鍵盤上の金平糖
「鍵盤の女王」と呼ばれる彼女は、作品に宿る世界観をそのダイナミックで華麗な演奏スタイルによって奔放に表現し、「生ける伝説」と称されている。音楽の流れに敏感に反応し、瞬時に指先に伝えるその抜群の反射神経と運動神経。彼女の打鍵は極めて強く、正確で、その抜群のリズム感が演奏を比類なきものにしているから、彼女は世界のクラシック音楽界において、現在最も高い評価を受けているピアニストの一人だと言われている。
マリア・マルタ・アルゲリッチ(Maria Martha Argerich)は1941年6月5日にアルゼンチン・ブエノスアイレス生まれの80歳。祖先は18世紀にスペインのカタロニア地方からアルゼンチンへ移住しており、「アルゲリッチ」はカタロニア由来の姓であるようだ。(Wikipediaによる)2歳8ヶ月からピアノを弾きはじめ、以降華々しい活動歴を誇る彼女だが、日本のアルゲリッチのマネージャーである佐藤正治氏によれば、実は彼女は常に自分をアマチュア音楽家であると考え、非常に高い向上心を持って練習していると語っている。「少しでも努力を怠ると聴衆に気づかれてしまうのよ」と練習も毎日手を抜かずやっているのだとか。演奏技術や記憶力、表現力などは人並みはずれたものがあるといわれる天才にも、こんな人間くさい一面があるとほっとする。
美しい容姿は彼女の数ある魅力の一つだが、恋愛にも奔放で数々の恋愛と3度の結婚をしている。最初に結婚したのは中国系スイス人の作曲家で指揮者のロバート・チェン(陳亮声)。2度目が指揮者のシャルル・デュトワ。そして、ピアニストのスティーヴン・コヴァセヴィチと3度目の結婚をしている。(彼の演奏も素晴らしく、ぼくはYouTubeで時々聴いている)3度の結婚で3人の娘をもうけたが、子どもたちはみな彼女が引き取り育てた。
そもそも、マルタ・アルゲリッチのことなぞ、ぼくはなにも知らなかった。しかし、ほんの少しの偶然がぼくを彼女の音楽に引き寄せてくれた。だからぼくはあえて彼女について語ってみたいと思う。ぼくが彼女のことを初めて知ったのは2020年8月にBSで放映されたシネマ「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」という彼女の私生活のドキュメンタリー番組でだった。たまたまなので、途中からエンディングまでの20分くらいしか観ていない。その映像には普段着の彼女の素顔が捉えられていた。3人の娘たちと野原のシートに座り込んで足の爪を切り、ペディキュアを塗ってもらっている彼女が娘たちとが交わす何気ない会話。そして、休日に自宅のソファに腰掛けて音楽について語る彼女の独白など…。
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音楽を聴くときと同じ…いつも何か新しい発見がある…新しい何かを感じとる…練習のときはなるべくそうじゃないほうが…たぶんそうじゃないほうがいい…難しいわね…まず自分の真似をしない…下手にならないようにする…そこに年の問題が絡んでくる…ある種の能力が落ちてくる…新鮮さがなくなる…肉体が老いるように演奏にも老いが出るの…ときどき誰かに“演奏が変わった”と言われないか不安になる…でも音楽との関係はいつも新しいわ…愛と同じね
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ちょっとした仕草などからも彼女の人となりが伝わってくる。放映された番組にはピアニストのスティーヴン・コヴァセヴィチとの間に生まれたステファニー・アルゲリッチの撮った映像が挿入されている。ステファニーは主にアルゲリッチのCDの表紙やドキュメンタリー映像などを撮影しているプロの映像アーティストである。60歳の起きたばかりの母の顔のアップ。そこに娘のこんなナレーションが添えられる。
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10年前に撮った映像だ…ただ意味もなく母の顔を撮ってみた…フレームいっぱいに目と髪を入れて…今も同じように撮る…何が変わったろう?…母は私に言う。“人生は映像の中にはないのよ”
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今度は自分を撮っている娘に、母アルゲリッチが語りかける。
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例えば私とあなたはあまり話をしてこなかった…おしゃべりじゃないから…今もあまり話さないけど大切なのは言葉じゃない…それが何か分からないけどどこかにあると思う…言葉では伝わらない…私たちには意見の違いがたくさんあるし似てるところがあまりないかもしれない…あくびが出た?…あなたはいつもそうね…私といると退屈するかおなかが減るか…そういうところをもっと探るべきなのよ…意味分かる?…私はあなたを見るのが好き…側にいるのも好き…肉体的にあなたを見るのが大好き…ごめんね」
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こんなアルゲリッチって一体どんなピアニストなんだろうと思いYouTubeで何曲か視聴する。華麗でエネルギッシュな演奏だなとは感じたが、それ以上深入りすることもなく過ごしていた。ところがその2ヶ月後の10月に偶然まわしたチャンネルにまたアルゲリッチが出ていたのだ。放映されていたのはBSプレミアムシアター「ルツェルン音楽祭2020 ルツェルン祝祭管弦楽団演奏会」。しかも今度は、コンサートが終了して指揮者のヘルベルト・ブロムシュテットとともに何度か舞台裏とステージを行き来して、観客のカーテンコールにこたえている、僅か4分ほどの映像だ。
アルゲリッチはとうとうスタンディングオベーションに促されるようにピアノの前に腰掛け弾きはじめた。そこにいたのは華麗でエネルギッシュなアルゲリッチではなかった。生まれたばかりの真っさらな清々しさ。そのわずか1分30秒にも満たない小品に、ぼくはすっかり魅了されてしまった。
シューマン作曲「子供の情景」から「知らない国々」。聴衆は固唾を呑んで聴き入っている。指揮者のブロムシュテットも彼女の後ろに立って身じろぎもせずに耳を傾けている。カメラが彼女の手元をズームすると左手の親指には絆創膏が…。彼女の指が奏でる鍵盤の上には、夜空から星々が落ちてきて、まるで金平糖みたいにコロコロと弾んでいる。
子どもにとっては、周りのすべては「知らない国々」。目をいっぱいに見ひらき、五感を総動員して世界のすべてを吸い込もうとする。思い出せないほど遠い昔、ぼくも「知らない国々」に囲まれていたはず。そして年月を経て「知らない国々」は次第に記憶の大地に姿を埋めていくのだが、まだ何もはじまってない、真新しい「知らない国々」は、ずっと心の底に息を潜めている。
ぼくは決して熱心なクラシック音楽ファンでもないし、ピアノ好きでもないから、いつも聴くのは気分に合わせて、たまたま出会った楽曲に過ぎない。でも、それで一向に構わないと思っている。音楽と向き合っているその一瞬は、いつもぼくにとってはかけがえのない一瞬。だけど、人間なんて気まぐれで結構いい加減な生き物。いやいや、人間なんて遠回しに言わないで、ぼくはと言い直さないといけないんだけど、いい加減でいい、偶然でいいんだと、やっぱりそんな風に思う。人はまたたく間に老いていく。刻一刻、暮らしは刻まれて決して止まったり、後戻りしたりはしない。そうしてすべては静かに滅びに向かっていく。なのに…。アルゲリッチの指先がぼくの記憶の大地から掘り出してくれた真っさらな清々しさ。コロコロと鍵盤上に弾む金平糖が、こんなにも穏やかで満ち足りた気持ちにしてくれるなんて…。
※Live映像はこちらから(冒頭の95秒)Martha Argerich – Schumann, Escenes d’infants, op. 15 Kinderszenen Op.15, Scenes from Childhood