Snapshoots at
Institute of Modern Art
1969-71

2009.4.02

2008.12.03投稿「ぼくは学校が大嫌いだった」の続編です。学校生活への拒否反応も限界に達していた高校卒業以降のこの話で完結します。
芸大油絵科の受験に失敗したぼくは、大半の美大受験生が進んだ美術予備校でなく、新橋にある現代美術研究所という小さな研究所に入ることにした。ここはキュービズムを専門とする美術評論家・植村鷹千代氏が主宰する私塾で、すでに芸大生となっていた二人の先輩がここから受験していたこともあり、年2〜3人しか採らないという受験生枠にぼくはなんとか潜り込みたいと考えた。画家の推薦状が必要だったので、父の知人であったシュールレアリズムの画家・米倉寿仁氏を訪ねて推薦状をいただき、無事入所することができたのだった。ちなみに作詞家の安井かずみさんや美術家の李禹煥氏(リー・ウーハン)もここで学んだことがあるそうだ。
入所早々、午前中は石膏デッサン、午後は裸婦モデルを立ててのデッサンと油彩制作。夜はプロの画家や美大生、そして社会人の研究生も加わり、再びモデルさんに向かってクロッキーやデッサン。決して誇張でなく1日平均16時間くらい描き続けた。土日もあまり休んだ記憶がないし、郷里にもほとんど帰ることなく、若さとはいえ驚くほどどっぷりと美術に浸かりきる日々を送る。
ちょうど60年安保闘争がピークを迎える騒乱の時代で、ぼくが卒業した年には安田講堂が学生たちに占拠され、東大受験も行なわれなかった。だから現役で大学生となった同級生の中には、ほとんど学ぶことができないという人も大勢いたはずだ。そんなハレの風が吹き荒れる中、まるで台風の目の中にいるように、ぼくの中には喧騒をよそに静かな時間が淡々と流れていた。もちろん周囲の人々が時代のムーブメントに無関心だったわけでなく、連日社会人の研究生たちの熱のこもった討論が所内でも繰り広げられていたし、彼らと同様にぼくの中にも得体の知れない時代意識が日増しに染み入ってきたのだが、それらを覆い尽くすかのように美術への関心が厚みを増していった。
ここでぼくに大きな影響を与えたのが所長である斉藤秀一氏だった。ヴァザルリに近い画風の作家でもあった斉藤さんは、終戦後、青年将校としてシベリアに抑留され、厳しい収容所生活を生き抜いてきた人だ。筋金入りのマルキシストとして帰国を果たし、植村先生との出会いからこの現代美術研究所の創設にかかわり、以来表現活動と並行して所長として多くの若い画学生たちと歩みを共にしながら影響を与え続けてきた、まさに「現美の主」のような人物だった。
中沢新一さんの「イカの哲学」で紹介されている原作者・波多野一郎氏もシベリアで4年間もの強制労働に耐えたが、この間叩き込まれた徹底した共産主義化教育に対し、その力量を認めつつも判断を保留し続け、ソ連の対極にあったアメリカのヒューマニズム(人間主義)を自分の眼で確かめてみようとしたところに波多野さんの素晴らしさがある、と中沢さんは評価しているが、斉藤さんも波多野さんに近い健全なバランス感覚をもっていた人だったと思う。決して思想的にぼくらを染め上げようとはしなかったし、世界を裸眼で直視しようとする姿勢は一貫していたってリベラルなものだった。斉藤さんにとってのヒューマニズムは絵画表現の模索に内包されていたのかもしれない。キャンバスの中で膨らみ、ねじれ、拡張し続ける希望にあふれた遠心的な斉藤さんの抽象絵画を思い出す度にそんな気がしてならない。
生粋の江戸っ子で、夏は毎日同じ高そうな黒い麻のポロシャツを着続けているものだから、洗濯しないんですか?と聞いたら、気に入った服は同じものを10着ほど買って毎日取り替えているのだという。こういうダンディズムもあるんだと田舎者のぼくは驚いた。また、研究所でお腹がすくと皆即席ラーメンを作って食べていたが、銘柄は明星食品の「中麺(チュンメン)」と決まっていて、茹で上げ時間も秒単位で設定されていた。試行錯誤の末に決定されたこの斉藤レシピは壁に貼られ順守されていた。今思い出すと笑ってしまうけど、当時は確かにこれが一番おいしいと思ったし、皆1日おきに食べていたほど、中麺中毒者となっていた。
