Top: Bachman's Pinewood Finch
Middle: Black-cap Titmouse
Below: Western Blue bird
by John James Audubon

空の鳥たちに学ぶ

John James Audubon
2009.6.02

ジョン・ジェイムス・オーデュボン(John James Audubon)は北アメリカの鳥類研究家、そして画家である。1838年に発表した画集『アメリカの鳥類(Birds of America)』で広く知られるようになった。ぼくは写実的な鳥の絵をネットで探していて、遅まきながらこのオーデュボンという画家の存在を知ったのだった。
動植物を描く作家は古今東西ほぼ例外なく、その対象物に対して深い愛情を示す。描くことに情熱を注ぎ続けるのは、いわばその愛情のひとつの証なのだろうが、オーデュボンも筋金入りの「鳥を愛した男」だった。絵を見ればそれはよくわかる。この画集では一羽一羽がほぼ原寸大で描かれている。それまでごく一般的だった標本を元に描くという手法をとらず、実際に野鳥を観察しながら原寸で描いたのは、鳥たち固有の生命そのものを捉えたいと願った彼にとってはごく自然な行為だったと思われる。
オーデュボンは西インド諸島のサント・ドミンゴ島(元ハイチ)生まれ。フランス人の母親との死別後、フランス人船長オーデュボンの養子となり、7歳でフランスに渡って画家ダビットに絵画の手ほどきを受ける。そして18歳でアメリカに移り住み、27歳で市民権を取得するも、その後商売に挫折したりして経済的苦難に見舞われる。しかし自らの才能を信じ、鳥を観察しながら絵を描き続ける日々を送っていた。そうしてようやくまとめた画集だが、アメリカでは出版元は見つからず、イギリスに渡った末に実現されたのだという。だからアメリカの鳥類画家といわれても、経歴からはかなり屈折した過去を背負った人物であることがわかってくる。
見るという行為は幾重にも意味を内包している。観察、感受、想像、思考などなど。煎じ詰めれば、見ることはこの世界の在りようを知ろうと希求することにほかならない。そしてそこに出現する世界の不思議を目撃したいと願う祈りの行為でもあるのだと思う。
我が国にもかつて奄美の亜熱帯景観を祈るように凝視し続けた田中一村という孤高の花鳥画家がいた。東京美術学校の同期生、東山魁夷を嫉妬させるほどの画才をしめした一村だが、狷介孤高の性格もあって、理解者を得ることもなくその後の人生は不遇なものだった。晩年、「絵かきは、絵筆1本、飄然として旅に出るようでなければいけません」(NHK出版刊行・田中一村作品集・4頁より引用)と列島を南下して奄美に移り住み、紬織り染色工の職を得て最後の画業に専念することになる。そこで亜熱帯の植物群という天命のようなモチーフと出会い、極貧生活の中で黙々と描き上げられた名作は、粗末なトタン葺きのアトリエに人知れず残されていった。69歳で誰に看取られることもなく生涯を閉じた一村もまた見る人であった。もちろん、画家は誰だって見る人に違いないのだが、オーデュボンや一村の見るという行為には、なにかしら過剰なものが含まれているような気がしてならない。そしてその過剰さが、彼らの絵を簡単には忘れられないものにしている。
