Photo:PaulMcCartney

2014.4.02

来月、ポール・マッカートニーの単独来日公演の開催が決定した。好評だった昨年11月の11年ぶり来日コンサートツアーに続く公演で、しかも今回は初めての屋外会場だという。
ぼくは昨年のコンサートツアーに先立ち、湯川れい子さんがポールにインタビューをしてる映像を偶然見たのだが、その時のポールの肉声は歌声のイメージと違いかなりハスキーなボイスだった。以前、松任谷由実の話し声を聞いた時にもボーカルイメージからかけ離れたガラガラ声だったので驚いたことがあったが、長年声帯を鍛え上げたボーカリストは、日常的にはこのような掠れた声になるのだろうか。そう、そう、確か高音まで澄んだ歌声を聞かせてくれる小田和正も話し声は決して高くなかった。生来の身体特性に恵まれているという条件付きであっても、人間の身体に備わったキャパシティは、鍛え方次第で驚くほどその能力を発揮してくれる。やはり何事も使わなければ退化してしまうのは自然の理なのだろう。
さて、ビートルズといったらポール抜きに語ることはできないけれど、彼は常にジョンと比較され、ポールの作る曲はメロディアスなだけで内容が浅く、商業主義的とか揶揄されることも少なくなかった。(『ギネス世界記録』によれば、ポールは「ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家」として認定されている)
若い頃は何事も難しく考えてしまう傾向が強い。真実は屈折していて複雑なものなんだと勝手に思い込み、若者は思考の堂々巡りをくり返す。でも、実は真実なんて主観的なもの。すなわち、知識や経験、そして関係性や偏見などが入り交じっていて、実は人の数だけ真実は存在するのではないか。そして人は一回しか自分の人生を体験することはできないし、実体験としてその一回きりの人生からしか人は学ぶことができない(しかもそれは途上の人生なのだ)。
やがて人は体験を重ねながらさまざまな挫折をくり返すと、深いと思い込んでいた複雑性に対して次第に懐疑的になってくる。できることなら素直でいいじゃない。単純で飾り気や無駄がなく、純粋でシンプルってことは実は素晴らしいことなんだと思えるようになってくる。同時に、それを会得することはとても大変難しいことなのだということも…。
このインタビューで聞けたのはほんの数分間のやりとりだったけど、その時ぼくは「案外、ポールっていい奴なんだ」と思った。実は彼はすごく素直でシンプルな人なんだという印象を強く受けた。だからぼくはここでポールに謝りたいと思う。これまであなたをお気楽ミュージシャンとして軽んじてきたこと、申し訳なく思います。本当にごめんなさい。
もちろん軽んじてきたといっても、その才能には敬意を表していたし、好きな曲だって数え切れないほどある。「イエスタデイ(Yesterday)」や「ヘイジュード(Hey Jude)」は言うに及ばず、10代の頃、ぼくは彼の曲を何度口ずさんだことだろう。
それに、楽天的に見えたポールの人生だって、実は挫折の連続だったともいえる。最初の妻となったアメリカ人の写真家リンダ・ルイーズ・マッカートニー(Linda Louise McCartney)を病によって失ってしまったポール。盟友ジョン・レノンの死に計り知れない衝撃を受け、死後の数ヶ月間自宅にひきこもり続けたポール。ビートルズ解散後はジョンを意識したソロ活動を模索したり、ビートルズへの絶ちきれなかった想いを色濃く投影したバンドを結成したり、ビートルズ燃え尽き症候群、あるいは解散後遺症ともいえる長いトンネルをくぐり抜けてきたポール。

コダック社の縁者で写真家だったリンダを最初の伴侶に選んだポールは、前衛芸術家だったオノ・ヨーコをパートナーとしたジョンを意識してのことだと当時指摘する声も少なくなかった。たしかにそうした背景はあったのかもしれないが、リンダとの共作アルバム「Ram」は今も印象に残るぼくの好きなアルバムだったし、ここではポールとはまた違うリンダの才能も感じとることができる。このアルバムに収められている「Dear Boy」などは今聴いても少しも色あせてないし、ビートルズ時代のポール作「Eleanor Rigby」と較べても遜色のない名曲だとぼくは思う。
確かに当時のビートルズは女の子を夢中にさせるアイドルバンドだったけど、YouTubeでちょっと「Eleanor Rigby」を聴いてほしい。こんな歌詞を今のアイドルグループが書くだろうか?
*
The Beatles – Eleanor Rigby (1966)

エリナー・リグビー信女

ねえ、ごらんよ、あの孤独で身寄りのないひとたち
ねえ、ごらんよ、あの孤独で身寄りのないひとたちを

エリナー・リグビーは教会の結婚式のあとの
お米を拾って夢の中で生きる
ドアのそばの瓶にしまった顔をつけて窓のところで待つ
だれのための顔か?
孤独で身寄りのないひとたち、みんなどこから来たのだろう?
孤独で身寄りのないひとたち、帰る先はどこなのだろう?

マッケンジー神父がだれも聞かない説教の原稿を書いている
だれも彼を訪ねない
ほら、ひとりぼっちで夜、靴下の繕いをしてる
心にかかることは何なんだろう?
孤独で身寄りのないひとたち、みんなどこから来たのだろう?
孤独で身寄りのないひとたち、帰る先はどこなのだろう?

ねえ、ごらんよ、あの孤独で身寄りのないひとたち
ねえ、ごらんよ、あの孤独で身寄りのないひとたちを

エリナー・リグビーは教会で死に、その名も埋葬され忘られる
葬儀にはだれも来ない
マッケンジー神父は手の汚れを拭きながら墓地から戻る
だれひとり、救われなかった
孤独で身寄りのないひとたち、みんなどこから来たのだろう?
孤独で身寄りのないひとたち、帰る先はどこなのだろう?

(訳:岩谷 宏)
*
ぼくはジョンとポールと言えば、反射的にスティーブ・ジョブズとビル・ゲイツを思い浮かべてしまう。マイクロソフトを創業したゲイツはフォーブス世界長者番付連続の世界一とか、金の亡者みたいな烙印が押されてしまい、早期に引退して慈善団体、ビル&メリンダ・ゲイツ財団を通じて国際団体「ワクチンと予防接種のための世界同盟」に民間では最大規模の寄付したり、途上国のエイズやマラリア、そして結核の根絶や教育、識字の水準改善などに尽力している。にもかかわらず、悪役イメージがどうしても払拭できない、考えたら随分可哀想な実業家ではないか。射殺されてからさらに神格化された感のあるジョンに対して、ポールだってなかなかお気楽ミュージシャンの烙印を消し去ることは容易でなかっただろうから、bad imageが定着してしまった可哀想なミュージシャンの一人として認定してあげたいくらいだ。
ところで生前ジョンがローリングストーン誌のインタビューで、ポールの演奏能力について語っているYouTubeの音声訳動画が投稿されていたが、そこからは二人の等身大の関係が垣間見えて、これはなかなか面白かった。
ジョン曰く、「ポールは作曲とボーカルには過剰とも言える自信をもっていて得意げなんだけど、ぼくに言わせたらたいしたことはない。でも、ポールは自分の演奏能力に関しては引っ込み思案だけど、ぼくは彼の演奏能力はたいしたものだと思っている。特にベースの演奏は、今のロックのベースプレイヤー達のやっていることは、ほとんどポールがやり始めたことだと言っても過言ではない。だからこの場を借りてポールに言いたい。ポール、君の演奏能力はたいしたものだよ。もっと自信をもっていい。だけど作曲とボーカルに関してはもう少し謙虚になった方がいい。」日本では細野晴臣という名ベースプレーヤーがいるが、細野も確かポールの手腕を高く評価していた。
また別な動画では、当時、脳腫瘍で闘病していたジョージハリソンをポールが見舞った時のことを話していた。3、4時間ポールとジョージは二人だけで手を握り合いながら昔の思い出を語り合ったそうだ。ビートルズ最後のライブパフォーマンスとなった模様をおさめたドキュメンタリー映画『レット・イット・ビー』(Let It Be)では、ポールは最年少のメンバーであるジョージに対していつも厳しく接している様子が残されている。時には兄のように、そして時には父親のように…。それに反抗し、ポールに対して苛立つ当時のジョージの姿も記録されている。
しかし、内容が何もないビートルズのオマケメンバーみたいなジョージのイメージは、ビートルズ解散後満を持して発表された初の3枚組ソロアルバム「All Things Must Pass」で見事に払拭された。「Here Comes the Sun」や「While My Guitar Gently Weeps」はジョージ作としてつとに有名な曲だけど、このアルバムにはぼくの一番好きなジョージの曲「Run of The Mill」も収録されている。寡黙で気難しく、志も高かったジョージ。そしてあまり知られてないことだが、実は独特のユーモアセンスも持ち合わせていたジョージ。2001年11月29日没。享年58歳。
また、ポールとオノ・ヨーコは長い間不仲が定説化されていた。しかし2013年の米情報誌「ローリング・ストーン」の電子版では「時が癒しを与えてくれた」というポールの発言とともに両者は和解し、亀裂は修復されたようだと報道されている。
さて、ポールのお気楽ミュージシャンイメージは、彼がビートルズ時代からとても愛くるしかっことと無縁ではないと思う。自己主張を前面に押し出そうとした時期には髭もじゃ顔でワイルド感をアピールしたこともあったが、やっぱり愛くるしさが彼の本来の性格に一番フィットしている。さすがに71歳となったポールには皺も年相応に刻まれているので、愛くるしいという言い方にはちょっと無理があるかもしれないが、原型は生来の愛くるしさをとどめていて、はやりそれは素直でシンプルなその性格に相応しい風貌だと思う。
30年、40年。時間の経過というものは人間をどんな風に変えていくのだろう。あの頃いくら目をこらしても見えなかったことが、時を経たら次第に見えてくることがある。またあの頃の自分を俯瞰している今の自分がいるかと思えば、記憶が分断されてしまい、いくら当時の自分を思い出そうとしても叶わないこともある。まったく変わっていない自分がいるかと思えば、すっかり生まれ変わってしまったと思える自分だっている。時間の経過はさまざまな個別的な出来事や記憶を浄化し、変化させたりするけど、病床のジョージと彼を見舞うポールの二人、そして和解したポールとオノ・ヨーコとのツーショットを見ていると、それまで彼らの間に起こった全ての事柄は、つまるところこの「現在」を静かに受け入れるためのプロセスとして存在すればそれでいいのではないかという気がしてくる。どうしてこうなったのかなんて考えない。ただ静かに「現在」を受け入れるだけでいい。最後にぼくの数え切れないポール・フェイバリットナンバーからほんの少しだけ…。

