Sound Recording Tapes &
Open reel tape deck / TEAC A-2300S

2014.11.02

ぼくが自室で発見した古い録音テープのことについて、以前このブログ(2008.3.03)に書いたことがある。70年代に録音されたこれらのテープはオープンリール・タイプのデッキでないと再生できない。しかし、とうの昔にぼくはデッキを処分してしまい、もうそこに残されている音源を聴くことはできない。
いまならiTunesで簡単に曲の入れ替えができるから、アルバムやミュージシャンのお気に入りの曲をピックアップして自分だけのコンピレーションアルバムを用意することなんか朝飯前なんだけど、それが当時はできなかった。仕方なく、選曲順にテープに録音したり、時にはテープをカットして順番を入れ替えたり、おそろしくアナログな作業を経てやっとお気に入りのプレイリストを作ることができるのだった。こうして完成した自分だけのベストアルバムを枕元に置いたテープデッキにヘッドホーンを接続して、夜な夜な聴き入っていた。こうした懐かしい選曲集はリストがあるから、いまも残っているレコードや復刻されているCDから再現することはできるのだが、自室録音した音源や、ぼくがたった一度だけ人前で演奏したコンサートの模様などは封印されたままだった。
若気の至りとはいえ、コンサートなんて無謀なことをしたものだ。しかも二部構成のコンサートでは自作曲12曲が演奏されているではないか。テープと一緒に2つ折りのプログラムが1部見つかり、当時の記憶を辿ってみた。
1971年(昭和46年)11月22日開演。バンド名は「にゅうぶらいとぷろだくつ ろんりいはあつくらぶ ばんど」。これはもちろんビートルズのサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band)をもじったもの。文法的には随分おかしな英語だが、その意味合いは「新しく明るく製品化された孤独な奴らのクラブ・バンド」といったところか。入場料金は300円。メンバーは6名で、ぼくはSemi Acoustic Guitarと12st Guitar、そしてVocalを担当していた。
他に6st GuitarとVocalが2名、Steel Gutar、Banjo、Electric BassとViolinが各1名、そしてドラムスという構成。自作曲のタイトルを列挙してみよう。
「銀河鉄道終列車」、「子守唄」、「招待状」、「なまけもの」、「嘘」、「ラムプ」、「長い髪は雨をよそおって」、「名残り」、「結婚」、「知恵の輪」、「まず海と空」、「黒いロマンセ」。作詞は数人で分担し、ぼくは10曲作曲していた。しかし譜面もなく、メロディもまったく覚えていない。プログラムに掲載されている歌詞を1曲ピックアップしてみよう。

「知恵の輪」
黄昏が横切って
上に拡がる曇ったまなざし
あてもなく近づいて
不眠のボートは滑り出す
丸く小さく輪になって
今ボクは泳いでる
ボクをとりまく知恵の輪は
いつも決まってなかなか解けない
めぐりめぐって目を覚ます
舞い散る雪を見つめながら
あれがボクだと心に決めて
ひとつのかけらを追ったけど
幾度やってもいつも決まって
何処へともなく消えてゆく
あのことばは忘れよう
あのことは忘れよう

内証的でいかにも青臭い歌詞。同時代的に影響を受けていた「はっぴいえんど」の松本隆、稲垣足穂、高田渡などの作風を色濃く宿している。
作曲以外にもカバーが数曲含まれている。高田渡の「鉱夫の祈り」や「銭がなけりゃ」、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング(Crosby, Stills, Nash & Young=CSN&Y)のメンバーStephen Stillsの「A childrens song」、フィナーレは加川良の「伝道」だった。
いくらプログラムを眺めて記憶を辿ってみても肝心のサウンドが再現できないから、それはあくまでも懐かしくも恥ずかしい茫洋とした記憶として漂い、一向に像を結んでくれない。一つだけ確かなことは、熱に浮かされたこの出来事で、やはり自分には音楽の才能はないんだなと強く認識させられたことだった。
さて、この古いテープにはもうひとつの懐かしい思い出が残されているはず。それは自宅をスタジオ代わりにして一人で録音した音源だ。もう二度と人前で演奏するのは止めようと決心したものの、まだぼくの内部には演奏してみたいという欲求がくすぶっていた。当時所有していたのは6st Electric Guitar とナイロン弦のガットギター、それにアンプとマイクだけ。そんなシンプルな楽器構成でもよいから、今度はひとりで気ままに重ね録りしてみようと思い立った。さっそく友人からリズムボックスを借りてきてテープに重ね録りしていく。防音設備などない自宅部屋なので、外からの犬の鳴き声なんかが入ってしまうこともあったけど、アナログ感覚満載のなかなか楽しい作業だった。ただひとつだけ残念なことは、デッキの回転速度が狂っていて録音を繰り返していくにつれ音程が少しづつ高くなってしまい、完成した時には少年のような声になってしまったこと。笑ってしまうほど初歩的なレベルではあるけれど、ミュージシャンがスタジオに籠もってアルバム作りに没頭するような疑似体験を確かにその時ぼくは味わっていたのだから、その心躍る思い出もテープには記録されているはずである。
セピア色の記憶はそのままそっと凍結しておいた方がいい。封印を解いたとたんにそれはすっかり色褪せた薄っぺらな記憶へと変質してしまうかもしれない。青臭く、恥ずかしい自分と対面する勇気はあるのか?記憶の中でフリーズさせておくのも知恵というものなのではないか。そんな風にぼくはずっと思ってきたのだが、潔くテープを捨ててしまうこともできずに6年半の年月が流れて、少しづつ心境にも変化が…。
きっかけは、知り合いがThe Bandの解散コンサートの模様を収録した映画「The Last Waltz」のDVDを持ってきてくれたことだった。1976年、カリフォルニア州サンフランシスコのウインター・ランドでの解散ライブをマーティン・スコセッシ監督の元、1978年に映画化したものだ。当時ビデオでぼくはこの映画を観たのだが、こうして見直すと改めて感慨深いものがある。何よりもバンドリーダーでギタリストのロビー・ロバートソン(Robbie Robertson )が印象的。いまではすっかり恰幅のいいオヤジになってしまったロビーも、当時はまだスリムでとてもセクシー。故人となってしまった3人のメンバーもスクリーンでは生き生きと演奏している。年を重ねるにつれ次第に狡くなり、凍結の知恵などと言い訳をしていたぼくだったが、バンドの演奏を見ていたら、青臭くたって恥ずかしくたって、生き生きとしてた頃の記憶ならいいじゃないか、と何だか「天の声」が聞こえたような気がして無性にテープを再生してみたくなってきた。
誰かまだテープデッキを持っているだろうと探してみたが、すでに処分してしまったという人ばかり。仕方なくハードオフのジャンクやネット検索して、たまにヒットしても本格的なプロ仕様ばかりでぼくが使っていた2chのシンプルな機種はまったく見当たらない。どうやらこのタイプのデッキは世間からすっかり消え去ってしまったようだ。途方に暮れていると、知人がレンタル用のオープンリール・レコーダーなら京都に専門店があると教えてくれた。さっそく、録音したテープの仕様などを連絡すると、それならこの機種で再生できるでしょうと返事があり、発送してもらうことになった。
ほどなく大きなダンボールが届き、荷解きするとずっしりと重いデッキが収まっていた。同じ状態で返送しなくてはならないので荷姿記録撮りしてから、本体を出してみるとずっしりとした重量で40kgはあるだろうか。オーディオ機器の音質は重さと比例するような気がするから、それだけで何となく安心感をおぼえてしまう。同封されていた随分丁寧な取り扱い説明書に目を通し、テープをセットする。古いテープはデッキのヘッド類をすぐに汚してしまうため、良好な音質で再生するためには「無水エタノール」をつけた綿棒でクリーニングできるよう準備しておく必要がある。レンタルした業者から事前に説明を受けていたから、前日に薬局で「無水エタノール」を購入して再生に備えた。
さて、準備OKだ。はじめにぼくが一人で自宅録音したテープを再生してみよう。ちょっと緊張しながら再生ボタンを押し込むと42年ぶりの懐かしい音が聞こえてきた。ノイズもあるし、もちろん音質はよくない。しかし想定していたほど情けない音楽でもなかったので、ほっと胸をなで下ろす。メモ書きされていたクレジットを見てもすっかり忘れていた曲もある。全15曲録音されていた。
1-Most of us are sad (Glenn Frey)
2-Take it easy (Jackson Brown)
3-introduction (Instrumental)
※44秒ほどのフィンガーピッキング奏法のアコースティックギターの演奏曲。クレジットがないので誰の曲なのか不明。
4-Reay or not (Jackson Brown)
5-Birds (Neil Young)
6-Honky Tonk Women (Jagger & Richard)
7-Love in Vain (Jagger & Richard)
8-Every Woman (Dave Mason)
9-The Long & Winding Road (Paul McCartney)
10-Is it too late ※出典不明
11-Gray Day (Instrumental)(Jesse Colin Young)
12-Star Spangled Banner (Instrumental) ※アメリカ国歌・ジミヘンのカバー
13-Starbound(J.J. Cale)
14-Rainy days and Mondays(Paul Williams)
15-Jam (Instrumental)※おそらくオリジナル
楽器はアコースティックとエレクトリックギターにベースギター。ファズなどの効果音をつける機材も使用していた。バンジョーも入っていたので誰かに貸してもらったんだろう。それからドラムス代わりのリズムボックス。キーボードやピアノはないし、弾けもしないから厚みに欠けるが、それでもシンプルな楽器構成で一応楽曲の体を成している。全曲聴き終わると、拙いながらも我ながら健闘しているじゃないかと、42年前の自分の肩をたたいてあげたい気持ちになった。誰に教わったわけではないけど、ちゃんとハモってる。厚みを感じさせるコーラスはそれなりに演奏と拮抗していて、ボーカルはつくづく音楽を形作る大切な要素なんだと実感する。もちろん出来は素人の域を出ていないし、拙いことにかわりはないのだが、自分なりに音楽を楽しもうとしている心意気は伝わってくる。うん、これなら記憶の封印もまんざら悪くないかも、と思うのだった。iPodなんかでいつでも気軽に再生できるように、デッキからICレコーダーにコピーしてmp3としてデータ保存しておいた。(たぶん滅多に聴かないだろうが…)
さて、次はいよいよライブ録音だ。会場の職員が残しておいてくれたコンサート模様を収録したテープなのだが、これはモノラルなので臨場感などまったく伝わってこない音源。しかも二部構成ですべて聴き終えるまで2時間近くかかる。
結論から言えば、この封印は解かなければよかったというのが正直な印象だった。楽器のチューニングは狂っているし、それはひどい演奏だった。素人バンドなんだから仕方ないといえば仕方ないのだが、みんな上ずっていて足が地についていない。人前で演奏するのは本当に難しいことなのだ。オリジナル曲も、はっぴいえんどや高田渡、そしてJames Taylorらからの影響を感じさせるものの、残念ながら特に印象に残るものはない。やれやれ、である。
ただ、こうしてささやかな記憶の封印を解いて明確になったことがある。それは、表現することと鑑賞することは、対照的な行為であると同時に実は互いが深いところで結びつきあい、シンクロしていたことだ。

