1ブロック目は、
日本のサーカスと見世物小屋イメージ。
2ブロック目は「ジンガロ」イメージスナップ。
3ブロック目は「シルク・ドゥ・ソレイユ」の
「オーヴォ (ovo)」イメージスナップ。

2014.8.01

幾時代かがありまして

茶色い戦争がありました

幾時代かがありまして

冬は疾風吹きました

幾時代かがありまして

今夜此処でのひと盛り

今夜此処でのひと盛り

サーカス小屋は高い梁

そこに一つのブランコだ

見えるともないブランコだ

頭倒(さか)さに手を垂れて

汚れた木綿の屋根のもと

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

それの近くの白い灯が

安値(やす)いリボンと息を吐き

観客様はみな鰯

咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

屋外(やがい)は真ッ暗 暗(くら)の暗(くら)

夜は劫々(こうこう)と更けまする

落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジアと

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

[中原中也『山羊の歌』より『サーカス』]

昔、街々を移動しては広場なんかにテントを張ったサーカスをよく見に行った時代があった。ぼくも子ども時分には親に手を引かれてテントに向かったものだった。記憶の中に残っている「木下サーカス」(岡山)や「キグレサーカス」(北海道)は大阪の「ポップサーカス」とともに日本三大サーカスに数えられている。それにもうひとつ、どうしても加えたいのが「シバタ大サーカス」。発祥地は新潟の新発田(しばた)市。どうやらブロガーはぼくと同世代かやや年長者と思われる地元出身者の回想ブログを見つけた。

「私も幼少の頃、弟と二人、叔母に連れられて行った記憶があります。東赤谷駅から赤谷線に乗って、新発田の御諏訪様の境内に張られた新発田サーカスを見に行きました。今でも一番鮮明に覚えている光景は、大きな円球の中でグルグルと高速で走り回るオートバイの演技です。大きな爆音と、タイヤで円球がきしむ音、逆さまになって演技者が落ちないかという恐怖感・・・・弟と二人興奮して見ていたのを覚えています。」

そう!サーカス団の人気演目のひとつだったのがこの円球の中を走るバイク曲芸。キグレサーカスにもこの花形演目が用意されていた。鰯となったぼくも呆けたように眺めた円球は、爆音とガソリンの匂いとともにいまだに生々しく鮮烈にサーカスの記憶として焼き付いている。しかし、シバタ大サーカスは1963年に解散。動物たちは当時あった月岡温泉動物園に引き取られ、団員は離散。さらに組織と一部の人々は「柴田組一家」として極道の道を歩んで行くことになった。サーカス団の中にはこうした闇の側面を抱える団も存在したのだ。もうひとつの消えてしまった「キグレサーカス」は、木暮という苗を借りた名称で札幌を拠点に1942年創業したが、2010年10月に資金繰り悪化によって営業を停止した。「ポップサーカス」は比較的若いサーカス団で、矢野サーカスに所属していた久保田将利が1996年に大阪を拠点に旗揚げした。中国雑技団など8ヶ国から招致した海外アーティストによって構成されたショーも幅広い演目に厚みを加えている。

そして「木下大サーカス」。ここは実に古い歴史をもつサーカス団で、今を遡ること明治10年、興行師である木下藤十郎が岡山市西中島に「旭座」を開設したことが起源となっている。ウィキペディアの概要によると、その後、藤十郎に見込まれた矢野唯助が木下家に婿養子入りし、明治35年に大連で曲馬団を創業、これが木下大サーカスの原点となる、とある。この100年以上の歴史を誇る「木下大サーカス」は、ロシアのボリショイサーカス、アメリカのリングリングサーカスと並んで世界3大サーカスと呼ばれているが、かれらが安定した集客力を誇っているのは、古いサーカスの運営から脱却して、演技内容、音楽、照明といった演出はもとより、観覧するために快適な空間づくりにまで心配りしながら極めてクオリティの高い芸術的エンターテインメントへと進化させたことがその要因となっている。

まさに栄枯盛衰。テーマパークの王者として君臨しているディズニーランドユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)といったエンターテインメントの新たな潮流に呑み込まれ消え去ってしまったサーカス団もあれば、そしてかろうじて生き残ったサーカス団もある。

さて、昔からサーカスといえば、ジンタの響きとともにどこかもの悲しいイメージが付きまとう。

♪♪♪

ブンチャッチャ ブンチャッチャ

空にさえずる 鳥の声

峰より落つる 滝の音

大波小波 とうとうと

響き絶やせぬ 海の音

♪♪♪

これはジンタの楽隊曲で「美しき天然」という曲歌の一節だが、こうした昭和40年代くらいまで街中に流れていたジンタの音色を、少年だったぼくもポンプを手のひらに握って緑色のゴムの蛙を泳がせながら耳を傾けていたものだった。ジンタとはヂンタともいわれる演奏を模した擬声語で、「市中音楽隊」の愛称だ。明治、大正に行進曲、ポルカ、ワルツ等を演奏していたジンタは、大正時代の末に次第に衰退していき、チンドン屋などに取って代わられながら昭和に入ると消滅したが、ぼくの記憶にはその哀調をおびた節回しと音色が残像のようにまだ漂っている。そしてそのジンタの先にはサーカスのテントが張られ、打ち立てられた旗を揚々と風になびかせていたのである。

サーカスのもの悲しさは、大道芸から見世物小屋にまで遡る。大道芸は室町時代の絵巻にも登場するほど日本でも来歴も古く、江戸時代には浅草の見世物や手品(てづま)、新潟地方の瞽女(ごぜ)、津軽地方のボサマ、その他放浪芸など、日本でも盛んに演じられていたといういわゆる乞食芸であったが、その後大道芸は多様な発展を見せながら、ジャグリングやマジック、アクロバット、パントマイム、ウォーキングアクト、スタチュー、ストリートダンスなどを飲み込みながら街角のエンターテイメントへと統合されてきた。最近日本では「大道芸ワールドカップ」などの大型大道芸イベントも開催されるほどの認知度を獲得している一大ジャンルとして、ディズニーランドなどメジャーカルチャーとも拮抗してきている。どのジャンルにもサブカルチャーが存在するのはとても健全なことだと思う。

「さァてお立ち合い。ご用とお急ぎのない方は…」寅さんが生業としていた香具師芸だって大道芸のひとつ。人集めの手段となる啖呵口上が見物人の笑いを誘いながら物売りへと巧妙に誘っていく大衆芸だ。昭和末期に現存する口上名人の香具師、久保田尚氏(故人)の「続・大道芸口上集」がかつて発刊され、さっそくぼくもその奥義を垣間見ようと本を開いたことがある。香具師の大道芸とは、その時どきの場所、客種、人情によって各人各種に口上、演出を変化させた自然流の無数の大道芸人たちの個人技集積体の別称でもあったのだ。

江戸後期には300軒を数えたという見世物を、残念ながらぼくは一度も見たことはないが、昭和50年代までは衰退しながらも見世物小屋はまだ神社のお祭りや縁日などでは見ることができたようだ。(現存する見世物小屋は、新宿花園神社の二の酉に小屋を立てる「大虎興業社」のみとなっている)未だに根強い人気を誇り、各地に点在する「お化け屋敷」のルーツだって、この見世物小屋なのではないだろうか。「さァ、お代は見てのお帰りだよ!」と老婆の呼び込み声が聞こえてきそうな小屋の中には牛女(足がない女性。または足の間接が逆向きになっている)、蛇女、芋虫女、山猫女、蛸女。社会福祉がまだ発達していなかった時代の奇形児など身体障害者の生活手段の一つとなっていた見世物小屋への批判から、現在ほぼ姿を消した見世物は、売られて見せ物にされた奇形児たちの仕事場というイメージがつきまとう。もちろんサーカスに奇形児は存在しないが、どこかサーカスは大道芸や見世物小屋の世界と深い場所で通底しているように感じられてならない。いたずらが過ぎると「サーカスに売っちゃうぞ」とか「サーカスに売られたら身体を柔らかくするために毎日酢を飲まされるんだぞ」とか脅かされたぼくと同世代の人は大勢いるんじゃないだろうか。

