上から
・Aven Armandの地上風景
・地上風景の着色画像
・Aven Armandの鍾乳洞(2点)
・『洞窟へ』カバー
・インドネシアの洞窟に描かれた
 最古の大型動物絵画
・江ノ島岩屋洞窟のヘビの石像

2015.5.02

秘匿されたものに引き寄せられるのは人間の本能といえるだろう。洞穴を偶然発見した人間が吸い寄せられるように奥へと歩みを進めるのも、その秘匿性の吸引力に他ならない。地球上には夥しい数の洞穴(洞窟=cave; grotto; cavern)が存在し、その種類もさまざまだ。自然にできた鍾乳洞や溶岩洞、海食洞、氷河洞に雪渓洞。隧道跡などの人工洞窟もある。基本的には洞窟の奥部は完全な暗闇となるが、「青の洞窟パスタ」で有名なイタリア南部・カプリ島にある青の洞窟のように、水面からの光を浴びて洞窟全体が紺碧に染まる海食洞もある。日本でも沖縄の青の洞窟はシュノーケリング体験の人気スポットとなっている。

洞窟に引き寄せられるのはコウモリやホライモリ、ホラアナグマばかりではない。人間も古代から内部に壁画を描いたり、神仏を祭ったり、居住や貯蔵庫として活用したりと、洞窟には深い愛着を示してきた。また、洞窟は死後の世界や異なる世界への入り口と見なされたこともあり、危険が潜む洞窟には猛獣や魔物が棲むとされる怪奇伝説も誕生して、さまざまな冒険の舞台にもなってきた。

しかし近年では調査開発も進み、その神秘性は次第に薄れてきている。手軽に別世界を体感できる観光スポットとして広く公開されたり、ケイブカフェやレストラン・バーまで出現しているというから、もはや洞窟は自然が用意した侵入可能な秘匿スポットとは言えないほど、広くポピュラーな存在となってしまった感がある。

ただしそれは現実界の話。実は有史以来、大地の奥深くに封印され、生き続けてきた闇の洞窟芸術はいまだに解明し尽くされてない。インドネシアの洞窟に描かれたものが4万年以上前に制作されたものであることが2014年にNatureに報告され、これまでもっとも欧州の洞窟芸術が古いとされてきた学説を覆して、どうやら最古の洞窟画となるらしい。このアジアの洞窟絵画の特長を「natureダイジェスト」は以下のように説明している。

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測定結果から、この場所で最も古いステンシルは少なくとも3万9,900年以上前のものであることが分かった。つまり、欧州最古の手形ステンシルの最小年代を2,000年ほどさかのぼることになる。また、ナスの両端から棒状の脚が突き出たようなバビルサ(シカイノシシ)の絵(写真下から2点目)は、3万5,400年前のものと推定された。この年代は、欧州の洞窟に描かれた最古の大型動物絵画とほぼ同じだ。

手形ステンシルは、欧州のものとよく似ている。しかし動物の絵は、欧州のものとは2つの点で異なっている。1つは、描かれている動物がインドネシア現地の動物であること、もう1つは絵画様式だ。Pikeによれば、初期の欧州の絵は「指でなすりつけるように描かれている」のに対し、インドネシアの絵は「線が多く、筆で描かれているようだ」という。 こうした芸術作品がどのように発展したかについては、2つの説が考えられる。1つは、芸術作品がインドネシアで独立して生まれたとするもので、もう1つは、初期人類がアフリカを離れる時点で作品の制作能力をすでに身につけていて、それが各地に広がったとするものだ。

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最初にヨーロッパ人によって洞窟絵画が発見されたのは1879年、スペインのアルタミラ洞窟においてだったとされている。前述したアジア洞窟絵画の制作年代が明らかになるまでは、もっとも古いのはショーヴェ洞窟の絵と言われていた。そして、洞窟絵画がひとつの頂点に達したと言われたのは、あの有名なフランス、ラスコー洞窟においてである。

最上部の写真は、港千尋さんの撮ったフランスのアヴァン・アルマン(Aven Armand)の地上風景。この平穏な風景を眺めていると、平原の下に広大な洞窟空間が拡がっているなどと一体誰が想像できるだろうか。しかし、平原にポッカリと空いた入り口から降りていくと鍾乳洞の内部には、天井から落ちる水滴によって気の遠くなるような時間をかけて育った無数の円柱が立ち並ぶ別世界が拡がっている。自然現象と膨大な時間の経過によって造形されたその光景には、誰しも圧倒されることだろう。

これらの写真は港さんの著書「洞窟へ 心とイメージのアルケオロジー」のブックデザインをした際に使用したカットだ。ぼくはこの洞窟を巡る考古学的考察を展開した書籍のカバービジュアルに、洞窟内部の圧倒されるような異景でなく、あえて静謐な平原の写真を据えることで、風景の下には秘匿されたもうひとつの世界が拡がっているという、大地が密かに包み込むダイナミックな神秘を視覚的に暗示してみたいと考えた。

本書では洞窟内に人間によって残された痕跡(表現?)について、さまざまなテーマを立てて重層的考察が展開されている。なかでも興味深いのは、多くの謎に満ちたそれら表現を解釈する現代を生きるぼくらの限界性についてである。ゲーテは「わたしたちは知っていることを見る」と示唆したそうだが、逆に言えば「知らないことは見えない」ということでもある。読み取る能力をもった者にとっての自然は多種多様な痕跡に満ちていても、その能力を持っていない者は自然から何の文脈も見つけることができないということなのだ。

どうしてコンバレル洞窟には、這っていかなければ進めないような狭い洞窟の200mも奥に、赤いレーザー光をあてないと肉眼では見えないほど細かい線刻画が残されていたのか。なぜ、離れて見ることもできない狭い、きわめて鑑賞の困難な場所や条件を選んで描かれているのか。また、高い芸術的完成度を示すビゾンや馬や牛など動物の素描に重なるように、なぜ手の影の形象が残されているのか。また、これらがヨーロッパからアジア、オーストラリア大陸にいたるまで、地球全体に偏在しているのはどうしてなのか。いわゆるポジとしての手型ではなく「ネガティブ・ハンド」と命名されたネガの手型、つまり手を置いてその上から顔料を吹きかけて作られる形象の多くが、なぜその指の一部を欠いているのか。なぜ「ネガティブ・ハンド」の色のほとんどが黒と赤で占められているのか。

こうした、いかなる意図をもって残されたのかという数多くのなぜ?は、「知らないことは見えない」者にとっては依然謎のままである。そして、旧石器時代の意識から遙か遠く離れた、ぼくらの推測、考察ははたしてどのくらいその闇の芸術の謎に迫ることができるのだろうか。本書ではこうした闇の洞窟芸術にまつわる謎について、以下のように実に興味深い思考が展開されている。

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…洞窟的(グロテスク)なものに耳を傾けよう。…(中略)…それは幼年時代における心の発達と、先史時代における心の発達が交差する部分であり、今日認知考古学が探求をはじめている、心の考古学への道である。

…自由が、脳という環境、身体という環境、脳を含めた身体の外側に広がる環境という、いくつもの異なるスペースを変形してゆくプロセスとして現れ、わたしたちが「創造性」と呼んでいる現象の、さまざまな姿を形成してゆく。この過程において、自由とは運動の別名にほかならない

…その運動は、時に奇跡的に数万年の時を超えて、別の時空に生きている人間に心に運動を引き起こす。わたしがこれらの動物の姿に動きを感じ、その美しさに感動するのは、わたしの心を身体のある部分が、三万年前のままだからである。それが起きるのは、そのようにしてしか、人間が進化してこなかったからであり、その意味で洞窟芸術は永遠のポジティブ・フィールドバックだと言うことができる。したがって洞窟とは身体化された心である。心の進化の途上で起きた、ひとつの奇跡が洞窟であり、その遠い身体的記憶を、わたしたちはルロワ=グーランの指摘する宗教的イコンや、あるいは胎内巡りに垣間見ることもできるかもしれない。しかしながら、わたしたちにとってもっともよいことは、洞窟そのものが、その内部の痕跡とともに、いまも残っていることである。同様にわたしたちの身体も、三万年前の心と身体の痕跡を残したまま、こうしてまだ生き残っている。その気になりさえすれば、三万年の「運動」をまだまだ続けることができるということである。

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さて、ぼくは先頃たまたま訪れた江ノ島に洞窟があることを知り、その岩屋で洞窟巡りをしてきた。波の浸食によってできた二つの洞窟には、弘法大師が訪れた際には弁財天がその姿を現し、また源頼朝が戦勝祈願に訪れたとも言われる信仰の対象としても親しまれてきた歴史があるという。奥に進むと、とぐろを巻いたヘビの石像が置いてある。どうやらこれは「白龍」の名に因むもので、江の島に古くから伝えられている「弁天様と五頭竜伝説」を由来とするらしい。 それは、悪さばかりしてきた五頭竜が天女に結婚を申し込むが、これまでの悪行を理由に断られる。しかし五頭竜は、その美しい弁天様と一緒になりたいという想いを諦めきれない。そこで五頭竜は自分の行いを改め、弁天様と村人のために一生懸命尽して善行を施すようになり、江の島の対岸にある龍口山で弁天様と結ばれたと言い伝えられている。どうやら洞窟と竜(龍・ヘビ)とは深い縁で結ばれているらしい。そういえば、ぼくが子ども時代に遊び場としていた梅園の中にも小さな洞窟があって、懐中電灯片手に冒険と肝試しをかねて何度か潜り込んでみたことがあったのだが、そのとき最深部に鎮座していたのは、やはりとぐろを巻いたヘビの石像だった。

