Snap Shot of Kunpu Tour
at Shosenkyo, Yamanashi
1991.6.17

2009.2.02

訃報の続く冬になった。昨年の12月、「フォト・モンタージュ」など鋭い風刺作品で知られる木村恒久さん、明けて1月11日には福田繁雄さんが急逝。ほどなく掲載された朝日新聞の追悼記事には、お二人が並んで紹介されていた。ともに戦後日本のグラフィックデザインを切り拓き、批評精神には通じるところも多いが、その持ち味はだいぶ異なる。福田さんはだまし絵(トリックアート)の手法を駆使して、グラフィックはもとより、立体やレリーフにと幅広い創作を続けてきたが、真骨頂は何といってもポスターだろう。名作「VICTORY」は福田さんの創作姿勢を象徴している作品だ。インタビューで福田さんは「ポスターは花火だと思っている」と答えている。通りすがりに見れば誰でもわかる、それがポスターであると。だから福田さんのつくりあげるポスターはどれも鋭い伝達力で強く見るものに訴えかけてくる。
生前、数回お目にかかったことがある。大人の服を着ているが、その胸元からはいたずらっ子のような茶目っ気が見え隠れしていて、気づくといつも人の輪の中心に立っている、そんな人柄が作風とピッタリ重なりあっていた。子どもが得意とする「不思議を面白がる精神」を曇らせることなく生涯持ち続けていた、ダイナモのようなデザイナーだった。
それに筋金入りのアナログ派だったこともほほ笑ましい。PCはもちろん、メールも駄目。JAGDAの会長職についてからは海外から連絡が入る機会も増えたようだが、メールが送れずみんな困っていると聞いたことがある。制作する時に活躍するのは唯一のデジタル機器であるモノクロコピー機。もちろん表現には、デジタルもアナログもなく、あるのはただ表現力だけなのだが、こんな話を聞いてほっとするのはなぜだろう。
いくらデジタルが進歩しても、究極のデジタル能力をもつのは実は人間なのだから、マシンはどこまでいっても人間にはかなわないという人もいる。しかし、イージーミスを犯すのはいつもきまって人間の方であることも事実。このミスを犯すという「能力」。実は創造力の養分となっているのではないだろうか。思い違い、見間違い、見当違いに勘違い、みんなそれぞれにりっぱな養分たちである。福田さんはこうした「ミスを犯す能力」を鋭く磨き上げ、マシンには絶対に作ることのかなわない、人間くさい強い表現を積み上げてきたのだと思う。
ぼくは以前、友人のジュエリーデザイナー2名に紙で作れるジュエリーをデザインしてもらい、誰でも組み立てられるような展開図を付けた「Paper Jewelry Book」(Next Works:2に集録)を作ったことがある。これを見た福田さんが早速、ぼくに葉書をくださった。「ペーパーでジュエリー?これってありえねぇーの面白さがそこにある」というその反応ぶりがとても明快で、この方はほんとうに自分の周波数にシンクロしたものには即座に反応してしまうのだと驚いたことがある。
上2枚のスナップは、以前、佐藤晃一さんが毎日デザイン賞を受賞したお祝いにと、デザイナー有志によって企画された記念ツアーでの一コマ。佐藤さんが小学生時代を過ごしたこの甲府で祝福しようと、はとバスに乗って東京から大勢の友人デザイナーたちがやってきた。題して、初夏の季語を冠した「薫風ツァー」。(命名は安西水丸さん)スナップは祝賀会翌日に向かった昇仙峡での散策風景。渓谷沿いの道に岩穴を見つけると即座に持ち上げてしまい(横で一緒持ち上げているのはイラストレーターの矢吹申彦さん)、「立ち小便禁止」の立て看板を見つけると「立」を隠して「血(?)小便禁止」にしてしまったり(手前で一緒にカメラを向けているのは浅葉克己さん)、この2枚には福田さんらしさがリアルに焼き付けられている。この人の日常はすべてトリックアートで塗りつぶされているのではないのだろうか。そんな凄みさえ感じさせるものがある。
福田さんは大きな仕事を成し遂げたデザイナーとしてだけでなく、寒々しく老け込まないためのとても大切なヒントをたくさんぼくに残してくれた。きっと今ごろは、三途の河原をあちこち寄り道しながら、トリックアートのネタ探しに夢中になっているに違いない。

