COMME des GARÇONS
SHIRT

2009.8.02

その時自分がどうしてそんな行動をとってしまったのか、後で思い返してもよくわからない、そんな経験をぼく(ぼくら?)は時々することがある。ずいぶん昔に出版されたビートたけしの「みんな自分がわからない」という啓発本がある。内容的にはあまり共感できる代物ではなかったが、このタイトルだけはたしかに真理を突いていた。
日常ぼくらの行動を制御している「意識」は、いわば周囲の風景を写しだす水面のようなもので、実はその下には底知れぬ深さを湛えた「無意識」と呼ばれる領域が潜んでいる。オーストリアの精神分析学者、ジークムント・フロイト(Sigmund Freud)は夢を研究する過程でこの「無意識」を発見したと言われているが、「無意識」とはその名の通り、心のなかの「意識でない」領域を示す。もっと簡単に言うと、「無意識」は「意識」よりも大きな存在で人間の行動のほとんどはこの「無意識」の欲望がもとになっている。しかも人間はこの「無意識」を自覚することはできない。つまり自分のなかの知らない自分、それが「無意識」というわけだ。
冒険という言葉が死語となってしまった感もあるほど、ほぼ世界中のどんな地域にも移動できる手段を今や人間は手にしている。しかし自身のなかには、いまだ解明されない膨大な未開の大陸が残されたままというのは何とも皮肉な話である。その大陸の奥深くでは片時も休むことなく、常識や社会のルールなどに拘束されることのない野生が荒々しくうごめき、さらにその奥に穿たれた穴は自然そのものと直結しているのかもしれない。宮沢賢治「春と修羅」の「序」で語り出されているあの有名な一節「わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です (あらゆる透明な幽霊の複合体)…以下略)の透明な幽霊たちは、おそらくこの「無意識」の大陸を住み処としているに違いない。
ところで数年前、ぼくは青山にあるコム・デ・ギャルソンのショップでヴィクトル・ヴァザルリ(Victor Vasarely)の抽象画を連想させる、うねるドッツパターンのシャツを購入した。ジッパーが2本あってなかなかにアヴァンギャルドなこのシャツは、その後袖を通す機会もなくクローゼットのなかで眠ることになる。また衝動買いをしてしまったなと軽く反省しつつずっと封印したまま過ごしてきたが、この初夏のある催しに出かける際に「そうだ、これを着ていこう!」と思い立った。
その催しとは多摩美術大学IAA(芸術人類学研究所)が主催するシンポジウム「アール・イマキュレ—希望の原理—」と同時開催の展覧会。IAAは数年前からダウン症の人たちのためのプライベート・アトリエとして活動していたアトリエ・エレマン・プレザンと協働して、ダウン症の人たちがつくりだす芸術作品を通じて、彼らの感性と心のあり方を考察し、そしてサポートする活動を継続してきた。初回のシンポジウムは2007年に東京都現代美術館で、そして今年はIAAの新たな活動拠点となった四谷CCAAアートプラザで2回目となる展覧会とシンポジウムが開催されることになったのだ。ぼくはこのダウンズ・タウン・プロジェクトと名付けられた活動の立ち上げ段階から、IAA所長である中沢新一さんに誘われてデザイナーとしてかかわってきた。今回もフライヤーとブックレットのデザインを担当していた経緯もあったので、前回出席できなかったシンポジウムを今度こそ見学してみようと、クローゼットに眠る草間弥生の作品みたいなシャツを着込んで出かけて行くことにした。
蒸し暑い曇り空の下、大勢の人々が会場となった四谷ひろばに集っていた。それまで仕事を通じてダウン症の人たちの作品には数多く触れていたつもりだったが、その日初めて原画と対面して驚いた。天真爛漫な児童画に近いものではという予想に反して、その技法は相当に本格的なものだった。美術の専門教育などとは無縁の彼らは一体どこでこの技法を体得したのだろうか。アトリエはできるかぎり自由な創作の場を提供することに心を砕き、表現に介入することは極力避けているそうだから、これは「この世に出現した」としかいいようのない現象といえるだろう。特に多くの人々が一様に賛嘆する色彩感覚はほんとうに素晴らしい。言葉にならない彼らの言葉が彩りをまとって深く、強く心に滲み入ってくる。シンポジウムで、まず壇上に上がったアトリエ・エレマン・プレザン東京代表の佐藤よし子さんは、ご両親が三重で始めたこの活動に幼少期から寄り添い、もっとも濃密にダウン症の彼らと日常的に触れ合ってきた人である。いつものおっとりとした口調でアトリエの活動を来場者たちに丁寧に伝える姿は、何か守護する女神を連想させた。
