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Office Relocation Iinformation :
Hirano Kotaro Design Laboratory

2010.4.02

丸亀市・猪熊弦一郎現代美術館のVI/サイン計画、そして八幡ねじの一連の仕事などで知られるグラフィックデザイナーの平野湟太郎さんから、先月初旬に事務所移転の通知が届いた。移転先は何と奈良吉野。オフィスは緑深い吉野の守護山を背後にいただき、割烹かと見まごうばかりの佇まい。なんでも縁あったのは2年ほど前のことで、以来、移転の準備を進めてきたのだそうだ。
ところで、大河ドラマ「龍馬伝」のアートディレクションでも活躍中の居山浩二さんからも、以前オフィスを新築して移転したとの案内があった。転居地は文京区千石。ここは湯立坂や小石川植物園、東大総合研究博物館分館などが点在する風情ある渋い土地柄。どうしてまた南青山からこの地を選んだのかと尋ねてみたら、このエリアに魅かれて実はもう9年近くも住んでいたのだと聞かされ、南青山はデザイナーの聖地なんて言われたのはもう過去の話なんだと実感した。しかし、今回の平野さんの場合はさらにバージョンアップされていて、その選択はなんともラジカルで新世紀にふさわしい清々しさを感じる。
ぼくもずっと地方山岳部の裾に居を構えて仕事をしてきたので、自分は山裾デザイナーだと密かに思っている。こうしたロケーションを特に強く意識して選択したわけではないが、結果的に「都心に近すぎず、遠すぎない」この微妙な距離感は案外自分のデザインにも影響を与えているような気がしている。もちろんデザインと向き合う時には、都市と地方の差なんて何もない。「地方だからねえ」なんて言い訳はできないし、隔てているものがもしあるとすれば、それは人口密度の差による設定条件の違いくらいで質的条件は何ら変わることはないだろう。また、地域性や風土もことさら意識する必要はない。それは結果として無意識の背後から滲み出てくるようなものなので、極力自然体を心がけることにしている。それより関心あるのは、時代との距離感覚。ぼくはどちらかといえば流されやすい質だから、激流から少し距離をおいていると案外自分の漂っている座標点が浮かび上がってくるような気がするのだ。平野さんの場合は根を下ろす環境に対してかなり意識的な選択をしていて、あいさつには次のように書かれている。
「私はここで自然と人と社会とが、新しい繋がりを築ける方法と、そのデザイン活動を考えていきたいと思います。また、日本文化発祥の中心地で学び、近代デザインが忘れてきてしまった、日本文化とデザインの繋がりを再発見していきたいと思っております。一度、自分を“空”に戻して日本、地球全体を視野に入れ、再出発致します。」
ぼくが平野さんと出会ったのは15、6年ほど前にさかのぼる。新宿にある出版社・朗文堂が主催する講演会や勉強会に参加した際だったと記憶している。
朗文堂はデザイン書の出版社として、また文字組みの専門家集団(組版工学研究会)として、書体研究者の片塩二郎氏を中心に日本のタイポグラフィ界を精力的に牽引していた。平野さんと出会った当時、片塩氏は3人のデザイナーとともにエボルーション・グラフィックスという実験的なデザイン集団を結成し、タイポグラフィを通じてラジカルな試みを開始しようとしていた時期でもあった。ほどなく(結局1号のみとなってしまったが)「evolution 1」が発刊された。それは20世紀に誕生したモダンデザインを俯瞰させる結晶体のような美しい実験誌であった。コアメンバーとなっていた3人のデザイナーは、徳島を拠点に活動していた板東孝明さん(現在は武蔵野美術大学基礎デザイン科教授)、東京でエディトリアルデザインを中心に活動していた西野洋さん、そして塚本昌都さんである。その後、西野さんとは長きにわたり親交を重ねることとなり、今もぼくにとってのフォント教師、よき相談相手でもある。同業者でありながら職業意識から解き放たれ自由闊達に意見交換ができる関係は年を重ねるほどに貴重なものとなり、西野オフィスはぼくのまたとないデザイン定点観測地となっている。
こうした縁のそもそものきっかけは、ぼくが会社を立ち上げた時に作った小さなブローシュアが引き寄せてくれたものだった。当時懇意にしていた高知のデザイナーに送り届けられたその小さな冊子が、どういう経緯か徳島の坂東さんの目にとまり、山梨にこんなデザイン・オフィスがあるという情報が片塩さんに伝わって、ある日、この二人がはるばるボスコを訪れてくださった。その日を境に地方都市で我流なデザインに明け暮れていたぼくは、モダンデザインや多様なフォントの世界に魅せられていった。それから数年間、朗文堂を中心にしたデザインやフォントの研究会などに参加してモダンデザインのエッセンスを吸収しながら、集ってきた多くのデザイナーたちとの出会を重ねていった。和洋を折衷でなく深層において巧みに融合した寡黙でシャイなデザイナー美登英利さんや、「くくのち学舎」の折紙講座でもお馴染みの折形デザイン研究所主宰の山口信博さんらと会ったのもここでのことだった。そして平野さんもその中の一人だった。平野さんは92年にJAGDA新人賞を受賞したので、初めて会ったのはおそらくこのデビューまもない頃だったと思う。どんな会話を交わしたのか覚えていないが、口元を少し曲げて語る控えめな口調が印象的だった。それからはデザイン雑誌に掲載された関連記事を見て活動ぶりを知るくらいで再会することはなかったから、突然の通知を懐かしい思いで開封したのだった。
