「登攀者−帽子−」2002
「漂い始めた表面」2001
「油彩」 2007
「油彩」 2007

2010.8.02

今年の初春の遅い午後、ぼくは銀座の昭和通りを歩いていた。久しぶりにこちらに出向く用事があって少し時間が作れたものだから、いつも案内状を受け取るものの足を運ぶことが叶わなかった或る美術家の個展会場に向かっていた。油彩と立体作品は少し離れた二つの画廊に分けて展示されていた。最初に向かった画廊の扉を開けると、入り口付近で長身の男性が三脚を立てて作品を撮影していた。およそ20年ぶりの再会となる作家本人、橘田尚之さんだった。
高校時代から二十歳過ぎまでの間、美術を志していたぼくに最も影響を与えた人たちがいた。三つ年上の、橘田さんと田中さんという先輩である。二人は当時、キッタナカと呼ばれるほど良きライバルと周囲からも目される同級生で、ぼくは対照的などちらの才能にも惹かれていた。まず先に出会ったのが橘田さんだった。橘田さんは芸大絵画科に入学するまでの数年間、郷里に帰ってくる度に学校を訪れてはぼくらを指導してくれた。部室を訪れた数人の先輩の中でも、とりわけぼくは橘田さんから大きな影響を受けたので、いわば青春時代の師弟関係を結んでもらった人だと今でも思っている。
部活における先輩という存在は、美術に限って言えば予備校の講師のような存在といえるだろう。受験情報がほとんど入ってこない地方から美大を目指す高校生にとって、東京の予備校で浪人している先輩たちのレアな情報は何よりも貴重なものだったし、まだ入学を果たしていない先輩たちにとっても、それは後輩を指導することで自身の習熟度合いを計るよい機会となっていたのかもしれない。いま思えば信じられないほど謙虚に、ぼくらはなんでも吸収しようと身構えていた。あらゆるものがまだ青く、しなやかな芽吹きの季節だった。
石膏デッサンとは「見つめる」「描く」という単調な反復行為を通じて、存在物を形象化するプロセスの報告書のようなものだ。それを見れば、対象物をどのように観察し、解釈したのか、そして表現することができたのか如実に判断することができる。橘田さんとイーゼルを並べて石膏像に向かう度に、捉え方のスケール感の違いを痛感させられた。無口な橘田さんの姿勢は終始一貫していた。一言でいえば、それは小さく固まらないで大きく広がっていく、遠心的な絵画を目指す姿勢だ。あるいは見えないフレームの外側まで描くことができるのだと肯定する絵画を目指していたともいえる。とんだ勘違いだったかもしれないが、とにかく当時のぼくは、橘田さんの絵画と向き合う姿勢をそんな風に受け止めていた。ナビ派の画家、ピエール・ボナールのことを教えてくれたのも橘田さんだった。上京してからぼくは何度となく、その作品を見るために上野の西洋美術館を訪れた。ボナールならではの乾いた質感と、燃えたつような鮮やかな彩りは今も鮮烈に目に焼き付いている。
橘田さんの印象は一貫してぼんやりととらえどころがない。しかし出会った時から、茫洋としたヴェールの内部には強靱な意志が潜んでいることをぼくは知っていた。今ならそれをはっきりと断言することができる。当時ぼくの周囲には美術を志していた大勢の人たちがいた。そして半世紀近くたった今、表現活動を継続している人はほんの数人しかいない。
70年代は一緒にグループ展に参加していた時期もあった。その頃の橘田さんはリキテンシュタインのような歯切れの良い巨大なポップアートや、スチール部品を組み合わせたジャンクアートを出品していたこともあったが、70年代末期からは次第に作風は定まり、ぼくが美術雑誌などで橘田さんの作品を見かけるようになった頃には、酸化被膜を施したアルミニウム板による立体シリーズを本格的に展開するようになっていた。
やがて橘田さんの表現について、美術雑誌などでいくつか評論を見かけるようになる。どれもが美術界の中でしか理解されないような硬質な文章ばかりでおよそ興味をひかれるようなものではなかったが、ひとつだけ面白い指摘があった。橘田さんの立体作品は立体としての表現を目指したものではなく、平面表現を推し進める過程で結果として空間に張り出してきた平面体の集積である、とこんな大意であったかと思う。案内状には立体作品について作家自身のこんな一文も掲載されている。
「酸化皮膜を施したアルミニウム板で作った立体の内部は空洞である。一目見ればそれとわかるので視線は内部に行かず、錆の斑紋や斜めの構成等により表面を滑る。視線を風に例えると、表面の形状により浮力が生ずるのではないかと思えた。作り続けるうちに、このような身体感覚を伴った視線を得られる絵画を作りたいと考えた。」(「橘田尚之—アルミが飛ぶとき」作家訪問 美術手帳8月号1987)
立体は不思議な躍動感を宿しているのに、なぜか量感を主張することなく、あくまでも絵画的佇まいを崩さないので、鑑賞者は作家の言うように表面に視線を滑らせることになる。酸化皮膜とアルミニウムのコントラストが織りなす不思議なテクスチャーは、その境界においてさまざまな物語を紡ぎだしている。ふたつの身振りのせめぎあいから亀裂と起伏が交互に発生し、鑑賞者の視線を誘導する。それは作家がかつて辿ったであろう視線の追体験でもある。あたかも泉から同時に湧き出す悲劇と喜劇のように、対立する二項のどちらにも属さないもうひとつの場所を探し求める旅にも似た追体験とも言える。
久しぶりの再会に話もはずみ、二人して歩きながらもうひとつの会場に向かう。そこには絵画作品の小品が展示されていた。遠目には印象派絵画のようでなぜか懐かしさを覚える。このシリーズについての作家のコメントがある。
「絵画での空洞の具体化は二つの方向を生んだ。窪地や穴を描いた油彩と、キャンバスに穴をあけた作品である(キャンバスを切り抜き、アルミ板を嵌め込むと、空洞にふたをしたような気がした)。絵画を見る視線は内在するものを求めて、絵画の奥に入って行こうとする。しかし空洞が暗示されているので視線は横に逸れ、メデュームのざらつきや艶を感じながら表面を滑ることになる。」(ドローイング’90「視線の航跡」讀売新聞夕刊4/21 1990)
橘田さんは「奥行き」「視線」そして「空洞」を、常に身体感覚を仲立ちにして思考しているように感じられる。決して内部に潜り込んでいくのでなく、たわみながら外部に飛び出そうとしているかのようだ。先頃、神奈川の養護学校を勤めあげた橘田さんはやっと時間が割けるようになり、油彩制作を再開したのだそうだ。集中力を持続することが求められるという。油彩を制作するということは、そういうことだったのだ。小品を見ながらぼくは、こんな絵なら1枚欲しいなと思った。橘田さんの造形は、はじまりもなけば終わりもない。常に浮力をともなってフレームの外を希求しつづける羽ばたきの造形なのだとぼくは思う。青い時代の石膏デッサンとその原型は何ひとつ変わっていない。