I’ll Follow The Sun
Here There and Everywhere
The Long And Winding Road
Blackbird
Your Mother Should Know
Another Day
Uncle Albert
My Love

(My Love の動画にはリンダとの間に生まれたファッションデザイナー、ステラ・マッカートニーとおぼしき娘とのスナップもたくさん掲載されている)

BLUE STAR MAGAZINE
Cover

2014.3.02

大学がフリーペーパーを出すなんて、時代も変わったものだと思う。この大学の校内にはマクドナルドもあるし、FM放送局だってある。いまや教育機関は立派な商的活動拠点ともなっている。全国からさまざまな分野の教師が集い、彼らに学ぼうとする学生も集まり、スポーツ施設が次々と増設されれば界隈には活気も生まれてくる。こうして大学を核としたキャンパスタウンが次第に形成されてくる。

上はそのフリーペーパー「BLUE STAR MAGAZINE」カバー。季刊でこれまで4号発行されている。アートディレクションは、このブログの「2007.6.14」で紹介した鈴木昌尚(まさなお)くん。仲間の編集者らとともに1年がかりで大学にプレゼンして、やっと実現化にこぎつけたのだそうだ。

亡き父親の跡を引き継いだ家業の桃栽培農園を経営するかたわら、デザインへの情熱をずっと絶やすことのなかった彼はやっとこのフリーペーパーの発刊でひとつの目標を叶えた。いつもは俯きがちなのに、律儀にも創刊号を携えて報告にやってきた鈴木くんは、心なしかちょっと誇らしげな顔をしていた。

これまでうんざりするくらいやってきたから、やりたくないことはもう一切しない。これからは、やりたいことだけしかやらないんです。この時代には到底不可能とも思えるこんなことを、夢や願望でなく、強い意志をもって実現しようとしている彼はとても逞しくみえた。そこにはもう、ボスコで毎日ぼくに叱られていた頃の彼はいなかった。心の奥にどんなに小さくてもいいから、絶やすことなく情熱の熾火を灯してさえいれば、人は寒々しく年をとらないで済むのかもしれない。 いつまでも自分がいなければ、なんてのは年長者の思い上がりにすぎなくて、いなけりゃいないできちんと、続く世代によって新しい道が敷かれていくもの。

「近頃の若者ときたら」とは、ずっとくり返されてきた常套句。

「子供叱るな来た道だもの」、「年寄り笑うな行く道だ物もの」。これはお定まりの慣用句。

どうやら人間、年取れば賢くなるというものでもなさそうだ。ときには年長者の方が傍若無人ぶりを発揮する光景に出会ったりもする。人格の凸凹は世代の別なく、等しく分布するということか。

それにしても、若者の活躍ぶりはいつだって清々しい。例えば今年の「ローザンヌ国際バレエコンクール」で1位、2位、6位と活躍が際立った日本人の若いダンサーたち。それぞれは若干17歳、15歳、18歳。

こんな34歳のベンチャー社長もいる。「人工流れ星」の事業家を目指す「ALE」代表の岡島礼奈さん。子供の頃に読んだ相対性理論の漫画で興味を持ち、東大の天文学科へ。ITベンチャーを起こしながら博士号を取得。その後、打ち上げた人工衛星から玉を放出させて人工の流れ星を作る現在の会社を起ち上げた。衛星には玉を1000個積めるので、流れ星ひとつ100万円なら採算がとれるのだそうだ。夢は見続けているだけなら、ただの夢。実現してこそ本物の夢に一歩近づくことになる。

2005年に韓国で女優デビューした29歳の杉野希妃(すぎのきき)さんも疾駆する若者の一人。朝日「on saturday be」に紹介されていた。女優、映画プロデューサー、監督の三足の草鞋を履くバイタリティーの塊のような女子。20代にして9度もロッテルダム国際映画祭の審査員として招かれている彼女の最新作「ほとりの朔子(さくこ)」は、昨年、フランスのナント三大陸映画祭で最高賞である「金の気球賞」を受賞している。 彼女は「自分のことを自分が一番知っているわけではない」と自作の登場者に語らせているように、「世界中の全員が、はざまで生きている」と社会性を織り込みながら、しっかりと世界の多様性を見据えている。その原点は広島にあった。被爆者の祖母をもつ彼女。なぜ映画をつくるのかという問いかけには「細々とでも平和な世の中をつくりたいから」。生き方のベースとなっているのは一貫して「平和」。「世界にはすごい人がいっぱい。私なんてまだまだミトコンドリアみたいなもの」と、どこまでも謙虚、しかもどこまでも図太い。

大人は若者のためによりよい社会の仕組み作りをしなくてはならないとか、いろいろ提言されているけれど、ぼくは、いつだってバトンはきちんと繋がれていくんだから「来た道」のことなんか案ずることは何もないと思っている。それよりも「行く道」のことを考えた方がいい。山だって登ったらあとは下りるしか仕方ないわけで、無数ある下山道からどれを選び取るのかと悩むことこそ必要だと思うのだ。

朝日「異才面談」コラムで小説家の童門冬二さんが「ふてくされるなよ、50代」と人事の春、悲喜こもごもの季節に際して壮年の心得を説いていた。人間50年も生きてきたら、なにがしかの学びの種はあるものだから、ここで一度人生の棚卸しをしながら客観的に自分を見つめ直す時期としたらいいという。

史実に目をやれば、戦国の名将と謳われた武田信玄は息子である勝頼を『不肖の2代目』と軽んじたために、結局、勝頼はやけくそになって父親の偉勲をみんなひっくり返してしまった。名将も2代目養成という点では、信玄は愚将であったという指摘。

翻って第二の人生をうまく生きた例として、測量家として歴史にその名を刻んだ伊能忠敬の例をあげる。伊能家に婿養子となった忠敬は、名家伊能家の財政再建に尽力し、その復興を見事に成し遂げたのちは50歳で隠居して本当にやりたかった天文学を学び始め、そこを第二の人生の出発点とした。 現役時代にはやるべきことをやりきり、隠居後の自由を確保した、後顧に憂いのない素晴らしい「行く道」を歩んだ例である。

しかし、ぼくはこのコラムを読みながら、まったく別な人物のことを考えていた。フランス人でポスト印象派の画家、ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャンのことだ。証券会社の社員として、そしてごく普通の勤め人として5人の子供にも恵まれ、趣味で絵を描いていたゴーギャンは、ある日安定したこれまでの生活をすべて捨てて画業に専心する決意をする。伊能忠敬とはだいぶ異にする突然の転身ではあるが、測量家より美術家の心理の方がぼくには近しく感じられる。

この画家をモデルにしたといわれるサマセット・モームの小説『月と六ペンス』(The Moon and Sixpence)を若い頃読んだぼくは、幾つになっても心の熾火さえあれば、何かがはじまる可能性は決して閉ざされることはないんだと記憶した。たとえ広々とは決していえなくとも、深々とした第二の人生に連なるその道は、希望の道としなくてはならない。そうなるはずだったゴーギャンの道は、結果的に貧困と絶望、病苦といった茨の道となってしまったのだが…。