Above_Vermeer
Christ in the House
of Martha and Mary 1655
Below_Vermeer
Diana and Her Nymphs
1655-1656

2009.1.01

ぼくらは自身がつくりだすさまざまな幻想に囲まれて日々暮らしている。もちろん取り囲んでいるものが実は幻想なんだと考えはじめたら、足下から崩れ落ちてしまうような不安に襲われ、生きている実感はとたんに危ういものになってしまう。しかし時折、強固だった現実感がぐらりと揺らぎ、ほんとうは幻想の中に漂っていたのではないかと考えさせられるような体験をすることがある。
半月ほど前、上野の美術館フェルメール(Vermeer)の現存する全作品36点中、6点をまとめて鑑賞してきた。生まれて初めて対面する生(ナマ)フェルメール。それはこれまでぼくの中に記憶されていた「フェルメールのようなもの」とはまったくの別物だった。
書籍や映像を通じて記憶されているイメージは陽炎のようなものにすぎない。実物は迫力があるとか、圧倒的な実在感だったとか、そういうことではなく、ただ記憶されていたものとは全然別なものだったというシンプルな事実。こんな当たり前なことをあらためて突きつけられると、自分の脳内や心の中にストックされているものは、現存する人間の数と同じく存在する幻想のひとつに過ぎないのではないだろうかという気持ちになってしまう。
フェルメールは小品が多く、その精緻さには誰もが目を奪われるそうだ。しかしぼくにとって印象的だったのはその色あいの美しさであった。とりわけ、上に掲載した大ぶりな作品2点に見られる圧倒的な美しさ!‘天空の破片とも呼ばれた’高価なラピスラズリを原料とする青い絵の具を惜しげもなく使ったために困窮を極めてしまう逸話が、フェルメールの生涯を題材にした映画「真珠の耳飾りの少女」にも紹介されていたが、その美しい色彩に誘われるように、混雑する会場の出口近くで思い直し、人波をかきわけて見直すために再び展示コーナーに戻ってしまったほどだった。光や質感の表現、コントラストと色彩の絶妙な調和など、同時展示されていた他のデルフト・スタイルの画家たちの作品群とは明らかに次元を異にする完成度で、溢れんばかりの才能がキャンバス上に凝着していた。
絵画を完成させるということはほんとうに難しい。描き足りなくても駄目、描き過ぎても駄目、ここしかないという瞬間で静止させてやっと絵画は完成するが、そんな画家の苦心をよそに、当時の絵画作品はインテリアの一部として認識されていたから、壁の色に合わせて勝手に描き変えられたりすることもめずらしくなかったようだ。下の作品「ディアナとニンフたち」も背景が青空に描き変えられたりしていたそうだ。1990年代末に修復され、作画当時の状態に戻されたというから、厳密に言えば原画に限りなく近づけた修復品ということになる。しかし、ヨーロッパの修復技術は深い伝統に支えられ高度な水準を誇っているので、これがほぼ原画であると考えてよいのだろう。