from a top:
Dzogchen Institute Japan Journal
Sems 06/07 cover and inside cover
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2010.7.02

噺家の柳家小三治さんが朝日新聞のインタビューでこんなことを言っていた。「私は私。元々、私にはライバルはいません。志ん朝さんを含めて。それぞれみんな尊敬はしている。値打ちも認めている。だけど、ライバルは自分しかいない。でも、この歳になってみると、そういうのは、いささか重いですなあ。ライバルが誰かほかにいたほうが気が楽だ。(中略)だから、私は人生100年じゃあ足りないなと思う。せめて150年あったら『どうです、私のはなし、このごろおもしろいと思いませんか』って人に言える時が来るような気がする。」
そのとぼけた口調のなかに、噺家のすさまじい執念が見え隠れする。感心しながら記事に添えられた小三治さんのポートレートをぼんやり見ていると、何かチベット僧みたいに見えてきた。
そうだ、同じようなこと確か読んだことがある。「チベット僧、チベット僧」とつぶやきながら中沢新一さんの1993年に角川書店から発刊された「三万年の死の教え(チベット『死者の書』の世界)」を開くと、この記述は第一部「三万年の死の教え」のなかに見つかった。これは河合隼雄さんが主催する「日本ユング協会」における講演の記録をもとにまとめられたもので、中沢さんがチベットで仏教を勉強していた時の回想として語られている。

「もう何日も、幾晩も、密教の教えの伝授が続いていました。私の先生(ラマ)は、その伝授が終わろうとする、まさにそのとき、私にこう言いました。「さてさて、これでこの教えはいちおう終わりだ。いまこの瞬間から、お前は競争に入る。誰がライバルか。それは死だ。お前の命などは、じつにあやういもので、こうしていて、つぎの刹那に、もう命がつきてしまうということだってありうる。どんな生き物でもそうだ。命をささえ、守ってくれるものはごくわずかで、ほとんどの力は、命を破壊しようと、たえず働きかけている。だから、お前は、そのいつ襲ってくるかもしれない、しかしそれが襲ってくることだけはたしかな死というものと、競争をはじめなければならないのだ。死がお前を打ち倒してしまうのが早いか、死が襲ってくるのよりも早く、お前が真実を悟ることができるか、競争がはじまった。ぐずぐずしていることは、できない。さあさあ、よけいなことをせず、まっしぐらに目的にむかって、進んでいくのだ」。どんな人間でも、一人の強力なライバルをもっている、しかもそのライバルには容易に太刀打ちできない。そのライバルとは死で、人の人生に登場してくるさまざまなライバルなどは、すべて相対的で、実体のないイリュージョンにすぎないのに、死というライバルだけは、リアルで絶対的なものだ、そのライバルとの競争に打ち勝てるかどうかということだけが、ぎりぎりのところで、唯一この人生で意味をもっていることなのだ、とラマはことあるごとに、語っていました。」(角川書店刊『三万年の死の教え』8〜9頁)

死を生のなかに組み込む人の仕事は、必然的に普遍性を帯びてくる。深く、厳しい探求の末に語り出される真理は、世俗生活を送る私たちの心の奥にいやおうなく染み込み、深く刻み込まれることになる。
生と死をめぐる高い真理の認識が「ゾクチェン」という深遠な教えの体系に属する密教に埋蔵されていたことを、ぼくは中沢さんの数々の書籍を通じて知った。この『三万年の死の教え』の主題となっている『チベットの死者の書』の原題は『バルド・トドゥル』という。「バルド」は中間とか途中という意味があり、「トドゥル」は耳で聴いて解脱すること。死後まもない死者は聴覚を失っていないため、死者のわずかに残された聴覚を通じて、高い真理の認識に導いていく様子が『チベットの死者の書』の主題となっている。
以前ぼくがブックデザインを担当した、中沢さんが主宰するゾクチェン研究所の通信誌『セム(Sems)』でも、合併号ではバルド(Bardo)がテーマとなっていて、巻頭頁のイメージには生と死の象徴とした太陽と月が並び、その傍らには中沢さんのこんなコピーが添えられている。

人間はいつも「途上」にある生き物だ。
生きているときも、夢を見ているときも、死を迎えたときも、
そして死でさえ最後の終着点ではなく、
死後の「心」は「途上」の旅を続けるのである。

ひるがえって、生の中に死をどのように接合しているのか、あらためて自分に問いかけてみると、これは実に心許ない。悟りは遥か彼方の陽炎のようなもので、その方向すら定かではない。「三万年の死の教え」によれば、死のバルドを通過するあらゆる死者の意識体は、自分の心の本性から発生してくるさまざまな光のヴィジョンを体験することになるのだという。次第に再生の世界に近づくと前方に微弱な光があらわれはじめ、「天上の神々の世界をしめす白い薄明かり、阿修羅の世界の赤色、人間の世界の青い色、動物の世界をしめす緑の薄明かり、餓鬼の世界の黄色の薄明かり、地獄の世界の煙のモクモクとした薄明かり(三万年の死の教え・154〜155頁)」が見えてくる。間違っても黄色や黒っぽい煙のような薄明かりの世界に迷い込んではいけないと警告している。だから自分がバルドの旅に発った時、たとえ真理の認識を得ることができず輪廻という再生の道に入ってしまったとしても、決して黄色や黒っぽい煙のような薄明かりの世界に近づかないよう念じることしか、今のぼくには思い浮かばない。
「三万年の死の教え・第二部『死者の書』のある風景」の末尾には、「人生を『空』を背景にして大肯定する単独者の思考」と注釈のつけられた、このような印象的なインド人の言葉が紹介されている。

