Above_TALKINGHEADS
Remain in light
WPCP-3623
Below_BRIAN ENO
Another day on earth
BRC-128

2008.10.02

触覚的な音楽というものがもしあるとしたら、そんな音楽を作り出すミュージシャンの筆頭に、ぼくは迷いなくブライアン・イーノ(Brian Eno)をあげるだろう。
イギリス生まれのイーノは環境音楽の先駆者として知られている。美術学校在籍中に音楽活動を開始し、ロキシー・ミュージック(RoxyMusic)に加入。2枚のアルバム制作に参加した後、脱退。それから次第に前衛的な現代音楽に傾倒していったイーノは、1978年にアンビエント・ミュージックの記念碑的作品『ミュージック・フォー・エアポーツ(Music For Airports)』を発表する。以降、ハロルド・バッド(Harold Budd)やジョン・ハッセル( John Hassell)らとともに共作や発表を精力的に重ね、環境音楽というジャンルを確立させていく。
「…エアポーツ」はもちろん、「オン・ランド」(Ambient 4: On Land)、ハロルド・バッドとの共作、「パール」(The Pearl)や「鏡面界」(The Plateaux of Mirror)、そしてジョン・ハッセルとの共作「第四世界の鼓動」(Possible Musics)などは繰り返し何度も聴いてきた。イーノのつくりだしてきた環境音楽は素晴らしいと思う。でも彼のルーツはそんな抑制された静的世界にあるのではなく、ラジカルなグルーブ感(groove)が渦巻く、もっと荒々しく官能的な世界に深々と根ざしているのではないかとずっと感じている。
それは1980年に発表されたトーキング・ヘッズ(Talking Heads)の「リメイン・イン・ライト(Remain In Light)」を聴いてみるとよくわかる。当時トーキング・ヘッズはアメリカン・パンクロック・シーンで活躍していたバンドだったが、イーノはこのアルバムにプロデューサーとして参加している。だからこれはイーノのアルバムではない。でもそこで飛び跳ねている音はまさしくイーノの子共たちに違いなく、ヘッズの面々はまるでイーノの奏でる楽器のようだ。デヴィッド・バーン(David Byrne)という類いまれな才能をもったミュージシャンに牽引されてトーキング・ヘッズはステキな作品を数多く残しているが、そのどれもこのアルバムだけは超えられなかった。発表されてから30年近く経っても全く色褪せていない。これは掛け値なしの傑作ロックアルバムだと思う。
冒頭曲「Born under punches」から、ビシビシと鞭で打たれながらゆったりとメコン川の流れに身を委ねているような、相反した不思議な快感に捕われる。それはセーヌ川でもないし、利根川でもない。なぜか行ったこともないけどメコン川に違いないと思い込ませるようなアジアの香りを遠景に漂わせている。
このアルバムはアフリカンビートをロックに大胆に取り入れたと評価されているが、(YouTubeに投稿されている演奏「イタリアLive」はこのコメントを彷彿とさせる)何と言っても特徴的なのは全編を貫く触覚的なグルーブ感だ。聴いているとまるで脳内にマドラーを差し込まれ攪拌されているような気がしてくる。これはタイトで強靱なうねりのもたらす脳内快感だ。
イーノの最新作「Another Day on Earth」にもそれは継承されている。「Remain In Light」の続編のような冒頭曲「This」から2曲目「And Then So Clear」にかけては、これまたプチプチと官能的な泡立つ音が全方向から流れ込んでくる。ファズのかかったイーノのヴォーカルもすこぶるセクシー。このアルバムは、ある日、中沢新一さんが「これいいよ」とプレゼントしてくれたもので、イーノは久しく聴いてなかったから突然懐かしい友と出会ったみたいな気持ちになり、相変わらずのグルーブ感に何だかうれしくなってしまった。
ところで、イーノに限らず美術学校に通っていたというミュージシャンはなぜかとても多い。ジョン・レノン(John Lennon)を筆頭に挙げたらきりがない。音楽家も画家も窓のついている場所が少し違うだけで、住んでいるのは案外同じ部屋だったりして…。逆さまにしてこんな風に考えてみることはできないだろうか。よく若者が人生を賭けるに値するものになかなか出会えず悩んでいるなんて話を聞くと、とりあえず足下の大地を掘ってみたらいいのにと思う。大事なことはただひとつ、掘り続けること。井戸なんてどこから掘ってもいいのだし、たまたま立っていたからここだった、でまったく構わないと思う。掘り進めなくなったら別な場所からまたはじめるだけ。そして幸運にも地下の水脈にまで抜けることができたら、そこはあらゆる他の世界の井戸に繋がっている普遍の水脈なのだから、なーんだ、どこからはじめてもよかったんだとしみじみと腑に落ちるに違いない。(ぼくはまだまだ道半ばではあるけれど)イーノの音楽を聴いていると、ぼくはいつもこの井戸のことを思い浮かべてしまう。

