COMME des GARCONS: SixCover : Number 2, 3, 4, 5, 6, 8.& Center-spread.

ファッションの第六感

COMME des GARCONS
2013.12.02

新しい服に袖を通すとその日は少しだけ軽やかな気分になって、見慣れない自分に出会ったような新鮮な気持ちになる。その属性はすぐにあらかた代わり映えしない本質に吸収されてしまうのだが、確かに身につけるもので気分が左右されることってあるんじゃないだろうか。あまりしっくりしないコーディネートだったりすると、なんとも冴えない1日になってしまうから、ぼくは前夜に翌日の取り合わせをぼんやりと考えておくようにしている。時には天候に合わせて変更することもあるけれど、あらかじめコーディネートをイメージしておくクセがついてしまった。薄着の夏場よりも、重ね着やマフラーなど小物パーツが増える肌寒い季節の方がコーディネートの楽しみは大きくなる。ファッションなんてあまり興味なかった昔だったら考えられないことだ。あの頃はとりあえず着心地がよくて、それなりにまとまっていたらそれでOK。ファッションにお金をかける余裕もなかったし、楽しむという発想そのものが希薄だった。そんなぼくにも今に至る転機は何度かあったが、やはり1980年代ブームとなったDCブランドの登場が大きな契機となった。
80年代後半にはブランドショップの広告仕事が増え、お付き合いもあってコム・デ・ギャルソンのピンストライプスーツを1着購入した。当時、川久保玲率いるギャルソンはモノ・トーンのアンチモードでDCブランドブームの先陣をきっていた。このよれよれコットンのネイビースーツがどうしてこんなに高いんだよ、と躊躇したけど思い切って買ってみたのだ。おおげさに言えば、この時ぼくは閉じていたファッションという扉のノブを回してしまったのだ。不思議なことにこのスーツを着ると、フツーじゃないなにかが滲み込んできて、ぼくの心を包み込むような気がしたのだった。これはたしかに川久保玲の表現なのだが、実はぼくの内部にもこれと似た感覚が横たわっていて、この服を着ることによって呼び覚まされてしまう。その事実が洋服という媒体を通じて伝わってくるような、そんな感覚を初めて味わった。
コム・デ・ギャルソンといえば、吉本隆明埴谷雄高の論争を思い出す。成り行きをシンプルにまとめたページを見ると、ことのはじまりは1984年、女性雑誌「an an」にコムデギャルソンを着て登場した吉本隆明を埴谷雄高が「資本主義のぼったくり商品を着ている」と批判したことだった。吉本は消費社会肯定の立場から、今までの古典的な大問題(たとえばマルクス主義の問題)と同じ資格でデザイナー川久保玲の仕事(今まで「小」問題とされてきたファッションなどの「サブ・カルチャー」)を「重層的に」とらえ評価する。雑誌「アンアン」は、吉本にコム・デ・ギャルソンを着せて登場させ、自宅のリビングを改装した書斎の「シャンデリア」のもとで仕事する吉本を大写しした写真を載せた。埴谷雄高は「それを見たらタイの青年は悪魔と思うだろう」と述べて、吉本と論争がしばらく続いたのだ。吉本隆明「重層的な非決定へ」における吉本氏の反論はこうだ。
「アンアン」という雑誌は、先進資本主義国である日本の中学や高校出のOLを読者対象として、その消費生活のファッション便覧の役割をもつ愉しい雑誌です。総じて消費生活用の雑誌は生産の観点と逆に読まれなくてはなりませんが、この雑誌の読み方は、貴方の侮蔑をこめた反感と逆さまでなければなりません。先進資本主義国日本の中級ないし下級の女子賃労働者は、こんなファッション便覧に眼くばりするような消費生活をもてるほど、豊かになったのか、というように読まれるべきです。(「コムデギャルソン店舗マップ」より)
かたや埴谷にしてみたら、吉本がぼったくりの服なんか着て宣伝のお先棒を担ぐのは我慢ならない。こんな服のどこがいいんだ?という気持ちだったのだろう。 大戦をくぐり抜け、物ひとつ無い時代から再出発した両人だったが、要するに文学の世界に住まっていて原価発想しか知らなかった埴谷さんには、思想を具現化した川久保玲の表現(あるいはアート)がもたらす付加価値そのものが理解できなかったということなのだろう。
吉本さんがギャルソンの服を着た背景にはこんなこともあった。フィリップ・ジョンソン(建築家)やウィレム・デ・クーニング(画家)などといった芸術家たちがギャルソンの服を着たポートレートの写真集を、以前ギャルソンは制作したことがあった。国外のアーティストやミュージシャンをカタログのモデルにした理由を川久保玲はこのように説明している。
「根本的な理由は気恥しさ。男性がモデルの顔で服を着ている様子を見るのが気恥しかったんです。オムの服は、人生を送ってきたことによって出てくる“何か”を待っている人に着てもらいたいというポリシーで作っています。その根本的な姿勢は、生き方つまり人で表現するしかなかったんです」
ぼくはこのモノクロ写真がいたく気に入って、何枚も選んでは黒縁額装して、仕事場や部屋に飾ったりしていた。いまも寝室の壁でこちらを見つめているのはJoseph Kosuth(Artist)なのだが、むかし田舎の親戚の家なんかを訪ねると、座敷にはかならずご先祖の肖像画がかけられていた。まだ写真技術が普及していなかった時代には遺影を(おそらくは鉛筆画による)肖像画で残すことが一般的だったようだ。不安定きわまりない現世を生き抜く我々を、ご先祖には見守っていてほしいという願いなのだろうか。先祖でなく異国の芸術家ではあるけれど、ぼくもこれらのポートレートに守護されているような気持ちになることがある。だから、暗いと家人には評判はあまりよろしくないのだが、額を下ろしたことはない。ギャルソンを着た芸術家たちもみんなけっこう様になっていたから、たぶん吉本さんも似合ってたんだと思う。
そんなことがあってから25年以上にわたって、ぼくはコムデギャルソンの服を買い続けてきたことになる。一貫してしっくりくると感じられるブランドはギャルソンだけだった。たいがい出張などで上京したついでにショップをのぞくことが多いのだが、地方暮らしではそうそうマメに通うこともできない。地元でもひいきにしているギャルソンのショップが1店あるけれど、如何せん入荷する品数が少ない。それにギャルソンは一つのデザインをそんなに量産しないからすぐに売り切れてしまい、気に入ったものを手に入れるのには運も必要となってくる。そこで一時期、新作の中からぼくに似合いそうなものをピックアップして送ってもらっていたことがあった。東京の丸の内店にセンスの良い男性スタッフがいて、彼は自分の見立てた商品を頼んでもいないのに勝手に送ってくるのだが、いつもなかなかの商品が入っているのでつい何点かは購入することになる。基本的にギャルソンはこういうことはしないし(画像を携帯に添付することすら拒否される)、後にも先にもこんなことをしてくれたのは彼だけだった。(ささやかなブログとはいえ掟破りを暴露してはまずいのかもしれない。でも、退職した彼はすでに別なショップを立ち上げているので、まぁいいか)