ところで鳥といえば、ぼくの仕事場は鳥獣保護指定地区内にあるので、春ともなるとたくさんの鳥たちが飛び交い、可愛らしい鳴き声で住民たちを楽しませてくれる。鳥類に疎いぼくはどんな鳥が鳴いているのかさっぱりわからないけれど、鳴き声が届く瞬間、柔らかいネットで鳥たちとともに包み込まれるような幸福な自然との一体感を感じとることができる。ウグイスの「ホーホケキョー」などは絵に描いたような「ホーホケキョー」なので思わず笑ってしまうけれど、鋭く空に解き放たれる澄んだ声の潔さには、何度聞いても惚れ惚れとしてしまう。
これってけっこう贅沢なことなのかもしれない。音楽だってなかなか簡単にこんな気持ちにはしてくれない。いろんな幸福の形があるのだろうが、こうした自然との一体感は生命体に共通する、かなり原型に近い幸福感なのではないだろうか。この感覚を強く実感したことがある。10歳頃の思い出だ。自宅近くにある松林には直径数メートルもある巨石がゴロゴロ転がっていて、猿のような身のこなしで岩から岩に飛び移る快感の虜となったぼくの格好の遊び場となっていた。冷静に考えたらかなり危険な行為で、ひとつ間違えると大怪我をしかねない。しかし今思いおこしても不思議なくらい、その時のぼくは絶対の自信に支えられていた。すべての岩の形状や位置は頭の中に正確にインプットされ、意のままに身体をコントロールすることだってできる。飛び移る瞬間に身体の奥から生命力が溢れるようにわき上がってくる、そんな幸福な一体感を飽きもせず繰り返し味わっていた。ぼくの人生における生命力のピークが、あの時だったことは間違いない。ぼくは思うのだが、鳥をはじめとする動物たちは、ぼくらよりはるかに密接に自然に溶け込み、その生命力を謳歌しながら幸福感を彼らの生の糧としているのにちがいない。
中沢新一さんの新刊『鳥の仏教』には、宝石のような美しい仏教経典『鳥のダルマのすばらしい花環』の翻訳がおさめられている。そして巻末に添えられたテキスト『今日のアミニズム』ではこれから世界が必要とする、経典のもつ重要性が深々と語り出されている。そこにこんな一節がある。「人間は自分たちの世界のことばかり考えているのではなく、正しい生き方を知りたいのなら、空の鳥たちに学ばなければならない、とイエスは言った。その鳥たちをブッダは苦しみを生む生存の条件から解き放とうとした。地球上にあって、人類と鳥類は「ひとつの心」を共有しあっている。そして変わっていかなければならないのは、進化の過程でみごとな完成をとげた鳥たちではなく、心に大きな自由領域をあたえられながら、いまだに未完成な、いやこれからも未完成なままの、わたしたち人間のほうなのだ。」(新潮社刊「鳥の仏教」122頁より抜粋)
超然とした鳥の存在感を強く感じた経験もある。ある小雨降りしきる遅い午後、仕事の手を休めて仕事場の入り口付近を歩いていたら、ガラスのドア越しに一羽のカラスが目にとまった。およそ20mほど目先にあるやや傾きかけた高い電柱のてっぺんにとまり、彼はじっと眼下に広がる盆地の街並みを眺めているように(ぼくには)見えた。小雨に打たれながら身じろぎもせず、カラスはじっと動く様子もない。なんだか敬虔な気持ちになって、ぼくもそのままじっとカラスを見つめ続けた。どのくらい眺めていたのだろう。「お前たち、馬鹿なことばかり毎日しているなあ」とカラスの呟きが聞こえたような気がして、ちょっと小さくなってしまったぼくはそっと視線を外す。鳥は人間なんかよりはるかに達観しているんじゃないかとその時思った。だから「鳥の仏教」の一節に今ぼくは深く共感することができる。そして、のびやかに飛翔する完成をとげた美しい生命体に囲まれて、飽きもせずぼくは今日も不完全きわまりない試行錯誤に明け暮れている。