音楽に限らず表現物は人間にさまざまな個人的豊かさをもたらせてくれる。そして、自分も一度拙いなりにでも表現してみることによって、豊かさはより強固なものとなってくれるような気がするのである。それが表現することの隠されたもうひとつの意味なのではないかと思う。 日本の情操教育は何となく実技優先の感があるが、実は表現の専門職として身を立てるのはほんの一握りの人たちにすぎない。多くの人々はその実技体験によって苦手意識が芽生えてしまい、芸術なんて自分には縁遠いものなんだと敬遠してしまう遠因ともなっている。大多数の人々にとってむしろ大切なことは、鑑賞する能力の体得ではないのか。人間を豊かにしてくれる、その芸術から享受する鑑賞力をいかに身につけるのか、それこそが情操教育の主眼とすべきテーマであったはず。

人を勇気づけ、より深い感情や情緒を育み、心に豊かさをもたらす鑑賞力を自分なりの方法で体得する。その体得プロセスの中で、一度自らも表現してみる。その同期作業によって豊かさはより深みのあるものへと変化してゆく。表現する歓び。鑑賞する歓び。それらがもたらす豊かさは、かけがえのない個人的体験だ。だからこそ、人生の最終トラックで心の豊かさをもっとも必要としている、例えばホスピスのような緩和ケア施設の隣りにこそ美術館やコンサートホールは存在すべきなのだと思う。

装幀本と装幀家近影

2014.9.01

つい先日、ある時期親しくしていた友人がこの世を去った。毎年一人づつ…。ここ数年、ぼくはこんな喪失感を味わっている。2004年にぼくがブックデザインを担当した、中沢新一さんが主宰するゾクチェン研究所通信「Sems=セム」6+7合併号の巻頭には中沢さんのこんな言葉が添えられている。

 人間はいつも「途上」にある生き物だ。
 生きているときも、夢を見ているときも、
 死を迎えたときも、
 そして死でさえ最後の終着点ではなく、
 死後の「心」は「途上」の旅を続けるのである。

だから途上の旅人となった友人、知人たちは一足先に出発しただけなんだ、と思うようにしている。きっといつか、何処かで、彼らには再会できるはず。「何だよ、待ちくたびれたぞ!」なんて懐かしい声で呼びかけてくれるに違いない。人間はたった一人ぼっちで、地球上もっとも未熟な生物としてこの世に生まれてくる。そして、現世から去るときも一人ぼっち。人間は宿命的に、個という存在から抜け出ることのない生物として綿々とせわしく明滅を繰り返している、賢治の語り出すひとつの照明にすぎないのだ。

 わたくしという現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です
 (あらゆる透明な幽霊の複合体)
 風景やみんなといっしょに
 せわしくせわしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電燈の
 ひとつの青い照明です

 (宮沢賢治『春と修羅』第一集・『序』より一部抜粋)