青山本店ではよく男優とすれ違うことがある。この人たちもギャルソン着てるのかと、ちょっと照れくさいような、複雑な気持ちになる。川久保玲も見かけたことがある。スタッフに混じって商品の並べ変えをしていたんだけど、派手なスニーカーを履いた魔法使いみたいで、小柄ながらけっこうな迫力だった。それからお隣りの、ヘルツォーク&ド・ムーロンの設計で話題となったプラダ青山店では、何と来日していたミウッチャ・プラダが、お店の長椅子に座っていてビックリしたこともあった。実物は全然、イタリアのおばさんなんかじゃなくて、とってもチャーミングな女性だった。
ファッションデザイナーという職業は、現代における欲望のシャーマンのような存在なのかもしれない。ファッションを通して表現する彼らは時代感覚と深く切り結び、同時にアートとも永続的な関係を保ちながら嗅覚を研ぎ澄まし、人々に潜在する欲望を媒介者として具現化させようとしているかに見える。彼らの提示物を身にまとったぼくらは、それに触発され、ほんの少しだけ自身に潜んでいた欲望を垣間見ることができるようになる。ファッションは自己表現であるなんてこと言う人もいるが、そうではないと思う。正確に言うなら、ファッションはブレンド(種類・品質の異なったものを数種混合すること)である。ファッションデザイナーの提示に共感した自分が、自身に内在する欲望をそこに混ぜ合わせてみて1日限りのささやかなワークショップ(体験型講座)を体験する。あるいは、それ楽しもうとする個人的行為だ。たかがファッション、されどファッション。おそまきながらぼくも、デザインの潜在力や、そこから生み出される付加価値に投資することの意味を、これらの積み重ねを通じてほんの少し理解できるようになってきた気がする。
また、ギャルソンは販促物にもファッションという領域を超えて果敢な取り組みをみせてきた。定期的に届くダイレクトメールにはいつもギャルソンがキャッチした「今」がさりげなく折り込まれているが、なんといっても白眉は1988年から1991年までに8巻発行された雑誌『Six』だろう。この期間は日本のバブル景気とピッタリ重なるわけで、仕様も相当ゴージャスだった。一部の顧客向けに少部数のみ発行されたこの8巻は、今や伝説のビジュアル誌となっている。大判サイズ(393×296mm)の各号はソフトカバーに納められ、カバーにバーコ(盛り上げ)印刷などを多用した手の込んだビジュアルブック仕立てとなっている。基本的には本文はファッション写真で構成されているが、もちろん服のディテールを伝える単なるファッションカタログではなく、ページを埋めるのは服のメッセージを伝えるために再解釈されたビジュアルの数々だ。こうした大胆な試みはプロデューサーである川久保はもちろんのこと、編集の小指敦子、アートディレクターの井上嗣也両氏の手腕によるところが大きい。(ぼくは密かに『Six』は井上さんの代表作だと思っている) 当時『Six』がどういった戦略で活用されたのかは定かでないが、ぼくの手元には1号と7号を除く6号分が残っている。ギャルソンのショップスタッフも耳にはするものの、実物は見たこともない伝説の雑誌だそうで、「6冊あるよ」と言うと驚かれたりする。しかも古書ネットではコレクターズアイテム化していて、各号15,750円〜30,000円とか、なかには美本全冊揃で20万!なんて値がついていたりしてビックリ。
『Six』とは「Sixth Sense=第六感」の意。このメディアについてギャルソンの広報を担当している武田千賀子さんはこのように語っている。
「アートとは思っていません。根本に必ず服を買って、着て下さるお客様の存在があるわけですから、その方たちに最も正しく伝える方法を考えるんです。ただ、一貫した美意識というのはあります。それがビジネスの基盤になっているんです。既成の方法で現せない“何か”を感じた人は「第六感」ということを言う。それはどこにあるのかわからない。灰色の脳細胞の奥の方? DNAの鎖の間? しかし確かに存在する。その証言になるかどうかはわからないが“シンパシー”という現象がある。言葉でもなく、もしかしたら洋服自体ですらないものに魅せられて集まってくる人がいて、結果として、服に身をまとい、そのことに喜びを感じる。そして流行が生まれる。ファッションの会社ですから、服で訴えることが当り前の手段ですよね。けれども最近思うことは、今、7つのブランドを持って、家具も手がけていて、そのすべてに共感するスピリットが、コム・デ・ギャルソンの本質なのではないか。そういうデザイン・パワーを持つ会社として考えていくことが、すなわちファッションを訴える方法じゃないかと感じているんです。もしかしたら遠回りかもしれないけど、大きな意味でコム・デ・ギャルソンの方向性を示すことにつながるではないかと・・・。そのスピリットのようなものは、必ずしも服でダイレクトにつたえるものではないし、言葉や体で表現できない、五感以外の感覚に訴えるものではないか。そんな思いをタイトルに込めてみたんです」
確かに『Six』には、バブル景気に浮かれる当時の世相にくさびを打ち込むような、無愛想で硬質な美が隅々にまで充満していたし、ぼくの「第六感」など怪しいものだが、『Six』にインスパイアされたことは間違いない。だから余計、ここ1〜2年、新作がなかなか心に響いてこない状況が何とももどかしい。往年の照射力が弱くなってきたのか、はたまたぼくの感性がずれてきたのか…。デザインやアイデアにリフレインを感じることが多くなり、出向いてみたものの結局欲しいものがなくてショップをあとにすることも少なくない。(ぼくはMen’sしか見てないので、これはあくまでも個人的な感想にすぎないのだが)仕方なく最近は複数の海外ブランドを放浪しながら、コーディネートを模索する日々が続いている。
そんなある日、あの『Six』をアプリ化したiPad App「Moving Six」を、ギャルソンが1年ほど前にリリースしていたことを知り、さっそく入手してみた。「Moving Six」はその名の通り、『Six』のエッセンスを再構成して視覚と聴覚に訴えかける動画アプリだ。クレジットを見るとDeveloped by Rei Kawakubo 以外は、すべて海外クリエーターの手によるものだ。『Six』ほどのインパクトはないが、これはこれでギャルソンらしさが凝縮されたメディアとして鑑賞することができる。ギャルソンによるギャルソンへのオマージュといったところか。(「Moving Six」は無料で現在もiTunesストアからダウンロードできる)。
『Six』から「Moving Six」までの20数年間、ぼくらを取り巻く環境は想像を超えるレベルで激変した。大きく変わってしまったこと。何一つ変わっていないこと。それを見極めることが必要だ。川久保玲が一線を退かない限り、ギャルソンのスピリットは不変であろう。服を身にまとうことで、欲望をブレンドする楽しみを教えてくれた彼女のことだ。そのうち、はっと息を呑むような新作でスピリットの健在ぶりを見せてくれるに違いない。

