ポートレート:
上からチャールズ・ダーウィン、ジャン・アンリ・ファーブル、今西錦司、福岡伸一。
絵画作品:
上から5点目より「真珠の耳飾りの女」(青いターバンの少女)1665年  マウリッツハイス美術館所蔵、
「デルフトの小道(小路)」1558-1559年頃 アムステルダム国立美術館所蔵、
レンブラント「自画像」 1640年 ロンドンナショナルギャラリー、
フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ラウテンブルフ副隊長の市民隊(通称)夜警 1642年 アムステルダム国立美術館。

2016.11.01

「突然変異」と「自然淘汰」で説明されるダーウィンの進化論は、たしか少年時代に生物の授業で出会ったと記憶する。しかし、長いあいだ常識となっていたこの進化論も、近年はとみに分が悪い。そもそも進化というものが、そのように時系列に沿って進行していくものなのか?人間について考えてみれば、大きな疑問符がついてしまう。なぜなら、自然に対しての適応力、対応力は明らかに退化しているではないか。昔の人なら苦もなく出来たであろう多くの事が、現代人にはとてつもなく困難な事となっている。それともこれは環境の変化に応じて生じる適応力の入れ替え現象にすぎないのだろうか。当のダーウィンも、進化の度合いが異常に早かった人間については、進化論が一番あてはまらない生物であると述べているし、ダーウィンの共同研究者だったアルフレッド・ウォーレスは「人間が猿から誕生することなどあり得ない」とまで言い切っている。「猿は猿」「人間はもともと人間」ということなのだ。

進化論に沿うなら、進化の過程の生物が発見されるはずなのだが、前段階の生物や中間生物はほとんど発見されていない。むしろ最初から完全に近い形で突然出現したと考える方が自然とする論が主流となっている。ファーブル昆虫記のアンリ・ファーブルも、生き物は生まれたときから完璧なシステムをもっていることを知っていたから、決して進化論には組みしなかったといわれている。では、進化は突然変異によってもたらされるのか。最近の科学はこれにも否定的だ。なぜなら、突然変異では情報が失われてしまうため、進化をもたらさないことが分かってきたからだ。四面楚歌なり、ダーウィン進化論。

ところで、生物学者である福岡伸一さんの活動はなかなかに興味深い。最近面白いコラムを見つけた。朝日新聞掲載の「福岡伸一の動的平衡」。テーマは「新たな地点へ登り続ける」。少し長いが以下に転載してみる。

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なぜ山に登るのか。そう問われた英国の高名な登山家ジョージ・マロリーは「そこにそれがあるから」と答えたそうな。日本を代表するナチュラリスト・今西錦司は生涯に1552座もの山に登った。同じ質問に対して、今西が語った答えがふるっている。「向こうに山が見える。その山に登ったら、また向こうに高い山があった。だから次々と山に登ります」

これは学ぶことの本質を巧まざる表現で言い当てた名言ではないだろうか。一生懸命、勉強してある地点に達する。するとそこからしか見えない新たな視界が開けてくる。人はその視界の向こうにあるものを目指して、また次の一歩を踏み出す。

今西は、カゲロウの生息分布をたんねんに調べることによって、同じ川であっても流れの速度や水の深度によって、異なる種があたかも互いに他の生命を尊重するかのように「棲み分け」ている様子を発見した。そこから彼は種というものの主体性を考えるようになり、進化は「変わるべきときがきたら、みな一斉に変わる」と言った。

これは生物進化を突然変異と自然淘汰だけから説明する正統ダーウィニズムとは相いれない考え方だった。今では今西生命論は否定され、忘却の彼方にある。が、同じ京都学派の系譜に連なる者として、私は今西錦司の孤高を、いつも視界の向こうに仰ぎ見る。(2016.10.6)

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福岡さんはここで「今西生命論は否定され、忘却の彼方にある」と書いているが、冒頭のような変化の兆しを見れば、現代科学の潮流は迂回しながら今西錦司の愛した山裾に向かっているようにも感じられるのである。

実は、この分子生物学者にはもう一つの顔がある。福岡さんは17世紀のオランダ人画家ヨハネス・フェルメールの研究者としても世界的に知られている。1988年、初めて見たフェルメールの作品に衝撃を受けて以来、フェルメール芸術を探求する旅を続けている。フェルメールは世界を解釈しようとはしていない。ただ世界をあるがままに記述しようとしている。それもまるで科学者のようにできるだけ正確に…。彼の絵の中には世界を解釈しようとか、自己主張といったエゴがなく、あくまでも静かで、公平で、透明で清明。そんなフェルメールのフェアで奢りのない精神に共鳴し、時系列で全作品を捉え直してフェルメールが目指したものや人生に目をこらし、作品のあいだに潜む文脈を浮かび上がらせようと、たんなる作品研究にとどまらない情熱を注いできた。