それからエネルギッシュな若者の吸収率を高めるのには体力を奪うのが一番手っ取り早いと(戸塚ヨットスクールみたいな体育会系の乗りじゃ決してなかったけど)デッサンはほとんど立って描き、最低週2日は徹夜していたのも抑留生活仕込みのノウハウか。さすがに夜中には絵は描かない。もっぱら討論に明け暮れていたのだが、実はこれがとても楽しかったのだ。連日、田原総一朗の「朝なま」に参加しているようなものだから、大人たちに混じってずいぶん鍛え上げられたし、ぼくにとっての格好の「夜中の学校」となっていた。夜が明けると銀座の安いサウナで汗を流し、隣りの日石本社ビル地下にある食堂で格安朝食をかきこんだあと椅子を並べて2時間ほど仮眠をとり、モデルさんを迎えるという毎日が続く。こうして斉藤さんには文字通り寝食を共にした合宿状態で指導し続けてもらった。思えばこれも家庭をもたずにお母さんと二人暮らししていた斉藤さんだったから可能だったことなのだろう。
研究所の方針でぼくら受験枠の研究生も9月までは受験から離れて、モダンアートの自由制作や展覧会の企画実行にかかわり、表現をしていくための基礎能力を身に付けていった。(二十歳で選抜3人展を銀座の画廊で開いた時には、まだ大学生だった中沢新一さんも駆けつけてくれて、ぼくの稚拙なキネティックアートを前に友情を示してくれたのも懐かしい思い出だ)専任コーチは斉藤所長だったが、月に一度開かれる合評会では植村先生の意見もうかがうことができた。何でも伊豆近辺のとある城主の家系だそうで、ほんとうにお殿様のような育ちの良さを漂わせる方だった。
それからこの研究所の歴代講師陣は豪華なもので山口薫片岡球子といった洋画界を代表する画家たちが名を連ねていて、当時ぼくが直接指導を受けたのが、午後の部の洋画家・福沢一郎氏(まさかその後、文化勲章を受賞されるとは)と、夜の部の多摩美術大学教授の杉全直氏の両氏。杉全先生は物静かで理知的。的確な指摘を俳句のように削ぎ落とした言葉で伝えてくれた。そして特に思い出深いのが福沢先生の指導だった。すでにその時にはフォーヴィスムの大家だったにもかかわらず、飾らず豪放な人柄はその画風に近似していた。キャンバス地が透けてみえるほど薄塗りの折り重なる色調が作品全体に深みを与え、これが福沢絵画の大きな魅力となっていたが、これは薄く溶いた絵の具を何種類も用意して、ポロックよろしく平らに置いたキャンバスにぶちまけ、偶然生まれた美しいディティールを手立てに描きあげていく手法だという。偶然から必然を導き出していく絵画表現の奥義でもある。「君、本当は芸大進学なんてどうでもいいことなんだよ」と言われたのを真に受けたわけではないが、次第に進学する意欲が希薄になっていき、受験は芸大1校のみ、もし合格したらすぐに退学しようと決めていた。そんな不遜な受験生に倍率30倍近い難関がくぐり抜けられるはずもなく、二浪となる頃にはここで学ぶことを超えられるところなんてあるんだろうか、などとまで考えるようになってしまった。
丁度その頃、観念芸術が登場してきた。雪崩を打ってこの新たな潮流に巻き込まれていく当時の美術界を尻目に、この観念芸術の在りように深く失望したぼくは退所して郷里に戻ろうと決めた。経緯を語ると長くなるので割愛しますが、とにかくこんな美術ならいらないやと生活を一度リセットして、もっとリアルな世界に近づいてみたいと漠然と考えはじめたわけです。
思い返せば、これが最後の卒業だったのかもしれない。この濃密な2年間はあんなに学校が大嫌いだったぼくにとって、結局最終学年の学校体験となっていたのだ。卒業証書もないし、植村先生も斉藤所長も福沢先生も杉全先生もすでにみんな故人となってしまったけれど、自由と社会、そして表現にまつわるフレキシブルなレッスンを通じて、自分の表現を支える多くの支柱はここで出会った人々に育ててもらった。あの新橋の片隅にある寂れたビルのちっぽけな空間で、何とかぼくは大人の仲間入りを果たすことができたのだ。
※上の写真は展覧会オープニングでの一コマ。左がぼくです。下の写真はたぶん展覧会打ち上げの際の記念写真。研究生全員ではないがこうして眺めるとほんとうに老若男女でバラエティーに富んでいる。向かって左端が斉藤秀一氏。(この人は膨大な知識が詰め込まれているからこんなに大きな頭になったんだろうなと、しみじみ後ろから眺めた記憶が甦る)前列中央で女性たちに囲まれるお殿様が植村鷹千代先生。そのすぐ後ろがぼくで、そのまたすぐ後ろで首を傾ける長髪の人物が、装幀家として活躍中の芦澤泰偉さん。