Above_
Shincho-Bunko
Below_
i-Pod tuch

青空文庫

E-book
2009.5.01

i文庫」というiPhoneiPod touch用アプリケーションがある。インターネット電子図書館「青空文庫」のリーダとして登場し、iTunes Storeから入手できる。
以前からiPodでテキストを読んできたが、文字は小さいし書体や文字組みなどの調整もできず、正直言えばおよそ実用的とはいえない代物だった。そこでディスプレイの大きくなったiPod touchでテキスト表示させてみようと思い立ち、「Stanza」という電子書籍リーダのiPhoneアプリを見つけ出した。
試してみるとまずますの出来である。書体変更や背景色も数種類用意されており、iPodにくらべたら格段に読みやすくなっている。しかしこのアプリは本来、海外で英語や仏語を読むために開発されたものだから、日本語用電子書籍リーダとしてはおのずから限界がある。ちなみにこれ以外にもKindle for iphonというアプリもあって、洋書愛好者はAmazonから膨大な書籍をゲットしてのモバイル読書が可能となっている。
さらにぼくはもっと快適な日本語のための電子書籍リーダがあるはずだと考えネット検索を続けてみた。便利なもので困っている事柄を打ち込むとかなりの確率でコメントが見つかるから、この類いの疑問は粘り強く検索していると何とかなってしまうことが多い。
そして見つけたのが「青空文庫」。その名の通り文庫を読むように電子書籍の閲覧が可能になっている。そもそも「青空文庫」とはホームサイトにもあるように、利用に対価を求めないインターネット電子図書館の総称である。「電子テキストの恵みに浴するだけでなく、野に木を植えようと志した」青空工作員とよばれる人々が入力、校正、ファイル作成などのボランティア活動に参加している。(各作品の奥付には担当者名が明記されている)1997年に設立され、閲覧無料、登録不要、使用言語は日本語で、現在約7900作品が収録されている。著作権が消滅した作品や書き手が対価を求めないと決めた作品などが自由に読めるようテキスト化するというこの試みは、「信頼され」そして「フリーな」百科事典を質量ともに史上最大の百科事典として創り上げるというWikipediaの基本姿勢にも通じる。こうした広汎なアーカイブ化指向が、ネット社会の土壌から誕生した新種の運動体のダイナモとなっている。
この「青空文庫」は「i文庫」で書籍データをネットからダウンロードし閲覧することができる。なんといっても縦書きなのがうれしい。ルビも付いていてノンブルや柱もあり、ほぼ文庫のイメージを再現しており(電子書籍としては)すごく読みやすい。ページめくりもフリックで快適だし、好きな書体に本文をカスタマイズでき、色や表示サイズも自由に調整可能。そして背景色をRGBの%刻みで調色できるから、閲覧の感覚的自由度は格段に高くなっている。試しに宮沢賢治の収録作品をすべてダウンロードしてみると、ほぼ全集といってもいいくらいコレクションは充実していて、これでどこでも好きな時に賢治作品を文庫感覚で読むことができるようになる。
上の画像が文庫本で、下が同作品を表示させたiPod touch画面。サイズの比率もこんな感じで、幸いぼくはまだ老眼ではないから、これなら快適に読み進めることができそうだ。さらにこの「i文庫」は「青空文庫」だけでなく、Mac用フリーウェアのDiskAidを使うと、ワードなどのテキストデータも文庫風に縦組み表示してくれて、これもすこぶる実用的。
だからどうした、読書なんて本を買って読みなさい!とお叱りの声も聞こえてきそうだが、実用に耐えうる技術ならもっと柔軟に選択肢に加えたって構わないと思う。「電子書籍では文学的な香りまで伝わらない」なんて言うのは考え過ぎだし、幻想ではないのか。逆に「電子書籍が普及すれば電子書籍向きの文体が誕生してくる」というのも同様に幻想といえるだろう。創造とテクノロジーやメディアの住み処は、そもそも次元を異にしているのだから、技術や媒体は使いたい人が自由に選択して活用したらいい。あくまでも使うも自由、使わないも自由、なのである。
しかし、手のひらに納まるほどコンパクトな道具の中に、本にしたら抱えきれないくらい膨大な書籍データがすっぽりと収納できるという現実をなかなか受け入れることも難しい。数十ギガの容量さえあればテキストデータなら小さな図書館並の収集量が可能なのだから、何とも不思議な感覚にとらわれる。盆栽を筆頭に、人間は小さなものに大きな宇宙感を封じ込めることに情熱を傾けるという習性も育ててきた。その新たな萠芽がデジタル世界で芽吹こうとしているのかもしれない。
印刷技術は活版印刷の発明者グーテンベルクによって切り拓かれ、ルネサンス三大発明の一つにもあげられている。そして長い旅路の末、わざわざプリントする必要もなく、読みたいテキストを瞬時に呼び出し、また収納できる。そんな時代にぼくらは今生きている。大手出版社はまだ電子書籍に本腰を入れるつもりはないようだけど、10年後に電子書籍装幀家なる職種が誕生していないと誰が言い切れるだろう。90年代前半、印刷物の制作には欠くことのできなかった写植デジタルフォントに取って代わられ、今やほぼその姿を消してしまった。言語に秘められた力を伝える媒体は、確実に変容し多様化しつつあるようだ。
しかし世の中、何が起こるかわからない。未曾有の天体レベルの災害により(例えば強力な電磁波の変動などで)世界中のデジタルデータが壊滅的なダメージを被る可能性だってないとは言い切れない。そんな大袈裟な話でなくても、否応なくデジタル環境に身を置かざるを得なくなったデザイナーなら、マシントラブルや人為的ミスによって大切なデータが消失してしまい途方に暮れたという経験を2、3度はしているはずである。
現代のテクノロジーには、その利便性と合わせ鏡のように存在する脆弱性による不安感が常につきまとう。確かにそこからぼくらが浴している恩恵は計り知れないものがあるが、片時も休むことなく流れ込む怒濤の情報を前にして、大切にしていたものが煙のように跡形もなく消え去ってしまうこともあり得るという不確実性も、ぼくらが手にする技術には内包されていることを心にどこかに留めておく必要がある。最後に残されるのは自分の小さな脳に染み込んだ、この世に2つとない膨大な記憶の残像だけだということも…。