誕生の時には、あなたが泣き、全世界は喜びに沸く。
死ぬときには、全世界が泣き、あなたは喜びにあふれる。
かくのごとく、生きることだ。

子どもの頃は得体のしれない死のイメージに脅えることがあった。特に寝付きの悪い夜などには、知ってる限り不吉なイメージを総動員して、嫌だなあ、怖いなぁと、寝返りばかりうち続けていたものだ。
あるとき物心ついたぼくは、母から実はすぐ上に姉がいたことを知らされた。生を繋ぐことはできなかったけれど、お前が産まれた時には、まるでその子が生まれ変わったような気がしたものだった、そんな意味のことを言われた記憶がある。重度の認知症となってしまった母には、今となっては確かめようもないのだが10ほど年長の姉に訊ねると、それは丁度ぼくが産まれる3年ほど前、姉が小学校にあがる前年くらいの出来事だったそうだ。身篭もっていた母は前置胎盤によって母体にも危険が及ぶ状態となり、結局その子は七ヶ月ほどで死産してしまった。戦後間もない寒村で営まれたつつましい葬儀の様子を微かに姉は記憶していた。亡がらは小さな木箱に横たえられ(すでに故人となってしまった)縁者の若者ふたりによって小高い山頂の墓地まで運ばれていったという。
また、こんな出来事もあったそうだ。働きに出ていた父の代わりに、母は実家の農作業を手伝っていたので、そんな時には乳飲み子のぼくは小動物のように小さな籠に入れられて畑で過ごしたらしい。ある日、同じように畑に連れていかれていた近所の子どもが、誤って毒苺を食べて亡くなってしまった。その男の子は丁度ぼくと同じ年で、しかも同じ名前だったものだから、彼の遺族から母はぼくにその子の分まで生きてほしいと伝えられたという。その後、我が家は甲府に移り住み、こうした寒村での出来事はぼくの記憶の底に沈殿していった。
それから前のめりに生きた季節も過ぎ去り半世紀以上経つと、当たり前に暮らしていること自体、とてつもない幸運の集積の上にもたらされているのではないだろうかと感じることがたびたびある。生は本来はかないもので常に死の可能性にさらされ続けているということが次第に実感できるようになる。そして何気なく生活を送ってきたわれわれには、実はさまざまな死の影が折り重なっていたことが、少しづつ見えてくる。
そんな時、ふっと糸電話から微かに聞こえてくるとぎれとぎれの声のように、長らく忘却の彼方にあった記憶がよみがえってくるのだ。亡くなってしまった姉が生を得ていたら、ぼくが生まれることはなかったかもしれない。戦後まもない貧しい医療事情の中で母体に危険をおよぼすような出産だったら、やはり今のぼくはいなかったかもしれない。この世界に存在している自分は、おびただしい偶然や幸運の欠片に包み守られながら、今生を旅している途上の人なのだ。
同世代の作詞家松本隆さんは、常にこれが絶筆になってもいいと思えるような仕事をしようと心がけているという。自分はもうそんな年代を生きているのだと…。そう自覚してみると、ぼくもこれからは背後にふたつの小さな守護の気配を感じながら生きていくことができるような気がしてくるのである。

Completion photograph of Bosco Company Limited
1991.4

2010.6.01

美大を志す受験生時代、すでに芸大生となっていた知り合いに会うために上野の校舎を訪れたことがある。ひんやりとした無人の室内の高い天井から差し込む自然光を浴びて、描きかけのイーゼルが立て掛けられていた。不在の作者が向き合っていたのは大理石の彫像だった。ぼくがそれまで見慣れていた石膏像とはまったく異なる重厚さで、その彫像は空間に鎮座していた。自然光に満たされた贅沢な空間で存在感のある彫像と向き合うというゴージャスな雰囲気に少し気圧されていたのかもしれないが、ぼくは描きかけのデッサンに圧倒されてしまった。ザックリと塊をわしづかみする迫力は初めて目にする種類ものだった。ディティールの装飾表現なんてどうでもいいこと。大切なことは包み込む空間との関係性の中から、確かな存在感として塊を掴み出すこと。マッスがわきあがるような描きかけのデッサンはそんな風にぼくに語りかけていた。知り合いからそれが彫刻科の学生による習作だったことを知らされ、画家とは異なる彫刻家の対象物と向き合う姿勢の違い見せつけられた出来事だった。
またある時は、建築雑誌の編集者として出版社に就職していた先輩を訪ねたことがある。この雑誌は和英バイリンガルで海外の建築情報を伝える唯一の月刊誌として1971年に創刊された「a+u(Architecture and Urbanism)」。いまだに国内外の建築界に大きな影響を与え続けている雑誌だが、まだその産声をあげたばかりの編集部の雰囲気はとても知的で硬質なものだった。建築ってちょっと難しそう、でも哲学的で頭の切れる恰好良い兄貴みたいだな、と田舎者の受験生はその時出会った新鮮なジャンルを見上げて思ったのだった。
その頃からグラフィックよりワンディメンション高次な、こうした空間表現への憧れがぼくの中には少しづつ芽生えはじめてきたのだが、人にはいくつかの能力というものが与えられていて、もちろん与えられなかった能力というものもある。存在感を塊で捉えたり、さまざまな種類の光の在りようを柔軟に構想したり、空間を造形するという能力には限界があることをやがてぼくは気づかされることになる。それでも建築や家具やさまざまなプロダクトへの興味は薄れることはなく、ならばぼくは制作者としてでなく、これからは愛好者として楽しんでいこうと思い定めた。
それからというもの、暮らし働く空間にも自分なりの楽しみを見出して生活してみたいと願い(もちろん収入に見合ったレベルでという条件付きではあるが)相応の投資もしてきた。1991年に完成した仕事場は、ある意味ではぼくの建築に示し続けた情熱へのささやかな記念碑と言えるのかもしれない。
しかし「あれもしたい、これも欲しい」と、この愛好道にはきりがない。そこでぼくはそんな自分の気持ちを一度封印してみることにした。ある人の死がそのきっかけとなった。縁あってその人は長い間ぼくを愛好道に誘ってくれた人物だったが、2003年突然病に倒れ、50代の若さでこの世を去ってしまったのである。ほどなく有志たちによる追悼誌制作の呼びかけがあり、ぼくも関連資料とともに追悼文を送ることにした。ところが残念ながらいろんな事情があって結局この構想は頓挫してしまい、その後ぼくの追悼の気持ちも数年間漂い続けることになる。この死によってぼくの中でひとつの時代が終わりを告げたのは確かなことだった。だから新たな建築を愛好する情熱が次章へと移行していくためにも、ぼくはこの場を借りてその人物に7年ぶりの幻の追悼文を捧げてみたいと思う。