Above_arve henriksen
chiaroscuro
2005
Below_James
Pleased To Meet You
2001

2009.3.01

今月はお気に入りのCDジャケットから2枚をピックアップ。ぼくはどちらかといえばジャケ買いする傾向が強いけれど、当たったり外れたりで、打率は3割台といったところか。
上はノルウェー屈指のインストゥルメンタリスト、Arve Henriksen(アルヴェ・ヘンリクセン)が2005年に発表したアルバム『Chiaroscuro(キアロスクーロ=光と影)』。雑誌のレヴューで見かけて注文し、届いてその素晴らしいジャケットデザインに大喜びした思い出の一枚だ。あ〜、こんなキュートなデザインがしてみたい!
CD本体は濃いグリーン地に手書きのドット模様が入っているだけなので、ジャケットと一緒にしておかないと何のCDなのかわからなくなってしまうけど、それにしてもこのジャケットは頭のてっぺんからつま先まで、何てクールで可愛らしいんだろう。包まれたサウンドも北欧らしい澄んだグレイシーなトーンでとても清々しい。谷を吹き渡る風のようなトランペットの音色に導かれ、達人ヘンリクセンが描き出す心地よいサウンドスケイプがゆったりと楽しめる。そこにはバリ・サウンドやモンゴルのオーヴァートーン歌唱、そして琵琶や尺八までが果敢にブレンドされていて、さながら、言葉のない歌が翼をつけてのびやかに澄み渡った空を飛び回っているようだ。同じトランペット奏者である環境音楽家ジョン・ハッセルの奏でるアフリカの大地のような熱を帯びたサウンドとは対照的に、静寂と湿気を含んだ北欧の青く静かな熱がじわりと伝わってくる。ミニマルなのに豊潤。このサウンドはジャケットデザインと見事にシンクロしている。
さてもう1枚は、イギリスはマンチェスター出身のロックバンド、James(ジェイムス)2001年のアルバム『Pleased to meet you(プリーズド・トゥ・ミート・ユー)』。この他にも『WHIPLASH』や豚が真珠のネックレスを巻いた『millionaires』とか、斜に構えたアルバムがたくさんあるけど、やっぱりぼくはブライアン・イーノがプロデュースしているこのアルバムが一番好きだ。こういうバンドは絶対にアメリカからは生まれてこないだろう。あちこちが微妙にねじれているのだ。ツイストしてるのは音楽への向き合い方なのか、それとも性格そのものなのか。このツイスト感がイギリス音楽好きにはたまらない。
それは、この変哲のないジャケットデザインにも現われている。中を開くと1ページに1カットづつ、同じトリミングでバンドメンバーのポートレートが載っている。しかし、表紙を飾るこの男性は誰なのか?この人物を入れるとメンバーは一人増えてしまうのだ。しばらく眺めていると、あることに気づく。どこか見覚えのあるパーツ…、それは眉であったり、目であったり、耳であったり…。そうかこの表紙の男性はメンバー全員のパーツが集合された架空のもう一人のメンバーだったのだ。つまり合成された彼自身がジェイムズその人であった。一見よくありがちなロックアルバムのカバーに見せておいて、ひっそり仕掛けが施されたデザインも見事にねじれていた。
iTunes Storeでホイホイとダウンロードしていると、絶対こんな楽しみを味わうことはできない。ジャケットデザインがある限り“物質としてのコンパクトディスク”はまだまだ健在だ。