Snapshoots at
Institute of Modern Art
1969-71

ぼくは学校が大嫌いだった・続編

I hate school!-2
2009.4.02

2008.12.03投稿「ぼくは学校が大嫌いだった」の続編です。学校生活への拒否反応も限界に達していた高校卒業以降のこの話で完結します。
芸大油絵科の受験に失敗したぼくは、大半の美大受験生が進んだ美術予備校でなく、新橋にある現代美術研究所という小さな研究所に入ることにした。ここはキュービズムを専門とする美術評論家・植村鷹千代氏が主宰する私塾で、すでに芸大生となっていた二人の先輩がここから受験していたこともあり、年2〜3人しか採らないという受験生枠にぼくはなんとか潜り込みたいと考えた。画家の推薦状が必要だったので、父の知人であったシュールレアリズムの画家・米倉寿仁氏を訪ねて推薦状をいただき、無事入所することができたのだった。ちなみに作詞家の安井かずみさんや美術家の李禹煥氏(リー・ウーハン)もここで学んだことがあるそうだ。
入所早々、午前中は石膏デッサン、午後は裸婦モデルを立ててのデッサンと油彩制作。夜はプロの画家や美大生、そして社会人の研究生も加わり、再びモデルさんに向かってクロッキーやデッサン。決して誇張でなく1日平均16時間くらい描き続けた。土日もあまり休んだ記憶がないし、郷里にもほとんど帰ることなく、若さとはいえ驚くほどどっぷりと美術に浸かりきる日々を送る。
ちょうど60年安保闘争がピークを迎える騒乱の時代で、ぼくが卒業した年には安田講堂が学生たちに占拠され、東大受験も行なわれなかった。だから現役で大学生となった同級生の中には、ほとんど学ぶことができないという人も大勢いたはずだ。そんなハレの風が吹き荒れる中、まるで台風の目の中にいるように、ぼくの中には喧騒をよそに静かな時間が淡々と流れていた。もちろん周囲の人々が時代のムーブメントに無関心だったわけでなく、連日社会人の研究生たちの熱のこもった討論が所内でも繰り広げられていたし、彼らと同様にぼくの中にも得体の知れない時代意識が日増しに染み入ってきたのだが、それらを覆い尽くすかのように美術への関心が厚みを増していった。
ここでぼくに大きな影響を与えたのが所長である斉藤秀一氏だった。ヴァザルリに近い画風の作家でもあった斉藤さんは、終戦後、青年将校としてシベリアに抑留され、厳しい収容所生活を生き抜いてきた人だ。筋金入りのマルキシストとして帰国を果たし、植村先生との出会いからこの現代美術研究所の創設にかかわり、以来表現活動と並行して所長として多くの若い画学生たちと歩みを共にしながら影響を与え続けてきた、まさに「現美の主」のような人物だった。
中沢新一さんの「イカの哲学」で紹介されている原作者・波多野一郎氏もシベリアで4年間もの強制労働に耐えたが、この間叩き込まれた徹底した共産主義化教育に対し、その力量を認めつつも判断を保留し続け、ソ連の対極にあったアメリカのヒューマニズム(人間主義)を自分の眼で確かめてみようとしたところに波多野さんの素晴らしさがある、と中沢さんは評価しているが、斉藤さんも波多野さんに近い健全なバランス感覚をもっていた人だったと思う。決して思想的にぼくらを染め上げようとはしなかったし、世界を裸眼で直視しようとする姿勢は一貫していたってリベラルなものだった。斉藤さんにとってのヒューマニズムは絵画表現の模索に内包されていたのかもしれない。キャンバスの中で膨らみ、ねじれ、拡張し続ける希望にあふれた遠心的な斉藤さんの抽象絵画を思い出す度にそんな気がしてならない。
生粋の江戸っ子で、夏は毎日同じ高そうな黒い麻のポロシャツを着続けているものだから、洗濯しないんですか?と聞いたら、気に入った服は同じものを10着ほど買って毎日取り替えているのだという。こういうダンディズムもあるんだと田舎者のぼくは驚いた。また、研究所でお腹がすくと皆即席ラーメンを作って食べていたが、銘柄は明星食品の「中麺(チュンメン)」と決まっていて、茹で上げ時間も秒単位で設定されていた。試行錯誤の末に決定されたこの斉藤レシピは壁に貼られ順守されていた。今思い出すと笑ってしまうけど、当時は確かにこれが一番おいしいと思ったし、皆1日おきに食べていたほど、中麺中毒者となっていた。