葺き続けた、工芸の甍

私は一高美術部に入部して程無く、4年ほど年長のT.Kさんと出会った。当時大学浪人していたT.Kさんは、よく放課後になると部室にやってきては在校生にまじってイーゼルに向かい、鉛筆デッサンや静物水彩画を描いていた。時折気が向くとぼくらを誘ってはバスケットボールなどで一緒に汗を流すこともあった。T.Kさんは当時まだ珍しかった長髪をなびかせ、目に染みるような鮮やかな赤いセーターを着込んで、よくイーゼルに向かっていた。先取りした大人のイメージを重ね合わせ、そのお洒落な後ろ姿を高校生の私はかすかな憧れをこめて見つめていたことを思い出す。
T.Kさんと再会したのは、石油ショックの混乱から世間がやっと落ち着きを取り戻してきた、それからおよそ10年後の事だった。当時、何となくおさまるところにおさまってきたという感じでグラフィックデザイナーになっていた私は、結婚を機に思い切って自宅を建てようと考えていた。丁度そんな折、あのT.Kさんが甍工芸という建築設計事務所の代表をしていることを知り、相談に乗ってもらうことにしたのだ。設計は後に甍工芸に合流することになる弟のMさんとYさん夫妻が担当し、(弟さんも美術部では私の先輩にあたり、当時、夫妻はまだ共に積水ハウスに勤務していた)T.Kさんは全体をプロデュースする立場で甍工芸の運営にあたっていたのだが、黙って相手の話をじっくりと聞き込み、しばらくたってこれしかないというプランをそっと出してくる甍工芸らしい仕事ぶりはすでにその時には完成されていたような気がする。
こうしてすっかりT.Kさんへの信頼を寄せることとなった私は、再会してから15年ほどの間に、自宅の新築と増築改築、そして仕事場となる社屋の新築と増築、さらにもうひとつの社屋の新築をお願いすることになったのだ。
注文の多い、手のかかる施主だったにもかかわらず、懐深く受け止め、それぞれの時期にその要求以上の上質な空間を見事に作り上げてくれた。同じ敷地内に同じ設計事務所の作品が3棟並ぶというのもめずらしいことなのではないだろうか。今にして思えば、公私ともに人生の大半の時間を過ごすことにもなったこれらの生活・労働空間から、私たちは想定以上に多くのものを授かってきた。そしてこれまで生み出してきた仕事の数々は、T.Kさんらが構想してくれた空間から多くのインスピレーションを与えられ、加護されてきたような気がしてならないのである。
二人で出かけた神戸への視察旅行や、まだ購入は無謀だと言われていた頃のパソコン〈Macintosh Plus〉を新しもの好き同志で一緒に買ったことなど、共有してきた多くの思い出は挙げていけばきりがない。
高校時代から生粋のモダニストと信じて疑わなかったT.Kさんから、実は自分は田舎者でいつも都会的な友人には劣等感をもっていたのだと告白された時の驚きも今となれば懐かしい。聞いた時には矛盾しているという戸惑いもあったが、今ではすっかり腑に落ちている。矛盾していない人間などどこにもいないからだ。
T.Kさんには、生来授かっていた才能がいくつもあった。特に物事を大掴みして捉える直感力には傑出していたと思う。モノづくりするために一番必要とされる能力である。T.Kさんが敬愛してやまなかった故 倉俣史朗氏に年々風貌が似てきたのも、何か深い因縁を感じてしまう。若い頃、北欧デザインを全身で吸収し、じっくりと濾過しながら熟成させてきたその鋭敏な感覚は、特に家具やインテリアの分野で発揮されてきたように思う。素材感にも鋭い峻別能力を見せ、いつもそのチョイスは素早く的確であった。
私は生前、説教じみたことを言われた記憶は一度もないが、多くのことを教えられ、与え続けてもらってきたのだと実感している。やはり早世の感は否めないが、工芸という甍を葺き続け、その才能を存分に展開しきった人生だったと思う。細やかな気遣いと無邪気さが同居していた。酒好きで無類の人好き、そして何よりも「本物」を愛した人だった。T.Kさん、ありがとう。どうかやすらかにお眠りください。

Picture Book : Gorsch the Cellist
(Kenji Miyazawa & Takeshi Motai) :
Portrait : Pablo Casals (1876-1973)