『月と六ペンス』は、安定した生活を捨てて、死後に名声を得た画家の生涯を友人の一人称という視点で書かれている。ただ、実際のゴーギャンとの相違点も指摘されている。そもそもノンフィクションでなく小説なんだから別にそれは構わないだろうと思うのだが。松岡正剛は千夜千冊で、イギリス諜報機関のメンバーだったサマセット・モームがスコットランドのサナトリウムで静養中に書き上げた本書についてこんな風に語っている。

「男が女に愛想をつかす理由」や「女が変わった男に惹かれる理由」、さもなくば「男が女にすがる理由」に興味があるならこの『月と六ペンス』を読んでみるべきだ。この小説にはそのすべてが活写されている。「月」は幻想を、「六ペンス」は現実をあらわしているらしい。 月と六ペンスが交差するのは、二つの人生の単なる接点なのか、はたまた分岐点なのだろうか。このままでは終わりたくないという漠然とした想いが、ある日突然わきおこり、気づくとその「来た道」は「行く道」となっている。「往(い)き」と「還(かえ)り」の交点がここにある。

親鸞の言う「人間には往(い)きと還(かえ)りがあるこの考え方には一切曖昧さがない、とは吉本隆明さんの言葉。(“往相・還相回向”)つまり「往き」の時には、自分のなすべきことをするために脇目もふらずに歩みを進めたらいい。しかし、それを終えて帰ってくる「還り」には、すべてを包括して処理に徹して生きるべきだと。

「往き」の道中だってもちろん一筋縄ではいかない。幻想と現実、意識と無意識、言語と非言語、あるいは裏と表。この決して交じり合わない二つの頂には、互いに頼りない橋がかかるだけ。人間はみな、震える橋上でこうした二項対立を抱えながら生きている。そこで両者の折り合いをどうつけるのか。 精神分析家のきたやまおさむは、世界から拒否され姿を消す「夕鶴」の「つう」に、自死したザ・フォーク・クルセダーズ(The Folk Crusaders)の畏友・加藤和彦の悲劇を思い、重ね合わせる。人間には「本音を言葉で吐き出せる場所や、そのための人との関係」が必要で、そうすればもう少し楽に生きられるはずだし、言葉は生きる支えになると。 「かつては、裏町とか裏通りといった存在が、本音を受け止める場所として機能していたが、社会の様々な場面で裏が整理され、すべてが表になってしまった。“うら”とは本来、古語で“心”を意味します。裏の喪失が、現代人を苦しめているのです」(2月8日「逆風満帆」より)

「往き」は、裏町と言葉を支えに、こうした二項対立に折り合いをつけながら後顧に憂いのない区切りをつけることを目指すべし。そして第二の人生の起点にさしかかれば、心の熾火が照らし出す「還り」に向かってその一歩を踏み出していく。なるほど、こうしてみると、なにやら人生はブーメランにも見えてくる。「往き」と「還り」をどんな形で描くのか。空に向かって放ったブーメラン。そこに託した二つの人生は、一体どんな軌跡を描いてみせてくれるのだろうか。

Bela Bartok
using a gramaphone to record folk songs
sung by Czech peasants.
Ry Cooder
大瀧 詠一

2014.2.02

一番上の写真は、昨年末に制作した中央公論新社の文庫本カバーに使用したデザイン素材。ハンガリーの民族音楽研究家でもある作曲家、バルトーク・ベーラが1908年に行ったハンガリー民俗音楽採集時の記録写真である。バルトークは1906年から仲間の研究者らと共にハンガリー各地の農民音楽の採集を始め、その後発表された彼の作品には、これら民謡採集の影響がはっきりと表れているという。写真の中央やや左寄りに見える百合の花の形をした装置が集音器。これでハンガリー各地の多くの人々の歌い声を録音したのだろう。

ずっと永いこと人間にとっての音楽はライブ・サウンドで、そこに立ち会った者だけが、音楽のもたらす歓びを享受できるのだった。しかし録音装置の発明によって、音楽を聴くことの意味はまったく変わってしまった。ライブだけに限定されることなく、この装置の登場によって、いつでも、どこでも、そして誰でも音楽の試聴が可能となり、そこに初めて「音楽を編集する」という概念が生み出されることになる。編集された音楽はさまざまに変容しながら、現代に至るまで、音楽の在り方はめまぐるしい変貌をとげてきた。

世界で初めて登場した録音機は、1877年にトーマス・エジソンが作った円筒式蓄音機だとされている。(収録曲は「メリーさんの羊=Mary had a little lamb)しかし実はそれより17年ほど前に録音された歌声があったのだという海外ニュースがLifener Netで掲載されていた。

録音してもそれが再生されなければ、聴くことは叶わない。フランス人のエドゥアール=レオン・スコット・ド・マルタンヴィルが発明したフォノトグラフは、音を記憶する装置としては最古のものであったが、当時の技術では記録した波形を音として再生することができなかった。この最古の波形を復元したのは、アメリカ・カリフォルニア州のThe Lawrence Berkeley National Laboratoryの科学者たちだった。

最古の波形とは1860年4月9日にフォノトグラフで記録された「Au Clair de la Lune(月の光に)」と題された自国の民謡を歌うフランス人女性の歌声。フランスのサイトAnecdote du Jourでは、フランス科学アカデミーが認定したこの「人類最古の録音」が公開されている。再生されるのはわずか10秒。ノイズの様な音だが、これがまぎれもない世界最古の録音された音源だ。(このページ最上部にある▲をクリックすると試聴できる)実に160年間眠り続けていた歌声が、2008年にやっとその封印が解かれることとなった。

話を写真に戻そう。このスナップでぼくが特に興味を引かれたのが、集音器の向かって右に立ち、こちら側を見つめる少女だった。(上から二番目がその拡大部分)足元を見ると彼女は何と裸足ではないか。その横に並ぶ二人の若き女性も同様に裸足だ。当時のハンガリーでは大人にならないと靴を履くことは許されなかったのだろうか。それに撮影者に向けられているこの子らの眼は、何かに怯えているように見えなくもない。ぼくは4歳の時に生まれて初めて写真を撮られてベソをかいてた自分の顔を思い出してしまった。未知の道具に対して注がれる、好奇心と怯えがない交ぜとなったまなざし。この1枚の写真には、現在に近未来の楔が打ち込まれている光景がはっきりと記録されている。

さて、古今東西、音楽家の中にはバルトークのような研究者肌の人物が少なくない。ぼくの小さな収蔵庫からも、ライ・クーダーや大瀧詠一などのミュージシャンがすぐに思い浮かぶ。

ライ・クーダーはロック、ブルース、ワールドミュージック、R&B、テクス・メクス、カントリー、ゴスペル、ジャズと広いジャンルにまたがって、いわゆるルーツミュージックを発掘し、自身の作品にも蓄積された造詣を存分に投影してきた。彼は極東の沖縄民謡にまでその触手を延ばし、喜納昌吉&チャンプルーズのアルバムにも参加している。また、コンパイ・セグンドらキューバのミュージシャンたちと共同制作したヒットアルバム『Buena Vista Social Club』は欧米を中心に高い評価を受けた。世界各地の民族音楽とかかわり続け、その「起源」を体現する、現在も活動中の貴重な米人 音楽家の一人。

もう一人の大瀧詠一は残念ながら、昨年末の12月30日に65歳で急逝してしまった。突然の死がもたらした音楽関係者への喪失感は決して小さくない。いうまでもなく彼は「はっぴいえんど」の元メンバーとして、そしてソロになってから設立したプライベートレーベル「ナイアガラ」などの活動で知られている。その他、『A LONG VACATION』(1982年)のミリオンヒット、三ツ矢サイダーのCMソング、そして多くのカバーを生み出した代表作「夢で逢えたら」の作者として、また松田聖子、小泉今日子らへの楽曲提供などでつとに有名なミュージシャン。加えて勉強家としての側面も忘れることはできない。それに関してはウィキペディアで以下のように紹介されている。

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諸芸能を始めとした様々な分野についての深い見識を持ち、交友関係が広いことでも有名である。自身は音楽の系譜についての勉強をライフワークとしているが(『分母分子論』『ポップス伝』のように紙上・ラジオ上でその成果を垣間みることができる)、音楽のみにとどまらず広い分野にまで“関連性”を基底に置いて研究していることが「勉強家」と称するゆえんである。大瀧と同様に、日本の大衆音楽を研究しているミュージシャンに近田春夫がいるが、近田が多数の著書を発表しているのに対し、大瀧はラジオ放送をメインの発表の場としている。

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はっぴいえんどの盟友、松本隆が自身のTwitterで「北へ還る十二月の旅人よ」と題し、大瀧にこのような追悼の辞を捧げていた。