さて、もう一つのサーカスの魅力に、動物たちが繰り広げる妙技の数々がある。そもそもサーカス(circus)の語源はラテン語の円周・回転を意味する語とする説と、古代ローマの人間と猛獣の格闘の舞台となった円形競技場に由来する説があるが、いずれにしてもサーカスは動物とは切っても切れない深いかかわりをもっていた。動物曲芸でもっとも一般的なものは馬による曲馬芸。人馬一体という言葉があるが、中沢新一さんの『バルタバス革命』(「ミクロコスモスⅡ、中公文庫)にはこんな記述がある。

「人が馬を調教しているように見えるのは、ものごとの一面にすぎない。調教によって馬は人の知性にしたがって行動することを身につけるが、じつはそのとき馬は自分の肉体に人間の知性を埋め込んで、みずからハイブリッド生物に変貌していこうとしているのである。そして、人は、自分にはないすばらしい運動能力を、自分の存在の一部に組み込んで、人間の側からもハイブリッド生物への変容を、実現しようとしている。人と馬が一体となった怪物「ケンタウロス」の神話は、だからひとつの幻想ではなく、「人、馬に乗る」という革命的な事件がもたらしたことの事実を、ひとつの概念として表現しようとしたものだと言うことができる。」

「馬のサーカス」を誕生させたのは退役軍人フィリップ・アストレー。18世紀中頃、ロンドンで彼が自慢の馬術を資金稼ぎのために人々の前で披露したことにはじまる「馬のサーカス」。テントや小屋の内部に円形のアリーナがつくられ、その回りに桟敷席を設けて芸を見せる形式はこのアストレーの「円形曲馬館」を出発点としているのだそうである。これら「馬のサーカス」のほとんどは戦争の技術として発達した馬術の延長線上にあったのだが、1984年にバルタバスがジンガロを創設すると曲馬の状況は一変する。

「そこへ、バルタバスはまったく異質な思考をもち込んだのである。バルタバスは、人が馬をコントロールするのを見せるのではなく、馬の知性と人の知性が出会い、たがいに思いを語りあい、意志をかよわせて、一体となって美しい「運動する形態」をつくりだす協同作業をおこなう場所に、サーカスのアリーナを生まれ変わらせようとした。」

このフランスの騎馬舞台芸術集団「ジンガロ」は現代における「馬のサーカス」のひとつの極致といえるだろう。サーカスには馬の他にライオンや象、そして熊や虎などが登場し、火の輪くぐりや三輪車、玉乗り、自転車、縄跳び、シーソーなどを使用した芸が披露される。しかしこれらの動物曲芸は調教を基本としているため、サーカスの動物たちは自然な習性を全うすることができず、大切な自由も剥奪されているので虐待にあたると、近年では動物愛護の観点から廃止運動などが展開されている。それは虐待を伴う動物の奴隷ショーであるというのだ。こうして「動物サーカス」は今世界中で逆風にさらされているのだが、ぼくはこの傾向には捕鯨に対する一元的な批判に近いものを感じる。

ところで先日ぼくは、自身としてはほぼ半世紀ぶりとなるサーカスを見物してきた。それは、1984年にカナダ・ケベック州で設立された「シルク・ドゥ・ソレイユ(Cirque du Soleil=太陽のサーカス)」。大道芸人だった創始者ギー・ラリベルテは動物芸を一切取り入れることなく、ストリートパフォーマンスとサーカスの融合を目指した。演者としての人間を強調する「ヌーヴォー・シルク(新サーカス)」と呼ばれるシルク・ドゥ・ソレイユのショーは大道芸、サーカス、オペラとロックを4大要素として構成され、その結果、プログラムは必然的にミュージカル色の濃いものとなっていて、特に演者の衣装は多彩であり、祝祭の雰囲気を醸し出している。外注では満足できるものが作れないと、全ての衣装デザインと染色や縫製などを自社の専属スタッフが行っているそうだ。また舞台となるテントも外観はシンボルマークを配してサーカスを華麗に主張し、内部空間は観客の心地よさに配慮されているため(例えば暗い階段が乗降しやすいように各ステップの端にはLED照明が組み込まれていたり、誘導アナウンスが間断なく小さな音量で流れていて、内部の温度も一定に保たれるようコントロールされている)ここでは昔ぼくが見たサーカスのような安っぽさは見事に払拭され、これが進化した現代のサーカスなんだと実感させられる。また、おそらくコンピューター制御されていると思われる複雑な機構を持つ大規模なセットやライティングは演目と緊密に連動して、ショーの完成度をさらに高いものにしている。演奏者たちも演者のアクションに対応して演奏するから、そこには見事な一体感が生み出されている。エレクトリックギターとエレクトリックヴァイオリン、シンセサイザーキーボードと女性ヴォーカリストのパワフルなサウンドに包まれて、次々とくり出される妙技に観客は酔いしれる仕掛けだ。なによりも、こんなにも多彩な軽業を可能にする人間の身体の潜在能力に観客は圧倒され、驚かされ、感動させられる。

これまで11回もの日本公演を行い、1,200万人以上を動員しているシルク・ドゥ・ソレイユの最新作は「オーヴォ (ovo)」。生命のサイクルを象徴する『オーヴォ』は、ポルトガル語で”卵”のことで、卵をめぐる草木の下の色とりどりの生き物たちの1日をファンタジックに描いている。演者には日本人も含む東洋人も数人いたが、今回のオーヴォで日本人初となるクラウンの主役を務めるのは谷口博教さん。彼は内村航平の先輩で体操選手を目指したのちに「ウォール」という8m壁を使って行う演目のアーチストだったが、抜群の運動神経に加えてジージーという不思議な声(彼はこれを虫語と名付けている)を駆使する独特なユーモア感覚で今回の道化役の座を射止めたという。

サーカスは人間の身体に潜在的に備わった可能性を極限まで引きだし、組み合わせたり、さまざまな道具を人体と一体化させながら繰り出された信じ難い妙技で観客の視線を釘付けにしていく総合芸術だ。落下傘型テントの裏側に隠された日常へと引き戻す汚れ木綿の屋蓋(やね)は巧妙に闇に溶け込ませ、鰯となった観客のその視線の先では、人間の潜在能力を超えた新たな人間たちが自在に飛び跳ねている。観客が背負ってきた日常は、テントをくぐればたちどころに消え去り、交差する妙技が織りなす束の間の非日常空間が眼前に広がっていく。そして次第にその闇の中からサーカスの本質が姿を顕してくるのだ。闇に溶け込んだテントの屋蓋とともに、演者たちも一人、二人と視界から消えてゆく。やがて最後に残るのは、高い梁から頼りなくぶら下がるブランコ二つ。決して交わることのない二つのブランコは、夜更けの真新しい奇跡が起きるその時まで、この非日常空間でノスタルジアを乗せながら、いつまでも、いつまでも揺れている。

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

Pepper(最上段)、Nao(2番目)、
RPC-S1(3番目)、アザラシ型ロボット「パロ」(4番目)、
コドモロイド」と「オトナロイド」(5番目)、
「テレノイド」(6、7番目)、
イシグロイドと石黒教授(8番目)、
イシグロイドとジェミノイド-F(9番目)、
以下は「Hiroshi Ishiguro Laboratories」より

2014.7.02

2011年10月5日にこの世を去ったアップル社元CEOスティーブ・ジョブズ(Steven Paul “Steve” Jobs)の追悼インタビューで、盟友ソフトバンク社長の孫正義氏がジョブズの果たせなかった夢について語っていた。iMac、iPod、iPhone、iPadと立て続けに革新的商品を世に送り出してきたジョブズが究極の商品として構想していたもの、それはiRobotに他ならなかった、と孫は語る。人々の意識下に眠る欲望を直観する能力に長けていたジョブズは、コンピュータ技術を人間に融合させた究極のロボットを構想していた。そしてジョブズ亡き後、孫はジョブズのこの果たせなかった夢を引き継ぎ、新たな事業ビジョンを打ち出す決意をした。ソフトバンクは6月5日、人間の感情を理解できるヒト型ロボットの開発と、2015年2月から一般向けの販売も開始すると発表した。(本体予定価格は198,000円)もちろん、同社初となるロボット販売だ。

