The International Design Magazine : Cover
Embody Chair(Titanium / White / Papaya)
Embody Chair Full Front View
Embody Chair Full Back View
Embody Chair Sit View
Embody Chair Back View
Embody Chair Bottom View
Designed by Bill Stumpf and Jeff Weber
(HermanMiller)

2012.10.01

連日、8〜10時間もPCモニターの前に座り続けて仕事していると、当然のことながら運動不足になるし、肩こりや疲れ目にも悩まされることになる。アナログ時代はのんびりしたもので、夕方には一息入れて同じ事務所で働いていた年下のデザイナーとキャッチボールやピッチャーとバッターに別れての二人野球ゲームに興じたりしていたものだった。そんな緩い時間が流れていた時代が今となれば懐かしい。

一週間ほど外出せずに根を詰めて仕事していると、流石に身体があちこち悲鳴を上げはじめる。肩は張るし、腰にも違和感を感じはじめる。ドライアイで目はショボつき、何よりも気が滅入ってくる。そこで、これではいけないと2年ほど前から自転車に乗ることにした。これまで自転車を数十台デザインしてきたけど(といってもプロダクトでなくパーツ類や表面デザインとネーミングのブランド化)ここはやはり品質が安定しているBridgestoneの電動アシスト車を買うことに決めた。電動なんて自転車じゃないよと意見されたりもするけど、扇状地の高台地域に住んでいるので勾配のきつい坂道はさすがに辛い。それに電動だって風を切ると、やっぱりすごく気持いい。冬でも適度に身体が温まるから3kmくらいの往復なら何でもないし、時には車より速く着くことだってある。しかし、乗ってみて初めて気づいたこともある。道路は自転車走行を考慮して作られているとはとても思えない。特に路面の凸凹による衝撃はけっこうきついので、下りなどはほとんど腰を浮かせて走っているほどだ。自転車王国オランダのように、車や歩行者に気兼ねせず快適に走れるサイクリングロードがあったらいいのにと思う。

さて、適度に運動してもPC作業で避けられないのは目の疲れ。加齢も関係しているのだろうが、やはりこれも職業性疾患のひとつといえるだろう。20年ほど前から日常的にパソコンのモニターに向かって仕事をしている。当時のモニターといえば、ブラウン管型TVと同じような格好をした大きなCRT型ディスプレイ。やがて板状の液晶LCD型ディスプレイに代わり、最近は表面がガラス素材のLEDバックライトTFTディスプレイが主流となっている。いずれのタイプも内照式なので、長時間見つめ続けていると、目にさまざまな悪影響を与えることになる。特に問題となっているのが、モニターから発せられるブルーライトといわれる波長が380〜495mmの青色光で、赤色光に較べて散乱しやすく、眼精疲労を引きおこしやすいのだそうだ。一説によるとそれが睡眠障害の原因となったり、体内リズムの乱れを誘発したりと、さまざまな懸念点が指摘されている。特にLEDバックライトになってからは、光がさらに目の深部に差し込むような気がしてならない。

職業柄、モニターの前に座ることは避けられないことなので、近頃は自衛策としてPC用メガネを使用している。モニターから発せられる有害波長(青色光)をカットするこのPCメガネが発売されたのは、ここ2年ほど前のことだ。度付きと度なし、ブラウン(50%カットする吸収型)とクリア(37%カットする反射型)の2タイプの中から自分に合ったものを選んで組み合わせることができる。ブラウンは吸収率は高いが全体に茶色がかって見えるため、微妙な色あいを判断しなくてはならないこの仕事には向いていない。ぼくは近視でやや老眼ぎみだから、度付きメガネはかけずにモニターには裸眼で向き合っている。そこで今回は度なしのクリアタイプを注文してみた。有名なブランドは「Zoff」と「JINS」。度付きメガネは「999,9(Four Nines)」を幾つか愛用しているけど、この2つのブランドもフレームは豊富に用意されていて、なかなかカジュアルで好感もてるデザインが多い。いずれも機能性や価格には大きな差はないが、ネットの書き込みを読むと一長一短で迷ってしまった。やっぱり実際に使ってみなけりゃ分からない、ということで2社から買って較べてみることにした。

使用後の感想として、目の疲れが劇的に改善されたという実感はまだないが、以前より間違いなく目が受けるダメージは少なくなっているはずだ。2つのPC用メガネを比較すると、「Zoff」のレンズは外観は透明度が高いのに、モニター色は「JINS」より茶色がかってしまうし、なによりも反射型では避けることのできない周囲の映り込みが強く、気になるのも減点となる。というわけで、ぼくのPCメガネは「JINS」に軍配が上がった。

運動不足と眼精疲労に続く課題として、次に肩こりと腰痛の改善に取り組まなければならない。以前、ひどい腰痛に悩まされた時期に自動車のシートをレカロに交換したことがある。これでかなり楽になったので、堅めのシートで完成度も高いと定評のあったドイツ車に乗り換えてほぼ腰痛が収束に向かっていった経験から、今回はパソコン専用の椅子を探してみようと思い立った。昔から椅子には興味があった。でもそれは人間工学的な興味からでなく、むしろ好きな工芸品をコレクトしたいというデザイン嗜好からだった。椅子は小さな建築物だと言う人もいる。そういえば、昔から建築家がデザインした椅子の名作は数多い。モダンファニチャーブランドCassina(カッシーナ)からは、LIMA chairやヘーリット・トーマス・リートフェルト作のZIG-ZAG chairKnoll Japan(ノールジャパン)からは、Eero Saarinen (エーロ・サーリネン)Saarinen chairHARRY BERTOIA(ハリー・ベルトイア) と、そのときどき心惹かれた椅子を購入してきたが、そうしたチェアー談義はいずれ機会を改めたい。

これらクラシックモダンの椅子はどれももちろん座り心地は良いのだけれど、パソコンのない時代のプロダクトなので、当然PC用にはデザインされていない。現代のPC用チェアーといえばAaron Chair(アーロンチェアー)が有名だ。言わずと知れたHermanMiller(ハーマンミラー)の1994年デザインのヒットシリーズ。長い伝統をもつハーマンミラー社はミシガン州の田園地帯に本社を構え、かのイームズを世に出した会社としても知られている。アーロンチェアーはMoMA(ニューヨーク近代美術館)の永久コレクションにも加えられているが、何と言っても人気の秘密は体型や使用環境に応じて細部調整が可能な、そのカスタマイズ機能にある。慢性的な肩凝りや腰痛に悩むユーザーからの支持も厚いそうだが、ぼくは最初に見た時から、『スター・ウォーズ』のダース・ベイダーが座りそうな雰囲気にちょっと気持ちが退いてしまっていた。そこであれこれ検討しながら探し出したのが、やはり同社の上位モデルとなるEmbody Chairs(エンボディチェア)だった。機能性はもとより、張地のカラーが素晴らしい。用意されている13色の中でも、黄色(パパイヤ)とオレンジ(マンゴー)、そして真っ赤(トマト)の3色が出色だ。しかしそのいずれも現在製造中止で入荷の見込みもたっていないというではないか。こうなると意地でも探してやるぞと決意して、毎晩ネット検索してやっと見つけた1台が一番欲しかったパパイヤで、ラッキー!おそらく日本に残っていた最後の1台だったのかもしれない。(今年の運をこれでかなり使ってしまった)