頼りなげに宇宙空間にぽつんと浮かぶこの星の表面に生息する無数の生命。人間はその夥しい生命群のたったひとつの生物にすぎないのに、一人ぼっちじゃなく、常に何かと結ばれているような不思議な感覚に包まれるのはなぜなんだろう。森羅万象、あらゆるものに連なっている自分という存在。そのことをもっとも分かりやすいかたちで認識させてくれるのが、友の存在だ。後天的な条件下でまったく偶然出会った人々の中から選び、選ばれし、縁(えにし)の結び目。そして、結んでは、また解されいく友情という名の結び目がある。では残り少なくなった、ぼくの結び目の話をしよう。
芦澤泰偉くんと初めて出会ったのは、ぼくが19歳になって間もない頃だった。初めて上京し、入所した美術研究所にすでに彼は在籍していてすぐにぼくらは親しくなったのだ。泰偉は「やすひで」でなく「たいい」がしっくりくるため、ぼくは40年以上、二つ年上の彼を「あしざわ たいい くん」と呼びタメしてきたが、静岡の温暖な風土で育った大らかな彼は、それを嫌な顔ひとつせずに許してきてくれた。彼の長所のひとつは、その人懐こさだ。どんな人の懐にも猫が甘えるように潜り込んでいける才能をもっている。そんなことを言えば「俺にも選択する権利くらいある」と彼は反論するだろうが、だいがいの人はその人懐こさに思わず心を開く。誰にでも備わっている能力ではない。
芦澤くんは肩まで届くような長髪をなびかせ、足より細いブラックジーンズを穿いて、パイプを咥え、いつもセカセカした様子で所内を歩き回っていた。この頃の彼の描くデッサンやクロッキーには、独特な彼らしいクセのようなものが反映されていた。何でもこの研究所に来る前には、芸大・美大受験予備校の名門を呼ばれていた「すいどーばた美術学院」にいて、コンクールで1位をとったこともある強者だったそうだ。この「すいどーばた美術学院」は美大受験予備校の大御所で、受験生数も日本一だったから、ここで1位をとることは当時の受験生にとっては大きなステイタスだった。
彼のデッサンには極めた画風のもつ、そんなある種風格のようなものが漂っていた。意識的に力を抜いた部分と濃密な部分を巧妙に対比させる手管をすでに彼は熟知している風だった。その後、装幀家、芦澤泰偉として名を成すまでになったわけだが、面白いもので、あの頃のデッサンのクセはしっかりと彼の書籍デザインにも反映されている。当時の彼を知るぼくにはそのことがよく分かる。本人が意識することもなく結果として自然に滲み出してきてしまうような、こうしたクセを「個性」と呼ぶなら、彼の装幀は十分に個性的なのである。
1日15時間近く「描く」という行為に充てる日々を過ごしていたあの頃、表通りでは学生運動によるデモの嵐が吹き荒れていた。もちろん時代に渦巻くイデオロギー運動からぼくらも無縁ではいられなかったけれど、少なくともあの真空地帯のような研究所にいる間は、「描くという行為」にぼくらは集中することができたのだった。その「描く」ことの優先順位はいささかも揺らぐものではなかったが、同時に表現というものの有り様が大きく変わりつつあるという予感に包まれはじめてもいた。1969年という時代にはそんな空気感が漂っていた。
実技修練のあと、今度は思考修練だとばかりに、夜通し研究所で行われる美術談義や思想的討論に耳を傾け、ときには恐る恐る発言したりして、アパートに戻らずにほぼ連日徹夜していたぼくらは、夜が明けると腫れぼったい目をして隣りにある新橋日石ビルに移動する。このビルの地下には格安で朝食セットが食べられるレストランがあって、仕送りで細々と貧乏暮らししていたぼくらはここの常連となっていた。腹ごしらえした次に向かうのは、銀座にある格安サウナ。得体の知れない朝帰りの怪しいオヤジたちに囲まれて汗を流したぼくらは湯船に浅く浸かり、寝そべってしばらくウトウトして過ごす。それからまだ寝足りないボーッとした頭のまま、午前中デッサン実技が予定されている研究所までトボトボと歩いて戻っていくのだが、信号待ちの間に立ったまま眠ってしまったり、我慢出来ずに通り道にある日比谷公園のベンチに座ってひと眠りしたりしたことも度々あった。あるときは芦澤くんが眠ったままベンチから転げ落ち、丁度通りかかった観光客の外国人たちに笑われたことなんかも、微笑ましくも懐かしく思い出される。
結局ぼくらは揃って芸大受験に失敗し、次のステップを模索しなくてはならない時期を迎えてしまった。彼はそのまま東京に残って美術活動を模索し続け、ぼくはすべてをリセットしようと一旦郷里に戻ることを選択した。こうしてわずか2年足らずの青く濃密な時間を共に過ごしたぼくらは離ればなれとなるのだが、この頃の芦澤くんから送られてきた手紙が残っていた。酔いにまかせて書き綴った数枚の便箋には、励ましと諫めと友愛の心情が熱く綴られていた。
「小林は油絵をかく人間ではないし、デザイナーとか音楽家とか詩人だと思う。」
とすでに彼は今のぼくを予見していた。それから手紙ではこんな誘いも。
「一緒に米国の大学へでも行こうと思うがどうだ。州立大学の美術部だったら14万ぐらいの入学金ですむし、今年一緒に会話をならったら来年の秋には渡米できると思うぞ。…中略…そして、4、5年たったら一緒に俺の親戚のインテリア会社に入ろうと思うがどうだ。精神的に俺と小林はホモだと思う。小林は美少年だと思っている。」
当時の彼から見たら、ぼくは都落ちした友人。そのくせプライドは恐ろしく高く、繊細過ぎる。このままではあいつは駄目になってしまう。これだけは言っておかなくては、という切迫感が手紙からは伝わってくる。あれから40年も経ってこの手紙を改めて読み返してみると、当時の若者たちを席巻していたぶっきらぼうな左翼的物言いをまとってはいるが、彼の優しさにぼくは遅まきながらやっと気づくのだった。
こうしてぼくらは美術を志す二十歳前後に出会ったのだが、その数年後日本にも上陸してきた、1960年代から1970年代にかけての世界的前衛芸術運動「概念芸術」の出現によって、その運動に失望したぼくと、逆に活動に身を投じることを決意した彼とは、いったんそこで別々な道を歩むことになったかにみえた。芸大受験に失敗したこと、そのことが逆にお互いの人生に意味をもたらしていけるような生き方を目指して…。ぼくは都落ちして以来、それからずっと郷里の山梨での暮らしを続け、気づくといつしかデザイン活動を開始していた。ところがその後、芦澤くんも編集者・松岡正剛氏が中心となって設立された「工作舎」に出入りして雑誌『遊』のブックデザインなどしていることを人伝に知った。以来、デザイン会社に籍を置いて本格的にデザイナーとして活動をはじめた彼とぼくは、奇しくもまた共に、デザイナーとして同時代を別々な場所で歩みはじめたのである。
ぼくはジャンルを横断するようなグラフィックデザイナーになりたいと考え、幅広い活動を意識してきたが、50代以降はブランディングの仕事が増えはじめ、パッケージデザインが仕事の中心となってきた。一方、芦澤くんは30代からブックデザインを仕事の中軸に据え、一貫して装幀家として活動してきた。彼の仕事量は凄まじいもので、文庫・新書・単行本など手掛けた装幀は約9000冊にのぼるとゲスト出演していた「西部 邁ゼミナール」で語っていた。確かに彼は研究生時代から書籍フェチな傾向が強かったから、装幀家へと至る道は必然だったのかもしれない。
それからぼくらが身を固める前後の交流や、ぼくが会社を立ち上げた際のお披露目パーティに駆けつけてくれたりと、人生の節目節目で互いの岐路を確認し合うような程よい距離感を保ちながら付き合ってきた。逗子の自宅から通っている彼の銀座オフィスに、ぼくは上京した折りに気が向くと顔を出すこともあって、食事をともにしたり、行きつけのバーに誘ってくれたこともあった。しかし1時間もすると、いつも彼は唯の酔っぱらいおじさんになってしまい、「武田節」など聴かされて終電に乗り遅れるなんて羽目になるものだから、下戸のぼくとしては極力酒席は避けるようにしている。
彼の装幀はスタイルを押しつけてくるようなタイプの意匠ではない。あくまでもその発想の出発点は、著者の世界に定められている。ところが、思想から言葉、言葉から文字、文字から形へと、イメージをデフォルメさせていくプロセスで、実に彼特有の日本的佇まいをもつビジュアルが生み出されてくるのだ。ぼくは彼の装幀した書籍を眺めるたびに、研究生時代に彼が描いていたクロッキーを思い出す。描き込みと省略のバランス感やクセ、そして呼吸のようなものがまったく変わっていないのだ。ぼくらは好むと好まざるとに関わらず、等しくモダニズムの洗礼をうけている。そして、それを意識的に組み込んだり、壊したりしながら時代と切り結ぼうと試みる。
芦澤くんは口癖のように冗談めかして「俺は右翼だから」と言ったりするが、ぼくはそれを日本人であることを深く自覚しながらモダニズムと向き合おうとする彼の決意表明だと解釈している。あるいは、それは日本固有の文学的風景を希求する視覚化への途上の旅と言い換えてもいいのかもしれない。一見、実にフレキシブルに、そして自在に浮遊しているかのように見える芦澤泰偉の造本群は、粘度の高い古(いにしえ)への郷愁によって連結されているようにみえてくるのだ。この一点は実に頑強に貫かれていて、彼の表現を根本から支えている。その彼のまなざしの遙か先にあるのは一体どんな風景なのか。郷里の原風景か、はたまた学生時代に吸収した幾多の物語が見せてくれた文学的光景か。長じてから集積した旅の風景も折り重なっているのかもしれない。
ぼくらは会えば、いつもたわい無い馬鹿話に終始する。しかもそれは以前話したことも忘れたかのように、何度も飽きることなくリフレインされる。まるで向き合って真面目顔で語り合うことを避けているかのように…。「これで、いいんだ。」「これが、いいんだ。」それがぼくらの暗黙の了解。いろんな形の友がいる。いまさら親友なんて呼び合う気恥ずかしさもある。しかし、それぞれの人生の錯綜する人間関係の中で、なぜか切れることのなかった細い、実にか細い糸で結ばれた旧友という存在は、めったに会う機会なんかなくたって「一人ぼっちじゃないぞ」と、いかにもたしかに瞬き続ける、因果交流電燈のひとつの青い照明なのだ。
※月1回のペースで投稿してきた当ブログを今後は2ヶ月に1回にペースダウンいたします。

1ブロック目は、
日本のサーカスと見世物小屋イメージ。
2ブロック目は「ジンガロ」イメージスナップ。
3ブロック目は「シルク・ドゥ・ソレイユ」の
「オーヴォ (ovo)」イメージスナップ。

2014.8.01

幾時代かがありまして

茶色い戦争がありました

幾時代かがありまして

冬は疾風吹きました

幾時代かがありまして

今夜此処でのひと盛り

今夜此処でのひと盛り

サーカス小屋は高い梁

そこに一つのブランコだ

見えるともないブランコだ

頭倒(さか)さに手を垂れて

汚れた木綿の屋根のもと

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

それの近くの白い灯が

安値(やす)いリボンと息を吐き

観客様はみな鰯

咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

屋外(やがい)は真ッ暗 暗(くら)の暗(くら)

夜は劫々(こうこう)と更けまする

落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジアと

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

[中原中也『山羊の歌』より『サーカス』]

昔、街々を移動しては広場なんかにテントを張ったサーカスをよく見に行った時代があった。ぼくも子ども時分には親に手を引かれてテントに向かったものだった。記憶の中に残っている「木下サーカス」(岡山)や「キグレサーカス」(北海道)は大阪の「ポップサーカス」とともに日本三大サーカスに数えられている。それにもうひとつ、どうしても加えたいのが「シバタ大サーカス」。発祥地は新潟の新発田(しばた)市。どうやらブロガーはぼくと同世代かやや年長者と思われる地元出身者の回想ブログを見つけた。