同種の先行商品にはsonyが1999年に発売したペットロボット「AIBO」がある。限定販売された250,000円の初代AIBOはわずか20分で売り切れるほど大人気だった。モチーフはライオンの子ども、クマイヌ、パグ犬など幾多のモデルチェンジを経て、その後価格は10万を切るまでになったが、2006年の最終モデルを最後に販売を終了した。AIBOの特徴的な機能は、各種センサーを備えて動物的な反応を可能としたこと、機嫌や成長度合いに応じた反応を示すこと、自分の判断で充電するというような自律行動が可能となっていること、さらには追加プログラムが可能となり、例えば「関西弁データ」なども提供されたことなどがあげられる。このように販売と開発を並行させながら進化を遂げたAIBOは、これまでのような受け身ではなく、自律稼働する個体として家庭に持ち込むペットロボットというジャンルを世界に先駆けて確立した初の事例となった。

AIBOから10年後に登場したこのソフトバンクのロボットはヒト型であることが大きな特徴となっている。愛称は「Pepper(ペッパー)」。高さはおよそ1,2m、体重28kg。人工知能を有し、額と口に内蔵されたカメラで相手の表情を読み取り、頭にあるマイクで声色から相手の感情も推定することができる。車輪で移動し、リチウムイオン電池で連続12時間以上稼働可能。元気ない相手を励ますような言葉をかけたり、子どもに絵本を読んであやしたり、帰宅した母親に留守中の子どもの様子を報告したりすることもできるという。

孫社長は「心を持つロボットを目指し、パソコンなみの価格で提供したい」と語っている。1台あたりの低コスト化は、高額な人工知能(AI)を単体では持たずに、インターネット上に置いて複数のロボットとの間でやりとりすることで実現。 ところでこのPepperをつくったのは、ソフトバンク子会社でロボット開発を手がけるフランスのアルデバラン・ロボティクス社。創業者のブルーノ・メゾニエCEOは、ロボット制作は鉄腕アトムを見ていた頃からの夢だったと語っているが、彼が孫社長とビジョンを共有できたことが今回のPepper誕生につながった。ロボティクス社は世界でもっとも売れている自立歩行する小型ヒューマノイドロボットとして有名なNao(ナオ)の開発会社としても知られている。Naoは主に教育現場に導入され、教育パートナーシップ・プログラムを通じて中等教育の要望に応えた教育ソリューションを提供している。Naoは生徒に情報工学の初歩を教え、抽象的概念の説明や数学の定理、物理・電子の原理解説、またメカニックを教えることにも応用されていて、12歳から18歳の生徒達のモチベーション・アップの原動力となっているそうだ。(“ユビフランスへようこそ-フランス大使館企業振興部-ユビフランス日本事務局”より)

ロボットはIT、機械、医療技術の集大成ともいわれている。先頃来日したオバマ大統領が日本科学未来館を見学した際、ホンダが開発した二足歩行の人間型ロボット「アシモ」とサッカーに興じている報道があったが、大統領はロボットに集約されるさまざまな科学技術がアメリカ人の革新力を高め、次代の産業の呼び水となる製造業振興と位置づけているようだ。(もちろん軍事用も視野に入れている)「アシモ」とボールを蹴り合ったあと、大統領が特に熱心に見ていたのはロボット「エスワン」。隣にはスーツ姿の大統領とは対照的なカジュアルなスタイルの二人の若者が立ち会っていた。エスワンを開発した中西雄飛と浦田順一である。東京大学情報システム工学研究室で助教授を務めていた彼らは世界一の二足歩行ロボットを完成させるという夢を実現させるため、2012年にヒト型ロボットベンチャー「SCHAFT(シャフト)」をスタートさせた。そして2013年、二人の発想力と高い技術力に注目したGoogleはSCHAFTを吸収し、いまや二人はシリコンバレーの一員となっている。日本にしたら知能と技術の海外流出。片や彼らにすれば、夢に向かう確かな階段を一段登ったことになる。

元々、ロボット開発は日本のお家芸だった。特に産業用の分野に関して日本は世界の最先端を走ってきた。国内でもロボットベンチャーへの期待は高まっていて、アベノミクス第三の矢として閣議決定された「日本再興戦略」の中には、「ロボット介護機器開発5ヵ年計画」が組み込まれている。政府の投資は「介護用ロボット」が中軸だが、将来的にロボット産業は日本の基幹産業へと成長する可能性があると政府は考えているようだ。その背景には近い将来日本が突入するであろう、人類がこれまで経験したことのない超高齢化社会の到来がある。すでに老人ホームやデイサービスなどいわゆる「高齢者福祉施設」で介護ロボットを導入するケースが増えている。介護用ロボットはもちろん、介助者へのサポート技術、あるいは認知症予防のためのコミュニケーションロボットや癒し系セラピーロボットなどの活用と、この分野への期待感は年々高まっている。

ぼくも車のナビで、「長時間運転しています。そろそろ休みませんか?」という女性アナウンスで呼びかけられると、あらかじめ組み込まれたものだと分かっていても、つい気持ちが和んでしまうから不思議なものだ。これがさらに感情を理解し、学習することによってよりキメ細かく個別対応する技術が確立されてくれば、人格はないと理解しているつもりでも感情移入してしまいそう。アニマル・セラピーだって遠い未来の話ではない。人の呼びかけに反応し、抱くと喜んだり、人間の五感を刺激する豊かな感情表現をするセラピーロボットは、実はすでに多くのお年寄りの心を癒している。世界一の癒し効果をあげ、すでに実用化されているというアザラシ型ロボット「パロ」などの実例をみればそのことはよく分かる。パロはアメリカでは医療機器として承認されていて、デンマークでは70%以上の地方自治体に公的に導入されていて現場で高い効果をあげているという。

心を持つロボットのビジョンを映像化したのは、故スタンリー・キューブリックの意志を継いで『A.I.』を完成させたスティーブン・スピルバーグ。2001年に発表された『A.I.』は、Artificial(人工の)Intelligence(知能または知性)の略となったタイトル通り、彼はさらに一歩踏み込んだロボットのピノキオ化をそこで試みている。しかし人間として愛されることを切望したロボットの悲哀を描いたこの作品が、興行的にもSF映画としての評価も決して芳しいものではなかったのは、ロボットと対峙する人間の醜さや矛盾点をあぶり出したにもかかわらず、不気味で不毛な印象を与えてしまったからなのだろう。

さてこうしてロボットの脳、つまり人工知能を発展させてくると、必然的に人間そっくりロボット=アンドロイドを知能の容器として求めてくることになる。しかし、人造人間やアンドロイドの定義、そして人間とアンドロイドの境界性の問題も、現時点では明確には定まってはいない。それは、人間とは、心とは、生命とは何か、といった根源的な問いかけに対して、いまだ明確な答えが示されていないからだ。人造人間は人間ソックリに行動するリアルな蝋人形にすぎないのか。それとも人格を有する新しい存在物なのか。

リアルをテーマにした美術展(高松市美術館)では落語を演じる「米朝アンドロイド」が出品されたり、日本科学未来館では常設展で3体のアンドロイドがお披露目されたりしている。子供型アンドロイド「コドモロイド」と成人女性型の「オトナロイド」、そして人間の特徴を極限までそぎ落としてデザインされた「テレノイド」の3体。「米朝アンドロイド」も含めこれらすべてのアンドロイドを総合監修したのはアンドロイド研究の第一人者といわれる石黒浩氏である。 メディアにも度々登場するこの大阪大学の石黒教授は、ジェミノイド(Geminoid)という、モデルに酷似した外見をもつアンドロイドの試作を重ねている。ジェミノイドは実在人間型ロボットを遠隔制御することによって対話機能を実現し、その開発技術を通じて人間の持つ存在感を解明しようとしている。人間と見間違うほどリアルなロボットによって「人の存在」という「従来は哲学者の思惟でのみ可能であった研究を、初めて客観的・定量的に行うことを可能にした」という。(IT media ニュースより)

