Above : 100 Words by Paul Rusch (from 203p)
Below : GAZE Study #18 (Miranda) 1996-1998
Courtesy of Galery Roit , Amsterdam
Copyright of theartist Dsiree Dolton
散髪中の心持ちは宙ぶらりん
人生で一番古い記憶は? ぼくの場合は閃光の記憶だった。狭くて暗い部屋に家族と枕を並べて寝ていた記憶もかなり古いものだが、もっと閃光の記憶が古いと思うのは、それが怖かったから。ぼくの中では怖さだけが断片的に残っていたのだが母によれば、ぼくを床屋に連れて行ったとき鏡に反射した光に驚いて大泣きしたことがあったそうで、それを聞いてやっとその出来事だったのかと合点し、自分のもっとも古い記憶として認定することにした。 以来、ぼくが床屋にいくのをいやがったものだから、何とそれからは家まで床屋さんに出向いてもらうことになったのだそうだ。床屋さんが自宅にやってくる。当時は決してめずらしいことではなかった。そんな時代が日本にもあったのだ。秋山という床屋さんだった。数年前、新聞のお悔やみ欄で90何歳かで亡くなった秋山さんの名前を見つけたとき、半世紀以上も昔の記憶が懐かしくよみがえってきた。
生きていれば、爪は伸びるし毛も伸びる。小学生時代は母が散髪を担当してくれた。中学生になると、郵便局に父親が勤務していた同級生がいて、彼の計らいで局内にある散髪室でちゃっかり家族待遇を受け続けていた。料金は忘れたが、とにかく安かった。社食と同様に企業の福利厚生の一環でそんな値段も可能だったのだろう。民営化になるずっと昔の長閑な頃のお話だ。高校生ともなれば、頭の中はもうビートルズのことでいっぱい。もちろんヘアースタイルは学則をかいくぐってのマッシュルームカット。自分でするしかないので、ここらあたりから床屋は卒業ということになる。
成人してからのことはあまり覚えていない。ただ写真をみるとずっと長髪だったから、たぶん自分で適当に散髪していたようだ。ただ、一度だけ悲惨な思い出がある。何を勘違いしたのか、おばさん相手の美容室でパーマをかけてしまったのだ。鏡に映る自分の情けないカーリングヘアを見ながら、もう二度と美容室なんかいくものかと心に誓った。
そんなこんなで、ずっと苦手な散髪だった。何とも散髪中の心持ちは宙ぶらりんで落ち着かないものである。上の写真は清里開拓の父と言われている60歳代のポール・ラッシュ氏散髪光景のワンカット。清里の人々からの尊敬を一身に集めていたポールさんが、この時ばかりはちょっと情けない表情で座っているのが何とも微笑ましい。今この瞬間にも、世界中で数え切れないくらい大勢の人々がこんな心持ちで座っていることだろう。
女と違って男は元来面倒くさがり屋なのか一度馴染みになるとそこに腰を落ち着けてあまり変化することを好まない傾向がある。ぼくもその後の30年間にたった2軒の美容室しか行っていない。
1軒目は地元のお店。銀座のビダルサスーン系列の美容室で店長をしていたHさん夫婦が独立し、縁あって甲府にお店を出すことになった。知人に紹介されてデザインを担当した30代のぼくは、それからずっとここに通っては、同年代のHさん夫婦と一緒に遊びに出かけたり、職種は違っても同時代を並走する仲間のような付き合いをしてきた。富山出身のHさんは東京時代に美容師コンテストの全国大会で上位入賞を果たすほどのテクニシャンでシャープなカットが持ち味だ。片やパートナーのTさんは粘り強い構築系で、対照的な二つの個性を両輪としたお店は根強い顧客層を獲得していく。その後順調に業績をのばした彼らは土地を購入し、分散していた店舗を統合して新店舗を建設することになった。
彼らがこだわったのはコンクリートの打ち放し建築。そこでHさん夫婦は知り合いの伝手をたどって、建築デザイナー川崎隆雄氏に設計を依頼した。川崎氏とコム・デ・ギャルソンのデザイナー川久保 玲さんは慶應義塾大学の同級生だった頃からの友人同士で、ギャルソンの店舗デザインをほとんど手がけている。その川崎氏が初めてデザインする美容室が甲府の街に誕生することになった。印象的な横に伸びる1枚仕立てのミラーやストイックでミニマルなコンクリート空間は、二人がずっと温めていたショップイメージそのものだった。ぼくも方向性は少し違っていたが、ほぼ同時期に同じようなことにトライしていたから、自分の好みを労働空間にも反映させたいという彼らの志向はとてもよく分かる。団塊直後のぼくらの世代には、前の世代の熱気から一歩距離を置き、情熱をいったんクールなベールで覆いながら自分の中で密かに温めて続け、機を見て自己表現を図るようなところがある。その心理は別に屈折したものでなくいたってシンプルなのだが、外部に共感を求めるより自分が共感できることを優先するため、一見ナイーブな頑固者に見られることも少なくない。平たくいえば、どんな風に見られたってあまり気にしない。本当に自分が心地よいのかが問題なんだ、ということを優先しようとする世代なのである。年に10回くらい出かけては、Hさんにカットしてもらいながらぼくらはとりとめもない会話を交わす。これも一種の定点観測となる。こうして20年近い時が流れた。
