未来の扉を押し開いたアンリ・マティス
デザインの仕事をはじめてから最もインスパイアされた画家といえば、やはりアンリ・マティス(Henri Matisse)だろうか。でも若い頃のぼくはマティスにほとんど興味を抱くことはなかった。たしかに自由奔放なその色彩感覚は素晴らしいが、感覚のおもむくままに絵筆を走らせるだけのお気楽な絵描きじゃん、なんて乱暴に思い込んでいた。
マティス没後の10年後頃にぼくは美術への興味を抱きはじめるのだが、当時マティスはすでに近代絵画の巨匠として教科書にも載ってたし、彼の画業から大きな影響を受けた画家たち(たとえば、日本の画家では梅原龍三郎など)が大勢いたことも知っていた。ある意味、ぼくの抱いていたもっとも絵画らしい絵画の中心部にマティスは存在していた。にもかかわらず、いやだからこそ?(数少ない)ぼくの所蔵している画集にマティスの作品集は見当たらない。ということは、心惹かれる画家たちの中にマティスは含まれていなかったことになる。いま思い返せば、ぼくは意識的にマティスの芸術を遠ざけていたのだと思う。それほど彼の画業は近代絵画の王道ともいえるものだった。
アンリ・マティスの画像と検索して現れるサムネール群を一望すると、きらびやかな色彩と有機的なフォルムが目に飛び込んでくる。生前、マティスは「私が夢見るのは人の心を乱し、気を滅入らせるような主題のない、調和のとれた、純粋で静謐な芸術である」と目指す絵画について語ったそうだ。また死の前年、自身のもっとも創造的な功績は何かとの質問に「色彩によって、空間に対する感情を実現したことです」とも答えている。そして、彼はそれを見事に成し遂げた。いまでは「当たり前の芸術」として存在しているマティスの絵画は、彼が画業を模索していた時代は少しも当たり前のものではなかった。いや、むしろそれは「とんでもないしろもの」だったのだ。
それを知ったのは、ある画集の資料からだった。その頃ぼくは、美術関連雑誌のデザインを担当していて、マティス特集の資料として預かっていた画集に、多くの批判にさらされながらも自分の信じる表現を実現するため、もがき苦しむマティスに関する記述を見つけた。元々、神経質で気むずかしかったマティスの苦悩は過酷を極め、周囲の人々も巻き込みながら延々とその苦闘は続けられたようだ。肯定的で明るさをたたえたマティスの絵画が、実はこうした苦悩の末に生み出されたものであったことを知り、ぼくはそれまでの自分の無知を恥じ、近代絵画に対する認識もそれを機に大きく変化した。
累々と積み重ねられた歴史の壁を打ち壊そうと、凝固した常識やアカデミズム、分厚いスタンダードに対して、表現を通じてNON!と宣言する勇気はたいへんなものだったと思う。色彩を形態から解放したと後に評価されたマティスの作品はまるで野獣のようだと酷評され、激しい反発にさらされた。それが「キュービズム」と並ぶ美術運動「フォーヴィスム(野獣派)」命名の由来ともなったが、フォーヴィスムのリーダーと目された当のマティスは野獣派と呼ばれ見なされることをひどく嫌ったそうだ。潮流が交差し、激しくきしみながら変化しようとしていた時代に、幸か不幸か居合わせた表現者たちは、マティスにかぎらず同じような重圧にさらされながら孤独な模索を余儀なくされていたのだろう。
お気楽な絵描きだなんて、とんでもない思い違いだった。あらためてマティスの作品を見直してみると、スタイルではない、掴み取った表現が何だったのか少しだけ見えてきたような気がした。何と言っても油絵が素晴らしい。マティスの制作時の源泉ともいえるものが、自然をよりどころとすることだった。自然は多くの美を自分に与えてくれるが、その秘密は研究を通してしか明かされないと考えていたようだ。多くのすぐれた芸術家は、同時に謙虚で優秀な観察者でもあった。 総じてマティスの絵画は平面的な印象を与えるものが多い。装飾的ですらある。絵画構成に関して彼はこんなことをいっている。
「私にとって表現とは、人間の表情のなかに浮かび上がったり、激しい動きによって生み出されるような情熱のなかにあるのではありません。表現は、私の作品のあらゆる位置関係のなかにあるのです。たとえば人体が占める位置とか、そのまわりにある空間とか、プロポーション、そういったすべてがそれぞれの役割をもっています。構成とは、画家が自分の感情を表現するために配置したさまざまな要素を、装飾的なやり方で並べる技術なのです。」
