写真上より、現存するアイルランドのドルメン。
二段目左は雑誌「ドルメン」創刊号表紙(第1巻第1号)、
右は1989年の復活版1号表紙。
三段目より、幻のドルメン・デザインプランの数々。
空押しされたロゴイメージ(拡大)と
表1〜4の見開きデザイン。
扉は折り込みで3頁仕立て。そして目次や本文と続く。
最下段は発刊告知用のポスターデザインプラン。

2013.10.01

ドルメン(dolmen)は、ブルトン語で支石墓(しせきぼ)の別称。巨石記念物の一種で、ブルトン語でdolはテーブル、menは石を意味し、大きく扁平な1枚の天井石を数個の塊石で支えた形がテーブルのように見えることからこのように呼ばれたそうだ。(世界大百科事典 第2版解説より)また、Wikpediaによれば、新石器時代から初期金属器時代にかけて世界各地で見られる巨石墓の一種で、基礎となる支石を数個埋葬地を囲うように並べ、その上に巨大な天井石を載せる形態をとったものとある。世界の各地域に発見されているこの形態がもっとも早く発祥したのは西ヨーロッパとされるが、そこから伝播したものでなく、世界各地に全く個別に発祥したという見方が有力なようだ。中からは土器や石器、人骨などが出土するところから、ドルメンは一種の墳墓と考えられている。

ところでかつて日本には、この名を冠した雑誌があった。人類学や考古学を支援すべく、岡書院を創業した岡茂雄(1894-1989)によって1932年に創刊された『ドルメン』である。停滞しがちだった研究交流に対して、やや一般向けに構想されたこの雑誌は、賛同した多くの研究者らの寄稿によって自由闊達な雑誌として誕生する。創刊号から好感をもって迎えられたという。『ドルメン』には毎号、寄稿者からのエールがコラムとして掲載されていて、手元の資料からピックアップした一文からはそんな当時の躍動感が伝わってくる。(コラムに続くのは巻頭言)

*

ドルメン讃語 : 洋々生

ドルメンの語原は、誰も知る如くケルト系のドルとメン、机石の義、石の机の意味であるが、私にはその内容よりも音感が氣に入つた。最初この雑誌の名が問題になつたとき、どこからかドルメンの名が一案となつて現はれ、私はそれに賛成したが、同人の賛否は區區たる有様であつて、大分別案も出たりして採用試驗に躊躇されたやうであったに拘わらず、遂に之に決定された。

ドル買いやドル賣りが世間にやかましかつたときであつたから、自然そのドルの方への連想も起つたが、私はドルメンの音が、何となくノンキな、ユツタリとした、ドロリダラリとタルミがあり、トロトロとねむたさうな、なだらかな、春の日のやうな氣分を起させられるところに、言知れぬ興味をもつたのである。DLMにしてもDRMにしても、まことに好い音のコンビネーシヨンである。

どうか圓滿な發達を遂げ、ノンビリした調子で生ひ育たしめたい。Dはドルを代表するなどと卑俗なアメリカ氣質を出さず、Lが文科、Mが醫科を代表するなどと故事附けず、何でも面白いことを書いて、廣く賣るに限るさ。すると、LがラヴでMがマネーか。さうしてもよいが、Dはドントの代表とすればいい。

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巻頭言

「ドルメン」は人類學、考古學、民俗學並に其姉妹科學にたづさはる諸學究の極く寛いだ爐邊叢談誌である。 其處には黨心偏念なく、靄然たる歡談漫語の裡に智識の交詢が自ら行はれ、和やかにして然かも豊かなる、斯學界唯一の公機たらしめん事を企圖する。

されば一方本誌は斯學界消息の調査報導には特に多くの力を注ぐであらう。従つて斯學界の刊行物は固より、更に斯學方面の出版界消息も亦本誌の使命とする所である。

*

しかし、岡が出版界を離れた1935年、『ドルメン』は4巻8号をもって休刊し、ここまでが『ドルメン』第1期と呼ばれている。ブログ「人類学のすすめ」には創刊号からの表紙や目次が紹介されていてなかなか興味深い。初期から数号を飾っていた表紙の石机画は、次第に特集テーマに沿ったヴィジュアルに置き換えられ、ロゴも微妙に変化したりして、見ていてつくづく雑誌は生き物なんだと感じさせられる。

その後『ドルメン』は、復刊を望む声に押されるように出版の仕事に復帰することを決意した岡によって、1938年11月再刊されることになる。この再刊1号から通巻50号までが『ドルメン』第2期となる。

再刊に寄せて、民俗学者の柳田國男も推薦文を寄せていたそうだ。しかし『ドルメン』はほとんど戦災で焼失してしまったので、これは幻の推薦文となっていたようだが、再刊1号が和歌山県田辺市の南方熊楠邸に残されているのを岡茂雄は偶然発見し、柳田の推薦文を再読することができたという。それは次のようなものだ。

〈都の花はあかいという諺(ことわざ)がある。紅いか紫なのか、この雑誌が出なくなってから、都を覗(のぞ)くことが私たちには容易でなくなった。新たな問題を速やかに、またなるだけ簡明に報道して、いつもひと通りは学問がどこまで進んでいるかを、せめては関心をもつ人だけにも知らせるような、機関がほしいと思っていた。今でも惜しまれているこの雑誌の編輯(へんしゅう)ぶりが復活して、どこの垣根にも美しい花が栽(う)えられ、逍遙者は思わず立ち止まり、または垣越しにしばらく話をしていくような、のんびりした境地の再現せんことを切望する〉

*

それから時は流れ、きな臭い時代の荒波に呑まれて姿を消した第2期『ドルメン』が、復活版として再び甦ったのは二十世紀末1989年10月のことだった。編集は考古学研究者の田中基さん。発行人は、日本では数少ない映像人類学というジャンルを実践し、監督・プロデューサーとして映像集団「ヴィジュアルフォークロア」を率いている北村皆雄さん。この復活版は季刊で1989年から1992年まで、6号が発刊されている。表紙デザインは、あの杉浦康平氏(+谷村彰彦)。これらは今でもヴィジュアルフォークロアの本として購入することができる。

さて、1992年をもって姿を消した復活版『ドルメン』だが、2000年に再び誕生させようという話が持ち上がる。考古学だけにとどまらない広い分野を含む、かつての初期『ドルメン』のような「サロン」を現代に甦らせることはできないだろうかと考えていた中沢新一さんと港千尋さん(写真家・写真評論家)。二人は対話を重ねながら、この新世紀『ドルメン』の構想をスタートさせることにした。デザインを担当してくれないかと中沢さんから誘われたぼくは、顔合わせとなった初回編集会議の情景をいまでもよく覚えている。指定された場所を訪れると中沢さんの隣りには、中沢さんが親しみをこめて「考古学界のドンキホーテ(Don Quixote)」と呼ぶ田中基さんが座っていた。あの復活版『ドルメン』を担った編集人だ。そしてその隣には港千尋さん。すでに役者は勢揃いしていた。当時、港さんが用意していた発刊に関するメモ書きが手元に残っていた。

*

考古学はいま、古い時代の世界を知るための科学から、知るということそのものの起源と成り立ちを知るための科学へと拡張してきました。痕跡を手がかりに、かつて存在した世界に触れるという知の営みのなかに、意識と認識と知識の根幹をなす、もっと広い意味での記憶の問題系が含まれているからだろうと思います。21世紀を記憶の時代とよびながらヒトゲノムやITといった、単なる情報の成型と変換だけに終始している今日の状況を見るにつけ、本当に大切なことは、モノの手応えをとおして識ることの不思議と眩暈を経験することではないかと痛感します。モノの手触りとモノとの応答を日常の営みとしている考古学を核にして、新しい科学と芸術の地平を拓くために、「どるめん」という名の石を立ててみたいと思うのです。