「私も幼少の頃、弟と二人、叔母に連れられて行った記憶があります。東赤谷駅から赤谷線に乗って、新発田の御諏訪様の境内に張られた新発田サーカスを見に行きました。今でも一番鮮明に覚えている光景は、大きな円球の中でグルグルと高速で走り回るオートバイの演技です。大きな爆音と、タイヤで円球がきしむ音、逆さまになって演技者が落ちないかという恐怖感・・・・弟と二人興奮して見ていたのを覚えています。」

そう!サーカス団の人気演目のひとつだったのがこの円球の中を走るバイク曲芸。キグレサーカスにもこの花形演目が用意されていた。鰯となったぼくも呆けたように眺めた円球は、爆音とガソリンの匂いとともにいまだに生々しく鮮烈にサーカスの記憶として焼き付いている。しかし、シバタ大サーカスは1963年に解散。動物たちは当時あった月岡温泉動物園に引き取られ、団員は離散。さらに組織と一部の人々は「柴田組一家」として極道の道を歩んで行くことになった。サーカス団の中にはこうした闇の側面を抱える団も存在したのだ。もうひとつの消えてしまった「キグレサーカス」は、木暮という苗を借りた名称で札幌を拠点に1942年創業したが、2010年10月に資金繰り悪化によって営業を停止した。「ポップサーカス」は比較的若いサーカス団で、矢野サーカスに所属していた久保田将利が1996年に大阪を拠点に旗揚げした。中国雑技団など8ヶ国から招致した海外アーティストによって構成されたショーも幅広い演目に厚みを加えている。

そして「木下大サーカス」。ここは実に古い歴史をもつサーカス団で、今を遡ること明治10年、興行師である木下藤十郎が岡山市西中島に「旭座」を開設したことが起源となっている。ウィキペディアの概要によると、その後、藤十郎に見込まれた矢野唯助が木下家に婿養子入りし、明治35年に大連で曲馬団を創業、これが木下大サーカスの原点となる、とある。この100年以上の歴史を誇る「木下大サーカス」は、ロシアのボリショイサーカス、アメリカのリングリングサーカスと並んで世界3大サーカスと呼ばれているが、かれらが安定した集客力を誇っているのは、古いサーカスの運営から脱却して、演技内容、音楽、照明といった演出はもとより、観覧するために快適な空間づくりにまで心配りしながら極めてクオリティの高い芸術的エンターテインメントへと進化させたことがその要因となっている。

まさに栄枯盛衰。テーマパークの王者として君臨しているディズニーランドユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)といったエンターテインメントの新たな潮流に呑み込まれ消え去ってしまったサーカス団もあれば、そしてかろうじて生き残ったサーカス団もある。

さて、昔からサーカスといえば、ジンタの響きとともにどこかもの悲しいイメージが付きまとう。

♪♪♪

ブンチャッチャ ブンチャッチャ

空にさえずる 鳥の声

峰より落つる 滝の音

大波小波 とうとうと

響き絶やせぬ 海の音

♪♪♪

これはジンタの楽隊曲で「美しき天然」という曲歌の一節だが、こうした昭和40年代くらいまで街中に流れていたジンタの音色を、少年だったぼくもポンプを手のひらに握って緑色のゴムの蛙を泳がせながら耳を傾けていたものだった。ジンタとはヂンタともいわれる演奏を模した擬声語で、「市中音楽隊」の愛称だ。明治、大正に行進曲、ポルカ、ワルツ等を演奏していたジンタは、大正時代の末に次第に衰退していき、チンドン屋などに取って代わられながら昭和に入ると消滅したが、ぼくの記憶にはその哀調をおびた節回しと音色が残像のようにまだ漂っている。そしてそのジンタの先にはサーカスのテントが張られ、打ち立てられた旗を揚々と風になびかせていたのである。

サーカスのもの悲しさは、大道芸から見世物小屋にまで遡る。大道芸は室町時代の絵巻にも登場するほど日本でも来歴も古く、江戸時代には浅草の見世物や手品(てづま)、新潟地方の瞽女(ごぜ)、津軽地方のボサマ、その他放浪芸など、日本でも盛んに演じられていたといういわゆる乞食芸であったが、その後大道芸は多様な発展を見せながら、ジャグリングやマジック、アクロバット、パントマイム、ウォーキングアクト、スタチュー、ストリートダンスなどを飲み込みながら街角のエンターテイメントへと統合されてきた。最近日本では「大道芸ワールドカップ」などの大型大道芸イベントも開催されるほどの認知度を獲得している一大ジャンルとして、ディズニーランドなどメジャーカルチャーとも拮抗してきている。どのジャンルにもサブカルチャーが存在するのはとても健全なことだと思う。

「さァてお立ち合い。ご用とお急ぎのない方は…」寅さんが生業としていた香具師芸だって大道芸のひとつ。人集めの手段となる啖呵口上が見物人の笑いを誘いながら物売りへと巧妙に誘っていく大衆芸だ。昭和末期に現存する口上名人の香具師、久保田尚氏(故人)の「続・大道芸口上集」がかつて発刊され、さっそくぼくもその奥義を垣間見ようと本を開いたことがある。香具師の大道芸とは、その時どきの場所、客種、人情によって各人各種に口上、演出を変化させた自然流の無数の大道芸人たちの個人技集積体の別称でもあったのだ。

江戸後期には300軒を数えたという見世物を、残念ながらぼくは一度も見たことはないが、昭和50年代までは衰退しながらも見世物小屋はまだ神社のお祭りや縁日などでは見ることができたようだ。(現存する見世物小屋は、新宿花園神社の二の酉に小屋を立てる「大虎興業社」のみとなっている)未だに根強い人気を誇り、各地に点在する「お化け屋敷」のルーツだって、この見世物小屋なのではないだろうか。「さァ、お代は見てのお帰りだよ!」と老婆の呼び込み声が聞こえてきそうな小屋の中には牛女(足がない女性。または足の間接が逆向きになっている)、蛇女、芋虫女、山猫女、蛸女。社会福祉がまだ発達していなかった時代の奇形児など身体障害者の生活手段の一つとなっていた見世物小屋への批判から、現在ほぼ姿を消した見世物は、売られて見せ物にされた奇形児たちの仕事場というイメージがつきまとう。もちろんサーカスに奇形児は存在しないが、どこかサーカスは大道芸や見世物小屋の世界と深い場所で通底しているように感じられてならない。いたずらが過ぎると「サーカスに売っちゃうぞ」とか「サーカスに売られたら身体を柔らかくするために毎日酢を飲まされるんだぞ」とか脅かされたぼくと同世代の人は大勢いるんじゃないだろうか。

さて、もう一つのサーカスの魅力に、動物たちが繰り広げる妙技の数々がある。そもそもサーカス(circus)の語源はラテン語の円周・回転を意味する語とする説と、古代ローマの人間と猛獣の格闘の舞台となった円形競技場に由来する説があるが、いずれにしてもサーカスは動物とは切っても切れない深いかかわりをもっていた。動物曲芸でもっとも一般的なものは馬による曲馬芸。人馬一体という言葉があるが、中沢新一さんの『バルタバス革命』(「ミクロコスモスⅡ、中公文庫)にはこんな記述がある。

「人が馬を調教しているように見えるのは、ものごとの一面にすぎない。調教によって馬は人の知性にしたがって行動することを身につけるが、じつはそのとき馬は自分の肉体に人間の知性を埋め込んで、みずからハイブリッド生物に変貌していこうとしているのである。そして、人は、自分にはないすばらしい運動能力を、自分の存在の一部に組み込んで、人間の側からもハイブリッド生物への変容を、実現しようとしている。人と馬が一体となった怪物「ケンタウロス」の神話は、だからひとつの幻想ではなく、「人、馬に乗る」という革命的な事件がもたらしたことの事実を、ひとつの概念として表現しようとしたものだと言うことができる。」

「馬のサーカス」を誕生させたのは退役軍人フィリップ・アストレー。18世紀中頃、ロンドンで彼が自慢の馬術を資金稼ぎのために人々の前で披露したことにはじまる「馬のサーカス」。テントや小屋の内部に円形のアリーナがつくられ、その回りに桟敷席を設けて芸を見せる形式はこのアストレーの「円形曲馬館」を出発点としているのだそうである。これら「馬のサーカス」のほとんどは戦争の技術として発達した馬術の延長線上にあったのだが、1984年にバルタバスがジンガロを創設すると曲馬の状況は一変する。