つまり、彼は空間表現をしているのではなく、空間に対する感情を表現していることになる。そして、その感情のメッセンジャーとして重要な役割をはたしているのが色彩だった。だから絵画における色彩のもつ意味は、彼にとっては特別なものであったはずである。
特にインスパイアされたのは、晩年の切り絵シリーズと肖像画としてたくさん残されたデッサンだった。デッサンはもはや絵画そのものであるとマティスは語っている。「マティスとピカソ 二人の芸術家の対話」という記録集((DVDと書籍)の紹介映像がYoutubeにアップされていて、そこでデッサンしながらマティスは、このように話しかけている。
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私は絵画とデッサンは同じものだと思っている
デッサンは限られた道具を使った絵画だ
真っ白な紙の表面に筆とインクを用いて
立体感によるコントラストを生み出し 紙の質を変えられる
影や光を描かずに 柔らかさ 明るさ 硬さを表現できるのだ
だからデッサンは限られた道具を使った絵画だ
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切り絵についてはこんな発言もしている。
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「切り絵は、自己を表現するために、今日私が見つけた最も単純で、最も直接的な方法です。長い間、事物を研究して、その記号がどんなものかを知らなければなりません。また、構図においては、事物はその力を保ちながら全体の一部を作るような新しい記号にならなければなりません。一言でいえば、各々の作品は、制作過程において、画面の要求によって創案された記号の総体なのです。(中略) 私の古いタブローと切り絵との間に断絶はないのですが、ただいっそうの絶対化、いっそうの抽象化によって、私は本質的なものにまで浄化されたフォルムに到達し、そしてかつては複雑な空間のなかに私が提示していた事物から記号を残しました。記号というのは、事物をその固有のフォルムにおいて存在せしめ、またそれが含まれていた全体のために存在せしめるのに必要かつ充分な記号なのです」
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ぼくは何度か自分のデザインの中で、マティスのデッサン風イラストレーションや、あの魅力的な切り絵のイメージを彷彿とさせるビジュアルを用いて、モダンのエッセンスを再現しようと試みたことがあった。マティスの辿り着いたこうしたシンプルな表現はデザインととても相性がいい。いや、それはデザインが欲している伝達力の強さそのものであった。だから、現代のように細分化された表現ジャンルの源には、こうした20世紀中期に生まれたモダンの原型がその礎として存在していることは疑いようがないとぼくは考えていた。
ぼくが物心ついた60年代には、すでにモダンのエッセンスはすっかり時代のあらゆるジャンルを埋め尽くしていた。ある意味、ぼくらにとってモダンはすでに古典になりつつあったのだ。モダンを基点として、そこから伸びたさまざまな枝に試行錯誤の末に新たな花を咲かせても、やはりそれらを支えるのはマティスたちの育て上げた太い幹だった。 しかし新たな世紀に移行する頃には、モダンに対して言いようのない閉塞感を感じはじめていたことも否定できない。そして、モダンやポストモダンもすでに遠い過去となりつつある現在、19世紀に直結する未来だってあるかもしれないと考える自分もいるのである。
20世紀末の1992年に発刊された中沢新一さんの『幸福の無数の断片』に『二十世紀美術を忘れるために』というテキストがあって、それで紹介されていた人類学者、レヴィ=ストロースの主張は「印象派以後の美術にはほとんど意味がない」という過激なものだった。その過激さゆえにずっとその主張はぼくの頭から消え去ることがなかった。彼の考えはこうである。