石黒教授は自分をモデルにしたロボットとともに度々登場しているが、自身をロボット(イシグロイド=Geminoid HI-2)に合わせるため、自らの美容整形を試みているというから、なんとも逆転したアプローチで、これは研究というより自己同一化への飽くなき探求といえそうだ。また、石黒研究室では女性型遠隔操作型アンドロイド「ジェミノイド-F」ちゃんも公開している。モデルとなった女性はロシア人のクォーターということ以外は公表されていないが、やはりこのツーショットも双子みたいに一見するとちょっと見分けつかないくらいのそっくりさん。

ところでロボット工学の概念には「不気味の谷」という仮説があるらしい。ロボットの外見や動きが人間に似れば似るほど、ロボットに対する親しみや好感度は高まるものの、それがある点を超えるととたんに不気味になるというロボット工学者の森政弘教授が1970年に提唱した仮説だ。Wikipediaの解説によれば、対象が実際の人間とかけ離れている場合は人間的特徴の方が目立ち認識しやすいために親近感を得やすい。しかし対象がある程度「人間に近く」なってくると非人間的特徴の方が目立ってしまい、観察者に「奇妙」な感覚をいだかせる、とこの現象を説明している。これは見分けがつかなくなることへの本能的な嫌悪感なのか。それとも、人でない存在が人としてそこにいるという(ある意味で死体を連想させる)不気味さがもたらすものなのか。

スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅』(英:2001: A Space Odyssey)に登場した架空のコンピュータ「HAL 9000」は、宇宙船で反乱を起こし異常に気付いたディスカバリー号船長ボーマンによって自律機能を停止させられたが、「HAL 9000」に心の存在が感じられたのは彼が姿を持たなかったからなのだろう。SFの世界だった2001年からすでに10年以上経った現在も、いまだに工学と医療と倫理の交差点に口を開けている「不気味の谷」の謎は解明されないままだ。しかし、それぞれに深化を遂げ、遠く分離されていたロボットの「心」と「身体」は未知の一体化を目指して、ジワリジワリと日々接近しはじめている。

Upper block:
Stradivarius
Lower block:
Giuliano Carmignola
Okura Studio

2014.6.02

年を経るごとに謎が深くなることがある。とりわけ人間についてのそれは深まるばかり。

その人に出会ったのは、高校生になって部活動をはじめたときだった。3学年しかない新入まもない高校生にとって、3年生と2年生の違いは大きい。何というか3年生は長男格の先輩というか、次男格の2年生とは明らかに異なる風格を感じさせられたものだった。ところが3年生のSさんの軽さといったらどうだろう。藤子不二夫のキャラクター「ラーメン大好き小池さん」そっくりのチリチリ髪にデカ眼鏡。冗談かますのが得意で、チョークの粉をたっぷり吸った黒板拭きを教室の扉上に挟んでは、運悪く入ってきた人の白くなった頭を見ては大喜びしてるような人だった。

部活は美術部だったから、さすがにデッサン紙やキャンバスに向かっている時は神妙な顔している。でも、美術に関してはシニカルな発言しか記憶にない。彼の父親も画家で、つい2,3年前まではこの学校で美術部の顧問をしていたちょっと破天荒なキャラクターで有名な名物教師だった。「ああ、あの○○さんの息子さんね」と言われ続けて育ったであろうそのSさんは、やはり相当に当時から屈折していたと思われる。

落ち着きのないSさんは、美術部だけでなく音楽部にも掛け持ちで在籍していて、バイオリンを演奏していたらしい。ある時、ぼくはSさんが「本当は俺絵なんか描きたくなくてさ、音楽やりたいんだよね」とぼそっと呟くのを聞いたことがある。親の強い意向もあったのだろうか、その後Sさんは浪人生活を経て美術大学に進学し、卒業後は地元に戻って高校の美術教師となったことをぼくは風の便りで聞いた。

それから時は流れSさんに再会したのは、ぼくが地元でデザインをはじめていた30代前半の頃だった。当時ぼくはデザインと並行して美術への想いも捨てきれず、「セルユニオン」という現代美術のグループ活動に参加していた。活動といっても年に一回、美術館でグループ展を開催し、そのため数回集まっては準備するといった程度のゆる〜い活動だったが、ときおりSさんもこのグループの会合に顔を出し、気が向くと出品することもあった。しかし、作品の記憶は全然残っていない。精力的に制作している風もなく、相変わらず「本当はやりたくないんだけどさ」モードを振りまいていたのを覚えている。職場の移動勤務を転々とこなしながら、一応美術の周辺にいることにしようと考えていたのだろう。

特に印象に残っていることがある。それはこのSさんがある症状に悩まされていたことだった。ナルコレプシー (narcolepsy) という病名を聞いたことある人は少なくないと思う。日本では「居眠り病」といわれる睡眠障害の一種で、襲われる眠気の強さは、健康な人が48時間眠らなかったときに感じる程度だと言われている。

ナルコレプシー のSさんは、たびたび職員会議で眠ってしまい、吸いかけの煙草で書類を燃やしてしまったり、自損事故の経験も1度や2度ではなかったようだ。元よりあまり緊張感のない生活態度だったSさんなので、周りの人は「まったく困った奴だな」くらいにしか考えていなかったため、脳疾患の一種と診断されるまで、ずいぶん長い時間を要してしまったという。そういえば学生時代もよくSさんは居眠りをしていた。ここまで大きな事故や事件を起こさずに済んだのは運が良かったとしかいいようがない。ナルコレプシーは根本的な治療法が解明されていないので現在でも対症的な治療しかないが、Sさんも投薬治療で眠気水準を保つよう生活コントロールしているらしい。ちなみにこの病気を患っていた著名人には、作家の色川武大(阿佐田哲也)中島らもらがいる。

さて、こんなSさんと2年ほど前にぼくは治療に訪れていた歯科医院でバッタリと出会った。すでに悠々自適な退職生活を満喫している様子で、連日古い実家のお蔵を自分で改造しているから機会があったら遊びにくるようにと誘われた。優雅なものだね〜、とからかいながらも、教員臭さを感じさせない世離れした風情を好ましく思ったぼくは「そのうち気が向いたら見学に行きますよ」と返事する。

そのお蔵を訪れたのは、記録的な猛暑もおさまった初秋の頃だったろうか。どこから見ても土壁作りの典型的なお蔵なのだが、一歩中に足を踏み入れると、そこはSさんのワンダーランドとなっていた。そして、ぼくはそこで初めてSさんがバイオリンを製作していることを知ったのだ。見たこともない道具の数々が作業台の壁に整然と掛けられており、床には削り出した木くずが散乱している。完成したバイオリンも数台掛けられていた。聞けばすでに20年以上、教職の傍ら製作をしていたのだという。

ヴァイオリン製作学校や音楽院のヴァイオリン製作科、弦楽器製作学校や個人の製作工房など、調べてみると国内には数々のヴァイオリン製作に関するマイスターコースが用意されている。もちろん独学で挑戦する人を含めたら製作者を志す人たちはかなりの数にのぼるだろう。ヴァイオリン関連団体だって、「日本弦楽器製作者協会」とか「日本バイオリン製作研究会」とか、その種の団体がいくつもある。これまで僕が知らなかっただけのことなのだ。当然、製作者もピンキリで、レベルもさまざまであろう。しかし、あのSさんの作品は黒澤楽器店の担当者に200万以上の値をつけられたというから、すでにその腕前は素人の域をとうに超えているようだ。

楽器の評価は、その造形的な完成度と音色を総合して下されるようだが、音色は門外漢のぼくでも、完成した楽器の佇まいなら多少は感じとれるはずと息を凝らして眺めてみる。流れるような曲線で縁に埋め込められた象嵌も見事というほかはない。こんな精緻な造形品をあのSさんが作れるはずはないと、不遜な想いがその時ぼくの頭をかすめるのだった。何日も作業に費やした労作にちょっとでも気に入らない箇所があると、ためらうことなく壊してやり直すこともめずらしくないという話を聞くと、再びぼくは思うのだ。「あのSさんが…」。