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今日、ほんものの十二月の旅人になってしまった君を見送ってきました。 ぼくと細野さんと茂の三人で棺を支えて。 持ち方が緩いとか甘いなとか、ニヤッとしながら叱らないでください。 眠るような顔のそばに花を置きながら、 ぼくの言葉と君の旋律は、こうして毛細血管でつながってると思いました。 だから片方が肉体を失えば、残された方は心臓を素手でもぎ取られた気がします。 北へ還る十二月の旅人よ。ぼくらが灰になって消滅しても、残した作品たちは永遠に不死だね。 なぜ謎のように「十二月」という単語が詩の中にでてくるのか、やっとわかったよ。 苦く美しい青春をありがとう。(1月4日)

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岩手県生まれの大瀧には、終生東北人としての分厚い闇を、眩いばかりの光に内在させていた印象が強い。不慮の死は、自宅で家族と夕食後にデザートの林檎を食べていて倒れ、救急搬送されたというとても象徴的な報道だった。これがみかんだったらやっぱり、らしくない。やはり淡い孤独のなかに硬質な甘さをたたえる林檎こそ、彼の最後にふさわしい。 生い立ちを読むと、小学生の頃からポップスフリークで、その後も吸収対象のエルヴィス・プレスリーやビーチ・ボーイズ、小林旭や三橋美智也やクレージーキャッツの植木らを同時期に聴いていたというから、その無節操ぶりに驚かされる。また、岩手県立花巻北高等学校へ入学後、下宿暮らしを始めたものの、授業料を全部レコードにつぎ込んでしまい1年で退学させられたという逸話にも笑ってしまう。高校生時代に初めて組んだバンドで、本来はコミックバンドをやりたかったというのも何とも彼らしいコメント。多才な大瀧には多羅尾伴内、笛吹銅次、多幸福、南部半九郎、イーハトヴ・田五三九といった別名があり、そのお茶目感覚はすでにこの時期から育まれていたらしい。

ところで、亡くなる3ヶ月ほど前の2013年9月20日に「FM坂崎Kトラ」のゲストとして出演した大瀧をアルフィーの坂崎幸之助がインタビューしている様子がYouTubeにアップされていて、大瀧のそのとぼけたキャラクターぶりについ聞き入ってしまった。(1時間ちょっとの長尺物)

生い立ちで紹介されていた「小岩の製鉄会社に就職するも、出社約20日、在籍期間3ヶ月で退職。その数日前、船橋ヘルスセンターで会社の慰安会があり、余興でビートルズの「ガール」をアカペラで歌ったところ、上司から「うん、キミはこういう所にいるべき人間ではない」と諭されたという。」という逸話はこの番組でもふれられていた。そこで大瀧詠一が、今日9月20日は、実は「はっぴーえんど」が解散して40年目の命日なんだと話しはじめ、つぎは俺の命日になったりしてと冗談かましていたが、今となっては笑えない。

終盤近くで二人は、坂崎幸之助が歌うフォークルの「花のかおりに」(北山修:詩、故・加藤和彦:曲)のカバーを聴いてしんみり。改めて聴きなおすと、すでに今は亡き加藤和彦と大瀧両氏の残像が重なり合ってきて、ぼくも何だかしんみりしてしまった。ともあれ、大瀧詠一はその研究者精神を最晩年まで東北人らしい実直さで貫き通した希有のミュージシャンだった。

さて音楽界に限らず、こうしたタイプの人物は様々なジャンルに点在していると考えられる。そもそも、研究者肌の人間は、往々にしてメカニズムに興味を示す傾向が強い。彼らはそこにはかならず何らかの法則が隠されているはずだと、現象の背後に普遍性を見出そうとする。そして、いまだ誰にも解明されていない謎に向かって情熱を傾ける普遍性探索の旅人たちだ。

片や表現者肌の人間は、形をもたないもの、見えないものとの一体化を目指す。形を成さないものを認識する能力に長けている彼らは、普遍性とは発見するものでなく、一体化するものなのだと直感しているかのようだ。

実をいえば人はみな、多かれ少なかれこの二面性をあわせ持っている。メカニズムとスピリチュアルは人間にとって隣人同士なのだ。メカニズムを解明したとしても、それで心が満たされるわけでもなく、心が満たされたと感じても世界を解明してみたいという欲求が消えてしまうことはない。この中間地点で行きつ戻りつしているのが人間というものなのかも知れないと思ったりもする。

「研究と表現」、「論理と感性」、「普遍性と個別性」あるいは「男と女」と言ったっていい。 古代からこの二つの気質を包摂する人間の頭脳構造は全く変わってないが、日頃ぼくらはそれらをさほど意識することなく使い分けている。 それなのに、この対照的な「研究」と「表現」を見事に両立させているバルトークやライ・クーダー、そして大瀧詠一らの純度の高さといったらどうだろう。なぜそんなことが可能になるのか。

これはぼくの拙い仮説にすぎないのだが、彼らは「表現」をモノローグ(Monologue)で完結させてはならないと考えていて、むしろ誠実な「表現」行為というものは、普遍性と個別性が相互に理解を深めながら、共感や意識、あるいは行動の変化を引き出し合う、真に創造的なコミュニケーションのあり方として、モノローグの対義語となるダイアローグ(dialogue)を目指すべきだと考えているからなのではないだろうか。このように直感する人物であれば、必然的に彼らのような生き方を選択するはずである。そういえば、オランダにはフェルメールのように科学する眼をもった画家もいた。人間の脳に備わったエンジンとモーターのようなこのハイブリッド構造は、その絶妙なセッティングによって、如何ようにもその能力を発揮してくれる優れものなのだ。それはまさに創造の源。それが無ければ、人間はこれほど無数の耳、無数の眼、そして無数の言葉を生み出すことはなかっただろう。ところで、このブログのシリーズタイトルはMonologue。ぼくのdialogueへの道はまだ遙か彼方にあるようだ。

上部:アマゾンプライムエアー・コンセプト動画スナップ。
下部:新宿裏通り風景とバー店内イメージ。

2014.1.01

世界各地でMillennium=ミレニアム(千年紀)という言葉が飛び交った西暦2000年の3千年紀スタートから、早いものでもう14年が経ってしまった。その時、2014年は近未来と言えなくもないほど先の事だったはずなのに、気づくとぼくらはもうその近未来に生きている。

ところで未来についてぼんやりと考えるとき、人は空や天井を見上げるような姿勢をとることが多い。俯いて考えるとき、未来という言葉は似合わない。むしろ行く末と言った方がしっくりくるわけで、どうやら人は未来という言葉の中に何かしら明るい兆しを含ませようと願うものらしい。

インテル(Intel)やグーグル(Google)には「未来研究員(フューチャリスト)」というスタッフがいるそうだ。そこで彼らが活用する技法は、SFプロトタイピングと呼ばれている。

〈SFプロトタイピングとは、インテル社の製品開発を支える未来予測手法であり、それこそハリウッドのSF映画のような世界を参考にして、一種のゲーム感覚で、ありありと未来の生活の姿を思い描き、その中で普通に使われている製品、テクノロジー、社会問題を通じて、人間にどのような変化や影響を及ぼすのかを考える思考実験と位置付けている。それこそ短編のSF小説を書き上げてしまう事例もある。(The Liberty Webより)〉

たしかに数十年前に発表されたSF作品のいくつかのビジョンはすでに現実のものとなっているわけで、この未来研究員、要するにSF作家たちの想像力を活用しながら近い未来を想像し、その世界で求められるであろう技術や製品を先駆けて開発してしまおうという企業戦略が生み出した新しい職種ということになる。でもどこかしら「先んずれば人を制す」で、誰よりも早く時代のニーズを先取りして成功を収めようとする、競争社会の世知辛さも感じてしまう。(グローバル企業の旗手Intel、Googleなんだから、それは当たり前の話でもあるのだけれど)

しかし、実は近未来はすでに着々と現実のものとなりつつあるようだ。例えばアマゾンで実用化を模索しているのが「オクトコプター(8つのプロペラの小型無人機)」による配達サービス「Amazon Prime Air(アマゾンプライムエアー)」。(公開されているコンセプト動画を見るとアマゾンが何考えているか一目瞭然だ)半径16kmの範囲内でGPS(全地球測位システム)を使い、アマゾンで取り扱う86%にあたる約2.3kgまでの商品をピンポイントで届けてしまおうという計画。一戸建てならまだしも、マンションはどうするの?とか、何万もの無人機が空を行き交っている光景を想像するだけでぞっとするとか、一般の人々の反応はいたって冷ややかなようだ。それに新聞配達や運送業といった職種を圧迫したり、それに代わる雇用が新たに生み出されるようにも思えない。アマゾンだけでなく、アメリカの宅配ピザ大手「ドミノ・ピザ」も無人機で空から宅配する実験動画をユーチューブ上で公開したり、同じくアメリカの物流大手「UPS」や欧州の物流大手ドイツポストDHLも無人機による配送テストや研究を進めていて、10年以内にこうした宅配サービスの市場規模は82億ドル(約8400億円)に拡大するというアメリカ調査会社の予測もあるそうだ。