それからエネルギッシュな若者の吸収率を高めるのには体力を奪うのが一番手っ取り早いと(戸塚ヨットスクールみたいな体育会系の乗りじゃ決してなかったけど)デッサンはほとんど立って描き、最低週2日は徹夜していたのも抑留生活仕込みのノウハウか。さすがに夜中には絵は描かない。もっぱら討論に明け暮れていたのだが、実はこれがとても楽しかったのだ。連日、田原総一朗の「朝なま」に参加しているようなものだから、大人たちに混じってずいぶん鍛え上げられたし、ぼくにとっての格好の「夜中の学校」となっていた。夜が明けると銀座の安いサウナで汗を流し、隣りの日石本社ビル地下にある食堂で格安朝食をかきこんだあと椅子を並べて2時間ほど仮眠をとり、モデルさんを迎えるという毎日が続く。こうして斉藤さんには文字通り寝食を共にした合宿状態で指導し続けてもらった。思えばこれも家庭をもたずにお母さんと二人暮らししていた斉藤さんだったから可能だったことなのだろう。
研究所の方針でぼくら受験枠の研究生も9月までは受験から離れて、モダンアートの自由制作や展覧会の企画実行にかかわり、表現をしていくための基礎能力を身に付けていった。(二十歳で選抜3人展を銀座の画廊で開いた時には、まだ大学生だった中沢新一さんも駆けつけてくれて、ぼくの稚拙なキネティックアートを前に友情を示してくれたのも懐かしい思い出だ)専任コーチは斉藤所長だったが、月に一度開かれる合評会では植村先生の意見もうかがうことができた。何でも伊豆近辺のとある城主の家系だそうで、ほんとうにお殿様のような育ちの良さを漂わせる方だった。
それからこの研究所の歴代講師陣は豪華なもので山口薫片岡球子といった洋画界を代表する画家たちが名を連ねていて、当時ぼくが直接指導を受けたのが、午後の部の洋画家・福沢一郎氏(まさかその後、文化勲章を受賞されるとは)と、夜の部の多摩美術大学教授の杉全直氏の両氏。杉全先生は物静かで理知的。的確な指摘を俳句のように削ぎ落とした言葉で伝えてくれた。そして特に思い出深いのが福沢先生の指導だった。すでにその時にはフォーヴィスムの大家だったにもかかわらず、飾らず豪放な人柄はその画風に近似していた。キャンバス地が透けてみえるほど薄塗りの折り重なる色調が作品全体に深みを与え、これが福沢絵画の大きな魅力となっていたが、これは薄く溶いた絵の具を何種類も用意して、ポロックよろしく平らに置いたキャンバスにぶちまけ、偶然生まれた美しいディティールを手立てに描きあげていく手法だという。偶然から必然を導き出していく絵画表現の奥義でもある。「君、本当は芸大進学なんてどうでもいいことなんだよ」と言われたのを真に受けたわけではないが、次第に進学する意欲が希薄になっていき、受験は芸大1校のみ、もし合格したらすぐに退学しようと決めていた。そんな不遜な受験生に倍率30倍近い難関がくぐり抜けられるはずもなく、二浪となる頃にはここで学ぶことを超えられるところなんてあるんだろうか、などとまで考えるようになってしまった。
丁度その頃、観念芸術が登場してきた。雪崩を打ってこの新たな潮流に巻き込まれていく当時の美術界を尻目に、この観念芸術の在りように深く失望したぼくは退所して郷里に戻ろうと決めた。経緯を語ると長くなるので割愛しますが、とにかくこんな美術ならいらないやと生活を一度リセットして、もっとリアルな世界に近づいてみたいと漠然と考えはじめたわけです。
思い返せば、これが最後の卒業だったのかもしれない。この濃密な2年間はあんなに学校が大嫌いだったぼくにとって、結局最終学年の学校体験となっていたのだ。卒業証書もないし、植村先生も斉藤所長も福沢先生も杉全先生もすでにみんな故人となってしまったけれど、自由と社会、そして表現にまつわるフレキシブルなレッスンを通じて、自分の表現を支える多くの支柱はここで出会った人々に育ててもらった。あの新橋の片隅にある寂れたビルのちっぽけな空間で、何とかぼくは大人の仲間入りを果たすことができたのだ。
※上の写真は展覧会オープニングでの一コマ。左がぼくです。下の写真はたぶん展覧会打ち上げの際の記念写真。研究生全員ではないがこうして眺めるとほんとうに老若男女でバラエティーに富んでいる。向かって左端が斉藤秀一氏。(この人は膨大な知識が詰め込まれているからこんなに大きな頭になったんだろうなと、しみじみ後ろから眺めた記憶が甦る)前列中央で女性たちに囲まれるお殿様が植村鷹千代先生。そのすぐ後ろがぼくで、そのまたすぐ後ろで首を傾ける長髪の人物が、装幀家として活躍中の芦澤泰偉さん。

