられる。決して内部に潜り込んでいくのでなく、たわみながら外部に飛び出そうとしているかのようだ。先頃、神奈川の養護学校を勤めあげた橘田さんはやっと時間が割けるようになり、油彩制作を再開したのだそうだ。集中力を持続することが求められるという。油彩を制作するということは、そういうことだったのだ。小品を見ながらぼくは、こんな絵なら1枚欲しいなと思った。橘田さんの造形は、はじまりもなけば終わりもない。常に浮力をともなってフレームの外を希求しつづける羽ばたきの造形なのだとぼくは思う。青い時代の石膏デッサンとその原型は何ひとつ変わっていない。