Sさんは神妙な顔をしてぼくの質問に答えてくれる。バイオリンの素材は表裏違うこと。表板はモミの木の仲間スプルース。裏板や側板、ネックは楓。チェコ産の輸入材を使っていること。いろいろ異なる素材にトライする作家もいるようだけど、古今東西やはりこの組み合わせに勝る音色はないということ。ストラディバリウスも、もちろんこの組み合わせ。塗装に関するうんちくやこだわりのこと。ヴァイオリンは一部をのぞけばすべて木、塗装のニスでさえ、その原料の大半は樹からにじみ出る樹脂から作られる。着色用の樹脂としてはキリンケツ、ドラゴンズ・ブラッド、ガンボージなど、ほとんどが南方系の樹の樹脂というから実にオーガニックな産物ということになる。また楽器作りにはとにかく細かくて根気の要る作業の積み重ねが要求されること。うなずきながら、その度にぼくは心の中で繰り返す「あのSさんが…」を。

数多くの無関心、数え切れないほどの誤解。(ここにはぼくも間違いなく含まれている)しかし「ラーメン大好き小池さん」の心の奥には、誰にも気づかれることなく密かに音楽への想いが包み守られていたのだった。

気分を出すために、今ぼくはジュリアーノ・カルミニョーラ(Giuliano Carmignola)のアルバム「J.S.Bach」を聴きながら書いている。このイタリアのヴァイオリニストはNHKで放映されたヴェニス・バロック・オーケストラのコンサートで初めてみた演奏家。何しろイケメンだし、身体の一部となったようなバイオリンを、それはそれはしなやかに演奏する姿が印象的だった。ぼくはクラシックの演奏家についてはほとんど知識がないけど、カルミニョーラはイタリア人特有の大らかさを感じさせる、かなり個性の強いバイオリニストのようだ。彼の演奏についてこんな書き込みもあった。

「弓さばきが独特であることと、そこから生まれる変幻自在の音色の多様性は、数いるソリストのなかでもずば抜けております。特に驚いたのが、モーツアルトのバイオリンソナタですが、まるでモーツアルトが現代に生きている作曲家であるかのようなできたてホヤホヤ感がすごい。これぞこそカリスマだと思いました。

確かにものすごい速度で演奏しており、ときにビバルディでは、勢い余って多少音程が悪くなる場合もありますが、躍動感に魅力があり、それはそれでありかと思います。それに日本では滅多に演奏されない珍しいヴィバルディのバイオリン協奏曲もたくさんコンサートで演奏してくれるので、ヴィヴァルディがこんなに凄い作曲家だったのかと再認識させてくれたのもありがたいことです。さらに言えば、カルミニョーラの本当に良い部分は派手なアレグロ楽章ではなく、緩徐楽章にあります。特にカンタービレがイタリアの歌心を聴かせてくれます。」

演奏家の表現力を引き出す楽器の潜在能力は、才能ある楽器作りの手によって生み出される。作曲家、演奏家、楽器制作者、そして音楽を愛する人々による多層空間に音楽は住まい、音の生まれる原理と精緻な仕組みが音楽の精霊のゆりかごとなる。その大切な一角を担う楽器作りに情熱を傾け続けたSさんを駆り立てたものは一体何だったのか。 音楽は耳だけで聴きとるものではない、という人もいる。実は色の中にも、風景の中にも、言葉や物語の中にも音楽は存在する。「ラーメン大好き小池さん」に潜んでいた深い謎は、実は来るべき音楽の精霊のゆりかごだったのだ。

Upper block:
Olle Eksell
Lower block:
Raymond Savignac

2014.5.02

オーレ・エクセル(Olle Eksell)は、1918年3月22日、ダーラナ地方に生まれた。彼は愛すべきスウェーデンのイラストレーター。1946年、アメリカに留学し、ロサンジェルスのアート・スクール・カレッジ・オブ・デザインで学ぶ。帰国後はフリーランスの立場を貫きながらグラフィックデザイナーとしても、ポール・ランドらの影響を感じさせる人なつこい作風でさまざまな仕事を残し、スウェーデンデザインの基礎造りに貢献したミッドセンチュリーのデザイナーとして多くの人々に記憶されている。晩年は視力をほとんど失い、2007年、89歳で他界した。

彼の代表作と言われているのが、マゼッティの「ココアアイズ」ロゴマーク。(上から二番目の写真)これはマゼッティが品質を保証する証として1956年にロゴマーク公募した際、両目がモチーフとなったロゴマークを出品し、オーレは見事優勝を射止める。これを機に彼はマゼッティの広告全般を担う看板デザイナーとして同社の知名度アップに大きく貢献していく。マゼッティがファッツェル社(ムーミン・チョコレートで有名)に吸収された現在も、オーレの作った当時のロゴマークは変わることなくパッケージなどに継承されている。

彼のグラフィックを支えているのは、何と言ってもそのフレンドリーでウイットに富んだ作風のイラストレーション。特に鳥をモチーフとした作品が愛らしい。生涯のパートナーであるルーセル夫人によると、実はエクセルは人物を上手く描くことができなかったらしい。いつも下手くそな絵になってしまうので試しに鳥をモチーフに描いてみたら、なぜか人の特徴が上手に表現できるようになったのだとか。そういうことってあると思う。直球では全然駄目だったのに、カーブを覚えたとたん名投手となってしまったような…。

上から四番目の作品はアルファベットで描かれた鳥たち。スウェーデン語、ドイツ語、英語、フランス語の順に「鳥」という言葉が描かれている。動物に躍動的な生命感を吹き込む不思議なオーレの才能は、鳥以外にも発揮された。なかでもペンは彼が得意としたファンタジックなキャラクターのひとつだろう。ぼくはある時、ペン(鉛筆)と鳥の登場するオーレのアニメーションを見たことがある。味わい深い小品は、こんな風にはじまる。

籠に閉じ込められた鳥がいた。その鳥を可哀想に思った鉛筆は、何とか励ましたいと考える。大空を羽ばたくことの出来ない鳥を元気づけるため、一体自分に何ができるのだろうかと思案する。そこで鉛筆が思いついたのは、いろんな花々や木々を描いて鳥の周りを埋め尽くすことだった。さっそく描きあげられた花や木を見て鳥はたいそう喜び、鉛筆に感謝する。幸せな気持ちになった鳥は、今度は鉛筆のために美しい鳴き声を披露しようと考える。こうして仲良くなった彼らの楽しい日々は静かに流れていくのだが、それでも時折見せる、籠から遠くをぼんやりと眺める鳥の淋しげな表情を鉛筆は見逃がさなかった。そんな鳥の気持ちを何とかしてあげようと、鉛筆は前にも増して、来る日も来る日も一生懸命描き続ける。しかし彼らの幸福な日々はいつまでも続かない。せっせと描き続ける鉛筆は次第に短くなっていく。そしてとうとう残りわずかとなってしまった鉛筆は、最後の力を振り絞り一枚の絵を描き上げ、忽然と姿を消してしまう。そこに描かれていたのは一本の鍵だった。それは籠の扉を開く鍵。そうしてやっと扉を開けることができた鳥は、鉛筆の想いとともに勢いよく羽ばたきながら大空に消えていった。

このシンプルな物語の中には、運命や忍耐、献身や利他の心、希望や倫理感など、深淵な人生の機微がたっぷりと詰まっている。胸を熱くするファンタジックなアニメーション。

老人になっても少年の心を宿し続けたオーレは、最後まで青春のただ中を生き続けた。青春とは人生のある時期を示す言葉ではなかったのだ。たとえ老いても、瑞々しい心はいつだって青春の中に生きている。

ぼくはイラストレーションが描けないし、そんな才能もないから、オーレのようなデザイナーにはいつも憧れを抱いていた。日本には(2008.9.02のブログで取りあげた)U.G.サトーさんもいる。そのU.G.サトーさんを通じて強く意識するようになったのは、フランスのポスター作家、レーモン・サヴィニャック(Raymond Savignac)。オーレより10歳ほど年長だが、このタイプのデザイナーとしてはオーレの先輩格といえそうだ。

サヴィニャックは1907年の11月6日にパリ15区で生まれた。庶民階級だった彼は美術学校に入ることができず、工業デザインを学ぶために夜学に通う。26歳の時に憧れていたカッサンドルと初対面を果たし、その場で仕事を与えられ、同時に臨時の助手として雇ってもらうという幸運を射止めるが、ここからがサヴィニャックの長い修行時代のはじまりでもあった。