「西欧絵画は、印象画以後、決定的に方向を見失ってしまい、そのつど豊かな才能があらわれて、新しい道を開くかのように見えたが、けっきょくはどれも袋小路におちいって、長つづきしないうちに立ち消えになってしまった」
「印象派は芸術の基本的な役割が、人間の感覚能力に内在する論理によって、感覚器官におそいかかる外界からのおびただしい情報から、ひとつの秩序をつくりだすことにあるという、ダ=ヴィンチの悟りをあえて無視しようとした。彼らは絵画の使命は、事物の本質をとらえる客観性の追求ではなく(そういうことは、写真術にまかせればいい、と印象派は誤認した)、事物の様相を客観的にとらえることだと考え、自分の知覚におぼれることになってしまった。そのため印象派の絵画はバランスを崩して、行きづまってしまった。 (中略) 今日の状況にたいしても、まったく期待をいだいていない。マネ以降、若い画家たちが絶望におちいらないほうが、どうかしている。美術は感覚と自然とメチエのあいだにうちたてられるべきバランスを決定的に喪失してしまったからである。現代の文化は過去の偉大な創造を引用したり、デザインによって変形したりして消費するだけの、つまらないがらくたの山をつくりだしているだけだ。二十世紀美術の作品のほとんどが、いずれは十九世紀と二十一世紀のはざまにできた、文明の陥没時代の産物として、一顧だにされなくなってしまうのではないだろうか。(140〜141P:河出書房新社刊)
このような手厳しい見解にたいして、中沢さんは、ここで語られていることすべてを反転させた肯定的な芸術論を並置してみせる。そのうえで、現代美術を全面的に肯定するか、それとも意味がないと断定するか、ふたつの極端のあいだで揺れ動く思考も吐露する。そして、こうテキストを結んでいる。
「二十世紀的現代を、からだの半分だけぬけだしたぼくは、レヴィ=ストロースと同じように、現代美術にたいして、ともすれば冷淡な態度をとりがちだ。芸術はたましいのわざだ。大脳皮質の一部だけを使って、それをつくりだすことはできない。「美術よ、お前はただの美しい明晰にすぎない」、そう言われるようになったら、もうおしまいだ。でも、そのいっぽうで、もう半分の自分が生きてきたこの「現代」を、哀惜をこめて抱きしめたいぼくは、現代芸術の真摯な試行錯誤を、こよなく美しいものだとも、感じる。人々は、こんな世界に生きる自分というものを、あらためて愛したいがために、二十世紀美術を展示する美術館を、訪れたいと思うのかもしれないではないか。ぼくは美術に現代を開いてきたあの人々のたましいを、心の底から尊敬し、愛している。
だが、世紀末の人間は、なによりも冷酷でなければ、自分がつぎの世界のマトリックスとなることはできない。たましいのわざとしての芸術をとりもどすためには、二十世紀美術をまず忘れてしまうことのほうが、大切なのではないだろうか。美術史や美術評論家が、マゾヒスティックな快楽をそこからひきだしてくる、あの「現代」をめぐる必然のストーリーなるものを、いち早く忘れることができたものだけが、つぎの世界をかいま見ることができる。その兆候を、ここに見ることができる。幸運にも、「現代」にたいする責任感ももたない、極東の島国の若い芸術家たちの何人かは、すでにそのような戸口に立ちはじめている。」(143〜144P:河出書房新社刊)
一見大きく異なるかに見えるマティスの絵画と現代美術のあいだには、間違いなく確かな連続性が存在する。だから、レヴィ=ストロースの主張には当然、マティスの芸術も含まれていることになる。「デザインによって変形したりして消費するだけの」という指摘に、ぼくは一瞬深く落ち込むのだが、すぐに気を取り直す。そうだ、ぼくはデザイナーだ。芸術家じゃない。継承すべきはマティスが勝ち得たレガシーなどでなく、その精神なのだ、と。
2008年9月1日、福田康夫元総理大臣が辞任表明会見で発言した「私はあなたとは違うんです!」が当時ずいぶん話題となった。「私は自分自身を客観視することができるんです。あなた(質問をした記者)とは違うんです」という趣旨のその発言の真意は別として、ぼくはその時思った。「違うんだ」と毅然として意思表明することはとても大切なことだ。集団からの孤立を怖れることなく、人と違うことを考え、違うことをなし得ようと、勇気をもって行動を起こすマティスのような人たちによって、いつだって未来の扉は押し開かれてきたのだから。