届けられたエンボディチェアは、屈強の運送屋さんが一人じゃ持てないと泣きを入れるほど重かった。(たぶんキャスター部分の重量だろう)独特のクッション効果を持つオールメッシュチェアの代表作で、新しい運動学が採用されているため98%の成人の体型にフィットするのだそうだ。自分の体型や姿勢の癖に合わせて調節できるのはアーロンチェアーと同様だが、最も特徴的な機能は座っていても身体を動かすことができること。しかもリクライニングしても頭の高さが殆ど変わらないため自然な姿勢を保ちながらモニターを見ることを可能にしてくれる。

椅子の背を見るとまるで背骨のようだ。初めて見た人はドキッとするかもしれない。でも、自分の背骨の形状に合わせることができるこの背もたれは、まるで生きているように姿勢の変化に対応してくれる。座っていても自然に身体を動かすことは、カラダにとってもアタマにとってもとても重要なことらしい。それによって身体の組織にかかるストレスが軽減され、血流を促すことで脳が活性化して思考も集中しやすくなるという。ホントかいな、と思ったりもするけど、何日かかけて自分の体型に合わせて調整してからの座り心地は、確かにとても良い。座ったときの圧迫感も殆ど感じないし、皮膚のように柔らかくて通気性のあるテキスタイルの感触も心地よい。

さて、これで思いつく範囲のPC作業への対策は講じてみたものの、その効果が体感できるのはもう少し先のことになるだろう。アタマと手が20世紀のデザイナーにとって調和とバランスのキーワードだったとすれば、21世紀はアタマとカラダということになるのだろうか。視力が落ちれば眼鏡をかけ、歯が抜けたら入れ歯でしのぎ、そのうち補聴器やギブスやペースメーカーのお世話になるのかもしれない。そうして加齢とともにプチ・サイボーグ化していく自分のカラダとアタマは、追いつ追われつの雁行関係を演じながら根気よく折り合いをつけていくしかないようだ。

Tools image of the graphic designer
of the 20th century

2012.9.02

アナログ時代のグラフィックデザイナーたちは、さまざまな道具を駆使して仕事をしていた。例えば、用途に応じて硬さや太さの異なる鉛筆や筆を使いこなす。便利なロットリングというブラックインクで描く極細ペンが発売されるまでは、鴉(カラス)口と呼ばれる道具で微妙に太さをコントロールしながら線を引いていた。常にシャープなラインを維持するために、職人みたいに暇さえあれば鴉口を研いでいた。

鴉口で1mmの中に何本の線が引けるか競ったという逸話も残っている。デザイナー、浅葉克美さんの十八番もこの鴉口にまつわる話で、ぼくはライブで聴いたことがある。

「若い頃、ぼくは1mmの幅の中に12本の線を引くことができました。誰にも負けないと自負していたのに、ぼくよりすごい男が一人いた。何と彼は1mm幅に14本も線を引いてしまった。しかしその後、彼はとうとう気が狂ってしまったんです。ぼくは何とかすれすれのところでやってきたが、何事もほどほどが肝心なのです。」 フツーでないことがデザイナーの勲章だった時代のお話だが、今はフツーの定義も単純ではない。そんな多様性の時代に、フツーを自分なりに認識しながら、やはりフツーでないところからデザインの一歩を踏み出すことの重要性はまったく変わっていないとも思う。

アナログ時代のデザイナーたちの道具といえば、スケッチブックに厚紙やトレーシングペーパー。カラーペンやパステルや水彩絵具にアクリル系絵具。ハサミや用途別に用意されたカッターナイフ。そしてコンパスやスケール類、雲型定規にディバイダーと呼ばれる分割器も必需品だった。加えて、スプレータイプやペーパーセメントといわれるペーストタイプの各種接着剤に、ソルベックス呼ばれていたシンナー系洗浄液と消しゴムや練りゴム、そして砂消しゴム。その他、思い思いのさまざまな道具類をかき集めてきては、日々仕事に取り組んでいた。

やがて、画期的な道具が登場する。それは1970年代後半のに発売されたPPC複写機だ。当時はまだモノクロしかなかったが、複製が簡単にできるこの機材は、すぐにデザイナーには欠かせない道具となった。手間のかかる作業も格段に軽減され、工夫次第で表現領域は大きく広がった。

この複写機が出る前から日常的に使っていたのが、トレスコープというモノクロ現像機。暗室で反射原稿を拡大縮小しながら専用の印画紙に感光させ、溶液で現像する仕組みで、複写機より精度が高く、これがないとデザインの仕事は成り立たなかった。社屋を新築した平成元年はまだこのトレスコープが現役だったので、暗室を作って120万円以上するバキューム付の高位機種を導入した。しかし、僅か2年ほどでこの機械は無用の長物となってしまった。その後20年ほどせっかく作った暗室は物置と化し、トレスコープはあまりにも大きく重いため、簡単に処分できない粗大ゴミとなる。数年前に意を決して業者に処分を依頼したのだが、高額で購入したものの、ろくに使うこともなかった道具の処分にまたお金がかかるなんて、ホント不条理な話ではないか。技術革新の裏にはこうした話がけっこうあって、消費量統計数には不毛な支出が少なからず紛れ込んでいるはずだ。

さて、デザインにまつわる道具の話に戻ろう。パッケージデザインのダミー制作用には、クロマティックという英国製の画材を利用した。転写できる文字などが印刷されたインスタントレタリング(通称インレタ)という製品を画材店から購入して仕事によく使っていたが、クロマティックを使えばオリジナルの手作り転写フィルムが作成できる。まずインクを混色して好きな色のシートを用意する。それに求める形を感光させ、硬化した部分だけが残るように溶剤で溶かして転写フィルムを作成するという仕組みである。でも、機材や消耗品が高価な上に、制作プロセスもかなり面倒くさい。おまけに失敗する確率も高いので、パッケージダミーの制作にはかなりの忍耐と努力が要求された。 こうして書き連ねてみると、何だかデザイナーの仕事って、学校で教わった工作の延長とあまり変わらないような気もしてくるのだが、確かにあちこちと仕事場を動き回っては、手を動かしてばかりいたような気がする。でも、同時に頭もデザインの最適解を探り出そうとあれこれ考えていたので、「頭」と「手」のバランスはそれなりに上手にとられていたんだと思う。(そういえば、アートディレクター榎本了壱さんの主宰する会社は、たしか「アタマトテ・インターナショナル」だった)

また、デザインの最終工程には「色指定」という作業がある。これは厚紙の台紙に黒1色で作成された版下(印刷の前段階である製版のための設計図面のようなもの)にトレーシングペーパーを重ね、そこにカラーペンなどで製版するための色指定を書き込んでいく。カラー刷りの場合はプロセスカラーと呼ばれるCMYKの4色を、ドット状の網点で重ね刷りしてカラーを再現するので、各色を何%で重ね合わせるとこの色になるという指定が必要になる。デザイナーは最後の仕事として、ガイドとなるカラーチャートを手立てに、トレーシングペーパーの上に掛け合わせる各色の%(数値)を書き込んでいく。だから、印刷されるデザインの配色は、事前にデザイナーの頭の中でシミュレーションされて数値に置き換えられていなくてはならない。思えば、よくそんなことができたものだと感心してしまうけど、当時はだれでも当たり前にようにこの作業を完結させていた。アナログ時代のデザイナーは、なんとも不思議な能力を身につけていたものだった。