受け取った当日、ぼくは「ドイツの片田舎グムントにはBaumann & Baumann夫妻がいます。そして奈良吉野にはこの春から平野さんのデザイン研究所が誕生しました。山岳地デザイナーとしては心強いかぎりです。」と、こんなお祝いメールを送っていた。すると早速届いた返信には「長い間、小林さんやバウマンさんのお仕事のスタンスをとても羨ましく思っておりました」と書かれていた。そんな風に意識してもらっていたことはとても光栄なことだけど、バウマン夫妻の隣りに据えられることは恐れ多いことである。
バウマン&バウマンは僕と同年代のゲルド(Gerd Baumann)&バーバラ(Barbara Baumann)夫妻によるドイツ人のデザインユニット。Mercedes-BenzやSIEMENSといったメジャーな仕事でも注目される彼らが活動拠点としているのは、都会でなくドイツでもスイス・フランス国境に近い山あいの盆地、シュヴェービッシュ・グムントという古い小さな町である。そこで彼らは機能美から美しさが滲み出してくるような多くの素晴らしいデザインを、ドイツ人らしい堅固な気質で積み重ねてきた。その中のひとつ、シェイフェレンというドイツ製紙会社の「紙の見本帳」デザインに衝撃を受けた片塩さんらのアプローチによって、タイポグラフィを仲立ちとした日独デザイン交流が開始された。ぼくは1994年10月来日の際に開催された「Baumann & Baumannデザインの思想とその表現」と題する講演後のパーティに参加してバウマン夫妻と対面した。ロジカルで冷静なバーバラと悪戯っ子のように感情をあまり隠すことをしないゲルド。彼らにことのほか親しみを感じたのは、同年代であることやデザインパートナーが存在することに加えて、彼らの活動拠点が長閑な山あいの盆地であったことにもよる。
もっともバウマン&バウマンらしさが発揮された仕事に、ボンのドイツ連邦議会議事堂デザインがあげられる。建築家ベーニッシュの指名で彼らが担当したのはサイン計画や空間デザイン、掛時計やエレベータ階床ボタンといったプロダクトの数々や庭園に据えられるオブジェに至るまで、建築に付随するすべての領域に及んでいた。そしてこのガラス張りでモニュメンタルな美しい建物のガラス面には、彼らの発案でエルンスト・ヨンデル(Ernst Jandl)の詩がリズミカルに配され、硬質な機能美にさざ波のような可憐さが組み込まれている。それはドイツの歴史を強く意識しながら、あるべき民主主義を緻密に考察した末に導き出した、抑制された造形美をたたえた形象でもあった。
そこで彼らがデザインに用いた書体は89年にオトル・アイヒャー(Otl Aicher)が完成させたローティス(Rotis)1書体のみ。その禁欲的姿勢はヨーロッパに深く潜行するプロテスタンティズムを想起させるが、それまで採用していたフルティガー(Adrian Frutiger)作によるユニバース(Univers)からこのローティスへと移行するため、バウマン夫妻は何年もにわたる試行と討論を重ね、自分たちのデザインの根幹を支えるフォントを執拗に吟味したという。
彼らは「デザイン」を「スタイル」の対極に置き、「ゲシュタルトゥンク=形成」という考え方を通じて捉えようとしている。抑制から自由を挑発したり、読み取る行為を深い思考にまで誘い、最小限で簡潔な手段を用いて最上の到達点を目指す。本当に重要なことは表面的な形態でなく総合的なプロジェクトであって、ゲシュタルトゥンクとは開発と修正を繰り返す過程そのものなのだと主張する彼らの硬質な方法論は、極東の島国においては完全に捉えきることのできるものではなかったが、彼らのデザインを見ればひと目でそのしなやかな感性と職人気質に支えられた必然性を感じとることができる。やはり視覚言語の伝達力は力強く、重層的だ。
早春の或る日届いた1通の郵便物には、ぼくのモダンデザインとの清々しい出会いの記憶もそっと挟み込まれていた。ドイツのグムント、奈良吉野、そして甲州の山あいと、ユーラシア大陸を跨ぐ山裾デザイナーの見えないネットワークを夢想しながら、ぼくは過ぎ去った歳月のほろ苦さとともに、その記憶の先にある未来の古典としてのデザインに想いをめぐらせていた。