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アップルデザインのモダニズム

iPhone & Helvetica
2013.11.01

この夏、突然iPhone4Sの通話が不安定になってしまったので仕方なくiPhone5に機種変更をした。使い勝手は4Sとほとんど変わらないのでスムーズに移行できたのだが、ある日、本体を振るとカタカタと音がすることに気づいた。5mmくらいの範囲で部品が固定されずに動いている感じで、販売店のスタッフにもこれはかなりひどいと言われてしまった。特に機能に問題は出ていないけど、気になったので検索してみると、同じような現象報告がかなりの数ヒットしてビックリ。
考えられる原因は2種あって、まず初期出荷モデルに多い「バッテリーの接触不良」。そして二つ目は「カメラの仕様」によるカチャカチャ音。ぼくの場合は発売から約1年後だから、どうやら「カメラの仕様」による現象が濃厚だ。どういうことかというと、iPhone 4Sまでは完全に固定されるカメラだったのに対し、iPhone 5は動きに余裕を持たせているため、いってみれば首振り人形のような作りになっているからこのような現象がおきることがあるのだそうだ。実際、ぼくもApple iPhone テクニカルサポートに電話してみたら同じような説明だった。もし気になるようなら送ってもらえば調べ、問題が見つかれば修理しますという返事。しかし本来、修理とは故障(またはその懸念)があるから行う作業なので回答との矛盾も感じてしまう。
だいいちサイトの商品紹介ビデオでは、デザイン担当者 のジョナサン・アイブ (Jony Ive )をはじめ、開発に携わったスタッフが次々と現れては、iPhone5がいかに精緻な製品であるか熱く語っていたではないか。(そんな製品が振ったら音がするか?)ぼくもそうしたAppleの姿勢に共感してきたのに、今回みたいに音の出ない製品もあれば出る製品もあって、それは仕様なのでなんら問題はないという見解には、精緻な製品コンセプトを標榜してきたAppleの姿勢としては疑問を感じざるを得ない。やっぱりAppleにも商品の当たり外れがあって、今回は貧乏くじをひいてしまったという気持ちにどうしてもなってしまうのである。そこで先日たまたまApple Store銀座の近くまで行ったので、4階のGenius Barでみてもらったら、これはかなりひどい(これで2回目)と言うことで修理の手続きをとるよう強く勧められる。翌日、再びテクニカルサポートに電話して訳を話したら、3〜4日で新品交換機を送るのでそちらのiPhoneを返送してくれという。「在宅自己交換修理サービス」なんてまことしやかな名前がついてるけど、結局新品と無償交換するってことじゃないの、早く言ってよ。ということで、今は振っても音のしないiPhoneを使っている。
ところで(上の写真)iPhone5s、iPhone5、iPhone4Sと3世代のiPhoneを並べてみると、どこが違うのかわからないくらいよく似ている。しかし重さや薄さ、スペックなどは微妙に異なっているし、何といっても手にした時の手触りや質感はそれぞれ異なる。薄くて軽けりゃいいってもんじゃなくて、やっぱりプロダクトとしての全体感が重要なのである。ぼくは、ジョブスの遺作となったiPhone4Sが一番気に入っていて、通話には使えなくなってしまったけど、まだまだ現役で役立ってくれている。彼には長時間の録音に耐えられるよう一体型のバッテリー(Mophie juice pack air)をセットして、打ち合わせのボイスメモ用に活用している。iPhoneにはぼくが必要としている機能がほぼすべて備わっているので、本当なら1台ですべて兼用することも可能なのだが、リスクの分散と、やはりバッテリーの問題が大きい。そこで用途別に数台を使い分けることにした。
通話やメール、モバイルデータ通信用にはiPhone5、そして写真撮影用にはiPod touch (64GB) 。実はiPhoneやiPodの写真はかなりレベルが高くなっているので、とうとう最近は、かさばるデジカメの代わりにコンパクトでスリムなiPodを持ち歩くことにしているのだ。画素は思いのほか高くて、葉書サイズくらいなら印刷にだって使用できるほどだ。時には2、300枚も撮ることがあるから大きな容量の方が安心。ただデジカメと違い、ボタンから指を離した時にシャッターが切れる仕組みなので、これには慣れが必要。(音楽ももっぱらこのiPod touchで聴いている)
ということで、最近は仕事の打ち合わせでデスクに並ぶのはこの林檎3兄弟である。もちろんデザインをする時にはiMacやBook Air、ベッドの中ではiPadを主に電子書籍を読んだり、You Tubeを観たりするのに使っていて、ふと気づけば、ぼくの生活はすっかりMacの連中に囲まれているではないか。(Appleの思う壺だ)
思えば1988年にMacintosh Plusを購入してから20数年、いろいろなApple製品や周辺機器を(大袈裟でなくポルシェが1台以上買えるほど)購入し続けてきた。もちろんこれらの多くは趣味でなく仕事道具としてなので、いわば設備投資の対象としてApple製品とつきあってきたことになる。そしてそれらの多くは、ある日突然壊れてしまうのだ。ハードウエアとソフトウエアが一体となって機能するため、何が原因でどこが故障しているのか判然としないケースも少なくない。これはAppleに限らず、PC機器の宿命であろう。
ところで、ハードウエアは単なるモノで目に見えるもの全般。人間でいうと体に相当する。かたやソフトウエアは目には見えないもので人間に例えると、神経・知識・能力・・・といったところらしい。その代表格がOS(Operating System)。つまりコンピュータシステム全体を管理するソフトウェアだ。当然プロダクトとOSが両輪で開発されなくては、魅力的な商品としては完成しないことになる。その意味で、ぼくはこの秋に発売されたiPhone5sやiPhone5cより、新しいOSとして発表されたiOS 7 の方が興味深かった。これまで繰り返されてきたOSのバージョンアップでは、かえって使いにくくなってしまったり失望させられたことが少なくなかったが、今回のiOS 7 はとてもよくできていると思う。一度バージョンアップすると基本的にはバージョンダウンできないので、試しにiPod touchをバージョンアップしてみたが、特にトラブルもなく移行することができた。操作性はとても快適になり、細部まで練り込まれた好感がもてる仕上がりとなっている。たしかに「ちょっとだけ先のイマ」がここにはデザインされていると思う。なんだかOSを入れ替えただけで、新しいプロダクトに見えてくるから不思議だ。意識が変わったらまるで別人みたいに見えてしまったというところだろうか。
ジョナサン・アイブは、iOS 7 で目指した「深く揺るぎない美しさは、シンプルさ、明確さ、効率の良さの中に存在する。真のシンプルさは単に不要なものや装飾を省くだけで生まれるものでなく、それは複雑さに秩序をもたらす作業なのだ」と語っている。その目標はiOS 7を使ってみたかぎりでは、かなり体現されていると思う。デザインの主張を抑えてコンテンツを引き立てる、という彼の目論みは成功しているといえるのではないだろうか。
そこで、一貫性をもたせるために活用されたのが、新開発されたグリッドシステムだったというのも興味深い。グリッドシステム(Grid systems)は、スイスのグラフィックデザイナー、ヨゼフ・ミューラー=ブロックマン(Josef Muller-Blockmann、1914~1996年)が発表したデザイン理論だ。ブロックマンはヨーロッパ構造主義におけるスイス派の代表的存在で、彼の提唱した理論はその後多くのデザインジャンルの基本とされてきたが、iOS 7の中にもモダニズムの精神が国境を越えて伝承されていることが実感できる。
カラーパレットや一新された種々のアイコンデザインとともに、iOS 7 ではフォントも変更された。これまで使われていた「Helvetica Neue Light」(ヘルベチカライト)から「Helvetica Neue UltraLight」(ヘルベチカウルトラライト)に変更されたのだ。(Macintosh には代々Helvetica がOS に付属していて、Mac OS Xでは、Helvetica Neue も付属している)ウルトラライトはその名の通りかなり細い書体で、こんなにシャープなフォントは他に見当たらなかったから、ぼくも一時期さかんに使っていたことがあるとても美しい書体だ。おそらくAppleがウルトラライト採用に踏み切った背景には、高い解像度をもつディスプレイの存在があったからなんだと思う。再現性に自信がなければ、とてもこんな書体は選べない。
それにしても1957年に誕生して以来、Helveticaほど長い間世界中で愛されつづけてきた書体はないだろう。開発には二人の人物が深くかかわったといわれている。まだ金型活版印刷が主流だった1940年代末、スイスの活字鋳造所ハース社のディレクターであるエドアード・ホフマン(Eduard Hoffmann)はスイス人タイポグラフィ・デザイナー、マックス・ミーディンガー(Max Miedinger)に新しいサン・セリフ体を制作依頼する。当初は「ドイツのアクチデンツ・グロテスク(Akzidenz-Groteskz)という書体が欲しいので、似たような文字の活版を作って欲しい。」といった、つまりはコピーしてほしいという要望だったが、二人は次第に「せっかくなら完璧なものを作りたい」という思いを抱きはじめ、実に完成まで約9年間もの歳月を費やして造形的に洗練させていった。開発の途中では何度も確認・修正を繰り返し、相互にどのようなやりとりがあり、デザインに反映されていったかが克明に記録されたホフマンのメモも残されているという。実はHelveticaは、この二人によるまったくのオリジナルというより、基本的なタイプフェイスはグロテスク体としてほぼ完成されていたものを、さらに調整を重ねて、新しい時代に対応する書体として洗練させていったというのがことの真相らしい。
ともあれこうして完成したのが、Helveticaの原型となるノイエ・ハース・グロテスク(Neue Haas Grotesk)。その後、版権販売を見据えてつけられた書体名が、ラテン語でスイスをあらわすHelvetia(ヘルベチア)という名前だった。しかし、書体名が国名ではまずいということで、正式名称は形容詞形である「スイスの」を意味するHelvetica(ヘルウェティカ/ヘルヴェティカ)に由来する。それからまたたくまに世界中に浸透するのだが、活版印刷時代では問題無かったHelveticaも電算写植時代になるとさらにさまざまなウェイト(太さ)がデザインされ「別名のHelvetica」が氾濫する事態となる。そこで1983年にステンペル社(現在は合併されライノタイプ・ライブラリ社に商標は移行)が改訂版Neue Helvetica(ノイエ・ヘルベチカ)を発表し、これが現時点での完成形となっている。
Helveticaは非常にニュートラルでクセがなく洗練されているが、それゆえに反面、無機質な印象を与える書体である。他の多くの書体のように、タイポグラファーの個性を反映していないことが大きな特徴となっている。人間臭さが抑制された書体。その個性が削ぎ落とされていった秘密は、ミーディンガーとホフマンがキャッチボールを重ねるように制作したそのプロセスに隠されているようだ。こうしてHelveticaはデザイナーの使い方によってその表情をさまざまに変え、何も持っていないからこそ、全てを兼ね備えていることを可能にしてくれる書体として誕生した。
「あらゆる面で控えめで操作を引き立てるインターフェイス」
「個別の要素と要素が互いに調和するよう構造には一貫性をもたせる」
「主張を抑えてコンテンツを引き立てるデザイン」
というジョナサン・アイブの主張を聞いていると、なぜか半世紀以上の時を隔ててHelveticaの精神がそこにオーバーラップしてくるのである。じつはミーディンガーとホフマン、大西洋を渡ってスイスからカリフォルニア州クパティーノまで密かにワープしていたらしい。

写真上より、現存するアイルランドのドルメン。二段目左は雑誌「ドルメン」創刊号表紙(第1巻第1号)、右は1989年の復活版1号表紙。三段目より、幻のドルメン・デザインプランの数々。空押しされたロゴイメージ(拡大)と表1〜4の見開きデザイン。扉は折り込みで3頁仕立て。そして目次や本文と続く。最下段は発刊告知用のポスターデザインプラン。