2010.5.03

窓の外には曇り空に覆われたグレイッシュトーンのパリの街並が広がる。静けさに包まれた室内に、やがて艶やかな音色が満たされていく。チェロを奏でる一人の女性。その傍らのベッドには老人が静かに横たわっている。彼の名は、フランソワ・モリス・アドリヤン・マリー・ミッテラン(François Maurice Adrien Marie Mitterrand)。
フランス第五共和政の第4代大統領ミッテランは病の床についていた最晩年、自室にチェロ奏者を招き演奏に耳をかたむけていたという。追悼記事からの記憶だったか定かではないが、チェロの演奏を聴くとこの映画のワンシーンのような光景を時々思い浮かべることがある。
チェロはとても不思議な楽器だ。その音色は空を舞うようなヴァイオリンの軽やかさでもなく、地を這うようなコントラバスの重々しさでもない。空と地の間で人に寄り添い静かに語りかけてくるのだが、同時にもっとも無伴奏にふさわしい楽器としての超然とした孤高さも合わせ持っている。そんな親密性と孤立性を内包するアンビバレントな楽器だと思う。
一時期、ぼくはピエール・フルニエ(Pierre Fournier)のノーブルな演奏がおさめられた有名なバッハの無伴奏チェロ組曲(BWVシリーズ)のCDをくり返し聴いていた。また、ある時はチェロより古い楽器だというヴィオラ・ダ・ガンバ(Viola da gamba)に夢中になり、マラン・マレー(Marin Marais)の宮廷音楽をはじめ、さまざまなヴィオラ・ダ・ガンバの古楽曲を収集してi-Podにストックしたりしていた。
さらに忘れ難いチェロ奏者がいる。スペイン・カタルーニャ生まれのパブロ・カザルス(Pablo Casals)だ。彼のエレガントで香り高い楽曲はほんとうに素晴らしい。カザルスは生前「平凡な速度」という言葉を残しているが、ここにカザルスの本質が語り尽くされていると思う。音楽の出発点はまずその速度にあるわけで、カザルスの「平凡な速度」には、譜面や数値には決して置き換えることのできないさまざまに微妙な抑揚が宿されている。平和活動家としての側面も見せながら、終生自然に抗うことなく淡々と雄々しさと無邪気さを並走させてみせたこの演奏家は、まるで腕の立つ心優しい園丁のようだった。
さてチェロといえば、宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」も思い出深い。子どもの頃に買い与えられ、ボロボロに破れすっかり黄ばんでしまった絵本「セロ弾きのゴーシュ」は今もぼくの小さな宝物だ。この絵本は1958年に福音館書店から配刊され、賢治の原作を佐藤義美が子ども向けに書きなおしたもので、絵は茂田井武が担当しているが、それからぼくはこの絵本を超える「セロ弾きのゴーシュ」に出会うことはなかった。何と言ってもその魅力は、絵の力に拠るところが大きい。茂田井武の代表作にもあげられているこの作品は、年譜によると1956年に死の床で描き上げられたものだという。そのタッチはカザルスの「平凡な速度」と同質の、決して記号化することのできない無限といってよい豊かな調子によってつくりだされている。
音楽をつくりだす、ということはどういうことなのだろう。それはつまるところ「生きとし生けるものの生の営みにシンクロする行為なのだよ」と絵本はぼくに語りかけてくる。演奏は生の営みの息遣いにほかならない。そして音色が息遣いとなったとき、ジャンルを問わず音楽は初めて「強い音楽」として生まれ変わるのだと…。幸いにも、ぼくは人生に光沢を与えてくれるたくさんの「強い音楽」とこれまで出会うことができた。
最後に、ひとつだけ最近出会った「強い音楽」を紹介してみたい。時折ぼくは仕事の手を休め、若者にヨウツベと呼ばれる「You Tube」にアクセスをする。ここには世界中から投稿されるさまざまな動画がストックされているので、興味のあるミュージシャン名を検索してライブ動画をチェックしたりしていると、思わぬ掘り出し物が見つかることがある。
ある日探し出したのはライ・クーダー(Ry Cooder)とニック・ロウ(Nick Lowe)の2009年のツアーライブ動画。Madrid、LiverpoolやAmsterdamなど各地でのライブの模様を観客が撮影したものなので決して音質は良くないし、手ぶれしたり周りの話し声なんかも入っているけど、それはそれで実際に会場に紛れ込んでいるようなリアリティがあるというものだ。チェックしているとあっという間に20タイトルくらい集まってしまい、ちょっとしたLive Stockが出来上がる。ぼくはこの動画をフリーソフト「RealPlayer Converter」などでPCにダウンロードしてからUSBメモリーに保存し、MacBook Proにイアホーンを差し込み「Adobe Media Player」で好きな曲を再生して楽しんでいる。(いろんな動画再生PlayerアプリがあるがAdobe Media Playerは使い勝手がよくデザインも美しいので気に入っている。また「You Tube」の動画は再生しているURLの末尾に「&fmt=16(&fmt=6や&fmt=18でもOK))」と打ち込むとアラ不思議、とたんにきれいな画質になるので一度お試しあれ)
ライ・クーダーが初来日した時には、2007年に閉館してしまった虎ノ門のイイノホールまで出かけて溌剌とした音楽を堪能したが、スリムなベース・ギタリスト、ニック・ロウの横に立つ2009年のライ・クーダーは随分恰幅もよくなって、それなりに年を重ねてきたことを実感させられる。しかしその名人技は健在で、ますますその円熟味を増している。ストーンズ(The Rolling Stones)の名曲「ホンキー・トンク・ウーマン(Honkey Tonk Woman)」のリフは、実はスタジオミュージシャンとして呼ばれていたライ・クーダーの練習風景の音源をキース・リチャーズ(Keith Richards)にコピーされたものだったことは有名な話だが、キースの気持ちも分かるよと言いたくなるくらい彼のボトルネック奏法は本当に魅惑的だ。この「You Tube」に投稿された「自警団員(Vigilante Man)」で繰り広げられているスライドギターは、ぼくが最近出会った掛け値なしの「強い音楽」といえるだろう。

