山の中の無数の山
富士山の世界文化遺産登録決定後、連日バスを連ねてツアー客が殺到しているというニュースやら、関連情報が報道されない日はないほどの大変な盛り上がりようだ。ただ、カンボジアで開かれた登録現場に立ち会った都留文科大教授の渡辺豊博さんが、朝日の新聞紙上で喜んでばかりはいられないと警鐘を鳴らしていた。
諮問機関イコモスの勧告説明には、現在の富士山における数多くの問題点や改善点が厳しく指摘されていた。にも係わらず、それに関する議論は皆無。お祭り騒ぎのような喜びの声にかき消されてしまっていたそうだ。登録は観光の起爆剤として行政や関連業者から大きな期待を担ってきた経緯もあり、それもある意味予想範囲内の反応なのだが、登録決定とともに大変難しい課題を背負ったことを、行政や国民ははたして認識しているのだろうかと渡辺さんは懸念を示す。富士山フィーバーによる過剰利用への対策が未整備のままだと、さらに傷だらけの山になってしまうのではないかと、このような危惧を抱くのはしごく当たり前の感覚だとも思う。ラスコー洞窟は、観客の吐く二酸化炭素により壁画が急速に劣化したため1963年以降閉鎖されている。壁画の修復を進める一方、一日数名のみに入場・鑑賞を許可するという制限処置によって、応募者は数年待ちの状態だという。渡辺さんは富士山もしばらく登山はやめて遠くから眺め、富士山の本質と信仰の文化的な意味を学び、環境問題を認識し、どんな対策が必要とされているのか、今こそ富士山再生への管理計画を考えるべきではないかと提唱していた。
また、去る6月8日にはNHKのETV特集で「富士山と日本人〜中沢新一が探る1万年の精神史〜」が放映された。1時間の番組は時代ごとに章立てされ、なぜ日本人は富士山を“象徴”として捉えてきたのかを探り、文化的な意味を学ぶことができる仕立てとなっていた。
番組を見ながら、ぼくは10年ほど前に中沢さんと一緒に見た富士山の姿を思い出していた。山梨県から見える富士山は裏富士といわれる、いわば逆光の山容で、五百円札や新千円札の絵柄にもなっている、多くの日本人が抱く最も馴染み深い富士山の遠景イメージだと思う。しかし北麓地域から間近に仰ぎみる富士の姿は、まったくその印象を異にする。ある夜遅く、中沢さんとぼくは所用のため中央自動車道を大月から河口湖に向かって移動していた。ふと、突然車窓からその富士の姿は静かに現れてきた。漆黒の闇の中に微かに浮かび上がるまっ白な富士の威容に、一瞬ぼくらは言葉を失った。それはこれまで多くの絵や写真で表現されてきたどの富士山とも異なる、威厳に満ちた実に神々しい光景だった。はからずも同時に出た言葉はたった一言、「美しい」。よくよく目をこらさなければ闇の中に塗り込められてしまうほど、かそけき富士の姿。TVの前で、ぼくは久しぶりにその印象深い姿を思い出していた。
実は地元で暮らすぼくは、富士山に登ったことがない。一度だけ五合目付近まで行ったが、情けないことに頭痛に耐えきれず早々に下山してしまった。以来、富士は遠くから眺める山となった。そんなぼくにも山登りは、たった一度だけあった。
46年前、高校生のぼくは夏休みを利用して中央アルプスの宝剣岳(2956m)に登った。前年結婚したばかりの姉夫妻に誘われて同行することになったのだ。若いころから山登りが好きだった義兄は、大学の山岳部で更に多くの経験を積んだ山男だった。当日、初心者のぼくらを引率する義兄は、中腹となる千畳敷カールまで駒ケ岳ロープウェイで目指す初級ルートを選んでくれた。しかし、ハイキング感覚のルンルン気分もそこまでだった。登りはじめると、岩登りなどしたことのないぼくらの息はすぐに上がってしまう。それでも義兄はペース配分を考えながら辛抱強く初心者を先導し、山頂を目指すルートを消化していった。
ところが何の因果かその日の初登山で、ぼくは山の怖さをいやというほど味わうことになる。急に雲行きが怪しいと義兄が言い出した。そして、突然ぼくらにリュックから取り出したチョコレートと羊羹を食べられるだけ食べろと指示する。(雨風による体温低下からのダメージ軽減に糖分を摂取するというのが登山の常識だった)戸惑いながらも食べていると、さっきまで晴れていた空があっという間に雲に覆われ、やがて風雨に巻き込まれる天候へ急転してしまった。その間、ものの10分ほどの出来事だった。気づくと周囲は雲に包まれていた。山の雨は上からでなく、下から吹き上げてくるのだ。雷の無気味な音もする。急変に順応できずすっかり動揺していたぼくらに、義兄は感電を避けるため、金属類は今すぐにすべてここに置いて行けと言う。(その後知ったことだが、金属を身につけていると感電しやすいというのは俗説で、むしろ、かがんで身を低く保つ方が落雷には有効なんだという)
しかしその直後、ぼくの右手に激痛が走った。持っていた折りたたみ傘への落雷だった。幸い、プラスチック製の柄の部分だけを握っていたので、何とか身体への感電を免れた。肩まで痺れた右手を庇いながら、近くにいた登山者らとともに命からがら最寄りの山小屋に夢中で何とか逃げ込む。小屋の中は避難してきた多くの登山者達で、むせかえるような蒸し暑さだったが、そのまま肩寄せ合いながら悪天候の収まるのを待った。