Snap Shot of Kunpu Tour
at Shosenkyo, Yamanashi
1991.6.17

2009.2.02

訃報の続く冬になった。昨年の12月、「フォト・モンタージュ」など鋭い風刺作品で知られる木村恒久さん、明けて1月11日には福田繁雄さんが急逝。ほどなく掲載された朝日新聞の追悼記事には、お二人が並んで紹介されていた。ともに戦後日本のグラフィックデザインを切り拓き、批評精神には通じるところも多いが、その持ち味はだいぶ異なる。福田さんはだまし絵(トリックアート)の手法を駆使して、グラフィックはもとより、立体やレリーフにと幅広い創作を続けてきたが、真骨頂は何といってもポスターだろう。名作「VICTORY」は福田さんの創作姿勢を象徴している作品だ。インタビューで福田さんは「ポスターは花火だと思っている」と答えている。通りすがりに見れば誰でもわかる、それがポスターであると。だから福田さんのつくりあげるポスターはどれも鋭い伝達力で強く見るものに訴えかけてくる。
生前、数回お目にかかったことがある。大人の服を着ているが、その胸元からはいたずらっ子のような茶目っ気が見え隠れしていて、気づくといつも人の輪の中心に立っている、そんな人柄が作風とピッタリ重なりあっていた。子どもが得意とする「不思議を面白がる精神」を曇らせることなく生涯持ち続けていた、ダイナモのようなデザイナーだった。
それに筋金入りのアナログ派だったこともほほ笑ましい。PCはもちろん、メールも駄目。JAGDAの会長職についてからは海外から連絡が入る機会も増えたようだが、メールが送れずみんな困っていると聞いたことがある。制作する時に活躍するのは唯一のデジタル機器であるモノクロコピー機。もちろん表現には、デジタルもアナログもなく、あるのはただ表現力だけなのだが、こんな話を聞いてほっとするのはなぜだろう。
いくらデジタルが進歩しても、究極のデジタル能力をもつのは実は人間なのだから、マシンはどこまでいっても人間にはかなわないという人もいる。しかし、イージーミスを犯すのはいつもきまって人間の方であることも事実。このミスを犯すという「能力」。実は創造力の養分となっているのではないだろうか。思い違い、見間違い、見当違いに勘違い、みんなそれぞれにりっぱな養分たちである。福田さんはこうした「ミスを犯す能力」を鋭く磨き上げ、マシンには絶対に作ることのかなわない、人間くさい強い表現を積み上げてきたのだと思う。
ぼくは以前、友人のジュエリーデザイナー2名に紙で作れるジュエリーをデザインしてもらい、誰でも組み立てられるような展開図を付けた「Paper Jewelry Book」(Next Works:2に集録)を作ったことがある。これを見た福田さんが早速、ぼくに葉書をくださった。「ペーパーでジュエリー?これってありえねぇーの面白さがそこにある」というその反応ぶりがとても明快で、この方はほんとうに自分の周波数にシンクロしたものには即座に反応してしまうのだと驚いたことがある。
上2枚のスナップは、以前、佐藤晃一さんが毎日デザイン賞を受賞したお祝いにと、デザイナー有志によって企画された記念ツアーでの一コマ。佐藤さんが小学生時代を過ごしたこの甲府で祝福しようと、はとバスに乗って東京から大勢の友人デザイナーたちがやってきた。題して、初夏の季語を冠した「薫風ツァー」。(命名は安西水丸さん)スナップは祝賀会翌日に向かった昇仙峡での散策風景。渓谷沿いの道に岩穴を見つけると即座に持ち上げてしまい(横で一緒持ち上げているのはイラストレーターの矢吹申彦さん)、「立ち小便禁止」の立て看板を見つけると「立」を隠して「血(?)小便禁止」にしてしまったり(手前で一緒にカメラを向けているのは浅葉克己さん)、この2枚には福田さんらしさがリアルに焼き付けられている。この人の日常はすべてトリックアートで塗りつぶされているのではないのだろうか。そんな凄みさえ感じさせるものがある。
福田さんは大きな仕事を成し遂げたデザイナーとしてだけでなく、寒々しく老け込まないためのとても大切なヒントをたくさんぼくに残してくれた。きっと今ごろは、三途の河原をあちこち寄り道しながら、トリックアートのネタ探しに夢中になっているに違いない。

Above_Vermeer
Christ in the House
of Martha and Mary 1655
Below_Vermeer
Diana and Her Nymphs
1655-1656

2009.1.01

ぼくらは自身がつくりだすさまざまな幻想に囲まれて日々暮らしている。もちろん取り囲んでいるものが実は幻想なんだと考えはじめたら、足下から崩れ落ちてしまうような不安に襲われ、生きている実感はとたんに危ういものになってしまう。しかし時折、強固だった現実感がぐらりと揺らぎ、ほんとうは幻想の中に漂っていたのではないかと考えさせられるような体験をすることがある。
半月ほど前、上野の美術館フェルメール(Vermeer)の現存する全作品36点中、6点をまとめて鑑賞してきた。生まれて初めて対面する生(ナマ)フェルメール。それはこれまでぼくの中に記憶されていた「フェルメールのようなもの」とはまったくの別物だった。
書籍や映像を通じて記憶されているイメージは陽炎のようなものにすぎない。実物は迫力があるとか、圧倒的な実在感だったとか、そういうことではなく、ただ記憶されていたものとは全然別なものだったというシンプルな事実。こんな当たり前なことをあらためて突きつけられると、自分の脳内や心の中にストックされているものは、現存する人間の数と同じく存在する幻想のひとつに過ぎないのではないだろうかという気持ちになってしまう。
フェルメールは小品が多く、その精緻さには誰もが目を奪われるそうだ。しかしぼくにとって印象的だったのはその色あいの美しさであった。とりわけ、上に掲載した大ぶりな作品2点に見られる圧倒的な美しさ!‘天空の破片とも呼ばれた’高価なラピスラズリを原料とする青い絵の具を惜しげもなく使ったために困窮を極めてしまう逸話が、フェルメールの生涯を題材にした映画「真珠の耳飾りの少女」にも紹介されていたが、その美しい色彩に誘われるように、混雑する会場の出口近くで思い直し、人波をかきわけて見直すために再び展示コーナーに戻ってしまったほどだった。光や質感の表現、コントラストと色彩の絶妙な調和など、同時展示されていた他のデルフト・スタイルの画家たちの作品群とは明らかに次元を異にする完成度で、溢れんばかりの才能がキャンバス上に凝着していた。
絵画を完成させるということはほんとうに難しい。描き足りなくても駄目、描き過ぎても駄目、ここしかないという瞬間で静止させてやっと絵画は完成するが、そんな画家の苦心をよそに、当時の絵画作品はインテリアの一部として認識されていたから、壁の色に合わせて勝手に描き変えられたりすることもめずらしくなかったようだ。下の作品「ディアナとニンフたち」も背景が青空に描き変えられたりしていたそうだ。1990年代末に修復され、作画当時の状態に戻されたというから、厳密に言えば原画に限りなく近づけた修復品ということになる。しかし、ヨーロッパの修復技術は深い伝統に支えられ高度な水準を誇っているので、これがほぼ原画であると考えてよいのだろう。