伝統的な訓練を受けることもなく、既成概念にとらわれることのない作品は一般的にアウトサーダーアートと呼ばれる。この呼び名はジャン・デュ・ビュッフェの提唱したアール・ブリュット(Art Brut=生の芸術)を英訳したものだが、ダウン症の人たちの作品はアール・ブリュットの表現とその境を接してはいるものの何かが決定的に異なるのではないかという観点から、IAAとエレマン・プレザンはそれをアール・イマキュレ(Art Immaculé=無垢の芸術)と命名した。
「アール・ブリュット」と「アール・イマキュレ」。
当日の講演では出演者の臨床心理学者、河合俊雄さんと本展のキュレーター、長谷川祐子さんが、このふたつの特性の違いについてそれぞれの専門領域から興味深い考察をされていた。
そして最後に引き継いだ中沢新一さんがさらに鋭くフォーカスして特質の相違点を明快に来場者に差し出してくれた。冒頭、中沢さんはアール・イマキュレにはほとんどみられることのないアール・ブリュットの特質のひとつに「目」の存在をあげた。平面的に形成されている現実の世界に穿たれた穴(または空洞)は隠れた心の本質を表している。「外側に表われている自分だけが自分なのではないという心の叫び」「自分の心が平面化(あるいは平準化)されてしまうことへの抵抗感や攻撃性が「目」の表現を通じて伝わってくる。配付資料には「アール・ブリュット」の特徴的な作品がピックアップされている。例えば「目」で描かれたマンダラのようなアドルフ・ヴェルフリの作品や、伊藤若冲の「動植綵絵 薔薇小禽図」(中沢さんはここに描かれているおびただしい薔薇の花は「目」にほかならないと指摘している)を見ると、反復される平準化に抵抗する心の叫びがひしひしと伝わってくる。
そして会場でこの配付資料を眺めながら、ぼくはやっと思い当たるのだった。コム・デ・ギャルソンのショップで出会った反復する「目」のドッツデザインは、実はその時ぼくの「無意識」が欲望していた形でもあったのだ。こうして数年も経てから、もう一人の自分に出会うこともある。
では「アール・イマキュレ」にしかみられない特質とは?
「イマキュレ=無垢」という言葉は宗教語に由来するそうだが、もうひとつ「アール・アンジェリック=天使的な芸術)」という候補名があったことでも明らかなように、ほとんど「目」を描くことはないダウン症の人たちは、その作品の中に明るい光ややわらかいベールで包まれたような不思議な空間をつくりだす。天使という概念はあらゆる中間的なものの象徴だ。人間でもなく神でもなく、この世でもなくあの世でもない。静止したり固定することもなく、途切れることなく絶えず微細な振動を続ける中間的な空間。
中沢さんたちはここに人類の未来のビジョンを描くうえでの大きな手がかりを感じとっている。当日配布されたブックレットのforewordの文末でこのように記している。「…それから2年、ぼくたちは少しだけ、着実に前に進んだ。アール・イマキュレを現実世界に投げ込んで、その中にあっても変質することのない、ほんものの強さを持続させるにはどうしたらよいのか、現代でも無垢であることは希望をともす原理の燈台であり続けることができるのか。ぼくたちは試行錯誤しながら手さぐりでその答えを探し出そうとしてきた。そういう探求を続けているうちに、ぼくたちは知らない間に、自分たちが少しだけ前進していることに気がついた、アール・イマキュレは幻想ではない。それは現実世界の中で、生き抜いていく力と希望の源泉のひとつであることを、ぼくたちはあらためて見出しつつある。」
ぼくは今回のフライヤー・カバーに(そしてこの催しのシンボリックなイメージとして)1点の絵画作品を選んだ。「佐久間さん」(モデルとなった佐久間さんは佐藤よし子さんのパートナーで彼女とともにアトリエの運営にたずさわっている)というタイトルのつけられたこの作品の作者は岡田伸次さんという27歳になるダウン症の若者。シンポジウムが終了した後、関係者の一人がぼくを彼に引き合わせてくれた。初対面のぼくらは向き合ってまずハイタッチ。そしてすぐに彼はぼくに抱きついてきた。ちいちゃくて柔らかい小動物を連想させるそのコロコロとした感触には、攻撃性や防御しようとする意識がまったくといっていいほど感じられない。抱擁する数秒間、ノーガードの開放感を通じて剥き出しの状態で流れ込んでくる彼の「無意識」を、その時ぼくは驚きとともに一心に受け止めていた。