*

ずっと考古学には、お固くて垢抜けないという泥臭いイメージが定着していたから、何とかそれを一新したい。レベルの高い内容で、このジャンルとしては珍しいカラービジュアルを豊富に組み込んだお洒落な仕立てにし、しかも若い読者層を射程に入れた低価格な雑誌を誕生させようと方向性を定めて編集会議は重ねられた。ぼくも造本に関してさまざまな試作を繰り返しながら発刊に向けての準備を進めた。しかし人文書籍の購買層は信じられないほど少なく、販売上出版を継続するためには制作費を極限まで圧縮することを余儀なくされていたため、出版社との造本と制作費の折り合いがどうしてもつかず、結局、新世紀『ドルメン』は幻の雑誌となってしまった。

復刊は頓挫してしまったが、そのプロセスから中沢さんのカイエ・ソバージュ 「人類最古の哲学」((講談社選書メチエ・シリーズ))や港さんの『洞窟へ―心とイメージのアルケオロジー』が生み出されていった。(ブックデザインを担当した『洞窟へ』は思い出深い一冊となっている)

2012年9月17日に青山ブックセンターで行われた中沢さんと港さんの対談の聴講メモがネットで紹介されていて、それを読んでいたら、新世紀ドルメンで試みようとしていたさまざまなテーマを、田中さんを挟んで熱く語り合っていたあの頃の両氏の様子が目に浮かんできた。世代も専門分野も異なるこの3人は、まるで仲の良い3兄弟のようだった。

あれから早10数年。電子書籍も流通しはじめ、劇的に書籍の生産システムが変化した現在、印刷代に束縛されることもなく企画内容を読者に届ける方法はさまざまに考えられる。もう、造本と販売を隔てていた壁などは存在していないのだ。いまあらためて創刊号のテーマとなった「月の子(月の蛙)」の試作ビジュアルを見返すと、幻の『ドルメン』はほろ苦い記憶の奥で産声をあげようと、じっと息を潜めているようにも思えてくるのである。そう、きっと未完は希望の芽吹きの別称に違いない。

2013.9.02

デザインの仕事をはじめてから最もインスパイアされた画家といえば、やはりアンリ・マティス(Henri Matisse)だろうか。でも若い頃のぼくはマティスにほとんど興味を抱くことはなかった。たしかに自由奔放なその色彩感覚は素晴らしいが、感覚のおもむくままに絵筆を走らせるだけのお気楽な絵描きじゃん、なんて乱暴に思い込んでいた。

マティス没後の10年後頃にぼくは美術への興味を抱きはじめるのだが、当時マティスはすでに近代絵画の巨匠として教科書にも載ってたし、彼の画業から大きな影響を受けた画家たち(たとえば、日本の画家では梅原龍三郎など)が大勢いたことも知っていた。ある意味、ぼくの抱いていたもっとも絵画らしい絵画の中心部にマティスは存在していた。にもかかわらず、いやだからこそ?(数少ない)ぼくの所蔵している画集にマティスの作品集は見当たらない。ということは、心惹かれる画家たちの中にマティスは含まれていなかったことになる。いま思い返せば、ぼくは意識的にマティスの芸術を遠ざけていたのだと思う。それほど彼の画業は近代絵画の王道ともいえるものだった。

アンリ・マティスの画像と検索して現れるサムネール群を一望すると、きらびやかな色彩と有機的なフォルムが目に飛び込んでくる。生前、マティスは「私が夢見るのは人の心を乱し、気を滅入らせるような主題のない、調和のとれた、純粋で静謐な芸術である」と目指す絵画について語ったそうだ。また死の前年、自身のもっとも創造的な功績は何かとの質問に「色彩によって、空間に対する感情を実現したことです」とも答えている。そして、彼はそれを見事に成し遂げた。いまでは「当たり前の芸術」として存在しているマティスの絵画は、彼が画業を模索していた時代は少しも当たり前のものではなかった。いや、むしろそれは「とんでもないしろもの」だったのだ。

それを知ったのは、ある画集の資料からだった。その頃ぼくは、美術関連雑誌のデザインを担当していて、マティス特集の資料として預かっていた画集に、多くの批判にさらされながらも自分の信じる表現を実現するため、もがき苦しむマティスに関する記述を見つけた。元々、神経質で気むずかしかったマティスの苦悩は過酷を極め、周囲の人々も巻き込みながら延々とその苦闘は続けられたようだ。肯定的で明るさをたたえたマティスの絵画が、実はこうした苦悩の末に生み出されたものであったことを知り、ぼくはそれまでの自分の無知を恥じ、近代絵画に対する認識もそれを機に大きく変化した。

累々と積み重ねられた歴史の壁を打ち壊そうと、凝固した常識やアカデミズム、分厚いスタンダードに対して、表現を通じてNON!と宣言する勇気はたいへんなものだったと思う。色彩を形態から解放したと後に評価されたマティスの作品はまるで野獣のようだと酷評され、激しい反発にさらされた。それが「キュービズム」と並ぶ美術運動「フォーヴィスム(野獣派)」命名の由来ともなったが、フォーヴィスムのリーダーと目された当のマティスは野獣派と呼ばれ見なされることをひどく嫌ったそうだ。潮流が交差し、激しくきしみながら変化しようとしていた時代に、幸か不幸か居合わせた表現者たちは、マティスにかぎらず同じような重圧にさらされながら孤独な模索を余儀なくされていたのだろう。

お気楽な絵描きだなんて、とんでもない思い違いだった。あらためてマティスの作品を見直してみると、スタイルではない、掴み取った表現が何だったのか少しだけ見えてきたような気がした。何と言っても油絵が素晴らしい。マティスの制作時の源泉ともいえるものが、自然をよりどころとすることだった。自然は多くの美を自分に与えてくれるが、その秘密は研究を通してしか明かされないと考えていたようだ。多くのすぐれた芸術家は、同時に謙虚で優秀な観察者でもあった。 総じてマティスの絵画は平面的な印象を与えるものが多い。装飾的ですらある。絵画構成に関して彼はこんなことをいっている。

「私にとって表現とは、人間の表情のなかに浮かび上がったり、激しい動きによって生み出されるような情熱のなかにあるのではありません。表現は、私の作品のあらゆる位置関係のなかにあるのです。たとえば人体が占める位置とか、そのまわりにある空間とか、プロポーション、そういったすべてがそれぞれの役割をもっています。構成とは、画家が自分の感情を表現するために配置したさまざまな要素を、装飾的なやり方で並べる技術なのです。」

つまり、彼は空間表現をしているのではなく、空間に対する感情を表現していることになる。そして、その感情のメッセンジャーとして重要な役割をはたしているのが色彩だった。だから絵画における色彩のもつ意味は、彼にとっては特別なものであったはずである。

特にインスパイアされたのは、晩年の切り絵シリーズと肖像画としてたくさん残されたデッサンだった。デッサンはもはや絵画そのものであるとマティスは語っている。「マティスとピカソ 二人の芸術家の対話」という記録集((DVDと書籍)の紹介映像がYoutubeにアップされていて、そこでデッサンしながらマティスは、このように話しかけている。

*

私は絵画とデッサンは同じものだと思っている

デッサンは限られた道具を使った絵画だ

真っ白な紙の表面に筆とインクを用いて

立体感によるコントラストを生み出し 紙の質を変えられる

影や光を描かずに 柔らかさ 明るさ 硬さを表現できるのだ

だからデッサンは限られた道具を使った絵画だ

*

切り絵についてはこんな発言もしている。

*

「切り絵は、自己を表現するために、今日私が見つけた最も単純で、最も直接的な方法です。長い間、事物を研究して、その記号がどんなものかを知らなければなりません。また、構図においては、事物はその力を保ちながら全体の一部を作るような新しい記号にならなければなりません。一言でいえば、各々の作品は、制作過程において、画面の要求によって創案された記号の総体なのです。(中略) 私の古いタブローと切り絵との間に断絶はないのですが、ただいっそうの絶対化、いっそうの抽象化によって、私は本質的なものにまで浄化されたフォルムに到達し、そしてかつては複雑な空間のなかに私が提示していた事物から記号を残しました。記号というのは、事物をその固有のフォルムにおいて存在せしめ、またそれが含まれていた全体のために存在せしめるのに必要かつ充分な記号なのです」