今でこそ広告を支えるメディアはTV CM、サイト、新聞や雑誌広告、DM、フライヤーと多岐にわたるが、当時の花形メディアといえば、それはポスター。彼はポスター作家として様々な試行錯誤を繰り返しながら、オリジナルのスタイルをどのように築くかという課題と向き合う日々を送っていたが、何とかスタイルを確立しはじめた頃には、彼はすでに40歳を過ぎようとしていた。そして、やっと訪れた転機は41歳の時。すでにポスター作家として活躍していたベルナール・ヴィユモと2人展覧会を開くことになり、そこに出品した「自分のお乳で石けんをつくり出す牝牛」ポスターがある人物の目にとまった。その人物は実業家ウジェーヌ・シュレール。

実はこのポスター、以前、シュレールの経営する会社の一つであるモンサヴォン社のために制作し、お蔵入りとなっていたものだった。このポスターに感動したシュレールは、すぐに原画を買い取ってポスターを印刷することにした。そして、サヴィニャックはこのモンサヴォン社のポスターをきっかけに一躍人気ポスター作家としてデビューを果たすことになる。後に自伝でサヴィニャックはこう書き記したそうだ。『わたしは41歳の時にモンサヴォン石けんの牝牛のおっぱいから生まれた』。ユーモラスで温かく、しかも力強い簡潔な視覚メッセージ。20世紀の名作ポスターである。

こうして、遅咲サヴィニャックの黄金期は1950年に幕を開け、ペリエ、ピレッリ、チンザノ、オリヴェッティ、ダンロップ、エールフランス、ティファール、ルノー、ミシュラン、ペプシなどなど、日本人にも馴染み深い企業のポスターをサヴィニャックは精力的に制作し、多くの名作を生み出した。 特に深く関わったのがボールペンで有名なビック。サヴィニャックが生みの親となったボールペン頭のキャラクター『BIC BOY』は、今や同社を代表するイメージとなっている。しかし1970年代になると、フランスにも合理的に分業制作する「代理店システム」がアメリカから入ってくるようになる。イラストの代わりに写真が多用される現代的広告制作システムだ。こうした傾向にうんざりしていたサヴィニャックは、次第に広告業界への苛立ちをつのらせていった。そしてとうとう生粋のパリジャンだった彼はノルマンディー地方に居を移し、晩年を過ごす決意をする。

依然として広告業界は代理店システムが主流であったが、サヴィニャックのような手描きポスターをフランスの人々は決して忘れることはなかった。そして彼のポスターに秘められたヒューマンパワーに可能性を託そうとした企業がとうとうあらわれた。1981年、業績不振にあえいでいたシトロエン社の広告キャンペーンポスターでサヴィニャックは劇的な復活を遂げ、フランス最高の手描きポスター作家としての評価を確立する。その後彼は生涯現役を貫き、95歳の直前までそのデッサンの手を止めることはなかったという。

ところで、サヴィニャックは日本企業ともコラボレーションしている。アートディレクター大貫卓也が手がけた豊島園のポスターシリーズ、7つのプールでブタと白クマの2種類を制作したことは記憶に新しい。また、サントリーや森永チョコレートもユーモアたっぷりのサヴィニャックの世界を愛した日本企業だった。

オーレやサヴィニャックは、いわば肉声の表現者。共に完結していることも共通点。決して彼らは分業しない。フル稼働するのは、一体化した一人の人間の頭と手だけ。そこから生み出される人間への深い愛に根ざしたユーモアは、万国共通の伝達視覚言語として生まれ変わる。より深く、心を揺さぶる力強いユーモアは、地域や世代や時代を超えて、デジタル時代のいまも力強く生き続ける。それは機知や哀感に包まれて不思議な伝達力を発揮する、永遠のイラストレーションの錬金術が生み出した宝物なのだ。

Photo:PaulMcCartney

2014.4.02

来月、ポール・マッカートニーの単独来日公演の開催が決定した。好評だった昨年11月の11年ぶり来日コンサートツアーに続く公演で、しかも今回は初めての屋外会場だという。
ぼくは昨年のコンサートツアーに先立ち、湯川れい子さんがポールにインタビューをしてる映像を偶然見たのだが、その時のポールの肉声は歌声のイメージと違いかなりハスキーなボイスだった。以前、松任谷由実の話し声を聞いた時にもボーカルイメージからかけ離れたガラガラ声だったので驚いたことがあったが、長年声帯を鍛え上げたボーカリストは、日常的にはこのような掠れた声になるのだろうか。そう、そう、確か高音まで澄んだ歌声を聞かせてくれる小田和正も話し声は決して高くなかった。生来の身体特性に恵まれているという条件付きであっても、人間の身体に備わったキャパシティは、鍛え方次第で驚くほどその能力を発揮してくれる。やはり何事も使わなければ退化してしまうのは自然の理なのだろう。
さて、ビートルズといったらポール抜きに語ることはできないけれど、彼は常にジョンと比較され、ポールの作る曲はメロディアスなだけで内容が浅く、商業主義的とか揶揄されることも少なくなかった。(『ギネス世界記録』によれば、ポールは「ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家」として認定されている)
若い頃は何事も難しく考えてしまう傾向が強い。真実は屈折していて複雑なものなんだと勝手に思い込み、若者は思考の堂々巡りをくり返す。でも、実は真実なんて主観的なもの。すなわち、知識や経験、そして関係性や偏見などが入り交じっていて、実は人の数だけ真実は存在するのではないか。そして人は一回しか自分の人生を体験することはできないし、実体験としてその一回きりの人生からしか人は学ぶことができない(しかもそれは途上の人生なのだ)。
やがて人は体験を重ねながらさまざまな挫折をくり返すと、深いと思い込んでいた複雑性に対して次第に懐疑的になってくる。できることなら素直でいいじゃない。単純で飾り気や無駄がなく、純粋でシンプルってことは実は素晴らしいことなんだと思えるようになってくる。同時に、それを会得することはとても大変難しいことなのだということも…。
このインタビューで聞けたのはほんの数分間のやりとりだったけど、その時ぼくは「案外、ポールっていい奴なんだ」と思った。実は彼はすごく素直でシンプルな人なんだという印象を強く受けた。だからぼくはここでポールに謝りたいと思う。これまであなたをお気楽ミュージシャンとして軽んじてきたこと、申し訳なく思います。本当にごめんなさい。
もちろん軽んじてきたといっても、その才能には敬意を表していたし、好きな曲だって数え切れないほどある。「イエスタデイ(Yesterday)」や「ヘイジュード(Hey Jude)」は言うに及ばず、10代の頃、ぼくは彼の曲を何度口ずさんだことだろう。
それに、楽天的に見えたポールの人生だって、実は挫折の連続だったともいえる。最初の妻となったアメリカ人の写真家リンダ・ルイーズ・マッカートニー(Linda Louise McCartney)を病によって失ってしまったポール。盟友ジョン・レノンの死に計り知れない衝撃を受け、死後の数ヶ月間自宅にひきこもり続けたポール。ビートルズ解散後はジョンを意識したソロ活動を模索したり、ビートルズへの絶ちきれなかった想いを色濃く投影したバンドを結成したり、ビートルズ燃え尽き症候群、あるいは解散後遺症ともいえる長いトンネルをくぐり抜けてきたポール。

コダック社の縁者で写真家だったリンダを最初の伴侶に選んだポールは、前衛芸術家だったオノ・ヨーコをパートナーとしたジョンを意識してのことだと当時指摘する声も少なくなかった。たしかにそうした背景はあったのかもしれないが、リンダとの共作アルバム「Ram」は今も印象に残るぼくの好きなアルバムだったし、ここではポールとはまた違うリンダの才能も感じとることができる。このアルバムに収められている「Dear Boy」などは今聴いても少しも色あせてないし、ビートルズ時代のポール作「Eleanor Rigby」と較べても遜色のない名曲だとぼくは思う。
確かに当時のビートルズは女の子を夢中にさせるアイドルバンドだったけど、YouTubeでちょっと「Eleanor Rigby」を聴いてほしい。こんな歌詞を今のアイドルグループが書くだろうか?
*
The Beatles – Eleanor Rigby (1966)

エリナー・リグビー信女

ねえ、ごらんよ、あの孤独で身寄りのないひとたち
ねえ、ごらんよ、あの孤独で身寄りのないひとたちを

エリナー・リグビーは教会の結婚式のあとの
お米を拾って夢の中で生きる
ドアのそばの瓶にしまった顔をつけて窓のところで待つ
だれのための顔か?
孤独で身寄りのないひとたち、みんなどこから来たのだろう?
孤独で身寄りのないひとたち、帰る先はどこなのだろう?