Top:Yoshinobu Tokugawa
Middle: Mother with two children - standing.
19th century
Below: Garment manufacturer.
19th century

2009.7.02

完璧な引きこもりと言っていいほど毎日ぼくは仕事場にこもりっきっている。そうしないと仕事がなかなか片づいてくれないこともあるのだが、実は‘チョー’がつくほど出不精な性分によるところが多い。
しかし一区切りついて気が向くと、時折知り合いの写真屋さんまで出かけていくことがある。仕事柄の古いおつきあい。ところが、労働環境のデジタル化以降めっきりお金にならない客になってしまった。でもそんな気まぐれな突然の来訪者でも、いやな顔ひとつせず迎え入れてくれる。ぼくにとってここはいつだって峠茶屋のようなオアシスなのである。
「戸を開けると星が見える」という、何ともロマンチックで珍しい姓の店主、戸星さんと弟さんの二人が先代から引き継いだこのお店は当地で唯一ライカ(Leica)の買える専門店だ。多くのカメラ好きに愛され続け、晴れて昨年、水澤工務店施工によるギャラリー併設の新築ショップ[栄光堂]を完成させて新たな一歩を踏み出した。ショップと同時に開始されたブログからその熱中ぶりが伝わってくるように、戸星さんは最近菜園作りにはまっているらしい。新鮮な野菜を収穫すると、早朝わが家まで回り道して、そっと玄関脇に置いていってくれたりするので二重に癒されている。
さて、写真が日本に渡来した1848年からおよそ40年後、徳川最後の将軍、慶喜が明治のアマチュア・カメラマンとして写真に夢中になったことはよく知られている。最上段は、明治20年頃の狩猟姿の徳川慶喜のポートレートだが(茨城県立美術館蔵)激動の前半生と較べると、何とも道楽人生のゆるゆるモードに包まれているではないか。戦後しばらく、カメラは小さな家が一軒買えるほどの贅沢品だったそうだ。だから当時写真を撮るのは羽振りのいい旅館のご主人やお金持ちの道楽家に限られていて、写真が残されること自体、特別なことだったのだ。そんな時代のことを茶飲み話で戸星さんは楽しそうに教えてくれる。一回りほど年長の戸星さんと交わすとりとめもないそんな会話は、仕事で加熱した頭をそっとクールダウンしてくれる。思えばぼくは昔から、年上の親父さんがとても好きだった。小学生の時分、学校から帰るとすぐさま近所の銭湯に出かけては高い椅子によじ登り、番台の親父さんと向き合って将棋ばかりしていたことを思い出す。
ある日、戸星さんはふとぼくに「どうして写真を撮らないの?」と聞いてきた。そうだ、ぼくはどうして写真を撮ってこなかったのだろう。そんなこと改めて考えてみることもなかった。もちろん仕事で必要な撮影を自分ですることもあるし、グラフィックデザイナーという職業上、写真には日常的に接しているのに、(表現としての)“写真を撮る”ことをこれまで意識したことは一度もなかった。今でこそシャッターを押せば、後は至れり尽くせりのおまかせ機能がフォローしてくれて、それなりにきれいに撮影することができるが、やはりきちんとした写真を撮るためには、露出やライティング、色補正やアングル、ピントといった基本的な修練が求められる。これらは至極理論的な道理に基づく修練で、実はぼくはこれをかなり苦手とする。1、2の次に3を飛ばして4にいってしまいたくなる。早い話が面倒くさいのだ。若い頃は森山大道中平卓馬アラーキ篠山紀信といった写真家の作品に触れる機会はあったけど、ついに心揺さぶられることはなかった。最近話題となっている写真家の作品も知らないわけではないけど、センサーが一向に反応してくれない。
ただ10年ほど前、何度か行動を共にする機会のあった写真家・港千尋さんの装幀を担当したことを機に、あまり足を運んだことのない写真展をのぞいてみたり、港さんの著書を通じてそれまで無縁だった写真世界のことを少しだけ垣間見ることになる。なかでもアンリ・カルティエ=ブレッソン(Henri Cartier-Bresson)の仕事はとても興味深かった。トリミングの手法で写真から宿命的に発生してしまう物語性をはぎ取り、意味を宙づりにしてしまうという発明はブレッソンならではのものである。また、アンセル・アダムス(Ansel Adams)の風景写真のように、おそろしく高密度で精緻に凝着したディティールを前にすると、モノとしての写真の存在感に圧倒されてしまう。これは絵画では決して再現しえない写真ならではの真骨頂であろう。庭園美術館で見たメイプルソープ (Robert Mapplethorpe)のシルバープリントからも、古典的ともいえる写真表現の底力がひしひしと伝わってきた。長きにわたって絵画に課せられていたひとつの呪縛、つまり現実を写し取るという呪縛が、写真の発明によって解き放たれたことは間違いない。解放された絵画は、そこから精神性の奥深くまでダイビングしていく近代絵画史の旅を開始した。では、写真における精神性の旅はどこに向かっていったのか。
ぼくは、マン・レイ(Man Ray)のような絵画表現に近い実験的な試みに心踊ることもなく、デジタル技術を駆使した挑戦的な試みにもあまり関心がない。唯一魅かれるのは古い写真である。もちろんさっき撮った写真だって古い写真だ。写真はいつだって過去の記憶の1葉にすぎない。だから古い写真とは古いだけでない、そういった意味での記憶の1葉を示している。再現性のクオリティや作品としての完成度はあまり関係ない。ただ映っていればいい。それらはブレッソンのはぎ取った物語性がしっかりと沈殿しているものばかりだが、どれもこれもがどこか物悲しい。ぼくはこれが写真の本質なのではないかと密かに思っている。日常という大地を彷徨う風のようにさまざまな生はとらえどころなく、不確かでリニアなものだ。しかし写真はその流れを一瞬だけせき止めて、生を封印してみせる。ロラン・バルト(Roland Barthes)は、写真は死を写すメディアであると言ったそうだが、シャッターが押された瞬間、そこに定着された被写体に死の影が帯びることは避けられない。死に向かう「真」を「写」しとる写真という媒体。未開の人々や初めてレンズを向けられた日本人は、魂が抜き取られてしまうと抵抗感を示したそうだが、おそらくその時彼らが直感したものはこの死の影だったのではないだろうか。戦後生まれのぼくには誕生当時の写真が残されていない。初めて撮られたという3〜4歳頃の写真を眺めると、べそをかいてそれはひどい顔をしている。今でもぼんやりとその時の恐怖感が残っているほどだ。いったいぼくは何に怯えていたのだろう。上の写真は19世紀のイタリアで撮影されたスナップである。何の変哲もないただの昔のスナップ。もちろんここに映っている人々はもう誰も生きていない。だから悲しげなのではなく、生を封印する写真というメディアの本質そのものが物悲しいのだ、と眺める度にぼくは考えてしまう。