グラフィックデザイナーという職種は、印刷物制作工程の専門職のひとつで、プロデューサー、プランナー、編集者などが立ち上げた案件にアートディレクターが視覚的な方向付けをする。それを具現化していくのがデザイナーということになる。パートナーとなるのはカメラマンやコピーライター、それから文字組みを担当する写植屋さんなどがここに加わる。こうして何人もの専門職との協同作業を通じて、やがて版下原稿が完成される。次にリレー競技のようにそれは製版屋さん(プリプレス)に手渡され、版下という設計図を読み解きながら、刷版作りに向けて作業は進められていく。アンカーは印刷工場(プレス)だ。ここでの印刷、断裁、製本という工程を経て、やっと印刷物はモノとして完成する。

アナログ時代の印刷文化を下支えしていた、分業化されたアルチザンたちのネットワーク。誰が指揮を執るわけでもなく自然発生的にそれぞれの工程では、「アタマ(勘)」と「テ(手触り)」が表裏一体を成してスムーズに機能していた。全国に点在する、こうした多くの制作現場のネットワークの輪のなかでは、等身大の時間が淡々と流れていた。これはわずか20年ほど前、20世紀最後の10年にさしかかる頃の話である。

そしてぼくらデザイナーたちは、アナログからデジタルへの移行期である1992年から96年までのわずか数年間に、DTPの大変革に巻き込まれることになる。しかしなにもこれはデザイナーに限ったことではない。大袈裟にいえば、世界中のあらゆる職種の労働環境や人々の生活そのものがデジタル技術の登場によって大きく変わってしまったのだ。いつだったか、具合が悪くなった車を工場に持ち込んだことがある。工具も持たず、ボンネットも開けることなく、工場のスタッフは車に乗り込むと、ノートパソコンをダッシュボードのどこかに接続すると、なにやらキーボードをたたいて、やがて「これで大丈夫です」と作業を終えた彼は言った。そんな時代になっていた。

ここでもシステム。あそこでもシステム。色や形や音までも含む、ありとあらゆる情報がデジタルデータとして「0」と「1」の記号配列に置換され、日々世界中を行き交っている。デジタルがもたらしたソーシャルメディアの発達は劇的な社会変革だって実現してしまったし、この新生パワーに押されるように、これまで君臨してきたマスメディアもジリジリと後退を余儀なくされている。

好むと好まざるとにかかわらず、こんなデジタル時代の住人となったぼくらが手に入れたものは一体なんだろう。オリジナルは簡単に複製され、保存され、膨大なバリエーションだっていとも簡単に作り出すことができる。一見ルーティンワークから解放され、自由に活用できる時間が増えたかのようにも見えるが、少なくともデザイナーに限っていえば間違いなくアナログ時代より忙しくなってしまった。長くなるので簡単に言うが、職種が減ってしまった分、残ったものがそれらの作業を引き受けなくてはならなくなったからである。写植屋さんはいま、大都市のごく一部を除いてほとんど姿を消してしまったし、製版業だって壊滅状態に近い。そうして、以前より制作料金は安くなり、制作時間の短縮も余儀なくされて、デザイナーは写植屋さんや製版屋さんの真似事まで引き受け、版下原稿の代わりに入稿データなるものを制作しているのである。もう版下を製版所が受け取りにくることもなく、データはネットを介して送信をされる。returnキーを押すと、何日もかけて作った労作だって、瞬時に飛び立っていってしまうのだ。

「理系」「ハイテク」といったデジタルの対義語としてのアナログを、「古い」「情緒的」「経験主義」というニュアンスで表現するのは明らかな誤用だといわれている。アナログは決して旧式な技術の代名詞なんかではなくて、その世界の可能性はいまだに正確に理解されていないのかも知れない。点と点の狭間は無数の点が連なっていて、計測不可能な連結点は決して数値化できないので再現することも難しい。デジタルは数値で表されるが、アナログは(例えば角度などのように)時計や温度計みたいに連続した量として表されることになる。アナログの世界では、情報の発生時点を正確に記録することができるし、誤差も生じにくい。しかし複製を繰り返すと劣化するし、時間の経過とともに変質してしまうという弱点もある。なら、デジタルさえあれば充分なのかといわれれば、どうもそんな簡単な話でもなさそうだ。便利になったことも決して少なくはないが、それでずいぶん楽になったという実感もない。依然として容易に消えない小さな喪失感がくすぶり続けているのはなぜなんだろう。そんなのアナログ時代のノスタルジーにすぎないよ、と言われるかもしれない。でも、アナログのパワーというか、非効率的だけど、丹念に積み重ねられたものだけがもたらす説得力には侮れないものがあると思う。

今、Face TimeやFacebookが賑やかだ。顔が見えると嬉しいし、もっと大勢とつながったら幸せになる。そんな薄っぺらな幸福観をデジタルの恩恵として押しつけられても、主体のあり方が違うのではないかと、へそ曲がりなぼくは反論したくなってしまう。たしかに生活がデジタル化されたからこそ、アナログの特性にも改めて気づかされることになったわけだけど、これら特性の異なるふたつの道具を前にしてしばし考えてみると、どちらにも明らかな優劣はないように思えてくる。ぼくらは必要に応じて、使い分ければいいんだと思う。だってこれらは所詮「道具」なんだから。それに「デジアナ」でも「アナデジ」でもいいけれど、ふたつを組み合わせる試みも映画のCG制作現場などではすでにはじまっているらしい。人間は「道具」を作り、使いこなし、発展させながら複雑な文明を形作ってきた。変わることのないひとつの事実。「道具」の前にはいつだって、主体となる人間が存在している。

Album View
Music from Big Pink : The Band (1968)
Sailin’ Shoes : Little Feat (1972)
Small Change : Tom Waits (1976)
Gentlemen take Polaroids : Japan (1980)

2012.8.03

今回も引き続き、人生で大切な曲10選の続編です。イギリスから始まったぼくのロック遍歴。やがて興味はアメリカ大陸に移動して、いぶし銀の魅力を秘めたミュージシャン探しに夢中になっていった69年のことだった。若かりし日のピーター・フォンダ(Peter Fonda)、デニス・ホッパー(Dennis Lee Hopper)、そしてジャック・ニコルソン(Jack” Nicholson)らが出演した映画『イージー・ライダー』(原題:Easy Rider)が日本でも公開された。主演者たちが全員が射殺されてしまうという、やるせないエンディングで殺伐とした当時アメリカの現実を描いたこの映画に流れていたのが、ザ・バンド(The Band)の『The Weight(重荷)』だった。

ナザレの町に着いた頃には、俺は半分死にかけていた

横になれる場所がどうにも必要だった

「教えてください。どこに行けば寝るところがあるのでしょう?」

男はにやっと笑って俺の手を握った しかし

「そんなものはないよ」としか言わなかった

(*)荷を下ろすんだ、ファニー 下ろすのはただだから

荷を下ろしたら、ファニー そのまま俺にかつがせればいい

「重荷」イントロ:(J.R.ロバートソン作)

ボブ・ディラン(Bob Dylan)のバックバンドとして活動していたザ・バンドは、ディランに誘われてニューヨーク郊外のウッドストックに移住する。そこで日々セッションを重ねていた彼らの家がピンクの外壁だったことから、そのスタジオは「ビッグ・ピンク」と呼ばれ、彼らのデビューアルバムはそのまま『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク(Music from the Big Pink)』と名付けられた。