帰り道、銀杏の下の黄色い絨毯を踏みしめながら、ぼくは昔愛読した美術書籍を思い出していた。「絵画教室(traité de la peinture)」と邦題のつけられたその書籍の著者は1898年生まれのフランス人、アルマン・ドゥルーアン(Armand Drouant)。画家、美術評論家、画商、鑑定家、航空将校など多彩な顔をもつ人物である。「絵画は、永遠の《肯定であって、否定》なのだ。…すなわち、いつもふたつの考えをもっていなくてはならない、ひとつをぶちこわすための、もうひとつをという!」なんて含蓄ある警句が全編にちりばめられていて、目次には「美術は神秘なものか」「特質の検討」「画家の材料」「実際的助言」といったコンテンツが並ぶ。特に印象深かったのが「画家の材料」。ここには絵の具を構成する化学的組織や耐光度、耐老化度一覧や使用に際しての実践的な助言も含まれる。つまり若い画学生はここで絵画とは感覚の赴くままに描くものでなく、目指す表現を確実に具現化するため、化学者の目もあわせもたなければならないことを知るのだ。当時ぼくが学んでいた絵画研究所では、キャンバス下地作りの入念な取り組みから始まり、‘物質としてのタブロー(tableau)’との向き合い方を徹底的に叩き込まれた。余談になるが、日本でも人気の高いロシア生まれのアメリカ抽象画家、マーク・ロスコ(Mark Rothko)の謎の自殺の原因は、晩年に手がけた壁画の退色だったのではないかとも囁かれている。画家にとって色彩を操ることは、その命をも左右するほどに重要な命題であるのかもしれない。
もうひとつ印象に残ったことは、フェルメールの作品に付けられた額がどれも素晴らしかったことだ。額と一体化した物質としてのタブローは、高貴な存在感を静かに主張していた。ヨーロッパにはアンティークの額を収集・修復する専門業者がいて、持ち込まれた絵画にふさわしい額を見立て、より完成された美術品として再生することもできるそうだが、「絵画教室」からもそんなヨーロッパの、深々とした絵画や美術品に対する知識や技術力の奥深さが伝わってくる。
その分厚いヨーロッパ美術の中核を担ってきたオランダで生まれたフェルメールという画家は、気の遠くなるような豊潤さを実現する「ビロードの手袋のなかの鉄の手」を持っていたのかもしれない。フェルメールの二作だけの物語画(神話や歴史を題材に描いた作品)といわれる、上の「マルタとマリアの家のキリスト」と「ディアナとニンフたち」。そこに描かれている赤と青、そして黄色の色面を見つめていると、色彩が人に幸福感をもたらすという不思議が、実に350年以上にわたってここには持続されてきたのだと実感することができる。運良くその不思議を享受できたぼくは、この個人的な体験を、幸福感に裏打ちされた完成度の高い、ま新しい幻想として記憶していくことになるだろう。