そこから編み出されたのが、リ・クリエイト(re create=再創造)という手法だった。それは絵画研究の方法論として、最新のデジタル技術を応用した検証方法を活用する手法だ。フェルメールが使っていた絵の具の種類や材料は記録が残っているので、350年を経て退色してしまった色彩が制作時はどのような色彩だったのか、という科学的な推測が現代では可能となっている。そこで、そうした科学的あるいは化学的な検証と膨大な資料を結集させる。そして、作家が求め描いたであろう当時の色彩をとり戻すべく、最新のデジタル技術を駆使した画像処理で本来の色彩を再現し、当時と同じキャンバスに最新デジタル印刷機で印刷をおこなうことで複製画の域を超えた、「再創造」する新しい複製手法を生み出した。もちろんそこに活用されるのは科学的、化学的検証だけではない。

例えば、福岡さんがテレビの特集番組で紹介していたのは、フランス・ブライセンハウト氏による研究成果。フェルメール作品のほとんどは彼のアトリエ内の光景がモチーフとされていて野外風景は2点しか残されていない。そのうちの1点、「デルフトの小道(小路)」が、一体どこを描いたものなのか、長いあいだ謎とされてきた。フェルメールは生まれ育った小さな町デルフトから生涯出ることがなかったから、野外風景もこの町がモチーフとなっているのである。

ところが最近謎を解く糸口となる出来事があった。デルフトの350年前の納税記録が発見されたのだ。ブライセンハウト氏が注目したのは、当時デルフトでは家の間口の広さによって納税額が決められていた事実だった。フェルメールはあらゆる細部を非常に正確に描き出したと考えられていることから、まずこの絵に描かれた家の間口サイズが割り出された。さらに描かれている2つの入口がついた路地のような特徴的な通路という、これら2つの情報が納税記録と照らし合わされ、割り出された場所はアドラントゲン・クラース家の前6.2メートル。なんとここはフェルメールの叔母の暮らす家だった。そしてそこからひとつの仮説が提出された。「小路」に描かれている女性の一人は叔母にあたる人物ではないか。家の前でおはじきで遊ぶ2人の子どもはフェルメールの従兄弟にあたる子どもたちではないのか。

現存するフェルメール作品はわずか33〜36点と言われ、展示されている美術館も世界中に分散しているが、リ・クリエイトによって複製された全作品を同一空間に作成順に並べることはできる。そこで彼の全生涯を再体験してみようという福岡さんのアイデアから生まれた「フェルメール 光の王国展」は、日本やニューヨークで2012年から2015年まで巡回開催され大きな反響をよんだ。

こうした新技術の応用はフェルメールだけにとどまらない。フェルメール同様、オランダの光を描いたと言われるレンブラントはフェルメールとほぼ同時代に活動した画家であるが、現存する絵画作品は、どれも制作された当時の姿のまま残っているわけではない。レンブラントの代表作と名高い「夜警」(通称)にも実は不運な歴史があった。「夜警」は市役所に移行されることとなり、その際設置場所に収めるために、何と左側と上下の一部が切り落とされてしまったのだ。それによって構図は台無しとなり、レンブラントの意図は致命的なダメージを被ってしまった。そこで、現代の研究者たちは本来の姿を取り戻すべく、標準的なキャンバスの幅やキャンバスを張った際に生じる布の歪みに関する現代の知識を駆使したデジタル処理で切り落とされた部分を再現したのだ。他の事例ではX線によって絵の具の下に描かれていたもう1枚の絵を探り出したり、画家が何を求めていたのかを様々な角度からアプローチする研究が盛んに行われている。2015年には、リ・クリエイトにARという3次元CGの検証手法が加わり、より重層的な謎解きが楽しめるようになった。(この拡張現実の活用法はlexues NEWSのページに詳しく説明されている)

このように新しい技術によって修復は明らかに進化を遂げ、現代技術の応用手法は歴史の闇に埋もれていた数多くの謎に新たな光をあてる試みとなっている。それにしてもその発想が、科学と芸術の接点から生み出されているのはなんとも暗示的ではないか。知の源流はただひとつということか。

進化とは一体なんだろう。350年も昔の謎をいまだに探り続けているのである。私たちが生きている世界を流れる時間は、近代以降その速度を急速に増しているが、その流れに溺れまいと現代人が奔流にさしている棹こそが、DNA解析のヒトゲノム計画(Human Genome Project)に連なる分子生物学など、蓄積された現代知を駆使してひとつずつ解き明かしていく新技術の応用なのではないのか。地球上にはおよそ2,000万種の生物が存在するという。しかもそれらは最初から完璧なシステムをもっている希有な創造物である生命体だ。つまり、進化とは自身が完璧な生命体であることをひとつずつ確認していく過程の別称なのかもしれない。