新世紀の考古学

Dolmen
2013.10.01

ドルメン(dolmen)は、ブルトン語で支石墓(しせきぼ)の別称。巨石記念物の一種で、ブルトン語でdolはテーブル、menは石を意味し、大きく扁平な1枚の天井石を数個の塊石で支えた形がテーブルのように見えることからこのように呼ばれたそうだ。(世界大百科事典 第2版解説より)また、Wikpediaによれば、新石器時代から初期金属器時代にかけて世界各地で見られる巨石墓の一種で、基礎となる支石を数個埋葬地を囲うように並べ、その上に巨大な天井石を載せる形態をとったものとある。世界の各地域に発見されているこの形態がもっとも早く発祥したのは西ヨーロッパとされるが、そこから伝播したものでなく、世界各地に全く個別に発祥したという見方が有力なようだ。中からは土器や石器、人骨などが出土するところから、ドルメンは一種の墳墓と考えられている。
ところでかつて日本には、この名を冠した雑誌があった。人類学や考古学を支援すべく、岡書院を創業した岡茂雄(1894-1989)によって1932年に創刊された『ドルメン』である。停滞しがちだった研究交流に対して、やや一般向けに構想されたこの雑誌は、賛同した多くの研究者らの寄稿によって自由闊達な雑誌として誕生する。創刊号から好感をもって迎えられたという。『ドルメン』には毎号、寄稿者からのエールがコラムとして掲載されていて、手元の資料からピックアップした一文からはそんな当時の躍動感が伝わってくる。(コラムに続くのは巻頭言)
*
ドルメン讃語 : 洋々生

ドルメンの語原は、誰も知る如くケルト系のドルとメン、机石の義、石の机の意味であるが、私にはその内容よりも音感が氣に入つた。最初この雑誌の名が問題になつたとき、どこからかドルメンの名が一案となつて現はれ、私はそれに賛成したが、同人の賛否は區區たる有様であつて、大分別案も出たりして採用試驗に躊躇されたやうであったに拘わらず、遂に之に決定された。
ドル買いやドル賣りが世間にやかましかつたときであつたから、自然そのドルの方への連想も起つたが、私はドルメンの音が、何となくノンキな、ユツタリとした、ドロリダラリとタルミがあり、トロトロとねむたさうな、なだらかな、春の日のやうな氣分を起させられるところに、言知れぬ興味をもつたのである。DLMにしてもDRMにしても、まことに好い音のコンビネーシヨンである。
どうか圓滿な發達を遂げ、ノンビリした調子で生ひ育たしめたい。Dはドルを代表するなどと卑俗なアメリカ氣質を出さず、Lが文科、Mが醫科を代表するなどと故事附けず、何でも面白いことを書いて、廣く賣るに限るさ。すると、LがラヴでMがマネーか。さうしてもよいが、Dはドントの代表とすればいい。
*
巻頭言

「ドルメン」は人類學、考古學、民俗學並に其姉妹科學にたづさはる諸學究の極く寛いだ爐邊叢談誌である。 其處には黨心偏念なく、靄然たる歡談漫語の裡に智識の交詢が自ら行はれ、和やかにして然かも豊かなる、斯學界唯一の公機たらしめん事を企圖する。
されば一方本誌は斯學界消息の調査報導には特に多くの力を注ぐであらう。従つて斯學界の刊行物は固より、更に斯學方面の出版界消息も亦本誌の使命とする所である。
*
しかし、岡が出版界を離れた1935年、『ドルメン』は4巻8号をもって休刊し、ここまでが『ドルメン』第1期と呼ばれている。ブログ「人類学のすすめ」には創刊号からの表紙や目次が紹介されていてなかなか興味深い。初期から数号を飾っていた表紙の石机画は、次第に特集テーマに沿ったヴィジュアルに置き換えられ、ロゴも微妙に変化したりして、見ていてつくづく雑誌は生き物なんだと感じさせられる。
その後『ドルメン』は、復刊を望む声に押されるように出版の仕事に復帰することを決意した岡によって、1938年11月再刊されることになる。この再刊1号から通巻50号までが『ドルメン』第2期となる。
再刊に寄せて、民俗学者の柳田國男も推薦文を寄せていたそうだ。しかし『ドルメン』はほとんど戦災で焼失してしまったので、これは幻の推薦文となっていたようだが、再刊1号が和歌山県田辺市の南方熊楠邸に残されているのを岡茂雄は偶然発見し、柳田の推薦文を再読することができたという。それは次のようなものだ。
〈都の花はあかいという諺(ことわざ)がある。紅いか紫なのか、この雑誌が出なくなってから、都を覗(のぞ)くことが私たちには容易でなくなった。新たな問題を速やかに、またなるだけ簡明に報道して、いつもひと通りは学問がどこまで進んでいるかを、せめては関心をもつ人だけにも知らせるような、機関がほしいと思っていた。今でも惜しまれているこの雑誌の編輯(へんしゅう)ぶりが復活して、どこの垣根にも美しい花が栽(う)えられ、逍遙者は思わず立ち止まり、または垣越しにしばらく話をしていくような、のんびりした境地の再現せんことを切望する〉
*
それから時は流れ、きな臭い時代の荒波に呑まれて姿を消した第2期『ドルメン』が、復活版として再び甦ったのは二十世紀末1989年10月のことだった。編集は考古学研究者の田中基さん。発行人は、日本では数少ない映像人類学というジャンルを実践し、監督・プロデューサーとして映像集団「ヴィジュアルフォークロア」を率いている北村皆雄さん。この復活版は季刊で1989年から1992年まで、6号が発刊されている。表紙デザインは、あの杉浦康平氏(+谷村彰彦)。これらは今でもヴィジュアルフォークロアの本として購入することができる。
さて、1992年をもって姿を消した復活版『ドルメン』だが、2000年に再び誕生させようという話が持ち上がる。考古学だけにとどまらない広い分野を含む、かつての初期『ドルメン』のような「サロン」を現代に甦らせることはできないだろうかと考えていた中沢新一さんと港千尋さん(写真家・写真評論家)。二人は対話を重ねながら、この新世紀『ドルメン』の構想をスタートさせることにした。デザインを担当してくれないかと中沢さんから誘われたぼくは、顔合わせとなった初回編集会議の情景をいまでもよく覚えている。指定された場所を訪れると中沢さんの隣りには、中沢さんが親しみをこめて「考古学界のドンキホーテ(Don Quixote)」と呼ぶ田中基さんが座っていた。あの復活版『ドルメン』を担った編集人だ。そしてその隣には港千尋さん。すでに役者は勢揃いしていた。当時、港さんが用意していた発刊に関するメモ書きが手元に残っていた。
*
考古学はいま、古い時代の世界を知るための科学から、知るということそのものの起源と成り立ちを知るための科学へと拡張してきました。痕跡を手がかりに、かつて存在した世界に触れるという知の営みのなかに、意識と認識と知識の根幹をなす、もっと広い意味での記憶の問題系が含まれているからだろうと思います。21世紀を記憶の時代とよびながらヒトゲノムやITといった、単なる情報の成型と変換だけに終始している今日の状況を見るにつけ、本当に大切なことは、モノの手応えをとおして識ることの不思議と眩暈を経験することではないかと痛感します。モノの手触りとモノとの応答を日常の営みとしている考古学を核にして、新しい科学と芸術の地平を拓くために、「どるめん」という名の石を立ててみたいと思うのです。
*
ずっと考古学には、お固くて垢抜けないという泥臭いイメージが定着していたから、何とかそれを一新したい。レベルの高い内容で、このジャンルとしては珍しいカラービジュアルを豊富に組み込んだお洒落な仕立てにし、しかも若い読者層を射程に入れた低価格な雑誌を誕生させようと方向性を定めて編集会議は重ねられた。ぼくも造本に関してさまざまな試作を繰り返しながら発刊に向けての準備を進めた。しかし人文書籍の購買層は信じられないほど少なく、販売上出版を継続するためには制作費を極限まで圧縮することを余儀なくされていたため、出版社との造本と制作費の折り合いがどうしてもつかず、結局、新世紀『ドルメン』は幻の雑誌となってしまった。
復刊は頓挫してしまったが、そのプロセスから中沢さんのカイエ・ソバージュ 「人類最古の哲学」((講談社選書メチエ・シリーズ))や港さんの『洞窟へ―心とイメージのアルケオロジー』が生み出されていった。(ブックデザインを担当した『洞窟へ』は思い出深い一冊となっている)
2012年9月17日に青山ブックセンターで行われた中沢さんと港さんの対談の聴講メモがネットで紹介されていて、それを読んでいたら、新世紀ドルメンで試みようとしていたさまざまなテーマを、田中さんを挟んで熱く語り合っていたあの頃の両氏の様子が目に浮かんできた。世代も専門分野も異なるこの3人は、まるで仲の良い3兄弟のようだった。
あれから早10数年。電子書籍も流通しはじめ、劇的に書籍の生産システムが変化した現在、印刷代に束縛されることもなく企画内容を読者に届ける方法はさまざまに考えられる。もう、造本と販売を隔てていた壁などは存在していないのだ。いまあらためて創刊号のテーマとなった「月の子(月の蛙)」の試作ビジュアルを見返すと、幻の『ドルメン』はほろ苦い記憶の奥で産声をあげようと、じっと息を潜めているようにも思えてくるのである。そう、きっと未完は希望の芽吹きの別称に違いない。