100Words by Paul Rusch
Kiyosato a Century Project

2008.12.03

ぼくは学校が大嫌いだった。幼稚園は眠くもないのに昼寝を強要されるのが我慢できずに中途で退園。小学校では登校時間になるときまって腹痛がしてしょっちゅう休んでいたから、先生たちからは病弱児童と見なされていた。しかし今日は休んでもいいと親から許可が下りると腹痛はすぐに治ってしまい、後は日がな一日家の周りで遊びまわる。要は学校に行きたくなかっただけなのだ。別に深刻な苛めにあっていたわけでもなく、行けば行ったで楽しく過ごしていたから、変種の登校拒否児だったのかもしれない。ただ女の子は苦手だった。成長の早い大きな女の子には待ち伏せされて意地悪されたこともあったし、中学の担任女性教師からはけっこう理不尽な苛めにあった。たぶん可愛げのない子どもだったのだろう。でも、そんなぼくの学校生活は平均的なものだった。団塊直後の世代で、すし詰めだったけど学級崩壊はなかったし、今のようなギスギスした陰湿な苛めもなかった。あきらかにハンデキャップを背負った児童が各クラスに1〜2名はいたが、彼らを周囲がサポートするのは自然なことだった。
上の写真は以前装幀を担当した記録集「ポール・ラッシュ100の言葉」から抜粋した清里の子供たちのスナップだ。1960年頃、無料で牛乳が配られた時の様子だというから、ぼくも彼らと同年代ということになる。開拓という苦難の歴史を背負う清里だが、彼らが飲んでいるのは地区内にある高地の牧場から届けられた本物の牛乳であろう。羨ましいな。だってぼくらの給食にいつも出されていたのは、あの不味い脱脂粉乳だったから。年数回のお祝いの日に出される揚げパンが最高のご馳走だった。その日はどんなことがあっても登校したものだった。それにしても写真を眺めると、当時の子どもたちは腰が据わっているというか、重心が低いというか、見事な安定感ではないか。確かにみんな貧しかったけど、等しく貧しいという平等感がそこにあった。
そんな学校生活でも拒否反応を起こしたということは、思うに、たまたま出会った同級生たちと同じ空間で一定時間拘束され続けるという状況が、ぼくの気質にとっては容易に受け入れがたいものだったからなのだろう。高校を卒業する頃には、すでに我慢も限界に達していた。社会に順応していく能力は義務教育などを通じた集団生活から築かれてゆくものだが、そのプロセスにおいてぼくは甚だしく社会性に欠け、順応しにくい子どもだったようだ。
ではさぞかしブルーな幼少期なのかというとそんなことはない。十代前半まで一家が借家住まいしていたところは、東京の某企業家が別荘にしていた敷地内にあり、そこには管理者となっている家族とぼくら一家しか住んでいなかったので、思えば住まいの周辺はずいぶんゴージャスな環境だった。今では梅の庭園として、時期ともなれば入園者も集う広大な私有地だ。小山を擁し、芝生や見事な植栽、そして池や秘密の洞窟まであったりし、ここはまさにぼくのワンダーランドだった。オーナー一家は夏場の一時期しか来ないので、近所の子どもたちと一緒にこの敷地内でほんとうにいろんなことをして遊んで過ごすという幸せな借景の幼少期をおくることができた。ここに居を構えたことと、登校を強要しなかった親には今でも深く感謝している。考えようによっては、学校は社会の箱庭みたいなものだけど、狭い世界であることにかわりはない。当時のぼくはワンダーランドから与えられる滋養のおかげで、なんとかその狭い世界の中で心のバランスをとることができたのかもしれない。
長じて自分の気質を分析してみるとアンビバレント(二律背反)な一面が際立っていると思う。あんなに行きたくなかった学校も行ってしまうと別人となる。活動的でリーダーシップをすぐとりたがるような子どもだった。だから教師たちはぼくが登校拒否しているなんて考えもしなかっただろう。勉強熱心だけど病弱な子として記憶されていたはずだ。
この生来の気質は今も変わることはない。社会人となってからもずっとこのアンビバレントな両極を振り子のように行き来しながら生きてきたような気がする。振り幅が大きい時ほど中間点を強く意識する知恵も身に付けた。あんなにいやだった学校から開放され、自分の意思による人間関係を築きながら、時間や空間を自由選択できるようになっても、結局この気質が変わることはなかった。
この歳まで振り子を繰り返す中からやっと少しづつわかってきたことがある。人生は必然と偶然の糸が複雑に絡み合いとぐろを巻いているようなものなのだから、時に応じてどちらにも振れていける幅が人には必要なんだと思う。思うようにならない事実を吸い取ってくれる「良い加減」の幅である。無駄や遠回りも、意味あるものとするのはそのあとの生き方次第。ならば無駄なものなんてひとつも存在しないことになる。人は笑顔のあふれる中で泣きながらこの世に生まれ出る、そして泣きながら見送られる時には笑いながらこの世から去るのだ、かくのごとく生きるべしとは古いチベット仏教の教えだそうだが、この世に生のある限り、学校を出ても次々と別な学校(分校?)が立ち現われてきて、卒業することなんて叶わない。笑いながらこの世から去るためには、結局人は自分の気質と折り合いをつけながら学び続けるしかないようだ。だから大嫌いだったあの頃の学校も、やはりあの時代のぼくだけの学校だったのだ、と今では考えている。