Top: Bachman's Pinewood Finch
Middle: Black-cap Titmouse
Below: Western Blue bird
by John James Audubon

2009.6.02

ジョン・ジェイムス・オーデュボン(John James Audubon)は北アメリカの鳥類研究家、そして画家である。1838年に発表した画集『アメリカの鳥類(Birds of America)』で広く知られるようになった。ぼくは写実的な鳥の絵をネットで探していて、遅まきながらこのオーデュボンという画家の存在を知ったのだった。
動植物を描く作家は古今東西ほぼ例外なく、その対象物に対して深い愛情を示す。描くことに情熱を注ぎ続けるのは、いわばその愛情のひとつの証なのだろうが、オーデュボンも筋金入りの「鳥を愛した男」だった。絵を見ればそれはよくわかる。この画集では一羽一羽がほぼ原寸大で描かれている。それまでごく一般的だった標本を元に描くという手法をとらず、実際に野鳥を観察しながら原寸で描いたのは、鳥たち固有の生命そのものを捉えたいと願った彼にとってはごく自然な行為だったと思われる。
オーデュボンは西インド諸島のサント・ドミンゴ島(元ハイチ)生まれ。フランス人の母親との死別後、フランス人船長オーデュボンの養子となり、7歳でフランスに渡って画家ダビットに絵画の手ほどきを受ける。そして18歳でアメリカに移り住み、27歳で市民権を取得するも、その後商売に挫折したりして経済的苦難に見舞われる。しかし自らの才能を信じ、鳥を観察しながら絵を描き続ける日々を送っていた。そうしてようやくまとめた画集だが、アメリカでは出版元は見つからず、イギリスに渡った末に実現されたのだという。だからアメリカの鳥類画家といわれても、経歴からはかなり屈折した過去を背負った人物であることがわかってくる。
見るという行為は幾重にも意味を内包している。観察、感受、想像、思考などなど。煎じ詰めれば、見ることはこの世界の在りようを知ろうと希求することにほかならない。そしてそこに出現する世界の不思議を目撃したいと願う祈りの行為でもあるのだと思う。
我が国にもかつて奄美の亜熱帯景観を祈るように凝視し続けた田中一村という孤高の花鳥画家がいた。東京美術学校の同期生、東山魁夷を嫉妬させるほどの画才をしめした一村だが、狷介孤高の性格もあって、理解者を得ることもなくその後の人生は不遇なものだった。晩年、「絵かきは、絵筆1本、飄然として旅に出るようでなければいけません」(NHK出版刊行・田中一村作品集・4頁より引用)と列島を南下して奄美に移り住み、紬織り染色工の職を得て最後の画業に専念することになる。そこで亜熱帯の植物群という天命のようなモチーフと出会い、極貧生活の中で黙々と描き上げられた名作は、粗末なトタン葺きのアトリエに人知れず残されていった。69歳で誰に看取られることもなく生涯を閉じた一村もまた見る人であった。もちろん、画家は誰だって見る人に違いないのだが、オーデュボンや一村の見るという行為には、なにかしら過剰なものが含まれているような気がしてならない。そしてその過剰さが、彼らの絵を簡単には忘れられないものにしている。
ところで鳥といえば、ぼくの仕事場は鳥獣保護指定地区内にあるので、春ともなるとたくさんの鳥たちが飛び交い、可愛らしい鳴き声で住民たちを楽しませてくれる。鳥類に疎いぼくはどんな鳥が鳴いているのかさっぱりわからないけれど、鳴き声が届く瞬間、柔らかいネットで鳥たちとともに包み込まれるような幸福な自然との一体感を感じとることができる。ウグイスの「ホーホケキョー」などは絵に描いたような「ホーホケキョー」なので思わず笑ってしまうけれど、鋭く空に解き放たれる澄んだ声の潔さには、何度聞いても惚れ惚れとしてしまう。
これってけっこう贅沢なことなのかもしれない。音楽だってなかなか簡単にこんな気持ちにはしてくれない。いろんな幸福の形があるのだろうが、こうした自然との一体感は生命体に共通する、かなり原型に近い幸福感なのではないだろうか。この感覚を強く実感したことがある。10歳頃の思い出だ。自宅近くにある松林には直径数メートルもある巨石がゴロゴロ転がっていて、猿のような身のこなしで岩から岩に飛び移る快感の虜となったぼくの格好の遊び場となっていた。冷静に考えたらかなり危険な行為で、ひとつ間違えると大怪我をしかねない。しかし今思いおこしても不思議なくらい、その時のぼくは絶対の自信に支えられていた。すべての岩の形状や位置は頭の中に正確にインプットされ、意のままに身体をコントロールすることだってできる。飛び移る瞬間に身体の奥から生命力が溢れるようにわき上がってくる、そんな幸福な一体感を飽きもせず繰り返し味わっていた。ぼくの人生における生命力のピークが、あの時だったことは間違いない。ぼくは思うのだが、鳥をはじめとする動物たちは、ぼくらよりはるかに密接に自然に溶け込み、その生命力を謳歌しながら幸福感を彼らの生の糧としているのにちがいない。
中沢新一さんの新刊『鳥の仏教』には、宝石のような美しい仏教経典『鳥のダルマのすばらしい花環』の翻訳がおさめられている。そして巻末に添えられたテキスト『今日のアミニズム』ではこれから世界が必要とする、経典のもつ重要性が深々と語り出されている。そこにこんな一節がある。「人間は自分たちの世界のことばかり考えているのではなく、正しい生き方を知りたいのなら、空の鳥たちに学ばなければならない、とイエスは言った。その鳥たちをブッダは苦しみを生む生存の条件から解き放とうとした。地球上にあって、人類と鳥類は「ひとつの心」を共有しあっている。そして変わっていかなければならないのは、進化の過程でみごとな完成をとげた鳥たちではなく、心に大きな自由領域をあたえられながら、いまだに未完成な、いやこれからも未完成なままの、わたしたち人間のほうなのだ。」(新潮社刊「鳥の仏教」122頁より抜粋)
超然とした鳥の存在感を強く感じた経験もある。ある小雨降りしきる遅い午後、仕事の手を休めて仕事場の入り口付近を歩いていたら、ガラスのドア越しに一羽のカラスが目にとまった。およそ20mほど目先にあるやや傾きかけた高い電柱のてっぺんにとまり、彼はじっと眼下に広がる盆地の街並みを眺めているように(ぼくには)見えた。小雨に打たれながら身じろぎもせず、カラスはじっと動く様子もない。なんだか敬虔な気持ちになって、ぼくもそのままじっとカラスを見つめ続けた。どのくらい眺めていたのだろう。「お前たち、馬鹿なことばかり毎日しているなあ」とカラスの呟きが聞こえたような気がして、ちょっと小さくなってしまったぼくはそっと視線を外す。鳥は人間なんかよりはるかに達観しているんじゃないかとその時思った。だから「鳥の仏教」の一節に今ぼくは深く共感することができる。そして、のびやかに飛翔する完成をとげた美しい生命体に囲まれて、飽きもせずぼくは今日も不完全きわまりない試行錯誤に明け暮れている。