ただ懸念されるのは、この技術の転用についてだ。ちょっと想像力働かせれば、オクトコプターは配達だけでなく、パパラッチよろしく個人の敷地に潜入して密かに写真を撮影したり、無人機による爆弾テロにだって利用できそうな技術であることはすぐに思いつく。この連想の背景にはいうまでもなく、アフガニスタンやパキスタンで多くの無実の市民を殺害しているアメリカの武装無人機の存在がある。人が直接人を傷つけるのでなく、そこに無人機やロボットを介在させることで、自身への危険を回避しながら目的を達成することへの嫌悪感が人々の心理の底に根強く横たわっている。卑怯者への嫌悪感とロボット恐怖症は表裏一体。まったくロボットに罪はないのだし、コラムニストのモーリーン・ダウドがUSAトゥデー紙から引用している以下のような平和的事例なら、それはそれで「勝手にしたらいい」とは思うのだが。

「すでにあらゆる企業が規制をかいくぐって無人機を利用している。不動産関係者は豪華な物件をビデオ撮影し、カメラマンはハワイのサーファーたちの映像を集め、西部の農家は自分の土地を監視し、カリフォルニアのワイン醸造業者はブドウの熟成具合を確認している。」そしてこのように結ばれている。 「ロボット恐怖症の人たちがすぐに商品を受け取れる方法がある。店に買いに行けばいいのだ」(朝日新聞のコラム「The New York Timesから」より)

その通り。待つのではなく行動すればいいのだ。セブンイレブンの鈴木会長は、今後の企業戦略としてネットビジネスを加速させると発言している。自社の確立しつつある店舗網を利用して、ネット注文した商品を最寄りのショップで受け取れるようにする。この手法なら他社の追従を許すことなく、アマゾン、ヤフーや楽天に対抗できるとの計算だ。技術の是非は結局、使い手次第。どこまでいっても人間の問題ということになる。

ところでSFといえば、昔ぼくはハヤカワ文庫などのSF小説ばかり読みあさっていた時期があった。面白いもので作家もタイプによって、同じSF 小説といってもその作風は大きく異なってくる。映画化もされた「日本沈没」の小松左京はさしずめ社会派の代表格。また、軽妙かつエスプリの効いた作風で、ショートショートの神様と呼ばれた星新一は、先日故人となってしまったセゾングループを率いた堤清二(辻井喬)同様、上場企業(星製薬)経営者としての顔も持つめずらしいSF作家として記憶されている。スラップスティックの大家、筒井康隆は現役の最も著名なSF 作家であろう。冒険物やサスペンス&ミステリーなら、日本SF第二世代の田中光二山田正紀らがいる。劇画のようなSFなら、やっぱりウルフガイ・シリーズの平井和正。彼は漫画「エイトマン」の原作者でもある。しかしなんといっても印象深い作家は半村良だった。

30近い職業を転々とした後、作家デビューした半村良の作品には、松本清張に連なる深い人間観察から生み出された作品が少なくない。『石の血脈』などで「伝奇SF小説」と呼ばれるジャンルを開拓した半村だが、人情小説や風俗小説などにもその才能を存分に発揮した。バーテンダーの経験もある半村は、新宿裏通りにあるルヰというバーのバーテンダー、仙田を登場させ、『雨やどり(現在は集英社文庫)』を含む8つの短編に、彼を軸とした人間模様を情感豊かに描いてみせた。この『雨やどり』はSF作家としては初めて直木賞も受賞している。ファンの中にはSF作品に与えられたものでなかったことを惜しむ声もあったが、文春文庫の解説で長部日出雄が指摘しているように、連作の底に流れているのはやはりSF的な発想と構造であったという見方もできそうだ。それはこのような指摘であった。

「…若い頃は面白くないバーテンだと言われ、派手な男に先を越されて下積みが長かった。しかし、その分じっと他人の人生の流れを見守っているような所があって、作家とか芸人とか、或いは平凡なサラリーマンでも何かひとすねしたような性分の客には、仙ちゃん仙ちゃんと言って可愛がられたものである。(『かえり唄』)

…いつの間にか、仙田も昔に戻り切っていた。顔のまん中で三組ほどの客を監視し、両眼の隅でもう一組ずつとらえている。だから目玉は動かない。緊張しなければできない芸当であった。仙田は背骨をしゃんと伸ばし、どこを見ているのか判らない目付きで、次々と命令を発していた。(『昔ごっこ』)

そのような視線、あるいは目配り心配りに、客がどのように映っていたのかは、『おさせ伝説』の一部に活写されている。不遇な実力者、情報通、性技の達人、駄洒落好きの三枚目……など、それぞれ自分の好みの役柄を演じている客たち—。バーで働く女の人や男のなかには、自分のほうが役者になっている感じの人も時折いるけれども、仙田はつねに裏方の眼で、脚光を浴びている客や女の人たちを見て来たのである。

こういうと、いかにも仙田が作者の分身であるかのようにおもわれるかも知れないが、そうした常識的な見方をも、最後の『愚者の街』において、作者はくるりと引繰り返してしまう。この作品には「あきらかに作者自身をおもわせる駒井啓介という作家が出て来て、「一見してバーの男と判る蝶タイの男」を、高校時代の友達に「こいつはこの近くで壺という店をやっている仙田だ。よく俺の小説に出てもらっている」と紹介し、またその友達に向かって、次のような言葉も口にしている。

「お前らのいる世界では、行方不明者はよくないしるしだろうが、こっち側ではいいことなのさ。うまく行ってれば音信不通さ。それでいいんだ」

そういわれているこの作品の語り手の「私」は、早稲田を出て証券会社に勤めている、つまり一般の読者からするなら、自分たちとおなじカウンターの「こっち側」の人間であって、喋っている駒井のほうが「あっち側」の人間ということになる。作者は連作という形式を生かし、語り手の視点をカウンターという境界線で区切られているこちら側やあちら側へ移動させることによって、日常的な話を非日常的な物語に変えたり、非日常的な物語を日常的な現実と感じさせたりする転換の妙を生み出しているのである。〈中略〉そして読者は、この連作集を読み返すたびに、視点の転換による新しい発見に気がつき、やがて「あちら側」からも自分たちのいる「こちら側」の世界を見ることのできる、想像力の豊かな、すなわちはやさしくはあっても甘くはない、人生の苦さと辛さを知った人間通への道に導かれる筈である。(文春文庫『雨やどり』296〜298頁)ここで語られる「人間通」とはいったいどのようなものなのか。

「落語家を例に引いて話を始めたのは、作者が書いているあいだ新派の芝居を作っているつもりだったというこのシリーズが、わたしには落語の人情噺のようにおもわれたからで、最初の作品の『おさせ伝説』を雑誌で読んだときの印象は、いまも新鮮であり、読み始めて、まず感じられたのは、作者が並々ならぬ人間通である、ということだった。かりに一言でいうなら、これは人間通の小説であって、作者のSFあるいは伝奇ロマンに縦横無尽に展開される百科全書的博学は、つとに有名ではあるけれども、たとえばバーにおいては、下手なピアニストほどキーを強く叩く傾向がある。駆けだしだと、客の会話や笑い声に負けまいとして、余計強く弾く。それに、ピアノだと酔った客がすぐに手をだすが、エレクトーンだとどういうわけか触れようとしない。だからピアノよりは会話の邪魔にならず、客がネコフンジャッタをやりにくいエレクトーンに変えたのだった。……というような、おそらくどんな本を探しても出ていない知識を与えてくれる小説家は、たぶん半村良のほかにはいない筈であり、しかもこの一節からは、酒場の賑わいと紫煙のなかで、懸命に鍵盤を叩いている駆けだしのピアニストの横顔や、人差指一本でネコフンジャッタを頼りなくつついている酔客の姿など、ユーモアや皮肉やペーソスや実にさまざまな感慨を抱かせる光景が、鮮明に浮かび上がって来るのである。同上292〜293頁)

かように、SF小説と一口に言っても、そのフィールドは幅広く、奥深い。私小説でもなく、ノンフィクションでもないSF小説。そもそもSFとして普及するまで日本では、これらジャンルは「空想科学小説」「幻想科学小説」「未来科学小説」などと呼ばれていた。海外では、SFは科学小説ばかりではないという見解から、サイエンス・フィクションでなくサイエンティフィクション〔Scientifiction, Scientific+Fiction〕と呼ぶべきだという主張すらある。事実、前述した作家たちも、科学物、空想物、幻想物、未来物、冒険物などと分類することだってできそうなほど多彩である。共通しているのは「ちょっとありそうもないことが描かれていること」。逆に言えば「あったらすごく面白そうなことなのに、それを説明したり証明することはとても困難だからSFとして表現してしまえ」という人々が積み上げてきた表現領域ということになりそうだ。