Brochure: The Plaza
at Central Park, New York

2008.11.01

H氏がこの夏亡くなったと立ち話していた知り合いから突然告げられた。重い病と闘っていたことは知っていたが、半年前に会った時には元気そうだったし、まだ60半ば。どうして?と戸惑う気持ちが先にたつ。
H氏は8年ほど前、ヘッドハンティングされてある施設を託されることになり、東京から赴任先の甲府にやってきた。知人の紹介で引き合わされ、ぼくがその施設の一連のデザインを担当することになってから、H氏との付き合いがはじまった。
京都の呉服屋さんで生を受け、長じてホテル業界に入りキャリアを積んだというH氏だが、特にニューヨークのセントラルパークにある老舗ホテル「The Plaza」での勤務経験によって仕事に対する姿勢が方向づけられたのだと聞かされた。仕事で見せる粘り強いこだわりと感性は、京都人気質とこのThe Plazaでの体験がブレンドされて形成されたものだろう。出会いから3、4年、ぼくらは互いを尊重しあいながら仕事を通じて信頼関係を築いていったが、諸事情によりその施設が閉鎖されることになり、会う機会もなくなってしまった。その後H氏から(今年サミット会場にもなった)洞爺湖のザ・ウィンザーホテルの副支配人として北海道に単身赴任することになったという知らせが届いたが、ほどなく彼の地で発病という事態となってしまったようだ。そして1年ほど前には、奥さんの実家がある山梨に戻って療養しているらしいと人づてに聞かされていた。
そのH氏からある日突然メールが送られてきた。それは名刺のデザイン依頼だった。療養しながら短期大学でホスピタリティについて授業を受け持つ講師として活動していることに触れ、ともすれば沈みがちな自分の気持ちを前向きに変えたいと名刺をつくることを思い立ったと記されていた。お役に立てるのなら、こんなデザイナー冥利に尽きることはない。数日後H氏は打ち合わせのために奥さんを伴ってボスコにやってきた。赤いマフラーに上質なファーフェルト帽。久しぶりの再会で、いつものダンディなH氏だったことがうれしかった。急いでぼくはデザインにとりかかり、仕上がった名刺の出来栄えにH氏はとても喜んでくれたそうだ。うれしそうに会う人ごとに渡していますよと納品後奥さんが電話で伝えてくれた。別れ際「どうしてこんな病気になってしまったのかと悩んだりもしたけれど、それは考えてみても仕方ないんですよね」と少し淋しそうに微笑んでいたのが印象的だった。そして結局これが今生の最後となってしまった。そのわずか数ヶ月後、使いきることなく残されてしまった名刺の束とH氏の記憶…。
そんなことがあってからしばらくしたある朝、新聞を広げると地方面の「在りし日をしのんで」というコラムに見覚えのある顔が載っていた。享年55歳。「美容院の長男として生まれた。中学からギターを始め、高校を卒業後は上京し、プロに。左利きのベース奏者としてジャズなどの舞台に立った。無口で穏やかで誠実な性格が愛された。母の身を案じながら若くして病で逝った。」と書かれていた。
思い出した。ぼくがミュージシャンのまねごとをしていた頃、バンドで一緒に何度か演奏したことのあるあのアッチャンだ。ぼくより年下だった彼は、いつも片隅に腰掛けてニコニコとほほ笑みながらみんなの話しを静かに聞いていた。でもベースの腕は確かだった。そうか、ずっと音楽してたんだ。偉いなアッチャンは。感心してみても、その彼はこの世にはもういない。
かかわりの濃淡にかかわらず、こうした事実はぼくの中に堆積していく。そしてそれは確実に増えていくのだ。生をのばしていくごとに、折り重なり厚みを増すぼくだけの記憶の大地となっていく。

Above_TALKINGHEADS
Remain in light
WPCP-3623
Below_BRIAN ENO
Another day on earth
BRC-128