『イージー・ライダー』の挿入歌『The Weight』は、このアルバムを代表するヒット曲となったが、もっとぼくが心を惹かれたのは、アルバムのラストソング『I Shall Be Released』だった。これは元々、ディランの作詞作曲した楽曲でその後多くのカバーを生んだが、今は亡きリチャード・マニュエル(Richard Manuel)のファルセットボイスが印象的なこのザ・バンド・バージョンがもっとも名高い。日本では友部正人、岡林信康、忌野清志郎らも取り上げていた。ぼくもギター片手に、「いつの日か」じゃなくて「いつだって」というフレーズに惹かれながら、この歌を何度となく口ずさんだものだった。

”I Shall Be Released” Bob Dylan

人は言う すべてのものは置き換えられる

でも すべての距離はあいまいなもの

だから僕は覚えている

僕をここに置いたすべての人の顔を

光が輝いているのが見える

西から東へ

いつだって そう いつだって

僕は自由になれるんだ

誰もが 保護が必要だという

誰もが落ちぶれてしまうから

だけど 確かに僕の影が見える

この壁よりもっと高いどこかに

この孤独な群集の中で

自分は悪くないと断言するヤツが立っている

一日中 大声で叫ぶヤツの声が聞こえる

自分はハメられたと泣き叫ぶ声が

光が輝いているのが見える

西から東へ

いつだって そう いつだって

僕は自由になれるんだ

70年代のウエストコースト・ロックバンドで、商業的にもっとも成功したのがイーグルス(Eagles)とドゥービー・ブラザーズ(The Doobie Brothers)。そこにスティーリー・ダン(Steely Dan)のくせ者サウンドが加わる。しかし実をいうと、彼らの陰となってほとんど売れなかったリトル・フィート(Little Feat)こそ、ぼくのベストバンドだった。今も活動している長寿バンドだが、初期の中心人物だったローウェル・ジョージ(Lowell Thomas George)の亡くなるまでが、ぼくにとってのリトル・フィートだった。オーバーオール・スタイルの太っちょジョージが弾く豪快なスライドギターが大好きだった。(彼の奏法を丁寧に再現しているYouTubeも面白い)こんな骨太サウンドがリトル・フィートの真骨頂だが、初期の名曲「Willin」は彼らとしては珍しくとてもナイーブな印象を与えるアコースティックな楽曲で、向かい風にキックするような、切ないのにしたたかなこの青春歌をぼくは繰り返し聴いていた。

南部からメキシコにまたがって密輸トレイラーを走らせる、酔いどれトラックドライバーを唄ったロード・ソングだけど、この『Sailin’ Shoes』というアルバムのもう一つの魅力はジャケットのカバーイラスト。リトル・フィートのほぼすべてのアルバムを手がけたのは、アメリカのイラストレーター、ネオン・パーク(Neon Park・1940~93)。クレージーでシュールな彼の描く世界にローウェル・ジョージが惚れ込んでいたのだという。パークは筋萎縮性側索硬化症(ALS)に襲われて93年に生涯を閉じたが、ぼくにとってのリトル・フィートはこのイラストレーションとサウンドが表裏一体をなすものだった。

さて、3曲目はカリフォルニアの街中を走るタクシーのシートで生まれたという逸話の残るトム・ウェイツ(Tom Waits )の作品からのチョイス。父はスコットランドとアイルランドの混血、母はノルウェイ人の高校教師。10歳の頃、両親は離婚し、母と暮らすことになったものの高校を中退。昼働きながら夜は歌手として活動する、という往々にしてミュージシャンにありがちなスタートをきったトム・ウェイツ。当時の彼に最も影響を与えたのはビートニク作家のジャック・ケルアック(Jack Kerouac)だったといわれている。だから彼の音楽の底流には、いつも「ビートニク」のスピリッツが流れている。ジャズやブルースをベースに、ルイ・アームストロング(Louis Armstrong)を彷彿とさせるそのしゃがれ声で路上の孤独を歌い上げる。初期はそれほどでもなかったしゃがれ声は、キャリアを重ねるごとに凄味を増していく。ぼくは追っかけよろしく、2002年のアルバム『ブラッド・マネー』&『アリス』までずっとトム・ウェイツを聴き続けていたから、そこから思い出に残る1曲を選ぶなんて、かなり悩ましい作業だ。

73年のデビューアルバム「クロージング・タイム (Closing Time)」の「Rosie」は忘れられない1曲だ。なぜ思い出の曲なのかというと、ぼくはこれを聴きながら自分の人生にとってとても大切な決意をしたからだ。(内容はヒミツ)

でも、3曲目はその曲ではない。それは77年にAsylum Recordsから発表されたアルバム「スモール・チェンジ(Small Change)」の巻頭曲「トム・トルバーツ・ブルース(Tom Traubert’s Blues)」。オーストラリアを代表する有名な民謡ワルチング・マチルダを一部使用した楽曲だ。このメロディは、「なんじクレイギリーの美しき森よ」(“Thou Bonnie Wood Of Craigielea”) というスコットランド民謡に基づく。ワルチングとは「当てもなくさまよい歩く」という意味で、ぼくは朗々と歌い上げられるこの曲を聴くたびに、(見たことはないのに)凍てついた大河を思い浮かべてしまう。そうしたら先日の深夜、BSフジで再放送されていた唐沢寿明主演のドラマ『不毛地帯』のエンディングテーマに、この曲が流れていたので驚いてしまった。さらに驚いたのは、この曲に重なるように、人生の不毛な袋小路に突き進む主人公が吹雪の中に佇むシーンが、ぼくの大河の連想と見事にシンクロしていたことだった。音楽の描き出す光景は、時に不思議な親和性を発生させるものだ。ライブバージョンの「トム・トルバーツ・ブルース」も、なかなか味わい深い。

ずた袋持ってどこへ放浪(ワルチング・マチルダ)に行こうと

ワルチング・マチルダさ

俺と一緒にずた袋持って放浪に出かけようぜ

そしてそれはどこかのホテル行きの使い古したスーツケースさ

そして決して癒えない傷さ

プリマドンナはいない

香水がついている

血とウィスキーのしみがついた古シャツに

街の清掃人におやすみの挨拶だ

夜警にも 炎の番人にも

そしてマチルダにもおやすみの挨拶だ

(トム・トラウバートのブルース:歌詞末部)

やがて80年代に入ると、さまざまな分野でジャンルの溶解ともいえる現象がみられるようになってきた。日本でもテクノポップの登場にともない、YMOがヨーロッパで注目を浴びたりして、洋楽、邦楽なんて括りはすでに過去のものになっていた。そしてYMOの坂本龍一と親交のあったデヴィッド・シルビアン(David Sylvian)繋がりで、ぼくはイギリスの『ジャパン(Japan)』を知ることになる。

久しぶりに聴いたイギリス音楽はすっかり世代交代していて、いろんな意味でかなり深化を遂げていた。一見ヴィジュアル系のポップグループだと思っていたジャパンも、二十歳そこそこの若者に似合わず緻密なアプローチで、なかなかヘヴィでファンキーなエレクトロニクス・ポップを展開していたのだ。今やYMO以上に海外で熱狂的に支持されている日本のロックバンド、『ラルク アン シエル(L’Arc〜en〜Ciel)』のマディソン・スクエア・ガーデン(Madison Square Garden)ライブを先日TVで観ていたら、hydeのヴォーカルがシルビアンの歌声を久しぶりに思い出させてくれた。案外、ジャパンのサウンドは後に続く多くのミュージシャンたちに影響を与えていたのかもしれない。一番好きなアルバムは80年に発表された『Gentlemen take Polaroids(孤独な影)』。なかでもこの『ナイトポーター(Nightporter)』は、長尺物で決してライブ向きとは言えないが、映画の中に吸い込まれていくような気持ちにしてくれるので、就寝前のベッドの中で何度も聴いていた思い出の1曲だ。