2010.3.02

小さい時分の通信簿やら表彰状、絵や作文などは誰でも少しばかりは側に取り置いているのではないだろうか。ぼくの場合はずいぶん前に几帳面にヒモで束ねられて母から渡されていたのだけど、長いこと棚の奥に放ったままにされていた。先日思い立って解いてみると、黄ばんだ紙束は封印を解かれたとたんざわめきたち、懐かしさと気恥ずかしさが同時にぼくの中にこみあげてきて、思わず一枚づつ見入ってしまった。
ふと、その中に挟まれていた10センチ四方ほどの小さな水彩画を発見する。裏を見ると懐かしい筆跡で、「題名『少女』三枝茂雄」とある。この人物はぼくの高校時代の美術教師で、国画会に所属する画家だった。ぼくがまだ中学生だった頃、両親とは若い頃から表現活動を通じて親交を深めていた先生がわが家を訪れたことがあった。絵が好きな子だとでも紹介されのだろうか、ぼくの顔を見るなり「絵を勉強したいんだったらぼくの教えている高校に来なさい」と話しかけられた。そんなことがあってぼくは先生が顧問をしていた高校の美術部で、入学後の3年間にわたってほぼ毎日顔をつき合わせながら指導を受ける日々を送ることになった。
先生は芸大で日本画を専攻したので日本画家と呼ばれることが多かったが、日本画や油彩、水墨着彩画などをミックスした独特の画風を確立し、中国故事や漢詩を多く題材とした類例のない素晴らしい作品群を生み出した。また、深い造詣を示した漢詩や書も絵画作品とともに高い評価を受けていた。「今度生まれ変わったら、俺は中国の古典文学や書をもっと本格的にやりたいんだ」と熱っぽく語っていたことを思い出す。その遺志を継がれたかのように、ご子息の三枝茂人さんは現在、名古屋外国語大学の准教授として中国語学科で教鞭をとられている。三枝先生にまつわる思い出は尽きないのだが、こういう人物こそが芸術家と呼ぶにふさわしいほんとうの芸術家というのだろう、とぼくはずっと思っている。リブロポートから出版された菊地信義さんの「装幀の本」をたまたま眺めていた時、掲載されていた吉村貞治さんの「歴史のなかの巨人たち」の書籍カバーに先生の作品が使われていたのを見つけてとてもうれしくなってしまったこともあった。そして1994年に山梨県立美術館で遺作展「三枝茂雄展」が開催された際、同級生だった中沢新一さんがぼくが装幀を担当した図録に「ピューリファイ(浄化)」という文章を寄稿してくれた。「この高校へ来てよかった、と思った。私はそのとき、三枝先生の中に、真実の大人というものを発見できたからである。」中沢さんは、あきらかに他の教師たちとは著しく異なっていたこの三枝先生の中に、早くから「浄化された芸術」を見いだしていたのだ。こうしてぼくの人生にも、少なからず影響を与えることとなったこの人物のことは、あらためていつかゆっくり回想してみたい。
発見した水彩画に話しを戻そう。なぜこの絵がここに残されていたのかは定かではないが、左上隅に1954と記されているのでぼくが4歳の頃描かれたことになる。これはまったくの想像にすぎないのだけれど、この絵のモデルは9歳年長のぼくの姉なのではないかとその時思った。この年13歳だから年格好も符合する。なんらかの契機があってモデルとなり、先生から両親に手渡されたものなのではないだろうか。身を削るようにしていろんなものと格闘しながら制作し続け、抉られた痕跡のような鋭く厳しい筆線が持ち味の画家が実は少女好きであったことはあまり知られていない。生前多くの少女像を残しているが、この絵の柔和な筆使いからも、しばし羽根を休める鳥のような穏やかな作者の心情を感じとることができる。
ところで、紙束の中にはぼくの絵もたくさん残っていた。しかしどれを見ても呆れてしまうほどヘタクソで気が滅入ってしまった。上手い下手以前に、これを描きたいのだという意志というものがまったく感じられない。これで絵が好きだったなんて恥ずかしい、見なけりゃよかったと後悔した。ただ1枚だけ、これは似ていると感じた母の絵があった。小学校2年生の時に描いた「おかあさんのかお」と題された絵だ。もちろんヘタクソに変わりはないのだけれど、ここには当時の母の雰囲気がとてもよくあらわれている。例外的に描きたいものを思い定めて筆を取った、そんな感じが伝わってくる絵になっていると思う。
子供の頃の母の記憶といえば、和服に割烹着で和裁をする姿が焼き付いている。家計の足しにとはじめたのだろう、チャコや指ぬきを駆使して四六時中縫い物ばかりしていた。ぼくの知る母は、新聞記者として不規則きわまりないサラリーマン生活を送っていた父を支える専業主婦となってからの母なのだが、結婚前は国鉄に勤め、当時ではまだめずらしいと言われたキャリアウーマンで、県内で初めて個人向け国債を購入した女性ということで新聞に載ったこともあったそうだ。また、文学少女でもあった母は若いころから詩作に夢中になり、ある文学サークルで父と出会ったのだと聞いている。戦前戦中は父の赴任にともなって満州、青島と移り住み、その地で生をえた姉と兄を育てながらもノートを手離すことはなかったという。以降終生、詩作を寄す処とし、地元新聞の詩の選者を務めたり、30号で2003年に休刊するまで「交響」というささやかな同人誌も主宰していた。表紙にはいつも三枝先生の描いた鳳凰の絵が配され、出来上がるたびにぼくと妻の名の入った新刊2冊を律義に届け続けてくれた。詩集も過去4冊を自費出版するなど、その制作意欲が衰えることはなかったが、息子のぼくは決して熱心な母の読者とはいえなかった。詩集も装幀まではしたものの、肝心の詩となるとページを開く手がなぜかとたんに重くなる。母とぼくは性格が似ていると言われることもあるせいか、歳をとってからも会うといつも口喧嘩ばかりしていたような気がする。生来の傷付きやすさをガードするかように形成されてきた狷介さが、時として容易に受け入れ難い弱さと映っていたのかもしれない。包み込むような豊満な母性を感じさせる人ではなかったが、それでも母なりのやり方でぼくらに愛情を注ぎ、育ててくれた。この絵に寄り添うように作文が残っていた。面映ゆいが全文掲載してみたい。