Above_arve henriksen
chiaroscuro
2005
Below_James
Pleased To Meet You
2001

お気に入りCDジャケット

Nice CD Cover
2009.3.01

今月はお気に入りのCDジャケットから2枚をピックアップ。ぼくはどちらかといえばジャケ買いする傾向が強いけれど、当たったり外れたりで、打率は3割台といったところか。
上はノルウェー屈指のインストゥルメンタリスト、Arve Henriksen(アルヴェ・ヘンリクセン)が2005年に発表したアルバム『Chiaroscuro(キアロスクーロ=光と影)』。雑誌のレヴューで見かけて注文し、届いてその素晴らしいジャケットデザインに大喜びした思い出の一枚だ。あ〜、こんなキュートなデザインがしてみたい!
CD本体は濃いグリーン地に手書きのドット模様が入っているだけなので、ジャケットと一緒にしておかないと何のCDなのかわからなくなってしまうけど、それにしてもこのジャケットは頭のてっぺんからつま先まで、何てクールで可愛らしいんだろう。包まれたサウンドも北欧らしい澄んだグレイシーなトーンでとても清々しい。谷を吹き渡る風のようなトランペットの音色に導かれ、達人ヘンリクセンが描き出す心地よいサウンドスケイプがゆったりと楽しめる。そこにはバリ・サウンドやモンゴルのオーヴァートーン歌唱、そして琵琶や尺八までが果敢にブレンドされていて、さながら、言葉のない歌が翼をつけてのびやかに澄み渡った空を飛び回っているようだ。同じトランペット奏者である環境音楽家ジョン・ハッセルの奏でるアフリカの大地のような熱を帯びたサウンドとは対照的に、静寂と湿気を含んだ北欧の青く静かな熱がじわりと伝わってくる。ミニマルなのに豊潤。このサウンドはジャケットデザインと見事にシンクロしている。
さてもう1枚は、イギリスはマンチェスター出身のロックバンド、James(ジェイムス)2001年のアルバム『Pleased to meet you(プリーズド・トゥ・ミート・ユー)』。この他にも『WHIPLASH』や豚が真珠のネックレスを巻いた『millionaires』とか、斜に構えたアルバムがたくさんあるけど、やっぱりぼくはブライアン・イーノがプロデュースしているこのアルバムが一番好きだ。こういうバンドは絶対にアメリカからは生まれてこないだろう。あちこちが微妙にねじれているのだ。ツイストしてるのは音楽への向き合い方なのか、それとも性格そのものなのか。このツイスト感がイギリス音楽好きにはたまらない。
それは、この変哲のないジャケットデザインにも現われている。中を開くと1ページに1カットづつ、同じトリミングでバンドメンバーのポートレートが載っている。しかし、表紙を飾るこの男性は誰なのか?この人物を入れるとメンバーは一人増えてしまうのだ。しばらく眺めていると、あることに気づく。どこか見覚えのあるパーツ…、それは眉であったり、目であったり、耳であったり…。そうかこの表紙の男性はメンバー全員のパーツが集合された架空のもう一人のメンバーだったのだ。つまり合成された彼自身がジェイムズその人であった。一見よくありがちなロックアルバムのカバーに見せておいて、ひっそり仕掛けが施されたデザインも見事にねじれていた。
iTunes Storeでホイホイとダウンロードしていると、絶対こんな楽しみを味わうことはできない。ジャケットデザインがある限り“物質としてのコンパクトディスク”はまだまだ健在だ。