僕たちは また さまようのだろう

ずぶ濡れの服のままで

雨を避けて

知っているあらゆる隠れ場を切望しながら

また一人ぼっちになってしまった

生きることに敗北を認めてしまったような静かな街に

僕は訝しく思いながら たたずむ

ナイト・ポーターが行くよ

ナイト・ポーターが滑るようにひっそりと歩いて行く

(night porter =ホテルなどの夜勤玄関番)

これら9曲はぼくにとって忘れられない曲に違いはないのだが、記憶の底には、まだ思い出していないおびただしい音楽が埋もれている。ある時期をともに過ごした、愛おしい楽曲たち。かれらは忘却の沼の底でじっとうずくまり、甦りの瞬間を待っている。だからぼくは10曲目となる最後の曲を当分選ばないでいようと思う。それはきっと残された人生のささやかな楽しみとなるはずだから。

Album View (From leaning to the left)
A Salty dog : Procol Harum
Journey's End : Matthew Fisher
Il Ferroviere : Pietro Germi
Valley Hi : Ian Matthews
Laid Back : Gregg Allman
Valentine : Roy Harper
Be True to You : Eric Andersen
Good Old Boys : Randy Newman

2012.7.01

村上春樹のエッセイ集『村上ラヂオ2・おおきなかぶ、むずかしいアボガド』に『自由で孤独で、実用的ではない』という一編がある。そこで彼は好きなオープンカーに乗って髪を風になびかせると、(たとえそれが束の間の幻想にすぎないとしても)「自由になる」快感を味わうことができると書いている。ただ、オープンカーは髪は乱れるし、日焼けはするし、回りから注目され、冬は寒くて夏は暑い。だから助手席はいつも無人なので彼にとっては案外孤独な乗り物なんだそうだ。「作家の愛車データベース」によれば、村上春樹は15年くらいの間に「フォルクスワーゲン・コラード」、「マツダ・ユーノスロードスター」、「ランチア・デルタGT1.6L DOHC」の三台を乗り継いできたらしい。実はぼくもずいぶん昔から、オープンカーには内心憧れていて、キャップ姿の爺さんが乗ってるの見たりすると、若造ならムカっとするけどあのくらいになれば許されるのかな、なんて考えたりもする。心が動かされるモデルもいろいろあるけど、むき出しの露出感にちょっと耐えられる自信もないから、いつもそっと夢想するだけだ。

ところで今回のテーマはオープンカーのことじゃなくて、やっぱり音楽のこと。この一編には村上春樹が愛車に乗ってよく聴き、しばしば一緒に声を上げて歌う曲についての記述があるのだが、それはエリック・バードン&アニマルズの『スカイ・パイロット』という曲で「本当にいいんだ、これが」と絶賛していた。アニマルズはぼくも好きなバンドなのに『スカイ・パイロット』は覚えてなかった。さっそくYouTubeで視聴してみると、これが全然よろしくない。たとえオープンカーに乗りながら聴いたつもりになったとしても、あまりその素晴らしさが共感できる曲ではなかった。別にそのことで村上春樹を責めるつもりなどまったくない。ぼくが言いたいのは、印象に残っている曲なんて、たいがいが個人的な理由によるものだということ。ある人にとって特別な意味をもっていても、他人には何の意味ももたないということが往々にしてある。だからといって、その曲の素晴らしさが損なわれるわけではなく、音楽に折り重なるように個人的記憶が定着されるのだから、曲の印象が一様でないのは必然でもあるからだ。たぶんぼくがいまだ出会っていないステキな曲は数えきれぬほどあることだろう。しかし、たまたま出会って自分だけの記憶の箱に収められた曲には言いようのない愛おしさを感じてしまう。

「あなたの人生で大切な曲を10曲選んでください」という対談TV番組『ミュージック・ポートレイト』にある日、山本耀司高橋幸宏が出演していた。ほぼ同世代なのでけっこう嗜好が似通っているのか、高橋選曲にはぼくが昔よく聴いていたものがいくつも入っていた。(例えばランディ・ニューマン(Randy Newman)の『I’ll Be Home』や、ビートルズ(Beatles)の『This Boy』などが…)

番組の終盤に出たのは「人生の幕を下ろすとき聴きたい最後の1曲」というベタな御題。そんなときに音楽なんか聴きたいとは思わないだろうが(ぼくもそう思う。やはり静かに逝きたいものだ)あえて挙げるならプロコル・ハルム(Procol Harum )の『Pilgrim’s Progress(旅人の道)』がいいと言う。この曲を初めて聴いたとき実はぼくも、ぐっときた。プロコル・ハルムといえば何と言っても『青い影』が有名だけど、高橋幸宏が選んだこの曲もとてもいい曲だった。人生の航海図を書き上げようとする、達観した心情がじわじわと伝わってくる。プロコル・ハルムはデビュー当時からいわゆるプロ好みと言われたバンドで、いまだにムッシュかまやつがTVで感慨深く回想したりしているが、実はこの60年代に活躍したイギリスのバンドの音楽を特徴づけていたのがマシュー・フィッシャー(Matthew Fisher)の奏でるオルガンの音色だった。寡黙でナイーブな彼の指先から流れる、もの悲しさを湛えた夕陽のような音色はプロコル・ハルムそのものだった。バンド脱退後に発表したソロアルバム『Journey’s End』をぼくは繰り返し聴いていたものだった。ということで、ぼくも人生で大切な曲を選んでみようと、ふと思い立った。別に番組に倣って10曲にすることもないから、思いつくままに挙げてみたい。クラシックや民族音楽や日本の音楽にも忘れがたい曲がたくさんあったが、とりあえずロック、ポップの洋楽編ということでピックアップしてみた。村上春樹同様、こんなの全然共感できないよ~と言われそうだけど。

ぼくが音楽というものを初めて意識したのは、子どもの頃に母と連れ立って観た、映画のサウンドトラックからだったと思う。音楽との最初の出会いは、1956年のイタリア映画ピエトロ・ジェルミ(Pietro Germi)監督・主演の『鉄道員(II Ferroviere)』のバックに流れていた曲だった。イタリアも日本と同じく第二次世界大戦の敗戦国で、同じ復興期を歩む両国には心情的に通い合うものがあったのだろうか、映画や音楽でも『禁じられた遊び』のように波長の合うものがたくさんあったと思う。

さて、2曲目は『These Days(青春の日々)』。この曲はウエストコーストサウンドを代表するミュージシャン、ジャクソン・ブラウン(Jackson Browne)の曲で、彼のオリジナルはもちろん素晴らしいが、多くのミュージシャンがカバーしてきた有名な曲だ。サザンロックの雄、オールマン・ブラザーズ・バンド(The Allman Brothers Band)の弟であるグレッグ・オールマン(Gregg Allman, Greg Allman)のレイドバックした『These Days』も忘れがたい。しかし、ぼくがこの曲を初めて聴いたのはイギリスのフォークロックバンド、フェアポート・コンヴェンション(Fairport Convention、1967年 – 1979年、1985年 – )のメンバーだったイアン・マシューズ(Ian Matthews)が73年に発売したアルバムだった。彼はこの曲をちょっとカントリーっぽい味付けで、爽やかに唄いあげている。マシューズの憂いを含む甘い歌声は、青春時代特有の内省的心情を湛えたこの曲にピッタリはまってた。それに西洋の肖像画のようなアンバーな色調のジャケットもステキだった。「小林さん、これいいよ」とこのアルバムを薦めてくれたのは、レコードショップに勤めていたぼくのリスナー水先案内人、今は亡き新海さんだった。それまでシャルル・アズナブールとかのシャンソンばかり聴いていたぼくが、フォークやフォークロック、そしてロックに夢中になるきっかけを作ってくれた、自分史的には忘れることのできない1曲だ。