*

ぼくは何度か自分のデザインの中で、マティスのデッサン風イラストレーションや、あの魅力的な切り絵のイメージを彷彿とさせるビジュアルを用いて、モダンのエッセンスを再現しようと試みたことがあった。マティスの辿り着いたこうしたシンプルな表現はデザインととても相性がいい。いや、それはデザインが欲している伝達力の強さそのものであった。だから、現代のように細分化された表現ジャンルの源には、こうした20世紀中期に生まれたモダンの原型がその礎として存在していることは疑いようがないとぼくは考えていた。

ぼくが物心ついた60年代には、すでにモダンのエッセンスはすっかり時代のあらゆるジャンルを埋め尽くしていた。ある意味、ぼくらにとってモダンはすでに古典になりつつあったのだ。モダンを基点として、そこから伸びたさまざまな枝に試行錯誤の末に新たな花を咲かせても、やはりそれらを支えるのはマティスたちの育て上げた太い幹だった。 しかし新たな世紀に移行する頃には、モダンに対して言いようのない閉塞感を感じはじめていたことも否定できない。そして、モダンやポストモダンもすでに遠い過去となりつつある現在、19世紀に直結する未来だってあるかもしれないと考える自分もいるのである。

20世紀末の1992年に発刊された中沢新一さんの『幸福の無数の断片』に『二十世紀美術を忘れるために』というテキストがあって、それで紹介されていた人類学者、レヴィ=ストロースの主張は「印象派以後の美術にはほとんど意味がない」という過激なものだった。その過激さゆえにずっとその主張はぼくの頭から消え去ることがなかった。彼の考えはこうである。

「西欧絵画は、印象画以後、決定的に方向を見失ってしまい、そのつど豊かな才能があらわれて、新しい道を開くかのように見えたが、けっきょくはどれも袋小路におちいって、長つづきしないうちに立ち消えになってしまった」

「印象派は芸術の基本的な役割が、人間の感覚能力に内在する論理によって、感覚器官におそいかかる外界からのおびただしい情報から、ひとつの秩序をつくりだすことにあるという、ダ=ヴィンチの悟りをあえて無視しようとした。彼らは絵画の使命は、事物の本質をとらえる客観性の追求ではなく(そういうことは、写真術にまかせればいい、と印象派は誤認した)、事物の様相を客観的にとらえることだと考え、自分の知覚におぼれることになってしまった。そのため印象派の絵画はバランスを崩して、行きづまってしまった。 (中略) 今日の状況にたいしても、まったく期待をいだいていない。マネ以降、若い画家たちが絶望におちいらないほうが、どうかしている。美術は感覚と自然とメチエのあいだにうちたてられるべきバランスを決定的に喪失してしまったからである。現代の文化は過去の偉大な創造を引用したり、デザインによって変形したりして消費するだけの、つまらないがらくたの山をつくりだしているだけだ。二十世紀美術の作品のほとんどが、いずれは十九世紀と二十一世紀のはざまにできた、文明の陥没時代の産物として、一顧だにされなくなってしまうのではないだろうか。(140〜141P:河出書房新社刊)

このような手厳しい見解にたいして、中沢さんは、ここで語られていることすべてを反転させた肯定的な芸術論を並置してみせる。そのうえで、現代美術を全面的に肯定するか、それとも意味がないと断定するか、ふたつの極端のあいだで揺れ動く思考も吐露する。そして、こうテキストを結んでいる。

「二十世紀的現代を、からだの半分だけぬけだしたぼくは、レヴィ=ストロースと同じように、現代美術にたいして、ともすれば冷淡な態度をとりがちだ。芸術はたましいのわざだ。大脳皮質の一部だけを使って、それをつくりだすことはできない。「美術よ、お前はただの美しい明晰にすぎない」、そう言われるようになったら、もうおしまいだ。でも、そのいっぽうで、もう半分の自分が生きてきたこの「現代」を、哀惜をこめて抱きしめたいぼくは、現代芸術の真摯な試行錯誤を、こよなく美しいものだとも、感じる。人々は、こんな世界に生きる自分というものを、あらためて愛したいがために、二十世紀美術を展示する美術館を、訪れたいと思うのかもしれないではないか。ぼくは美術に現代を開いてきたあの人々のたましいを、心の底から尊敬し、愛している。

だが、世紀末の人間は、なによりも冷酷でなければ、自分がつぎの世界のマトリックスとなることはできない。たましいのわざとしての芸術をとりもどすためには、二十世紀美術をまず忘れてしまうことのほうが、大切なのではないだろうか。美術史や美術評論家が、マゾヒスティックな快楽をそこからひきだしてくる、あの「現代」をめぐる必然のストーリーなるものを、いち早く忘れることができたものだけが、つぎの世界をかいま見ることができる。その兆候を、ここに見ることができる。幸運にも、「現代」にたいする責任感ももたない、極東の島国の若い芸術家たちの何人かは、すでにそのような戸口に立ちはじめている。」(143〜144P:河出書房新社刊)

一見大きく異なるかに見えるマティスの絵画と現代美術のあいだには、間違いなく確かな連続性が存在する。だから、レヴィ=ストロースの主張には当然、マティスの芸術も含まれていることになる。「デザインによって変形したりして消費するだけの」という指摘に、ぼくは一瞬深く落ち込むのだが、すぐに気を取り直す。そうだ、ぼくはデザイナーだ。芸術家じゃない。継承すべきはマティスが勝ち得たレガシーなどでなく、その精神なのだ、と。

2008年9月1日、福田康夫元総理大臣が辞任表明会見で発言した「私はあなたとは違うんです!」が当時ずいぶん話題となった。「私は自分自身を客観視することができるんです。あなた(質問をした記者)とは違うんです」という趣旨のその発言の真意は別として、ぼくはその時思った。「違うんだ」と毅然として意思表明することはとても大切なことだ。集団からの孤立を怖れることなく、人と違うことを考え、違うことをなし得ようと、勇気をもって行動を起こすマティスのような人たちによって、いつだって未来の扉は押し開かれてきたのだから。

上から富士山、宝剣岳、西穂高、
宝剣岳登頂スナップ。

2013.8.01

富士山の世界文化遺産登録決定後、連日バスを連ねてツアー客が殺到しているというニュースやら、関連情報が報道されない日はないほどの大変な盛り上がりようだ。ただ、カンボジアで開かれた登録現場に立ち会った都留文科大教授の渡辺豊博さんが、朝日の新聞紙上で喜んでばかりはいられないと警鐘を鳴らしていた。

諮問機関イコモスの勧告説明には、現在の富士山における数多くの問題点や改善点が厳しく指摘されていた。にも係わらず、それに関する議論は皆無。お祭り騒ぎのような喜びの声にかき消されてしまっていたそうだ。登録は観光の起爆剤として行政や関連業者から大きな期待を担ってきた経緯もあり、それもある意味予想範囲内の反応なのだが、登録決定とともに大変難しい課題を背負ったことを、行政や国民ははたして認識しているのだろうかと渡辺さんは懸念を示す。富士山フィーバーによる過剰利用への対策が未整備のままだと、さらに傷だらけの山になってしまうのではないかと、このような危惧を抱くのはしごく当たり前の感覚だとも思う。ラスコー洞窟は、観客の吐く二酸化炭素により壁画が急速に劣化したため1963年以降閉鎖されている。壁画の修復を進める一方、一日数名のみに入場・鑑賞を許可するという制限処置によって、応募者は数年待ちの状態だという。渡辺さんは富士山もしばらく登山はやめて遠くから眺め、富士山の本質と信仰の文化的な意味を学び、環境問題を認識し、どんな対策が必要とされているのか、今こそ富士山再生への管理計画を考えるべきではないかと提唱していた。