ヘビは大神神社や弁才天では神使いとして男性神とされる一方、豊穣神・地母神の性格として女性と見る説もある。精神分析の始祖であるフロイトは夢分析においてヘビを男根の象徴であるとした。これに対してユングは男性の夢に登場するヘビは女性であると説いているが、それはヘビの生態(無表情・忍従・執着など)から、なにかしら女性的なものを連想させるからなのか。いずれにしても、脱皮を行うヘビは、豊穣と多産と永遠の生命力の象徴となり、原始信仰では大地母神の象徴として結びつけられることが多いようだ。事実、溶岩洞窟「船津胎内」とか富士山御胎内清宏園などのように、洞窟は胎内と見立てられることも多いのだ。神話的象徴としての死と再生、豊穣、多産、そして生命力や幸運などをキーワードとして、洞窟とヘビは分かち難く結びついている。

人は昔から、自身の心の写し絵ともいえる、さまざまな心象を洞窟に投影してきた。自分の内部に広がる無意識の大地に、幾つもの洞窟が穿たれている光景を思い浮かべてみよう。その幾重にも折り込まれた、無意識の洞窟にひっそりと刻まれている身体的記憶は、たとえ自覚することはできなくても、思いもよらず突如心の中から湧き上がってきたかと思えば、あっという間に沈殿してしまったりして、感受性や創造性の原動力として休むことなく活動し続けている。洞窟巡りをしてくるたびに、そんな気がしてくるのである。

Cover & Plates
WILLIAM EGGLESTON AT ZENITH
William Eggleston

2015.3.01

夜空の雲は見えないけれど、ときおり月光の底から浮かび上がってみせては、「ぼくらは夜も漂い続けているのだよ」と不意に語りかけてきたりする。こうして白い雲は日が落ちると黒い雲になる。太古から雲は空の一部であったし、或るときは空そのものとなる。雲はブルーの画布に溶け込みながら、自在に描きだす無限の絵画でぼくらの視線を上空に誘い続ける。足元はよく見てるぼくらも、上にある世界のことは意外と多くは知ってはいない。その存在は当たり前すぎて敢えて意識することもないのだが、誕生から生を閉じるまで、浮かぶ雲は常にぼくらの記憶に寄り添って存在している。空にふんわり漂う雲を眺めていると、強ばった心が解きほぐされていくような心地よさに満たされ、静かに移動していくその一切れに己を重ねてみたりする。

空の風景は実に多彩だ。あるとき雲は切れ間から射す光と共演してドラマチックな光景を創りだし、ぼくらの視線を釘付けにしたりする。まるで天へと続く階段のようなその美しい造形に目を奪われた経験は誰しも1、2度あるはずだ。ヨーロッパでこの現象はヤコブの梯子(Jacob’s Ladder)と呼ばれている。聖書の中に出てくるヤコブの見た夢の話に由来し、梯子は天使が天から地上へと上り下りするために架けられているのだと。この現象を晩年の開高健は好んで「レンブラント光線」と言い、宮沢賢治は「光のパイプオルガン」と表現している。

この現象は「チンダル現象」の一種である「薄明光線」であると科学的には説明されている。すなわち、「おもに、光の波長程度以上の大きさの球形の粒子によって光が散乱現象を起こす「ミー散乱」によって太陽光が散乱し通路のように見える」現象であるという。「ミー散乱」は雲が白く見える一因となっているといわれるが、科学的にどうであれ、大事なことはそこに繰り広げられる幻想的な現象が、荘厳で神秘的な美しさを湛えているという事実だ。或る日、或る時、空を見上げれば、誰でもその荘厳な光景を心に焼き付け、天に向かって意識を解き放つことができるのだ。

さて、この空に漂う雲とは如何なるものなのか?惑星表面の大気中に浮かぶ水滴や氷の粒のことを雲と呼び、地上が雲に覆われると霧となる。また、雨や雪を生み出す降水現象の発生源でもある雲は、ぼくらの頭上にいつとはなしに現れては、形を変えながら気づかれることもなく通り過ぎていく。研究者によれば雲はできる形と発生する高度によって以下の10種類に分類できるのだそうだ。

エベレスト山(8,848m)より高い5,000〜13,000mの高度に発生する雲は1-巻雲(けんうん)、2-巻積雲(けんせきうん)や3-巻層雲(けんそううん)で、これらは上層雲と呼ばれている。巻雲はハケで掃いたような繊細な形状で「すじ雲」と呼ばれ、高層の空気の流れが速くなる秋によく見られる。巻積雲は秋を代表する雲形で、形が崩れやすい小石をばらまいたような形状から「うろこ雲」、「いわし雲、あるいは「さば雲」などと呼ばれている。巻層雲は「かすみ雲」や「うす雲」と呼ばれ、空を薄いベールで覆うようにできる雲。

そこからやや高度を下げると、中層雲と呼ばれる3雲形が現れてくる。4-高積雲(こうせきうん)、5-高層雲(こうそううん)、そして6-乱層雲(らんそううん)だ。ともに高度は2,000〜7,000m。高積雲は羊の群れのように見えることから「ひつじ雲」と呼ばれ、雲片が厚いため横から光が射す朝方や夕方に特に美しい姿を見せる雲。高層雲は空一面、薄灰色や乳白色に覆って空を平坦な一様色に染め上げる比較的地味な雲で「おぼろ雲」とも呼ばれている。そして乱層雲は長時間雨を降らせる「あま雲」、「ゆき雲」とも呼ばれ、暗く陰鬱な秋雨の季節の主役雲。

残る4種はともに富士山(3,776m)より下、2,000m付近に発生する雲で下層雲と呼ばれる7-積乱雲(せきらんうん)と8-積雲(せきうん)、9-層積雲(そうせきうん)と10-層雲(そううん)の4雲形。積乱雲は地上付近から13,000mの高さまで届く背の高い雲だが、分類上は下層雲となっていて、夏などにはお馴染みの雷や夕立を起こす「入道雲」と呼ばれる巨大雲。積雲は雲の代名詞とも言われる綿菓子のような雲。雲と言ったら真っ先に思い浮かぶのがこの雲形。そして曇り空を演出するのが層積雲。1年中発生し、「くもり雲」や「まだら雲」と呼ばれている。最後の層雲は一番低い所にできる雲で、小高い山などを覆うため山沿いに暮らす人々には馴染み深い雲である。(出典:自然人.net たった10種類だけの無限「雲の名前を覚えよう。」)

これら10種類の雲形はパレットに絞り出した単色の絵の具のようなものだ。各雲形は季節の気象条件にそって溶け合ったり重なり合いながら様々な模様を描きだしていく。日常の雑事に流されるぼくらはときおり手を休めては、宇宙に連なる広大なセシリアンブルーの空間に漂う雲を眺め、彼らに包み守られながら惑星の表皮(=大地)に住まう自身の存在を実感するのである。そして、眺める者の心情は上空の絵画とシンクロしながらゆるやかに移動を続け、決して静止することはない。静止することはないのだが、暫しとどまってみたいと願うことはある。そんな時、人は空にレンズを向けてシャッターを切るのだろう。

ところで雲の写真家には気象台OBが大勢いるようだ。そんなOBの一人、鈴木正一郎氏の写真展を見て雲の美しさ、形の面白さにひかれ、それが雲の写真を撮りはじめるきっかけになったという海老沢次雄さんも元は気象台職員だった。栃木県出身の海老沢さんは2000年4月から、ぼくの地元である甲府地方気象台に転勤し、精力的に山梨の雲を撮影し続けたことをぼくは新聞のコラムで知った。

「雲の写真は毎日が撮影のチャンスだが、出たとこ勝負みたいな一面がある。鈴木さんの写真集に『出た、見た、写せ』という言葉がある。これが雲の写真撮影の大事な点。だからカメラは常に離さず持ち歩いている」と話している。甲府は「四方を山に囲まれていることもありいろんな姿の積雲、積乱雲が数多く出る。夏は入道雲の宝庫、甲府の1年分は栃木の3年分に当たる」。赴任以来、海老沢さんはそんな甲府盆地の空に驚かされるばかりだったという。また、人気の雲の写真家といえば何といってもHABU氏だろう。ドラマチックな空と雲の風景はどれも印象的なものばかりだ。このように印象的な雲の情景を記録した写真集は数多くあるが、「ふつうが満ちている」雲ばかりを収めたものはめずらしい。そんな写真集を、ぼくは行きつけの写真屋さんで見せてもらった。アメリカの写真家William Eggleston(ウイリアム・エグルストン)の写真集『AT ZENITH』である。タイトルは「天頂で」とでも訳すのだろうか。さっそくぼくも購入してみる。本書についてはこんな紹介も見つけた。

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1978年ジョージアからテネシーに車で旅する途中で、ウィリアム·エグルストンは初期のインスタントカメラを使って車窓から空を撮影した。出来上がったイメージは、古典的なフレスコ画を思わせた。翌日エグルストンは地面に仰向けに寝転がって上空を撮影し続けた。セシリアン・ブルーの空とそこに浮かぶ雲。エグルストンはこのシリーズをウェッジウッド・ブルーと題し、1979年にシリーズ中15点を選び20部限定の写真集として出版する。本書『AT ZENITH』は1979年の『ウェッジウッド・ブルー』をベースにしたデザインに、33点の作品を収録。88p 33×25cm 2013 English

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淡いブルーの布貼り表紙の空押しされた枠内に一葉の空の写真が貼られている。見返しも同系の淡いブルー。ミニマルに配置された文字色も黒とブルーのみ。ホワイトフレームの中に収まった写真は、対向ページに何も印刷されていないので、見開きで邪魔されることなく1点づつ鑑賞できる贅沢なレイアウトとなっている。淡々と切り取られた空と雲の変化に、「淡泊すぎて物足りなさを感じてしまう」という購入者のレビューもあったが、ぼくはエグルストンの意図は、この単調で何気ない情景の配列にこそあるのではないかと思う。ページをくくっていくと、雲はやがて空を覆い尽くし、厚みを増して白からグレーに変化してゆき、陰鬱な表情を見せてくる。そして写真集の中心で青空はすべてグレイッシュなトーンに覆いつくされるのだが、やがてそこから僅かに光の兆候が現れ、後半に繋がれていく。ページをめくるにつれて雲の隙間から再び現れはじめる青空に読者は澄み切った希望を感じとり、やがて見慣れた情景と向き合う安堵感に浸ることになるのだ。この振幅する写真集の魅力は、vimeoの逆モーション映像(PhotoBookStore.co.uk)を見ると多少なりとも感じとれるかもしれない。