from
Office Relocation Iinformation :
Hirano Kotaro Design Laboratory

2010.4.02

丸亀市・猪熊弦一郎現代美術館のVI/サイン計画、そして八幡ねじの一連の仕事などで知られるグラフィックデザイナーの平野湟太郎さんから、先月初旬に事務所移転の通知が届いた。移転先は何と奈良吉野。オフィスは緑深い吉野の守護山を背後にいただき、割烹かと見まごうばかりの佇まい。なんでも縁あったのは2年ほど前のことで、以来、移転の準備を進めてきたのだそうだ。
ところで、大河ドラマ「龍馬伝」のアートディレクションでも活躍中の居山浩二さんからも、以前オフィスを新築して移転したとの案内があった。転居地は文京区千石。ここは湯立坂や小石川植物園、東大総合研究博物館分館などが点在する風情ある渋い土地柄。どうしてまた南青山からこの地を選んだのかと尋ねてみたら、このエリアに魅かれて実はもう9年近くも住んでいたのだと聞かされ、南青山はデザイナーの聖地なんて言われたのはもう過去の話なんだと実感した。しかし、今回の平野さんの場合はさらにバージョンアップされていて、その選択はなんともラジカルで新世紀にふさわしい清々しさを感じる。
ぼくもずっと地方山岳部の裾に居を構えて仕事をしてきたので、自分は山裾デザイナーだと密かに思っている。こうしたロケーションを特に強く意識して選択したわけではないが、結果的に「都心に近すぎず、遠すぎない」この微妙な距離感は案外自分のデザインにも影響を与えているような気がしている。もちろんデザインと向き合う時には、都市と地方の差なんて何もない。「地方だからねえ」なんて言い訳はできないし、隔てているものがもしあるとすれば、それは人口密度の差による設定条件の違いくらいで質的条件は何ら変わることはないだろう。また、地域性や風土もことさら意識する必要はない。それは結果として無意識の背後から滲み出てくるようなものなので、極力自然体を心がけることにしている。それより関心あるのは、時代との距離感覚。ぼくはどちらかといえば流されやすい質だから、激流から少し距離をおいていると案外自分の漂っている座標点が浮かび上がってくるような気がするのだ。平野さんの場合は根を下ろす環境に対してかなり意識的な選択をしていて、あいさつには次のように書かれている。
「私はここで自然と人と社会とが、新しい繋がりを築ける方法と、そのデザイン活動を考えていきたいと思います。また、日本文化発祥の中心地で学び、近代デザインが忘れてきてしまった、日本文化とデザインの繋がりを再発見していきたいと思っております。一度、自分を“空”に戻して日本、地球全体を視野に入れ、再出発致します。」
ぼくが平野さんと出会ったのは15、6年ほど前にさかのぼる。新宿にある出版社・朗文堂が主催する講演会や勉強会に参加した際だったと記憶している。
朗文堂はデザイン書の出版社として、また文字組みの専門家集団(組版工学研究会)として、書体研究者の片塩二郎氏を中心に日本のタイポグラフィ界を精力的に牽引していた。平野さんと出会った当時、片塩氏は3人のデザイナーとともにエボルーション・グラフィックスという実験的なデザイン集団を結成し、タイポグラフィを通じてラジカルな試みを開始しようとしていた時期でもあった。ほどなく(結局1号のみとなってしまったが)「evolution 1」が発刊された。それは20世紀に誕生したモダンデザインを俯瞰させる結晶体のような美しい実験誌であった。コアメンバーとなっていた3人のデザイナーは、徳島を拠点に活動していた板東孝明さん(現在は武蔵野美術大学基礎デザイン科教授)、東京でエディトリアルデザインを中心に活動していた西野洋さん、そして塚本昌都さんである。その後、西野さんとは長きにわたり親交を重ねることとなり、今もぼくにとってのフォント教師、よき相談相手でもある。同業者でありながら職業意識から解き放たれ自由闊達に意見交換ができる関係は年を重ねるほどに貴重なものとなり、西野オフィスはぼくのまたとないデザイン定点観測地となっている。
こうした縁のそもそものきっかけは、ぼくが会社を立ち上げた時に作った小さなブローシュアが引き寄せてくれたものだった。当時懇意にしていた高知のデザイナーに送り届けられたその小さな冊子が、どういう経緯か徳島の坂東さんの目にとまり、山梨にこんなデザイン・オフィスがあるという情報が片塩さんに伝わって、ある日、この二人がはるばるボスコを訪れてくださった。その日を境に地方都市で我流なデザインに明け暮れていたぼくは、モダンデザインや多様なフォントの世界に魅せられていった。それから数年間、朗文堂を中心にしたデザインやフォントの研究会などに参加してモダンデザインのエッセンスを吸収しながら、集ってきた多くのデザイナーたちとの出会を重ねていった。和洋を折衷でなく深層において巧みに融合した寡黙でシャイなデザイナー美登英利さんや、「くくのち学舎」の折紙講座でもお馴染みの折形デザイン研究所主宰の山口信博さんらと会ったのもここでのことだった。そして平野さんもその中の一人だった。平野さんは92年にJAGDA新人賞を受賞したので、初めて会ったのはおそらくこのデビューまもない頃だったと思う。どんな会話を交わしたのか覚えていないが、口元を少し曲げて語る控えめな口調が印象的だった。それからはデザイン雑誌に掲載された関連記事を見て活動ぶりを知るくらいで再会することはなかったから、突然の通知を懐かしい思いで開封したのだった。
