未だ見ぬ故郷へ
写真の右が9歳のぼく。そして隣りの帽子姿の少年は友人の杉本安美(ヤスミ)ちゃん。ぼくより三つ年上だったけど、なぜかウマのあう大親友だった。当時暮らしていた近所のちょっとした谷間に位置する場所に、いわゆる部落と呼ばれる地域があって、廃品回収を生業とする杉本さんの一家もそこに暮らしていた。いろんな差別をうけていたのだろうが、それは大人の世界の話、子どものぼくは知る由もない。やさしくて気立てのよい杉本家の人たちが大好きだった。
ある時その自宅で執り行われた杉本家親族の結婚式の光景は今でも鮮明に残っている。朝鮮古来の様式だろうか、見たこともないカラフルな民族衣装で凄まじいドラや鐘の音に合わせて踊り続ける安美ちゃんの両親は、もういつもの見慣れた彼らではなく、まったくの別人だった。この人たちは何か深いところで自分とは違うルーツを持っているんだ、という驚きがその時のぼくの心に強く刻まれた。
安美ちゃんや彼の弟たちとは多くの時間を近所の空き地で、三角ベースの野球などに興じて過ごしたものだった。それは、貧しくてもそれなりに満たされていた戦後日本の標準的な少年時代であったと思う。ところがそんなぼくらの別れはあっけないものだった。この写真が撮られた約一ヶ月後、北朝鮮(朝鮮人民共和国)に、安美ちゃんは崔達治という自国名で家族とともに還ってしまった。帰国事業は1959年から1984年まで続き、最初の帰国船は1959年12月10日に出航したそうだから、彼らは事業開始早々の帰国者だったことになる。友交を記憶にとどめるようにと、ぼくの家族がこの写真を撮っておいてくれたのだろう。
別れの朝、見送るためにぼくは踏み切りの前に立ち電車を待っていた。安美ちゃん達を乗せた電車がやって来た。彼と兄弟たちは窓から身を乗り出し、数本の紙テープをぼくに向かって投げてくれた。踏み切りを通り過ぎるほんの一瞬のことだった。ぼくは泣きながら電車が見えなくなるまで手を振り続けていた。昭和35年に起きたこの別れと愛犬の死は、ぼくが初めて味わう、別離のほろ苦い悲しみとなった。北朝鮮関連のニュースを見るたびに彼のことを思い出す。その後の人生が辛いものでなければいいのだが、とぼくはその度に願っている。