ぼくの母

5年1組 小林春生

ぼくの母は手がごわごわしていて、ゆびがふとい。よく見るとたくさんのくろうが、その手にしみこんでいるようだ。ぼくのべんきょうも、ぼくいじょう、ねっ心だ。
しかしぼくとしても母にたいしていけんがある。たとえば夜暗い所で本をよんでいるので、めがねをかけている母がよけい目が悪くなってはこまるので、明るいたまにかえてやろうとしたら「すぐよんでしまうから、でんきなんかつけなくてもいい」といった。ぼくは、くやしかった。そういう時は、きもちよく「それじゃあ、たのむわ」といってくれれば、ぼくも気もちがいいのにと思った。
時々は二人でえいがを見にいく。むずかしい所は母がかいせつをしてくれる。「刑事」というイタリアえいがを見た時は、母はすっかり感げきして二日ばかりはすてきだった場面や、あんなことばがよかったなどとそればかり話していたが、それからまもなくそのえいがの歌がラジオやテレビではやってきたので母はすっかりおぼえてしまった。兄のウクレレを時々だして楽しそうにひいている。おとくいの曲は「きよしこの夜」や「スワニー河」などだ。母のばんそうで僕が歌う。
この間は、桑原先生(当時ぼくはこの桑原福保先生の主宰する画塾に通っていた)の絵の展らん会を見につれていってくれた。フランスの町や、寺の風景やスペインのけしきばかりだった。そのうち父がきたのでいっしょにみて回り、イスにこしかけて休みながら好きな絵はどれかなどと話しをした。緑の森を馬が三頭、だれか乗ってゆっくり走っているきもちよい絵があった。母は「ブロンニューの森」というその絵が好きだといった。僕も森の緑の色がいいと思ったので、好きな絵が母といっしょだったからうれしかった。「もし子供のためにかざるのならあの絵がいいですね」と母は小さい声で父にいっていた。

昔は分からなかったことがある。今となって少しだけ分かることもある。そしてやはり永遠に分からないことだってある。
重度認知症という濃い霧に包まれて、小枝のようにひっそりと横たわる母は今日、93回目の誕生日を迎えた。

Book Cover :
Iwanakereba Yokattanoni Nikki
Publication : 1958.10.31
Fukazawa Shichiro (1914-1987)
Photo : Tayama Ichiro

2010.2.02

1月の或る休日の午後、自宅で音楽を聴きながらぼんやりと寛いでいた時のこと。ふと思いつき、近くの棚から雑誌「群像」の2008年の9月号を抜き取ると、その号に連載されていた中沢新一さんの『今日の野生の思考1・頭上のコン』のページを開く。この評論はトリスタン・ツァラに関心を持つ人々の集まりに招かれた時の講演を元にテキスト化されている。ここで中沢さんは二十世紀の初頭にチーリッヒとパリでダダイズムの運動を開始したこのツァラの詩的思考の中から、彼が一人の未開人であったことを見いだそうとしている。導入部には次のように書かれている。
「さて、そのような現代芸術の冒険家たちの中で、私がとりわけトリスタン・ツァラというルーマニア出身の風変わりな詩人に引かれたのには、理由があります。ツァラが創造の原理としていたものが、非市場社会の哲学であった神話の思考の本質をなすものと、じつに多くの共通性をしめしており、しかもその共通性を探っていくと、それがじつに組織的におこなわれていたことがわかります。ツァラは一人のアフリカ人、一人のオーストラリア先住民のようなやり方で、じっさいに思考し、じっさいに詩的創造をおこなっていました。彼自身がまるで一人の未開人のように思考し創造していたのです。このようなことは、現代ではなかなかおこりようのないことですが、トリスタン・ツァラという詩人においては、それが現実におこったのでした。」(講談社刊「群像」2008年の9月号・29頁より抜粋)
ぼくたちの日常は市場社会とよばれる世界の中にある。しかし、ダダイズムの戦いの現場ではそんな市場社会の常識をひっくり返してしまうような冒険が日々試みられていた。流動するイメージはそこでは奇妙にねじれ、裏返しになったり逆転しながら、意味はばらばらに解きほぐされ、偶然にまかせて散らばってダイナミックにつくりかえられていく。それは神話が駆使してきた論理作法とそっくりなのだそうである。そして、その神話的思考は今も現代人の生活の中に受け継がれていて、深くぼくらの生活にも根を下ろしている。中沢さんはこう続ける。