2008.10.02

触覚的な音楽というものがもしあるとしたら、そんな音楽を作り出すミュージシャンの筆頭に、ぼくは迷いなくブライアン・イーノ(Brian Eno)をあげるだろう。
イギリス生まれのイーノは環境音楽の先駆者として知られている。美術学校在籍中に音楽活動を開始し、ロキシー・ミュージック(RoxyMusic)に加入。2枚のアルバム制作に参加した後、脱退。それから次第に前衛的な現代音楽に傾倒していったイーノは、1978年にアンビエント・ミュージックの記念碑的作品『ミュージック・フォー・エアポーツ(Music For Airports)』を発表する。以降、ハロルド・バッド(Harold Budd)やジョン・ハッセル( John Hassell)らとともに共作や発表を精力的に重ね、環境音楽というジャンルを確立させていく。
「…エアポーツ」はもちろん、「オン・ランド」(Ambient 4: On Land)、ハロルド・バッドとの共作、「パール」(The Pearl)や「鏡面界」(The Plateaux of Mirror)、そしてジョン・ハッセルとの共作「第四世界の鼓動」(Possible Musics)などは繰り返し何度も聴いてきた。イーノのつくりだしてきた環境音楽は素晴らしいと思う。でも彼のルーツはそんな抑制された静的世界にあるのではなく、ラジカルなグルーブ感(groove)が渦巻く、もっと荒々しく官能的な世界に深々と根ざしているのではないかとずっと感じている。
それは1980年に発表されたトーキング・ヘッズ(Talking Heads)の「リメイン・イン・ライト(Remain In Light)」を聴いてみるとよくわかる。当時トーキング・ヘッズはアメリカン・パンクロック・シーンで活躍していたバンドだったが、イーノはこのアルバムにプロデューサーとして参加している。だからこれはイーノのアルバムではない。でもそこで飛び跳ねている音はまさしくイーノの子共たちに違いなく、ヘッズの面々はまるでイーノの奏でる楽器のようだ。デヴィッド・バーン(David Byrne)という類いまれな才能をもったミュージシャンに牽引されてトーキング・ヘッズはステキな作品を数多く残しているが、そのどれもこのアルバムだけは超えられなかった。発表されてから30年近く経っても全く色褪せていない。これは掛け値なしの傑作ロックアルバムだと思う。
冒頭曲「Born under punches」から、ビシビシと鞭で打たれながらゆったりとメコン川の流れに身を委ねているような、相反した不思議な快感に捕われる。それはセーヌ川でもないし、利根川でもない。なぜか行ったこともないけどメコン川に違いないと思い込ませるようなアジアの香りを遠景に漂わせている。
このアルバムはアフリカンビートをロックに大胆に取り入れたと評価されているが、(YouTubeに投稿されている演奏「イタリアLive」はこのコメントを彷彿とさせる)何と言っても特徴的なのは全編を貫く触覚的なグルーブ感だ。聴いているとまるで脳内にマドラーを差し込まれ攪拌されているような気がしてくる。これはタイトで強靱なうねりのもたらす脳内快感だ。
イーノの最新作「Another Day on Earth」にもそれは継承されている。「Remain In Light」の続編のような冒頭曲「This」から2曲目「And Then So Clear」にかけては、これまたプチプチと官能的な泡立つ音が全方向から流れ込んでくる。ファズのかかったイーノのヴォーカルもすこぶるセクシー。このアルバムは、ある日、中沢新一さんが「これいいよ」とプレゼントしてくれたもので、イーノは久しく聴いてなかったから突然懐かしい友と出会ったみたいな気持ちになり、相変わらずのグルーブ感に何だかうれしくなってしまった。
ところで、イーノに限らず美術学校に通っていたというミュージシャンはなぜかとても多い。ジョン・レノン(John Lennon)を筆頭に挙げたらきりがない。音楽家も画家も窓のついている場所が少し違うだけで、住んでいるのは案外同じ部屋だったりして…。逆さまにしてこんな風に考えてみることはできないだろうか。よく若者が人生を賭けるに値するものになかなか出会えず悩んでいるなんて話を聞くと、とりあえず足下の大地を掘ってみたらいいのにと思う。大事なことはただひとつ、掘り続けること。井戸なんてどこから掘ってもいいのだし、たまたま立っていたからここだった、でまったく構わないと思う。掘り進めなくなったら別な場所からまたはじめるだけ。そして幸運にも地下の水脈にまで抜けることができたら、そこはあらゆる他の世界の井戸に繋がっている普遍の水脈なのだから、なーんだ、どこからはじめてもよかったんだとしみじみと腑に落ちるに違いない。(ぼくはまだまだ道半ばではあるけれど)イーノの音楽を聴いていると、ぼくはいつもこの井戸のことを思い浮かべてしまう。

Above_Invitation Card(Detail)
Below_Appel Antinucleaire Par
Affiches Telecopies (Detail)
©1995 Marc Pataut