また、去る6月8日にはNHKのETV特集で「富士山と日本人〜中沢新一が探る1万年の精神史〜」が放映された。1時間の番組は時代ごとに章立てされ、なぜ日本人は富士山を“象徴”として捉えてきたのかを探り、文化的な意味を学ぶことができる仕立てとなっていた。

番組を見ながら、ぼくは10年ほど前に中沢さんと一緒に見た富士山の姿を思い出していた。山梨県から見える富士山は裏富士といわれる、いわば逆光の山容で、五百円札や新千円札の絵柄にもなっている、多くの日本人が抱く最も馴染み深い富士山の遠景イメージだと思う。しかし北麓地域から間近に仰ぎみる富士の姿は、まったくその印象を異にする。ある夜遅く、中沢さんとぼくは所用のため中央自動車道を大月から河口湖に向かって移動していた。ふと、突然車窓からその富士の姿は静かに現れてきた。漆黒の闇の中に微かに浮かび上がるまっ白な富士の威容に、一瞬ぼくらは言葉を失った。それはこれまで多くの絵や写真で表現されてきたどの富士山とも異なる、威厳に満ちた実に神々しい光景だった。はからずも同時に出た言葉はたった一言、「美しい」。よくよく目をこらさなければ闇の中に塗り込められてしまうほど、かそけき富士の姿。TVの前で、ぼくは久しぶりにその印象深い姿を思い出していた。

実は地元で暮らすぼくは、富士山に登ったことがない。一度だけ五合目付近まで行ったが、情けないことに頭痛に耐えきれず早々に下山してしまった。以来、富士は遠くから眺める山となった。そんなぼくにも山登りは、たった一度だけあった。

46年前、高校生のぼくは夏休みを利用して中央アルプスの宝剣岳(2956m)に登った。前年結婚したばかりの姉夫妻に誘われて同行することになったのだ。若いころから山登りが好きだった義兄は、大学の山岳部で更に多くの経験を積んだ山男だった。当日、初心者のぼくらを引率する義兄は、中腹となる千畳敷カールまで駒ケ岳ロープウェイで目指す初級ルートを選んでくれた。しかし、ハイキング感覚のルンルン気分もそこまでだった。登りはじめると、岩登りなどしたことのないぼくらの息はすぐに上がってしまう。それでも義兄はペース配分を考えながら辛抱強く初心者を先導し、山頂を目指すルートを消化していった。

ところが何の因果かその日の初登山で、ぼくは山の怖さをいやというほど味わうことになる。急に雲行きが怪しいと義兄が言い出した。そして、突然ぼくらにリュックから取り出したチョコレートと羊羹を食べられるだけ食べろと指示する。(雨風による体温低下からのダメージ軽減に糖分を摂取するというのが登山の常識だった)戸惑いながらも食べていると、さっきまで晴れていた空があっという間に雲に覆われ、やがて風雨に巻き込まれる天候へ急転してしまった。その間、ものの10分ほどの出来事だった。気づくと周囲は雲に包まれていた。山の雨は上からでなく、下から吹き上げてくるのだ。雷の無気味な音もする。急変に順応できずすっかり動揺していたぼくらに、義兄は感電を避けるため、金属類は今すぐにすべてここに置いて行けと言う。(その後知ったことだが、金属を身につけていると感電しやすいというのは俗説で、むしろ、かがんで身を低く保つ方が落雷には有効なんだという)

しかしその直後、ぼくの右手に激痛が走った。持っていた折りたたみ傘への落雷だった。幸い、プラスチック製の柄の部分だけを握っていたので、何とか身体への感電を免れた。肩まで痺れた右手を庇いながら、近くにいた登山者らとともに命からがら最寄りの山小屋に夢中で何とか逃げ込む。小屋の中は避難してきた多くの登山者達で、むせかえるような蒸し暑さだったが、そのまま肩寄せ合いながら悪天候の収まるのを待った。

やがて外が静かになったので小屋から出てみると、すでに山は薄闇に包まれていた。結局ここで夜を明かすことになり、飯盒でご飯を炊いて、高山での初となる夕飯をとる。メニューはまったく覚えていないが、怖い思いをした後の食事は格別なものだったと思う。強く印象に残っているのは、夜空がとにかく美しかったことだ。下界では絶対に見る事ができないような満天の星空で、30秒も待てば必ずどこかに流れ星が見える。夜空にはこんなにもたくさんの流れ星が存在するんだと驚かされた。寝袋を岩場に生えた這松(本州中部以北の高山帯に生えるマツ科の常緑低木)の上に敷き、それをクッション替わりにして川の字になる。這松は水平ではないので、少し斜めになった姿勢でぼんやり星空を眺めながら、やがてぼくは眠りについた。

翌日、好天のもとで山頂を目指し、無事昼前に登頂を果たす。(最下段の写真は背景の様子から山頂付近のスナップと思われるが、左が義兄で隣りに座る麦藁帽子姿のぼくは何かを夢中で掻き込んでいる)山頂はかなり狭く、とても長居できるようなロケーションではなかった。また、下りはとてもあっけないものだった。あんなに苦労して登ったことがまるで嘘だったように、転がり落ちるように山を下った。(気をつけないと、これで膝を痛めてしまうことが多いそうだ) ところが、平地に戻ると大騒ぎとなっていた。昨日ぼくらが遭遇した同じ落雷で、学校登山の歴史に残る大惨事が発生していたのだ。宝剣岳から北方に約50km離れた北アルプス西穂高岳(2909m)で、登山中だった長野県松本深志高等学校の山岳部員らが避難下山途中落雷の直撃を受け、生徒8名が即死、生徒・教員・会社員一人を含めた13名が重軽傷を負い、生徒3名が行方不明となった。(後日の捜索で行方不明者3人も遺体で発見され、犠牲者は合計11人となった)落雷事故としても一度にこれほどの死者・負傷者が出た前例はなかったため、この出来事は全国に衝撃を与えた。それからは毎年、犠牲者を偲ぶ西穂高追悼式や追悼登山が、松本では関係者たちによって執り行われているそうだ。深志高校はぼくの通学していた高校と同じく進学校で、犠牲者の中には同学年の若者たちが何人かいたはずだ。右手だけで何とか助かったぼくだって、一歩間違えたら彼らと同じ運命を辿っていたかもしれない。初登山のことを鮮明に記憶している背景には、そんなことがあった。丁度それは46年前の今日、昭和42年8月1日のことだった。

さて、山といえば、ぼくの周辺で唯一山男だった義兄にまつわる記憶が多い。ぼくが高校を卒業して上京した折りにも、都内に住んでいた姉夫婦のところに居候させてもらった時期があったが、常に危険と隣り合わせの登山を続けていた義兄の山好きは、その頃の姉の悩みの種となっていた。それから次第に義兄の登山熱も沈静化していったようだが、彼なりのやり方で山とのかかわりは継続していた。神奈川から都内の医療施設に研究者として長年通勤し続け、70歳近くなっても休みとなれば一人で日帰り登山を楽しんでいたようだ。

山梨で育ったぼくが裏富士男だとすれば、義兄は御殿場生まれの、言ってみれば表富士男。しかし、そんな表裏のない大陸的な大らかさで、ジョン・レノンと同じ歳の義兄はぼくを折りに触れ可愛がってくれた。姉と結婚する前だったと思うが、本をぼくにプレゼントしてくれた。ヘルマン・ヘッセ全集の「春の嵐」と「車輪の下」。その2冊は今も書棚に収まっている。どうしてこの2冊なんだろうと首をかしげたが、おそらく青春時代を送るぼくに読ませたかった本として選んでくれたのだろう。しかしこの頃のぼくは、穏やかな人間の生き方を描いたヘッセと対極にあるようなアルチュール・ランボーの詩に夢中になっていたので、残念ながらせっかくの義兄の厚意を青春の記憶に刻むことはできなかった。それから数十年間、年に数回会ってはとりとめもない会話を交わす程度のつきあいだったけど、ぼくにとってはかけがえのない人だった。体格も良く、屈強のイメージを抱いていたのに、義兄は2年前、病によってあっけなく他界してしまった。その別れはあまりにもあっけないものだったから、ぼくはしばらくその事実を受けとめることができなかった。

ある日、ヘッセの名言を紹介しているサイトがあり、何気なく見ていると二つの言葉に目がとまった。

「僕は彼岸を信じない。彼岸なんてものは存在しない。枯れた木は永久に死に、凍死した鳥は二度とよみがえらない。」

もうひとつは「私がとても愛している徳がたったひとつある。その名は「わがまま」という。」

もちろん義兄は決してわがままな人ではなかったし、唯物論者でもなかったが、この対照的な二つの要素を矛盾することなく両立させていた人だったことに思い当たる。また生涯、医学の研究畑を歩み、日々実験や実証に明け暮れた人なのに、説明のつけようのない心情にも深い愛着を示す人だった。

人はなぜ山に向かうのだろうか。山は向かう方向や距離によってその姿を無限に変えていく。だから、写真家の港千尋さんは、「今見ている山は、瞬間の山に過ぎない」と言っている。自分が動くと、山も動く。ひとつの山はそのうちに、無数の山を含んでいるではないか。ひとつの山が含む無数の山は、像の属性ではなく、その本質であると。だから遠くにある山に辿りつこうとすることは、自身の心へと辿りつくのと同じくらい遠い道のりに違いなく、その人に含まれる無数の意識もまた、その本質なのだということになる。

Three pieces of oil painting
by Francis Bacon
Portrait (1974, Photograph by Michael Holyz)
and his atelier whole view
(1998, Photograph by Perry Ogden)

2013.7.02

「知識は力なり」で名高い16世紀のイギリスの哲学者フランシス・ベーコンとは同名異人の画家がいる。フランシス・ベーコン(Francis Bacon・1909〜1992)。彼の絵をぼくが初めて見たのは10代半ば過ぎだった。(もちろん印刷物で)存命だったベーコンは当時すでに55歳前後となっていて、著名な現代美術家として活躍中。アメリカでの初となる回顧展がグッゲンハイム美術館で開催されていた頃だった。

デフォルメされた人物像やタッチは独特で、他の誰もこんな絵は描いていなかった。彼の絵を見ていると、具象でも抽象でも、本当はそんなことどうでもいいことじゃないかという気さえしてくる。作品は色彩や形、タッチ、質感が渾然一体となって、彼が偏執するイメージへと姿を変えながら迫ってくるような不思議な魅力に満ちていた。漠然と画風のイメージに燻製のベーコンを重ね合わせていた当時のぼくは、惹かれながらもそこに肉感的な怪しさを嗅ぎつけ、それ以上近づくことはなかった。

そして時は半世紀近く流れるのだが、5月のある日、没後の大規模な回顧展としてはアジア初となるベーコンの展覧会が東京国立近代美術館で開催されていることをNHKの「日曜美術館」で知った。(現在は終了し、豊田市美術館へ巡回して9月1日まで開催中)番組では大江健三郎浅田彰、映画監督のデヴィッド・リンチ(David Keith Lynch)らが登場して作品の魅力を読み解いていた。原画を1枚も見ていないぼくが偉そうなことは言えないけれど、“現代の人間像”を作り上げようとしていた、“人間の本質”を表現しつづけた、実存的である、といったコメントはどれもあまり心にとどまることはなかったが、唯一番組で印象に残るシーンがあった。第二次世界大戦中、喘息のため兵役不適格となったベーコンは民間空襲警備員として短期間働く。そのときに目にした多くの死体の(人間はつまるところ肉の塊にすぎないのだという)記憶が、その後の彼の作風に大きく影響を与えたという場面だ。

フクロウみたいな風貌も懐かしくなったぼくは、さっそくネット検索して久しぶりに作品をチェック。すると、YouTubeに10分弱のスライドショーが投稿されていて、あらためて画業を辿ってみるとその比類ない世界は健在だった。時には画家というより、映像作家やイラストレーターにも近い感性を垣間見せたり、年代によって作風も変化しているが、一貫しているのは物語を壊し続けようとする強い意志の存在だ。

作家には作品が残る。そこにその人物のすべてが凝縮されているという人もいるが、作品が生成される背景には生い立ちや逸話が寄り添っている。もちろん、それらは所詮頼りない推測の手立てにすぎないのだが、ときには腑に落ちることもある。そこで、生涯の真実を取り逃がすことは避けられないと承知しつつ、ベーコンの生い立ちを辿ってみたい。研究者のように年代別に作品傾向を分析、解説することに興味はない。ぼくが知りたいのは作品の生成に寄り添ったと思われる、彼にまつわる個人的な出来事だけである。

ベーコンはアイルランドの首都ダブリンに5人兄弟の第二子として生まれる。(兄と弟は早世)

家系は哲学者ベーコンの傍系にあたるという説もあるが定かでなく、ベーコン本人も疑わしいと語っている。

両親はイングランド人。折り合いの悪かった父親は元陸軍士官で競走馬の調教師。母親は裕福な家の出身で、その持参金と遺産相続分が家計を支えた。

第一次世界大戦が始まる頃、一家はロンドンに移住するが、その後も度々ダブリンと英国の間で引越しを重ねる。喘息を患っていたベーコンはほとんど学校に行かず、家庭教師から教育を受けながら、アイルランド独立運動の真っ最中の周囲を取り巻く、その「暴力」性の中で多感な時期を送る。

同性愛にめざめた17歳頃、母親の洋服を着ていたのを父親に見咎められる。そして翌年、友人とベルリンとパリに旅行した際、パリで見たピカソの展覧会に影響を受けて水彩や素描を描き始める。その後ロンドンに戻ってアトリエを構え、20歳から2年ほど、テキスタイルや家具をデザインするインテリア・デザイナーとして働くが、当時の作品にはル・コルビュジエやアイリーン・グレイの影響が見受けられるというのも面白い。並行してオーストラリア人画家、ロイ・ド・メストルに油彩を学びはじめるが生活は苦しく、従僕など様々な仕事でくいぶちをしのぐ日々が続く。

民間空襲警備員として働き、多くの死体を目にしたのは30歳の頃で、その翌年、父親が没する。34歳の時、サウス・ケンジントンにアトリエを借り、ベーコンが惜しみない愛情を注いだ人物といわれるベーコン家の乳母だったジェシー・ライトフットと住みはじめる。このアトリエは8年後に乳母が死去した際、失意の内に売却してしまうが、後々手放したことを後悔し、思い出深い土地を離れることができずに以降その周辺のいくつかの部屋を転々としたらしい。

また、ベーコンは生涯で数多くの同性の愛人を持った。ベーコンについての論評で名高いマーティン・ハリソンによると、性的にはマゾで殴られたりムチで打たれたりするのを好み、そのまま激しい性行為に及んだという。「絵画とセックスと死に向き合ったからこそ、ベーコンの絵は人を興奮させる。語りも解説もすべて省き、見る人間と絵との間の距離を破壊して、直接神経を刺激するんだ」とハリソンは言う。

1992年4月28日、主治医の忠告を無視して恋人の居るスペインに赴き、マドリッドで客死する。享年82歳。 (参考資料:日本経済新聞アートレビュー東京国立近代美術館・展覧会情報