「そこへ、バルタバスはまったく異質な思考をもち込んだのである。バルタバスは、人が馬をコントロールするのを見せるのではなく、馬の知性と人の知性が出会い、たがいに思いを語りあい、意志をかよわせて、一体となって美しい「運動する形態」をつくりだす協同作業をおこなう場所に、サーカスのアリーナを生まれ変わらせようとした。」

このフランスの騎馬舞台芸術集団「ジンガロ」は現代における「馬のサーカス」のひとつの極致といえるだろう。サーカスには馬の他にライオンや象、そして熊や虎などが登場し、火の輪くぐりや三輪車、玉乗り、自転車、縄跳び、シーソーなどを使用した芸が披露される。しかしこれらの動物曲芸は調教を基本としているため、サーカスの動物たちは自然な習性を全うすることができず、大切な自由も剥奪されているので虐待にあたると、近年では動物愛護の観点から廃止運動などが展開されている。それは虐待を伴う動物の奴隷ショーであるというのだ。こうして「動物サーカス」は今世界中で逆風にさらされているのだが、ぼくはこの傾向には捕鯨に対する一元的な批判に近いものを感じる。

ところで先日ぼくは、自身としてはほぼ半世紀ぶりとなるサーカスを見物してきた。それは、1984年にカナダ・ケベック州で設立された「シルク・ドゥ・ソレイユ(Cirque du Soleil=太陽のサーカス)」。大道芸人だった創始者ギー・ラリベルテは動物芸を一切取り入れることなく、ストリートパフォーマンスとサーカスの融合を目指した。演者としての人間を強調する「ヌーヴォー・シルク(新サーカス)」と呼ばれるシルク・ドゥ・ソレイユのショーは大道芸、サーカス、オペラとロックを4大要素として構成され、その結果、プログラムは必然的にミュージカル色の濃いものとなっていて、特に演者の衣装は多彩であり、祝祭の雰囲気を醸し出している。外注では満足できるものが作れないと、全ての衣装デザインと染色や縫製などを自社の専属スタッフが行っているそうだ。また舞台となるテントも外観はシンボルマークを配してサーカスを華麗に主張し、内部空間は観客の心地よさに配慮されているため(例えば暗い階段が乗降しやすいように各ステップの端にはLED照明が組み込まれていたり、誘導アナウンスが間断なく小さな音量で流れていて、内部の温度も一定に保たれるようコントロールされている)ここでは昔ぼくが見たサーカスのような安っぽさは見事に払拭され、これが進化した現代のサーカスなんだと実感させられる。また、おそらくコンピューター制御されていると思われる複雑な機構を持つ大規模なセットやライティングは演目と緊密に連動して、ショーの完成度をさらに高いものにしている。演奏者たちも演者のアクションに対応して演奏するから、そこには見事な一体感が生み出されている。エレクトリックギターとエレクトリックヴァイオリン、シンセサイザーキーボードと女性ヴォーカリストのパワフルなサウンドに包まれて、次々とくり出される妙技に観客は酔いしれる仕掛けだ。なによりも、こんなにも多彩な軽業を可能にする人間の身体の潜在能力に観客は圧倒され、驚かされ、感動させられる。

これまで11回もの日本公演を行い、1,200万人以上を動員しているシルク・ドゥ・ソレイユの最新作は「オーヴォ (ovo)」。生命のサイクルを象徴する『オーヴォ』は、ポルトガル語で”卵”のことで、卵をめぐる草木の下の色とりどりの生き物たちの1日をファンタジックに描いている。演者には日本人も含む東洋人も数人いたが、今回のオーヴォで日本人初となるクラウンの主役を務めるのは谷口博教さん。彼は内村航平の先輩で体操選手を目指したのちに「ウォール」という8m壁を使って行う演目のアーチストだったが、抜群の運動神経に加えてジージーという不思議な声(彼はこれを虫語と名付けている)を駆使する独特なユーモア感覚で今回の道化役の座を射止めたという。

サーカスは人間の身体に潜在的に備わった可能性を極限まで引きだし、組み合わせたり、さまざまな道具を人体と一体化させながら繰り出された信じ難い妙技で観客の視線を釘付けにしていく総合芸術だ。落下傘型テントの裏側に隠された日常へと引き戻す汚れ木綿の屋蓋(やね)は巧妙に闇に溶け込ませ、鰯となった観客のその視線の先では、人間の潜在能力を超えた新たな人間たちが自在に飛び跳ねている。観客が背負ってきた日常は、テントをくぐればたちどころに消え去り、交差する妙技が織りなす束の間の非日常空間が眼前に広がっていく。そして次第にその闇の中からサーカスの本質が姿を顕してくるのだ。闇に溶け込んだテントの屋蓋とともに、演者たちも一人、二人と視界から消えてゆく。やがて最後に残るのは、高い梁から頼りなくぶら下がるブランコ二つ。決して交わることのない二つのブランコは、夜更けの真新しい奇跡が起きるその時まで、この非日常空間でノスタルジアを乗せながら、いつまでも、いつまでも揺れている。

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

Pepper(最上段)、Nao(2番目)、
RPC-S1(3番目)、アザラシ型ロボット「パロ」(4番目)、
コドモロイド」と「オトナロイド」(5番目)、
「テレノイド」(6、7番目)、
イシグロイドと石黒教授(8番目)、
イシグロイドとジェミノイド-F(9番目)、
以下は「Hiroshi Ishiguro Laboratories」より

2014.7.02

2011年10月5日にこの世を去ったアップル社元CEOスティーブ・ジョブズ(Steven Paul “Steve” Jobs)の追悼インタビューで、盟友ソフトバンク社長の孫正義氏がジョブズの果たせなかった夢について語っていた。iMac、iPod、iPhone、iPadと立て続けに革新的商品を世に送り出してきたジョブズが究極の商品として構想していたもの、それはiRobotに他ならなかった、と孫は語る。人々の意識下に眠る欲望を直観する能力に長けていたジョブズは、コンピュータ技術を人間に融合させた究極のロボットを構想していた。そしてジョブズ亡き後、孫はジョブズのこの果たせなかった夢を引き継ぎ、新たな事業ビジョンを打ち出す決意をした。ソフトバンクは6月5日、人間の感情を理解できるヒト型ロボットの開発と、2015年2月から一般向けの販売も開始すると発表した。(本体予定価格は198,000円)もちろん、同社初となるロボット販売だ。

同種の先行商品にはsonyが1999年に発売したペットロボット「AIBO」がある。限定販売された250,000円の初代AIBOはわずか20分で売り切れるほど大人気だった。モチーフはライオンの子ども、クマイヌ、パグ犬など幾多のモデルチェンジを経て、その後価格は10万を切るまでになったが、2006年の最終モデルを最後に販売を終了した。AIBOの特徴的な機能は、各種センサーを備えて動物的な反応を可能としたこと、機嫌や成長度合いに応じた反応を示すこと、自分の判断で充電するというような自律行動が可能となっていること、さらには追加プログラムが可能となり、例えば「関西弁データ」なども提供されたことなどがあげられる。このように販売と開発を並行させながら進化を遂げたAIBOは、これまでのような受け身ではなく、自律稼働する個体として家庭に持ち込むペットロボットというジャンルを世界に先駆けて確立した初の事例となった。

AIBOから10年後に登場したこのソフトバンクのロボットはヒト型であることが大きな特徴となっている。愛称は「Pepper(ペッパー)」。高さはおよそ1,2m、体重28kg。人工知能を有し、額と口に内蔵されたカメラで相手の表情を読み取り、頭にあるマイクで声色から相手の感情も推定することができる。車輪で移動し、リチウムイオン電池で連続12時間以上稼働可能。元気ない相手を励ますような言葉をかけたり、子どもに絵本を読んであやしたり、帰宅した母親に留守中の子どもの様子を報告したりすることもできるという。

孫社長は「心を持つロボットを目指し、パソコンなみの価格で提供したい」と語っている。1台あたりの低コスト化は、高額な人工知能(AI)を単体では持たずに、インターネット上に置いて複数のロボットとの間でやりとりすることで実現。 ところでこのPepperをつくったのは、ソフトバンク子会社でロボット開発を手がけるフランスのアルデバラン・ロボティクス社。創業者のブルーノ・メゾニエCEOは、ロボット制作は鉄腕アトムを見ていた頃からの夢だったと語っているが、彼が孫社長とビジョンを共有できたことが今回のPepper誕生につながった。ロボティクス社は世界でもっとも売れている自立歩行する小型ヒューマノイドロボットとして有名なNao(ナオ)の開発会社としても知られている。Naoは主に教育現場に導入され、教育パートナーシップ・プログラムを通じて中等教育の要望に応えた教育ソリューションを提供している。Naoは生徒に情報工学の初歩を教え、抽象的概念の説明や数学の定理、物理・電子の原理解説、またメカニックを教えることにも応用されていて、12歳から18歳の生徒達のモチベーション・アップの原動力となっているそうだ。(“ユビフランスへようこそ-フランス大使館企業振興部-ユビフランス日本事務局”より)

