Shincho-Bunko
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i-Pod tuch
青空文庫
「i文庫」というiPhoneやiPod touch用アプリケーションがある。インターネット電子図書館「青空文庫」のリーダとして登場し、iTunes Storeから入手できる。
以前からiPodでテキストを読んできたが、文字は小さいし書体や文字組みなどの調整もできず、正直言えばおよそ実用的とはいえない代物だった。そこでディスプレイの大きくなったiPod touchでテキスト表示させてみようと思い立ち、「Stanza」という電子書籍リーダのiPhoneアプリを見つけ出した。
試してみるとまずますの出来である。書体変更や背景色も数種類用意されており、iPodにくらべたら格段に読みやすくなっている。しかしこのアプリは本来、海外で英語や仏語を読むために開発されたものだから、日本語用電子書籍リーダとしてはおのずから限界がある。ちなみにこれ以外にもKindle for iphonというアプリもあって、洋書愛好者はAmazonから膨大な書籍をゲットしてのモバイル読書が可能となっている。
さらにぼくはもっと快適な日本語のための電子書籍リーダがあるはずだと考えネット検索を続けてみた。便利なもので困っている事柄を打ち込むとかなりの確率でコメントが見つかるから、この類いの疑問は粘り強く検索していると何とかなってしまうことが多い。
そして見つけたのが「青空文庫」。その名の通り文庫を読むように電子書籍の閲覧が可能になっている。そもそも「青空文庫」とはホームサイトにもあるように、利用に対価を求めないインターネット電子図書館の総称である。「電子テキストの恵みに浴するだけでなく、野に木を植えようと志した」青空工作員とよばれる人々が入力、校正、ファイル作成などのボランティア活動に参加している。(各作品の奥付には担当者名が明記されている)1997年に設立され、閲覧無料、登録不要、使用言語は日本語で、現在約7900作品が収録されている。著作権が消滅した作品や書き手が対価を求めないと決めた作品などが自由に読めるようテキスト化するというこの試みは、「信頼され」そして「フリーな」百科事典を質量ともに史上最大の百科事典として創り上げるというWikipediaの基本姿勢にも通じる。こうした広汎なアーカイブ化指向が、ネット社会の土壌から誕生した新種の運動体のダイナモとなっている。
この「青空文庫」は「i文庫」で書籍データをネットからダウンロードし閲覧することができる。なんといっても縦書きなのがうれしい。ルビも付いていてノンブルや柱もあり、ほぼ文庫のイメージを再現しており(電子書籍としては)すごく読みやすい。ページめくりもフリックで快適だし、好きな書体に本文をカスタマイズでき、色や表示サイズも自由に調整可能。そして背景色をRGBの%刻みで調色できるから、閲覧の感覚的自由度は格段に高くなっている。試しに宮沢賢治の収録作品をすべてダウンロードしてみると、ほぼ全集といってもいいくらいコレクションは充実していて、これでどこでも好きな時に賢治作品を文庫感覚で読むことができるようになる。
上の画像が文庫本で、下が同作品を表示させたiPod touch画面。サイズの比率もこんな感じで、幸いぼくはまだ老眼ではないから、これなら快適に読み進めることができそうだ。さらにこの「i文庫」は「青空文庫」だけでなく、Mac用フリーウェアのDiskAidを使うと、ワードなどのテキストデータも文庫風に縦組み表示してくれて、これもすこぶる実用的。
だからどうした、読書なんて本を買って読みなさい!とお叱りの声も聞こえてきそうだが、実用に耐えうる技術ならもっと柔軟に選択肢に加えたって構わないと思う。「電子書籍では文学的な香りまで伝わらない」なんて言うのは考え過ぎだし、幻想ではないのか。逆に「電子書籍が普及すれば電子書籍向きの文体が誕生してくる」というのも同様に幻想といえるだろう。創造とテクノロジーやメディアの住み処は、そもそも次元を異にしているのだから、技術や媒体は使いたい人が自由に選択して活用したらいい。あくまでも使うも自由、使わないも自由、なのである。
しかし、手のひらに納まるほどコンパクトな道具の中に、本にしたら抱えきれないくらい膨大な書籍データがすっぽりと収納できるという現実をなかなか受け入れることも難しい。数十ギガの容量さえあればテキストデータなら小さな図書館並の収集量が可能なのだから、何とも不思議な感覚にとらわれる。盆栽を筆頭に、人間は小さなものに大きな宇宙感を封じ込めることに情熱を傾けるという習性も育ててきた。その新たな萠芽がデジタル世界で芽吹こうとしているのかもしれない。
印刷技術は活版印刷の発明者グーテンベルクによって切り拓かれ、ルネサンス三大発明の一つにもあげられている。そして長い旅路の末、わざわざプリントする必要もなく、読みたいテキストを瞬時に呼び出し、また収納できる。そんな時代にぼくらは今生きている。大手出版社はまだ電子書籍に本腰を入れるつもりはないようだけど、10年後に電子書籍装幀家なる職種が誕生していないと誰が言い切れるだろう。90年代前半、印刷物の制作には欠くことのできなかった写植はデジタルフォントに取って代わられ、今やほぼその姿を消してしまった。言語に秘められた力を伝える媒体は、確実に変容し多様化しつつあるようだ。
しかし世の中、何が起こるかわからない。未曾有の天体レベルの災害により(例えば強力な電磁波の変動などで)世界中のデジタルデータが壊滅的なダメージを被る可能性だってないとは言い切れない。そんな大袈裟な話でなくても、否応なくデジタル環境に身を置かざるを得なくなったデザイナーなら、マシントラブルや人為的ミスによって大切なデータが消失してしまい途方に暮れたという経験を2、3度はしているはずである。
現代のテクノロジーには、その利便性と合わせ鏡のように存在する脆弱性による不安感が常につきまとう。確かにそこからぼくらが浴している恩恵は計り知れないものがあるが、片時も休むことなく流れ込む怒濤の情報を前にして、大切にしていたものが煙のように跡形もなく消え去ってしまうこともあり得るという不確実性も、ぼくらが手にする技術には内包されていることを心にどこかに留めておく必要がある。最後に残されるのは自分の小さな脳に染み込んだ、この世に2つとない膨大な記憶の残像だけだということも…。