Above_Invitation Card(Detail)
Below_Appel Antinucleaire Par
Affiches Telecopies (Detail)
©1995 Marc Pataut

2008.9.02

グラフィックデザイナー、U.G.サトーさんの展覧会が八ケ岳南麓の大泉にあるダイヤモンド八ケ岳美術館ソサエティで開かれていた。3月から8月までと会期も長く、近場だからいつでも行けると高を括っていたらもう会期の終了間際となってしまい、慌てて会場に向かう。展覧会のタイトルは洞爺湖サミットにひっかけた、エコ・ピース・エロスをテーマにした「U.G.サトーのユーモア・サミット」。ポスター、版画、絵本から立体まで、これほどまとまったU.G.サトーさんの作品を見る機会はこれまでなかったので、この日は心ゆくまでU.G.Worldを満喫することができた。
U.G.サトーさんは各国のポスター展で多くの金賞を受賞し、海外での評価も高いアーティストとして知られているが、それは作品のもつ普遍性と伝達力の強さの証明でもある。どの作品にも、明快でプリミティブな力強さと人懐こいユーモアが湛えられている。ほとんどの作品には自身のイラストが使われているが、どの作品もグラフィックとイラストレーションは見事に一体化し、昇華されて、U.G.サトーさんならではの魅力の源泉となっている。
作風は福田繁雄さんやエッシャーなどが得意とするトリックアート(騙し絵)の系譜に連なるが、ぼくはむしろ、1940年代から活躍したフランスのポスター作家、レーモン・サヴィニャック(Raymond Savignac)により近いものを強く感じてしまう。つまり、持って生まれた癖のようなものまで、むき出しにして表現力に変えてしまう才能のことである。メッセージがユーモアに包まれて差し出された時、それはさらに力強いものとなる。ユーモアは人間への深い愛情に根ざしているし、同時に倫理の幹にも支えられている。だからユーモアは万国共通の伝達言語なのだ。伝達をするのもされるのも人間同士。ユーモアが肉声に近いほど、より強く人の心は揺り動かされていくことになる。
また、U.G.サトーさんは常に行動するデザイナーでもある。1995年から翌年にかけてU.G.サトーさんらが中心となって反核FAXポスターアピールを行なったことはまだ記憶に新しい。デザイナーらに核実験への抗議ポスター制作を呼びかけたのだ。短期間のうちに用意する必要があったため、作品はFAXしてもらい、それらを引き伸ばして迫力ある白黒ポスターにしたので、結果的に集結した作品は贅肉が削ぎ落とされシャープなメッセージがこめられたものとなった。こうして集められた反戦ポスターは、国内はもとより、中国では展示、フランスでは展示に加えポスターデモ行進へと展開されていった。グラフィックの抗議…、その有効性と限界性を冷静に認識しつつも、生の根源を脅かすものへの抗議の意志と声をデザイナーがあげたという事実は記憶されるべきだし、おそらくポスターというメディアの原点はここにあるのだと思う。これは行動するデザイナーとしての面目躍如たる印象深い出来事だった。(上のモノクロ写真は、当時フランスの行なった南太平洋核実験への抗議行動として、パリ・レピューブリック広場からバスティーユ広場へポスターデモ行進した際に参加者が掲げたU.G.サトーさんの作品である)
U.G.サトーさんには個人的な思い出もある。90年代前半、クライアントである昇仙峡の菅原屋さんから、自然と栗鼠と胡桃をテーマにモニュメントが欲しいのだがと相談された時、まっさきにぼくが思い浮かべたのが、U.G.サトーさんの動物のシルエットをテーマにした立体作品だった。その後、快く依頼を引き受けてくださったU.G.サトーさんが作りあげたのは、ふたつに割った胡桃にそれぞれ栗鼠が納まる「対栗鼠(むかいりす)」という陶器の作品だった。「リスはクルミをコノミ クルミはリスをクルミ クルミからリスはうまれる リスはクルミをわり クルミのミを ミルクとしてそだつ リスとクルミのかんけいは クルクルとわのようだ」という作者のコメントにも、発想のベースとなっている先取りされたエコロジカルな循環思想が読み取れる。(モニュメントは今でも菅原屋店舗前で見学可能)
除幕式に出席するためU.G.サトーさんは奥さんを伴って来県し、昇仙峡を散策した後、ボスコにまで足を伸ばしてくださった。生まれてまもない息子さんの木(もく)くんを背負って、道すがら可愛くてしかたがないといったU.G.サトーさんの様子が、60過ぎて孫のような子どもを授かったアラン・ドロンの喜びようを彷彿とさせて、とてもほほ笑ましかった。(長男のダイノ サトウさんはアニメーション作家として活躍中)お土産にいただいたオリジナルデザインの壁掛け時計はいまだに自宅で時を刻んでくれている。
飾らないその人柄には多くの人々が惹かれているが、時折垣間見せる童心の背後には、大陸的な記憶が存在しているように思えてならない。いや、それはさらにスケールの大きい環太平洋規模の世界に根ざすDNAなのかもしれない。そう考えると、どことなく日本人離れしたその風貌だって、(もちろんぼくの勝手な想像にすぎないのだが)アメリカインディアンの賢者やインカ帝国の司祭のようにも見えてくるのである。ぼくにとってU.G.サトーさんは、ずっと万国共通語を巧みに操る大きなグラフィックデザイナーとして存在し続けている。