ロボットはIT、機械、医療技術の集大成ともいわれている。先頃来日したオバマ大統領が日本科学未来館を見学した際、ホンダが開発した二足歩行の人間型ロボット「アシモ」とサッカーに興じている報道があったが、大統領はロボットに集約されるさまざまな科学技術がアメリカ人の革新力を高め、次代の産業の呼び水となる製造業振興と位置づけているようだ。(もちろん軍事用も視野に入れている)「アシモ」とボールを蹴り合ったあと、大統領が特に熱心に見ていたのはロボット「エスワン」。隣にはスーツ姿の大統領とは対照的なカジュアルなスタイルの二人の若者が立ち会っていた。エスワンを開発した中西雄飛と浦田順一である。東京大学情報システム工学研究室で助教授を務めていた彼らは世界一の二足歩行ロボットを完成させるという夢を実現させるため、2012年にヒト型ロボットベンチャー「SCHAFT(シャフト)」をスタートさせた。そして2013年、二人の発想力と高い技術力に注目したGoogleはSCHAFTを吸収し、いまや二人はシリコンバレーの一員となっている。日本にしたら知能と技術の海外流出。片や彼らにすれば、夢に向かう確かな階段を一段登ったことになる。

元々、ロボット開発は日本のお家芸だった。特に産業用の分野に関して日本は世界の最先端を走ってきた。国内でもロボットベンチャーへの期待は高まっていて、アベノミクス第三の矢として閣議決定された「日本再興戦略」の中には、「ロボット介護機器開発5ヵ年計画」が組み込まれている。政府の投資は「介護用ロボット」が中軸だが、将来的にロボット産業は日本の基幹産業へと成長する可能性があると政府は考えているようだ。その背景には近い将来日本が突入するであろう、人類がこれまで経験したことのない超高齢化社会の到来がある。すでに老人ホームやデイサービスなどいわゆる「高齢者福祉施設」で介護ロボットを導入するケースが増えている。介護用ロボットはもちろん、介助者へのサポート技術、あるいは認知症予防のためのコミュニケーションロボットや癒し系セラピーロボットなどの活用と、この分野への期待感は年々高まっている。

ぼくも車のナビで、「長時間運転しています。そろそろ休みませんか?」という女性アナウンスで呼びかけられると、あらかじめ組み込まれたものだと分かっていても、つい気持ちが和んでしまうから不思議なものだ。これがさらに感情を理解し、学習することによってよりキメ細かく個別対応する技術が確立されてくれば、人格はないと理解しているつもりでも感情移入してしまいそう。アニマル・セラピーだって遠い未来の話ではない。人の呼びかけに反応し、抱くと喜んだり、人間の五感を刺激する豊かな感情表現をするセラピーロボットは、実はすでに多くのお年寄りの心を癒している。世界一の癒し効果をあげ、すでに実用化されているというアザラシ型ロボット「パロ」などの実例をみればそのことはよく分かる。パロはアメリカでは医療機器として承認されていて、デンマークでは70%以上の地方自治体に公的に導入されていて現場で高い効果をあげているという。

心を持つロボットのビジョンを映像化したのは、故スタンリー・キューブリックの意志を継いで『A.I.』を完成させたスティーブン・スピルバーグ。2001年に発表された『A.I.』は、Artificial(人工の)Intelligence(知能または知性)の略となったタイトル通り、彼はさらに一歩踏み込んだロボットのピノキオ化をそこで試みている。しかし人間として愛されることを切望したロボットの悲哀を描いたこの作品が、興行的にもSF映画としての評価も決して芳しいものではなかったのは、ロボットと対峙する人間の醜さや矛盾点をあぶり出したにもかかわらず、不気味で不毛な印象を与えてしまったからなのだろう。

さてこうしてロボットの脳、つまり人工知能を発展させてくると、必然的に人間そっくりロボット=アンドロイドを知能の容器として求めてくることになる。しかし、人造人間やアンドロイドの定義、そして人間とアンドロイドの境界性の問題も、現時点では明確には定まってはいない。それは、人間とは、心とは、生命とは何か、といった根源的な問いかけに対して、いまだ明確な答えが示されていないからだ。人造人間は人間ソックリに行動するリアルな蝋人形にすぎないのか。それとも人格を有する新しい存在物なのか。

リアルをテーマにした美術展(高松市美術館)では落語を演じる「米朝アンドロイド」が出品されたり、日本科学未来館では常設展で3体のアンドロイドがお披露目されたりしている。子供型アンドロイド「コドモロイド」と成人女性型の「オトナロイド」、そして人間の特徴を極限までそぎ落としてデザインされた「テレノイド」の3体。「米朝アンドロイド」も含めこれらすべてのアンドロイドを総合監修したのはアンドロイド研究の第一人者といわれる石黒浩氏である。 メディアにも度々登場するこの大阪大学の石黒教授は、ジェミノイド(Geminoid)という、モデルに酷似した外見をもつアンドロイドの試作を重ねている。ジェミノイドは実在人間型ロボットを遠隔制御することによって対話機能を実現し、その開発技術を通じて人間の持つ存在感を解明しようとしている。人間と見間違うほどリアルなロボットによって「人の存在」という「従来は哲学者の思惟でのみ可能であった研究を、初めて客観的・定量的に行うことを可能にした」という。(IT media ニュースより)

石黒教授は自分をモデルにしたロボットとともに度々登場しているが、自身をロボット(イシグロイド=Geminoid HI-2)に合わせるため、自らの美容整形を試みているというから、なんとも逆転したアプローチで、これは研究というより自己同一化への飽くなき探求といえそうだ。また、石黒研究室では女性型遠隔操作型アンドロイド「ジェミノイド-F」ちゃんも公開している。モデルとなった女性はロシア人のクォーターということ以外は公表されていないが、やはりこのツーショットも双子みたいに一見するとちょっと見分けつかないくらいのそっくりさん。

ところでロボット工学の概念には「不気味の谷」という仮説があるらしい。ロボットの外見や動きが人間に似れば似るほど、ロボットに対する親しみや好感度は高まるものの、それがある点を超えるととたんに不気味になるというロボット工学者の森政弘教授が1970年に提唱した仮説だ。Wikipediaの解説によれば、対象が実際の人間とかけ離れている場合は人間的特徴の方が目立ち認識しやすいために親近感を得やすい。しかし対象がある程度「人間に近く」なってくると非人間的特徴の方が目立ってしまい、観察者に「奇妙」な感覚をいだかせる、とこの現象を説明している。これは見分けがつかなくなることへの本能的な嫌悪感なのか。それとも、人でない存在が人としてそこにいるという(ある意味で死体を連想させる)不気味さがもたらすものなのか。

スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅』(英:2001: A Space Odyssey)に登場した架空のコンピュータ「HAL 9000」は、宇宙船で反乱を起こし異常に気付いたディスカバリー号船長ボーマンによって自律機能を停止させられたが、「HAL 9000」に心の存在が感じられたのは彼が姿を持たなかったからなのだろう。SFの世界だった2001年からすでに10年以上経った現在も、いまだに工学と医療と倫理の交差点に口を開けている「不気味の谷」の謎は解明されないままだ。しかし、それぞれに深化を遂げ、遠く分離されていたロボットの「心」と「身体」は未知の一体化を目指して、ジワリジワリと日々接近しはじめている。

Upper block:
Stradivarius
Lower block:
Giuliano Carmignola
Okura Studio

2014.6.02

年を経るごとに謎が深くなることがある。とりわけ人間についてのそれは深まるばかり。

その人に出会ったのは、高校生になって部活動をはじめたときだった。3学年しかない新入まもない高校生にとって、3年生と2年生の違いは大きい。何というか3年生は長男格の先輩というか、次男格の2年生とは明らかに異なる風格を感じさせられたものだった。ところが3年生のSさんの軽さといったらどうだろう。藤子不二夫のキャラクター「ラーメン大好き小池さん」そっくりのチリチリ髪にデカ眼鏡。冗談かますのが得意で、チョークの粉をたっぷり吸った黒板拭きを教室の扉上に挟んでは、運悪く入ってきた人の白くなった頭を見ては大喜びしてるような人だった。