続く3曲目もイギリスのアンダーグラウンドフォークの重鎮、ロイ・ハーパー(Roy Harper)の曲『I’ll see you again(又、出逢うときまで)』。かなりのロック好きでも、ロイ・ハーパーを記憶してる人はそう多くはないだろう。レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジやセックス・ピストルズのジョニー・ロットンにも影響を与えたといわれるカリスマ的ミュージシャンの74年に発表された初期アルバム『Valentine』の挿入歌だ。なぜか分からないけど、ぼくはこの曲を聴くたびに胸が締めつけられるような気持ちになってしまう。

君を空しく淋しい夢と一緒に残してきた僕

それがどんな気持ちか、僕にはよく判る

君とずっと一緒だったものね

君はあまりにも淋しげだった

いつも、じっとどこか一点を見つめてたっけ

ひょっとしたら、又、会う日が来るかもしれない

僕はなぜ、君を置き去りにしたのかって 今、考えてるところさ

君と一緒にはどうしても暮らせなかった

だから逃げたんだ、それしか道はなかったんだ

(対訳:山本安見・一部抜粋)

人生は思うようにならないことばかり。「でもいつか、もしかしたら」と、残されたわずかな希望を人間はけっして捨て去ることができない。ブリティッシュフォークの系譜はフェアポート・コンヴェンションをはじめ、このブログの初期にも登場したヴァシティ・ブニヤン(Vashti Bunyan)やドノバン(Donovan)、そしてレッド・ツェッペリンからU2にまで連なっている。その根はアイルランドやスコットランドの大地に深く根ざし、彼の地に伝わる民謡の滋養がたっぷりと吸い上げられている。(デビュー前のビートルズがバックバンドをつとめていたトニー・シェリダン(Tony Sheridan)のヒット曲『マイ・ボニー(My Bonnie)』も、現代風にアレンジされたスコットランド民謡だった)

次第にぼくの音楽への興味は、大西洋を渡りアメリカ大陸へと移っていく。アメリカで生まれたカントリーソングの原型は、16世紀頃からアイルランドで流行したリールやジグなどのダンス曲であると言われているが、このアイルランドをルーツとするケネディ家に象徴されるように、ヨーロッパ的なるものは多国籍民族の大陸で世界中の音楽とともにシャッフルされながら、多彩な変貌を遂げていった。そうしてジャズやブルースはこの国をホームグラウンドとして花開き、フォークやロックも70~80年代には米英ともに百花繚乱の感があった。この時期、ぼくがもっとも熱心に音楽を聴いていたのは、音楽というジャンルが時代の先端部に押しだされているように感じられていたからだ。

ヒッピーブームも一段落したその頃、ぼくはジェームス・テイラー(James Taylor )やジャクソン・ブラウンなどのウェストコースト・サウンド (West Coast sound)に夢中になっていたがそのうち、大きなヒット曲もなく、さほど脚光を浴びることはないが、いぶし銀のような魅力を秘めたミュージシャンが何人もいることに気づき、宝探しするような気持ちでいろんなアルバムを幅広く収集するようになっていった。エリック・アンダースン(Eric Andersen)もそんな中から見つけたシンガーソングライターの一人だった。ということで4曲目に選んだのは、彼が75年に発表したアルバム「Be True to You」の挿入歌『Moonchild River Song』。放浪、誠実、愚直、穏やかさ、透明感と、その音楽の形容はさまざまだが、やはり百聞は一聴にしかずである。寡黙な男のリバーソングに、しばし耳を傾けてほしい。

アメリカ音楽といえばハリウッド的なエンターテイメントを前面に押し出したものがもてはやされている印象が強いが、実は驚くほどその懐は深い。大陸に潜むいぶし銀の水脈を辿っていくと、そこにはもうひとつの素晴らしいアメリカ音楽の世界が広がっている。

わけてもランディ・ニューマンの音楽は、アメリカの良心そのものと言ってもよいのではないだろうか。彼の紡ぎ出すニヒルで時に残酷な物語は、人間という実に矛盾に満ちた、か弱い生き物へと注がれる温かい眼差しによって支えられている。忘れられない彼の曲はたくさんある。迷ったあげく、今回の最後の一曲に選んだのは、最高傑作だと勝手にぼくが思っているアルバム『Good Old Boys』に収まる『バーギングハム(Birmingham)』だ。

フツーに生きることは、ホントは少しもフツーのことなんかじゃなくて、なかなかに難しい。大半は思いもかけない出来事に巻き込まれて、結局翻弄されまくりの人生になったりもする。つまり、フツーの人生とは願望の別称なのだ。

なつかしのバーミングハム

妻があり、家族があり、この手で稼いで暮らしてる

僕はバーミングハムの下町の、製鉄工場のローラー運転手

親父さんは床屋だった

二目と見られぬぶ男で、タスカルーサの生まれだったが

死んだのはこのバーミングハムだった

バーミングハム、バーミングハム アラバマ1の立派な都会

この土地を全部旅して廻ったって バーミングハムみたいな所はありゃしない

妻の名はメアリー みんなは彼女をマリーと呼ぶが

僕らは三部屋ある家に住み 庭には胡椒の木も植えてある

僕は一日中工場で働くが それは辛くもなんともない

黒い大きな犬も飼っている 名前はダンといって

バーミングハムの僕の家の裏庭に住んでいる そいつはアラバマ1の駄犬 とってこい、ダン

バーミングハム、バーミングハム アラバマ1の立派な都会

この土地を全部旅して廻ったって

バーミングハムみたいな所はありゃしない

(対訳:高橋明子)

from Music Video of
Cobra Starship & Sabi
“ You Make Me Feel ”
Dancing with The Stars Season
13 Week 9 Results Show November 15, 2011
& 2011 WMG. Cobra Starship’s music video

2012.6.01

TVはあまり観ないが、それでも気が向いたときにはリモコン片手にチャンネルサーフすることもある。で、たまたま先日観たのがテレビ朝日の深夜番組『ベストヒットUSA』。ナビゲーターは長年洋楽を日本に紹介し続けてきたDJの小林克也さん。この道の草分けともいえる人で、「Snakeman show」のあのとぼけた味わいが好きだったぼくが、ずっと親近感を抱きつづけていたDJだ。

その克也さんが当夜紹介していたのが、コブラ・スターシップ(Cobra Starship)というNYのポップ・パンクバンドだった。彼らのヒット曲『You Make Me Feel…』は、サビ(Sabi)という話題の新人女性アーティストとのfeaturing(客演)によって大化けした曲なんだとか。こういった現象は最近よくみられるケースで、ミュージシャン同士には時に不思議な化学反応のようなものが発生することがあるみたいだ。コラボのようにガップリ四つに組むのではなく、フィーチャリングという醒めた距離感が、そうした化学反応を引き寄せるのかもしれない。