エグルストンの作品に満ちている「ふつうの情景」については、とても分かりやすい解説があった。それは「ほぼ日」の『写真がもっと好きになる 菅原一剛の写真ワークショップ』。「エグルストンの写真は“大切なふつう”で満ちている。」で、こんな風に紹介されていた。

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そんなエグルストンの写真は、たしかに時にはシニカルで、とても文学的な側面も、あるにはあるのですが、何よりも、印象的だったのは、“標準レンズ”の回にお話ししたような、おそらく世界中の誰にとっても共有できる、“大切なふつう”でいっぱいだったのです。(中略)そこには土地だとか、場所を超越した、“この世界のすがた”のすべてが写っているように感じるのです。そして今回、改めて「それって何なのだろう?」と、その理由を考えてみたのですが、その時に、ぼくが一番最初に思い出したのは、京都に住む、ある職人さんの話でした。それは、ぼくがまだ20代だった頃のある日、 取材で、京都の茶筅職人さんを訪ねたときのことでした。彼は、来る日も来る日も、あの竹で出来ている茶筅作りというとても細かい作業を続けているわけです。ぼくは、その作業を見ながら「大変だなあー」と思って、「根気のいる仕事ですね。」と声をかけたところ、その職人さんは、静かにほほえみながら、「普通はな、いろんなことをしたり、いろんなものを見た方が、いろんなことを知ったようなつもりになるもんやけど、こうやって、同じことばっかりやっていても、だからこそ、見えてくることもたくさんあるんやで」と、話してくれました。

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ひとところにいるからこそ、見えてくるものがある。忘れがちな日常に潜む大切なふつうの中に、世界全体が写ることもある。エグルストンもそんなことを考えながら仰向けに寝転がり、大空に向かってファインダーを覗いていたのかもしれないと思ったりした。

ウィリアム・エグルストンは1939年7月27日アメリカ・テネシー州メンフィス出身の75歳の存命フォトグラファー。初めてカラー写真を展覧会で発表した写真家として知られている。それまで芸術的な写真作品はモノクロで発表するもので、カラー写真は主に報道や広告で使用するものとされていた。エグルストン自身も当初は学生時代に友人より譲り受けたライカでモノクロ写真を撮っていたのだが、1976年ニューヨーク近代美術館MOMAにて開催した個展でカラー写真を発表し、カラー写真の保存に関する是非を巡って全米で論争を引き起こすこととなる。この出来事はカラー写真による表現の可能性を世に問うたエポックと位置づけられ、エグルストンは1970年代後半にアメリカで起こった写真の新しいムーヴメント「ニューカラー」の先駆者として記憶されるようになった。この論争のあと、81年にはキュレーターのサリー・オークレアがカラー写真を集めた展覧会「ザ・ニュー・カラー・フォトグラフィ」を開催して、同名の写真集を刊行している。ここに収録されたカラー写真の多くが、光の効果を印象的に用いたものであったため、過渡的に「ニュー・アメリカン・ルミニズム」という呼称が用いられたそうだ。今では美術作品としてのカラー写真は当たり前の表現方法となっているが、実はニューカラー(=New Color Photography)という運動が生み出した潮流の突端に現代の写真表現は漂っていることになる。

通常、ぼくらの網膜に映し出される光景はカラー映像として再現されているのに、モノクロをもうひとつの光景として認識するのは、まだカラー再現が不可能だった当時の写真技術史の記憶の残像によるものかもしれない。たしかにモノトーンには、光と影の関係が象徴的に濃度のみで表現されるという潔さがそこに在る。モノクロ表現が芸術的といわれる所以である。着色された写真や映像は、日頃見慣れているはずなのに、いや、だからこそ、何やら通俗的で作為的な印象すら感じてしまう。エグルストン論争の背景にもこんな心理が横たわっていたのではないだろうか。

さて、そんな人間の喧噪をよそに今日も雲は大空にのんびりと漂っている。子どもの頃一人になりたい時など、よく家の屋根に登っては、エグルストンのように寝転んでぼんやり空を眺めていたことを思い出す。大人になっても、思い立ち、野原に出かけてシートを広げて寝転んだりすることもあった。そこには分厚く横たわる時の隔たりがあるのに、心が解き放たれていく心地よさは何ひとつ変わらない。雲はどこからやってきて、どこへ行くんだろう、なんて考えながら空を横切っていく鳥をぽけっと見ていたりする。

1987年に公開されたデンマーク映画『バベットの晩餐会』パンフレットのために書かれた中沢新一さんのテキストが、『幸福の無数の断片』(河出書房新社刊)のⅠ-眼のオペラ「ただ一度だけ」に収録されている。この映画に登場する人間たちは「ずっと」と「一度だけ」のあいだを大きな振幅で生きていて、はじめからおわりまで、この映画のなかでは「一度だけ」と「ずっと」というふたつの言葉が、まるで通底音のように聞こえてくる。この映画の主役は、世にもゴージャスな晩餐会の料理なのではない。

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村人にとって、これは生涯にたった「一度だけ」の豪華な晩餐だった。そして、かつての料理長、舌と目の芸術家バベットにとっても、これが最後の晩餐となる。デンマークの小さな村で開かれたこの晩餐会は、たった「一度だけ」しか実現できないものだけに可能な、奇跡をおこすのだ。人間は「ずっと」と「一度だけ」のあいだに引き裂かれたまま、生きなければならない。でも、ここでは奇跡がおこったのだ。すばらしい料理が「ずっと」と「一度だけ」のあいだに、幸福な結婚の瞬間をつくりだしたからだ。

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いま雲が空に描き出しているのは一度だけ、生涯にたった一度だけ見ることのできる光景で、同じものは二度と見ることはできない。なのに、この心が解き放たれていく心地よさはずっと、このままずっと、いつまでも変わることがない。だから、ふたつに引き裂かれたぼくらは、たとえゴージャスな晩餐会の料理なんかなくたって、空に光が満ちてさえいたら、いつでも「ずっと」と「一度だけ」の幸福な結婚の瞬間に立ち会うことができるのだ。

写真は上からLe Corbusier、
Le Corbusier & Charlotte Perriandのツーショット。
振り返るCharlotte Perriandと
彼女自身が横たわるLC4 シェーズロング。
1941年に来日したCharlotte Perriandと
柳宗理や工芸指導所員たち。
下の2点はダイニングテーブルLC6とLIMA Chair。

2015.1.01

松家仁之のデビュー作『火山のふもと』。「大事なことは、聞き逃してしまうほど平凡な言葉で語られる」―と書評された本作には、尊敬する建築家の事務所に入所した主人公の青年が、そこで時代に左右されることなく質実で美しい建物を生みだしつづけてきた寡黙な老建築家、村井からこんなことを話しかけられるシーンがあった。

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先生のあとについて所長室に入り、すぐに手渡されたのは、背もたれのあるスタッキング・チェアのスケッチだった。 「このまえ、きみが言っていた現代図書館用のスタッキング・チェアをね、ちょっと考えてみたんだ」と先生は言う。 アルヴァ・アアルトのスタッキング・チェアやアルネ・ヤコブセンのセブン・チェアにも連なるような、積層合板を曲げてつくるタイプのアイディアだった。しかしそのかたちはどこからみても村井調で、背もたれもアームも、人のからだを受けとめる控えめなカーブを描いている。デザインは人のために仕えるものという先生の考えがはっきりと見てとれた。座面には着脱可能な革のクッションがはめこまれているのは、スタッキング機能優先で座り心地は二の次になりかねないところを解決しようとするものだろう。先生はぼくの疑問を先回りするように言った。

「家具はもっとあとになってからという井口くんの考えもわかるんだが、建築というものはトータルの計画が大事で細部はあとでいい、というものではけっしてないんだよ。もちろん井口くんもそんなことは承知のうえで言ったんだろうけどね。細部と全体は同時に成り立ってゆくものなんだ。受精卵が細胞分裂をくり返してヒトのかたちになるまでを見たことがあるかい」

先生の問いに、両生類のような胎児の顔がぽかんと思い浮かんだ。

「生物の教科書で図解されてました」

先生は頷いた。「指なんていうのは、びっくりするくらい早い段階でできあがる。胎児はその指でほっぺたを掻いたりもするんだ。開いたり閉じたり、生まれる何か月も前から指を動かしている。建築の細部というのは胎児の指と同じで、主従関係の従ではないんだよ。指は胎児が世界に触れる先端で、指で世界を知り、指が世界をつくる。椅子は指のようなものなんだ。椅子をデザインしているうちに、空間の全体が見えてくることだってある」

無意識の領域をのぞけば、人には胎児のころの記憶は残らない。でもこの指がかつて、そうして世界をさぐっていたことがあったのだ。考えて手を動かすだけでなく、手を動かすことが考えに結びつく。先生の建築の作法はその両方で成り立っている。ぼくは自分の手を開き、閉じてみた。(新潮社『火山のふもと』151〜153pより抜粋)

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「細部と全体は同時に成り立ってゆく」。これはぼくもこれまで何度か仕事をしていて実感したことだった。常に全体を俯瞰しながら、細部の造形を意識する。すると精緻な細部から、再び全体が真新しい姿を現すこともある。「いつかは一度、椅子のデザインを手掛けてみたかった」。しばしば、建築家がそんな発言をするのはそういうことだったのか、とこの一文を読んで腑に落ちたのだった。

ぼくは昔から少しばかり建築に興味を抱いていたから、必然的に家具にも無関心ではいられなかった。余裕があれば欲しい家具もたくさんあった。ただ、残念ながら家具コレクターとなるほどの情熱も経済的余裕もなかったから、所有しているのは、現在の会社を立ちあげる時にちょっと奮発して入手した家具類のみ。今回はその中の、あるテーブルと椅子にまつわる話をしてみたい。