やがて外が静かになったので小屋から出てみると、すでに山は薄闇に包まれていた。結局ここで夜を明かすことになり、飯盒でご飯を炊いて、高山での初となる夕飯をとる。メニューはまったく覚えていないが、怖い思いをした後の食事は格別なものだったと思う。強く印象に残っているのは、夜空がとにかく美しかったことだ。下界では絶対に見る事ができないような満天の星空で、30秒も待てば必ずどこかに流れ星が見える。夜空にはこんなにもたくさんの流れ星が存在するんだと驚かされた。寝袋を岩場に生えた這松(本州中部以北の高山帯に生えるマツ科の常緑低木)の上に敷き、それをクッション替わりにして川の字になる。這松は水平ではないので、少し斜めになった姿勢でぼんやり星空を眺めながら、やがてぼくは眠りについた。
翌日、好天のもとで山頂を目指し、無事昼前に登頂を果たす。(最下段の写真は背景の様子から山頂付近のスナップと思われるが、左が義兄で隣りに座る麦藁帽子姿のぼくは何かを夢中で掻き込んでいる)山頂はかなり狭く、とても長居できるようなロケーションではなかった。また、下りはとてもあっけないものだった。あんなに苦労して登ったことがまるで嘘だったように、転がり落ちるように山を下った。(気をつけないと、これで膝を痛めてしまうことが多いそうだ) ところが、平地に戻ると大騒ぎとなっていた。昨日ぼくらが遭遇した同じ落雷で、学校登山の歴史に残る大惨事が発生していたのだ。宝剣岳から北方に約50km離れた北アルプス西穂高岳(2909m)で、登山中だった長野県松本深志高等学校の山岳部員らが避難下山途中落雷の直撃を受け、生徒8名が即死、生徒・教員・会社員一人を含めた13名が重軽傷を負い、生徒3名が行方不明となった。(後日の捜索で行方不明者3人も遺体で発見され、犠牲者は合計11人となった)落雷事故としても一度にこれほどの死者・負傷者が出た前例はなかったため、この出来事は全国に衝撃を与えた。それからは毎年、犠牲者を偲ぶ西穂高追悼式や追悼登山が、松本では関係者たちによって執り行われているそうだ。深志高校はぼくの通学していた高校と同じく進学校で、犠牲者の中には同学年の若者たちが何人かいたはずだ。右手だけで何とか助かったぼくだって、一歩間違えたら彼らと同じ運命を辿っていたかもしれない。初登山のことを鮮明に記憶している背景には、そんなことがあった。丁度それは46年前の今日、昭和42年8月1日のことだった。
さて、山といえば、ぼくの周辺で唯一山男だった義兄にまつわる記憶が多い。ぼくが高校を卒業して上京した折りにも、都内に住んでいた姉夫婦のところに居候させてもらった時期があったが、常に危険と隣り合わせの登山を続けていた義兄の山好きは、その頃の姉の悩みの種となっていた。それから次第に義兄の登山熱も沈静化していったようだが、彼なりのやり方で山とのかかわりは継続していた。神奈川から都内の医療施設に研究者として長年通勤し続け、70歳近くなっても休みとなれば一人で日帰り登山を楽しんでいたようだ。
山梨で育ったぼくが裏富士男だとすれば、義兄は御殿場生まれの、言ってみれば表富士男。しかし、そんな表裏のない大陸的な大らかさで、ジョン・レノンと同じ歳の義兄はぼくを折りに触れ可愛がってくれた。姉と結婚する前だったと思うが、本をぼくにプレゼントしてくれた。ヘルマン・ヘッセ全集の「春の嵐」と「車輪の下」。その2冊は今も書棚に収まっている。どうしてこの2冊なんだろうと首をかしげたが、おそらく青春時代を送るぼくに読ませたかった本として選んでくれたのだろう。しかしこの頃のぼくは、穏やかな人間の生き方を描いたヘッセと対極にあるようなアルチュール・ランボーの詩に夢中になっていたので、残念ながらせっかくの義兄の厚意を青春の記憶に刻むことはできなかった。それから数十年間、年に数回会ってはとりとめもない会話を交わす程度のつきあいだったけど、ぼくにとってはかけがえのない人だった。体格も良く、屈強のイメージを抱いていたのに、義兄は2年前、病によってあっけなく他界してしまった。その別れはあまりにもあっけないものだったから、ぼくはしばらくその事実を受けとめることができなかった。
ある日、ヘッセの名言を紹介しているサイトがあり、何気なく見ていると二つの言葉に目がとまった。
「僕は彼岸を信じない。彼岸なんてものは存在しない。枯れた木は永久に死に、凍死した鳥は二度とよみがえらない。」
もうひとつは「私がとても愛している徳がたったひとつある。その名は「わがまま」という。」
もちろん義兄は決してわがままな人ではなかったし、唯物論者でもなかったが、この対照的な二つの要素を矛盾することなく両立させていた人だったことに思い当たる。また生涯、医学の研究畑を歩み、日々実験や実証に明け暮れた人なのに、説明のつけようのない心情にも深い愛着を示す人だった。
人はなぜ山に向かうのだろうか。山は向かう方向や距離によってその姿を無限に変えていく。だから、写真家の港千尋さんは、「今見ている山は、瞬間の山に過ぎない」と言っている。自分が動くと、山も動く。ひとつの山はそのうちに、無数の山を含んでいるではないか。ひとつの山が含む無数の山は、像の属性ではなく、その本質であると。だから遠くにある山に辿りつこうとすることは、自身の心へと辿りつくのと同じくらい遠い道のりに違いなく、その人に含まれる無数の意識もまた、その本質なのだということになる。