Above_You Tube (Detail)
Below_CD cover (Detail)

2008.8.01

ぼくは小田和正が好きだ。いや、もちろん彼の歌の話です。も少し正確に言うと、彼の描き出す1シーンに魅かれている。発売されたCDだってほぼすべて持っている。
オフコースのメンバーとしてスタートしたそのキャリアは長くてずっと根強い人気を誇っている。引きをきらないCMソングとドラマ・エンディング曲への依頼やアルバムセールスなどを見れば、間違いなく大成功したミュージシャンの一人と言えるだろう。
しかし、世の中の理としてかならず成功者には異論がつきまとう。まるで中高校生の日記みたいなあの歌詞は何なんだ、ちょっと勘弁してほしい、一体どこまで本気なの、とかとか…エトセトラ。(でも本気なら、還暦過ぎた男の歌詞として、考えようによってはそれはそれですごいことなのかも知れないけれど)
ただこの言い回しさえなければ丸ごといい曲なんだけどなぁ、という作品はたくさんある。タモリさんは小田和正嫌いで有名だけど、その気持ちの半分以上はぼくにだってわかる気がする。それにずっと昔からアルバムのジャケット・デザインはどれもこれもひどいものだった。よいものがひとつもないということは、レーベルやプロデューサーの問題でなく、やはり原因はアーティストの感性に帰結するはず。余談ですが、ぼくはあまり見たくないものが近くにあるのが耐えらない時には、自分でデザインすることにしている。例えばパソコンで使うアプリケーション・ソフトの教本の類いには、けっこうひどいものが多い。そんな時は、新たにデザインしてカバーを巻き直してから、やっと本文を読みはじめるなんてこともあったりする。ミュージックCDも同様だけど、最近は買ってもすぐにi-Podに移してしまうので、さすがにデザインし直すことはもうあまりない。さて、話を戻します。いろんな「う〜ん、ちょっとねぇ〜」という小田和正への異論の嵐はけっこう根強く渦巻いていて、ぼくはその中でずっと孤独だった。好きだなんて言うと、なんかカミングアウトするような気持ちになってしまう。昔、矢野顕子がインタビューで「私、ほんとは小田和正さんの歌が好きなんです」と答えていたのを読んでほっとしたことがあったっけ。
もちろん異論を覆いつくす共感の嵐もあるのだろうし、別に好きなら好きでとやかく言わず黙って聴いてろ、という声もあるだろう。でもぼくは、いつもなら興味なしの屑篭に放り込んでしまう要素の強い小田和正の音楽に魅かれるのは何故なんだろうかと長いこと気になっていた。
小田和正は東北大学と早稲田大学院で建築を専攻していたそうだ。しかし彼の曲に建築的な造形力はあまり感じられない。音楽は時間、建築は空間を通じて表現されるけど、作家の完結させようとする意志の強さによって、その作品の構造体としての強度は左右されてくるのだと思う。小田和正は曲を完結させようとする意志が弱いのだろうか。曲に造形力が感じられない要因は楽曲にあるのではなく、歌詞の完成度にあるのかもしれない。(作詞家・島崎藤村の「惜別の唄」などは何という高い完成度か!)
むしろ小田の描きたいものは、一瞬一瞬のディティールにこそあるのではないだろうか。以前このブログでランディ・ニューマンについて、「彼の音楽は、わたしたちが聴いたことがあるような気がするという錯覚を利用して再現された印象的な1シーンなのだ」と書いたことがあるが、特性はそれに近いものなのかもしれない。ある一節を聴くと、もうこれで充分と感じることがある。完成されたディティール。他のパートはそれを支える背景にすぎない。こんな聴き方はかなり問題多いと思うけど、そうとしか言いようのない瞬間がある。アップテンポは柄じゃないが、いくつかの叙情的な一節はたしかに素晴らしい。おおげさに言うと、日本に生まれてきてよかったなあ、なんて思ってしまうのだ。
青春は決して安定することのかなわない未完の代名詞として語られることが多いけど、その意味で小田和正がずっとつくりだしているのは、まぎれもない青春の音楽なのだと思う。何よりあの澄んだ歌声には未完の切なさが湛えられているではないか。人は彼の歌を聴くたびに、自身の未完となってしまった「言葉にできない」瞬間をそこで追体験する。コンサート映像で目を潤ませて彼の曲に聴き入る多くの観客を見ていると、そんな気がしてならない。それはパンクのように反抗のアクションとして放り出された未完ではない。それなりに完成しているかのようには見えるけど、円熟するためには青く、決定的に何かが足りない、そんな未完のカタチだ。
先日TVに人形浄瑠璃の人形作家が出ていて、人形の表情を完成させては駄目なんだと言っていた。少し表情は曖昧なままにしておくことが大切なのだと、そうでないと操る人が感情を表現することができなくなるのだという。歌だって聴いた人がそこに個人的な記憶のかけらを重ねてはじめて輝き出すことだってある。未完の表現を侮ることはできないのだ。