マッケンジー神父がだれも聞かない説教の原稿を書いている
だれも彼を訪ねない
ほら、ひとりぼっちで夜、靴下の繕いをしてる
心にかかることは何なんだろう?
孤独で身寄りのないひとたち、みんなどこから来たのだろう?
孤独で身寄りのないひとたち、帰る先はどこなのだろう?

ねえ、ごらんよ、あの孤独で身寄りのないひとたち
ねえ、ごらんよ、あの孤独で身寄りのないひとたちを

エリナー・リグビーは教会で死に、その名も埋葬され忘られる
葬儀にはだれも来ない
マッケンジー神父は手の汚れを拭きながら墓地から戻る
だれひとり、救われなかった
孤独で身寄りのないひとたち、みんなどこから来たのだろう?
孤独で身寄りのないひとたち、帰る先はどこなのだろう?

(訳:岩谷 宏)
*
ぼくはジョンとポールと言えば、反射的にスティーブ・ジョブズとビル・ゲイツを思い浮かべてしまう。マイクロソフトを創業したゲイツはフォーブス世界長者番付連続の世界一とか、金の亡者みたいな烙印が押されてしまい、早期に引退して慈善団体、ビル&メリンダ・ゲイツ財団を通じて国際団体「ワクチンと予防接種のための世界同盟」に民間では最大規模の寄付したり、途上国のエイズやマラリア、そして結核の根絶や教育、識字の水準改善などに尽力している。にもかかわらず、悪役イメージがどうしても払拭できない、考えたら随分可哀想な実業家ではないか。射殺されてからさらに神格化された感のあるジョンに対して、ポールだってなかなかお気楽ミュージシャンの烙印を消し去ることは容易でなかっただろうから、bad imageが定着してしまった可哀想なミュージシャンの一人として認定してあげたいくらいだ。
ところで生前ジョンがローリングストーン誌のインタビューで、ポールの演奏能力について語っているYouTubeの音声訳動画が投稿されていたが、そこからは二人の等身大の関係が垣間見えて、これはなかなか面白かった。
ジョン曰く、「ポールは作曲とボーカルには過剰とも言える自信をもっていて得意げなんだけど、ぼくに言わせたらたいしたことはない。でも、ポールは自分の演奏能力に関しては引っ込み思案だけど、ぼくは彼の演奏能力はたいしたものだと思っている。特にベースの演奏は、今のロックのベースプレイヤー達のやっていることは、ほとんどポールがやり始めたことだと言っても過言ではない。だからこの場を借りてポールに言いたい。ポール、君の演奏能力はたいしたものだよ。もっと自信をもっていい。だけど作曲とボーカルに関してはもう少し謙虚になった方がいい。」日本では細野晴臣という名ベースプレーヤーがいるが、細野も確かポールの手腕を高く評価していた。
また別な動画では、当時、脳腫瘍で闘病していたジョージハリソンをポールが見舞った時のことを話していた。3、4時間ポールとジョージは二人だけで手を握り合いながら昔の思い出を語り合ったそうだ。ビートルズ最後のライブパフォーマンスとなった模様をおさめたドキュメンタリー映画『レット・イット・ビー』(Let It Be)では、ポールは最年少のメンバーであるジョージに対していつも厳しく接している様子が残されている。時には兄のように、そして時には父親のように…。それに反抗し、ポールに対して苛立つ当時のジョージの姿も記録されている。
しかし、内容が何もないビートルズのオマケメンバーみたいなジョージのイメージは、ビートルズ解散後満を持して発表された初の3枚組ソロアルバム「All Things Must Pass」で見事に払拭された。「Here Comes the Sun」や「While My Guitar Gently Weeps」はジョージ作としてつとに有名な曲だけど、このアルバムにはぼくの一番好きなジョージの曲「Run of The Mill」も収録されている。寡黙で気難しく、志も高かったジョージ。そしてあまり知られてないことだが、実は独特のユーモアセンスも持ち合わせていたジョージ。2001年11月29日没。享年58歳。
また、ポールとオノ・ヨーコは長い間不仲が定説化されていた。しかし2013年の米情報誌「ローリング・ストーン」の電子版では「時が癒しを与えてくれた」というポールの発言とともに両者は和解し、亀裂は修復されたようだと報道されている。
さて、ポールのお気楽ミュージシャンイメージは、彼がビートルズ時代からとても愛くるしかっことと無縁ではないと思う。自己主張を前面に押し出そうとした時期には髭もじゃ顔でワイルド感をアピールしたこともあったが、やっぱり愛くるしさが彼の本来の性格に一番フィットしている。さすがに71歳となったポールには皺も年相応に刻まれているので、愛くるしいという言い方にはちょっと無理があるかもしれないが、原型は生来の愛くるしさをとどめていて、はやりそれは素直でシンプルなその性格に相応しい風貌だと思う。
30年、40年。時間の経過というものは人間をどんな風に変えていくのだろう。あの頃いくら目をこらしても見えなかったことが、時を経たら次第に見えてくることがある。またあの頃の自分を俯瞰している今の自分がいるかと思えば、記憶が分断されてしまい、いくら当時の自分を思い出そうとしても叶わないこともある。まったく変わっていない自分がいるかと思えば、すっかり生まれ変わってしまったと思える自分だっている。時間の経過はさまざまな個別的な出来事や記憶を浄化し、変化させたりするけど、病床のジョージと彼を見舞うポールの二人、そして和解したポールとオノ・ヨーコとのツーショットを見ていると、それまで彼らの間に起こった全ての事柄は、つまるところこの「現在」を静かに受け入れるためのプロセスとして存在すればそれでいいのではないかという気がしてくる。どうしてこうなったのかなんて考えない。ただ静かに「現在」を受け入れるだけでいい。最後にぼくの数え切れないポール・フェイバリットナンバーからほんの少しだけ…。

I’ll Follow The Sun
Here There and Everywhere
The Long And Winding Road
Blackbird
Your Mother Should Know
Another Day
Uncle Albert
My Love

(My Love の動画にはリンダとの間に生まれたファッションデザイナー、ステラ・マッカートニーとおぼしき娘とのスナップもたくさん掲載されている)

BLUE STAR MAGAZINE
Cover

2014.3.02

大学がフリーペーパーを出すなんて、時代も変わったものだと思う。この大学の校内にはマクドナルドもあるし、FM放送局だってある。いまや教育機関は立派な商的活動拠点ともなっている。全国からさまざまな分野の教師が集い、彼らに学ぼうとする学生も集まり、スポーツ施設が次々と増設されれば界隈には活気も生まれてくる。こうして大学を核としたキャンパスタウンが次第に形成されてくる。

上はそのフリーペーパー「BLUE STAR MAGAZINE」カバー。季刊でこれまで4号発行されている。アートディレクションは、このブログの「2007.6.14」で紹介した鈴木昌尚(まさなお)くん。仲間の編集者らとともに1年がかりで大学にプレゼンして、やっと実現化にこぎつけたのだそうだ。

亡き父親の跡を引き継いだ家業の桃栽培農園を経営するかたわら、デザインへの情熱をずっと絶やすことのなかった彼はやっとこのフリーペーパーの発刊でひとつの目標を叶えた。いつもは俯きがちなのに、律儀にも創刊号を携えて報告にやってきた鈴木くんは、心なしかちょっと誇らしげな顔をしていた。

これまでうんざりするくらいやってきたから、やりたくないことはもう一切しない。これからは、やりたいことだけしかやらないんです。この時代には到底不可能とも思えるこんなことを、夢や願望でなく、強い意志をもって実現しようとしている彼はとても逞しくみえた。そこにはもう、ボスコで毎日ぼくに叱られていた頃の彼はいなかった。心の奥にどんなに小さくてもいいから、絶やすことなく情熱の熾火を灯してさえいれば、人は寒々しく年をとらないで済むのかもしれない。 いつまでも自分がいなければ、なんてのは年長者の思い上がりにすぎなくて、いなけりゃいないできちんと、続く世代によって新しい道が敷かれていくもの。