「私は自分のことを画家とは思っていない。“偶然と運の媒体”だと捉えている。」 饒舌だったベーコンはこのように生前多くの言葉を残している。これら彼の肉声からは、さらに一歩踏み込んだ生成の秘密が垣間見えてくる。

*

「ほら、僕のアトリエには、写真が床のそこいらじゅうに散らばっているだろう、どれもこれもひどく傷んで。友達の肖像を描くのに使って、それをそのままとってあるんだがね。僕は人間そのものよりは、こうした参考資料を基にした方が描きやすいんだ。それだと独りで仕事ができるし、気持ちもずっと自由だし。描いている時は誰にも会いたくないんだ、たとえモデルにでもね。でも、これらの写真は備忘録で、特徴だとか細かい点だとか、正確を期すということで僕の手助けになったわけだ。役には立った。でもただの道具さ」(『フランシス・ベイコン対談 ミッシェル・アルシャンボー』. 訳:五十嵐賢一 発行:三元社 1998 p12)

「絵画のテーマとは何なのか、絵画とは何なのかということは、これは説明できるものではない。不可能だと思う。おそらく、僕に言えるのは、自己流で絶望しながら、自分の本能に従って、あっちに行ったりこっちに行ったりしているということだな」(同上 p56,58)

「制作中に絶望的な状態になると、ありきたりの写実的な絵にならないよう、絵の具を使ってほとんどありとあらゆることをやるのです。つまり、ぼろきれやブラシでカンヴァス全体をこすったり、何でもかんでも使ってゴシゴシやったり、テレビン油や絵の具などを投げつけたりして、理性に基づいて描いた明瞭なフォルムを破壊しようとします。そうしていくうちに、フォルムがいわば自ら変化していって、私が作った形ではなく、自分自身の形におさまるのです。そうすると、自分が何を欲しているのかがわかってきて、カンヴァス上の偶然の産物に手を加えられるようになります。たぶんこうした過程を経て、自分の意図だけに基づいて描いた場合より有機的な絵ができるのです」(デイヴィッド・シルヴェスター著「肉への慈悲」小林等訳)

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また、彼はこうも語っている。「画家のアトリエは科学者の実験室のようなものなのかもしれない」。そのベーコンのアトリエがダブリン市立ヒュー・レーン美術館内に復元されている。(写真最下段)

足の踏み場もないほどのすさまじい光景も相当な迫力ものではあるが、これほど興味深いアトリエもない。日本経済新聞アートレビューの担当記者、窪田直子さんが復元されたアトリエの様子をこのように記している。

「このアトリエからはおびただしい数のモノが発見されたが、ただ1つ、見つからなかったものがある。ベーコンの「パレット」だ。一般的な絵の具や道具のほか、家庭用ペンキ、スプレー式顔料、顔料をすくうのに使ったと思われる食事用ナイフやスプーン、ペンキを塗るためのローラー式スポンジなども見つかっている。自由奔放な画家はパレット代わりに絵の具チューブが入っていた紙箱、皿、ボウルなどを使っていたらしい。さらにはドアや壁、天井の板で絵の具を混ぜたり、色を試したりしていたようなのだ。色鮮やかな抽象絵画のような絵の具の跡は、復元されたアトリエ内で目にすることができる。アトリエからはマークス&スペンサーで手に入れたお気に入りのコーデュロイのズボン数枚のほか、切り刻まれた端切れも発見されている。ベーコンはドア板などに盛った絵の具をこうした布きれでこすり取り、カンバスに押し当てることも試みた。ざらついた質感やかすれて消えかかったような効果を出すためにカシミヤのセーター、リブ編みの靴下やタオル地のガウン、髪をとかすくしやほうきなどを使うこともあったという。

アトリエの復元プロジェクトにかかわったヒュー・レーン美術館のマルガリータ・カポック博士によると、移設時にはアトリエ内につもったホコリも一緒に箱詰めされた。ベーコンがカンバスに独特の質感を与えるため、指ですくいとったほこりをぬれた絵の具の中にこすりつけたことを知っていたからだ。

「この健康的とは言い難い部屋で、ベーコンが長年制作を続けられたのは驚くべきこと」とカポック博士は言う。ほこりまみれの雑然としたアトリエからは、カドミウム・オレンジの顔料が入った29個のビンが見つかった。不透明で彩度が高いことからベーコンが好んで使ったこの絵の具は、強い毒性でも悪名高いのである。」

*

こうしたさまざまな情報群から、ひとつの光景が浮かびあがってくる。画家はたった一人のアトリエで、自身の理性が造形したフォルムをことごとく破壊し、そこから肉への慈悲に満ちた真新しく有機的な何ものかを生みだそうと格闘し続けた。彼の絵は、そのプロセスを視覚化した報告書である。

中沢新一さんは著書「森のバロック」の序文で、伝記の真実なるものに関して、ヴァレリーの次のような言葉を引用している。

「ある人の生涯を書く。かれの作品、かれの行為、かれの言ったこと、かれについて言われたこと、しかし、かれの生涯のうちでもっとも深く体験されたものは、取り逃がしてしまう。かれが見た夢、独特の感覚や局部的な苦悩や驚きや眼差し、偏愛したあるいは執拗につきまとわれた心像、たとえば放心状態に陥ったときなどに、かれの内部で歌われていた歌、こうした一切は認知しうるかれの歴史以上に、かれその人なのである。(ポール・ヴァレリー「邪念その他」「ヴァレリー全集」第四巻、清水徹・佐々木明訳、筑摩書房、1977年、369頁)」

かくして、画家フランシス・ベーコンのもっとも深く体験されたものは永遠に封印されてしまったが、幸いにして報告書が残されている。それを開くと、偶然と運の媒体から生み出された、神経をより強烈に刺激する挑戦的試みの数々がぼくらを興奮させようと、絶えることのない波動を送り続けてくるのである。

Photograph_
Weeping Willow
by Yoshiyuki Toboshi
Shop of The Jazz Coffee Shop Aroma
by Masaki Fujii

2013.6.01

先月とりあげた「強行遠足」で、昭和32年に到達地最長記録を樹立されたのは岩間さんという方だと判明した。現在も元気に教会関係の仕事に従事されているそうだ。教えてくれたのは、日頃オアシスにしている写真屋さん「栄光堂」店主の戸星善行さん。(2009.7.02にも登場)なんでも、この岩間さんのお兄さんがよく来店していて、その方から弟さんの記録樹立の話を聞かされていたようだ。

ところでこの「栄光堂」の店内にはミニギャラリーが併設されていて、いつ行っても小ぶりな写真作品がひっそりと展示されている。中庭を望むテーブルを包み込むように作品は配置され、いつ訪れても気持ちの良い、心休まる空間だ。展示品は所縁の深いカメラマンや顧客、写真愛好家の作品などさまざま。そして、写真家でもある店主の日常スナップがときおり何食わぬ顔で(かなりの頻度で)紛れ込んでいる。

当店はライカ特約店ということで、もちろん戸星さんの愛機もライカである。ブレッソンよろしく、肌身離さず携帯して撮り溜めているというその作風には、押しつけがましさは一切感じられない。本人が自身の写真について語ることはほとんどないが、肩の力の抜け具合が実に絶妙で、その佇まいから深く写真と向き合ってきたことが伝わってくる。写しとられているのはリアルな情景なのに、詩情豊かな眼差しによって濾過された光景は不思議な抽象性を宿している。興味深いのは、戸星作品のモチーフのほとんどが身辺の風景から見出されていることだ。ことさら獲物を探してくり出すこともせず、自然体で日常に身を置き、静かにその瞬間が訪れるのを待っている。これは客商売の達人でもあるその姿勢と見事に重なりあっている。