「ファッションは現代人のおこなう神話の思考の一形態です。ファッションと市場は密接に連動しあっていますが、市場の論理とファッションの思考は、けっして同じものを追求していません。市場はかつては人間の無意識の自由な交換を実現する空間として生まれましたが、ファッションは今はすでに失われてしまったこの市場空間の夢を取り戻そうとする、奇妙に逆行的な思考を原動力としています。ファッションは市場空間の中につくられたユートピアのようなものです。市場は目的論と因果論によってエネルギーをくみ出している颱風ですが、ファッションはその中心部の「颱風の目」の場所にあって、神話的思考に身をゆだねようとしてきました。」(講談社刊「群像」2008年の9月号・39頁より抜粋)
なるほど、トリスタン・ツァラが身をもって生きた野生の思考は、一世紀も前からすでにぼくらの市場社会の先にある遙か彼方を見据えていたのだ。
こうして連載を読み終えたぼくは次なる本に目を移す。手にしたのは深沢七郎の「言わなければよかったのに日記」。一見ダダイズムの作法を真似たかのような何の脈絡もない選択に見えるが、ぼくの中でこの2冊はきちんと繋がっている。
今年の正月休みのこと。ぼくは中沢さんに誘われて諏訪大社へ初詣でに出かけた。当日は中沢さんの二人の友人も東京から駆けつけて、甲府から合流して現地を目指した。その二人とは美術家の内藤礼さんと里帰りしていたパリの大学で教鞭をとる社会学者の矢田部和彦さん。車中で深沢七郎のことが話題となった折、昔読んだ「言わなければよかったのに日記」がとても印象深かったという内藤さんの言葉がふと甦ったのだ。
甲州出身の作家である深沢七郎は、じつは亡父ともつきあいがあって、発刊される度に署名本が父の元に送られてきた。そんなわけでぼくも形見分けされた何冊かの深沢七郎初版本を所蔵しているのだが、蛍光ピンクやとりどりのサインペンによる署名の筆跡からは、筆者の定着したイメージからは少し異なる素朴で生真面目な一面がかいま見える。
「言わなければよかったのに日記」は中央公論社より昭和33年10月31日に初版されている。装釘者は佐野繁次郎。カバーは躍動感にあふれ、撮影・田山一郎とクレジットされたポートレートが目次の前に堂々と配されている。少々行儀の悪い筆者の魅力が簡潔に再構築されている装釘もこの初版本の魅力のひとつといえる。表題作「言わなければよかったのに日記」は毎日書かれたものではなく、思い出してまとめて書かれたものだと、あとがきにある。『楢山節考』で1958年中央公論新人賞を受賞し、文壇デビューまもない深沢七郎がその後、正宗白鳥石坂洋次郎武田泰淳伊藤整井伏鱒二といった当時の錚々たる作家たちと交流を重ねた際に感じた、自分のものをしらない滑稽さや冷や汗をかくような失敗談、そしてそのたびに「言わなければよかったのに」と後悔してしまう心情が綴られている。しかし、恥ずかしいと言っている割には、当の本人はそれをさほど気にするわけでもなく、萎縮するどころか実にあっけらかんとしているのが何とも面白い。それどころか、時折見せる観察眼は人間の本質をえぐり出すような鋭さですごみさえ感じさせるほどである。
ぼくはこのエッセイの魅力は、無知な庶民を装った深沢七郎の図太い野生の思考なんだと思う。山から下りてきた野生動物が人間社会にまぎれ込んだかのような、むせかえるほどの生命力を読後に感じるのである。彼の意識の住まう神話的世界は最初から奇妙にねじれていたり、ひっくりかえっていたりする。だからたびたびスリップしてしまう人間界での会話が残す奇妙な残像は、その場で逆走するエネルギーから生まれる摩擦音とともに読者に記憶されていくことになる。
冬の日の午後、ぼくは「見えない野生の糸」でトリスタン・ツァラ、中沢新一、内藤礼、深沢七郎と、幾重にも新旧の記憶で結び留められながら、深い森を彷徨っているかのような不思議な感覚を味わっていた。