そういえば5年ほど前だろうか、日本でもSoul Jaが青山テルマをフィーチャリングした『ここにいるよ feat.青山テルマ』という曲がヒットしたことがある。すると今度は青山テルマがSoul Jaをフィーチャリングしたアンサーソング『青山テルマfeat.Soul Ja / そばにいるね』が発表されて、これまた連鎖するようにヒットした。たしかに『ベストヒットUSA』のチャート上位にも「feat.」と挿入されるタイトルがたくさんあって、フィーチャリングブームはけっこう根強いのかもしれない。ぼくは、ぼく、君は君、でもちょっとだけぼくと君でやってみたら案外イイ感じじゃない、といった感覚に近いのだろうか。コブラ・スターシップのヴォーカルのゲイブ・サポータ(Gabe Saporta)もインタビューではそれに近いコメントしてたし。

やがて『You Make Me Feel…』がTVから流れてきた。ちょっと昔ヒットしたテクノポップ『ラジオスターの悲劇』(バグルズ)を思わせるアレンジで、そうか、今アメリカでヒットする曲ってこんな感じなんだと聴き入った。YouTubeには同じ曲のLiveバージョンもアップされていて、レアル・マドリードのサッカープレーヤー、クリスティアーノ・ロナウドに似た伊達男のゲイブは、しなるバネみたいな身のこなしでこの21世紀初頭版ラブソングを披露している。

ところで「ザ・ヴォイス」と称されるスターのご本尊、フランク・シナトラ(Frank Sinatra)がとばした数々のヒット曲の中に『フライミー・ツー・ザ・ムーン(Fly Me to the Moon)』という曲がある。これがヒットしていた1960年代は、アポロ計画の真っ只中だったこともあり、宇宙船にも積み込まれたりして、人類が月に持ち込んだ最初の曲としてもつとに有名なんだけど、元々はジャズのスタンダードナンバーだったという。それはこんな歌。

Fly me to the Moon

(私を月に連れてって)

作詞・作曲:Bart Howard

Poets often use many words to say a simple thing.
It takes thought and time and rhyme to make a poem thing.

With music and words I’ve been playing.
For you I have written a song
To be sure that you’ll know what I’m saying,
I’ll translate as I go along.

Fly me to the moon, and let me play among the stars.
Let me see what spring is like on Jupiter and Mars.
In other words, hold my hand!
In other words, daring kiss me!

Fill my heart with song, and let me sing forever more.
You are all I long for all I worship and adore.
In other words, please be true!
In other words, I love you!

人はいつだって単純なことを伝えるのに、様々な言葉を使うわ

たったひとつの詩を歌うために悩んで、時間をかけて音を乗せる

音楽と言葉を添え、思いを伝えよう

あなたのために歌を書いたの

あなたならきっと私の言っていること、分かってくれると信じてる

聴いていくうちに、分かるはずだから

私を月に連れてって

星たちに囲まれて遊んでみたいの

木星や火星にどんな春が訪れるのか見てみたいわ

つまり、手を繋いで欲しいってことなの

だからその…キスして欲しいの

私の心を歌でいっぱいにして

ずっとずっと歌わせて

あなたは私がずっと待ち焦がれていた人だから

憧れ慕うのはあなただけ

だからお願い、変わらないでいて

つまりその…愛してるの

想いは地上から空へと昇り、やがて地球を離れ、宇宙空間にまで旅立っていく。

でも、結局、つまるところ、要するに、簡単に言えば、ぶっちゃけ、正直なところ、一言で言うならば、つまりその…「愛してる」ってこと。コブラ・スターシップだって、シナトラだって、世にあふれる音楽の多くはこのシンプルな心情に収斂されていく。もちろんそこには異性感情だけでなく、多種多様な「つまりその…」が潜んでいるが、その普遍性は一貫して揺らぐことはない。

10代前半の頃、ぼくはラジオから流れてくる文化放送の番組「9500万人のポピュラーリクエスト」を毎週チェックしていた。パーソナリティは、ダークダックスやボニージャックス、スリーグレイセスなどの育ての親でもある小島正雄氏。(でも、54歳で急死してしまった)そこで毎週紹介される、ビルボードキャッシュ・ボックスの全米チャート情報を心待ちにしていたぼくは、一喜一憂しながらランキングチャートまで手作りしては楽しんでいたものだ。

当時ヒットしていた『ワシントン広場の夜は更けて(The Village Stompers)』やガス・バッカス(Gus Bakkas)の『恋はスバヤク!(Short On Love)』などを押しのけて、やがてチャートを席巻しはじめたのはイギリス生まれのフレッシュなバンドたち。例えばマンフレッドマン(Manfred Mann)の『Do Wah Diddy』とか、ハーマンズ・ハーミッツ(Herman’s Hermits)の『ミセス・ブラウンのお嬢さん』などがヒットしていた。今聴くと、なんともまあ無邪気で健康的なスマッシュヒットばかり。もちろんすぐに飽き足らなくなり、もう少し骨のある音楽が欲しくなる。するとすぐにキンクス(The Kinks)やアニマルズ (The Animals)といったバンドが『ユー・リアリー・ガット・ミー(You Really Got Me)』や『朝日のあたる家(The House of the Rising Sun)』といった曲をたずさえてやってきては、そんな気持ちに応えてくれた。

ヒットチャートは音楽の館の玄関のようなものだった。少年はその時どきのヒット曲を通じて時代意識を嗅ぎ取っては、共感の波に身を委ねる。やがて音楽鑑賞の旅をはじめた彼は、そこからさらにディープな音楽の世界を求めては次々と館の中にある扉をノックしてゆく。

こうして、シャンソン、ポップ、ブリティッシュロック、リズム&ブルース、カントリー&ウエスタン、パンク、レゲエ、レイドバックからモータウンミュージック、プログレ、テクノ、ラテン、J-ポップ、ワールドミュージックやアンビエントと音楽遍歴を重ねていく。するともう、気分はすっかり音楽評論家気取りで、お気に入りミュージシャンの数だって半端じゃない。しかし、そうしてストックされた音楽のおびただしい多様性の内側には、いつだってあの普遍「つまりその…」が横たわり、ぼくの心を歌でいっぱいにしてくれる。そしていつまでも「だからお願い、変わらないでいて。つまりその…」とリフレインしつづけている。

上から
・「自画像」1967年・小林春生作
油彩、カンヴァス
・「麦藁帽子をかぶった子供」1896-1902年頃
油彩、カンヴァス(メナード美術館)
・「トロネの道とサント=ヴィクトワール山」1896-98年頃
油彩、カンヴァス(エルミタージュ美術館)
・「座る農夫」1897年頃
油彩、カンヴァス(公益財団法人ひろしま美術館)
・「りんご、グラス、瓶」1895-98年頃
黒鉛・水彩、ヴェラム紙(オルセー美術館)

2012.5.02

怒りっぽくて、疑い深く、近寄りがたい存在と目される人物が、実は寛容な一面もみせ、次世代のものたちに助言を与えることを惜しまなかった、なんていう記述をみつけると、人間ってつくづく複雑な生き物なんだと思う。人はみんな、いろんな矛盾を抱えながら生きている。ときには自分にこんな一面が隠されていたのかと、自身に驚かされたりもする。またあるときは、自分の中に深々と広がる未見の領域を垣間見る瞬間だってある。ある早春の午後、六本木の裏通りを歩くぼくは、ぼんやりとそんなことを考えていた。