未来の扉を押し開いたアンリ・マティス

Henri Matisse
2013.9.02

デザインの仕事をはじめてから最もインスパイアされた画家といえば、やはりアンリ・マティス(Henri Matisse)だろうか。でも若い頃のぼくはマティスにほとんど興味を抱くことはなかった。たしかに自由奔放なその色彩感覚は素晴らしいが、感覚のおもむくままに絵筆を走らせるだけのお気楽な絵描きじゃん、なんて乱暴に思い込んでいた。
マティス没後の10年後頃にぼくは美術への興味を抱きはじめるのだが、当時マティスはすでに近代絵画の巨匠として教科書にも載ってたし、彼の画業から大きな影響を受けた画家たち(たとえば、日本の画家では梅原龍三郎など)が大勢いたことも知っていた。ある意味、ぼくの抱いていたもっとも絵画らしい絵画の中心部にマティスは存在していた。にもかかわらず、いやだからこそ?(数少ない)ぼくの所蔵している画集にマティスの作品集は見当たらない。ということは、心惹かれる画家たちの中にマティスは含まれていなかったことになる。いま思い返せば、ぼくは意識的にマティスの芸術を遠ざけていたのだと思う。それほど彼の画業は近代絵画の王道ともいえるものだった。
アンリ・マティスの画像と検索して現れるサムネール群を一望すると、きらびやかな色彩と有機的なフォルムが目に飛び込んでくる。生前、マティスは「私が夢見るのは人の心を乱し、気を滅入らせるような主題のない、調和のとれた、純粋で静謐な芸術である」と目指す絵画について語ったそうだ。また死の前年、自身のもっとも創造的な功績は何かとの質問に「色彩によって、空間に対する感情を実現したことです」とも答えている。そして、彼はそれを見事に成し遂げた。いまでは「当たり前の芸術」として存在しているマティスの絵画は、彼が画業を模索していた時代は少しも当たり前のものではなかった。いや、むしろそれは「とんでもないしろもの」だったのだ。
それを知ったのは、ある画集の資料からだった。その頃ぼくは、美術関連雑誌のデザインを担当していて、マティス特集の資料として預かっていた画集に、多くの批判にさらされながらも自分の信じる表現を実現するため、もがき苦しむマティスに関する記述を見つけた。元々、神経質で気むずかしかったマティスの苦悩は過酷を極め、周囲の人々も巻き込みながら延々とその苦闘は続けられたようだ。肯定的で明るさをたたえたマティスの絵画が、実はこうした苦悩の末に生み出されたものであったことを知り、ぼくはそれまでの自分の無知を恥じ、近代絵画に対する認識もそれを機に大きく変化した。
累々と積み重ねられた歴史の壁を打ち壊そうと、凝固した常識やアカデミズム、分厚いスタンダードに対して、表現を通じてNON!と宣言する勇気はたいへんなものだったと思う。色彩を形態から解放したと後に評価されたマティスの作品はまるで野獣のようだと酷評され、激しい反発にさらされた。それが「キュービズム」と並ぶ美術運動「フォーヴィスム(野獣派)」命名の由来ともなったが、フォーヴィスムのリーダーと目された当のマティスは野獣派と呼ばれ見なされることをひどく嫌ったそうだ。潮流が交差し、激しくきしみながら変化しようとしていた時代に、幸か不幸か居合わせた表現者たちは、マティスにかぎらず同じような重圧にさらされながら孤独な模索を余儀なくされていたのだろう。
お気楽な絵描きだなんて、とんでもない思い違いだった。あらためてマティスの作品を見直してみると、スタイルではない、掴み取った表現が何だったのか少しだけ見えてきたような気がした。何と言っても油絵が素晴らしい。マティスの制作時の源泉ともいえるものが、自然をよりどころとすることだった。自然は多くの美を自分に与えてくれるが、その秘密は研究を通してしか明かされないと考えていたようだ。多くのすぐれた芸術家は、同時に謙虚で優秀な観察者でもあった。 総じてマティスの絵画は平面的な印象を与えるものが多い。装飾的ですらある。絵画構成に関して彼はこんなことをいっている。
「私にとって表現とは、人間の表情のなかに浮かび上がったり、激しい動きによって生み出されるような情熱のなかにあるのではありません。表現は、私の作品のあらゆる位置関係のなかにあるのです。たとえば人体が占める位置とか、そのまわりにある空間とか、プロポーション、そういったすべてがそれぞれの役割をもっています。構成とは、画家が自分の感情を表現するために配置したさまざまな要素を、装飾的なやり方で並べる技術なのです。」
つまり、彼は空間表現をしているのではなく、空間に対する感情を表現していることになる。そして、その感情のメッセンジャーとして重要な役割をはたしているのが色彩だった。だから絵画における色彩のもつ意味は、彼にとっては特別なものであったはずである。
特にインスパイアされたのは、晩年の切り絵シリーズと肖像画としてたくさん残されたデッサンだった。デッサンはもはや絵画そのものであるとマティスは語っている。「マティスとピカソ 二人の芸術家の対話」という記録集((DVDと書籍)の紹介映像がYoutubeにアップされていて、そこでデッサンしながらマティスは、このように話しかけている。
*
私は絵画とデッサンは同じものだと思っている
デッサンは限られた道具を使った絵画だ
真っ白な紙の表面に筆とインクを用いて
立体感によるコントラストを生み出し 紙の質を変えられる
影や光を描かずに 柔らかさ 明るさ 硬さを表現できるのだ
だからデッサンは限られた道具を使った絵画だ
*
切り絵についてはこんな発言もしている。
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「切り絵は、自己を表現するために、今日私が見つけた最も単純で、最も直接的な方法です。長い間、事物を研究して、その記号がどんなものかを知らなければなりません。また、構図においては、事物はその力を保ちながら全体の一部を作るような新しい記号にならなければなりません。一言でいえば、各々の作品は、制作過程において、画面の要求によって創案された記号の総体なのです。(中略) 私の古いタブローと切り絵との間に断絶はないのですが、ただいっそうの絶対化、いっそうの抽象化によって、私は本質的なものにまで浄化されたフォルムに到達し、そしてかつては複雑な空間のなかに私が提示していた事物から記号を残しました。記号というのは、事物をその固有のフォルムにおいて存在せしめ、またそれが含まれていた全体のために存在せしめるのに必要かつ充分な記号なのです」