帰り道、銀杏の下の黄色い絨毯を踏みしめながら、ぼくは昔愛読した美術書籍を思い出していた。「絵画教室(traité de la peinture)」と邦題のつけられたその書籍の著者は1898年生まれのフランス人、アルマン・ドゥルーアン(Armand Drouant)。画家、美術評論家、画商、鑑定家、航空将校など多彩な顔をもつ人物である。「絵画は、永遠の《肯定であって、否定》なのだ。…すなわち、いつもふたつの考えをもっていなくてはならない、ひとつをぶちこわすための、もうひとつをという!」なんて含蓄ある警句が全編にちりばめられていて、目次には「美術は神秘なものか」「特質の検討」「画家の材料」「実際的助言」といったコンテンツが並ぶ。特に印象深かったのが「画家の材料」。ここには絵の具を構成する化学的組織や耐光度、耐老化度一覧や使用に際しての実践的な助言も含まれる。つまり若い画学生はここで絵画とは感覚の赴くままに描くものでなく、目指す表現を確実に具現化するため、化学者の目もあわせもたなければならないことを知るのだ。当時ぼくが学んでいた絵画研究所では、キャンバス下地作りの入念な取り組みから始まり、‘物質としてのタブロー(tableau)’との向き合い方を徹底的に叩き込まれた。余談になるが、日本でも人気の高いロシア生まれのアメリカ抽象画家、マーク・ロスコ(Mark Rothko)の謎の自殺の原因は、晩年に手がけた壁画の退色だったのではないかとも囁かれている。画家にとって色彩を操ることは、その命をも左右するほどに重要な命題であるのかもしれない。
もうひとつ印象に残ったことは、フェルメールの作品に付けられた額がどれも素晴らしかったことだ。額と一体化した物質としてのタブローは、高貴な存在感を静かに主張していた。ヨーロッパにはアンティークの額を収集・修復する専門業者がいて、持ち込まれた絵画にふさわしい額を見立て、より完成された美術品として再生することもできるそうだが、「絵画教室」からもそんなヨーロッパの、深々とした絵画や美術品に対する知識や技術力の奥深さが伝わってくる。
その分厚いヨーロッパ美術の中核を担ってきたオランダで生まれたフェルメールという画家は、気の遠くなるような豊潤さを実現する「ビロードの手袋のなかの鉄の手」を持っていたのかもしれない。フェルメールの二作だけの物語画(神話や歴史を題材に描いた作品)といわれる、上の「マルタとマリアの家のキリスト」と「ディアナとニンフたち」。そこに描かれている赤と青、そして黄色の色面を見つめていると、色彩が人に幸福感をもたらすという不思議が、実に350年以上にわたってここには持続されてきたのだと実感することができる。運良くその不思議を享受できたぼくは、この個人的な体験を、幸福感に裏打ちされた完成度の高い、ま新しい幻想として記憶していくことになるだろう。