Left_Powers of Ten
Right_Charles & Ray Eames

2008.7.01

先月終わってしまったけれど、アクシスギャラリーで「チャールズ・イームズ写真展」が開催されていた。あいかわらず根強いイームズ人気だが、どうしてこうも人々は彼らに惹きつけられ続けるのだろう。
半世紀も前に大量生産家具として産声をあげたプロダクトなのに、イームズの家具群はいまだにきわめてドリーミー。欧米を席巻する「カワイイ」のアメリカ版元祖といえるかもしれない。
「ありふれた物にも格別な美しさを発見する」という精神は、「用の美」を掲げた日本の民芸運動にも通じる格別特有なものとも思えないが、「あらゆるものがどのように結びつているかによって、その価値が決まってくる」と言われると俄然それは現代性を帯びてくる。それこそが人々の幸せに向かって開かれたデザインの可能性なのだと位置づける彼らの先進性と楽天性は、アメリカという風土、そして彼の地で生まれた「フォーディズム」の精神と決して無縁ではないと思う。
フォード自動車の創設者、ヘンリー・フォードに由来するフォーディズムの本質は、生産効率上昇に伴う利潤の増大を、賃金にも反映させた点にあると言われている。つまりこれは私たちが日本的経営と呼ぶ、社会に奉仕する経営精神にも通じる、平等感に裏打ちされた循環によって大衆消費社会を実現しようとしたリベラルで壮大な実験でもあった。
日本だって負けてはいない。21世紀の平和学を提唱する、集英社新書から出版された中沢新一さんの「イカの哲学」には、製糸工場グンゼについての記述がある。1965年に私家版『イカの哲学』を刊行した波多野一郎さんの祖父は波多野鶴吉という人物で、京都は綾部の地で製糸と紡績の事業を興し、グンゼの基礎を打ち立てた人物なのだそうだ。その部分をちょっと引用してみたい。「波多野鶴吉は独創的な経営哲学の持ち主でした。この人の中では、キリストの教えと二宮尊徳佐藤信淵の思想とが渾然一体となって、理想の資本主義を現実に地上につくりだしてみようという、大胆な経営実践に結実していったのです。今日でも、綾部のグンゼ工場を見学してみますと、その当時の理想主義の余熱を感じることができます。波多野鶴吉は、労働をつうじて労働者の精神も身体も豊かになっていかなければならない、と考えていたので、工場内にはきめ細かい配慮のほどこされた、病院や厚生施設やホールや運動施設が設けられました。経営者と労働者は気持ちをひとつにして、協同して取り組んでいくべきものという考えから、社長宅は一般労働者と同じ敷地内につくられました。波多野鶴吉は日本のロバート・オーウェンと呼んでもおかしくない、じつに立派な経営者でした。波多野一郎は、この鶴吉の孫として、綾部のグンゼ工場敷地内で生まれたのでした。」(『イカの哲学』中沢新一・波多野一郎、集英社新書、13〜14頁より)
ひるがえって、グローバリズムの嵐が吹きすさぶこの世界において、至る所で私たちがまのあたりにする経営精神というものはいかほどのものなのか。成果主義のもと労働力をひたすら消費し続ける、不毛でヒリヒリとしたこの社会に対して、何という様変わりだ!と嘆きつつ、こうした状況へ背を向けていこうとする意識が、ドリーミーなイームズの世界へと向かわせているのかもしれない。
ドリーミーといえば、イームズと再婚したレイ・カイザーの功績も見逃すことはできない。前衛的な美術環境に身をおいていたといわれる彼女の作風には、東欧の香りが色濃く感じとれる。モダンで母性的、そして知的な可愛らしい造形。近年めざましいユニット・ブームも人気に拍車をかけているのかもしれない。「俺イズム」なんて格好悪い〜という声無き声。お洒落なアノニマスの潔さ。成果物より生成のプロセスにこそその本質を求めようとする傾向などなど、これらもすべて元祖は実はイームズだったのだと言えなくもない。