「近頃の若者ときたら」とは、ずっとくり返されてきた常套句。

「子供叱るな来た道だもの」、「年寄り笑うな行く道だ物もの」。これはお定まりの慣用句。

どうやら人間、年取れば賢くなるというものでもなさそうだ。ときには年長者の方が傍若無人ぶりを発揮する光景に出会ったりもする。人格の凸凹は世代の別なく、等しく分布するということか。

それにしても、若者の活躍ぶりはいつだって清々しい。例えば今年の「ローザンヌ国際バレエコンクール」で1位、2位、6位と活躍が際立った日本人の若いダンサーたち。それぞれは若干17歳、15歳、18歳。

こんな34歳のベンチャー社長もいる。「人工流れ星」の事業家を目指す「ALE」代表の岡島礼奈さん。子供の頃に読んだ相対性理論の漫画で興味を持ち、東大の天文学科へ。ITベンチャーを起こしながら博士号を取得。その後、打ち上げた人工衛星から玉を放出させて人工の流れ星を作る現在の会社を起ち上げた。衛星には玉を1000個積めるので、流れ星ひとつ100万円なら採算がとれるのだそうだ。夢は見続けているだけなら、ただの夢。実現してこそ本物の夢に一歩近づくことになる。

2005年に韓国で女優デビューした29歳の杉野希妃(すぎのきき)さんも疾駆する若者の一人。朝日「on saturday be」に紹介されていた。女優、映画プロデューサー、監督の三足の草鞋を履くバイタリティーの塊のような女子。20代にして9度もロッテルダム国際映画祭の審査員として招かれている彼女の最新作「ほとりの朔子(さくこ)」は、昨年、フランスのナント三大陸映画祭で最高賞である「金の気球賞」を受賞している。 彼女は「自分のことを自分が一番知っているわけではない」と自作の登場者に語らせているように、「世界中の全員が、はざまで生きている」と社会性を織り込みながら、しっかりと世界の多様性を見据えている。その原点は広島にあった。被爆者の祖母をもつ彼女。なぜ映画をつくるのかという問いかけには「細々とでも平和な世の中をつくりたいから」。生き方のベースとなっているのは一貫して「平和」。「世界にはすごい人がいっぱい。私なんてまだまだミトコンドリアみたいなもの」と、どこまでも謙虚、しかもどこまでも図太い。

大人は若者のためによりよい社会の仕組み作りをしなくてはならないとか、いろいろ提言されているけれど、ぼくは、いつだってバトンはきちんと繋がれていくんだから「来た道」のことなんか案ずることは何もないと思っている。それよりも「行く道」のことを考えた方がいい。山だって登ったらあとは下りるしか仕方ないわけで、無数ある下山道からどれを選び取るのかと悩むことこそ必要だと思うのだ。

朝日「異才面談」コラムで小説家の童門冬二さんが「ふてくされるなよ、50代」と人事の春、悲喜こもごもの季節に際して壮年の心得を説いていた。人間50年も生きてきたら、なにがしかの学びの種はあるものだから、ここで一度人生の棚卸しをしながら客観的に自分を見つめ直す時期としたらいいという。

史実に目をやれば、戦国の名将と謳われた武田信玄は息子である勝頼を『不肖の2代目』と軽んじたために、結局、勝頼はやけくそになって父親の偉勲をみんなひっくり返してしまった。名将も2代目養成という点では、信玄は愚将であったという指摘。

翻って第二の人生をうまく生きた例として、測量家として歴史にその名を刻んだ伊能忠敬の例をあげる。伊能家に婿養子となった忠敬は、名家伊能家の財政再建に尽力し、その復興を見事に成し遂げたのちは50歳で隠居して本当にやりたかった天文学を学び始め、そこを第二の人生の出発点とした。 現役時代にはやるべきことをやりきり、隠居後の自由を確保した、後顧に憂いのない素晴らしい「行く道」を歩んだ例である。

しかし、ぼくはこのコラムを読みながら、まったく別な人物のことを考えていた。フランス人でポスト印象派の画家、ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャンのことだ。証券会社の社員として、そしてごく普通の勤め人として5人の子供にも恵まれ、趣味で絵を描いていたゴーギャンは、ある日安定したこれまでの生活をすべて捨てて画業に専心する決意をする。伊能忠敬とはだいぶ異にする突然の転身ではあるが、測量家より美術家の心理の方がぼくには近しく感じられる。

この画家をモデルにしたといわれるサマセット・モームの小説『月と六ペンス』(The Moon and Sixpence)を若い頃読んだぼくは、幾つになっても心の熾火さえあれば、何かがはじまる可能性は決して閉ざされることはないんだと記憶した。たとえ広々とは決していえなくとも、深々とした第二の人生に連なるその道は、希望の道としなくてはならない。そうなるはずだったゴーギャンの道は、結果的に貧困と絶望、病苦といった茨の道となってしまったのだが…。

『月と六ペンス』は、安定した生活を捨てて、死後に名声を得た画家の生涯を友人の一人称という視点で書かれている。ただ、実際のゴーギャンとの相違点も指摘されている。そもそもノンフィクションでなく小説なんだから別にそれは構わないだろうと思うのだが。松岡正剛は千夜千冊で、イギリス諜報機関のメンバーだったサマセット・モームがスコットランドのサナトリウムで静養中に書き上げた本書についてこんな風に語っている。

「男が女に愛想をつかす理由」や「女が変わった男に惹かれる理由」、さもなくば「男が女にすがる理由」に興味があるならこの『月と六ペンス』を読んでみるべきだ。この小説にはそのすべてが活写されている。「月」は幻想を、「六ペンス」は現実をあらわしているらしい。 月と六ペンスが交差するのは、二つの人生の単なる接点なのか、はたまた分岐点なのだろうか。このままでは終わりたくないという漠然とした想いが、ある日突然わきおこり、気づくとその「来た道」は「行く道」となっている。「往(い)き」と「還(かえ)り」の交点がここにある。

親鸞の言う「人間には往(い)きと還(かえ)りがあるこの考え方には一切曖昧さがない、とは吉本隆明さんの言葉。(“往相・還相回向”)つまり「往き」の時には、自分のなすべきことをするために脇目もふらずに歩みを進めたらいい。しかし、それを終えて帰ってくる「還り」には、すべてを包括して処理に徹して生きるべきだと。

「往き」の道中だってもちろん一筋縄ではいかない。幻想と現実、意識と無意識、言語と非言語、あるいは裏と表。この決して交じり合わない二つの頂には、互いに頼りない橋がかかるだけ。人間はみな、震える橋上でこうした二項対立を抱えながら生きている。そこで両者の折り合いをどうつけるのか。 精神分析家のきたやまおさむは、世界から拒否され姿を消す「夕鶴」の「つう」に、自死したザ・フォーク・クルセダーズ(The Folk Crusaders)の畏友・加藤和彦の悲劇を思い、重ね合わせる。人間には「本音を言葉で吐き出せる場所や、そのための人との関係」が必要で、そうすればもう少し楽に生きられるはずだし、言葉は生きる支えになると。 「かつては、裏町とか裏通りといった存在が、本音を受け止める場所として機能していたが、社会の様々な場面で裏が整理され、すべてが表になってしまった。“うら”とは本来、古語で“心”を意味します。裏の喪失が、現代人を苦しめているのです」(2月8日「逆風満帆」より)

「往き」は、裏町と言葉を支えに、こうした二項対立に折り合いをつけながら後顧に憂いのない区切りをつけることを目指すべし。そして第二の人生の起点にさしかかれば、心の熾火が照らし出す「還り」に向かってその一歩を踏み出していく。なるほど、こうしてみると、なにやら人生はブーメランにも見えてくる。「往き」と「還り」をどんな形で描くのか。空に向かって放ったブーメラン。そこに託した二つの人生は、一体どんな軌跡を描いてみせてくれるのだろうか。