受け取った当日、ぼくは「ドイツの片田舎グムントにはBaumann & Baumann夫妻がいます。そして奈良吉野にはこの春から平野さんのデザイン研究所が誕生しました。山岳地デザイナーとしては心強いかぎりです。」と、こんなお祝いメールを送っていた。すると早速届いた返信には「長い間、小林さんやバウマンさんのお仕事のスタンスをとても羨ましく思っておりました」と書かれていた。そんな風に意識してもらっていたことはとても光栄なことだけど、バウマン夫妻の隣りに据えられることは恐れ多いことである。
バウマン&バウマンは僕と同年代のゲルド(Gerd Baumann)&バーバラ(Barbara Baumann)夫妻によるドイツ人のデザインユニット。Mercedes-BenzやSIEMENSといったメジャーな仕事でも注目される彼らが活動拠点としているのは、都会でなくドイツでもスイス・フランス国境に近い山あいの盆地、シュヴェービッシュ・グムントという古い小さな町である。そこで彼らは機能美から美しさが滲み出してくるような多くの素晴らしいデザインを、ドイツ人らしい堅固な気質で積み重ねてきた。その中のひとつ、シェイフェレンというドイツ製紙会社の「紙の見本帳」デザインに衝撃を受けた片塩さんらのアプローチによって、タイポグラフィを仲立ちとした日独デザイン交流が開始された。ぼくは1994年10月来日の際に開催された「Baumann & Baumannデザインの思想とその表現」と題する講演後のパーティに参加してバウマン夫妻と対面した。ロジカルで冷静なバーバラと悪戯っ子のように感情をあまり隠すことをしないゲルド。彼らにことのほか親しみを感じたのは、同年代であることやデザインパートナーが存在することに加えて、彼らの活動拠点が長閑な山あいの盆地であったことにもよる。
もっともバウマン&バウマンらしさが発揮された仕事に、ボンのドイツ連邦議会議事堂デザインがあげられる。建築家ベーニッシュの指名で彼らが担当したのはサイン計画や空間デザイン、掛時計やエレベータ階床ボタンといったプロダクトの数々や庭園に据えられるオブジェに至るまで、建築に付随するすべての領域に及んでいた。そしてこのガラス張りでモニュメンタルな美しい建物のガラス面には、彼らの発案でエルンスト・ヨンデル(Ernst Jandl)の詩がリズミカルに配され、硬質な機能美にさざ波のような可憐さが組み込まれている。それはドイツの歴史を強く意識しながら、あるべき民主主義を緻密に考察した末に導き出した、抑制された造形美をたたえた形象でもあった。
そこで彼らがデザインに用いた書体は89年にオトル・アイヒャー(Otl Aicher)が完成させたローティス(Rotis)1書体のみ。その禁欲的姿勢はヨーロッパに深く潜行するプロテスタンティズムを想起させるが、それまで採用していたフルティガー(Adrian Frutiger)作によるユニバース(Univers)からこのローティスへと移行するため、バウマン夫妻は何年もにわたる試行と討論を重ね、自分たちのデザインの根幹を支えるフォントを執拗に吟味したという。
彼らは「デザイン」を「スタイル」の対極に置き、「ゲシュタルトゥンク=形成」という考え方を通じて捉えようとしている。抑制から自由を挑発したり、読み取る行為を深い思考にまで誘い、最小限で簡潔な手段を用いて最上の到達点を目指す。本当に重要なことは表面的な形態でなく総合的なプロジェクトであって、ゲシュタルトゥンクとは開発と修正を繰り返す過程そのものなのだと主張する彼らの硬質な方法論は、極東の島国においては完全に捉えきることのできるものではなかったが、彼らのデザインを見ればひと目でそのしなやかな感性と職人気質に支えられた必然性を感じとることができる。やはり視覚言語の伝達力は力強く、重層的だ。
早春の或る日届いた1通の郵便物には、ぼくのモダンデザインとの清々しい出会いの記憶もそっと挟み込まれていた。ドイツのグムント、奈良吉野、そして甲州の山あいと、ユーラシア大陸を跨ぐ山裾デザイナーの見えないネットワークを夢想しながら、ぼくは過ぎ去った歳月のほろ苦さとともに、その記憶の先にある未来の古典としてのデザインに想いをめぐらせていた。