*
ぼくは何度か自分のデザインの中で、マティスのデッサン風イラストレーションや、あの魅力的な切り絵のイメージを彷彿とさせるビジュアルを用いて、モダンのエッセンスを再現しようと試みたことがあった。マティスの辿り着いたこうしたシンプルな表現はデザインととても相性がいい。いや、それはデザインが欲している伝達力の強さそのものであった。だから、現代のように細分化された表現ジャンルの源には、こうした20世紀中期に生まれたモダンの原型がその礎として存在していることは疑いようがないとぼくは考えていた。
ぼくが物心ついた60年代には、すでにモダンのエッセンスはすっかり時代のあらゆるジャンルを埋め尽くしていた。ある意味、ぼくらにとってモダンはすでに古典になりつつあったのだ。モダンを基点として、そこから伸びたさまざまな枝に試行錯誤の末に新たな花を咲かせても、やはりそれらを支えるのはマティスたちの育て上げた太い幹だった。 しかし新たな世紀に移行する頃には、モダンに対して言いようのない閉塞感を感じはじめていたことも否定できない。そして、モダンやポストモダンもすでに遠い過去となりつつある現在、19世紀に直結する未来だってあるかもしれないと考える自分もいるのである。
20世紀末の1992年に発刊された中沢新一さんの『幸福の無数の断片』に『二十世紀美術を忘れるために』というテキストがあって、それで紹介されていた人類学者、レヴィ=ストロースの主張は「印象派以後の美術にはほとんど意味がない」という過激なものだった。その過激さゆえにずっとその主張はぼくの頭から消え去ることがなかった。彼の考えはこうである。
「西欧絵画は、印象画以後、決定的に方向を見失ってしまい、そのつど豊かな才能があらわれて、新しい道を開くかのように見えたが、けっきょくはどれも袋小路におちいって、長つづきしないうちに立ち消えになってしまった」
「印象派は芸術の基本的な役割が、人間の感覚能力に内在する論理によって、感覚器官におそいかかる外界からのおびただしい情報から、ひとつの秩序をつくりだすことにあるという、ダ=ヴィンチの悟りをあえて無視しようとした。彼らは絵画の使命は、事物の本質をとらえる客観性の追求ではなく(そういうことは、写真術にまかせればいい、と印象派は誤認した)、事物の様相を客観的にとらえることだと考え、自分の知覚におぼれることになってしまった。そのため印象派の絵画はバランスを崩して、行きづまってしまった。 (中略) 今日の状況にたいしても、まったく期待をいだいていない。マネ以降、若い画家たちが絶望におちいらないほうが、どうかしている。美術は感覚と自然とメチエのあいだにうちたてられるべきバランスを決定的に喪失してしまったからである。現代の文化は過去の偉大な創造を引用したり、デザインによって変形したりして消費するだけの、つまらないがらくたの山をつくりだしているだけだ。二十世紀美術の作品のほとんどが、いずれは十九世紀と二十一世紀のはざまにできた、文明の陥没時代の産物として、一顧だにされなくなってしまうのではないだろうか。(140〜141P:河出書房新社刊)
このような手厳しい見解にたいして、中沢さんは、ここで語られていることすべてを反転させた肯定的な芸術論を並置してみせる。そのうえで、現代美術を全面的に肯定するか、それとも意味がないと断定するか、ふたつの極端のあいだで揺れ動く思考も吐露する。そして、こうテキストを結んでいる。
「二十世紀的現代を、からだの半分だけぬけだしたぼくは、レヴィ=ストロースと同じように、現代美術にたいして、ともすれば冷淡な態度をとりがちだ。芸術はたましいのわざだ。大脳皮質の一部だけを使って、それをつくりだすことはできない。「美術よ、お前はただの美しい明晰にすぎない」、そう言われるようになったら、もうおしまいだ。でも、そのいっぽうで、もう半分の自分が生きてきたこの「現代」を、哀惜をこめて抱きしめたいぼくは、現代芸術の真摯な試行錯誤を、こよなく美しいものだとも、感じる。人々は、こんな世界に生きる自分というものを、あらためて愛したいがために、二十世紀美術を展示する美術館を、訪れたいと思うのかもしれないではないか。ぼくは美術に現代を開いてきたあの人々のたましいを、心の底から尊敬し、愛している。
だが、世紀末の人間は、なによりも冷酷でなければ、自分がつぎの世界のマトリックスとなることはできない。たましいのわざとしての芸術をとりもどすためには、二十世紀美術をまず忘れてしまうことのほうが、大切なのではないだろうか。美術史や美術評論家が、マゾヒスティックな快楽をそこからひきだしてくる、あの「現代」をめぐる必然のストーリーなるものを、いち早く忘れることができたものだけが、つぎの世界をかいま見ることができる。その兆候を、ここに見ることができる。幸運にも、「現代」にたいする責任感ももたない、極東の島国の若い芸術家たちの何人かは、すでにそのような戸口に立ちはじめている。」(143〜144P:河出書房新社刊)
一見大きく異なるかに見えるマティスの絵画と現代美術のあいだには、間違いなく確かな連続性が存在する。だから、レヴィ=ストロースの主張には当然、マティスの芸術も含まれていることになる。「デザインによって変形したりして消費するだけの」という指摘に、ぼくは一瞬深く落ち込むのだが、すぐに気を取り直す。そうだ、ぼくはデザイナーだ。芸術家じゃない。継承すべきはマティスが勝ち得たレガシーなどでなく、その精神なのだ、と。
2008年9月1日、福田康夫元総理大臣が辞任表明会見で発言した「私はあなたとは違うんです!」が当時ずいぶん話題となった。「私は自分自身を客観視することができるんです。あなた(質問をした記者)とは違うんです」という趣旨のその発言の真意は別として、ぼくはその時思った。「違うんだ」と毅然として意思表明することはとても大切なことだ。集団からの孤立を怖れることなく、人と違うことを考え、違うことをなし得ようと、勇気をもって行動を起こすマティスのような人たちによって、いつだって未来の扉は押し開かれてきたのだから。

