Above_You Tube (Detail)
Below_CD cover (Detail)

2008.8.01

ぼくは小田和正が好きだ。いや、もちろん彼の歌の話です。も少し正確に言うと、彼の描き出す1シーンに魅かれている。発売されたCDだってほぼすべて持っている。
オフコースのメンバーとしてスタートしたそのキャリアは長くてずっと根強い人気を誇っている。引きをきらないCMソングとドラマ・エンディング曲への依頼やアルバムセールスなどを見れば、間違いなく大成功したミュージシャンの一人と言えるだろう。
しかし、世の中の理としてかならず成功者には異論がつきまとう。まるで中高校生の日記みたいなあの歌詞は何なんだ、ちょっと勘弁してほしい、一体どこまで本気なの、とかとか…エトセトラ。(でも本気なら、還暦過ぎた男の歌詞として、考えようによってはそれはそれですごいことなのかも知れないけれど)
ただこの言い回しさえなければ丸ごといい曲なんだけどなぁ、という作品はたくさんある。タモリさんは小田和正嫌いで有名だけど、その気持ちの半分以上はぼくにだってわかる気がする。それにずっと昔からアルバムのジャケット・デザインはどれもこれもひどいものだった。よいものがひとつもないということは、レーベルやプロデューサーの問題でなく、やはり原因はアーティストの感性に帰結するはず。余談ですが、ぼくはあまり見たくないものが近くにあるのが耐えらない時には、自分でデザインすることにしている。例えばパソコンで使うアプリケーション・ソフトの教本の類いには、けっこうひどいものが多い。そんな時は、新たにデザインしてカバーを巻き直してから、やっと本文を読みはじめるなんてこともあったりする。ミュージックCDも同様だけど、最近は買ってもすぐにi-Podに移してしまうので、さすがにデザインし直すことはもうあまりない。さて、話を戻します。いろんな「う〜ん、ちょっとねぇ〜」という小田和正への異論の嵐はけっこう根強く渦巻いていて、ぼくはその中でずっと孤独だった。好きだなんて言うと、なんかカミングアウトするような気持ちになってしまう。昔、矢野顕子がインタビューで「私、ほんとは小田和正さんの歌が好きなんです」と答えていたのを読んでほっとしたことがあったっけ。
もちろん異論を覆いつくす共感の嵐もあるのだろうし、別に好きなら好きでとやかく言わず黙って聴いてろ、という声もあるだろう。でもぼくは、いつもなら興味なしの屑篭に放り込んでしまう要素の強い小田和正の音楽に魅かれるのは何故なんだろうかと長いこと気になっていた。
小田和正は東北大学と早稲田大学院で建築を専攻していたそうだ。しかし彼の曲に建築的な造形力はあまり感じられない。音楽は時間、建築は空間を通じて表現されるけど、作家の完結させようとする意志の強さによって、その作品の構造体としての強度は左右されてくるのだと思う。小田和正は曲を完結させようとする意志が弱いのだろうか。曲に造形力が感じられない要因は楽曲にあるのではなく、歌詞の完成度にあるのかもしれない。(作詞家・島崎藤村の「惜別の唄」などは何という高い完成度か!)
むしろ小田の描きたいものは、一瞬一瞬のディティールにこそあるのではないだろうか。以前このブログでランディ・ニューマンについて、「彼の音楽は、わたしたちが聴いたことがあるような気がするという錯覚を利用して再現された印象的な1シーンなのだ」と書いたことがあるが、特性はそれに近いものなのかもしれない。ある一節を聴くと、もうこれで充分と感じることがある。完成されたディティール。他のパートはそれを支える背景にすぎない。こんな聴き方はかなり問題多いと思うけど、そうとしか言いようのない瞬間がある。アップテンポは柄じゃないが、いくつかの叙情的な一節はたしかに素晴らしい。おおげさに言うと、日本に生まれてきてよかったなあ、なんて思ってしまうのだ。
青春は決して安定することのかなわない未完の代名詞として語られることが多いけど、その意味で小田和正がずっとつくりだしているのは、まぎれもない青春の音楽なのだと思う。何よりあの澄んだ歌声には未完の切なさが湛えられているではないか。人は彼の歌を聴くたびに、自身の未完となってしまった「言葉にできない」瞬間をそこで追体験する。コンサート映像で目を潤ませて彼の曲に聴き入る多くの観客を見ていると、そんな気がしてならない。それはパンクのように反抗のアクションとして放り出された未完ではない。それなりに完成しているかのようには見えるけど、円熟するためには青く、決定的に何かが足りない、そんな未完のカタチだ。
先日TVに人形浄瑠璃の人形作家が出ていて、人形の表情を完成させては駄目なんだと言っていた。少し表情は曖昧なままにしておくことが大切なのだと、そうでないと操る人が感情を表現することができなくなるのだという。歌だって聴いた人がそこに個人的な記憶のかけらを重ねてはじめて輝き出すことだってある。未完の表現を侮ることはできないのだ。