2008.9.02

グラフィックデザイナー、U.G.サトーさんの展覧会が八ケ岳南麓の大泉にあるダイヤモンド八ケ岳美術館ソサエティで開かれていた。3月から8月までと会期も長く、近場だからいつでも行けると高を括っていたらもう会期の終了間際となってしまい、慌てて会場に向かう。展覧会のタイトルは洞爺湖サミットにひっかけた、エコ・ピース・エロスをテーマにした「U.G.サトーのユーモア・サミット」。ポスター、版画、絵本から立体まで、これほどまとまったU.G.サトーさんの作品を見る機会はこれまでなかったので、この日は心ゆくまでU.G.Worldを満喫することができた。
U.G.サトーさんは各国のポスター展で多くの金賞を受賞し、海外での評価も高いアーティストとして知られているが、それは作品のもつ普遍性と伝達力の強さの証明でもある。どの作品にも、明快でプリミティブな力強さと人懐こいユーモアが湛えられている。ほとんどの作品には自身のイラストが使われているが、どの作品もグラフィックとイラストレーションは見事に一体化し、昇華されて、U.G.サトーさんならではの魅力の源泉となっている。
作風は福田繁雄さんやエッシャーなどが得意とするトリックアート(騙し絵)の系譜に連なるが、ぼくはむしろ、1940年代から活躍したフランスのポスター作家、レーモン・サヴィニャック(Raymond Savignac)により近いものを強く感じてしまう。つまり、持って生まれた癖のようなものまで、むき出しにして表現力に変えてしまう才能のことである。メッセージがユーモアに包まれて差し出された時、それはさらに力強いものとなる。ユーモアは人間への深い愛情に根ざしているし、同時に倫理の幹にも支えられている。だからユーモアは万国共通の伝達言語なのだ。伝達をするのもされるのも人間同士。ユーモアが肉声に近いほど、より強く人の心は揺り動かされていくことになる。
また、U.G.サトーさんは常に行動するデザイナーでもある。1995年から翌年にかけてU.G.サトーさんらが中心となって反核FAXポスターアピールを行なったことはまだ記憶に新しい。デザイナーらに核実験への抗議ポスター制作を呼びかけたのだ。短期間のうちに用意する必要があったため、作品はFAXしてもらい、それらを引き伸ばして迫力ある白黒ポスターにしたので、結果的に集結した作品は贅肉が削ぎ落とされシャープなメッセージがこめられたものとなった。こうして集められた反戦ポスターは、国内はもとより、中国では展示、フランスでは展示に加えポスターデモ行進へと展開されていった。グラフィックの抗議…、その有効性と限界性を冷静に認識しつつも、生の根源を脅かすものへの抗議の意志と声をデザイナーがあげたという事実は記憶されるべきだし、おそらくポスターというメディアの原点はここにあるのだと思う。これは行動するデザイナーとしての面目躍如たる印象深い出来事だった。(上のモノクロ写真は、当時フランスの行なった南太平洋核実験への抗議行動として、パリ・レピューブリック広場からバスティーユ広場へポスターデモ行進した際に参加者が掲げたU.G.サトーさんの作品である)
U.G.サトーさんには個人的な思い出もある。90年代前半、クライアントである昇仙峡の菅原屋さんから、自然と栗鼠と胡桃をテーマにモニュメントが欲しいのだがと相談された時、まっさきにぼくが思い浮かべたのが、U.G.サトーさんの動物のシルエットをテーマにした立体作品だった。その後、快く依頼を引き受けてくださったU.G.サトーさんが作りあげたのは、ふたつに割った胡桃にそれぞれ栗鼠が納まる「対栗鼠(むかいりす)」という陶器の作品だった。「リスはクルミをコノミ クルミはリスをクルミ クルミからリスはうまれる リスはクルミをわり クルミのミを ミルクとしてそだつ リスとクルミのかんけいは クルクルとわのようだ」という作者のコメントにも、発想のベースとなっている先取りされたエコロジカルな循環思想が読み取れる。(モニュメントは今でも菅原屋店舗前で見学可能)
除幕式に出席するためU.G.サトーさんは奥さんを伴って来県し、昇仙峡を散策した後、ボスコにまで足を伸ばしてくださった。生まれてまもない息子さんの木(もく)くんを背負って、道すがら可愛くてしかたがないといったU.G.サトーさんの様子が、60過ぎて孫のような子どもを授かったアラン・ドロンの喜びようを彷彿とさせて、とてもほほ笑ましかった。(長男のダイノ サトウさんはアニメーション作家として活躍中)お土産にいただいたオリジナルデザインの壁掛け時計はいまだに自宅で時を刻んでくれている。
飾らないその人柄には多くの人々が惹かれているが、時折垣間見せる童心の背後には、大陸的な記憶が存在しているように思えてならない。いや、それはさらにスケールの大きい環太平洋規模の世界に根ざすDNAなのかもしれない。そう考えると、どことなく日本人離れしたその風貌だって、(もちろんぼくの勝手な想像にすぎないのだが)アメリカインディアンの賢者やインカ帝国の司祭のようにも見えてくるのである。ぼくにとってU.G.サトーさんは、ずっと万国共通語を巧みに操る大きなグラフィックデザイナーとして存在し続けている。