上の写真はたまたま先日展示されていた戸星作品の1点で、住まい近くの柳をモチーフにしている。一片の雲もない晴れ渡った空。そして、そこを横切る1本の飛行機雲が柳をそっと支えている。風に踊るしなやかな新芽は清々しく、あっという間に過ぎ去ってしまう青春期を想起させる実に爽やかな一葉だ。下のカットはその直前に撮られたものだそうで、ほぼ同じアングルだが、飛行機雲が見当たらない。たったそれだけの違いなのに、写真の意味合いはまったく異なってくる。そして近似するこの2枚の違いはとても大きい。ここが写真の面白いところだ。たまたま柳に向かってくる飛行機のシャッターチャンスはほんの1、2秒。その時、カメラが手元にあり、レンズを向け、シャッターを切るという行為なくして、この瞬間の記録は決して残ることはない。

今は誰だってカメラさえあれば写真は撮れるし、選びきれないほど多くの記録方法の選択肢も用意されている。しかし、何を、どう撮るか。ただその二つだけのシンプルな要素で写真が成り立っていることも事実。プロフェッショナルとアマチュアを隔てる境界も定かでないが、ぼくらを取り巻くこの世界の不思議に目を凝らすわずかな写真家にだけ、気まぐれな世界はそっとご褒美を置いていくことがある。あっという間に消え去っていく夥しい泡沫から選び出されたたった一粒。その凍結された情景に人々が心を重ねるとき、それは写真がもたらす歓びとなる。

さて、一般的に日本では、柳といえばシダレヤナギを指すことが多い。なかなか種類も多く、生命力の強い木らしい。よく川や池の周りに植えられるのは、強靭な根を持って、埋没してもすぐに発芽してくる逞しい生命力をもっているからなんだという。ほっそりとした優雅な枝振りはどうみても女性的な風情をたたえているが「柳に雪折れなし」という言葉もある通り、一見頑強そうに見える木などより、柳ははるかにしなやかでタフな一面をもっている。これは人間にも当てはまりそうだ。馬力を誇る屈強の男性が案外ポキッと折れてしまったりするのに、ひ弱な女性が「柳に風」と、さまざまな逆風を受け流す粘り強さを見せたりして、生命力とはなかなかに奥深い。昔、中国では旅立つ人に柳の枝を折って手渡し送る習慣があったそうだが、これは「しなやかな枝はなかなか折れないので、その枝の中に『返る=帰る』という思いをめた」と、村上春樹のエッセイにも書いてあった。

また、柳がらみで、そのエッセイに紹介されていたジャズナンバーがある。ビリー・ホリデーの『柳よ泣いておくれ(Willow Weep for Me)』。失恋の想いを柳の木に切々と訴えかける内容で、これがなぜ柳なのかと考察している。英語圏ではシダレヤナギはweeping willowと呼ばれていて、weepには「すすり泣く」や「しだれて垂れ下がる」という意味があるからなのだそうだ。日本なら柳といえば怪談だが、いずれにしても柳という木にはどこかしら「擬人化」してしまいたくなる不思議な生命力が備わっているんじゃないかというお話。

まるで夢見のように話は脈絡もなくスライドしていくのだが、ぼくにはオアシスが実はもうひとつある。気が向いたとき仕事場から自転車で向かうと丁度よい距離にあるジャズ喫茶に出かけていく。ジャズの音色に満たされた店内に入るとカウンターに腰掛けて、煎れたての一杯のコーヒーを味わう。「Amoma」というこのお店を経営してるのはグラフィックデザイナー仲間のフジヰさん。デザインの仕事を絞り込み、3年と8ヶ月ほど前から久しくクローズしていたここを引き継いで好きなジャズを聴かせるお店をはじめた。マッキントッシュの真空管アンプを通して大きなJBLスピーカーから店内に流れるジャズナンバーの音色は温かく、そして深い。常連には自宅では味わえない本格的な音質を求めて、CDを携えてやってくる人もいる。

(ところで後日、ぼくのいいかげんな記憶を、ブログを読んだフジヰさんがそっと補足してくれた。正しくは以下の装備となるそうだ。スピーカーはJBLだがアンプ類は国産。プリはポピュラーな大昔のLUX MAN、CL35。パワーはAIR TIGHT ATM-1(今では軽自動車が買えるくらいするらしい)。スピーカーのホーンはアルティックだが、高・中・低ともJBL。中域のドライバーのみオリンパスで使われていた名器とのこと。これらの装備、門外漢のぼくにはちんぷんかんぷんだけど、好きな音楽を愛情を持って受け止めようとする姿勢はしっかり伝わってくる。こうして手塩に掛けたお店は、いわばフジヰさんのオーディオルームみたいなものだから、客が来なければソファーに沈み、大好きなジャズ三昧の至福の時間を過ごしているそうな)

また、フジヰさんはデザインと並行して長いキャリアをもつカメラマンでもある。気が向くと撮れたてのステキな写真をメールに添付して送ってくれたりする。ほぼ同世代のフジヰさんとは同業ということもあり共通となる話題には事欠かないが、ぼくらはさほど多くの会話は交わさない。話さなくても通じあえるということは、リラックスできるとても重要な要素だと思う。「やあ、どうも」で、それから一杯。一言、二言、そして「じゃあ、また来るね」。だから、オアシスなのである。

ただ、ジャズだけはなぜかこれまで夢中になって聴いたことがない。決して苦手だったり嫌いなわけではない。ジャズっていいなぁと思うことだってある。ジャンルを問わずこれまでいろいろな音楽を聴いてきたのに、不思議なこともあるものだ。その昔、ぼくにとってジャズは「大人の音楽」だった。60年代、甲府の中心街にあるビルの地下に一軒のジャズ喫茶があったので、高校生のぼくは興味本位でその店に入ったことがある。紫煙もうもうとたちこめる薄暗い店内は、圧倒されるような大音響のジャズで満たされていた。恐る恐る歩を進めると、ソファーに沈み込む客たちが見えてきた。皆一様に目を閉じて、難しい顔をして聴き入っていた。「あっ、こりゃ、大人の音楽だ」と、その時ぼくの中にジャズは随分と乱暴にインプットされてしまった。上京してからは新宿の「Pit inn」や「DUG」にも行ったことがある。ジャズ喫茶の草分け「DUG」を1967年に開店した中平穂積さんには一度会ったことがある。立ち振る舞いやその時いただいた名刺のデザインがとてもステキだった。そんなことはよく記憶しているのに、肝心のジャズについては何も覚えていない。中平さんは1961年に初来日したアート・ブレイキーの撮影を皮切りに多くのジャズミュージシャンを写真に残し、ジャズ・フォトなるジャンルを開拓しながら現在もジャズ人生を謳歌している経歴を見ると、日本大学芸術学部写真学科卒業とあるから、その活躍ぶりは写真とジャズが自然な形で融合した結果なんだろう。

ぼくにはそんなこともあったけど、やっぱり大人になんかなりたくないなという青臭さを引きずったまま、その後ジャズと再会することもなく歳を重ねてしまった。どうやら夢中になれない要因は、ジャズに何かが足りないのではなく、ぼくの中にジャズに夢中になる何かが足りなかったんだということのようである。

ま、ジャズの話はともかく、オアシスの主人であるこのご両人に共通するのは、忍耐と覚悟が求められる「自然体の待ちの姿勢」だと思う。もちろんこれは簡単なことではない。客商売はいつ来るか予測できない、気まぐれな来客で成り立っている。商い(=飽きない)とはよくいったものだ。ぼくも昔ちょっとだけお店の真似事をしていたことがあるから、じっと待つことに耐えられなければ成り立たない商いの苦労なら、少しだけ分かる。

ところで商いの極意だが、これは樹木の心に通じるんじゃなかろうか。子ども時分、木ってすごいなと感心したことがある。だって、大地に根を張った木は植え替えられでもしないかぎり、生まれてから死ぬまで一歩も動くことはない。そんなの当たり前じゃない、何馬鹿なこと言ってんのと笑われそうだけど、考えてみればやっぱりこれはすごいことだ。賢治の詩ではないけれど、雨の日も風の日もじっと立ち続ける樹木は、人知を越えた力によって支えられている。移動とは無縁の一見不自由きわまりない運命をただ静かに受けとめ、枝が折れても葉が散っても踏ん張りながら光合成と大地の滋養によって辛抱強く成長を重ねていく。自然体。気取らず、飾らず、身構えず。ゆったりと肩の力を抜いて、穏やかな心で淡々としなやかに日常を過ごしていく。

薫風に新芽を揺らすこの柳の写真を眺めていると、木立の彼方で楽しげに舞う、ぼくのよく知っている市井(しせい)の写真家たちがオーバーラップしてくるのである。

2013.5.02

先日、所用で長野の小諸に行ってきた。小諸といえば、強行遠足。何の事やら一向に???な人には謎であっても、経験者には「あっ、あのことね」と瞬時に理解できる、今回はそんなちょっとパーソナルな話題です。

小諸と聞けば条件反射的に甦るのが、この強行遠足と呼ばれる母校だった高校の思い出。何しろ大正13(1924)年から2012年まで86回も続いた、全国的にも有名な長距離歩行行事なのだ。男子は夕方、学校から出発する。そして翌日の昼まで20時間の制限時間内に、甲府から小諸までの佐久往還(102.1km)を歩ききるハードなコースに毎年、全学年の生徒たちが挑戦する。女子は日中、三軒屋から小海までの全長33.0kmに挑戦。ただし、これはぼくが在学していた頃の話なので、時代によってコースはさまざまに変遷を重ねている。

年表によると、女子が初めて参加したのが昭和25(1950)年。そして、男子コースに終点が設定されたのは昭和37(1962)年の事で、それ以前は行けるところまで行ってよいというスパルタンなルールだった。親友の中沢新一さんともよくこの話題で盛り上がったものだが、曰く、過去の猛者は気づくと日本海が見えてきて新潟まで到達しちゃったそうだよと言うのだが、いくらなんでもそれはないでしょう。真実はこうである。到達地の最長記録は昭和32(1957)年に樹立された、長野県大町市簗場(やなば)までの167.1km(1人)。学年は明記されていないが仮に3年生だったとすれば、昭和14年生まれあたりで、ご存命なら74歳くらいか。いや、これほどの記録保持者であればきっと今もご健在なはず。

当時のぼくはスタートした日の日付が変わらないうちに戻ってきてしまう軟弱な高校生だったが、せっかく入学したんだからと、2年生の時一度だけ真剣に挑戦したことがある。最初から終点を目指し、順位を競おうと考えている生徒たちは、まず意気込みが違う。のんびり歩き出すぼくらを尻目にスタート地点から走り出し、数十キロはマラソンで先頭集団を構成しながら競い合う。そんな根性も体力もないぼくは、ただひたすら亀のようにテクテクと歩き続けることにする。同レベルの友人たちと散歩気分でワイワイ冗談言い合いながら、それはそれでけっこう楽しく小諸を目指す。 長時間歩き続けると足にできるマメによってリタイアを余儀なくされるケースが多い。そこでスニーカーにパッドを敷いたり、地下足袋やワラジまで試したり、校友らは思い思いに工夫を凝らして臨んでいたが、ぼくは少しくたびれた履き慣れたスニーカーで、むしろ歩き方に注意しようと考えた。意識したのは、架空の白線の上を両足で踏みながらできる限り真っ直ぐ、一定の速度を保ちながら歩き続けることだった。これが功を奏したのか、マメに苦しむこともなく順調に距離を消化していった。しかし、日も暮れて峠道にさしかかる頃には、連れは一人二人と離ればなれとなり、足取りとともに口数も次第に重くなってくる。一休みしたらそのまま立ち上がれなくなるような気がして、とにかく辛抱して歩き続けた。日付の変わる頃だったろうか、真っ暗な山道で、気づくとぼくは一人っきりになっていた。不思議なことに心細さは感じない。この非日常的な状況を楽しむ余裕が生まれてきて、なんだかこのまま、どこまでも歩いて行けるような不思議な自信さえ沸いてきた。

そのうち、気を紛らわすために何かしてみようと思い立ち、当時夢中になっていた宮沢賢治の詩集『春と修羅』の序を暗誦してみることにした。「わたくしという現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です」という、あの有名な一編だ。ところが中盤の「…(あるいは修羅の十億年)…でさしかかると、その先の「すでにはやくもその組立や質を変じ」がどうしても出てこない。何度繰り返しても、はやりそこで止まってしまう。夜道で一人悩んでいても仕方ないので賢治は断念することにした。

そこで今度はビートルズのアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band)」を丸ごと歌ってみようと仕切り直すことにした。楽曲すべてを架空のブラスバンド「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のショウに仕立てたこのアルバムは、世界初のコンセプト・アルバムといわれているが、オープニングからエンディングまで組曲風に楽曲がパッチワークされているので40分近く一気に歌い続けることができるのだ。多くの音楽好きの若者たち同様、ぼくも意味などよく理解してなくても、そらで歌えるくらい聴き込んでいたので、一人アカペラでなんとかエンディングまで歌いきることができた。カラダは長野の山道をテクテク歩いていても、その間ココロは「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の一員だ。

そうこうしているうちに、海ノ口の手前の坂道が折り重なる山中にさしかかる。底冷えがもっとも堪える時刻だ。すると前方にうどんの屋台が見えてきた。電灯越しに立ち上る湯気が「熱いうどんで、冷えた身体を温めなよ」とぼくを誘惑している。悪い予感が一瞬よぎったが、おにぎりも食べ尽くし、寒さと空腹に抗えずその湯気の誘惑にぼくは負けてしまった。うどんは信じられないくらい美味かったけど、予感通りその後1時間、腹痛に苦しみながら貴重な時間を無駄にしてしまった。何とか遅れを挽回しようとしたものの、努力も空しく終着点の10kmほど手前で敢え無く時間切れ。うどんさえ食べなかったら俺も小諸に…という、ちょっと情けない悔いとともに、ぼくの強行遠足初挑戦は幕を閉じた。

「だったら翌年もう一度チャレンジすればいいのに」とか「OB強行遠足もあるし」とか言われそうだけど、目標達成に向かっての挑戦を目指していたわけではなく、一度きりのプロセスこそが重要なんだと思っていたので、ぼくの強行遠足はそれでおしまい。「パンタ・レイ」(人は同じ川を二度わたれない)と、かのヘラクレイトスも言っている。(丁度その日は、この言葉を引用していた写真家、田中孝道さんの小諸のアトリエに向かっていた)

思い返せば、この経験がぼくに残してくれたものは決して小さくはなかった。一定のペースで、無理さえしなければ、どこまでも歩き続けることができる。その夜ぼくの中に芽生えたこの根拠のない自信は、その後の人生で「継続することの力」へと繋がるバトンを用意してくれた。この「継続は力なり」の出典は、住岡夜晃(すみおか やこう)という、大正から昭和初期に広島で活動した宗教家の詩なのだそうだ。それはこんな讃嘆の詩(さんだんのうた)の一節。

青年よ強くなれ

牛のごとく、象のごとく、強くなれ

真に強いとは、一道を生きぬくことである

性格の弱さ悲しむなかれ

性格の強さ必ずしも誇るに足らず

「念願は人格を決定す 継続は力なり」 (後略)

ぼくの「継続力」はそんなに立派なものじゃないけれど、コツコツと積み重ねることでもたらされる、なにがしかの力については少しだけ実感することはできたと思う。

しかし、あらためてその道程を辿ってみると、よくまぁこんなに長い道のりを一気に歩き通したものだと、今更ながらに当時の若さの潜在力に驚いてしまう。と同時に、それから半世紀近く経ってSPORTS CARでその道のりを追体験する現在の自分にもちょっと複雑なものがある。あるのだが、それが時間の経過というものではないかと納得するもう一人の自分がいる。