Above_
Shincho-Bunko
Below_
i-Pod tuch

2009.5.01

i文庫」というiPhoneiPod touch用アプリケーションがある。インターネット電子図書館「青空文庫」のリーダとして登場し、iTunes Storeから入手できる。
以前からiPodでテキストを読んできたが、文字は小さいし書体や文字組みなどの調整もできず、正直言えばおよそ実用的とはいえない代物だった。そこでディスプレイの大きくなったiPod touchでテキスト表示させてみようと思い立ち、「Stanza」という電子書籍リーダのiPhoneアプリを見つけ出した。
試してみるとまずますの出来である。書体変更や背景色も数種類用意されており、iPodにくらべたら格段に読みやすくなっている。しかしこのアプリは本来、海外で英語や仏語を読むために開発されたものだから、日本語用電子書籍リーダとしてはおのずから限界がある。ちなみにこれ以外にもKindle for iphonというアプリもあって、洋書愛好者はAmazonから膨大な書籍をゲットしてのモバイル読書が可能となっている。
さらにぼくはもっと快適な日本語のための電子書籍リーダがあるはずだと考えネット検索を続けてみた。便利なもので困っている事柄を打ち込むとかなりの確率でコメントが見つかるから、この類いの疑問は粘り強く検索していると何とかなってしまうことが多い。
そして見つけたのが「青空文庫」。その名の通り文庫を読むように電子書籍の閲覧が可能になっている。そもそも「青空文庫」とはホームサイトにもあるように、利用に対価を求めないインターネット電子図書館の総称である。「電子テキストの恵みに浴するだけでなく、野に木を植えようと志した」青空工作員とよばれる人々が入力、校正、ファイル作成などのボランティア活動に参加している。(各作品の奥付には担当者名が明記されている)1997年に設立され、閲覧無料、登録不要、使用言語は日本語で、現在約7900作品が収録されている。著作権が消滅した作品や書き手が対価を求めないと決めた作品などが自由に読めるようテキスト化するというこの試みは、「信頼され」そして「フリーな」百科事典を質量ともに史上最大の百科事典として創り上げるというWikipediaの基本姿勢にも通じる。こうした広汎なアーカイブ化指向が、ネット社会の土壌から誕生した新種の運動体のダイナモとなっている。
この「青空文庫」は「i文庫」で書籍データをネットからダウンロードし閲覧することができる。なんといっても縦書きなのがうれしい。ルビも付いていてノンブルや柱もあり、ほぼ文庫のイメージを再現しており(電子書籍としては)すごく読みやすい。ページめくりもフリックで快適だし、好きな書体に本文をカスタマイズでき、色や表示サイズも自由に調整可能。そして背景色をRGBの%刻みで調色できるから、閲覧の感覚的自由度は格段に高くなっている。試しに宮沢賢治の収録作品をすべてダウンロードしてみると、ほぼ全集といってもいいくらいコレクションは充実していて、これでどこでも好きな時に賢治作品を文庫感覚で読むことができるようになる。
上の画像が文庫本で、下が同作品を表示させたiPod touch画面。サイズの比率もこんな感じで、幸いぼくはまだ老眼ではないから、これなら快適に読み進めることができそうだ。さらにこの「i文庫」は「青空文庫」だけでなく、Mac用フリーウェアのDiskAidを使うと、ワードなどのテキストデータも文庫風に縦組み表示してくれて、これもすこぶる実用的。
だからどうした、読書なんて本を買って読みなさい!とお叱りの声も聞こえてきそうだが、実用に耐えうる技術ならもっと柔軟に選択肢に加えたって構わないと思う。「電子書籍では文学的な香りまで伝わらない」なんて言うのは考え過ぎだし、幻想ではないのか。逆に「電子書籍が普及すれば電子書籍向きの文体が誕生してくる」というのも同様に幻想といえるだろう。創造とテクノロジーやメディアの住み処は、そもそも次元を異にしているのだから、技術や媒体は使いたい人が自由に選択して活用したらいい。あくまでも使うも自由、使わないも自由、なのである。
しかし、手のひらに納まるほどコンパクトな道具の中に、本にしたら抱えきれないくらい膨大な書籍データがすっぽりと収納できるという現実をなかなか受け入れることも難しい。数十ギガの容量さえあればテキストデータなら小さな図書館並の収集量が可能なのだから、何とも不思議な感覚にとらわれる。盆栽を筆頭に、人間は小さなものに大きな宇宙感を封じ込めることに情熱を傾けるという習性も育ててきた。その新たな萠芽がデジタル世界で芽吹こうとしているのかもしれない。
印刷技術は活版印刷の発明者グーテンベルクによって切り拓かれ、ルネサンス三大発明の一つにもあげられている。そして長い旅路の末、わざわざプリントする必要もなく、読みたいテキストを瞬時に呼び出し、また収納できる。そんな時代にぼくらは今生きている。大手出版社はまだ電子書籍に本腰を入れるつもりはないようだけど、10年後に電子書籍装幀家なる職種が誕生していないと誰が言い切れるだろう。90年代前半、印刷物の制作には欠くことのできなかった写植デジタルフォントに取って代わられ、今やほぼその姿を消してしまった。言語に秘められた力を伝える媒体は、確実に変容し多様化しつつあるようだ。
しかし世の中、何が起こるかわからない。未曾有の天体レベルの災害により(例えば強力な電磁波の変動などで)世界中のデジタルデータが壊滅的なダメージを被る可能性だってないとは言い切れない。そんな大袈裟な話でなくても、否応なくデジタル環境に身を置かざるを得なくなったデザイナーなら、マシントラブルや人為的ミスによって大切なデータが消失してしまい途方に暮れたという経験を2、3度はしているはずである。
現代のテクノロジーには、その利便性と合わせ鏡のように存在する脆弱性による不安感が常につきまとう。確かにそこからぼくらが浴している恩恵は計り知れないものがあるが、片時も休むことなく流れ込む怒濤の情報を前にして、大切にしていたものが煙のように跡形もなく消え去ってしまうこともあり得るという不確実性も、ぼくらが手にする技術には内包されていることを心にどこかに留めておく必要がある。最後に残されるのは自分の小さな脳に染み込んだ、この世に2つとない膨大な記憶の残像だけだということも…。