2010.3.02

小さい時分の通信簿やら表彰状、絵や作文などは誰でも少しばかりは側に取り置いているのではないだろうか。ぼくの場合はずいぶん前に几帳面にヒモで束ねられて母から渡されていたのだけど、長いこと棚の奥に放ったままにされていた。先日思い立って解いてみると、黄ばんだ紙束は封印を解かれたとたんざわめきたち、懐かしさと気恥ずかしさが同時にぼくの中にこみあげてきて、思わず一枚づつ見入ってしまった。
ふと、その中に挟まれていた10センチ四方ほどの小さな水彩画を発見する。裏を見ると懐かしい筆跡で、「題名『少女』三枝茂雄」とある。この人物はぼくの高校時代の美術教師で、国画会に所属する画家だった。ぼくがまだ中学生だった頃、両親とは若い頃から表現活動を通じて親交を深めていた先生がわが家を訪れたことがあった。絵が好きな子だとでも紹介されのだろうか、ぼくの顔を見るなり「絵を勉強したいんだったらぼくの教えている高校に来なさい」と話しかけられた。そんなことがあってぼくは先生が顧問をしていた高校の美術部で、入学後の3年間にわたってほぼ毎日顔をつき合わせながら指導を受ける日々を送ることになった。
先生は芸大で日本画を専攻したので日本画家と呼ばれることが多かったが、日本画や油彩、水墨着彩画などをミックスした独特の画風を確立し、中国故事や漢詩を多く題材とした類例のない素晴らしい作品群を生み出した。また、深い造詣を示した漢詩や書も絵画作品とともに高い評価を受けていた。「今度生まれ変わったら、俺は中国の古典文学や書をもっと本格的にやりたいんだ」と熱っぽく語っていたことを思い出す。その遺志を継がれたかのように、ご子息の三枝茂人さんは現在、名古屋外国語大学の准教授として中国語学科で教鞭をとられている。三枝先生にまつわる思い出は尽きないのだが、こういう人物こそが芸術家と呼ぶにふさわしいほんとうの芸術家というのだろう、とぼくはずっと思っている。リブロポートから出版された菊地信義さんの「装幀の本」をたまたま眺めていた時、掲載されていた吉村貞治さんの「歴史のなかの巨人たち」の書籍カバーに先生の作品が使われていたのを見つけてとてもうれしくなってしまったこともあった。そして1994年に山梨県立美術館で遺作展「三枝茂雄展」が開催された際、同級生だった中沢新一さんがぼくが装幀を担当した図録に「ピューリファイ(浄化)」という文章を寄稿してくれた。「この高校へ来てよかった、と思った。私はそのとき、三枝先生の中に、真実の大人というものを発見できたからである。」中沢さんは、あきらかに他の教師たちとは著しく異なっていたこの三枝先生の中に、早くから「浄化された芸術」を見いだしていたのだ。こうしてぼくの人生にも、少なからず影響を与えることとなったこの人物のことは、あらためていつかゆっくり回想してみたい。
発見した水彩画に話しを戻そう。なぜこの絵がここに残されていたのかは定かではないが、左上隅に1954と記されているのでぼくが4歳の頃描かれたことになる。これはまったくの想像にすぎないのだけれど、この絵のモデルは9歳年長のぼくの姉なのではないかとその時思った。この年13歳だから年格好も符合する。なんらかの契機があってモデルとなり、先生から両親に手渡されたものなのではないだろうか。身を削るようにしていろんなものと格闘しながら制作し続け、抉られた痕跡のような鋭く厳しい筆線が持ち味の画家が実は少女好きであったことはあまり知られていない。生前多くの少女像を残しているが、この絵の柔和な筆使いからも、しばし羽根を休める鳥のような穏やかな作者の心情を感じとることができる。
ところで、紙束の中にはぼくの絵もたくさん残っていた。しかしどれを見ても呆れてしまうほどヘタクソで気が滅入ってしまった。上手い下手以前に、これを描きたいのだという意志というものがまったく感じられない。これで絵が好きだったなんて恥ずかしい、見なけりゃよかったと後悔した。ただ1枚だけ、これは似ていると感じた母の絵があった。小学校2年生の時に描いた「おかあさんのかお」と題された絵だ。もちろんヘタクソに変わりはないのだけれど、ここには当時の母の雰囲気がとてもよくあらわれている。例外的に描きたいものを思い定めて筆を取った、そんな感じが伝わってくる絵になっていると思う。
子供の頃の母の記憶といえば、和服に割烹着で和裁をする姿が焼き付いている。家計の足しにとはじめたのだろう、チャコや指ぬきを駆使して四六時中縫い物ばかりしていた。ぼくの知る母は、新聞記者として不規則きわまりないサラリーマン生活を送っていた父を支える専業主婦となってからの母なのだが、結婚前は国鉄に勤め、当時ではまだめずらしいと言われたキャリアウーマンで、県内で初めて個人向け国債を購入した女性ということで新聞に載ったこともあったそうだ。また、文学少女でもあった母は若いころから詩作に夢中になり、ある文学サークルで父と出会ったのだと聞いている。戦前戦中は父の赴任にともなって満州、青島と移り住み、その地で生をえた姉と兄を育てながらもノートを手離すことはなかったという。以降終生、詩作を寄す処とし、地元新聞の詩の選者を務めたり、30号で2003年に休刊するまで「交響」というささやかな同人誌も主宰していた。表紙にはいつも三枝先生の描いた鳳凰の絵が配され、出来上がるたびにぼくと妻の名の入った新刊2冊を律義に届け続けてくれた。詩集も過去4冊を自費出版するなど、その制作意欲が衰えることはなかったが、息子のぼくは決して熱心な母の読者とはいえなかった。詩集も装幀まではしたものの、肝心の詩となるとページを開く手がなぜかとたんに重くなる。母とぼくは性格が似ていると言われることもあるせいか、歳をとってからも会うといつも口喧嘩ばかりしていたような気がする。生来の傷付きやすさをガードするかように形成されてきた狷介さが、時として容易に受け入れ難い弱さと映っていたのかもしれない。包み込むような豊満な母性を感じさせる人ではなかったが、それでも母なりのやり方でぼくらに愛情を注ぎ、育ててくれた。この絵に寄り添うように作文が残っていた。面映ゆいが全文掲載してみたい。

ぼくの母

5年1組 小林春生

ぼくの母は手がごわごわしていて、ゆびがふとい。よく見るとたくさんのくろうが、その手にしみこんでいるようだ。ぼくのべんきょうも、ぼくいじょう、ねっ心だ。
しかしぼくとしても母にたいしていけんがある。たとえば夜暗い所で本をよんでいるので、めがねをかけている母がよけい目が悪くなってはこまるので、明るいたまにかえてやろうとしたら「すぐよんでしまうから、でんきなんかつけなくてもいい」といった。ぼくは、くやしかった。そういう時は、きもちよく「それじゃあ、たのむわ」といってくれれば、ぼくも気もちがいいのにと思った。
時々は二人でえいがを見にいく。むずかしい所は母がかいせつをしてくれる。「刑事」というイタリアえいがを見た時は、母はすっかり感げきして二日ばかりはすてきだった場面や、あんなことばがよかったなどとそればかり話していたが、それからまもなくそのえいがの歌がラジオやテレビではやってきたので母はすっかりおぼえてしまった。兄のウクレレを時々だして楽しそうにひいている。おとくいの曲は「きよしこの夜」や「スワニー河」などだ。母のばんそうで僕が歌う。
この間は、桑原先生(当時ぼくはこの桑原福保先生の主宰する画塾に通っていた)の絵の展らん会を見につれていってくれた。フランスの町や、寺の風景やスペインのけしきばかりだった。そのうち父がきたのでいっしょにみて回り、イスにこしかけて休みながら好きな絵はどれかなどと話しをした。緑の森を馬が三頭、だれか乗ってゆっくり走っているきもちよい絵があった。母は「ブロンニューの森」というその絵が好きだといった。僕も森の緑の色がいいと思ったので、好きな絵が母といっしょだったからうれしかった。「もし子供のためにかざるのならあの絵がいいですね」と母は小さい声で父にいっていた。

昔は分からなかったことがある。今となって少しだけ分かることもある。そしてやはり永遠に分からないことだってある。
重度認知症という濃い霧に包まれて、小枝のようにひっそりと横たわる母は今日、93回目の誕生日を迎えた。