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of CAINZ PB

2010.1.01

15、6年ほど前のことになる。県からデザイン講演会の相談を受けた時、ぼくはとっさに松永真さんを招いてデザインの話を聞いてみたいと考えた。松永さんは当時それはもうたいへんな売れっ子で、日本一忙しいデザイナーと言われていた。それまで何度かお話する機会はあったもののさして親しくもないぼくの突然の不躾な願いにもかかわらず、松永さんは快く引き受けてくださった。条件はただひとつ。作品紹介の後、ぼくがインタビューする形で自分のデザイン観を引き出してくれるのならいいよ、というご提案だった。もちろんぼくに異存があるわけもなく、こうして日頃から一度確かめてみたかった松永マジックのあれこれを直接探ることができるという幸運に巡り合えることになったのだ。
常々、松永さんは思考の原点は「半径3メートルの発想」にあると語っている。その姿勢は生活者の視点を中心に据えた堂々の正攻法で貫かれている。松永デザインから輝き出しているオーラは、そうしたゆるぎないベースの上に立ったフレンドリーで繊細な美しさなのである。
あらゆるものをのみこむ宇宙としての日常。そこに住まう生活者のまなざしから生み出される数々のデザインは常に時代のど真ん中に誕生し、シンプルで明快な強さをあっけらかんと主張しているのだが、そこにあるのはとても複雑なプロセスを経た濃密な収穫物なのであって、シンプルな形状をまとってはいるが決して単純さを追求しただけの産物なのではない。当時のぼくはこうした収穫物を育てる松永さんのデザイン姿勢に共感し、生き生きとした吸引力のあるデザインが生成されてゆく不思議に強く魅かれていた。それは単に作風に憧れるというようなことではなく、その変容の不思議には実践的な領域に関するヒントが隠されているように思われてならなかったからである。だからぼくはこの機会を捉えて制作プロセスにおける「複雑」から「シンプル」への変容の秘密をのぞき見たいと考えていた。
しかしそんなことが1、2時間の会話で解明されるわけもなく、あっというまに講演会は終わってしまったのだが、どうやらその変容は色感とか造形力なんてことではなくて、全人格的要素を集約させた生活者としてのセンスを総動員しておこなわれているらしい。松永さんはそうしたことを面と向かって語る無粋な方ではないのだが、会話の中で生活者の視点を中心に据えるその姿勢は少しも揺らぐことはなかった。難しいことを難しいまま伝えることしかできなかった当時のぼくは、難しいことをより簡単に、やさしいことはさらにやさしく伝える、堂々とした松永さんのデザイン奥義に圧倒されるしかなかった。
その日紹介された仕事は多岐にわたっていた。冷蔵庫を開けると中には紀文の缶詰めやTakaraのCAN CHU-HIやKIRINのLAGER BEER、そして清酒の福正宗。テーブルの上にはお馴染みのscottieのティッシュボックス、そして横には洒落た煙草のジタン・ブロンド、女性誌の「non-no」や「MORE」も置いてある。さらにダイニングの上に並ぶインスタントコーヒーBlendyやクリープmarimを横目に、洗面所に行けば資生堂unoやaleph。そして愛犬の側にはペットフードgaines。つまり松永さんは「半径3メートルの発想」で生活をまるごとデザインしていたのである。
これら生活用品として開花したデザインは実はある原風景から生み出されていた。記憶は定かではないが、それは作品集やインタビュー記事にも見当たらないので直接交わした会話の中で語ってくれたことだったのかもしれない。松永さんは戦中戦後の激動の時代を幼年期として過ごした。そして戦後伝わってきたアメリカの豊かさに大きな衝撃を受けたのだという。スケールの大きい陽気な豊かさ。日本の荒れ果てた大地から晴れ渡った空を見上げる子どものように、松永少年は眩しいアメリカの豊かさに目を奪われ、以来それが自分の原風景となったのだという。好むと好まざるとにかかわらず、幼少期に心の奥底に感光してしまった光景は消し去ることは難しい。そして、醸成された原風景はやがてデザインを生み出すダイナモとなっていく。
それから歳月は流れ、いつかはぼくも生活まるごとデザインしてみたい、そんな漠然とした思いが2008年のある日、現実のものとなるチャンスが巡ってきた。ある企業がPB(プライベートブランド)を見直すため、デザイナーを探しているので紹介したいと10年越しで仕事上おつきあいしてきた商環境企画施工会社の役員の方から連絡をもらった。短期間で数千アイテムにものぼるPB商品を店頭に並べるためにはシステマティックにデザイン展開するしかない。しかし次の段階にはより品質感のあるPBブランドへと底上げすることが求められてくるのだが、今回の話は丁度そんな時期に持ち込まれてきたものだった。緊急にブランド名やブランドロゴをリ・デザインする必要があったが、同時にそれらは一貫性をもって個々の製品やパッケージに品質感として反映されなければならない。やがて品質感は売り場に蓄積され、一定の期間を経てはじめてブランドイメージが実現化されていくことになるのである。そこでぼくはこれから目指すべきPBブランドの方向性を構想し、軸となるブランド名やブランドロゴ、そしてそれがどのようにパッケージに展開されていくのか視覚化して新しいブランドの全体感を提案してみようと考えた。優れた経営手腕とデザインを見極める感性を合わせ持つ希有な経営トップとの出会いという幸運によって、ぼくの生活まるごとデザインしてみたいという願いは、こうして実現化に向かっての第一歩を踏み出すことになったのである。
ひとくちに生活用品といってもそのカテゴリーとバリエーションはおそろしく広く深い。あらゆるものが含まれてくる。さらに製造を依頼するメーカーも国内外多岐にわたっているし、商品開発やパッケージの制作プロセスも不確定要素が多く相当に複雑だ。そして在庫状況に応じて切り替えていく必要があるので、期限を見据えた物件がめじろ押しとなる。昨日は洗剤、今日はスポーツドリンク、そして明日は薬のパッケージといった具合である。当然頭の切り替えも要求される。さらにNB(ナショナルブランド)と並売されるので、PBとしてのスタンスも強く意識しながらイメージをコントロールしていかなくてはならない。そんな業務の嵐の中でも、発想の原点に据えられる基軸はプレーンな生活者の視点である。松永さんから学んだことはいまも深くぼくの心に刻まれている。もちろん松永さんのお仕事はデザイナー名を冠した堂々のNB商品ばかりなので比べるべくもないのだが、国籍や年代を問わず難しいことをより簡単に、やさしいことはさらにやさしく、感性豊かに伝えるためにぼくは日々精進を重ねていこうと念じている。そして前に進もうとすればするほど、自分の原点を深く自覚する必要性も強く感じはじめているのである。ダイナモとしての原風景については、いずれまた別の機会にゆっくり考えてみたい。

というわけで新年にあやかって、サイトも久々に一新。この1年間のボスコの共同作業の成果を表玄関に移動し、Libraryとして集積しました。ノン・フラッシュで間口も広く見やすくなっています。販売上の事情もあり、終了しているデザインの半数ほどしかまだ公開することはできませんが、追々小刻みに更新してご覧いただく予定です。

L’opéra Fragile (1980)
Warner-Pioner Corpration,Japan
L’opéra Fragile (1981)
Warner-Pioner Corpration,Japan
Venèzia (1984)
CBS/SONY INC TOKYO JAPAN

2009.12.02

夢は曠野を 駆けめぐる Vodka
ピアノを苛立たせる Vodka
情熱と絶望の 間をぬって 人は踊る
運命の舞台裏で 糸を引くのは 見えない手
人生の舞台裏で 糸を引くには 見えない手