ところでぼくは以前、所属するデザイン団体、JAGDAのシンポジウム企画に参加した際、イームズを取り上げたことがある。彼らの代表作といわれる映画『パワーズ・オブ・テン』を記念上映し、イームズ・デザインを俯瞰してみる試みだった。その時配付したパンフレットに掲載するために書いた解説文がある。「見ることの力」というテーマにそったけっこうきまじめな解説で照れ臭いが、このイームズ観は今も変わることはない。
この映像から伝わってくるのは視点を移動していく、プロセスそのものが内包するパワーである。イームズはそのパワーの謎を解き明かそうとする人間の情熱や意志、能力、そして可能性をあらためて私たちに想起させようとしているのだ、と思う。今すぐ観てみたい方はこのサイトで視聴することができます。

「チャールズ&レイ・イームズ—その眼差しの彼方へ」
寝そべる男性の1m四方の画像を1m離れた視点からとらえる。そしてそこから10秒ごとに10倍の速度で離れていく。「パワーズ・オブ・テン」の旅はこうしてはじまる。
10の二乗が支配する単純なルールで、宇宙から原子まで視点を移動していくこの映像が与えてくれる驚きは一体何なのだろう。一定の速度で移動しているように感じられる視点は、実はミクロの世界では計測不可能なほど微細な移動をし、またマクロの空間では光の3倍もの速度に達しているのである。ここにはもはや絶対的な時間というものは存在していない。あの相対性理論のエッセンスをここで私たちは視覚をとおして直感することができるのだ。チャールズ&レイ・イームズの代表作といわれるこの映像は、20数年(注:現在では40年以上)を経た今も色褪せることなく、万人が享受できる美意識と知的刺激を私たちに与え続けてくれている。
チャールズ・イームズは1907年、アメリカ・ミズリー州セントルイスに生まれた。建築を学んだ後、あの有名な一連の「イームズ・チェア」を世に出すことになる。画期的な加工法による大量生産家具の誕生である。そして彼は画家レイ・カイザーと結婚し、以後の創作活動はすべてこの二人の絶妙なる共同作業によるものとなる。近代住宅建築に影響を与えたケーススタディハウスのひとつ、「サンタモニカハウス(自宅)」も彼らの建築における代表作のひとつといえるだろう。
あたかも彼らの美意識の幹から枝分かれするかのように、そのデザインの世界は家具、建築にとどまらず、展示や映像、グラフィック、玩具へと展開されていく。これほどまでに多分野にまたがって活躍できたのは、ポール・シュレーダー(米国脚本家・映画監督)が記しているように、彼らがそのどれにも拘束されることなく、むしろこれらすべてを包み込むような生き方に専念したからであろう。ここに彼らのひとつのまなざしがある。特異性ではなく、むしろ共通性によって様々な謎を解きあかしていこうとする精神。そして問題解決のためのプロセス自体が、ひとつの美と秩序を生み出すのだという信念。異質なものの集合にも肯定的な統合性を与えているイームズ夫妻の作品の数々は、こうした彼らの精神と信念の産物なのである。ピーター・スミッソン(英国批評家)が語る「文化的に異質なものが同居し、お互いが快適に見えるという不思議」がそこに在る。イームズらが生み出してきた、きわめて今日的なこれらの不思議から、私たちはまだしばらく目をそらすことはできないだろう。なぜなら、こうしてチャールズ&レイ・イームズの歩んできた道を私たちもまた、いまだに歩み続けているからである。
(1994年JAGDA in Yokohama シンポジウム・パンフレットより)