テーブルはどことなく父性を感じさせる家具だと思う。常に不動。誰かや何かと対峙するときに、テーブルはそれを仲立ちするかのように全身をさらしながら、身じろぎもせず存在している。

必然的に、椅子は母性を感じさせる家具となる。身をあずけてしまえばその姿は見えなくなり、残るのは包み込まれる感触のみ。人が「座り心地」と表現するのは、椅子の持つ母性的感触の別称なのだと思う。

テーブルを挟んで椅子に腰掛けると、ふたつの家具の持つ視覚と触覚という異なる特性を同時に味わうことになる。家具を所有するということは、この味わいのバランスを通じて、自分の好みを表現することなのかもしれないと思ったりもする。しかし、ぼくが所有しているテーブルと椅子は、実は自分が見立てたものでなく、仕事場の設計を依頼したインテリアデザイナー、K氏の薦めによるものだった。いや、先にこの家具イメージがあり、それにあわせる形で建築物が完成していったのだ。このテーブルと椅子が収まる建物だったらこうなるだろう、と…。「細部と全体は同時に成り立ってゆく」。それがぼくの仕事場作りの現場でも進行していたのである。

テーブルは「LC6」とググるとドサッと画像の検索結果も現れる、コルビジェの定番ダイニングテーブル。BrandはCassina (カッシーナ)のCassina IXC.。脚部に(設計当時飛行機に使われていた)楕円断面の金属パイプが使用されていることで有名な、ニューヨーク近代美術館所蔵作品だ。DesignerにはLE CORBUSIER(ル・コルビュジエ)、PIERRE JEANNERET(ピエール・ジャンヌレ)、CHARLOTTE PERRIAND(シャルロット・ペリアン)の3名がクレジットされている。天板はアッシュ材パネルと15mm厚のクリアーガラスの2種が用意されているが、ぼくら(K氏とぼく)が選んだのはマットブラック塗装仕上げのスティールパイプ・フレームが際立つガラス天板タイプ。LCシリーズとはLe Corbusierの頭文字による家具作品群で、特にLC2LC3のソファはモダンファニチャーの代名詞的存在となっている。

ところで先日、BSフジで放映された「永遠のデザインを考える旅」(ル・コルビュジエ特集)を見ていたら、このLC6をデザインしたのは、実はシャルロット・ペリアンだったことをぼくは初めて知った。番組で紹介されていた彼女のラフスケッチ帳の中にLC6の研究画が残されていた。『飛行機のチューブ』をテーブルの脚に使うというとてもアバンギャルドな発想がそこには確かに描きとめられていた。スケッチは完成した図面より、そこに至るまでの葛藤が記録されていて、ペリアンという人物をリアルに浮き彫りにしている。スケッチを見ると大半のLCシリーズは彼女の手によるものではないかと思えるほど見覚えのあるデザインが数多く残されていた。

1929年、フランスの美術展覧会でペリアンが出品したスツール(後にLC9となる)を見たコルビュジエは即座にその才能を評価し、そこから長きにわたる共同活動が開始されたのだそうだ。晩年までペリアンの仕事を身近で見守り続けていた一人娘のベルネット・ペリアンさんは、印象に残るペリアンの言葉は?との質問に「扇形の目を持たねばならない」。つまり「よく見ること」という意味をこめた言葉や、「頂上まで必ず辿り着くこと。決して途中でやめない事」と山登りなどのスポーツ好きなペリアンが口癖のように語っていた言葉を紹介していた。情熱と才能溢れるペリアンは、残されているポートレートを見るととてもチャーミングな女性でもあった。コルビュジエと互いに影響を与え合い、二人が多くの作品を生み出すことができたのは、揺らぐことのない互いの信頼関係があったからだろうというのは、一人娘のご主人のコメント。ハードな構造を生み出すコルビュジエという才能と、内側にソフトな視点を持つペリアンという才能。建築を内と外から考えるその視点は、互いにかかせないものだったのである。

また、ペリアンは親日家でもあったことでも知られている。1940 年に坂倉準三の誘いで輸出工芸指導の顧問としてペリアンは日本へ招かれてから、以降数年間度々訪れている。日本の伝統的な暮らしや特有な美意識に深い感銘を受けた彼女は、自身の作品にもそうした影響を色濃く反映していった。なかでも記憶に留めておくべきことは、来日したペリアンが最も共鳴したのが柳宗悦の民藝運動だったことである。2011年に神奈川県立美術館で開催された「シャルロット・ペリアンと日本」展には彼女の手帳も公開されていて、初めて訪れた日本民藝館の印象をこのように記している。

*

「柳宗悦の民藝館を初訪問。柳邸で昼食。とてもいい環境。日本に来て初めての芸術界との出会い。また会いたい。

- 柳の自宅。美しい石製の屋根組。美しい木製の骨組み。

- 美術館では、美しい石の床張りに、藁の莚が敷かれている。

- 日本では一般的に、非常に美しい自然の素材を利用する。 下の美しい陶器の展示を見る。

- 朝鮮陶磁が展示されている一階を見る。非常に美しいフォルム。かなり自由な空想力。

- 隣には、柳の書斎がある。イギリス人芸術家のデザイン・・・。要注意。伝統と同じように美しいものを作る必要があるが、新しくても劣ったものを産み出してはならない。伝統は前進を望んでいる。より良いもの、もしくは違うものを作る必要がある。よって、物真似より、民俗芸術の方から多く学ぶことができる。」

*

多用される「美しい」という言葉は、民藝館が鮮烈な印象を彼女に残したことを物語っている。そして、私たち日本人は他者の眼から多くのことを学びとることもできるはずである。ペリアンがよく語っていたという柳宗理の回想にはこんな一文もある。

*

「あなた方は過去にあなた方の祖先たちがつくったもの、またあなたがたが作られているものをよく手にとってご覧になることがありましょう。そこにあなた方は形だけではなくて、それを使っている人々の精神や生活、あるいはその方法等の内容を学びとることができるでしょう。逆にもしヨーロッパでできたものをあなたがたがご覧になったとき、その内容をかえりみずに形だけをとったとしたらそれは根本的な誤りだと思います。日本はどうしてヨーロッパの国々からその国の純粋さと簡明さを誇る美しい伝統をまったく失ったものばかり取り入れるのでしょうか。」

*

こんな言葉を残したフランス人デザイナー・シャルロット・ペリアンのデザインによるガラステーブルLC6が今、ぼくの仕事場に鎮座している。

さて、このLC6のセットとなっているのが、Cassina IXC.のLIMA Chair。デザイナーはティト アニョーリ(TITO AGNOLI)。この椅子もMoMA(ニューヨーク近代美術館)のパーマネントコレクションとなっている。スリムな脚部によって全体感はイタリアンモダンを連想させるスタイリッシュな印象だが、座ってみると座面と背部のソフトなフィット感がすこぶる心地よい。Cassinaが扱うダイニングチェアの中でも抜群の座り心地を誇るモデルのアームレスチェアが4脚、アームチェアが1脚の組み合わせとなっている。

TITO AGNOLIは1931年ペルーのリマ生まれ。(LIMAシリーズは出生地から命名されているようだ)イタリアに移住後、バウハウスの影響と機能美を感じさせる椅子や家具作品を発表し続け、現在もイタリアを代表するデザイナーとして活躍している。何と言ってもこの椅子の特徴は、そのシャープさとブラックレザーのなめらかでソフトな質感の対照的なバランス感だろう。LC6とセットに提案される椅子は数々あるが、このLIMA Chairを組み合わせたK氏の見立ては見事というほかはない。

Cassinaはイタリアの高級家具ブランドとして名高いが、建築家やインテリアデザイナーの間では決して値引きをしないブランドとしても知られている。なのにぼくは、これらの家具を幸運にも割安で購入することができたのだ。というのも、ボスコを設立した際に、お祝い代わりにCassinaに掛け合ってくれた人物がいたからである。その人は仕事を通じてお世話になっていたゼネラルコンサルタントの泉順一氏。泉氏は浜野商品研究所のブレーンとして活躍し、マイカルや、星野リゾートが引き継ぐ前のリゾナーレ小淵沢をマリオ・ベリーニ(Mario Bellini )とともにプロデュースするなど、当時大阪でPDC (Plaza Design Consulting)を主宰していた実業家でもあるクリエイターだ。若い頃には建築家の安藤忠雄氏などとともに世界の建築を見て歩いたという、実に人間臭い大陸的なスケールを感じさせる人物だった。僅かな期間だったが、ぼくは泉氏から多くのことを教えてもらった。今となっては細部まで思い出すことは叶わないが、共に働くことの意味をこのように教えられた記憶がある。それは冒頭に引用した『火山のふもと』で、主人公が老建築家から窘められるこんなシーンだ。

*

「クライアントがいて、期日がある。建築家の仕事とはそういうものだ」

「一点の曇りもない、完璧な建築なんて存在しない。そんなものは、誰にもできはしないんだよ。いつまでもこねくりまわして相手を待たせておくほどのものが自分にあるのか。そう問いかけながら、設計すべきなんだ」

「クライアントの言いなりに、納期のために働けという意味ではもちろんない。もしクライアントから不満が出たり、変更を強いられたりしたとき、ぎりぎりでやっていたらどうなる? きみが間違えていた、ということだって起こりうるだろう?いざというときのためにも、つねに時間を見ておきなさい。そういう意味では建築は芸術じゃない。現実そのものだよ」

「設計事務所があるのは、限られた時間を人の数によって増やすためでもあるんだ。一人でやっていたら一日かかる仕事も、ふたりでやれば半日で終わる。図書館の設計なんて、私がひとりでやっていたら、五年かかっても終わらない。私がきみたちに委ねるのも、きみたちが私に委ねるのも、協働ということであって、それは徒弟とか親方とか、そういう上下関係とはべつのものだ。信頼だよ。そうでなければ、いっしょに働くことなんてできないだろう」(255pより抜粋)