これは1981年に発表した加藤和彦のアルバム「Belle Excentrique」の「ディアギレフの見えない手(Diaghilev, L’homme-Orchestre)」からの1節。加藤はこの安井かずみの歌詞をビロードのような艶やかで肉厚なメロディーに乗せて歌い上げた。ぼくは「帰ってきたヨッパライ」を同時代の歌として耳にしていたが、加藤和彦の音楽を一番熱心に聴いていたのが、このアルバムをはさむ上の3枚が発表された時期だった。一番上は「うたかたのオペラ(L’opéra Fragile)」(1980年)。続く「Belle Excentrique」と、一番下が「Venèzia」(1984年)。3作ともDrumsは初期サディスティック・ミカ・バンドのメンバーでもあった高橋幸宏が担当し、他の2作には細野晴臣、坂本龍一、そして矢野顕子といった後の「チームYMO」の面々がバックを手堅くサポートしている。ジャケットデザインも「L’opéra Fragile」は奥村鞍正さん、後の2枚は渡邊かをるさん。そして妖艶なPaintingは画家の金子国義さんが担当している。これらアルバムからは80年代特有のハレの空気感が今も濃厚に伝わってくる。
3作はともに当時加藤とは私生活のパートナーでもあった作詞家・安井かずみとの共作によるものだ。これまで数多くのヒット曲をてがけてきた彼女がこの時期から仕事を加藤との共作作業に絞って、ほんとうに自分が書きたかったものだけを表現しようとしていたことを先日見たTVのアーカイヴ番組でぼくは知った。そこであらためて聴きなおしてみると、まるでミュージシャン加藤和彦がシャーマンとなって安井かずみをこの世界に再来させようとしているかのような錯覚にとらわれる。ほどなく訪れる死別によって彼らの幸福な並走に終止符が打たれるのだが、それを期にやがてぼくの中でも彼らの音楽への興味は急速に薄れていってしまった。ぼくは加藤和彦の音楽に包まれた安井かずみを見つめていたのかもしれない。
若い頃通ったことのある美術研究所に、かつて安井かずみも在席していた時期があり、当時の話を所長から何度か聞かされていた。彼女はほんとうに典型的な都会のお嬢さんだったようで、田舎育ちのぼくとは違う世界で育った人なんだと話を聞きながら思ったものだった。
この3作におさめられている曲の舞台も多くはヨーロッパやニューヨークの街々。映画のワンシーンのように異国を背景に男女の心の機微が描かれている。加藤和彦はスーツを仕立てるためだけにわざわざロンドンまで出向いたり、良いと認めたものには金に糸目をつけなかったそうだから、嗜好面においてもこの二人は深く共鳴しあっていたのだろう。行間に漂う何ともゴージャスで洗練された高尚な美意識は時として鼻につくこともあったけれど、それでもぼくが聴き続けていたのは詞の背後に忍び込む諦観とか自身を遠景に置いてみる覚めた視線、そして屈折した心情を変幻自在にデフォルメしながら包み込む練り込まれたサウンドに魅せられたからなんだと思う。そこには60年代から世界中で生み出されたポップスのエッセンスが巧みに引用されていた。即座に思い浮かぶのがアメリカ生まれのミュージシャン、ライ・クーダー。彼は学者のような緻密な分析力とあくなき探求心で世界中から素晴らしい音楽を採取し、再構築してみせるぼくの大好きなミュージシャンである。この時期の加藤和彦は和製ライ・クーダーといってもいいほどのパッションとプロフェッショナルな技を繰り出し、希有なパートナーと共に屈折した心情を音楽の中に封じ込めてみせた。
ところでぼくは、加藤和彦の音楽は本質的にはゴージャスな砂糖菓子の世界だと思っている。ドノバンに傾倒してトノバンと呼ばれていた時代の「家をつくるなら」や「あの素晴らしい愛をもう一度」、「白い色は恋人の色」などといった初期の代表曲は彼ならではの柔和な穏やかさにあふれていて、そこにわずかな含羞も含まれているのが何ともほほ笑ましい。人はリアルな世界に疲れた時、そっと砂糖菓子が欲しくなることがある。だからぼくは決して揶揄する意図があって彼の音楽を砂糖菓子と言っているのではない。本当に上質な砂糖菓子だと思っているのだ。
そしてもうひとつの側面はアジアの音楽家としてのウエットな一面。詩人サトウ・ハチローの詞をもとにした「悲しくてやりきれない」や朴世永・高宗漢の詞曲「イムジン河」の再構築、そして辞世歌「感謝」などからは、アジアンチックな郷愁漂わせる京都人としてのもう一人の加藤和彦が現われてくる。砂糖菓子の背後に潜む静謐な深い闇。常に誰かに自身を添わせ、重ね合わせて表現を模索してきた音楽家が闇の中にひっそりと佇んでいる。
偶然にも自死の前日、隣りに彼が立っていた一瞬があった。10月15日午後3時30分頃、用あって六本木ミッドタウンに車を乗り入れ、ぼくはビル内のディーン&デルーカ・ショップでコーヒーを飲みながら一休みしていた。ふと左隣りから季節はずれのマドラスチェックのハーフパンツ、そしてカラフルなストライプ・サンダルを履いた長身の人物が視界に入ってきた。頼りなげに細く伸びた白い足が印象的だった。ちらっと斜め後ろから眺めると金色の短い髪だった。ずいぶん派手な老いた外国人もこんな場所には来るんだなぁと思ってそれきり視線を外してしまった。しばらくして向かいに座っていた連れからそれが加藤和彦だったことを知らされた。彼はその時一人で赤かぶのマリネをワンカップ買い求めていたそうだ。もしそれが最後の晩餐のメニューだったとしたら、彼の人生に比してそれはあまりにも質素でつつましいものではないか。いや、だからこそ、そこにはぼくなどの計り知ることのできない必然の計らいがあったのかもしれない。ディアギレフの見えない手によって…。