新世紀に入ると、時代を覆う空気感が微妙に変化してくる。コンクリート建築でその作風を確立した安藤忠雄さんが海外でも高い評価を受けるようになってくるにつれ、へそ曲がりのぼくのなかでは「いつまでもコンクリートの打ち放しでもないよな」という思いが頭をもたげてくる。盤石だった「心地よさ」のカタチも揺らぎはじめ、これまで見向きもしなかったものを少し取り入れてみようかという気持ちが生まれてくる。
そこである日、家族に紹介してもらった東京の美容室に出かけてみることにした。そのお店は六本木のミッドタウンと国立新美術館の間にある、南仏プロヴァンスの別荘をイメージしたという美容室。オーナーは有名女優たちも信頼をよせる、雑誌などにも時々登場するヘアメイクアップアーティスト。六本木に2店、銀座に1店を展開していて、ぼくの行ったお店は六本木の小道沿いの瓦屋根の黄色い一軒家。民家を改造したショップには季節の風が通り抜け、なるほど行ったことないけど南仏プロヴァンスってこんな感じかと思わせる店作りだ。コンクリート打ち放しとはだいぶ趣が異なる。隣家の入口に警備員が立っているので不思議に思っていたら、大臣歴任中の与謝野馨氏の自宅だった。
カットはとてもナチュラルな仕上がりだ。ヘアカットは一種の造型表現。カチッと強引に作り上げていくのではなくて、その人のもっている毛の流れに逆らわず、外の空気を巻き込むような自然な造型をベースに、こちらの要望も巧妙に反映してくれる。よし、ここにしばらく通ってみようと決めてから、担当者の移動に合わせて銀座に行ったり、六本木に戻ったりしながら10年近く経ってしまった。その間にヒルズやミッドタウンも誕生した。そんなぼくにあきれて、美容室の近くでデザインオフィスを構える友人には「髪の毛切りに1日かけて東京まで出かけてくるなんて、お前馬鹿じゃないの」なんて言われるが、たしかにそうだなと思いつつ、髪がのびるとまた予約を入れている。忙しいときには東京滞在3時間のとんぼ返りをすることもあるけど、仕事に追われる日々が続くと、移動の車中でぼんやりするひとときも案外悪くないなという気がしてくるのだ。
このお店でぼくの担当してくれた美容師はこれまで3人いたが不思議なことに山形、福島、仙台とすべて東北出身の子たちだった。いろんな意味でいま大きな岐路に立たされているこの日本で、ぼくはのんびり髪の毛なんか切ってていいんだろうかと自問することがある。しかし、自分のできることを精一杯やりきっていく日常の先からしか何も見えてこないだろうという思いもある。
ヘアースタイルが少し変わると、何か自分がほんの少しだけ生まれ変わったような気持ちになる。事実、人間の細胞も定期的に分裂と再生を繰り返し入れ替わっていくらしい。部位によってばらつきがあるため、その周期には諸説あるが、だいたい6年周期で入れ替わるようだ。つまり同じ人間に見えても、6年前と今の体は別な細胞で構成されていることになる。こうして小さな生まれ変わりを繰り返しながら、人は老いに向かっていく。 人体は生命が乗り込む電車のようなものだ。走り続ける電車は、いつ何時その体全体に危害を及ぼすことになるかもしれないという危険性をはらんだ数々の臓器群によって支えられている。反乱のその時がくるまで、彼らは片時も休むことなく分裂・再生を繰り返しながら、生命を乗せた電車を懸命に走らせようとする。
フォークシンガーの高田渡には詩人だった父親がいた。その人はかつてこんな詩を書いていた。
田舎の電車
*
電車は走っている
車輪の音響に促されて
無意識に走っている
私は後に凭り掛かって瞑目している
私は行先を考えてはいない
運転手の目は 慣れ切っている前の
レエールなんか見てはいない
唯った4、5人の客は
てんでに人の足下を眺めていた
車掌は出口にもたれて
客の風体を全部見てしまっていた
桑畑の中を電車は真直に走っていた
夕陽の影に追駈けられて電車はいつまでも
走っていた
*
高田 豊(大正13年8月)