Snap Shot of Kunpu Tour
at Shosenkyo, Yamanashi
1991.6.17

不思議を面白がる精神

Fukuda World
2009.2.02

訃報の続く冬になった。昨年の12月、「フォト・モンタージュ」など鋭い風刺作品で知られる木村恒久さん、明けて1月11日には福田繁雄さんが急逝。ほどなく掲載された朝日新聞の追悼記事には、お二人が並んで紹介されていた。ともに戦後日本のグラフィックデザインを切り拓き、批評精神には通じるところも多いが、その持ち味はだいぶ異なる。福田さんはだまし絵(トリックアート)の手法を駆使して、グラフィックはもとより、立体やレリーフにと幅広い創作を続けてきたが、真骨頂は何といってもポスターだろう。名作「VICTORY」は福田さんの創作姿勢を象徴している作品だ。インタビューで福田さんは「ポスターは花火だと思っている」と答えている。通りすがりに見れば誰でもわかる、それがポスターであると。だから福田さんのつくりあげるポスターはどれも鋭い伝達力で強く見るものに訴えかけてくる。
生前、数回お目にかかったことがある。大人の服を着ているが、その胸元からはいたずらっ子のような茶目っ気が見え隠れしていて、気づくといつも人の輪の中心に立っている、そんな人柄が作風とピッタリ重なりあっていた。子どもが得意とする「不思議を面白がる精神」を曇らせることなく生涯持ち続けていた、ダイナモのようなデザイナーだった。
それに筋金入りのアナログ派だったこともほほ笑ましい。PCはもちろん、メールも駄目。JAGDAの会長職についてからは海外から連絡が入る機会も増えたようだが、メールが送れずみんな困っていると聞いたことがある。制作する時に活躍するのは唯一のデジタル機器であるモノクロコピー機。もちろん表現には、デジタルもアナログもなく、あるのはただ表現力だけなのだが、こんな話を聞いてほっとするのはなぜだろう。
いくらデジタルが進歩しても、究極のデジタル能力をもつのは実は人間なのだから、マシンはどこまでいっても人間にはかなわないという人もいる。しかし、イージーミスを犯すのはいつもきまって人間の方であることも事実。このミスを犯すという「能力」。実は創造力の養分となっているのではないだろうか。思い違い、見間違い、見当違いに勘違い、みんなそれぞれにりっぱな養分たちである。福田さんはこうした「ミスを犯す能力」を鋭く磨き上げ、マシンには絶対に作ることのかなわない、人間くさい強い表現を積み上げてきたのだと思う。
ぼくは以前、友人のジュエリーデザイナー2名に紙で作れるジュエリーをデザインしてもらい、誰でも組み立てられるような展開図を付けた「Paper Jewelry Book」(Next Works:2に集録)を作ったことがある。これを見た福田さんが早速、ぼくに葉書をくださった。「ペーパーでジュエリー?これってありえねぇーの面白さがそこにある」というその反応ぶりがとても明快で、この方はほんとうに自分の周波数にシンクロしたものには即座に反応してしまうのだと驚いたことがある。
上2枚のスナップは、以前、佐藤晃一さんが毎日デザイン賞を受賞したお祝いにと、デザイナー有志によって企画された記念ツアーでの一コマ。佐藤さんが小学生時代を過ごしたこの甲府で祝福しようと、はとバスに乗って東京から大勢の友人デザイナーたちがやってきた。題して、初夏の季語を冠した「薫風ツァー」。(命名は安西水丸さん)スナップは祝賀会翌日に向かった昇仙峡での散策風景。渓谷沿いの道に岩穴を見つけると即座に持ち上げてしまい(横で一緒持ち上げているのはイラストレーターの矢吹申彦さん)、「立ち小便禁止」の立て看板を見つけると「立」を隠して「血(?)小便禁止」にしてしまったり(手前で一緒にカメラを向けているのは浅葉克己さん)、この2枚には福田さんらしさがリアルに焼き付けられている。この人の日常はすべてトリックアートで塗りつぶされているのではないのだろうか。そんな凄みさえ感じさせるものがある。
福田さんは大きな仕事を成し遂げたデザイナーとしてだけでなく、寒々しく老け込まないためのとても大切なヒントをたくさんぼくに残してくれた。きっと今ごろは、三途の河原をあちこち寄り道しながら、トリックアートのネタ探しに夢中になっているに違いない。

Above_Vermeer
Christ in the House
of Martha and Mary 1655
Below_Vermeer
Diana and Her Nymphs
1655-1656