*

仕事場の夕日をたっぷりと吸い込んだガラスウォール脇に据えられたLC6。その前にぼんやりと腰掛けていると、遙か彼方からゆっくりと去来してくるものがある。テーブルと椅子にまつわる物語はぼくの中で宙づりとなったまま、いまだ完結していない。コルビュジエとペリアン、そしてK氏と泉氏。彼らはもうこの世にはいないのだ。夕日は、ぼくが未だ知り得ない謎を抱えきれないほど高く積み上げ、その未完の風景を今日も茜色に染め上げている。

Sound Recording Tapes &
Open reel tape deck / TEAC A-2300S

2014.11.02

ぼくが自室で発見した古い録音テープのことについて、以前このブログ(2008.3.03)に書いたことがある。70年代に録音されたこれらのテープはオープンリール・タイプのデッキでないと再生できない。しかし、とうの昔にぼくはデッキを処分してしまい、もうそこに残されている音源を聴くことはできない。
いまならiTunesで簡単に曲の入れ替えができるから、アルバムやミュージシャンのお気に入りの曲をピックアップして自分だけのコンピレーションアルバムを用意することなんか朝飯前なんだけど、それが当時はできなかった。仕方なく、選曲順にテープに録音したり、時にはテープをカットして順番を入れ替えたり、おそろしくアナログな作業を経てやっとお気に入りのプレイリストを作ることができるのだった。こうして完成した自分だけのベストアルバムを枕元に置いたテープデッキにヘッドホーンを接続して、夜な夜な聴き入っていた。こうした懐かしい選曲集はリストがあるから、いまも残っているレコードや復刻されているCDから再現することはできるのだが、自室録音した音源や、ぼくがたった一度だけ人前で演奏したコンサートの模様などは封印されたままだった。
若気の至りとはいえ、コンサートなんて無謀なことをしたものだ。しかも二部構成のコンサートでは自作曲12曲が演奏されているではないか。テープと一緒に2つ折りのプログラムが1部見つかり、当時の記憶を辿ってみた。
1971年(昭和46年)11月22日開演。バンド名は「にゅうぶらいとぷろだくつ ろんりいはあつくらぶ ばんど」。これはもちろんビートルズのサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band)をもじったもの。文法的には随分おかしな英語だが、その意味合いは「新しく明るく製品化された孤独な奴らのクラブ・バンド」といったところか。入場料金は300円。メンバーは6名で、ぼくはSemi Acoustic Guitarと12st Guitar、そしてVocalを担当していた。
他に6st GuitarとVocalが2名、Steel Gutar、Banjo、Electric BassとViolinが各1名、そしてドラムスという構成。自作曲のタイトルを列挙してみよう。
「銀河鉄道終列車」、「子守唄」、「招待状」、「なまけもの」、「嘘」、「ラムプ」、「長い髪は雨をよそおって」、「名残り」、「結婚」、「知恵の輪」、「まず海と空」、「黒いロマンセ」。作詞は数人で分担し、ぼくは10曲作曲していた。しかし譜面もなく、メロディもまったく覚えていない。プログラムに掲載されている歌詞を1曲ピックアップしてみよう。

「知恵の輪」
黄昏が横切って
上に拡がる曇ったまなざし
あてもなく近づいて
不眠のボートは滑り出す
丸く小さく輪になって
今ボクは泳いでる
ボクをとりまく知恵の輪は
いつも決まってなかなか解けない
めぐりめぐって目を覚ます
舞い散る雪を見つめながら
あれがボクだと心に決めて
ひとつのかけらを追ったけど
幾度やってもいつも決まって
何処へともなく消えてゆく
あのことばは忘れよう
あのことは忘れよう

内証的でいかにも青臭い歌詞。同時代的に影響を受けていた「はっぴいえんど」の松本隆、稲垣足穂、高田渡などの作風を色濃く宿している。
作曲以外にもカバーが数曲含まれている。高田渡の「鉱夫の祈り」や「銭がなけりゃ」、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング(Crosby, Stills, Nash & Young=CSN&Y)のメンバーStephen Stillsの「A childrens song」、フィナーレは加川良の「伝道」だった。
いくらプログラムを眺めて記憶を辿ってみても肝心のサウンドが再現できないから、それはあくまでも懐かしくも恥ずかしい茫洋とした記憶として漂い、一向に像を結んでくれない。一つだけ確かなことは、熱に浮かされたこの出来事で、やはり自分には音楽の才能はないんだなと強く認識させられたことだった。
さて、この古いテープにはもうひとつの懐かしい思い出が残されているはず。それは自宅をスタジオ代わりにして一人で録音した音源だ。もう二度と人前で演奏するのは止めようと決心したものの、まだぼくの内部には演奏してみたいという欲求がくすぶっていた。当時所有していたのは6st Electric Guitar とナイロン弦のガットギター、それにアンプとマイクだけ。そんなシンプルな楽器構成でもよいから、今度はひとりで気ままに重ね録りしてみようと思い立った。さっそく友人からリズムボックスを借りてきてテープに重ね録りしていく。防音設備などない自宅部屋なので、外からの犬の鳴き声なんかが入ってしまうこともあったけど、アナログ感覚満載のなかなか楽しい作業だった。ただひとつだけ残念なことは、デッキの回転速度が狂っていて録音を繰り返していくにつれ音程が少しづつ高くなってしまい、完成した時には少年のような声になってしまったこと。笑ってしまうほど初歩的なレベルではあるけれど、ミュージシャンがスタジオに籠もってアルバム作りに没頭するような疑似体験を確かにその時ぼくは味わっていたのだから、その心躍る思い出もテープには記録されているはずである。
セピア色の記憶はそのままそっと凍結しておいた方がいい。封印を解いたとたんにそれはすっかり色褪せた薄っぺらな記憶へと変質してしまうかもしれない。青臭く、恥ずかしい自分と対面する勇気はあるのか?記憶の中でフリーズさせておくのも知恵というものなのではないか。そんな風にぼくはずっと思ってきたのだが、潔くテープを捨ててしまうこともできずに6年半の年月が流れて、少しづつ心境にも変化が…。
きっかけは、知り合いがThe Bandの解散コンサートの模様を収録した映画「The Last Waltz」のDVDを持ってきてくれたことだった。1976年、カリフォルニア州サンフランシスコのウインター・ランドでの解散ライブをマーティン・スコセッシ監督の元、1978年に映画化したものだ。当時ビデオでぼくはこの映画を観たのだが、こうして見直すと改めて感慨深いものがある。何よりもバンドリーダーでギタリストのロビー・ロバートソン(Robbie Robertson )が印象的。いまではすっかり恰幅のいいオヤジになってしまったロビーも、当時はまだスリムでとてもセクシー。故人となってしまった3人のメンバーもスクリーンでは生き生きと演奏している。年を重ねるにつれ次第に狡くなり、凍結の知恵などと言い訳をしていたぼくだったが、バンドの演奏を見ていたら、青臭くたって恥ずかしくたって、生き生きとしてた頃の記憶ならいいじゃないか、と何だか「天の声」が聞こえたような気がして無性にテープを再生してみたくなってきた。
誰かまだテープデッキを持っているだろうと探してみたが、すでに処分してしまったという人ばかり。仕方なくハードオフのジャンクやネット検索して、たまにヒットしても本格的なプロ仕様ばかりでぼくが使っていた2chのシンプルな機種はまったく見当たらない。どうやらこのタイプのデッキは世間からすっかり消え去ってしまったようだ。途方に暮れていると、知人がレンタル用のオープンリール・レコーダーなら京都に専門店があると教えてくれた。さっそく、録音したテープの仕様などを連絡すると、それならこの機種で再生できるでしょうと返事があり、発送してもらうことになった。
ほどなく大きなダンボールが届き、荷解きするとずっしりと重いデッキが収まっていた。同じ状態で返送しなくてはならないので荷姿記録撮りしてから、本体を出してみるとずっしりとした重量で40kgはあるだろうか。オーディオ機器の音質は重さと比例するような気がするから、それだけで何となく安心感をおぼえてしまう。同封されていた随分丁寧な取り扱い説明書に目を通し、テープをセットする。古いテープはデッキのヘッド類をすぐに汚してしまうため、良好な音質で再生するためには「無水エタノール」をつけた綿棒でクリーニングできるよう準備しておく必要がある。レンタルした業者から事前に説明を受けていたから、前日に薬局で「無水エタノール」を購入して再生に備えた。
さて、準備OKだ。はじめにぼくが一人で自宅録音したテープを再生してみよう。ちょっと緊張しながら再生ボタンを押し込むと42年ぶりの懐かしい音が聞こえてきた。ノイズもあるし、もちろん音質はよくない。しかし想定していたほど情けない音楽でもなかったので、ほっと胸をなで下ろす。メモ書きされていたクレジットを見てもすっかり忘れていた曲もある。全15曲録音されていた。
1-Most of us are sad (Glenn Frey)
2-Take it easy (Jackson Brown)
3-introduction (Instrumental)
※44秒ほどのフィンガーピッキング奏法のアコースティックギターの演奏曲。クレジットがないので誰の曲なのか不明。
4-Reay or not (Jackson Brown)
5-Birds (Neil Young)
6-Honky Tonk Women (Jagger & Richard)
7-Love in Vain (Jagger & Richard)
8-Every Woman (Dave Mason)
9-The Long & Winding Road (Paul McCartney)
10-Is it too late ※出典不明
11-Gray Day (Instrumental)(Jesse Colin Young)
12-Star Spangled Banner (Instrumental) ※アメリカ国歌・ジミヘンのカバー
13-Starbound(J.J. Cale)
14-Rainy days and Mondays(Paul Williams)
15-Jam (Instrumental)※おそらくオリジナル
楽器はアコースティックとエレクトリックギターにベースギター。ファズなどの効果音をつける機材も使用していた。バンジョーも入っていたので誰かに貸してもらったんだろう。それからドラムス代わりのリズムボックス。キーボードやピアノはないし、弾けもしないから厚みに欠けるが、それでもシンプルな楽器構成で一応楽曲の体を成している。全曲聴き終わると、拙いながらも我ながら健闘しているじゃないかと、42年前の自分の肩をたたいてあげたい気持ちになった。誰に教わったわけではないけど、ちゃんとハモってる。厚みを感じさせるコーラスはそれなりに演奏と拮抗していて、ボーカルはつくづく音楽を形作る大切な要素なんだと実感する。もちろん出来は素人の域を出ていないし、拙いことにかわりはないのだが、自分なりに音楽を楽しもうとしている心意気は伝わってくる。うん、これなら記憶の封印もまんざら悪くないかも、と思うのだった。iPodなんかでいつでも気軽に再生できるように、デッキからICレコーダーにコピーしてmp3としてデータ保存しておいた。(たぶん滅多に聴かないだろうが…)
さて、次はいよいよライブ録音だ。会場の職員が残しておいてくれたコンサート模様を収録したテープなのだが、これはモノラルなので臨場感などまったく伝わってこない音源。しかも二部構成ですべて聴き終えるまで2時間近くかかる。
結論から言えば、この封印は解かなければよかったというのが正直な印象だった。楽器のチューニングは狂っているし、それはひどい演奏だった。素人バンドなんだから仕方ないといえば仕方ないのだが、みんな上ずっていて足が地についていない。人前で演奏するのは本当に難しいことなのだ。オリジナル曲も、はっぴいえんどや高田渡、そしてJames Taylorらからの影響を感じさせるものの、残念ながら特に印象に残るものはない。やれやれ、である。
ただ、こうしてささやかな記憶の封印を解いて明確になったことがある。それは、表現することと鑑賞することは、対照的な行為であると同時に実は互いが深いところで結びつきあい、シンクロしていたことだ。