部活は美術部だったから、さすがにデッサン紙やキャンバスに向かっている時は神妙な顔している。でも、美術に関してはシニカルな発言しか記憶にない。彼の父親も画家で、つい2,3年前まではこの学校で美術部の顧問をしていたちょっと破天荒なキャラクターで有名な名物教師だった。「ああ、あの○○さんの息子さんね」と言われ続けて育ったであろうそのSさんは、やはり相当に当時から屈折していたと思われる。

落ち着きのないSさんは、美術部だけでなく音楽部にも掛け持ちで在籍していて、バイオリンを演奏していたらしい。ある時、ぼくはSさんが「本当は俺絵なんか描きたくなくてさ、音楽やりたいんだよね」とぼそっと呟くのを聞いたことがある。親の強い意向もあったのだろうか、その後Sさんは浪人生活を経て美術大学に進学し、卒業後は地元に戻って高校の美術教師となったことをぼくは風の便りで聞いた。

それから時は流れSさんに再会したのは、ぼくが地元でデザインをはじめていた30代前半の頃だった。当時ぼくはデザインと並行して美術への想いも捨てきれず、「セルユニオン」という現代美術のグループ活動に参加していた。活動といっても年に一回、美術館でグループ展を開催し、そのため数回集まっては準備するといった程度のゆる〜い活動だったが、ときおりSさんもこのグループの会合に顔を出し、気が向くと出品することもあった。しかし、作品の記憶は全然残っていない。精力的に制作している風もなく、相変わらず「本当はやりたくないんだけどさ」モードを振りまいていたのを覚えている。職場の移動勤務を転々とこなしながら、一応美術の周辺にいることにしようと考えていたのだろう。

特に印象に残っていることがある。それはこのSさんがある症状に悩まされていたことだった。ナルコレプシー (narcolepsy) という病名を聞いたことある人は少なくないと思う。日本では「居眠り病」といわれる睡眠障害の一種で、襲われる眠気の強さは、健康な人が48時間眠らなかったときに感じる程度だと言われている。

ナルコレプシー のSさんは、たびたび職員会議で眠ってしまい、吸いかけの煙草で書類を燃やしてしまったり、自損事故の経験も1度や2度ではなかったようだ。元よりあまり緊張感のない生活態度だったSさんなので、周りの人は「まったく困った奴だな」くらいにしか考えていなかったため、脳疾患の一種と診断されるまで、ずいぶん長い時間を要してしまったという。そういえば学生時代もよくSさんは居眠りをしていた。ここまで大きな事故や事件を起こさずに済んだのは運が良かったとしかいいようがない。ナルコレプシーは根本的な治療法が解明されていないので現在でも対症的な治療しかないが、Sさんも投薬治療で眠気水準を保つよう生活コントロールしているらしい。ちなみにこの病気を患っていた著名人には、作家の色川武大(阿佐田哲也)中島らもらがいる。

さて、こんなSさんと2年ほど前にぼくは治療に訪れていた歯科医院でバッタリと出会った。すでに悠々自適な退職生活を満喫している様子で、連日古い実家のお蔵を自分で改造しているから機会があったら遊びにくるようにと誘われた。優雅なものだね〜、とからかいながらも、教員臭さを感じさせない世離れした風情を好ましく思ったぼくは「そのうち気が向いたら見学に行きますよ」と返事する。

そのお蔵を訪れたのは、記録的な猛暑もおさまった初秋の頃だったろうか。どこから見ても土壁作りの典型的なお蔵なのだが、一歩中に足を踏み入れると、そこはSさんのワンダーランドとなっていた。そして、ぼくはそこで初めてSさんがバイオリンを製作していることを知ったのだ。見たこともない道具の数々が作業台の壁に整然と掛けられており、床には削り出した木くずが散乱している。完成したバイオリンも数台掛けられていた。聞けばすでに20年以上、教職の傍ら製作をしていたのだという。

ヴァイオリン製作学校や音楽院のヴァイオリン製作科、弦楽器製作学校や個人の製作工房など、調べてみると国内には数々のヴァイオリン製作に関するマイスターコースが用意されている。もちろん独学で挑戦する人を含めたら製作者を志す人たちはかなりの数にのぼるだろう。ヴァイオリン関連団体だって、「日本弦楽器製作者協会」とか「日本バイオリン製作研究会」とか、その種の団体がいくつもある。これまで僕が知らなかっただけのことなのだ。当然、製作者もピンキリで、レベルもさまざまであろう。しかし、あのSさんの作品は黒澤楽器店の担当者に200万以上の値をつけられたというから、すでにその腕前は素人の域をとうに超えているようだ。

楽器の評価は、その造形的な完成度と音色を総合して下されるようだが、音色は門外漢のぼくでも、完成した楽器の佇まいなら多少は感じとれるはずと息を凝らして眺めてみる。流れるような曲線で縁に埋め込められた象嵌も見事というほかはない。こんな精緻な造形品をあのSさんが作れるはずはないと、不遜な想いがその時ぼくの頭をかすめるのだった。何日も作業に費やした労作にちょっとでも気に入らない箇所があると、ためらうことなく壊してやり直すこともめずらしくないという話を聞くと、再びぼくは思うのだ。「あのSさんが…」。

Sさんは神妙な顔をしてぼくの質問に答えてくれる。バイオリンの素材は表裏違うこと。表板はモミの木の仲間スプルース。裏板や側板、ネックは楓。チェコ産の輸入材を使っていること。いろいろ異なる素材にトライする作家もいるようだけど、古今東西やはりこの組み合わせに勝る音色はないということ。ストラディバリウスも、もちろんこの組み合わせ。塗装に関するうんちくやこだわりのこと。ヴァイオリンは一部をのぞけばすべて木、塗装のニスでさえ、その原料の大半は樹からにじみ出る樹脂から作られる。着色用の樹脂としてはキリンケツ、ドラゴンズ・ブラッド、ガンボージなど、ほとんどが南方系の樹の樹脂というから実にオーガニックな産物ということになる。また楽器作りにはとにかく細かくて根気の要る作業の積み重ねが要求されること。うなずきながら、その度にぼくは心の中で繰り返す「あのSさんが…」を。

数多くの無関心、数え切れないほどの誤解。(ここにはぼくも間違いなく含まれている)しかし「ラーメン大好き小池さん」の心の奥には、誰にも気づかれることなく密かに音楽への想いが包み守られていたのだった。

気分を出すために、今ぼくはジュリアーノ・カルミニョーラ(Giuliano Carmignola)のアルバム「J.S.Bach」を聴きながら書いている。このイタリアのヴァイオリニストはNHKで放映されたヴェニス・バロック・オーケストラのコンサートで初めてみた演奏家。何しろイケメンだし、身体の一部となったようなバイオリンを、それはそれはしなやかに演奏する姿が印象的だった。ぼくはクラシックの演奏家についてはほとんど知識がないけど、カルミニョーラはイタリア人特有の大らかさを感じさせる、かなり個性の強いバイオリニストのようだ。彼の演奏についてこんな書き込みもあった。

「弓さばきが独特であることと、そこから生まれる変幻自在の音色の多様性は、数いるソリストのなかでもずば抜けております。特に驚いたのが、モーツアルトのバイオリンソナタですが、まるでモーツアルトが現代に生きている作曲家であるかのようなできたてホヤホヤ感がすごい。これぞこそカリスマだと思いました。

確かにものすごい速度で演奏しており、ときにビバルディでは、勢い余って多少音程が悪くなる場合もありますが、躍動感に魅力があり、それはそれでありかと思います。それに日本では滅多に演奏されない珍しいヴィバルディのバイオリン協奏曲もたくさんコンサートで演奏してくれるので、ヴィヴァルディがこんなに凄い作曲家だったのかと再認識させてくれたのもありがたいことです。さらに言えば、カルミニョーラの本当に良い部分は派手なアレグロ楽章ではなく、緩徐楽章にあります。特にカンタービレがイタリアの歌心を聴かせてくれます。」

演奏家の表現力を引き出す楽器の潜在能力は、才能ある楽器作りの手によって生み出される。作曲家、演奏家、楽器制作者、そして音楽を愛する人々による多層空間に音楽は住まい、音の生まれる原理と精緻な仕組みが音楽の精霊のゆりかごとなる。その大切な一角を担う楽器作りに情熱を傾け続けたSさんを駆り立てたものは一体何だったのか。 音楽は耳だけで聴きとるものではない、という人もいる。実は色の中にも、風景の中にも、言葉や物語の中にも音楽は存在する。「ラーメン大好き小池さん」に潜んでいた深い謎は、実は来るべき音楽の精霊のゆりかごだったのだ。