「サイエンス・フィクション」の命名者は世界初のSF雑誌『アメージング・ストーリーズ (Amazing Stories) 』の初代編集長ヒューゴー・ガーンズバックであるといわれている。しかし、よく考えてみるとサイエンス・フィクションはアメージング・ストーリーズ と同義なのではという気もしてくる。amazing。つまり、あきれるような…、 驚くべき…、すばらしい…、大した…、 びっくりするような…、 めざましい…、 感心するような…、 見事な…、 不思議な…物語というわけだ。これこそSF精神そのものではないか。固定化された思考や見慣れた風景に抗うように、その狭間から突然出現してくる新生児たち。さまざまな息苦しい制約から放たれて、存分に空想力を発揮しながら未来に思いを馳せると、人々が胸躍らせるようなアメージングな物語が生まれてくる。そこに潜んでいるものは、将来利益を生み出しそうな技術のヒントなどだけではない。無益な、しかしあきれるような人間の自在な空想力こそ、実は未来へと歩みを進める轍となっていたのではないだろうか。願わくばそこには、決して「行く末」などではない、何かしら明るい兆しが差し込まれていてほしいものだ。今も黄ばんだ本を開くと、新宿の裏通りにひっそりと営業しているバーが現れる。そして「不思議な…」のスツールの横には、いつだって「すばらしい…」がちょこんと腰掛けている。だから、SFの世界に背を押されてきたぼくは、SF作家と呼ばれるすべての作者が「amazing未来研究員」なのだと思っている。

COMME des GARCONS: Six
Cover : Number 2, 3, 4, 5, 6, 8.
& Center-spread.

2013.12.02

新しい服に袖を通すとその日は少しだけ軽やかな気分になって、見慣れない自分に出会ったような新鮮な気持ちになる。その属性はすぐにあらかた代わり映えしない本質に吸収されてしまうのだが、確かに身につけるもので気分が左右されることってあるんじゃないだろうか。あまりしっくりしないコーディネートだったりすると、なんとも冴えない1日になってしまうから、ぼくは前夜に翌日の取り合わせをぼんやりと考えておくようにしている。時には天候に合わせて変更することもあるけれど、あらかじめコーディネートをイメージしておくクセがついてしまった。薄着の夏場よりも、重ね着やマフラーなど小物パーツが増える肌寒い季節の方がコーディネートの楽しみは大きくなる。ファッションなんてあまり興味なかった昔だったら考えられないことだ。あの頃はとりあえず着心地がよくて、それなりにまとまっていたらそれでOK。ファッションにお金をかける余裕もなかったし、楽しむという発想そのものが希薄だった。そんなぼくにも今に至る転機は何度かあったが、やはり1980年代ブームとなったDCブランドの登場が大きな契機となった。

80年代後半にはブランドショップの広告仕事が増え、お付き合いもあってコム・デ・ギャルソンのピンストライプスーツを1着購入した。当時、川久保玲率いるギャルソンはモノ・トーンのアンチモードでDCブランドブームの先陣をきっていた。このよれよれコットンのネイビースーツがどうしてこんなに高いんだよ、と躊躇したけど思い切って買ってみたのだ。おおげさに言えば、この時ぼくは閉じていたファッションという扉のノブを回してしまったのだ。不思議なことにこのスーツを着ると、フツーじゃないなにかが滲み込んできて、ぼくの心を包み込むような気がしたのだった。これはたしかに川久保玲の表現なのだが、実はぼくの内部にもこれと似た感覚が横たわっていて、この服を着ることによって呼び覚まされてしまう。その事実が洋服という媒体を通じて伝わってくるような、そんな感覚を初めて味わった。

コム・デ・ギャルソンといえば、吉本隆明埴谷雄高の論争を思い出す。成り行きをシンプルにまとめたページを見ると、ことのはじまりは1984年、女性雑誌「an an」にコムデギャルソンを着て登場した吉本隆明を埴谷雄高が「資本主義のぼったくり商品を着ている」と批判したことだった。吉本は消費社会肯定の立場から、今までの古典的な大問題(たとえばマルクス主義の問題)と同じ資格でデザイナー川久保玲の仕事(今まで「小」問題とされてきたファッションなどの「サブ・カルチャー」)を「重層的に」とらえ評価する。雑誌「アンアン」は、吉本にコム・デ・ギャルソンを着せて登場させ、自宅のリビングを改装した書斎の「シャンデリア」のもとで仕事する吉本を大写しした写真を載せた。埴谷雄高は「それを見たらタイの青年は悪魔と思うだろう」と述べて、吉本と論争がしばらく続いたのだ。吉本隆明「重層的な非決定へ」における吉本氏の反論はこうだ。

「アンアン」という雑誌は、先進資本主義国である日本の中学や高校出のOLを読者対象として、その消費生活のファッション便覧の役割をもつ愉しい雑誌です。総じて消費生活用の雑誌は生産の観点と逆に読まれなくてはなりませんが、この雑誌の読み方は、貴方の侮蔑をこめた反感と逆さまでなければなりません。先進資本主義国日本の中級ないし下級の女子賃労働者は、こんなファッション便覧に眼くばりするような消費生活をもてるほど、豊かになったのか、というように読まれるべきです。(「コムデギャルソン店舗マップ」より)

かたや埴谷にしてみたら、吉本がぼったくりの服なんか着て宣伝のお先棒を担ぐのは我慢ならない。こんな服のどこがいいんだ?という気持ちだったのだろう。 大戦をくぐり抜け、物ひとつ無い時代から再出発した両人だったが、要するに文学の世界に住まっていて原価発想しか知らなかった埴谷さんには、思想を具現化した川久保玲の表現(あるいはアート)がもたらす付加価値そのものが理解できなかったということなのだろう。

吉本さんがギャルソンの服を着た背景にはこんなこともあった。フィリップ・ジョンソン(建築家)やウィレム・デ・クーニング(画家)などといった芸術家たちがギャルソンの服を着たポートレートの写真集を、以前ギャルソンは制作したことがあった。国外のアーティストやミュージシャンをカタログのモデルにした理由を川久保玲はこのように説明している。

「根本的な理由は気恥しさ。男性がモデルの顔で服を着ている様子を見るのが気恥しかったんです。オムの服は、人生を送ってきたことによって出てくる“何か”を待っている人に着てもらいたいというポリシーで作っています。その根本的な姿勢は、生き方つまり人で表現するしかなかったんです」

ぼくはこのモノクロ写真がいたく気に入って、何枚も選んでは黒縁額装して、仕事場や部屋に飾ったりしていた。いまも寝室の壁でこちらを見つめているのはJoseph Kosuth(Artist)なのだが、むかし田舎の親戚の家なんかを訪ねると、座敷にはかならずご先祖の肖像画がかけられていた。まだ写真技術が普及していなかった時代には遺影を(おそらくは鉛筆画による)肖像画で残すことが一般的だったようだ。不安定きわまりない現世を生き抜く我々を、ご先祖には見守っていてほしいという願いなのだろうか。先祖でなく異国の芸術家ではあるけれど、ぼくもこれらのポートレートに守護されているような気持ちになることがある。だから、暗いと家人には評判はあまりよろしくないのだが、額を下ろしたことはない。ギャルソンを着た芸術家たちもみんなけっこう様になっていたから、たぶん吉本さんも似合ってたんだと思う。

そんなことがあってから25年以上にわたって、ぼくはコムデギャルソンの服を買い続けてきたことになる。一貫してしっくりくると感じられるブランドはギャルソンだけだった。たいがい出張などで上京したついでにショップをのぞくことが多いのだが、地方暮らしではそうそうマメに通うこともできない。地元でもひいきにしているギャルソンのショップが1店あるけれど、如何せん入荷する品数が少ない。それにギャルソンは一つのデザインをそんなに量産しないからすぐに売り切れてしまい、気に入ったものを手に入れるのには運も必要となってくる。そこで一時期、新作の中からぼくに似合いそうなものをピックアップして送ってもらっていたことがあった。東京の丸の内店にセンスの良い男性スタッフがいて、彼は自分の見立てた商品を頼んでもいないのに勝手に送ってくるのだが、いつもなかなかの商品が入っているのでつい何点かは購入することになる。基本的にギャルソンはこういうことはしないし(画像を携帯に添付することすら拒否される)、後にも先にもこんなことをしてくれたのは彼だけだった。(ささやかなブログとはいえ掟破りを暴露してはまずいのかもしれない。でも、退職した彼はすでに別なショップを立ち上げているので、まぁいいか)

青山本店ではよく男優とすれ違うことがある。この人たちもギャルソン着てるのかと、ちょっと照れくさいような、複雑な気持ちになる。川久保玲も見かけたことがある。スタッフに混じって商品の並べ変えをしていたんだけど、派手なスニーカーを履いた魔法使いみたいで、小柄ながらけっこうな迫力だった。それからお隣りの、ヘルツォーク&ド・ムーロンの設計で話題となったプラダ青山店では、何と来日していたミウッチャ・プラダが、お店の長椅子に座っていてビックリしたこともあった。実物は全然、イタリアのおばさんなんかじゃなくて、とってもチャーミングな女性だった。