※なお、当日のシンポジウムでは以下の4作品が上映された。
◎トップス[Tops]/こま (7分15秒・1969・EBE社)
◎パワーズ・オブ・テン[Powers of Ten](8分50秒・1978・ピラミッド社)
◎アルファ[Alpha](1分16秒・1972・ピラミッド社)
◎累乗の指数(3分6秒・1973・ピラミッド社)

Above_Hagihara Masaru
Certified Tax Accountant Office Mark
Below_HAKUHODO Group Mark

2008.6.02

デザイン誌を何気なく開いていたら「博報堂」の新しいグループマークとロゴが掲載されていて驚いてしまった。というのも、このマークデザインはぼくらにとって馴染みのあるものだったからである。
ボスコの設立後しばらく経った頃(おそらくは1994〜5年頃)、弊社の顧問税理士をしていただいていた公認会計士の先生から、事務所のシンボルマークを考えてほしいと依頼され、小林和美さんが担当デザイナーとなり制作を開始した。そしてほどなく、提案した幾つかのプランの中から選ばれたのが、上にあるブルーのシンボルマークである。「税理士は決して前面に出ることなく、背後から顧客である事業所を支える黒衣のような存在である」という依頼人のコメントから、彼女はじっと見つめていると背後からその事務所の頭文字であるHが浮かび上がってくるような意匠を考えついたのである。
2008年4月1日に発表され、翌5月1日から導入されたという博報堂の新しいグループマークとこの会計士事務所のシンボルは今ぼくらの前で、およそ13年の時を隔てて戸惑いながら向き合っている。
雑誌に掲載されていた博報堂マーク制作者のコメントを下に転載させてもらうが、大会社に相応しい格調高い論調で語られてはいるが、基本的にはかなり近い発想であることがうかがえる。
「コロンはあらゆるものを接続して『対』にする記号。クライアント:生活者、世界:日本、人間:環境……。あらゆるものの『関係(=:)』の中に博報堂のビジネスチャンスはあり、あらゆるものの『関係(=:)』の向こうに博報堂の未来の姿がある。コロンの向こうに広がっていく見えないHのアウトラインが博報堂の未来の姿を示しているんです」(美術出版社刊「デザインの現場」vol.25 no.159、P73より)
常識的に考えれば、博報堂マークの制作者が過去にこの地方都市で制作された会計士事務所のシンボルを見ているとは考え難いから、おそらくこれは偶然の結果であろう。特にシンボルマークのように、発想を限界にまで削ぎ落としていくようなプロセスが求められるジャンルでは往々にしてこのようなことが起きてしまうのは珍しいことではないのかもしれない。それに相手は泣く子も黙るあの大手広告代理店、博報堂である。地方のしがないデザイン事務所が文句言っても、それは宇宙戦艦ヤマトに鬼太郎の目玉親父が体当たりするようなものである。しかし、仮にそうであったとしても、13年前にこのような発想で造形化して採用され、以来その事務所のスタッフ全員に愛着を持って使い続けてもらってきたという事実は胸を張ってきちんとここで主張しておきたいのだ。
反射的に思い出されるのは、官営から民営化への先鞭をきってNTTが生まれ変わった際、その象徴として発表されたあの有名なシンボルマーク「ダイナミックループ」にまつわる裏話である。作者はもちろんデザイナー界の巨匠、亀倉雄策氏(1997年没)。発表後、山梨在住の某デザイナーが、このマークは自分の作った過去の作品の盗作であると訴えて物議を醸したことがある。この一件を覚えている人はもうあまりいないかもしれないが、ぼくの地元から沸き上がった話題だったこともあり、強く印象に残っている。この話には尾ひれがついていて、山梨県選出の故・金丸信代議士から某デザイナーの許に直接電話が入り、自分の地元で民営化という大きな流れに水を差すようなことをするとは何事か!と一喝されたという話も伝わっている。