Snapshoots at
Institute of Modern Art
1969-71

2009.4.02

2008.12.03投稿「ぼくは学校が大嫌いだった」の続編です。学校生活への拒否反応も限界に達していた高校卒業以降のこの話で完結します。
芸大油絵科の受験に失敗したぼくは、大半の美大受験生が進んだ美術予備校でなく、新橋にある現代美術研究所という小さな研究所に入ることにした。ここはキュービズムを専門とする美術評論家・植村鷹千代氏が主宰する私塾で、すでに芸大生となっていた二人の先輩がここから受験していたこともあり、年2〜3人しか採らないという受験生枠にぼくはなんとか潜り込みたいと考えた。画家の推薦状が必要だったので、父の知人であったシュールレアリズムの画家・米倉寿仁氏を訪ねて推薦状をいただき、無事入所することができたのだった。ちなみに作詞家の安井かずみさんや美術家の李禹煥氏(リー・ウーハン)もここで学んだことがあるそうだ。
入所早々、午前中は石膏デッサン、午後は裸婦モデルを立ててのデッサンと油彩制作。夜はプロの画家や美大生、そして社会人の研究生も加わり、再びモデルさんに向かってクロッキーやデッサン。決して誇張でなく1日平均16時間くらい描き続けた。土日もあまり休んだ記憶がないし、郷里にもほとんど帰ることなく、若さとはいえ驚くほどどっぷりと美術に浸かりきる日々を送る。
ちょうど60年安保闘争がピークを迎える騒乱の時代で、ぼくが卒業した年には安田講堂が学生たちに占拠され、東大受験も行なわれなかった。だから現役で大学生となった同級生の中には、ほとんど学ぶことができないという人も大勢いたはずだ。そんなハレの風が吹き荒れる中、まるで台風の目の中にいるように、ぼくの中には喧騒をよそに静かな時間が淡々と流れていた。もちろん周囲の人々が時代のムーブメントに無関心だったわけでなく、連日社会人の研究生たちの熱のこもった討論が所内でも繰り広げられていたし、彼らと同様にぼくの中にも得体の知れない時代意識が日増しに染み入ってきたのだが、それらを覆い尽くすかのように美術への関心が厚みを増していった。
ここでぼくに大きな影響を与えたのが所長である斉藤秀一氏だった。ヴァザルリに近い画風の作家でもあった斉藤さんは、終戦後、青年将校としてシベリアに抑留され、厳しい収容所生活を生き抜いてきた人だ。筋金入りのマルキシストとして帰国を果たし、植村先生との出会いからこの現代美術研究所の創設にかかわり、以来表現活動と並行して所長として多くの若い画学生たちと歩みを共にしながら影響を与え続けてきた、まさに「現美の主」のような人物だった。
中沢新一さんの「イカの哲学」で紹介されている原作者・波多野一郎氏もシベリアで4年間もの強制労働に耐えたが、この間叩き込まれた徹底した共産主義化教育に対し、その力量を認めつつも判断を保留し続け、ソ連の対極にあったアメリカのヒューマニズム(人間主義)を自分の眼で確かめてみようとしたところに波多野さんの素晴らしさがある、と中沢さんは評価しているが、斉藤さんも波多野さんに近い健全なバランス感覚をもっていた人だったと思う。決して思想的にぼくらを染め上げようとはしなかったし、世界を裸眼で直視しようとする姿勢は一貫していたってリベラルなものだった。斉藤さんにとってのヒューマニズムは絵画表現の模索に内包されていたのかもしれない。キャンバスの中で膨らみ、ねじれ、拡張し続ける希望にあふれた遠心的な斉藤さんの抽象絵画を思い出す度にそんな気がしてならない。
生粋の江戸っ子で、夏は毎日同じ高そうな黒い麻のポロシャツを着続けているものだから、洗濯しないんですか?と聞いたら、気に入った服は同じものを10着ほど買って毎日取り替えているのだという。こういうダンディズムもあるんだと田舎者のぼくは驚いた。また、研究所でお腹がすくと皆即席ラーメンを作って食べていたが、銘柄は明星食品の「中麺(チュンメン)」と決まっていて、茹で上げ時間も秒単位で設定されていた。試行錯誤の末に決定されたこの斉藤レシピは壁に貼られ順守されていた。今思い出すと笑ってしまうけど、当時は確かにこれが一番おいしいと思ったし、皆1日おきに食べていたほど、中麺中毒者となっていた。