上から富士山、宝剣岳、西穂高、宝剣岳登頂スナップ。

山の中の無数の山

Mountain Climbing
2013.8.01

富士山の世界文化遺産登録決定後、連日バスを連ねてツアー客が殺到しているというニュースやら、関連情報が報道されない日はないほどの大変な盛り上がりようだ。ただ、カンボジアで開かれた登録現場に立ち会った都留文科大教授の渡辺豊博さんが、朝日の新聞紙上で喜んでばかりはいられないと警鐘を鳴らしていた。
諮問機関イコモスの勧告説明には、現在の富士山における数多くの問題点や改善点が厳しく指摘されていた。にも係わらず、それに関する議論は皆無。お祭り騒ぎのような喜びの声にかき消されてしまっていたそうだ。登録は観光の起爆剤として行政や関連業者から大きな期待を担ってきた経緯もあり、それもある意味予想範囲内の反応なのだが、登録決定とともに大変難しい課題を背負ったことを、行政や国民ははたして認識しているのだろうかと渡辺さんは懸念を示す。富士山フィーバーによる過剰利用への対策が未整備のままだと、さらに傷だらけの山になってしまうのではないかと、このような危惧を抱くのはしごく当たり前の感覚だとも思う。ラスコー洞窟は、観客の吐く二酸化炭素により壁画が急速に劣化したため1963年以降閉鎖されている。壁画の修復を進める一方、一日数名のみに入場・鑑賞を許可するという制限処置によって、応募者は数年待ちの状態だという。渡辺さんは富士山もしばらく登山はやめて遠くから眺め、富士山の本質と信仰の文化的な意味を学び、環境問題を認識し、どんな対策が必要とされているのか、今こそ富士山再生への管理計画を考えるべきではないかと提唱していた。
また、去る6月8日にはNHKのETV特集で「富士山と日本人〜中沢新一が探る1万年の精神史〜」が放映された。1時間の番組は時代ごとに章立てされ、なぜ日本人は富士山を“象徴”として捉えてきたのかを探り、文化的な意味を学ぶことができる仕立てとなっていた。
番組を見ながら、ぼくは10年ほど前に中沢さんと一緒に見た富士山の姿を思い出していた。山梨県から見える富士山は裏富士といわれる、いわば逆光の山容で、五百円札や新千円札の絵柄にもなっている、多くの日本人が抱く最も馴染み深い富士山の遠景イメージだと思う。しかし北麓地域から間近に仰ぎみる富士の姿は、まったくその印象を異にする。ある夜遅く、中沢さんとぼくは所用のため中央自動車道を大月から河口湖に向かって移動していた。ふと、突然車窓からその富士の姿は静かに現れてきた。漆黒の闇の中に微かに浮かび上がるまっ白な富士の威容に、一瞬ぼくらは言葉を失った。それはこれまで多くの絵や写真で表現されてきたどの富士山とも異なる、威厳に満ちた実に神々しい光景だった。はからずも同時に出た言葉はたった一言、「美しい」。よくよく目をこらさなければ闇の中に塗り込められてしまうほど、かそけき富士の姿。TVの前で、ぼくは久しぶりにその印象深い姿を思い出していた。
実は地元で暮らすぼくは、富士山に登ったことがない。一度だけ五合目付近まで行ったが、情けないことに頭痛に耐えきれず早々に下山してしまった。以来、富士は遠くから眺める山となった。そんなぼくにも山登りは、たった一度だけあった。
46年前、高校生のぼくは夏休みを利用して中央アルプスの宝剣岳(2956m)に登った。前年結婚したばかりの姉夫妻に誘われて同行することになったのだ。若いころから山登りが好きだった義兄は、大学の山岳部で更に多くの経験を積んだ山男だった。当日、初心者のぼくらを引率する義兄は、中腹となる千畳敷カールまで駒ケ岳ロープウェイで目指す初級ルートを選んでくれた。しかし、ハイキング感覚のルンルン気分もそこまでだった。登りはじめると、岩登りなどしたことのないぼくらの息はすぐに上がってしまう。それでも義兄はペース配分を考えながら辛抱強く初心者を先導し、山頂を目指すルートを消化していった。
ところが何の因果かその日の初登山で、ぼくは山の怖さをいやというほど味わうことになる。急に雲行きが怪しいと義兄が言い出した。そして、突然ぼくらにリュックから取り出したチョコレートと羊羹を食べられるだけ食べろと指示する。(雨風による体温低下からのダメージ軽減に糖分を摂取するというのが登山の常識だった)戸惑いながらも食べていると、さっきまで晴れていた空があっという間に雲に覆われ、やがて風雨に巻き込まれる天候へ急転してしまった。その間、ものの10分ほどの出来事だった。気づくと周囲は雲に包まれていた。山の雨は上からでなく、下から吹き上げてくるのだ。雷の無気味な音もする。急変に順応できずすっかり動揺していたぼくらに、義兄は感電を避けるため、金属類は今すぐにすべてここに置いて行けと言う。(その後知ったことだが、金属を身につけていると感電しやすいというのは俗説で、むしろ、かがんで身を低く保つ方が落雷には有効なんだという)
しかしその直後、ぼくの右手に激痛が走った。持っていた折りたたみ傘への落雷だった。幸い、プラスチック製の柄の部分だけを握っていたので、何とか身体への感電を免れた。肩まで痺れた右手を庇いながら、近くにいた登山者らとともに命からがら最寄りの山小屋に夢中で何とか逃げ込む。小屋の中は避難してきた多くの登山者達で、むせかえるような蒸し暑さだったが、そのまま肩寄せ合いながら悪天候の収まるのを待った。
やがて外が静かになったので小屋から出てみると、すでに山は薄闇に包まれていた。結局ここで夜を明かすことになり、飯盒でご飯を炊いて、高山での初となる夕飯をとる。メニューはまったく覚えていないが、怖い思いをした後の食事は格別なものだったと思う。強く印象に残っているのは、夜空がとにかく美しかったことだ。下界では絶対に見る事ができないような満天の星空で、30秒も待てば必ずどこかに流れ星が見える。夜空にはこんなにもたくさんの流れ星が存在するんだと驚かされた。寝袋を岩場に生えた這松(本州中部以北の高山帯に生えるマツ科の常緑低木)の上に敷き、それをクッション替わりにして川の字になる。這松は水平ではないので、少し斜めになった姿勢でぼんやり星空を眺めながら、やがてぼくは眠りについた。
翌日、好天のもとで山頂を目指し、無事昼前に登頂を果たす。(最下段の写真は背景の様子から山頂付近のスナップと思われるが、左が義兄で隣りに座る麦藁帽子姿のぼくは何かを夢中で掻き込んでいる)山頂はかなり狭く、とても長居できるようなロケーションではなかった。また、下りはとてもあっけないものだった。あんなに苦労して登ったことがまるで嘘だったように、転がり落ちるように山を下った。(気をつけないと、これで膝を痛めてしまうことが多いそうだ) ところが、平地に戻ると大騒ぎとなっていた。昨日ぼくらが遭遇した同じ落雷で、学校登山の歴史に残る大惨事が発生していたのだ。宝剣岳から北方に約50km離れた北アルプス西穂高岳(2909m)で、登山中だった長野県松本深志高等学校の山岳部員らが避難下山途中落雷の直撃を受け、生徒8名が即死、生徒・教員・会社員一人を含めた13名が重軽傷を負い、生徒3名が行方不明となった。(後日の捜索で行方不明者3人も遺体で発見され、犠牲者は合計11人となった)落雷事故としても一度にこれほどの死者・負傷者が出た前例はなかったため、この出来事は全国に衝撃を与えた。それからは毎年、犠牲者を偲ぶ西穂高追悼式や追悼登山が、松本では関係者たちによって執り行われているそうだ。深志高校はぼくの通学していた高校と同じく進学校で、犠牲者の中には同学年の若者たちが何人かいたはずだ。右手だけで何とか助かったぼくだって、一歩間違えたら彼らと同じ運命を辿っていたかもしれない。初登山のことを鮮明に記憶している背景には、そんなことがあった。丁度それは46年前の今日、昭和42年8月1日のことだった。
さて、山といえば、ぼくの周辺で唯一山男だった義兄にまつわる記憶が多い。ぼくが高校を卒業して上京した折りにも、都内に住んでいた姉夫婦のところに居候させてもらった時期があったが、常に危険と隣り合わせの登山を続けていた義兄の山好きは、その頃の姉の悩みの種となっていた。それから次第に義兄の登山熱も沈静化していったようだが、彼なりのやり方で山とのかかわりは継続していた。神奈川から都内の医療施設に研究者として長年通勤し続け、70歳近くなっても休みとなれば一人で日帰り登山を楽しんでいたようだ。
山梨で育ったぼくが裏富士男だとすれば、義兄は御殿場生まれの、言ってみれば表富士男。しかし、そんな表裏のない大陸的な大らかさで、ジョン・レノンと同じ歳の義兄はぼくを折りに触れ可愛がってくれた。姉と結婚する前だったと思うが、本をぼくにプレゼントしてくれた。ヘルマン・ヘッセ全集の「春の嵐」と「車輪の下」。その2冊は今も書棚に収まっている。どうしてこの2冊なんだろうと首をかしげたが、おそらく青春時代を送るぼくに読ませたかった本として選んでくれたのだろう。しかしこの頃のぼくは、穏やかな人間の生き方を描いたヘッセと対極にあるようなアルチュール・ランボーの詩に夢中になっていたので、残念ながらせっかくの義兄の厚意を青春の記憶に刻むことはできなかった。それから数十年間、年に数回会ってはとりとめもない会話を交わす程度のつきあいだったけど、ぼくにとってはかけがえのない人だった。体格も良く、屈強のイメージを抱いていたのに、義兄は2年前、病によってあっけなく他界してしまった。その別れはあまりにもあっけないものだったから、ぼくはしばらくその事実を受けとめることができなかった。
ある日、ヘッセの名言を紹介しているサイトがあり、何気なく見ていると二つの言葉に目がとまった。
「僕は彼岸を信じない。彼岸なんてものは存在しない。枯れた木は永久に死に、凍死した鳥は二度とよみがえらない。」
もうひとつは「私がとても愛している徳がたったひとつある。その名は「わがまま」という。」
もちろん義兄は決してわがままな人ではなかったし、唯物論者でもなかったが、この対照的な二つの要素を矛盾することなく両立させていた人だったことに思い当たる。また生涯、医学の研究畑を歩み、日々実験や実証に明け暮れた人なのに、説明のつけようのない心情にも深い愛着を示す人だった。
人はなぜ山に向かうのだろうか。山は向かう方向や距離によってその姿を無限に変えていく。だから、写真家の港千尋さんは、「今見ている山は、瞬間の山に過ぎない」と言っている。自分が動くと、山も動く。ひとつの山はそのうちに、無数の山を含んでいるではないか。ひとつの山が含む無数の山は、像の属性ではなく、その本質であると。だから遠くにある山に辿りつこうとすることは、自身の心へと辿りつくのと同じくらい遠い道のりに違いなく、その人に含まれる無数の意識もまた、その本質なのだということになる。

Three pieces of oil painting by Francis BaconPortrait (1974, Photograph by Michael Holyz)and his atelier whole view(1998, Photograph by Perry Ogden)