フェルメールというま新しい幻想

Vermeer
2009.1.01

ぼくらは自身がつくりだすさまざまな幻想に囲まれて日々暮らしている。もちろん取り囲んでいるものが実は幻想なんだと考えはじめたら、足下から崩れ落ちてしまうような不安に襲われ、生きている実感はとたんに危ういものになってしまう。しかし時折、強固だった現実感がぐらりと揺らぎ、ほんとうは幻想の中に漂っていたのではないかと考えさせられるような体験をすることがある。
半月ほど前、上野の美術館フェルメール(Vermeer)の現存する全作品36点中、6点をまとめて鑑賞してきた。生まれて初めて対面する生(ナマ)フェルメール。それはこれまでぼくの中に記憶されていた「フェルメールのようなもの」とはまったくの別物だった。
書籍や映像を通じて記憶されているイメージは陽炎のようなものにすぎない。実物は迫力があるとか、圧倒的な実在感だったとか、そういうことではなく、ただ記憶されていたものとは全然別なものだったというシンプルな事実。こんな当たり前なことをあらためて突きつけられると、自分の脳内や心の中にストックされているものは、現存する人間の数と同じく存在する幻想のひとつに過ぎないのではないだろうかという気持ちになってしまう。
フェルメールは小品が多く、その精緻さには誰もが目を奪われるそうだ。しかしぼくにとって印象的だったのはその色あいの美しさであった。とりわけ、上に掲載した大ぶりな作品2点に見られる圧倒的な美しさ!‘天空の破片とも呼ばれた’高価なラピスラズリを原料とする青い絵の具を惜しげもなく使ったために困窮を極めてしまう逸話が、フェルメールの生涯を題材にした映画「真珠の耳飾りの少女」にも紹介されていたが、その美しい色彩に誘われるように、混雑する会場の出口近くで思い直し、人波をかきわけて見直すために再び展示コーナーに戻ってしまったほどだった。光や質感の表現、コントラストと色彩の絶妙な調和など、同時展示されていた他のデルフト・スタイルの画家たちの作品群とは明らかに次元を異にする完成度で、溢れんばかりの才能がキャンバス上に凝着していた。
絵画を完成させるということはほんとうに難しい。描き足りなくても駄目、描き過ぎても駄目、ここしかないという瞬間で静止させてやっと絵画は完成するが、そんな画家の苦心をよそに、当時の絵画作品はインテリアの一部として認識されていたから、壁の色に合わせて勝手に描き変えられたりすることもめずらしくなかったようだ。下の作品「ディアナとニンフたち」も背景が青空に描き変えられたりしていたそうだ。1990年代末に修復され、作画当時の状態に戻されたというから、厳密に言えば原画に限りなく近づけた修復品ということになる。しかし、ヨーロッパの修復技術は深い伝統に支えられ高度な水準を誇っているので、これがほぼ原画であると考えてよいのだろう。
帰り道、銀杏の下の黄色い絨毯を踏みしめながら、ぼくは昔愛読した美術書籍を思い出していた。「絵画教室(traité de la peinture)」と邦題のつけられたその書籍の著者は1898年生まれのフランス人、アルマン・ドゥルーアン(Armand Drouant)。画家、美術評論家、画商、鑑定家、航空将校など多彩な顔をもつ人物である。「絵画は、永遠の《肯定であって、否定》なのだ。…すなわち、いつもふたつの考えをもっていなくてはならない、ひとつをぶちこわすための、もうひとつをという!」なんて含蓄ある警句が全編にちりばめられていて、目次には「美術は神秘なものか」「特質の検討」「画家の材料」「実際的助言」といったコンテンツが並ぶ。特に印象深かったのが「画家の材料」。ここには絵の具を構成する化学的組織や耐光度、耐老化度一覧や使用に際しての実践的な助言も含まれる。つまり若い画学生はここで絵画とは感覚の赴くままに描くものでなく、目指す表現を確実に具現化するため、化学者の目もあわせもたなければならないことを知るのだ。当時ぼくが学んでいた絵画研究所では、キャンバス下地作りの入念な取り組みから始まり、‘物質としてのタブロー(tableau)’との向き合い方を徹底的に叩き込まれた。余談になるが、日本でも人気の高いロシア生まれのアメリカ抽象画家、マーク・ロスコ(Mark Rothko)の謎の自殺の原因は、晩年に手がけた壁画の退色だったのではないかとも囁かれている。画家にとって色彩を操ることは、その命をも左右するほどに重要な命題であるのかもしれない。
もうひとつ印象に残ったことは、フェルメールの作品に付けられた額がどれも素晴らしかったことだ。額と一体化した物質としてのタブローは、高貴な存在感を静かに主張していた。ヨーロッパにはアンティークの額を収集・修復する専門業者がいて、持ち込まれた絵画にふさわしい額を見立て、より完成された美術品として再生することもできるそうだが、「絵画教室」からもそんなヨーロッパの、深々とした絵画や美術品に対する知識や技術力の奥深さが伝わってくる。
その分厚いヨーロッパ美術の中核を担ってきたオランダで生まれたフェルメールという画家は、気の遠くなるような豊潤さを実現する「ビロードの手袋のなかの鉄の手」を持っていたのかもしれない。フェルメールの二作だけの物語画(神話や歴史を題材に描いた作品)といわれる、上の「マルタとマリアの家のキリスト」と「ディアナとニンフたち」。そこに描かれている赤と青、そして黄色の色面を見つめていると、色彩が人に幸福感をもたらすという不思議が、実に350年以上にわたってここには持続されてきたのだと実感することができる。運良くその不思議を享受できたぼくは、この個人的な体験を、幸福感に裏打ちされた完成度の高い、ま新しい幻想として記憶していくことになるだろう。

Blog Contents