Upper block:
Olle Eksell
Lower block:
Raymond Savignac

2014.5.02

オーレ・エクセル(Olle Eksell)は、1918年3月22日、ダーラナ地方に生まれた。彼は愛すべきスウェーデンのイラストレーター。1946年、アメリカに留学し、ロサンジェルスのアート・スクール・カレッジ・オブ・デザインで学ぶ。帰国後はフリーランスの立場を貫きながらグラフィックデザイナーとしても、ポール・ランドらの影響を感じさせる人なつこい作風でさまざまな仕事を残し、スウェーデンデザインの基礎造りに貢献したミッドセンチュリーのデザイナーとして多くの人々に記憶されている。晩年は視力をほとんど失い、2007年、89歳で他界した。

彼の代表作と言われているのが、マゼッティの「ココアアイズ」ロゴマーク。(上から二番目の写真)これはマゼッティが品質を保証する証として1956年にロゴマーク公募した際、両目がモチーフとなったロゴマークを出品し、オーレは見事優勝を射止める。これを機に彼はマゼッティの広告全般を担う看板デザイナーとして同社の知名度アップに大きく貢献していく。マゼッティがファッツェル社(ムーミン・チョコレートで有名)に吸収された現在も、オーレの作った当時のロゴマークは変わることなくパッケージなどに継承されている。

彼のグラフィックを支えているのは、何と言ってもそのフレンドリーでウイットに富んだ作風のイラストレーション。特に鳥をモチーフとした作品が愛らしい。生涯のパートナーであるルーセル夫人によると、実はエクセルは人物を上手く描くことができなかったらしい。いつも下手くそな絵になってしまうので試しに鳥をモチーフに描いてみたら、なぜか人の特徴が上手に表現できるようになったのだとか。そういうことってあると思う。直球では全然駄目だったのに、カーブを覚えたとたん名投手となってしまったような…。

上から四番目の作品はアルファベットで描かれた鳥たち。スウェーデン語、ドイツ語、英語、フランス語の順に「鳥」という言葉が描かれている。動物に躍動的な生命感を吹き込む不思議なオーレの才能は、鳥以外にも発揮された。なかでもペンは彼が得意としたファンタジックなキャラクターのひとつだろう。ぼくはある時、ペン(鉛筆)と鳥の登場するオーレのアニメーションを見たことがある。味わい深い小品は、こんな風にはじまる。

籠に閉じ込められた鳥がいた。その鳥を可哀想に思った鉛筆は、何とか励ましたいと考える。大空を羽ばたくことの出来ない鳥を元気づけるため、一体自分に何ができるのだろうかと思案する。そこで鉛筆が思いついたのは、いろんな花々や木々を描いて鳥の周りを埋め尽くすことだった。さっそく描きあげられた花や木を見て鳥はたいそう喜び、鉛筆に感謝する。幸せな気持ちになった鳥は、今度は鉛筆のために美しい鳴き声を披露しようと考える。こうして仲良くなった彼らの楽しい日々は静かに流れていくのだが、それでも時折見せる、籠から遠くをぼんやりと眺める鳥の淋しげな表情を鉛筆は見逃がさなかった。そんな鳥の気持ちを何とかしてあげようと、鉛筆は前にも増して、来る日も来る日も一生懸命描き続ける。しかし彼らの幸福な日々はいつまでも続かない。せっせと描き続ける鉛筆は次第に短くなっていく。そしてとうとう残りわずかとなってしまった鉛筆は、最後の力を振り絞り一枚の絵を描き上げ、忽然と姿を消してしまう。そこに描かれていたのは一本の鍵だった。それは籠の扉を開く鍵。そうしてやっと扉を開けることができた鳥は、鉛筆の想いとともに勢いよく羽ばたきながら大空に消えていった。

このシンプルな物語の中には、運命や忍耐、献身や利他の心、希望や倫理感など、深淵な人生の機微がたっぷりと詰まっている。胸を熱くするファンタジックなアニメーション。

老人になっても少年の心を宿し続けたオーレは、最後まで青春のただ中を生き続けた。青春とは人生のある時期を示す言葉ではなかったのだ。たとえ老いても、瑞々しい心はいつだって青春の中に生きている。

ぼくはイラストレーションが描けないし、そんな才能もないから、オーレのようなデザイナーにはいつも憧れを抱いていた。日本には(2008.9.02のブログで取りあげた)U.G.サトーさんもいる。そのU.G.サトーさんを通じて強く意識するようになったのは、フランスのポスター作家、レーモン・サヴィニャック(Raymond Savignac)。オーレより10歳ほど年長だが、このタイプのデザイナーとしてはオーレの先輩格といえそうだ。

サヴィニャックは1907年の11月6日にパリ15区で生まれた。庶民階級だった彼は美術学校に入ることができず、工業デザインを学ぶために夜学に通う。26歳の時に憧れていたカッサンドルと初対面を果たし、その場で仕事を与えられ、同時に臨時の助手として雇ってもらうという幸運を射止めるが、ここからがサヴィニャックの長い修行時代のはじまりでもあった。

今でこそ広告を支えるメディアはTV CM、サイト、新聞や雑誌広告、DM、フライヤーと多岐にわたるが、当時の花形メディアといえば、それはポスター。彼はポスター作家として様々な試行錯誤を繰り返しながら、オリジナルのスタイルをどのように築くかという課題と向き合う日々を送っていたが、何とかスタイルを確立しはじめた頃には、彼はすでに40歳を過ぎようとしていた。そして、やっと訪れた転機は41歳の時。すでにポスター作家として活躍していたベルナール・ヴィユモと2人展覧会を開くことになり、そこに出品した「自分のお乳で石けんをつくり出す牝牛」ポスターがある人物の目にとまった。その人物は実業家ウジェーヌ・シュレール。

実はこのポスター、以前、シュレールの経営する会社の一つであるモンサヴォン社のために制作し、お蔵入りとなっていたものだった。このポスターに感動したシュレールは、すぐに原画を買い取ってポスターを印刷することにした。そして、サヴィニャックはこのモンサヴォン社のポスターをきっかけに一躍人気ポスター作家としてデビューを果たすことになる。後に自伝でサヴィニャックはこう書き記したそうだ。『わたしは41歳の時にモンサヴォン石けんの牝牛のおっぱいから生まれた』。ユーモラスで温かく、しかも力強い簡潔な視覚メッセージ。20世紀の名作ポスターである。

こうして、遅咲サヴィニャックの黄金期は1950年に幕を開け、ペリエ、ピレッリ、チンザノ、オリヴェッティ、ダンロップ、エールフランス、ティファール、ルノー、ミシュラン、ペプシなどなど、日本人にも馴染み深い企業のポスターをサヴィニャックは精力的に制作し、多くの名作を生み出した。 特に深く関わったのがボールペンで有名なビック。サヴィニャックが生みの親となったボールペン頭のキャラクター『BIC BOY』は、今や同社を代表するイメージとなっている。しかし1970年代になると、フランスにも合理的に分業制作する「代理店システム」がアメリカから入ってくるようになる。イラストの代わりに写真が多用される現代的広告制作システムだ。こうした傾向にうんざりしていたサヴィニャックは、次第に広告業界への苛立ちをつのらせていった。そしてとうとう生粋のパリジャンだった彼はノルマンディー地方に居を移し、晩年を過ごす決意をする。

依然として広告業界は代理店システムが主流であったが、サヴィニャックのような手描きポスターをフランスの人々は決して忘れることはなかった。そして彼のポスターに秘められたヒューマンパワーに可能性を託そうとした企業がとうとうあらわれた。1981年、業績不振にあえいでいたシトロエン社の広告キャンペーンポスターでサヴィニャックは劇的な復活を遂げ、フランス最高の手描きポスター作家としての評価を確立する。その後彼は生涯現役を貫き、95歳の直前までそのデッサンの手を止めることはなかったという。

ところで、サヴィニャックは日本企業ともコラボレーションしている。アートディレクター大貫卓也が手がけた豊島園のポスターシリーズ、7つのプールでブタと白クマの2種類を制作したことは記憶に新しい。また、サントリーや森永チョコレートもユーモアたっぷりのサヴィニャックの世界を愛した日本企業だった。

オーレやサヴィニャックは、いわば肉声の表現者。共に完結していることも共通点。決して彼らは分業しない。フル稼働するのは、一体化した一人の人間の頭と手だけ。そこから生み出される人間への深い愛に根ざしたユーモアは、万国共通の伝達視覚言語として生まれ変わる。より深く、心を揺さぶる力強いユーモアは、地域や世代や時代を超えて、デジタル時代のいまも力強く生き続ける。それは機知や哀感に包まれて不思議な伝達力を発揮する、永遠のイラストレーションの錬金術が生み出した宝物なのだ。