哲学者じゃない画家のフランシス・ベーコン

Francis Bacon
2013.7.02

「知識は力なり」で名高い16世紀のイギリスの哲学者フランシス・ベーコンとは同名異人の画家がいる。フランシス・ベーコン(Francis Bacon・1909〜1992)。彼の絵をぼくが初めて見たのは10代半ば過ぎだった。(もちろん印刷物で)存命だったベーコンは当時すでに55歳前後となっていて、著名な現代美術家として活躍中。アメリカでの初となる回顧展がグッゲンハイム美術館で開催されていた頃だった。
デフォルメされた人物像やタッチは独特で、他の誰もこんな絵は描いていなかった。彼の絵を見ていると、具象でも抽象でも、本当はそんなことどうでもいいことじゃないかという気さえしてくる。作品は色彩や形、タッチ、質感が渾然一体となって、彼が偏執するイメージへと姿を変えながら迫ってくるような不思議な魅力に満ちていた。漠然と画風のイメージに燻製のベーコンを重ね合わせていた当時のぼくは、惹かれながらもそこに肉感的な怪しさを嗅ぎつけ、それ以上近づくことはなかった。
そして時は半世紀近く流れるのだが、5月のある日、没後の大規模な回顧展としてはアジア初となるベーコンの展覧会が東京国立近代美術館で開催されていることをNHKの「日曜美術館」で知った。(現在は終了し、豊田市美術館へ巡回して9月1日まで開催中)番組では大江健三郎浅田彰、映画監督のデヴィッド・リンチ(David Keith Lynch)らが登場して作品の魅力を読み解いていた。原画を1枚も見ていないぼくが偉そうなことは言えないけれど、“現代の人間像”を作り上げようとしていた、“人間の本質”を表現しつづけた、実存的である、といったコメントはどれもあまり心にとどまることはなかったが、唯一番組で印象に残るシーンがあった。第二次世界大戦中、喘息のため兵役不適格となったベーコンは民間空襲警備員として短期間働く。そのときに目にした多くの死体の(人間はつまるところ肉の塊にすぎないのだという)記憶が、その後の彼の作風に大きく影響を与えたという場面だ。
フクロウみたいな風貌も懐かしくなったぼくは、さっそくネット検索して久しぶりに作品をチェック。すると、YouTubeに10分弱のスライドショーが投稿されていて、あらためて画業を辿ってみるとその比類ない世界は健在だった。時には画家というより、映像作家やイラストレーターにも近い感性を垣間見せたり、年代によって作風も変化しているが、一貫しているのは物語を壊し続けようとする強い意志の存在だ。
作家には作品が残る。そこにその人物のすべてが凝縮されているという人もいるが、作品が生成される背景には生い立ちや逸話が寄り添っている。もちろん、それらは所詮頼りない推測の手立てにすぎないのだが、ときには腑に落ちることもある。そこで、生涯の真実を取り逃がすことは避けられないと承知しつつ、ベーコンの生い立ちを辿ってみたい。研究者のように年代別に作品傾向を分析、解説することに興味はない。ぼくが知りたいのは作品の生成に寄り添ったと思われる、彼にまつわる個人的な出来事だけである。
ベーコンはアイルランドの首都ダブリンに5人兄弟の第二子として生まれる。(兄と弟は早世)
家系は哲学者ベーコンの傍系にあたるという説もあるが定かでなく、ベーコン本人も疑わしいと語っている。
両親はイングランド人。折り合いの悪かった父親は元陸軍士官で競走馬の調教師。母親は裕福な家の出身で、その持参金と遺産相続分が家計を支えた。
第一次世界大戦が始まる頃、一家はロンドンに移住するが、その後も度々ダブリンと英国の間で引越しを重ねる。喘息を患っていたベーコンはほとんど学校に行かず、家庭教師から教育を受けながら、アイルランド独立運動の真っ最中の周囲を取り巻く、その「暴力」性の中で多感な時期を送る。
同性愛にめざめた17歳頃、母親の洋服を着ていたのを父親に見咎められる。そして翌年、友人とベルリンとパリに旅行した際、パリで見たピカソの展覧会に影響を受けて水彩や素描を描き始める。その後ロンドンに戻ってアトリエを構え、20歳から2年ほど、テキスタイルや家具をデザインするインテリア・デザイナーとして働くが、当時の作品にはル・コルビュジエやアイリーン・グレイの影響が見受けられるというのも面白い。並行してオーストラリア人画家、ロイ・ド・メストルに油彩を学びはじめるが生活は苦しく、従僕など様々な仕事でくいぶちをしのぐ日々が続く。
民間空襲警備員として働き、多くの死体を目にしたのは30歳の頃で、その翌年、父親が没する。34歳の時、サウス・ケンジントンにアトリエを借り、ベーコンが惜しみない愛情を注いだ人物といわれるベーコン家の乳母だったジェシー・ライトフットと住みはじめる。このアトリエは8年後に乳母が死去した際、失意の内に売却してしまうが、後々手放したことを後悔し、思い出深い土地を離れることができずに以降その周辺のいくつかの部屋を転々としたらしい。
また、ベーコンは生涯で数多くの同性の愛人を持った。ベーコンについての論評で名高いマーティン・ハリソンによると、性的にはマゾで殴られたりムチで打たれたりするのを好み、そのまま激しい性行為に及んだという。「絵画とセックスと死に向き合ったからこそ、ベーコンの絵は人を興奮させる。語りも解説もすべて省き、見る人間と絵との間の距離を破壊して、直接神経を刺激するんだ」とハリソンは言う。
1992年4月28日、主治医の忠告を無視して恋人の居るスペインに赴き、マドリッドで客死する。享年82歳。 (参考資料:日本経済新聞アートレビュー東京国立近代美術館・展覧会情報
「私は自分のことを画家とは思っていない。“偶然と運の媒体”だと捉えている。」 饒舌だったベーコンはこのように生前多くの言葉を残している。これら彼の肉声からは、さらに一歩踏み込んだ生成の秘密が垣間見えてくる。
*
「ほら、僕のアトリエには、写真が床のそこいらじゅうに散らばっているだろう、どれもこれもひどく傷んで。友達の肖像を描くのに使って、それをそのままとってあるんだがね。僕は人間そのものよりは、こうした参考資料を基にした方が描きやすいんだ。それだと独りで仕事ができるし、気持ちもずっと自由だし。描いている時は誰にも会いたくないんだ、たとえモデルにでもね。でも、これらの写真は備忘録で、特徴だとか細かい点だとか、正確を期すということで僕の手助けになったわけだ。役には立った。でもただの道具さ」(『フランシス・ベイコン対談 ミッシェル・アルシャンボー』. 訳:五十嵐賢一 発行:三元社 1998 p12)
「絵画のテーマとは何なのか、絵画とは何なのかということは、これは説明できるものではない。不可能だと思う。おそらく、僕に言えるのは、自己流で絶望しながら、自分の本能に従って、あっちに行ったりこっちに行ったりしているということだな」(同上 p56,58)
「制作中に絶望的な状態になると、ありきたりの写実的な絵にならないよう、絵の具を使ってほとんどありとあらゆることをやるのです。つまり、ぼろきれやブラシでカンヴァス全体をこすったり、何でもかんでも使ってゴシゴシやったり、テレビン油や絵の具などを投げつけたりして、理性に基づいて描いた明瞭なフォルムを破壊しようとします。そうしていくうちに、フォルムがいわば自ら変化していって、私が作った形ではなく、自分自身の形におさまるのです。そうすると、自分が何を欲しているのかがわかってきて、カンヴァス上の偶然の産物に手を加えられるようになります。たぶんこうした過程を経て、自分の意図だけに基づいて描いた場合より有機的な絵ができるのです」(デイヴィッド・シルヴェスター著「肉への慈悲」小林等訳)
*
また、彼はこうも語っている。「画家のアトリエは科学者の実験室のようなものなのかもしれない」。そのベーコンのアトリエがダブリン市立ヒュー・レーン美術館内に復元されている。(写真最下段)
足の踏み場もないほどのすさまじい光景も相当な迫力ものではあるが、これほど興味深いアトリエもない。日本経済新聞アートレビューの担当記者、窪田直子さんが復元されたアトリエの様子をこのように記している。
「このアトリエからはおびただしい数のモノが発見されたが、ただ1つ、見つからなかったものがある。ベーコンの「パレット」だ。一般的な絵の具や道具のほか、家庭用ペンキ、スプレー式顔料、顔料をすくうのに使ったと思われる食事用ナイフやスプーン、ペンキを塗るためのローラー式スポンジなども見つかっている。自由奔放な画家はパレット代わりに絵の具チューブが入っていた紙箱、皿、ボウルなどを使っていたらしい。さらにはドアや壁、天井の板で絵の具を混ぜたり、色を試したりしていたようなのだ。色鮮やかな抽象絵画のような絵の具の跡は、復元されたアトリエ内で目にすることができる。アトリエからはマークス&スペンサーで手に入れたお気に入りのコーデュロイのズボン数枚のほか、切り刻まれた端切れも発見されている。ベーコンはドア板などに盛った絵の具をこうした布きれでこすり取り、カンバスに押し当てることも試みた。ざらついた質感やかすれて消えかかったような効果を出すためにカシミヤのセーター、リブ編みの靴下やタオル地のガウン、髪をとかすくしやほうきなどを使うこともあったという。
アトリエの復元プロジェクトにかかわったヒュー・レーン美術館のマルガリータ・カポック博士によると、移設時にはアトリエ内につもったホコリも一緒に箱詰めされた。ベーコンがカンバスに独特の質感を与えるため、指ですくいとったほこりをぬれた絵の具の中にこすりつけたことを知っていたからだ。
「この健康的とは言い難い部屋で、ベーコンが長年制作を続けられたのは驚くべきこと」とカポック博士は言う。ほこりまみれの雑然としたアトリエからは、カドミウム・オレンジの顔料が入った29個のビンが見つかった。不透明で彩度が高いことからベーコンが好んで使ったこの絵の具は、強い毒性でも悪名高いのである。」
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こうしたさまざまな情報群から、ひとつの光景が浮かびあがってくる。画家はたった一人のアトリエで、自身の理性が造形したフォルムをことごとく破壊し、そこから肉への慈悲に満ちた真新しく有機的な何ものかを生みだそうと格闘し続けた。彼の絵は、そのプロセスを視覚化した報告書である。
中沢新一さんは著書「森のバロック」の序文で、伝記の真実なるものに関して、ヴァレリーの次のような言葉を引用している。
「ある人の生涯を書く。かれの作品、かれの行為、かれの言ったこと、かれについて言われたこと、しかし、かれの生涯のうちでもっとも深く体験されたものは、取り逃がしてしまう。かれが見た夢、独特の感覚や局部的な苦悩や驚きや眼差し、偏愛したあるいは執拗につきまとわれた心像、たとえば放心状態に陥ったときなどに、かれの内部で歌われていた歌、こうした一切は認知しうるかれの歴史以上に、かれその人なのである。(ポール・ヴァレリー「邪念その他」「ヴァレリー全集」第四巻、清水徹・佐々木明訳、筑摩書房、1977年、369頁)」
かくして、画家フランシス・ベーコンのもっとも深く体験されたものは永遠に封印されてしまったが、幸いにして報告書が残されている。それを開くと、偶然と運の媒体から生み出された、神経をより強烈に刺激する挑戦的試みの数々がぼくらを興奮させようと、絶えることのない波動を送り続けてくるのである。

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