2009.11.01

秋以降、政権についた民主党の関連報道が倍増している。これまで野党として露出が少なかった民主党議員たちの動向は、表舞台に移動してから連日スポットライトを浴び続けている。
とりあえずアメリカに倣って、「変化」を選択した我が国の世論。そしていまは期待と不安の入り交じる政権移行期間。政治舞台の明転は移ろいやすい人心の目にはしばらく新鮮に映るだろうが、大切なことは政治を安易に劇場化しないことだ。ほんとうに変化を選択したのかと短兵急に結論を出し急ぎせずに、しばし注視してみる忍耐力が必要とされているんだと思う。政治は生活に直結しているから当然無関心ではいられないが、ぼくは基本的に自分のことをノンポリティカルだと思っている。つまり特定の党派に属することを拒否する人々の一人であって、棄権せずにその都度支持する政党や政治家を選択している平均的な無党派層なのである。
それにしてもかつての与党の凋落ぶりには目を覆いたくなる。良質な保守、そして保守への回帰なんて何言ってんのって感じで、一体何を保ち守ろうというのか。こんな手垢のついた政治言葉にもういいかげんぼくらはうんざりしているし「一緒にやろうぜ!」と気勢をあげられても長期ビジョンそのものがきちんと描けていないのだから、何とも寒々しい気持ちになってしまう。保守と革新の対立軸なんて前世紀末に消失してしまったのに、保守へ回帰すると言われても、そんなの国を担ってきたと思い込んでいる政治家たちの本流意識を主張するお題目にしか聞こえてこない。このように組織の人材が枯渇すると、その危うさはある日突然非情な事実として顕在化する。結末は分かっているのにどうすることもできず、空ろな面持ちで進むことしかできない。これは権力に吸引された末、疲弊してしまった構造体に襲いかかり、これまで幾度となく繰り返されてきた歴史の必然でもある。いつか来るべき山を迎えるためのいまが谷越えと頭をリセットし、精進するしかないですね。
さて、そんなノンポリ・デザイナーがずっと気になっていたのが政権デビューした民主党のシンボルマーク。国旗2枚の各パーツを切断し、縫い合わせて前首相に批判され話題となったあのシンボルマークのことです。じっと眺めていると達磨さんにも見えてくるが、上下に交差する赤い円は無限大「∞」を意味しているそうだ。そして下の円の輪郭がガチガチしているのは、新しいものを生み出していく様子を示していて、まだ成長途中なので輪郭がはっきりしていないということなのだと、民主党議員・よこやま博幸さんのサイトでは説明されている。また、水平線の海面から頭を出した太陽のイメージであるという説もある。つまり真ん中の白い部分がさざ波で、下の円が歪んでいるのは海面に映った太陽だからという「日はまた昇る」のイメージ。じゃあ落日もありうるぜと意地悪なツッコミが入りそうだけど、日本の夜明けを表現しているというところだろうか。作者はArt Directionがグラフィックデザイナーの浅葉克己さん、Designが子息の浅葉弾さん。なるほどと思いつつ、ぼくはまた別な解釈をしていて、上は目指すべき国のイメージ。そして下はまだ粗削りな政党ではあるけれど、目指すべき正円に重なるべく日々研鑽を積んでいるという意志の視覚表現であるとも考えてみた。ただこの解釈の場合、2つの円が完全に重なってしまうという事態はこれまた空恐ろしい。
ま、解釈はともあれ、ずっと気になっていたのはシンボルの下の円の造形についてだ。なんとも下の円の形状は受け入れがたいものがある。作者はこう反論するかもしれない。この造形は手だれておらず素人くさいと言われても、粗削りな理想を追い求める純真さを象徴しているのだと。そういう意味を汲んだとしても、あの形状には決定的に破綻していると直感させてしまうような稚拙感が拭えない。事実ネットでも下の円についての拒否反応は決して少なくないようだ。
そこでお節介もほどほどにと言われそうだが、勝手にリ・デザイン。(ごめんなさい、浅葉さん!!)一番上がオリジナル。下はおせっかいプランの数々なのだが、民主党は寄り合い所帯なんだから、やっぱり輪郭はデコボコしてしまう。でも角はほどよくとれていて、各パーツはリベラルに連結をしている。中段のいろいろなプランのように、その時の党内事情を反映させて微妙に起伏やデコボコの数が変化するなんていうのもいいかもしれない。
シンボルは不変不動。変化してしまったらシンボルじゃなくなってしまう、これが長い間デザイン界での常識だった。でも、SONYのCIやテレビ朝日のVIのように、ロゴ自体をアプリケーションとして機能させ、動きや色を環境によってフレキシブルに変化させるデザインも続々と誕生している。これらSONYやテレビ朝日のロゴを制作担当したのは、社会心理学などをバックボーンとした方法論で注目を浴びてきたイギリスのデザイングループTOMATO。まだSONYのCIが本格的に展開される前、デザイン会議でTOMATOのこのプレゼンテーションを見る機会があった。SONYのロゴがTV画面に現われてくる時の動きや色が、放映される国によって、その日の気候によって、また放映地域の人工密度などによって、微妙にプログラムコントロールされていくというアイデアだ。なるほど、ロゴをグラフィカルでなく社会心理学的に考察すると、ビジュアルをスタイルに還元させないこんなアプローチも可能になるんだと感心したものだった。
そこで、今の民主党はこんな形であると我々は考えています、と1年ごと年頭にサイトでシンボルマークに反映させてみたらどうだろう。時代感覚の多層化したチャンネルに対応して、政治にも柔軟なコミュニケーション能力が求められているのだと思う。現行ロゴを比較的忠実にスライドしたプランが最下段の左。右は今の党の印象に一番近いとぼくが感じるプランである。