このNTTのCIを担当したのが、中西元男氏率いるPAOS(パオス)である。当時、PAOSは高度成長期以降、日本に巻き起こったCIブームのトップランナー・プロダクションとしてその名を馳せていて、名だたる企業がこぞってPAOSにCIを依頼する現象が話題となり、分刻みで飛び回る中西氏の姿がTVで報道されたこともあった。このPAOSの作品集『PAOSデザイン—企業美の世界』(1989年・講談社刊)をある時眺めていて、ぼくは面白い発見をした。ダイエーCIの紹介ページで「コンペ参加デザイン26案」が66Pに掲載されていたのだが、その中にダイナミックループにそっくりなプランがすでに提案されていたのだ。このコンペは1973〜1975年の間での出来事。NTTのCI導入は1984〜1985年とされているので、このふたつのデザインにはおよそ10年のブランクがある。しかもどちらも同じPAOSの提案。なんとも不思議な話だが、元来モダンなシンボルマークはその生成の性格上、結果的に似通ってしまうという宿命を背負っているのかもしれない。
近年、著作権意識の高まりもあり、事前に類似した意匠を検索してこうした問題の発生を防ごうとする動きもあるようだ。しかしこれをワールドワイドにあまり厳密に機能させようとすると、今後、新しい意匠などほとんど認められなくなってしまうのではという危惧もある。自由闊達な発想を抑圧することは避けたいし、同時に盗用は厳しく規制したい。この見極めが実はとても難しい。デザイナーが以前目にしていたことをすでに忘れてしまい、ある時深層意識から呼び起こされたものを自分の発想と思い込んでしまうことだってあるかもしれない。これに関しては昔、中西氏ご本人から意見を聞いたことがあるが、結局はデザイナー自身の倫理観に委ねるしかないんではないだろうかという、あまり有効性を期待できない結論だったように記憶している。
そもそもシンボルの起源は、紋章はもとより洞窟に残されている記号類にまで遡ることができるほど相当に古いものである。しかし識別しやすく強い印象を残すよう、単純な形象にするという発想が主流となってきたのはそう古いことでなく、20世紀半ば以降の傾向と言えるのではないだろうか。モダンデザイン華やかかりし50〜60年代を代表するCIとしてまっさきに思い浮かぶのはCBSIBMWestinghouseといったアメリカの代表的企業である。世界中の企業がこれに倣った。このモダンデザインが20世紀後半を牽引してきた潮流であったのだが、シンプルで強ければよいというものでもない。そうしたモダン神話の有効期限がそろそろ切れてきたのではないだろうか。
複雑な形象であっても愛着を感じさせ、強い印象を残すこともある。例えば、バブル絶頂期に居並ぶ石油会社が次々とモダンなシンボルに模様替えした中、出光石油はあえて一見古臭い筆文字シンボルを使い続けた。しかしどうだろう。今あらためて較べてみると、案外時代は一周した感もあり、ウルトラマンの掲げる出光シンボルが先頭に立っているようにも見えてくるから面白い。
ともあれ、博報堂の新しいグループマークは、久しぶりにシンボルマークについて考えてみる契機を与えてくれたようだ。シンボルにまつわる時代意識と美意識は密接にリンクしながら螺旋を描くように人々の心理の深層を周回し、それが定まることはない。

OLYMPUS Neon Sign (Shinjyuku)
Photo:Susumu Endo. 2008

2008.5.03

新宿駅南口を出て右手上方に目をやると、旧JR本社ビル屋上に「OLYMPUS」のネオンサインが見えてくる。もちろんネオンサインは夜見るものだが、明るくても「OLYMPUS」のロゴは確認することができる。普段何気なく目にしている夥しい数のネオンサインの中できちんとデザインされているものが一体どのくらいあるのだろう…。
この「OLYMPUS」のネオンサインをデザインした遠藤享さんは日本を代表するグラフィックデザイナーであり版画家なのだが、日本におけるネオンサインのデザインを成熟させたデザイナーでもある。近年、この「OLYMPUS」のシリーズを全国各地に展開して表現領域を拡げている遠藤さんは、熟知したガス放電管の一種であるネオン管の仕組みを高度にコントロールしながらさまざまな色と形に動きを与え、光織りなす現代の巨大絵巻ボードを次々と生み出している。ぼくは発光体とアートの融合というと、どうしても60〜70年代の日本アートシーンで活躍した山口勝弘ヨシダミノルらの作品を思い出してしまうが、遠藤さんのつくりあげたネオンデザインは、そこからさらに進化をとげた「動くハイテクノロジーアート」といえるかもしれない。
以前、遠藤さんのスタジオで、あるネオンサインのデザインを見せてもらったことがある。それは時間軸に沿って各パートの動きを指示する精緻なロールシートだったのだが、いくら眺めていてもそこからあの複雑な動きや色の変化を読み取ることはできない。いや、正確に言えば読み取る能力がぼくにはなかったということだが、これと似たものは昔見たことがある。ニット製品を織り上げるためのパンチシートやオルゴールを演奏するのに使われるオルガニート用シートである。これらは遠藤さんのロールシートに較べたらはるかに単純なものだったけど、読み取ることのできない戸惑いは同質のものである。さまざまな専用機にトランスレートする手法には、結果とは似ても似つかないモノが介在する。ここにものづくりの面白さがある。
designのdeは「いまだ見えないもの」、signは「現す」、つまりdesignとは「いまだ見えないものを現す」行為にほかならないのだが、この介在する似ても似つかないモノを眺めていると「見えないものを確かに見据える」というデザインの必須条件が浮かび上がってくる。そこには直感的な能力と論理的な能力を融合する、もうひとつの能力が要求されている。
ところで、遠藤さんのデザインはやはり「audio-technica」を抜きには語れないだろう。企業が一人のデザイナーにこれほど一貫して企業のイメージ構築を委ねてきた例はあまりないのではないだろうか。遠藤さんが長年にわたってオフセットリトグラフの版画作品を通じて展開してきた「space & space」という繊細で叙情的、そして知的な表現世界がそのままオーディオテクニカという企業のイメージに重なっている。遠藤さんが企業のデザインをしているというよりも、逆に企業が遠藤さんの世界を借りて自社イメージを発信しているようにも見えてくる。その一体感は見事であるし、広告界においては希有なケースでもあると思う。
ぼくは18年ほど前にそんな遠藤さんと出会うことができた。知人を介して紹介され、原宿駅近くの甘味処で会った時のことは今でもはっきりと覚えている。初対面でひとまわり以上年下のぼくに対し、遠藤さんは実にフランクでフレンドリーに接してくれた。何よりデザイナー同士として向き合ってくれたし、長時間楽しそうにデザインの話をきかせてくれたのだった。普段人見知りするぼくが瞬時に遠藤さんの人柄に魅せられてしまった。何年も経ってから気づくことになるのだが、ぼくはこの夜大切なことをたくさん学ぶことができたのだ。デザインをはじめてから師匠につくこともなく我流でがむしゃらにケロケロと鳴いてばかりいたこのぼくを、狭い井戸から広々とした世界に引き上げてくれた恩人なのである。本当に仕事をするということがどういうことなのか遅まきながら理解することができたし、それまで自分を呪縛していたさまざまな幻想をここからやっと解き放つことができたような気がする。
ボスコのオープニングを飾る自社展覧会で、遠藤さんは全国に先駆けてPhotoshopによる新作を発表してくれたし、建築家の息子さんである遠藤治郎さんにはボスコのリノベーションをお願いしたり、(治郎さんの兄、悦郎さんは「Adobe Photoshop AtoZ」の著者としても知られている)長年、遠藤さんと通子夫人には公私にわたりお世話になってきたので、書き始めたら連載しなければならないほどである。
先月、神宮前の自宅近くに新たにスタジオが完成したのでとお誘いを受け見学してきた。もちろん設計は治郎さん。ここはタイでの活動も本格化させている治郎さんの日本スタジオを兼ねているとか。地下は広々としたレンタルスペースでウェブの制作会社がこの春から入居するそうだ。久しぶりに遠藤さん夫妻にお会いして夕食をご馳走になった後、新宿高島屋に移動して初台側屋外デッキから「OLYMPUS」のネオンサインを眺める。久々に会った遠藤さんは、作者直々の解説付きという贅沢な観賞会を別れ際にプレゼントしてくださった。
ぜひ新宿に行ったら見上げてみてください。東京の夜空の一角で「いまだ見えないもの」が確かに今夜も「現れている」はずです。