神社巡りがやめられない
昔から特別帰巣本能が強いのか、ぼくは家から遠く離れるほどに落ち着かなくなり、次第に引き籠もりがちな性分が形成されてきたようだ。仕方なく出かけた旅先では、枕の違いが気になって寝付けなかったり、すぐに体調が狂ってしまい一刻も早く家に帰りたくなってしまう。だから仕事がらみの遠出では余程のことでないかぎり、極力日帰りするようにしてきた。こんな放浪癖と対極にあるような性分なので、海外旅行などはぼくにとっては限りなくハード ルの高いものとなる。本来、旅行は退屈極まりない日常から抜け出せる楽しみとなるはずなのに、そうならないのはつくづく損な性分と言われそうだが、ぼくはこれっぽっちも損などとは思わずに、自分を限定づけるこんな性格と折り合いをつけながらこれまで生きてきた。
それが50歳も過ぎる頃から男の更年期症状というのだろうか、体調の変化が徐々に現れ、思い返せば還暦を迎えるまでの10年間はとても不安定な時期だった。病名がつくほど決定的に不調なわけではないが、まるでモグラたたきのようにいつも身体は不調の移動を繰り返していた。運勢によれば、60を越せば次第に安定期に移行していくとある。たしかに還暦過ぎるとそこが竹のひと節だったかのようにそれまでの自分から脱皮して、新たな自分に生まれ変わったような気がしてきた。時を同じくしてその頃から仕事の都合で定期的な出張に出ることになり、ほとんど日帰りなのだが群馬、埼玉、この両県に向かう機会が増えてきた。ただこの地域、電車だと乗り換えを含むとかなり時間がかかってしまう。そこで往復でおよそ300km強の距離を自動車で移動することにした。中央道から圏央道、そして関越道に乗り継ぐルートをここ数年で通算300回近く往復してきたのではないだろうか。車は基本的に自分のペースで移動できるので、わがままなぼくには向いている移動手段と言えるし、元々運転が嫌いではないのでさほど疲れも残らない。それやこれやが契機となったのか、その後ぼくの帰巣本能にも少しずつ変化が現れ、小旅行ならさほど苦にならなくなってきた。現金なもので、人生の折り返しをとうに過ぎたのだから、これまで自身が封印してきた旅行をここらで少しづつ解いてみようという意欲が湧いてきた。
そこでぼくは毎月2~3泊の小旅行をすることにした。もちろん仕事の都合もあるからそう長くは休めない。本当なら一週間から10日ほどの休暇をとって遠出もしたいところだが、そうもいかない。ならばせめて毎月は出ることにしようと、ここ数年は判で押したように毎月出かけ、その旅先は相当な数になるが、指を舌で湿らせて風の吹くまま気の向くまま、寅さんのような気軽な一人旅を心掛けている。旅先は車で移動可能なエリアなので、暑い時期は比較的涼しい小布施や軽井沢や小諸辺りまで。寒い時期は温暖な静岡の熱海とか箱根、御殿場を目指すことが多い。時には群馬の奥の伊香保や沼田市辺りまで足を延ばすこともある。厳冬期はやはり雪道は避けたいので、どうしても県内をウロウロすることが多い。はじめの頃、勝手が分からず旅慣れないぼくは、有名な観光地をピックアップして見学したりしていたのだが、どこに行っても予定調和というかワクワク感に乏しく、さして代わり映えしない光景ばかりなのですぐに飽きてしまった。それに(自分のことは棚に上げて言うのだが)時間と余裕もあるリタイアした年配者たちを必ず大勢見かけるので、せっかくの旅行なのに何とも心が弾まない。
気がつくとぼくの関心は次第に自然に向けられるようになってきた。かといって別に山歩きやトレッキングに夢中になったわけではない。たまにはその真似事をして汗をかいたりもするけれど、むしろ、こんなところにこんな風景があったのかと発見することに楽しみを覚えるようになってきた。不思議な自然の造型美は、またとない旅のご馳走となる。いままで家から離れて知らない土地を眺めてみたいなどと考えたこともなかったぼくは、遅まきながら出かけるようになって、暮らしてきた土地のことはもちろん、日本各地のことなど何も知らなかったなぁ、と痛感させられた。あちこち移動して見たからってそれが何なのだ、それで想像力や空想力が膨らむのか?と問いかけるもうひとりの自分もいるが、やはり移動できる喜び、予期せぬ出会いの喜び、五感で体感できる喜びには抗いがたいものがある。
その最たるものが各地に点在する神社である。当初、騒々しい観光地から逃げ出すように向かったのが神社だったが、そのうち事前に探した神社を目指すことが増えてきた。中でも長野の諏訪湖周辺4か所にある諏訪大社は全国に約25,000社もある諏訪神社の総本社だけあって堂々と風格ある佇まいだが、他にもなかなか味わい深い神社が数多く点在している。
まずはお膝元から。山梨県北杜市白州白須の甲斐駒ヶ岳神社はここが甲斐駒ケ岳登山の起点となるため、多くのハイカーが集う場所でもある。ほとんどの神社は杉の大木茂る清浄閑静な森に鎮座しているが、この神域の森もなかなかのもの。本社は今からさかのぼること約280年前に駒ヶ岳講信者によって建立され、その駒ヶ岳講は地元はもとより京浜、阪神地区にまでも広がる多くの講社によって結成されたのだそうだ。活動が最も盛んだったのは江戸時代末期。それから現在にいたるまで、随所に建立されている数多の石碑などからは往時の篤い信仰の跡がうかがわれる。甲斐駒ヶ岳山頂の奥宮に対して、ここは前宮(里宮)と位置付けられていて、境内を抜けると尾白川にかかる吊り橋があり、黒戸尾根登山道へと続いている。ちなみに尾白川は、建御雷神から生まれた天津速駒と言う白馬が住んでいたことに由来し、この白馬の尾から名付けられたとされているが、夏期に訪れた際には吊り橋付近の渓流沿いは涼を求める多くの家族連れで賑わっていた。
日本では甲斐駒ヶ岳のように山岳信仰の対象となる山が摩利支天と呼ばれている場合があるそうで、道理でこの神社にも摩利支天の文字が各所に点在している。摩利支天の原語は太陽や月の光を意味し、陽炎を神格化したものだそうだ。また、甲斐駒ヶ岳神社の主祭神は「だいこくさま」とよばれている大己貴神(おおなむちのかみ・大国主神)。こうした背景もあってか境内の霊神碑、石碑、石像は、どれも活力がみなぎっていてバラエティーに富み、時にユーモラスでさえある。神社から受ける全体感からは信仰と向き合う真摯さや、白衣を着て鈴振りながら登拝する先達や行者、講員たちのエネルギーが伝わってくるのだが、その本社の一角にひっそりと糸のように細く落ちる滝がある。神域とされている空間なのだそうだ。これは勝手な想像だが、この神域は本社が建立される際の基点となっていたのではないだろうか。うまく伝えられないが、この水の神域にはそう思わせる人知を超えた自然のもたらす地のエネルギーの波動が満ちていた。
他にも山梨には思い出深い神社がたくさんある。永正16年(1519年)に本殿が武田信虎によって造営された、山梨市に在る大井俣窪八幡神社(通称、窪八幡神社)。そして南アルプス市高尾にあるのは高尾穂見(ほみ)神社。来歴は古く、平安時代の書物「延喜式神名帳」に穂見神社として名前を残し、集落の北から林道を進む標高850mの櫛形山中腹に鎮座している。この地に稲作が伝えられた弥生時代に建立されたと覚しき穂見を名乗る神社が櫛形山地を囲む一帯には何社も点在しているが、この立派な拝殿やひときわ目を惹く神楽殿は山中の神社の中で群を抜いている。商売繁盛や養蚕の神社として県内外に広く知られ、甲斐駒ヶ岳神社同様、東京や長野など遠方にも高尾講が存在している。2016年の2月、山梨の大学で開催された講演会を終えた中沢新一さんと初めて訪れてから、その後何度か足を運んでいるが、神社に残る寄進帳を見ると諏訪の人物がたいへん多く、昔から諏訪とこの櫛形とは深い交流が結ばれていたことがうかがわれる。現在も上今諏訪など諏訪を含む地名が多く残り、諏訪の御柱祭に較べればいささか小規模ではあるが、同じ7年サイクルで櫛形でも御柱祭が執り行われている。
ところで今年7月に放映されたNHKスペシャル 「 列島誕生 ジオ・ジャパン 奇跡の島は山国となった」はとても印象的な内容だった。日本列島の成り立ちを描くドキュメンタリー番組で、島国にして山国という奇跡の大地はどんなドラマを経て今の姿となったのかという3000万年に及ぶ奇跡の島の誕生物語だ。ユーラシア大陸の極東で引き裂かれる地殻変動が発生し、大陸に低地が出来始めた。そして1500万年前には日本海となる大きな窪みが形成されたが、この時点では日本列島の原型はまだ関東を境に南北に分離された状態だった。この二つを接続したのは、太平洋プレートに南から進入してきたフィリピンプレートによって引きおこされた海底火山の爆発によるもので、何と奇跡的に一直線上に連続的に発生したことによって偶然もたらされたものだという。こうして分離された大地の間にまず進入してきたのが櫛形山系、次に御坂山系、そして丹沢山系と次々と玉突き状態で進入して、一つの日本列島の原形が形成された。つまり、櫛形はこのような雄大な地質の歴史を背負った地域だったのだ。
では、隣りに位置する御坂山系にはどんな神社があるのだろうか。ぼくのお気に入りは「ブッポウソウ」と啼くコノハズクが確認された地として有名な檜峯(ひみね)神社だ。御坂町上黒駒から神座山林道という林道へと入り、「檜峯」の由来となったヒノキ林に囲まれた山道をおよそ4kmほど進むと檜峯神社へとたどり着く。標高約1100mの社殿奥には御神木である推定樹齢300年以上の御神木の大杉が立ち、その雄大な姿は生命力を湛えて神々しい。御坂山系の鬱蒼とした巨木林の深い静寂に包み込まれた神社の社殿一帯には、さながら神々の庭といった趣きがある。
長野にも多くの神社が点在しているが思わぬ所にひっそりを存在する神社があったりして、この地の懐の深さを実感させられる。初夏のある日、蓼科からの帰り道で茅野市を移動中に道路脇に立つ欅だろうか、大木が目に入り呼び止められた気がして車を停め、その先に目をやると潺(せせらぎ)を跨ぎ、林へと誘うように続く狭い石段の先に石鳥居が見える。さっそく石段を下るように歩を進め、さらにその奥にある「天照大神宮」と記された質素な木製鳥居をくぐるとやっと神社が見えてきた。茅野市芹沢地区にあるこの神社は諏訪大社の小宮の一社である木戸口神社とよばれている。小さな祠を中心にして境内の四隅には御柱が立っていたが、印象的だったのは石の小祠に丸石が納まっていたことだった。男女像を彫り込んだ双体道祖神の多い長野で丸石を発見することはあまりないから、これにはちょっと驚いた。この神祠境内には数本の小川が流れているので、水の神社といった趣きもある。一番大きな裏側の小川は乙女滝に繋がっているのだそうだ。大木に誘われるように偶然こんな神社に出会うと、なんだか得したような気持ちになる。これも旅の小さな贈り物と言えるだろう。
さて近県の群馬まで足を延ばすと、またひと味違う神社もある。今年初秋に訪れたのは群馬県高崎にある榛名(はるな)神社。榛名湖から10分ほど山道を進むと樹林の先にある榛名川のせせらぎに沿うように参道入口が見えてくる。ここは関東屈指のパワースポットと言われてるそうだが、なるほど足を踏み入れた途端に辺りに点在する奇岩や古木の奇景には圧倒される。榛名神社の歴史は古く、用明天皇元年(586年)に祭祀の場が創建されたと伝えられている。御祭神が祀られてた御姿岩の洞窟や武田信玄が箕輪城攻略の際に矢を立て戦勝を祈願したとされる矢立杉は国の天然記念物となっている。そしてその奥に立つ、本社・幣殿・拝殿、国祖社・額殿、神楽殿、双龍門、神幸殿、随神門の 6棟計は国の重要文化財となっている。まさに大地のエネルギーがみなぎる堂々たる風格を有する神社といった印象だった。
ほとんど神社はレベルの差こそあれ、こんな場所にこそ神社を構えなければと思わせるようなロケーションに建っているケースが多い。はじまりは1本の大木だったのかもしれない。御神木とも称される木々は古神道における神体のことで、神域の意味も同時に内包するとされている。つまり、実は自然が神社誕生の必然を用意しているわけで、人間はそれを感受して造営に向け行動を起こしたのだろう
最後にもっとも記憶に留めておきたい神社のお話。山梨には山里の温泉がたくさんあるが、古くから湯治場として栄えた下部温泉はぼくが小学生の頃に盲腸の術後に祖母とともに湯治(とうじ)に訪れ、数日過ごした思い出の温泉でもある。ふと思いたち、半世紀ぶりに訪れてみると今はもうすっかり寂れてしまい往時の面影はない。翌日気落ちして宿を後にする際に、せっかくここまで来たのだから国指定重要文化財になっている門西家(もんざいけ)住宅に行ってみようと思いついた。細くくねった下部温泉街の道を上り、更に山道を進んだところに湯之奥という集落がある。ここに建つのが江戸初期の入母屋造りの旧家、門西家住宅だ。湯之奥金山や山林管理などをして、湯之奥村名主や関守を代々つとめてきたのが家主だという。比較的コンパクトな民家建築といった印象なので肩すかしを食ったような気がしたが、徒歩でさらにその先の細い坂道を登って行くと、急な沢に落ち込む手前のウラジロガシ群生の中に集落の最奥部に思いがけなくひっそりと鎮座する神社が見えてきた。朽ち果てた状態で検索してもまったく情報はないが、どうやら「湯の奥山神社」と呼ばれていたようだ。ここから先はすべてが深い沢に呑み込まれる、そんな結界のような場所にその痕跡をとどめ忘れ去られた神社は、今も強い霊性の磁場に包み込まれていた。すくなくともぼくにはそのように感じられた。沢を隔てた隣りには、日蓮宗総本山である身延山久遠寺が建つ身延山がそびえている。日蓮がインドの霊鷲山に見立てて信仰の山として位置づけたとされている身延山だが、霊性の磁場としては、この湯の奥山神社だって少しも引けは取らないのではないだろうか。神社は磁場の目印に過ぎず、その奥には絶えず自然から湧き上がってくるものがある。そして片時も絶えることなく脈々とスピリチュアリティがそこには流れ続けているのだと神社は語りかけてくる。