音楽に限らず表現物は人間にさまざまな個人的豊かさをもたらせてくれる。そして、自分も一度拙いなりにでも表現してみることによって、豊かさはより強固なものとなってくれるような気がするのである。それが表現することの隠されたもうひとつの意味なのではないかと思う。 日本の情操教育は何となく実技優先の感があるが、実は表現の専門職として身を立てるのはほんの一握りの人たちにすぎない。多くの人々はその実技体験によって苦手意識が芽生えてしまい、芸術なんて自分には縁遠いものなんだと敬遠してしまう遠因ともなっている。大多数の人々にとってむしろ大切なことは、鑑賞する能力の体得ではないのか。人間を豊かにしてくれる、その芸術から享受する鑑賞力をいかに身につけるのか、それこそが情操教育の主眼とすべきテーマであったはず。

人を勇気づけ、より深い感情や情緒を育み、心に豊かさをもたらす鑑賞力を自分なりの方法で体得する。その体得プロセスの中で、一度自らも表現してみる。その同期作業によって豊かさはより深みのあるものへと変化してゆく。表現する歓び。鑑賞する歓び。それらがもたらす豊かさは、かけがえのない個人的体験だ。だからこそ、人生の最終トラックで心の豊かさをもっとも必要としている、例えばホスピスのような緩和ケア施設の隣りにこそ美術館やコンサートホールは存在すべきなのだと思う。

装幀本と装幀家近影

2014.9.01

つい先日、ある時期親しくしていた友人がこの世を去った。毎年一人づつ…。ここ数年、ぼくはこんな喪失感を味わっている。2004年にぼくがブックデザインを担当した、中沢新一さんが主宰するゾクチェン研究所通信「Sems=セム」6+7合併号の巻頭には中沢さんのこんな言葉が添えられている。

 人間はいつも「途上」にある生き物だ。
 生きているときも、夢を見ているときも、
 死を迎えたときも、
 そして死でさえ最後の終着点ではなく、
 死後の「心」は「途上」の旅を続けるのである。

だから途上の旅人となった友人、知人たちは一足先に出発しただけなんだ、と思うようにしている。きっといつか、何処かで、彼らには再会できるはず。「何だよ、待ちくたびれたぞ!」なんて懐かしい声で呼びかけてくれるに違いない。人間はたった一人ぼっちで、地球上もっとも未熟な生物としてこの世に生まれてくる。そして、現世から去るときも一人ぼっち。人間は宿命的に、個という存在から抜け出ることのない生物として綿々とせわしく明滅を繰り返している、賢治の語り出すひとつの照明にすぎないのだ。

 わたくしという現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です
 (あらゆる透明な幽霊の複合体)
 風景やみんなといっしょに
 せわしくせわしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電燈の
 ひとつの青い照明です

 (宮沢賢治『春と修羅』第一集・『序』より一部抜粋)

頼りなげに宇宙空間にぽつんと浮かぶこの星の表面に生息する無数の生命。人間はその夥しい生命群のたったひとつの生物にすぎないのに、一人ぼっちじゃなく、常に何かと結ばれているような不思議な感覚に包まれるのはなぜなんだろう。森羅万象、あらゆるものに連なっている自分という存在。そのことをもっとも分かりやすいかたちで認識させてくれるのが、友の存在だ。後天的な条件下でまったく偶然出会った人々の中から選び、選ばれし、縁(えにし)の結び目。そして、結んでは、また解されいく友情という名の結び目がある。では残り少なくなった、ぼくの結び目の話をしよう。
芦澤泰偉くんと初めて出会ったのは、ぼくが19歳になって間もない頃だった。初めて上京し、入所した美術研究所にすでに彼は在籍していてすぐにぼくらは親しくなったのだ。泰偉は「やすひで」でなく「たいい」がしっくりくるため、ぼくは40年以上、二つ年上の彼を「あしざわ たいい くん」と呼びタメしてきたが、静岡の温暖な風土で育った大らかな彼は、それを嫌な顔ひとつせずに許してきてくれた。彼の長所のひとつは、その人懐こさだ。どんな人の懐にも猫が甘えるように潜り込んでいける才能をもっている。そんなことを言えば「俺にも選択する権利くらいある」と彼は反論するだろうが、だいがいの人はその人懐こさに思わず心を開く。誰にでも備わっている能力ではない。
芦澤くんは肩まで届くような長髪をなびかせ、足より細いブラックジーンズを穿いて、パイプを咥え、いつもセカセカした様子で所内を歩き回っていた。この頃の彼の描くデッサンやクロッキーには、独特な彼らしいクセのようなものが反映されていた。何でもこの研究所に来る前には、芸大・美大受験予備校の名門を呼ばれていた「すいどーばた美術学院」にいて、コンクールで1位をとったこともある強者だったそうだ。この「すいどーばた美術学院」は美大受験予備校の大御所で、受験生数も日本一だったから、ここで1位をとることは当時の受験生にとっては大きなステイタスだった。
彼のデッサンには極めた画風のもつ、そんなある種風格のようなものが漂っていた。意識的に力を抜いた部分と濃密な部分を巧妙に対比させる手管をすでに彼は熟知している風だった。その後、装幀家、芦澤泰偉として名を成すまでになったわけだが、面白いもので、あの頃のデッサンのクセはしっかりと彼の書籍デザインにも反映されている。当時の彼を知るぼくにはそのことがよく分かる。本人が意識することもなく結果として自然に滲み出してきてしまうような、こうしたクセを「個性」と呼ぶなら、彼の装幀は十分に個性的なのである。
1日15時間近く「描く」という行為に充てる日々を過ごしていたあの頃、表通りでは学生運動によるデモの嵐が吹き荒れていた。もちろん時代に渦巻くイデオロギー運動からぼくらも無縁ではいられなかったけれど、少なくともあの真空地帯のような研究所にいる間は、「描くという行為」にぼくらは集中することができたのだった。その「描く」ことの優先順位はいささかも揺らぐものではなかったが、同時に表現というものの有り様が大きく変わりつつあるという予感に包まれはじめてもいた。1969年という時代にはそんな空気感が漂っていた。
実技修練のあと、今度は思考修練だとばかりに、夜通し研究所で行われる美術談義や思想的討論に耳を傾け、ときには恐る恐る発言したりして、アパートに戻らずにほぼ連日徹夜していたぼくらは、夜が明けると腫れぼったい目をして隣りにある新橋日石ビルに移動する。このビルの地下には格安で朝食セットが食べられるレストランがあって、仕送りで細々と貧乏暮らししていたぼくらはここの常連となっていた。腹ごしらえした次に向かうのは、銀座にある格安サウナ。得体の知れない朝帰りの怪しいオヤジたちに囲まれて汗を流したぼくらは湯船に浅く浸かり、寝そべってしばらくウトウトして過ごす。それからまだ寝足りないボーッとした頭のまま、午前中デッサン実技が予定されている研究所までトボトボと歩いて戻っていくのだが、信号待ちの間に立ったまま眠ってしまったり、我慢出来ずに通り道にある日比谷公園のベンチに座ってひと眠りしたりしたことも度々あった。あるときは芦澤くんが眠ったままベンチから転げ落ち、丁度通りかかった観光客の外国人たちに笑われたことなんかも、微笑ましくも懐かしく思い出される。
結局ぼくらは揃って芸大受験に失敗し、次のステップを模索しなくてはならない時期を迎えてしまった。彼はそのまま東京に残って美術活動を模索し続け、ぼくはすべてをリセットしようと一旦郷里に戻ることを選択した。こうしてわずか2年足らずの青く濃密な時間を共に過ごしたぼくらは離ればなれとなるのだが、この頃の芦澤くんから送られてきた手紙が残っていた。酔いにまかせて書き綴った数枚の便箋には、励ましと諫めと友愛の心情が熱く綴られていた。
「小林は油絵をかく人間ではないし、デザイナーとか音楽家とか詩人だと思う。」
とすでに彼は今のぼくを予見していた。それから手紙ではこんな誘いも。
「一緒に米国の大学へでも行こうと思うがどうだ。州立大学の美術部だったら14万ぐらいの入学金ですむし、今年一緒に会話をならったら来年の秋には渡米できると思うぞ。…中略…そして、4、5年たったら一緒に俺の親戚のインテリア会社に入ろうと思うがどうだ。精神的に俺と小林はホモだと思う。小林は美少年だと思っている。」
当時の彼から見たら、ぼくは都落ちした友人。そのくせプライドは恐ろしく高く、繊細過ぎる。このままではあいつは駄目になってしまう。これだけは言っておかなくては、という切迫感が手紙からは伝わってくる。あれから40年も経ってこの手紙を改めて読み返してみると、当時の若者たちを席巻していたぶっきらぼうな左翼的物言いをまとってはいるが、彼の優しさにぼくは遅まきながらやっと気づくのだった。
こうしてぼくらは美術を志す二十歳前後に出会ったのだが、その数年後日本にも上陸してきた、1960年代から1970年代にかけての世界的前衛芸術運動「概念芸術」の出現によって、その運動に失望したぼくと、逆に活動に身を投じることを決意した彼とは、いったんそこで別々な道を歩むことになったかにみえた。芸大受験に失敗したこと、そのことが逆にお互いの人生に意味をもたらしていけるような生き方を目指して…。ぼくは都落ちして以来、それからずっと郷里の山梨での暮らしを続け、気づくといつしかデザイン活動を開始していた。ところがその後、芦澤くんも編集者・松岡正剛氏が中心となって設立された「工作舎」に出入りして雑誌『遊』のブックデザインなどしていることを人伝に知った。以来、デザイン会社に籍を置いて本格的にデザイナーとして活動をはじめた彼とぼくは、奇しくもまた共に、デザイナーとして同時代を別々な場所で歩みはじめたのである。
ぼくはジャンルを横断するようなグラフィックデザイナーになりたいと考え、幅広い活動を意識してきたが、50代以降はブランディングの仕事が増えはじめ、パッケージデザインが仕事の中心となってきた。一方、芦澤くんは30代からブックデザインを仕事の中軸に据え、一貫して装幀家として活動してきた。彼の仕事量は凄まじいもので、文庫・新書・単行本など手掛けた装幀は約9000冊にのぼるとゲスト出演していた「西部 邁ゼミナール」で語っていた。確かに彼は研究生時代から書籍フェチな傾向が強かったから、装幀家へと至る道は必然だったのかもしれない。
それからぼくらが身を固める前後の交流や、ぼくが会社を立ち上げた際のお披露目パーティに駆けつけてくれたりと、人生の節目節目で互いの岐路を確認し合うような程よい距離感を保ちながら付き合ってきた。逗子の自宅から通っている彼の銀座オフィスに、ぼくは上京した折りに気が向くと顔を出すこともあって、食事をともにしたり、行きつけのバーに誘ってくれたこともあった。しかし1時間もすると、いつも彼は唯の酔っぱらいおじさんになってしまい、「武田節」など聴かされて終電に乗り遅れるなんて羽目になるものだから、下戸のぼくとしては極力酒席は避けるようにしている。
彼の装幀はスタイルを押しつけてくるようなタイプの意匠ではない。あくまでもその発想の出発点は、著者の世界に定められている。ところが、思想から言葉、言葉から文字、文字から形へと、イメージをデフォルメさせていくプロセスで、実に彼特有の日本的佇まいをもつビジュアルが生み出されてくるのだ。ぼくは彼の装幀した書籍を眺めるたびに、研究生時代に彼が描いていたクロッキーを思い出す。描き込みと省略のバランス感やクセ、そして呼吸のようなものがまったく変わっていないのだ。ぼくらは好むと好まざるとに関わらず、等しくモダニズムの洗礼をうけている。そして、それを意識的に組み込んだり、壊したりしながら時代と切り結ぼうと試みる。
芦澤くんは口癖のように冗談めかして「俺は右翼だから」と言ったりするが、ぼくはそれを日本人であることを深く自覚しながらモダニズムと向き合おうとする彼の決意表明だと解釈している。あるいは、それは日本固有の文学的風景を希求する視覚化への途上の旅と言い換えてもいいのかもしれない。一見、実にフレキシブルに、そして自在に浮遊しているかのように見える芦澤泰偉の造本群は、粘度の高い古(いにしえ)への郷愁によって連結されているようにみえてくるのだ。この一点は実に頑強に貫かれていて、彼の表現を根本から支えている。その彼のまなざしの遙か先にあるのは一体どんな風景なのか。郷里の原風景か、はたまた学生時代に吸収した幾多の物語が見せてくれた文学的光景か。長じてから集積した旅の風景も折り重なっているのかもしれない。
ぼくらは会えば、いつもたわい無い馬鹿話に終始する。しかもそれは以前話したことも忘れたかのように、何度も飽きることなくリフレインされる。まるで向き合って真面目顔で語り合うことを避けているかのように…。「これで、いいんだ。」「これが、いいんだ。」それがぼくらの暗黙の了解。いろんな形の友がいる。いまさら親友なんて呼び合う気恥ずかしさもある。しかし、それぞれの人生の錯綜する人間関係の中で、なぜか切れることのなかった細い、実にか細い糸で結ばれた旧友という存在は、めったに会う機会なんかなくたって「一人ぼっちじゃないぞ」と、いかにもたしかに瞬き続ける、因果交流電燈のひとつの青い照明なのだ。
※月1回のペースで投稿してきた当ブログを今後は2ヶ月に1回にペースダウンいたします。