それからエネルギッシュな若者の吸収率を高めるのには体力を奪うのが一番手っ取り早いと(戸塚ヨットスクールみたいな体育会系の乗りじゃ決してなかったけど)デッサンはほとんど立って描き、最低週2日は徹夜していたのも抑留生活仕込みのノウハウか。さすがに夜中には絵は描かない。もっぱら討論に明け暮れていたのだが、実はこれがとても楽しかったのだ。連日、田原総一朗の「朝なま」に参加しているようなものだから、大人たちに混じってずいぶん鍛え上げられたし、ぼくにとっての格好の「夜中の学校」となっていた。夜が明けると銀座の安いサウナで汗を流し、隣りの日石本社ビル地下にある食堂で格安朝食をかきこんだあと椅子を並べて2時間ほど仮眠をとり、モデルさんを迎えるという毎日が続く。こうして斉藤さんには文字通り寝食を共にした合宿状態で指導し続けてもらった。思えばこれも家庭をもたずにお母さんと二人暮らししていた斉藤さんだったから可能だったことなのだろう。
研究所の方針でぼくら受験枠の研究生も9月までは受験から離れて、モダンアートの自由制作や展覧会の企画実行にかかわり、表現をしていくための基礎能力を身に付けていった。(二十歳で選抜3人展を銀座の画廊で開いた時には、まだ大学生だった中沢新一さんも駆けつけてくれて、ぼくの稚拙なキネティックアートを前に友情を示してくれたのも懐かしい思い出だ)専任コーチは斉藤所長だったが、月に一度開かれる合評会では植村先生の意見もうかがうことができた。何でも伊豆近辺のとある城主の家系だそうで、ほんとうにお殿様のような育ちの良さを漂わせる方だった。
それからこの研究所の歴代講師陣は豪華なもので山口薫片岡球子といった洋画界を代表する画家たちが名を連ねていて、当時ぼくが直接指導を受けたのが、午後の部の洋画家・福沢一郎氏(まさかその後、文化勲章を受賞されるとは)と、夜の部の多摩美術大学教授の杉全直氏の両氏。杉全先生は物静かで理知的。的確な指摘を俳句のように削ぎ落とした言葉で伝えてくれた。そして特に思い出深いのが福沢先生の指導だった。すでにその時にはフォーヴィスムの大家だったにもかかわらず、飾らず豪放な人柄はその画風に近似していた。キャンバス地が透けてみえるほど薄塗りの折り重なる色調が作品全体に深みを与え、これが福沢絵画の大きな魅力となっていたが、これは薄く溶いた絵の具を何種類も用意して、ポロックよろしく平らに置いたキャンバスにぶちまけ、偶然生まれた美しいディティールを手立てに描きあげていく手法だという。偶然から必然を導き出していく絵画表現の奥義でもある。「君、本当は芸大進学なんてどうでもいいことなんだよ」と言われたのを真に受けたわけではないが、次第に進学する意欲が希薄になっていき、受験は芸大1校のみ、もし合格したらすぐに退学しようと決めていた。そんな不遜な受験生に倍率30倍近い難関がくぐり抜けられるはずもなく、二浪となる頃にはここで学ぶことを超えられるところなんてあるんだろうか、などとまで考えるようになってしまった。
丁度その頃、観念芸術が登場してきた。雪崩を打ってこの新たな潮流に巻き込まれていく当時の美術界を尻目に、この観念芸術の在りように深く失望したぼくは退所して郷里に戻ろうと決めた。経緯を語ると長くなるので割愛しますが、とにかくこんな美術ならいらないやと生活を一度リセットして、もっとリアルな世界に近づいてみたいと漠然と考えはじめたわけです。
思い返せば、これが最後の卒業だったのかもしれない。この濃密な2年間はあんなに学校が大嫌いだったぼくにとって、結局最終学年の学校体験となっていたのだ。卒業証書もないし、植村先生も斉藤所長も福沢先生も杉全先生もすでにみんな故人となってしまったけれど、自由と社会、そして表現にまつわるフレキシブルなレッスンを通じて、自分の表現を支える多くの支柱はここで出会った人々に育ててもらった。あの新橋の片隅にある寂れたビルのちっぽけな空間で、何とかぼくは大人の仲間入りを果たすことができたのだ。
※上の写真は展覧会オープニングでの一コマ。左がぼくです。下の写真はたぶん展覧会打ち上げの際の記念写真。研究生全員ではないがこうして眺めるとほんとうに老若男女でバラエティーに富んでいる。向かって左端が斉藤秀一氏。(この人は膨大な知識が詰め込まれているからこんなに大きな頭になったんだろうなと、しみじみ後ろから眺めた記憶が甦る)前列中央で女性たちに囲まれるお殿様が植村鷹千代先生。そのすぐ後ろがぼくで、そのまたすぐ後ろで首を傾ける長髪の人物が、装幀家として活躍中の芦澤泰偉さん。

