Left _ Just Another Diamond Day
Right _ Lookaftering
Copyright : Vashti Bunyan

2007.5.10

久しぶりに買ったCDの中に思わぬ掘り出し物があった。イギリスのエディンバラ出身女性フォークミュージシャン・Vashti Bunyan(ヴァシュティ・バニアン)の「Just Another Diamond Day」。Donovan(ドノバン)とも親交のあるベテランミュージシャンらしいけど、ぼくは全然知らなかったのだ。どこかで誰かが絶賛していたReviewを気まぐれに携帯にメモしておいたのを思い出し、何となく入手してみた。
どれも2分足らずの小品ばかりだけど、アイリッシュな牧歌的情景を耳元でささやくように唄い上げている極上の音楽集。人間の視界を動物や自然の世界へとスライドしながら綴っていくような旅路の記録。そこには「青春の」という言葉を付け加えてもいいかもしれない。Enya(エンヤ)で一躍ブレイクしたアイルランドの音色に近いが、June Tabor(ジェーン・テイバー)ほど骨太でないし、Dolores Keane(ドロレス・ケーン)みたいに堂々としてもいない。もっと素朴でナイーブな印象だ。絵本作家・Tasha Tudor(ターシャ・テューダー)が少女時代にミュージシャンだったらこんなアルバム作りそうな気がする。とにかく、マリアンヌ・ファイスフルみたいな不思議な存在感を感じさせる人だ。
ジャケット眺めていて驚いた。何とこのアルバムは1970年にリリースされていた、37年も前の音楽だったのだ。そしてもう一枚、2005年に発表されたアルバムがあるという。35年ぶりの新作!寡作にもほどがある。Amazon(アマゾン)のReviewでは、この新作「Lookaftering」は前作と甲乙つけがたい出来とあったので早速手に入れて聴いてみる。35年経ってもその歌声はまったく変わっていないし、やはりそこにあるのは彼女の音色。しかし前作の方が断然いい、とぼくは思う。「Just Another…」にはナイーブさの中にも静かな躍動感があって、そこに心震わすものがあったのだけど、ナイーブなだけのVashti Bunyanには正直、ぼくにはあまりぐっとくるものがない。ただ、思わぬ発見もあった。新作のアルバム・ジャケットを飾る絵がとても素敵だったのだ。他の絵も歌詞の横に添えられていて、クレジットには Painting by Whyn Lewis とあった。(余談だがBunyanは今年の2月に最初で最後(?)の来日公演をしていたそうだ)

イトリキ・ショップカードより。

2007.4.15

4月12日の夜、富士吉田での打合せ後の会食で「糸力」を訪れた。ここは、釣り好きなあの糸井重里さんにカレーが絶賛され、一躍有名になったというお店。上はお店に置いてあったカードからのキャラクター抜粋画像(キャラクター・デザイン=祖父江慎・糸井重里)。予約できないので夜の部開店の4時半以降は、行ってみるまで入れるかどうかわからないというハラハラ食堂なんだけど、幸い当日は入店出来てラッキー!
全国の地酒がいっぱいあって「今夜は新潟の八海山を飲んでみるじゃん」なんて楽しみは下戸のぼくには無縁なのだが、何を食べてもすごくおいしい!
当夜は2回目。最初来た時にはそのメニューの多様さに圧倒された。有名なカレー類をはじめ、前菜サラダの品々や季節の旬の素材を使ったつまみの一品料理類、揚げ物、肉料理に刺身、パスタに蕎麦やラーメン、そして定食類からはては中華まで、お店の四面は壁が見えないほどメニューだらけで首が痛くなってしま いそう。ないものを探す方が難しい。普通ちょっと考えると「こんなに小さなお店でそんなにいろいろ出来るわけないじゃん」なのだが、そこは糸力マジック、何が出てきてもおいしいんです。回転がいいんでネタが新鮮、多彩な料理も基本はひとつ、といろいろ臆測してはみるけど、結局は腕とセンスなんだと思う。見習うべきことはたくさんありそう。
何と言っても「糸力(イトリキ)」という屋号がいい。ご主人の宮下さん(富士吉田には宮下姓が多い)のお母さんが命名したとか。機織をして育ったお母さんは「一本の糸は切れても、100本、200本の束となった糸は切れぬから、一歩一歩信用を紡いでほしい」と名付けたんだとか。ぼくらも織物に関した打合せでここ富士吉田を訪れていたので、何か見えない糸に導かれてここまでやって来たのかな。
ディープなサイトもオススメです。時間があったら「糸力窓女(マドンナ)」(182人もいるのだ!)をじっくりチェックしてみよう。

1960(昭和35)年2月24日撮影。

2007.3.26

写真の右が9歳のぼく。そして隣りの帽子姿の少年は友人の杉本安美(ヤスミ)ちゃん。ぼくより三つ年上だったけど、なぜかウマのあう大親友だった。当時暮らしていた近所のちょっとした谷間に位置する場所に、いわゆる部落と呼ばれる地域があって、廃品回収を生業とする杉本さんの一家もそこに暮らしていた。いろんな差別をうけていたのだろうが、それは大人の世界の話、子どものぼくは知る由もない。やさしくて気立てのよい杉本家の人たちが大好きだった。
ある時その自宅で執り行われた杉本家親族の結婚式の光景は今でも鮮明に残っている。朝鮮古来の様式だろうか、見たこともないカラフルな民族衣装で凄まじいドラや鐘の音に合わせて踊り続ける安美ちゃんの両親は、もういつもの見慣れた彼らではなく、まったくの別人だった。この人たちは何か深いところで自分とは違うルーツを持っているんだ、という驚きがその時のぼくの心に強く刻まれた。
安美ちゃんや彼の弟たちとは多くの時間を近所の空き地で、三角ベースの野球などに興じて過ごしたものだった。それは、貧しくてもそれなりに満たされていた戦後日本の標準的な少年時代であったと思う。ところがそんなぼくらの別れはあっけないものだった。この写真が撮られた約一ヶ月後、北朝鮮(朝鮮人民共和国)に、安美ちゃんは崔達治という自国名で家族とともに還ってしまった。帰国事業は1959年から1984年まで続き、最初の帰国船は1959年12月10日に出航したそうだから、彼らは事業開始早々の帰国者だったことになる。友交を記憶にとどめるようにと、ぼくの家族がこの写真を撮っておいてくれたのだろう。
別れの朝、見送るためにぼくは踏み切りの前に立ち電車を待っていた。安美ちゃん達を乗せた電車がやって来た。彼と兄弟たちは窓から身を乗り出し、数本の紙テープをぼくに向かって投げてくれた。踏み切りを通り過ぎるほんの一瞬のことだった。ぼくは泣きながら電車が見えなくなるまで手を振り続けていた。昭和35年に起きたこの別れと愛犬の死は、ぼくが初めて味わう、別離のほろ苦い悲しみとなった。北朝鮮関連のニュースを見るたびに彼のことを思い出す。その後の人生が辛いものでなければいいのだが、とぼくはその度に願っている。