国立新美術館で開館5周年を記念した企画展「セザンヌ—パリとプロバンス」が、6月11日まで開催されている。オルセー美術館をはじめ、世界8カ国、40館余りからおよそ90点が一堂に会した大回顧展で、ポール・セザンヌ(Paul Cézanne)が20回以上も往復したパリとプロバンス、このフランスの南北を対比しながら、画家による探求の旅を捉え直そうという企画展。ぼくが美術館を訪れたのは開催間もない2日目のこと。にもかかわらず、フェルメール展のように入場制限されるほどの混雑もなく、ゆっくりと鑑賞できたのは、この画家が漂わせる気むずかしさやかたくなさと決して無縁ではないだろう。

セザンヌはポスト印象派の画家として紹介されることが多い。対象物を円筒や球体、そして円錐などの構造体として捉えようとしたことから、ギュビズムの誕生に大きな影響を与えたとも言われている。

ぼくが初めてセザンヌの絵と出会ったのは、中学校の美術の教科書だった。定かではないけど、ブリヂストン美術館のコレクション《帽子をかぶった自画像》ではなかったかと思う。彼が嫌っていたと伝えられる、ゴッホやゴーギャンのように燃え上がる色彩はそこになく、まるで頑固な老人と向き合ってしまったような印象を与える、渋く乾いた質感と硬質なタッチの作品だった。キャンバスから陰鬱な表情のセザンヌがこちらを振り向いている。そこには鑑賞者を感動させたり、和ませたりしようなどという意図や野心はまったく感じられない。まるで法律家のような厳格さをもって、ひたすら対象物を見つめ、考え、捉え直そうとする堅牢な意思だけが定着されている、そんな絵だった。難しいことは分からないけど、きっとこの人は何かとても大きなものに立ち向かおうとしているとそのときぼくは思った。こうしてセザンヌは憧れの画家の一人となったのだが、それは今も残っている当時の絵(写真の一番上)を見るとよくわかる。この高校生となった1967年の秋に描かれた絵は、まるで「セザンヌに憧れる少年の自画像」と名付けたくなるような未熟な1枚だ。

さて、セザンヌが生きた19世紀から20世紀初頭のヨーロッパとは、一体どんな時代だったんだろう。当時の文化的潮流は近代性(モデルニテ)に向かってダイナミックに動き出し、それまで分厚く積み上げられてきたヨーロッパ文化の地層を突き破るように、美術、文学、音楽などのカルチャーには新たな芽吹きが求められていた。

当然、セザンヌもこの大きなうねりに突き動かされるように自身の模索の旅を開始することになる。初期の写実主義やロマン主義に傾倒した、修行と吸収のパリ時代を経て、次第にセザンヌはかつては同志であった多くの画家たちの制作姿勢に疑問を抱きはじめる。もはや彼らように自然の模倣や再現に終始することでは飽きたらなくなったセザンヌは、一人パリから離れる決意をする。そして故郷プロバンスへと戻った彼は、孤独な探求に没頭する隠遁の日々を開始したのだった。しかし、ボヘミアンな生活を淡々と続けていたわけでもないようだ。評伝によれば、その後何度もパリに出向き、実はプロバンスとパリで同じだけの時間を過ごしていたという。

パリで過ごすセザンヌは匿名の存在となり、静かに近代性と向き合う。それは彼にとってはきわめて重要なことだったようだ。事実、こんな言葉も残している。「ルーブルは参照すべき優れた1冊の本である」。

こうしてパリで吸収した新たな発見に自分なりの形を与えるため、再び南仏に戻っては課題に取り組む。このような反復と集積から、晩年のあのほとんど抽象的ともいえる独自な絵画が生み出されていった。芸術家がその探求を成し遂げる過程は決してシンプルなものではない。そこに至る複雑なプロセスも、実は矛盾を抱えた人間が「唯一無二」を生み出そうとするための必然であったのだろう。

あらためてセザンヌの作品を眺めてみると、いまではまったく当たり前となっている、さまざまな分野の表現の原初を発見することができる。たとえば、形の境界をザクザクとした線でリズミカルに描きだす手法のその先には、漫画家の井上雄彦の作品などが連なっているとぼくには感じられる。コミックや劇画の原点は、案外この辺りが源流となっているのかもしれない。また、特徴的なセザンヌ画法のひとつに「塗り残し(描き残し)」があげられる。むき出しのキャンバス地は、いまでこそ経年色の渋いアイボリーだが、制作時には生々しい白さを放っていたはずだ。この白さは単なるハイライトなどでなく、意表を突く手法として描き込まれた部分を実に効果的に際立たせている。彼の発明したまったく新しいこの対比法によって、それまで見たものとは別種の立体感が絵の中に生まれてくる。さらに、こうした実験的な試みの数々は、彼の高度な描写力によって支えられていることも忘れてはならない。例えば一番下の静物や「大水浴」の連作に見られる躍動的なタッチは、長い修練を経た簡潔で骨太な描写力によって支えられている。

ところで、会場でちょっと気になったことがある。近頃では当たり前となっている「鑑賞ガイド」や、作品の脇にある「解説カード」の存在だ。こうしたガイドツールを一概に否定するつもりはないけれど、解説カードに顔をつけるよう熟読しても肝心の絵となると、さっと眺めて移動してしまう人の何と多いことか。せっかくの原画がそこに在るのに、用意された解説で分かったような気持ちになってしまうのはなんとももったいない。

絵を見ることの喜びとは何だろう。そこには理解することが求められているわけではない。どうしても好きになれない絵もあるだろうし、まったく理解できない絵もあるだろう。鑑賞は多種多様な向き合い方の中から、個別に探り出していくべきだ。まずは、作品とただただ向き合ってみる。やがて少しづつ画家の声が聞こえてくるような気がしてきたらしめたものだ。キャンバスを前にした画家は、うんざりするほど長い時間、対象物とキャンバスを交互に見つめつづけ、考え、迷い、また描くことを繰り返す。世界の誰よりもその絵を一番長く見つめ続けた人間は、おそらく作者本人であるはずだ。人物画、風景画、静物画、なんでもいい。絵を見るということの楽しさの1つには、こうした作者の模索の軌跡を自分なりに追体験するという楽しみが隠されている。(もちろん数えきれないほどの誤読もふくめて)

絵の中に画家が用意しておいたいくつもの窓を開く楽しみ。構図やトリミング、色彩バランスや絵の具の重なり具合、描き出された空間は、この世界を画家がどのように捉えようとしたのか覗かせてくれる記憶の窓なのだと思う。一瞬で感じるもの。じっと見つめていると少しづつ見えてくるもの。以前はまったく分からなかったことが、数年後突然腑に落ちることもあるかもしれない。矛盾を抱えた人間同士が作者と鑑賞者として向き合い、複雑なプロセスを経て、一瞬だけ開け放たれる記憶の窓。

それまでヨーロッパでは当たり前とされてきた、自然を模倣するという絵画の創作姿勢から決別し、自然現象の背後に潜む普遍的な形態をつかみとろうとする行為は、おそらく今のぼくらには想像もできないほど冒険的な行為であったに違いない。長い時を経て伝わってくるその勇気や探求への情熱が、ぼくらの心をざわざわと揺り動かす。見ることは=考えること。考えることは=表現すること。表現されたものを見ることは=感じ、考えること。こうした視覚と思索の螺旋状の連鎖によって、芸術は見る者にとってかけがえのない豊かな何ものかに変貌してゆく。「たかが絵画、されど絵画」と言われる所以である。