Above_arve henriksen
chiaroscuro
2005
Below_James
Pleased To Meet You
2001

2009.3.01

今月はお気に入りのCDジャケットから2枚をピックアップ。ぼくはどちらかといえばジャケ買いする傾向が強いけれど、当たったり外れたりで、打率は3割台といったところか。
上はノルウェー屈指のインストゥルメンタリスト、Arve Henriksen(アルヴェ・ヘンリクセン)が2005年に発表したアルバム『Chiaroscuro(キアロスクーロ=光と影)』。雑誌のレヴューで見かけて注文し、届いてその素晴らしいジャケットデザインに大喜びした思い出の一枚だ。あ〜、こんなキュートなデザインがしてみたい!
CD本体は濃いグリーン地に手書きのドット模様が入っているだけなので、ジャケットと一緒にしておかないと何のCDなのかわからなくなってしまうけど、それにしてもこのジャケットは頭のてっぺんからつま先まで、何てクールで可愛らしいんだろう。包まれたサウンドも北欧らしい澄んだグレイシーなトーンでとても清々しい。谷を吹き渡る風のようなトランペットの音色に導かれ、達人ヘンリクセンが描き出す心地よいサウンドスケイプがゆったりと楽しめる。そこにはバリ・サウンドやモンゴルのオーヴァートーン歌唱、そして琵琶や尺八までが果敢にブレンドされていて、さながら、言葉のない歌が翼をつけてのびやかに澄み渡った空を飛び回っているようだ。同じトランペット奏者である環境音楽家ジョン・ハッセルの奏でるアフリカの大地のような熱を帯びたサウンドとは対照的に、静寂と湿気を含んだ北欧の青く静かな熱がじわりと伝わってくる。ミニマルなのに豊潤。このサウンドはジャケットデザインと見事にシンクロしている。
さてもう1枚は、イギリスはマンチェスター出身のロックバンド、James(ジェイムス)2001年のアルバム『Pleased to meet you(プリーズド・トゥ・ミート・ユー)』。この他にも『WHIPLASH』や豚が真珠のネックレスを巻いた『millionaires』とか、斜に構えたアルバムがたくさんあるけど、やっぱりぼくはブライアン・イーノがプロデュースしているこのアルバムが一番好きだ。こういうバンドは絶対にアメリカからは生まれてこないだろう。あちこちが微妙にねじれているのだ。ツイストしてるのは音楽への向き合い方なのか、それとも性格そのものなのか。このツイスト感がイギリス音楽好きにはたまらない。
それは、この変哲のないジャケットデザインにも現われている。中を開くと1ページに1カットづつ、同じトリミングでバンドメンバーのポートレートが載っている。しかし、表紙を飾るこの男性は誰なのか?この人物を入れるとメンバーは一人増えてしまうのだ。しばらく眺めていると、あることに気づく。どこか見覚えのあるパーツ…、それは眉であったり、目であったり、耳であったり…。そうかこの表紙の男性はメンバー全員のパーツが集合された架空のもう一人のメンバーだったのだ。つまり合成された彼自身がジェイムズその人であった。一見よくありがちなロックアルバムのカバーに見せておいて、ひっそり仕掛けが施されたデザインも見事にねじれていた。
iTunes Storeでホイホイとダウンロードしていると、絶対こんな楽しみを味わうことはできない。ジャケットデザインがある限り“物質としてのコンパクトディスク”はまだまだ健在だ。