1ブロック目は、
日本のサーカスと見世物小屋イメージ。
2ブロック目は「ジンガロ」イメージスナップ。
3ブロック目は「シルク・ドゥ・ソレイユ」の
「オーヴォ (ovo)」イメージスナップ。

2014.8.01

幾時代かがありまして

茶色い戦争がありました

幾時代かがありまして

冬は疾風吹きました

幾時代かがありまして

今夜此処でのひと盛り

今夜此処でのひと盛り

サーカス小屋は高い梁

そこに一つのブランコだ

見えるともないブランコだ

頭倒(さか)さに手を垂れて

汚れた木綿の屋根のもと

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

それの近くの白い灯が

安値(やす)いリボンと息を吐き

観客様はみな鰯

咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

屋外(やがい)は真ッ暗 暗(くら)の暗(くら)

夜は劫々(こうこう)と更けまする

落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジアと

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

[中原中也『山羊の歌』より『サーカス』]

昔、街々を移動しては広場なんかにテントを張ったサーカスをよく見に行った時代があった。ぼくも子ども時分には親に手を引かれてテントに向かったものだった。記憶の中に残っている「木下サーカス」(岡山)や「キグレサーカス」(北海道)は大阪の「ポップサーカス」とともに日本三大サーカスに数えられている。それにもうひとつ、どうしても加えたいのが「シバタ大サーカス」。発祥地は新潟の新発田(しばた)市。どうやらブロガーはぼくと同世代かやや年長者と思われる地元出身者の回想ブログを見つけた。

「私も幼少の頃、弟と二人、叔母に連れられて行った記憶があります。東赤谷駅から赤谷線に乗って、新発田の御諏訪様の境内に張られた新発田サーカスを見に行きました。今でも一番鮮明に覚えている光景は、大きな円球の中でグルグルと高速で走り回るオートバイの演技です。大きな爆音と、タイヤで円球がきしむ音、逆さまになって演技者が落ちないかという恐怖感・・・・弟と二人興奮して見ていたのを覚えています。」

そう!サーカス団の人気演目のひとつだったのがこの円球の中を走るバイク曲芸。キグレサーカスにもこの花形演目が用意されていた。鰯となったぼくも呆けたように眺めた円球は、爆音とガソリンの匂いとともにいまだに生々しく鮮烈にサーカスの記憶として焼き付いている。しかし、シバタ大サーカスは1963年に解散。動物たちは当時あった月岡温泉動物園に引き取られ、団員は離散。さらに組織と一部の人々は「柴田組一家」として極道の道を歩んで行くことになった。サーカス団の中にはこうした闇の側面を抱える団も存在したのだ。もうひとつの消えてしまった「キグレサーカス」は、木暮という苗を借りた名称で札幌を拠点に1942年創業したが、2010年10月に資金繰り悪化によって営業を停止した。「ポップサーカス」は比較的若いサーカス団で、矢野サーカスに所属していた久保田将利が1996年に大阪を拠点に旗揚げした。中国雑技団など8ヶ国から招致した海外アーティストによって構成されたショーも幅広い演目に厚みを加えている。

そして「木下大サーカス」。ここは実に古い歴史をもつサーカス団で、今を遡ること明治10年、興行師である木下藤十郎が岡山市西中島に「旭座」を開設したことが起源となっている。ウィキペディアの概要によると、その後、藤十郎に見込まれた矢野唯助が木下家に婿養子入りし、明治35年に大連で曲馬団を創業、これが木下大サーカスの原点となる、とある。この100年以上の歴史を誇る「木下大サーカス」は、ロシアのボリショイサーカス、アメリカのリングリングサーカスと並んで世界3大サーカスと呼ばれているが、かれらが安定した集客力を誇っているのは、古いサーカスの運営から脱却して、演技内容、音楽、照明といった演出はもとより、観覧するために快適な空間づくりにまで心配りしながら極めてクオリティの高い芸術的エンターテインメントへと進化させたことがその要因となっている。

まさに栄枯盛衰。テーマパークの王者として君臨しているディズニーランドユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)といったエンターテインメントの新たな潮流に呑み込まれ消え去ってしまったサーカス団もあれば、そしてかろうじて生き残ったサーカス団もある。

さて、昔からサーカスといえば、ジンタの響きとともにどこかもの悲しいイメージが付きまとう。

♪♪♪

ブンチャッチャ ブンチャッチャ

空にさえずる 鳥の声

峰より落つる 滝の音

大波小波 とうとうと

響き絶やせぬ 海の音

♪♪♪

これはジンタの楽隊曲で「美しき天然」という曲歌の一節だが、こうした昭和40年代くらいまで街中に流れていたジンタの音色を、少年だったぼくもポンプを手のひらに握って緑色のゴムの蛙を泳がせながら耳を傾けていたものだった。ジンタとはヂンタともいわれる演奏を模した擬声語で、「市中音楽隊」の愛称だ。明治、大正に行進曲、ポルカ、ワルツ等を演奏していたジンタは、大正時代の末に次第に衰退していき、チンドン屋などに取って代わられながら昭和に入ると消滅したが、ぼくの記憶にはその哀調をおびた節回しと音色が残像のようにまだ漂っている。そしてそのジンタの先にはサーカスのテントが張られ、打ち立てられた旗を揚々と風になびかせていたのである。