100Words by Paul Rusch
Kiyosato a Century Project

2008.12.03

ぼくは学校が大嫌いだった。幼稚園は眠くもないのに昼寝を強要されるのが我慢できずに中途で退園。小学校では登校時間になるときまって腹痛がしてしょっちゅう休んでいたから、先生たちからは病弱児童と見なされていた。しかし今日は休んでもいいと親から許可が下りると腹痛はすぐに治ってしまい、後は日がな一日家の周りで遊びまわる。要は学校に行きたくなかっただけなのだ。別に深刻な苛めにあっていたわけでもなく、行けば行ったで楽しく過ごしていたから、変種の登校拒否児だったのかもしれない。ただ女の子は苦手だった。成長の早い大きな女の子には待ち伏せされて意地悪されたこともあったし、中学の担任女性教師からはけっこう理不尽な苛めにあった。たぶん可愛げのない子どもだったのだろう。でも、そんなぼくの学校生活は平均的なものだった。団塊直後の世代で、すし詰めだったけど学級崩壊はなかったし、今のようなギスギスした陰湿な苛めもなかった。あきらかにハンデキャップを背負った児童が各クラスに1〜2名はいたが、彼らを周囲がサポートするのは自然なことだった。
上の写真は以前装幀を担当した記録集「ポール・ラッシュ100の言葉」から抜粋した清里の子供たちのスナップだ。1960年頃、無料で牛乳が配られた時の様子だというから、ぼくも彼らと同年代ということになる。開拓という苦難の歴史を背負う清里だが、彼らが飲んでいるのは地区内にある高地の牧場から届けられた本物の牛乳であろう。羨ましいな。だってぼくらの給食にいつも出されていたのは、あの不味い脱脂粉乳だったから。年数回のお祝いの日に出される揚げパンが最高のご馳走だった。その日はどんなことがあっても登校したものだった。それにしても写真を眺めると、当時の子どもたちは腰が据わっているというか、重心が低いというか、見事な安定感ではないか。確かにみんな貧しかったけど、等しく貧しいという平等感がそこにあった。
そんな学校生活でも拒否反応を起こしたということは、思うに、たまたま出会った同級生たちと同じ空間で一定時間拘束され続けるという状況が、ぼくの気質にとっては容易に受け入れがたいものだったからなのだろう。高校を卒業する頃には、すでに我慢も限界に達していた。社会に順応していく能力は義務教育などを通じた集団生活から築かれてゆくものだが、そのプロセスにおいてぼくは甚だしく社会性に欠け、順応しにくい子どもだったようだ。
ではさぞかしブルーな幼少期なのかというとそんなことはない。十代前半まで一家が借家住まいしていたところは、東京の某企業家が別荘にしていた敷地内にあり、そこには管理者となっている家族とぼくら一家しか住んでいなかったので、思えば住まいの周辺はずいぶんゴージャスな環境だった。今では梅の庭園として、時期ともなれば入園者も集う広大な私有地だ。小山を擁し、芝生や見事な植栽、そして池や秘密の洞窟まであったりし、ここはまさにぼくのワンダーランドだった。オーナー一家は夏場の一時期しか来ないので、近所の子どもたちと一緒にこの敷地内でほんとうにいろんなことをして遊んで過ごすという幸せな借景の幼少期をおくることができた。ここに居を構えたことと、登校を強要しなかった親には今でも深く感謝している。考えようによっては、学校は社会の箱庭みたいなものだけど、狭い世界であることにかわりはない。当時のぼくはワンダーランドから与えられる滋養のおかげで、なんとかその狭い世界の中で心のバランスをとることができたのかもしれない。
長じて自分の気質を分析してみるとアンビバレント(二律背反)な一面が際立っていると思う。あんなに行きたくなかった学校も行ってしまうと別人となる。活動的でリーダーシップをすぐとりたがるような子どもだった。だから教師たちはぼくが登校拒否しているなんて考えもしなかっただろう。勉強熱心だけど病弱な子として記憶されていたはずだ。
この生来の気質は今も変わることはない。社会人となってからもずっとこのアンビバレントな両極を振り子のように行き来しながら生きてきたような気がする。振り幅が大きい時ほど中間点を強く意識する知恵も身に付けた。あんなにいやだった学校から開放され、自分の意思による人間関係を築きながら、時間や空間を自由選択できるようになっても、結局この気質が変わることはなかった。
この歳まで振り子を繰り返す中からやっと少しづつわかってきたことがある。人生は必然と偶然の糸が複雑に絡み合いとぐろを巻いているようなものなのだから、時に応じてどちらにも振れていける幅が人には必要なんだと思う。思うようにならない事実を吸い取ってくれる「良い加減」の幅である。無駄や遠回りも、意味あるものとするのはそのあとの生き方次第。ならば無駄なものなんてひとつも存在しないことになる。人は笑顔のあふれる中で泣きながらこの世に生まれ出る、そして泣きながら見送られる時には笑いながらこの世から去るのだ、かくのごとく生きるべしとは古いチベット仏教の教えだそうだが、この世に生のある限り、学校を出ても次々と別な学校(分校?)が立ち現われてきて、卒業することなんて叶わない。笑いながらこの世から去るためには、結局人は自分の気質と折り合いをつけながら学び続けるしかないようだ。だから大嫌いだったあの頃の学校も、やはりあの時代のぼくだけの学校だったのだ、と今では考えている。

Brochure: The Plaza
at Central Park, New York

2008.11.01

H氏がこの夏亡くなったと立ち話していた知り合いから突然告げられた。重い病と闘っていたことは知っていたが、半年前に会った時には元気そうだったし、まだ60半ば。どうして?と戸惑う気持ちが先にたつ。
H氏は8年ほど前、ヘッドハンティングされてある施設を託されることになり、東京から赴任先の甲府にやってきた。知人の紹介で引き合わされ、ぼくがその施設の一連のデザインを担当することになってから、H氏との付き合いがはじまった。
京都の呉服屋さんで生を受け、長じてホテル業界に入りキャリアを積んだというH氏だが、特にニューヨークのセントラルパークにある老舗ホテル「The Plaza」での勤務経験によって仕事に対する姿勢が方向づけられたのだと聞かされた。仕事で見せる粘り強いこだわりと感性は、京都人気質とこのThe Plazaでの体験がブレンドされて形成されたものだろう。出会いから3、4年、ぼくらは互いを尊重しあいながら仕事を通じて信頼関係を築いていったが、諸事情によりその施設が閉鎖されることになり、会う機会もなくなってしまった。その後H氏から(今年サミット会場にもなった)洞爺湖のザ・ウィンザーホテルの副支配人として北海道に単身赴任することになったという知らせが届いたが、ほどなく彼の地で発病という事態となってしまったようだ。そして1年ほど前には、奥さんの実家がある山梨に戻って療養しているらしいと人づてに聞かされていた。
そのH氏からある日突然メールが送られてきた。それは名刺のデザイン依頼だった。療養しながら短期大学でホスピタリティについて授業を受け持つ講師として活動していることに触れ、ともすれば沈みがちな自分の気持ちを前向きに変えたいと名刺をつくることを思い立ったと記されていた。お役に立てるのなら、こんなデザイナー冥利に尽きることはない。数日後H氏は打ち合わせのために奥さんを伴ってボスコにやってきた。赤いマフラーに上質なファーフェルト帽。久しぶりの再会で、いつものダンディなH氏だったことがうれしかった。急いでぼくはデザインにとりかかり、仕上がった名刺の出来栄えにH氏はとても喜んでくれたそうだ。うれしそうに会う人ごとに渡していますよと納品後奥さんが電話で伝えてくれた。別れ際「どうしてこんな病気になってしまったのかと悩んだりもしたけれど、それは考えてみても仕方ないんですよね」と少し淋しそうに微笑んでいたのが印象的だった。そして結局これが今生の最後となってしまった。そのわずか数ヶ月後、使いきることなく残されてしまった名刺の束とH氏の記憶…。
そんなことがあってからしばらくしたある朝、新聞を広げると地方面の「在りし日をしのんで」というコラムに見覚えのある顔が載っていた。享年55歳。「美容院の長男として生まれた。中学からギターを始め、高校を卒業後は上京し、プロに。左利きのベース奏者としてジャズなどの舞台に立った。無口で穏やかで誠実な性格が愛された。母の身を案じながら若くして病で逝った。」と書かれていた。
思い出した。ぼくがミュージシャンのまねごとをしていた頃、バンドで一緒に何度か演奏したことのあるあのアッチャンだ。ぼくより年下だった彼は、いつも片隅に腰掛けてニコニコとほほ笑みながらみんなの話しを静かに聞いていた。でもベースの腕は確かだった。そうか、ずっと音楽してたんだ。偉いなアッチャンは。感心してみても、その彼はこの世にはもういない。
かかわりの濃淡にかかわらず、こうした事実はぼくの中に堆積していく。そしてそれは確実に増えていくのだ。生をのばしていくごとに、折り重なり厚みを増すぼくだけの記憶の大地となっていく。