ファッションデザイナーという職業は、現代における欲望のシャーマンのような存在なのかもしれない。ファッションを通して表現する彼らは時代感覚と深く切り結び、同時にアートとも永続的な関係を保ちながら嗅覚を研ぎ澄まし、人々に潜在する欲望を媒介者として具現化させようとしているかに見える。彼らの提示物を身にまとったぼくらは、それに触発され、ほんの少しだけ自身に潜んでいた欲望を垣間見ることができるようになる。ファッションは自己表現であるなんてこと言う人もいるが、そうではないと思う。正確に言うなら、ファッションはブレンド(種類・品質の異なったものを数種混合すること)である。ファッションデザイナーの提示に共感した自分が、自身に内在する欲望をそこに混ぜ合わせてみて1日限りのささやかなワークショップ(体験型講座)を体験する。あるいは、それ楽しもうとする個人的行為だ。たかがファッション、されどファッション。おそまきながらぼくも、デザインの潜在力や、そこから生み出される付加価値に投資することの意味を、これらの積み重ねを通じてほんの少し理解できるようになってきた気がする。

また、ギャルソンは販促物にもファッションという領域を超えて果敢な取り組みをみせてきた。定期的に届くダイレクトメールにはいつもギャルソンがキャッチした「今」がさりげなく折り込まれているが、なんといっても白眉は1988年から1991年までに8巻発行された雑誌『Six』だろう。この期間は日本のバブル景気とピッタリ重なるわけで、仕様も相当ゴージャスだった。一部の顧客向けに少部数のみ発行されたこの8巻は、今や伝説のビジュアル誌となっている。大判サイズ(393×296mm)の各号はソフトカバーに納められ、カバーにバーコ(盛り上げ)印刷などを多用した手の込んだビジュアルブック仕立てとなっている。基本的には本文はファッション写真で構成されているが、もちろん服のディテールを伝える単なるファッションカタログではなく、ページを埋めるのは服のメッセージを伝えるために再解釈されたビジュアルの数々だ。こうした大胆な試みはプロデューサーである川久保はもちろんのこと、編集の小指敦子、アートディレクターの井上嗣也両氏の手腕によるところが大きい。(ぼくは密かに『Six』は井上さんの代表作だと思っている) 当時『Six』がどういった戦略で活用されたのかは定かでないが、ぼくの手元には1号と7号を除く6号分が残っている。ギャルソンのショップスタッフも耳にはするものの、実物は見たこともない伝説の雑誌だそうで、「6冊あるよ」と言うと驚かれたりする。しかも古書ネットではコレクターズアイテム化していて、各号15,750円〜30,000円とか、なかには美本全冊揃で20万!なんて値がついていたりしてビックリ。

『Six』とは「Sixth Sense=第六感」の意。このメディアについてギャルソンの広報を担当している武田千賀子さんはこのように語っている。

「アートとは思っていません。根本に必ず服を買って、着て下さるお客様の存在があるわけですから、その方たちに最も正しく伝える方法を考えるんです。ただ、一貫した美意識というのはあります。それがビジネスの基盤になっているんです。既成の方法で現せない“何か”を感じた人は「第六感」ということを言う。それはどこにあるのかわからない。灰色の脳細胞の奥の方? DNAの鎖の間? しかし確かに存在する。その証言になるかどうかはわからないが“シンパシー”という現象がある。言葉でもなく、もしかしたら洋服自体ですらないものに魅せられて集まってくる人がいて、結果として、服に身をまとい、そのことに喜びを感じる。そして流行が生まれる。ファッションの会社ですから、服で訴えることが当り前の手段ですよね。けれども最近思うことは、今、7つのブランドを持って、家具も手がけていて、そのすべてに共感するスピリットが、コム・デ・ギャルソンの本質なのではないか。そういうデザイン・パワーを持つ会社として考えていくことが、すなわちファッションを訴える方法じゃないかと感じているんです。もしかしたら遠回りかもしれないけど、大きな意味でコム・デ・ギャルソンの方向性を示すことにつながるではないかと・・・。そのスピリットのようなものは、必ずしも服でダイレクトにつたえるものではないし、言葉や体で表現できない、五感以外の感覚に訴えるものではないか。そんな思いをタイトルに込めてみたんです」

確かに『Six』には、バブル景気に浮かれる当時の世相にくさびを打ち込むような、無愛想で硬質な美が隅々にまで充満していたし、ぼくの「第六感」など怪しいものだが、『Six』にインスパイアされたことは間違いない。だから余計、ここ1〜2年、新作がなかなか心に響いてこない状況が何とももどかしい。往年の照射力が弱くなってきたのか、はたまたぼくの感性がずれてきたのか…。デザインやアイデアにリフレインを感じることが多くなり、出向いてみたものの結局欲しいものがなくてショップをあとにすることも少なくない。(ぼくはMen’sしか見てないので、これはあくまでも個人的な感想にすぎないのだが)仕方なく最近は複数の海外ブランドを放浪しながら、コーディネートを模索する日々が続いている。

そんなある日、あの『Six』をアプリ化したiPad App「Moving Six」を、ギャルソンが1年ほど前にリリースしていたことを知り、さっそく入手してみた。「Moving Six」はその名の通り、『Six』のエッセンスを再構成して視覚と聴覚に訴えかける動画アプリだ。クレジットを見るとDeveloped by Rei Kawakubo 以外は、すべて海外クリエーターの手によるものだ。『Six』ほどのインパクトはないが、これはこれでギャルソンらしさが凝縮されたメディアとして鑑賞することができる。ギャルソンによるギャルソンへのオマージュといったところか。(「Moving Six」は無料で現在もiTunesストアからダウンロードできる)。

『Six』から「Moving Six」までの20数年間、ぼくらを取り巻く環境は想像を超えるレベルで激変した。大きく変わってしまったこと。何一つ変わっていないこと。それを見極めることが必要だ。川久保玲が一線を退かない限り、ギャルソンのスピリットは不変であろう。服を身にまとうことで、欲望をブレンドする楽しみを教えてくれた彼女のことだ。そのうち、はっと息を呑むような新作でスピリットの健在ぶりを見せてくれるに違いない。

from the top
iPhone 5s,
iPhone 5,
iPhone 4s,
Mophie juice pack air,
iOX7 view,
Helvetica.

2013.11.01

この夏、突然iPhone4Sの通話が不安定になってしまったので仕方なくiPhone5に機種変更をした。使い勝手は4Sとほとんど変わらないのでスムーズに移行できたのだが、ある日、本体を振るとカタカタと音がすることに気づいた。5mmくらいの範囲で部品が固定されずに動いている感じで、販売店のスタッフにもこれはかなりひどいと言われてしまった。特に機能に問題は出ていないけど、気になったので検索してみると、同じような現象報告がかなりの数ヒットしてビックリ。

考えられる原因は2種あって、まず初期出荷モデルに多い「バッテリーの接触不良」。そして二つ目は「カメラの仕様」によるカチャカチャ音。ぼくの場合は発売から約1年後だから、どうやら「カメラの仕様」による現象が濃厚だ。どういうことかというと、iPhone 4Sまでは完全に固定されるカメラだったのに対し、iPhone 5は動きに余裕を持たせているため、いってみれば首振り人形のような作りになっているからこのような現象がおきることがあるのだそうだ。実際、ぼくもApple iPhone テクニカルサポートに電話してみたら同じような説明だった。もし気になるようなら送ってもらえば調べ、問題が見つかれば修理しますという返事。しかし本来、修理とは故障(またはその懸念)があるから行う作業なので回答との矛盾も感じてしまう。

だいいちサイトの商品紹介ビデオでは、デザイン担当者 のジョナサン・アイブ (Jony Ive )をはじめ、開発に携わったスタッフが次々と現れては、iPhone5がいかに精緻な製品であるか熱く語っていたではないか。(そんな製品が振ったら音がするか?)ぼくもそうしたAppleの姿勢に共感してきたのに、今回みたいに音の出ない製品もあれば出る製品もあって、それは仕様なのでなんら問題はないという見解には、精緻な製品コンセプトを標榜してきたAppleの姿勢としては疑問を感じざるを得ない。やっぱりAppleにも商品の当たり外れがあって、今回は貧乏くじをひいてしまったという気持ちにどうしてもなってしまうのである。そこで先日たまたまApple Store銀座の近くまで行ったので、4階のGenius Barでみてもらったら、これはかなりひどい(これで2回目)と言うことで修理の手続きをとるよう強く勧められる。翌日、再びテクニカルサポートに電話して訳を話したら、3〜4日で新品交換機を送るのでそちらのiPhoneを返送してくれという。「在宅自己交換修理サービス」なんてまことしやかな名前がついてるけど、結局新品と無償交換するってことじゃないの、早く言ってよ。ということで、今は振っても音のしないiPhoneを使っている。

ところで(上の写真)iPhone5s、iPhone5、iPhone4Sと3世代のiPhoneを並べてみると、どこが違うのかわからないくらいよく似ている。しかし重さや薄さ、スペックなどは微妙に異なっているし、何といっても手にした時の手触りや質感はそれぞれ異なる。薄くて軽けりゃいいってもんじゃなくて、やっぱりプロダクトとしての全体感が重要なのである。ぼくは、ジョブスの遺作となったiPhone4Sが一番気に入っていて、通話には使えなくなってしまったけど、まだまだ現役で役立ってくれている。彼には長時間の録音に耐えられるよう一体型のバッテリー(Mophie juice pack air)をセットして、打ち合わせのボイスメモ用に活用している。iPhoneにはぼくが必要としている機能がほぼすべて備わっているので、本当なら1台ですべて兼用することも可能なのだが、リスクの分散と、やはりバッテリーの問題が大きい。そこで用途別に数台を使い分けることにした。

通話やメール、モバイルデータ通信用にはiPhone5、そして写真撮影用にはiPod touch (64GB) 。実はiPhoneやiPodの写真はかなりレベルが高くなっているので、とうとう最近は、かさばるデジカメの代わりにコンパクトでスリムなiPodを持ち歩くことにしているのだ。画素は思いのほか高くて、葉書サイズくらいなら印刷にだって使用できるほどだ。時には2、300枚も撮ることがあるから大きな容量の方が安心。ただデジカメと違い、ボタンから指を離した時にシャッターが切れる仕組みなので、これには慣れが必要。(音楽ももっぱらこのiPod touchで聴いている)

ということで、最近は仕事の打ち合わせでデスクに並ぶのはこの林檎3兄弟である。もちろんデザインをする時にはiMacやBook Air、ベッドの中ではiPadを主に電子書籍を読んだり、You Tubeを観たりするのに使っていて、ふと気づけば、ぼくの生活はすっかりMacの連中に囲まれているではないか。(Appleの思う壺だ)

思えば1988年にMacintosh Plusを購入してから20数年、いろいろなApple製品や周辺機器を(大袈裟でなくポルシェが1台以上買えるほど)購入し続けてきた。もちろんこれらの多くは趣味でなく仕事道具としてなので、いわば設備投資の対象としてApple製品とつきあってきたことになる。そしてそれらの多くは、ある日突然壊れてしまうのだ。ハードウエアとソフトウエアが一体となって機能するため、何が原因でどこが故障しているのか判然としないケースも少なくない。これはAppleに限らず、PC機器の宿命であろう。

ところで、ハードウエアは単なるモノで目に見えるもの全般。人間でいうと体に相当する。かたやソフトウエアは目には見えないもので人間に例えると、神経・知識・能力・・・といったところらしい。その代表格がOS(Operating System)。つまりコンピュータシステム全体を管理するソフトウェアだ。当然プロダクトとOSが両輪で開発されなくては、魅力的な商品としては完成しないことになる。その意味で、ぼくはこの秋に発売されたiPhone5sやiPhone5cより、新しいOSとして発表されたiOS 7 の方が興味深かった。これまで繰り返されてきたOSのバージョンアップでは、かえって使いにくくなってしまったり失望させられたことが少なくなかったが、今回のiOS 7 はとてもよくできていると思う。一度バージョンアップすると基本的にはバージョンダウンできないので、試しにiPod touchをバージョンアップしてみたが、特にトラブルもなく移行することができた。操作性はとても快適になり、細部まで練り込まれた好感がもてる仕上がりとなっている。たしかに「ちょっとだけ先のイマ」がここにはデザインされていると思う。なんだかOSを入れ替えただけで、新しいプロダクトに見えてくるから不思議だ。意識が変わったらまるで別人みたいに見えてしまったというところだろうか。

ジョナサン・アイブは、iOS 7 で目指した「深く揺るぎない美しさは、シンプルさ、明確さ、効率の良さの中に存在する。真のシンプルさは単に不要なものや装飾を省くだけで生まれるものでなく、それは複雑さに秩序をもたらす作業なのだ」と語っている。その目標はiOS 7を使ってみたかぎりでは、かなり体現されていると思う。デザインの主張を抑えてコンテンツを引き立てる、という彼の目論みは成功しているといえるのではないだろうか。

そこで、一貫性をもたせるために活用されたのが、新開発されたグリッドシステムだったというのも興味深い。グリッドシステム(Grid systems)は、スイスのグラフィックデザイナー、ヨゼフ・ミューラー=ブロックマン(Josef Muller-Blockmann、1914~1996年)が発表したデザイン理論だ。ブロックマンはヨーロッパ構造主義におけるスイス派の代表的存在で、彼の提唱した理論はその後多くのデザインジャンルの基本とされてきたが、iOS 7の中にもモダニズムの精神が国境を越えて伝承されていることが実感できる。

カラーパレットや一新された種々のアイコンデザインとともに、iOS 7 ではフォントも変更された。これまで使われていた「Helvetica Neue Light」(ヘルベチカライト)から「Helvetica Neue UltraLight」(ヘルベチカウルトラライト)に変更されたのだ。(Macintosh には代々Helvetica がOS に付属していて、Mac OS Xでは、Helvetica Neue も付属している)ウルトラライトはその名の通りかなり細い書体で、こんなにシャープなフォントは他に見当たらなかったから、ぼくも一時期さかんに使っていたことがあるとても美しい書体だ。おそらくAppleがウルトラライト採用に踏み切った背景には、高い解像度をもつディスプレイの存在があったからなんだと思う。再現性に自信がなければ、とてもこんな書体は選べない。

それにしても1957年に誕生して以来、Helveticaほど長い間世界中で愛されつづけてきた書体はないだろう。開発には二人の人物が深くかかわったといわれている。まだ金型活版印刷が主流だった1940年代末、スイスの活字鋳造所ハース社のディレクターであるエドアード・ホフマン(Eduard Hoffmann)はスイス人タイポグラフィ・デザイナー、マックス・ミーディンガー(Max Miedinger)に新しいサン・セリフ体を制作依頼する。当初は「ドイツのアクチデンツ・グロテスク(Akzidenz-Groteskz)という書体が欲しいので、似たような文字の活版を作って欲しい。」といった、つまりはコピーしてほしいという要望だったが、二人は次第に「せっかくなら完璧なものを作りたい」という思いを抱きはじめ、実に完成まで約9年間もの歳月を費やして造形的に洗練させていった。開発の途中では何度も確認・修正を繰り返し、相互にどのようなやりとりがあり、デザインに反映されていったかが克明に記録されたホフマンのメモも残されているという。実はHelveticaは、この二人によるまったくのオリジナルというより、基本的なタイプフェイスはグロテスク体としてほぼ完成されていたものを、さらに調整を重ねて、新しい時代に対応する書体として洗練させていったというのがことの真相らしい。

ともあれこうして完成したのが、Helveticaの原型となるノイエ・ハース・グロテスク(Neue Haas Grotesk)。その後、版権販売を見据えてつけられた書体名が、ラテン語でスイスをあらわすHelvetia(ヘルベチア)という名前だった。しかし、書体名が国名ではまずいということで、正式名称は形容詞形である「スイスの」を意味するHelvetica(ヘルウェティカ/ヘルヴェティカ)に由来する。それからまたたくまに世界中に浸透するのだが、活版印刷時代では問題無かったHelveticaも電算写植時代になるとさらにさまざまなウェイト(太さ)がデザインされ「別名のHelvetica」が氾濫する事態となる。そこで1983年にステンペル社(現在は合併されライノタイプ・ライブラリ社に商標は移行)が改訂版Neue Helvetica(ノイエ・ヘルベチカ)を発表し、これが現時点での完成形となっている。

Helveticaは非常にニュートラルでクセがなく洗練されているが、それゆえに反面、無機質な印象を与える書体である。他の多くの書体のように、タイポグラファーの個性を反映していないことが大きな特徴となっている。人間臭さが抑制された書体。その個性が削ぎ落とされていった秘密は、ミーディンガーとホフマンがキャッチボールを重ねるように制作したそのプロセスに隠されているようだ。こうしてHelveticaはデザイナーの使い方によってその表情をさまざまに変え、何も持っていないからこそ、全てを兼ね備えていることを可能にしてくれる書体として誕生した。

「あらゆる面で控えめで操作を引き立てるインターフェイス」

「個別の要素と要素が互いに調和するよう構造には一貫性をもたせる」

「主張を抑えてコンテンツを引き立てるデザイン」

というジョナサン・アイブの主張を聞いていると、なぜか半世紀以上の時を隔ててHelveticaの精神がそこにオーバーラップしてくるのである。じつはミーディンガーとホフマン、大西洋を渡ってスイスからカリフォルニア州クパティーノまで密かにワープしていたらしい。