サーカスのもの悲しさは、大道芸から見世物小屋にまで遡る。大道芸は室町時代の絵巻にも登場するほど日本でも来歴も古く、江戸時代には浅草の見世物や手品(てづま)、新潟地方の瞽女(ごぜ)、津軽地方のボサマ、その他放浪芸など、日本でも盛んに演じられていたといういわゆる乞食芸であったが、その後大道芸は多様な発展を見せながら、ジャグリングやマジック、アクロバット、パントマイム、ウォーキングアクト、スタチュー、ストリートダンスなどを飲み込みながら街角のエンターテイメントへと統合されてきた。最近日本では「大道芸ワールドカップ」などの大型大道芸イベントも開催されるほどの認知度を獲得している一大ジャンルとして、ディズニーランドなどメジャーカルチャーとも拮抗してきている。どのジャンルにもサブカルチャーが存在するのはとても健全なことだと思う。

「さァてお立ち合い。ご用とお急ぎのない方は…」寅さんが生業としていた香具師芸だって大道芸のひとつ。人集めの手段となる啖呵口上が見物人の笑いを誘いながら物売りへと巧妙に誘っていく大衆芸だ。昭和末期に現存する口上名人の香具師、久保田尚氏(故人)の「続・大道芸口上集」がかつて発刊され、さっそくぼくもその奥義を垣間見ようと本を開いたことがある。香具師の大道芸とは、その時どきの場所、客種、人情によって各人各種に口上、演出を変化させた自然流の無数の大道芸人たちの個人技集積体の別称でもあったのだ。

江戸後期には300軒を数えたという見世物を、残念ながらぼくは一度も見たことはないが、昭和50年代までは衰退しながらも見世物小屋はまだ神社のお祭りや縁日などでは見ることができたようだ。(現存する見世物小屋は、新宿花園神社の二の酉に小屋を立てる「大虎興業社」のみとなっている)未だに根強い人気を誇り、各地に点在する「お化け屋敷」のルーツだって、この見世物小屋なのではないだろうか。「さァ、お代は見てのお帰りだよ!」と老婆の呼び込み声が聞こえてきそうな小屋の中には牛女(足がない女性。または足の間接が逆向きになっている)、蛇女、芋虫女、山猫女、蛸女。社会福祉がまだ発達していなかった時代の奇形児など身体障害者の生活手段の一つとなっていた見世物小屋への批判から、現在ほぼ姿を消した見世物は、売られて見せ物にされた奇形児たちの仕事場というイメージがつきまとう。もちろんサーカスに奇形児は存在しないが、どこかサーカスは大道芸や見世物小屋の世界と深い場所で通底しているように感じられてならない。いたずらが過ぎると「サーカスに売っちゃうぞ」とか「サーカスに売られたら身体を柔らかくするために毎日酢を飲まされるんだぞ」とか脅かされたぼくと同世代の人は大勢いるんじゃないだろうか。

さて、もう一つのサーカスの魅力に、動物たちが繰り広げる妙技の数々がある。そもそもサーカス(circus)の語源はラテン語の円周・回転を意味する語とする説と、古代ローマの人間と猛獣の格闘の舞台となった円形競技場に由来する説があるが、いずれにしてもサーカスは動物とは切っても切れない深いかかわりをもっていた。動物曲芸でもっとも一般的なものは馬による曲馬芸。人馬一体という言葉があるが、中沢新一さんの『バルタバス革命』(「ミクロコスモスⅡ、中公文庫)にはこんな記述がある。

「人が馬を調教しているように見えるのは、ものごとの一面にすぎない。調教によって馬は人の知性にしたがって行動することを身につけるが、じつはそのとき馬は自分の肉体に人間の知性を埋め込んで、みずからハイブリッド生物に変貌していこうとしているのである。そして、人は、自分にはないすばらしい運動能力を、自分の存在の一部に組み込んで、人間の側からもハイブリッド生物への変容を、実現しようとしている。人と馬が一体となった怪物「ケンタウロス」の神話は、だからひとつの幻想ではなく、「人、馬に乗る」という革命的な事件がもたらしたことの事実を、ひとつの概念として表現しようとしたものだと言うことができる。」

「馬のサーカス」を誕生させたのは退役軍人フィリップ・アストレー。18世紀中頃、ロンドンで彼が自慢の馬術を資金稼ぎのために人々の前で披露したことにはじまる「馬のサーカス」。テントや小屋の内部に円形のアリーナがつくられ、その回りに桟敷席を設けて芸を見せる形式はこのアストレーの「円形曲馬館」を出発点としているのだそうである。これら「馬のサーカス」のほとんどは戦争の技術として発達した馬術の延長線上にあったのだが、1984年にバルタバスがジンガロを創設すると曲馬の状況は一変する。

「そこへ、バルタバスはまったく異質な思考をもち込んだのである。バルタバスは、人が馬をコントロールするのを見せるのではなく、馬の知性と人の知性が出会い、たがいに思いを語りあい、意志をかよわせて、一体となって美しい「運動する形態」をつくりだす協同作業をおこなう場所に、サーカスのアリーナを生まれ変わらせようとした。」

このフランスの騎馬舞台芸術集団「ジンガロ」は現代における「馬のサーカス」のひとつの極致といえるだろう。サーカスには馬の他にライオンや象、そして熊や虎などが登場し、火の輪くぐりや三輪車、玉乗り、自転車、縄跳び、シーソーなどを使用した芸が披露される。しかしこれらの動物曲芸は調教を基本としているため、サーカスの動物たちは自然な習性を全うすることができず、大切な自由も剥奪されているので虐待にあたると、近年では動物愛護の観点から廃止運動などが展開されている。それは虐待を伴う動物の奴隷ショーであるというのだ。こうして「動物サーカス」は今世界中で逆風にさらされているのだが、ぼくはこの傾向には捕鯨に対する一元的な批判に近いものを感じる。

ところで先日ぼくは、自身としてはほぼ半世紀ぶりとなるサーカスを見物してきた。それは、1984年にカナダ・ケベック州で設立された「シルク・ドゥ・ソレイユ(Cirque du Soleil=太陽のサーカス)」。大道芸人だった創始者ギー・ラリベルテは動物芸を一切取り入れることなく、ストリートパフォーマンスとサーカスの融合を目指した。演者としての人間を強調する「ヌーヴォー・シルク(新サーカス)」と呼ばれるシルク・ドゥ・ソレイユのショーは大道芸、サーカス、オペラとロックを4大要素として構成され、その結果、プログラムは必然的にミュージカル色の濃いものとなっていて、特に演者の衣装は多彩であり、祝祭の雰囲気を醸し出している。外注では満足できるものが作れないと、全ての衣装デザインと染色や縫製などを自社の専属スタッフが行っているそうだ。また舞台となるテントも外観はシンボルマークを配してサーカスを華麗に主張し、内部空間は観客の心地よさに配慮されているため(例えば暗い階段が乗降しやすいように各ステップの端にはLED照明が組み込まれていたり、誘導アナウンスが間断なく小さな音量で流れていて、内部の温度も一定に保たれるようコントロールされている)ここでは昔ぼくが見たサーカスのような安っぽさは見事に払拭され、これが進化した現代のサーカスなんだと実感させられる。また、おそらくコンピューター制御されていると思われる複雑な機構を持つ大規模なセットやライティングは演目と緊密に連動して、ショーの完成度をさらに高いものにしている。演奏者たちも演者のアクションに対応して演奏するから、そこには見事な一体感が生み出されている。エレクトリックギターとエレクトリックヴァイオリン、シンセサイザーキーボードと女性ヴォーカリストのパワフルなサウンドに包まれて、次々とくり出される妙技に観客は酔いしれる仕掛けだ。なによりも、こんなにも多彩な軽業を可能にする人間の身体の潜在能力に観客は圧倒され、驚かされ、感動させられる。

これまで11回もの日本公演を行い、1,200万人以上を動員しているシルク・ドゥ・ソレイユの最新作は「オーヴォ (ovo)」。生命のサイクルを象徴する『オーヴォ』は、ポルトガル語で”卵”のことで、卵をめぐる草木の下の色とりどりの生き物たちの1日をファンタジックに描いている。演者には日本人も含む東洋人も数人いたが、今回のオーヴォで日本人初となるクラウンの主役を務めるのは谷口博教さん。彼は内村航平の先輩で体操選手を目指したのちに「ウォール」という8m壁を使って行う演目のアーチストだったが、抜群の運動神経に加えてジージーという不思議な声(彼はこれを虫語と名付けている)を駆使する独特なユーモア感覚で今回の道化役の座を射止めたという。

サーカスは人間の身体に潜在的に備わった可能性を極限まで引きだし、組み合わせたり、さまざまな道具を人体と一体化させながら繰り出された信じ難い妙技で観客の視線を釘付けにしていく総合芸術だ。落下傘型テントの裏側に隠された日常へと引き戻す汚れ木綿の屋蓋(やね)は巧妙に闇に溶け込ませ、鰯となった観客のその視線の先では、人間の潜在能力を超えた新たな人間たちが自在に飛び跳ねている。観客が背負ってきた日常は、テントをくぐればたちどころに消え去り、交差する妙技が織りなす束の間の非日常空間が眼前に広がっていく。そして次第にその闇の中からサーカスの本質が姿を顕してくるのだ。闇に溶け込んだテントの屋蓋とともに、演者たちも一人、二人と視界から消えてゆく。やがて最後に残るのは、高い梁から頼りなくぶら下がるブランコ二つ。決して交わることのない二つのブランコは、夜更けの真新しい奇跡が起きるその時まで、この非日常空間でノスタルジアを乗せながら、いつまでも、いつまでも揺れている。

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん