上から3点
・クロード・モネが晩年過ごした家
 ジヴェルニーの建物と庭園や池
・続く2点はモネ作「睡蓮」の連作より
・その下2点は
 ガーデンデザイナー、ポール・スミザーと
 彼が監修した軽井沢絵本の森美術館の
 「Picturesque Garden」
・一番下は先日箱根で撮ったスナップで
 自然の織りなすカラフルドット

2015.11.01

樹木や草花は、ぼくらの周りに当たり前のように存在しているから、あらためて意識することもなく過ごしているが、旅行などに出かけると彼方此方に植物園や庭園が存在していて、人がいかに植物に惹きよせられ、愛でることに情熱を傾けてきたのか実感することになる。若い頃からほとんど植物には興味を示さなかったぼくも、齢を重ねるごとに少しずつその存在を意識するようになってきた。といっても、庭作りに夢中になったり、植物の名前を覚えようとするわけでもなく、ぼんやりと彼らを眺めているにすぎないのだけれど。

具体的にどの範囲までを植物とするのかその定説はまだないようだが、陸上の植物は種子植物、シダ植物、コケ植物の3群に分けられていて、水中で光合成を行う藻類は地球に誕生した最初の植物であるといわれている。一般的には植物は太陽の光を使って炭水化物を合成する光合成によって生命を維持している。そして、二酸化炭素を取り込んで酸素を供給する。だから植物は酸素のつくり手として、地球上の動物の生存に欠くことのできないかけがえのない存在でもある。巧妙な生命力をもつ植物は、群生することで過酷な環境でも生き延びてきた。群生には二つの意味があるという。まず、群生することによって風や寒さに耐えられるという利点。そしてもう一つは自らが枯れても養分となることで種を繋いでいくという循環性の利点である。

地球上に最初に生命が誕生したのは約38億年前。原核生物から真核生物、そして多細胞生物というプロセスを経て、緑藻類から進化した陸生植物が出現したのは約5億年前。それから長い時を経て、やっと人類の先祖である霊長類が出現する。これが約6500万年前のこと。植物は人類の大先輩なのである。

人と植物の関係も実に多様。植物連鎖上の栄養源としてはもちろんだが、住まいの材料としての植物は、木材やさまざまな工芸品の素材となる。また、紙やパルプの原料や木炭などのエネルギー源として、はたまた鑑賞用のガーデニングや庭園で人々を魅了し、絵画や彫刻、工芸品、特にアール・ヌーヴォーで植物は主要なモチーフとなっている。 アール・ヌーヴォーの代表的作家とされるエミール・ガレルネ・ラリックなどの工芸品は根強い人気があって、国内にも収蔵されている美術館は少なくない。作品を見ると、そのほとんどが自然界の造形物から着想を得ていることがよく分かる。さまざまな技法がそこに精緻に編み上げられ、自然界のエッセンスが暮らしを彩る幅広い工芸品に応用展開されている。それら濃密な装飾群に囲まれていると、自然美を希求する人間の情熱に圧倒されてしまうのだが、美術館の幻想的な情熱の森をくぐり抜けて館外の庭園に出ると、そこには正真正銘の自然が在って、これはやっぱり適わないや、と思ってしまう。

『睡蓮』の連作で知られる画家クロード・モネは、晩年を過ごしたパリ郊外ノルマンディー地方のジベルニー村の自宅の広大な庭園に情熱を注ぎ、創作以外のほとんどの時間を庭仕事にあてていたという。丹精こめ慈しんだ庭は、彼の創造の源であり、「生きたキャンバス」、「生きたアトリエ」とも呼ばれている。作品のモチーフとなった池や、手入れのゆき届いた素晴らしい庭園は今や観光名所となっているが、モネはこの庭を作り上げるために実は絵を描き続けていたと言われるくらい私財を注ぎ込んだそうだ。庭に3つの温室を建て、6人の庭師を雇って世界中からめずらしい植物を集めるなど、まさに絵を描くように彼が情熱を傾け作りあげた庭園は「パレットのような庭」とも「生きた美術館」とも評され、この庭こそが彼の最高傑作だったのではないかという気さえしてくる。日本では造園家や庭師のことを園丁(えんてい)といったりする。これは人に使われて働く男の意味で、使丁(小使い)、廷丁(廷吏(ていり)の旧称)、馬丁(馬の世話をすることを仕事とする人)などに類する呼び名のようだが、モネは最初で最後の園丁画家と呼んでもいいかもしれない。

ところで山梨の清里にある萌木の村では、山野草ガーデンが着々と植栽中である。10年計画で着手されたこのガーデンは今年で4年目を迎えるが、次第に全容が見えはじめてきた。機械に頼らず、あくまでも人手によって巨石を割り、形を整え、美しく丹念に積み上げては次々と花壇が作られている。(短いけれど、その萌木の村ナチュラルガーデンの動画がここに紹介されている)

この山野草ガーデンを一から監修してきたのが、イングランドからやってきた園丁であるポール・スミザーさん。彼はそれまで一般的には見向きもされなかった日本の草木を甦らせ、四季折々に植物の命を躍動させるその庭作りは「自然より自然らしい理想の庭」と評されている。その彼が、なぜはるばるイギリスから日本にやって来て活動しているのか。その経緯をぼくは萌木の村の村長である舩木さんから教えてもらった。

元々、明治以降の日本の造園技術は素晴らしいもので、それをこぞってヨーロッパ、特にイギリスは吸収し、保存に務めてきたという歴史があった。ところが本家である日本の庭園は、その後、自然の摂理から離れた見栄えを優先する方向にシフトしてしまい、雑草とひとくくりにされた数々の草木には目もくれない庭作りが蔓延してしまった。しかし、日本には四季があり、南北に長い地形には2,500種を超える固有種が自生している。バークシャー州生まれのスミザーさんは園芸の基礎を学んだ王立園芸協会で、運命的な出会いをした日本の草木に一目でとりこになってしまった。日本が草木の宝庫であることは今も変わりはない。スミザーさんはその憧れの国に日本から伝わった造園技術を携えて19歳の時に来日して以来25年間、理想の庭作りを目指して精力的に活動してきた。彼の庭作りに対する哲学はシンプルなもので、「植物に合わせた居場所を用意すること」これに尽きるのだという。あくまでの自然の摂理にそった美しさを大切にしている。また、庭作りにおいて葉を食い荒らす恐れもある鳥や虫なども大切な来客として迎え入れている。なぜならさまざまな生き物が集う光景こそ理想とする自然の姿に近いからだ。スミザーさんらが作りあげていく萌木の村の山野草ガーデンも、明治の園芸を彷彿とさせる理想とする自然の姿に次第に近づいていくことだろう。

緑地は生命の営みを育む揺りかごのようなもの。これら緑地がもたらす恩恵は計り知れないが、この緑地に関して中沢新一さんは興味深い論考を展開している。それは『イコノソフィア(聖画十講』[河出書房新社刊]の第一講の中国の書について考察された「書」の中に見つけ出すことができる。中国には森がないし、林がない。あの広大な国土のいたるところは農耕地として耕されつくされていると。しかし、ヨーロッパではかならず農地の一角には耕されつくさない草地や灌木や林や森を残しておくことを、彼らの自然思想や技術思想としてきた。それは、大地を全部耕しつくし、その合理的な思考法を徹底しすぎると、大地の表面に生きる人間は窒息してしまうから、人間の理性に侵されない無意識の領域を大地にも残しておく必要があると考えられていたのだという。ここから森の中に棲むさまざまな妖精をめぐる物語や詩が生まれてきた。この感覚はぼくら日本人にもとても理解しやすいものだ。面白いのは、ここからこの講のテーマである「書」に向かって思考がスリリングに展開されていくところだ。つまり、中国ではヨーロッパとはまったくちがったやり方で「意味」の空間が開かれてきたというのだ。漢字は藪地など残さないけれど、そこではあらゆる森羅万象が漢字の形象で表現され、まさに漢字によって無数の植物のように生い茂ってくる「意味」の森がつくりあげられている。それは魂が呼吸するための、もうひとつの意味の森。そして、それはあらゆる命を包み込む森となる。

なぜ木々に囲まれると心地よいのだろう。森林浴の効果として、樹木が発散するフィトンチッドと呼ばれる物質が作用していて、森林の空気は身体にやさしいし、香りがリラックス効果をもたらし、枝葉の1/fの揺らぎで視覚的な安らぎも与えられるとかいろいろあるのだろうが、実は植物の多様性にその秘密がかくされているのではと密かに思ったりもしている。ぼんやりと風にそよぐ梢や花々を眺めていると、数えきれないほど多様な命の群れに囲まれているぼくら人間だって、結局はそこに連なる命のひとつにすぎないことを実感する。そして、岩陰で懸命に葉を伸ばす草花に健気さを感じとったり、仰ぎ見る巨木や古木に畏怖したり、あぁ、なんてきれいな花なんだと歩みを止めたりする。それらに通底しているのは、深い多様性の森に包まれているという感覚だ。植物は何もしゃべらないし、近づいてもこない。いつも同じ場所で微動だにしないが、季節ごとにおもいおもいのいでたちを見せながら、自然の摂理に巧妙に対応しながら生きている。ぼくらはその折り重なる命の厚みに心震わせ、そこから流れ出る命の気流を掬っては呑み干しながら考えるのだ。独りで生まれて、独りぼっちで死んでいく。生命活動はスタートもゴールも本来孤独なもの。それは厳然たる事実。なにも特別なことではないのだが、その孤独を背後からそっと支えているのは、自分も膨大な生命の輪に連なっているんだという安堵感に他ならない。

上から
・ベルギーのリエージュ劇場ロゴマーク
・配色の類似性が指摘された
 スペインのデザイン事務所の壁紙
・五輪エンブレムの決定案
・五輪エンブレムの修正案
・五輪エンブレムの原案
・原案との類似性が指摘された
 Spain watches 「TIME FORCE」
・同じく原案との類似性が指摘された
 「ヤン・チヒョルト展」の各展開デザイン
 

2015.9.01

時事ネタは極力避けること、これがこのブログの基本姿勢だったが、今回はデザインに関する話題なので例外としたい。デザインの時事ネタといえば、言うまでもない東京オリンピック関連の一連の騒動だ。新国立競技場見直しが決定されたと思ったら、今度はオリンピック・エンブレム問題。何だか滑り出しからケチがつきっぱなしの2020年東京オリンピックだけど、その起因となるトラブルの種、実は同じ場所にひそんでいるような気がしてならない。

新国立競技場については、ずいぶん前から様々な問題提起がなされていた。たとえば2年前の2013年10月11日に、シンポジウム「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」が開催されたが、これはJIAマガジンに寄稿した建築家の槇文彦氏の提言がベースとなっている。

また、雑誌『週刊現代』2014年2月8日号には、建築家・伊東豊雄氏と中沢新一氏の「欠陥だらけの新国立競技場」という核心対談が掲載されている。さらに2014年5月8日には、記者会見と緊急シンポジウム 「新国立競技場のもう1つの可能性」が開催。そして2014年9月26日には、「それでも異議あり、新国立競技場 戦後最大の愚挙を考える」が「神宮外苑と国立競技場を未来へ手わたす会」の主催によって開催されている。

このように「?」や「NO!」が目白押しで、多くの人々が当初よりこのプロジェクトに疑問の声を挙げていたにもかかわらず、大きな世論のうねりをもたらすことはなかった。問題提起や懸念の声があがっていた経緯は、中沢新一さんが代表をつとめているGreen Activeに詳しいが、それに対するマスコミ報道は控えめなものでさほど注目されることもなく、プランが白紙撤回されたのはそれから2年も経ってからのことだった。結局、スタートラインは2年前と同じ位置のまま。時間だけが無駄に流れてしまったことになる。

だがこの計画の根本的な問題点は、見直しの発端となった高騰した予算のことだけでない。この建設地となっているのは「科学と伝統を結合しようという明治の技師たちや、全国から名木を献上する国民的運動に参画した人々の並ならぬ知恵と努力によって「東京のど真ん中」に作り出されることになった明治神宮」(Green Activeより抜粋)なのである。その自然や環境が二度と戻らなくなるような破壊をすることなく、修繕していくための視点の転換が建設計画には必要だったにもかかわらず、このような見識が計画案に反映されたという形跡はない。それらは黙殺され続け、現実的視点のみから語り出される計画案が、それこそ無計画に積み上げられてきたあげくの白紙撤回なのである。それを主導してきた意識はおよそ新世紀に相応しいものとは言い難いバブリーな前世紀末感覚と国家の威信を誇示するという前時代的幻想に包まれている。さらに深刻な問題点は、一体誰がどういう責任体系で進めていたのかが一切明らかにされることなく、平たく言えば呆れてしまうほど無責任なのっぺらぼうな決定機関によって着々と進められてきてしまったこと。その事実に今更ながら唖然とさせられる。

もちろん、オリンピック・エンブレム騒動にも、もはや現代日本の病根とも言える同様な意識が根深く横たわっている。あのエンブレムをデザインした佐野研二郎さんの仕事は、彼がデザイン界にデビューした当時からぼくも見ているから、力量はそれなりに理解していたつもりだった。しかし、新聞紙上で発表されたデザインを初めて目にしたときの印象は、とても稚拙で古風な意匠というものだった。国民の心をひとつに束ね、新時代へと牽引していくパワーがシンボルからはまったく伝わってこなかった。

佐野さんはデザインイベントの企画展出品ポスター「HOKUSAI_LINE」で2015年の亀倉雄策賞を受賞している。亀倉雄策氏といえば、言わずと知れた1964年東京オリンピックのデザインで知られる戦後の日本デザインを代表する人物である。そして、盗作疑惑に関する報道について東京2020組織委員会を通じて発表した佐野さんのコメントには「…この東京2020エンブレムは、1964年の作品へのリスペクトを持ちながら、日本らしさを自分のなかで追求してデザインしました。」とある通り、亀倉氏への憧れと尊敬の念を明確に表明している。だから、佐野さんのエンブレムデザインに亀倉氏の代表作とも言える1964年東京オリンピックデザインの残香を感じるのは不思議なことではない。選考過程でその残香が決定に向けて背を押したのかもしれないと推測もしたのだが、本人はさらに進化させるつもりだった表現の造形的完成度が残念ながら遠く及ばなかったのも事実だと思う。発表作は構成要素がしっかりと思想として視覚的に着地していない。つまり一見強そうにみえるその意匠は、不明瞭で不安定で分かりにくいパーツの集合体のまま、造形的には脆弱で凡庸な印象となってしまっている。寄せられた多くのコメントにもあるようにスポーツの祭典を連想させる躍動感が意匠からは伝わってこない。一般の人の直感というものは決してあなどることはできないと思う。

今回の決定案を「盗作」と主張しているのは、ベルギーのリエージュ劇場のデザインを担当したベルギー東部リエージュ在住のデザイナー、Olivier Debie(オリビエ・ドビ)氏。彼の制作した劇場ロゴはTHEATRE DE LIEGEのTとLを明快に表現している。盗作云々の前に、まずぼくはデザインとしての善し悪しが気になってしまうのだが、造形的完成度は劇場ロゴの方がはるかに高いと思う。

オリビエ・ドビ氏は、佐野さんが会見で「1964年の東京五輪のエンブレム以外は、何の影響も受けていない」と主張した点について「デザインの制作過程や着想について全く説明できていない」と非難。「リエージュに行ったことはなく、ロゴのデザインを知り得ない」としていることについても「ロゴはネット上に広く掲載されている」と反論して、著作権を侵害されたとしてエンブレムの使用中止を求め、国際オリンピック委員会(IOC)と、日本オリンピック委員会(JOC)に対して、エンブレムの使用を差し止める訴えを起こしている。担当することになったのはベルギー王室顧問弁護士も勤めるヨーロッパ圏を代表する敏腕弁護士、アラン・ベレンブーム氏。ベルギー側は本気なのだ。ドビ氏が心血を注いで生み出した表現物のオリジナリティが侵されるような心情は理解できる。だが半面、ロゴマーク制作の難しさも認識しておかなくてはならない。

ロゴマークというのは象徴性の強い造形である。必然的に単純化を推し進めていくと、類似形を呼び寄せてしまう宿命を背負っている。時代や国籍、文化や風土が異なっていたとしても、同じ人間が考えることにそう大きな隔たりがあるわけではない。似たようなことを考え、似たようなものを作ってしまう可能性はとても高いのではないだろうか。

事実、このブログの2008.6.02でも紹介したが、ボスコが制作したマークが、その14年後に発表された「博報堂」の新しいグループマークのロゴに酷似していたことがあった。(ちなみに、佐野さんも博報堂出身である)博報堂マーク制作者がボスコ制作のマークを見ていた可能性はかなり低いと思う。同様に佐野さんもベルギーの劇場ロゴを見たことがないというのは事実かもしれない。しかし、こういうことが起こるのである。ロゴマーク制作は常にこうした偶然による酷似の可能性や危険性をはらんでいる。オリジナリティとは一体何なのだろう。自分が生み出したと思っていたものは、実は過去の記憶の残像として深層に眠っていただけなのかもしれないのではないか。オリジナリティなんて、実は錯覚にすぎないのではないか。そんな疑問が自由闊達な発想に影を落としてくる。

iPhoneに「Shazam」というアプリがある。とても優れもので、iPhoneに向かって自分で唄ってもいいし、そこに流れている音楽の方向にiPhoneをかざしてもいい、「タッチしてShazamする」をタップすると、しばらくするとその音楽の曲名や作者、それに発売されているCDジャケットなどがほどなく現れてくる。これは見つけられないだろうというようなマニアックな音楽を聞かせても、苦もなくすぐに見つけ出してくれる。ならば、この検索機能を活用して自作曲に類似した音楽がないかチェックできるのではないかと思うのだ。そして、この技術を視覚的領域にも転用できたら、シンボルマークの類型チェックだって可能になるかもしれない。もしこの視覚版「Shazam」があったら、今回の盗作問題も事前に危険性を察知できたのに…などと考えてしまうのである。

ただ、これと似た機能をもった「Google画像検索」や「Yahoo!検索」 を使うと、ウェブ上の類似する画像を縦横無尽に検索することが可能になる。現在進行形でエンブレム問題はネット炎上し続けているが、ここに寄せられる盗作疑惑への多くの指摘はこれらの機能を活用したものがベースになっているようだ。夏休みの若者たちは比較的時間が自由に使えることも、問題を指摘されている当事者たちにとっては不運だったという声もある。一般の人々が、デザインされた表現物を簡単に世界中から情報収集してチェックできる時代がやって来るなんて一体誰が想像していただろう。中には言いがかりにすぎないような指摘も含まれるが、ネット環境はいたるところで専門性の壁を取り払っている。その功罪を即断することはできないが、この現実はもはや変えることはできないのだから、それを前提に議論は出発するしかない。

国際オリンピック委員会(IOC)はこの盗作疑惑に関して「大会組織委員会は長期にわたり、明快で透明性のある手順でこのエンブレムを選考した。正当な商標調査も経ている」とコメントしている。逆に言えばこれは、商標登録されたものしかチェックしていなかったということになる。つまり、件の劇場ロゴは見逃していたということだ。実にアナログ対応ではないか。これではまったく21世紀的とは言い難い。東京五輪組織委員会によれば、「このデザインは昨年の11月に内定し、それから世界各国の商標を確認しながら抵触しないよう微調整を加え、IOCの承認を経て、現在、国際商標登録の手続きを済ませているので問題になるとは考えていない」と伝えられている。(実際は登録は完了しておらず申請中)IOC総会では、コーツ副会長が「劇場のロゴは商標登録で保護されていないから問題ない」とも言及している。

しかし、問題視されていることは似ているというシンプルな疑問なのに、商標登録してないから似ていても問題ないという主張は事の本質を取り違えている。当然、選考にあたっては専門家を交えた選考会を経て決定したようだが、そのプロセスも当初はまったく公開されていなかった。選考にあたったグラフィックデザイナーは、審査委員長の永井一正氏、審査員には浅葉克己氏、細谷巖氏、平野敬子氏、長嶋りかこ氏らの名前が公表されている。また、菅義偉官房長官は7月30日の会見で「似てるかどうかは個人の主観の問題」と発言して、政府としての正式なコメントは避けている。その後、エンブレム盗作疑惑に端を発して沸き起こった、佐野さんのその他のデザイン作品を巡る疑惑問題についても、東京大会組織委員会は「組織委員会とは無関係」とコメントしている。このように主催者サイドから散発的に伝わってくるのは、及び腰の受け身なコメントや法的見解ばかりで、どうしても決定した既成事実を押し通してしまおうと必死で守勢にまわっている印象が強い。

ぼくは良いデザインを選びとる「力」の重要性を常々感じてきた。良いデザインとそれを選びとる「力」。この二つが存在しなければ、良いデザインは決して生まれてこない。デザインは理屈じゃない、感じることが大事だという人もいる。しかしそれだけでデザインのもつ持続性や普遍性を理解することは一般的にはなかなか難しい。それが本当に良いデザインなんだと納得してもらうためには、それを理解してもらう努力を惜しんではならない。何故なら芸術作品と異なり、デザインは専門知識をもたない一般の人たちに向けて発信されるという社会的役割を担っているからだ。だからこそ、それをどのような見地から選びとったのか、分かりやすく、そして丁寧に説明することが求められてくる。

沸き起こる「NO」の声の嵐に押されるように、やっと8月26日になって審査委員の代表、永井一正氏が取材に応じた。それまで組織委からはコメントしないよう要請されていたそうだ。しかし「これ以上勘ぐられるのはよくないということで、『もう話してもらっていい』と言われていた。」ということらしい。勘ぐられるというのも本末転倒な話で、そもそもこうした人の口に戸を立てるようなことをするから勘ぐられるのだという現実を組織委は認識していない。永井氏は初案はベルギーの劇場ロゴとは似ていなかったとコメントした上で「(原案と)似たようなものがほかにあったようだ。そのため佐野さんの案は、元のイメージを崩さない範囲でパーツを一部動かすなど、組織委の依頼で何度か微修正された」と明かしている。そして修正されたものを各審査委員も確認した上で正式発表されたのだそうだ。

その後、29日には永井氏同席のもと、エンブレム決定までの変遷を説明する異例の会見が大会組織委員会オフィスで開かれ、原案と修正後のデザイン案、そして最終案がそれぞれ公表されたのだが、はやりこうして並んだデザインを見ると、ぼくは初案も決して評価するものではないが、修正することの難しさが浮かび上がってくる。ロゴマークはシンプルなエレメントで成り立っているケースが多いためとてもデリケートなものだ。だから微修正であっても原形に手を加えるとその鮮度が落ちていくことは否めない。今回の制作過程にもそうしたことが起こったのではないかと推測できる。鮮度を落とすくらいなら佐野さんが一から作り直すという選択肢もあるが、やはり次点作から選び直すというのが筋だと思う。そのための次点作なのだから…。

さらに修正前の原案に関しては新たな類似例も浮上している。それはSpain watches 「TIME FORCE」と2013年にgggで開催された「ヤン・チヒョルト展」の各展開デザイン。「ヤン・チヒョルト展」デザインを担当したのは武蔵野美術大の白井敬尚教授ではないかと言われているが、白井さんは古い知人の一人なので、彼の困惑している様子が目に浮かんでくる。

かように、この問題は世論の動向や訴訟の進展をにらんで流動的な動きをみせているので、もはやデザイナー一個人の問題にとどまらず、現時点ではどこに着地するのかも定かではない。そもそも五輪が何を目指すのかといった明快なビジョンと思想が共有されていなかったこと、加えて、唯々運営サイドの事務的に事を進めてしまおうとする意識が一連の騒動を巻き起こした要因となっている。

それとこのプランが選ばれた背景は、選考にあたっての評価ポイントが64年オリンピックの時代とは変わってきているということも無関係ではないだろう。当時はまず明快な形が目に飛び込んでくることが求められた。新聞紙上で藤崎圭一郎氏は「今回も含め、形の求心力より、展開という遠心力を求めるのが、近年のデザインの傾向だ」と指摘している。「紙媒体が中心だった前回の東京五輪の時代と異なり、グッズや映像媒体、空間での展開も踏まえてデザインが選択されやすい」という意味なのだろう。しかし、だからこそ、さらに洗練された形の求心力が求められてくるのではないだろうか。

エンブレムデザインがベルギーのリエージュ劇場のロゴマークと似ているとされる問題を受けて、8月5日、記者会見場に現れコメントしたのは制作者の佐野さんのみだった。ぼくは、やはりその場に選考者やコンペを実行した組織責任者も同席させるべきだったと思う。後の会見で永井さんも「個人的には、ほかの応募案や審査の過程も公表した方がいいと思う。」と言っている。閉鎖的な情報操作を行った結果として、その後の対応が後手後手に回った今回の騒動をみていると、プロセスを公開することの意味は決して小さくはないことを痛感する。

入選して次点となった原研哉氏や葛西薫氏の応募案公開も含めて、選考にあたっての考え方や選考基準を説明したうえで、どのような理由で佐野案に決定したのかをまず報告すべきだ。そのように選考プロセスをガラス張りで公開すれば、なるほどそうだったのかと腑に落ちるし、選ばれなかった案の制作者たちにとっても、次に繋がる重要な情報を把握できるし、応募したことの意味も蓄積できることになる。これが良質な情報循環というものだろう。専門性を楯に取った選考の密室化は間違いなく時代意識と逆行している。下手に選考基準や選考プロセスを公開すれば、言いがかりや難癖をつけられて面倒くさい対応に追われるのではないかという打算も働いていたのかもしれない。専門家たちによるしかるべき選考を経て本案に決定しましたと高らかに宣言すれば、大方は納得するだろうという御上意識が見え隠れしている。開催に向けて運営を担う当事者たちがそんな意識のままなら、時代が求めているリアルな意識には到底追いつくことはできそうもない。今回の問題だけでなくこの国のさまざまなシーンにおいて、透明性の意味がずっと強く求め続けられているのは、明日に踏み出していくための希望は、実はガラス張りの良質な情報循環によってこそもたらされるのだと多くの人々が直観しているからなのだろう。

と書き終えたところで、1日午後「2020年東京オリンピックのエンブレムについて、大会の組織委員会は、佐野研二郎氏のデザインしたエンブレムの使用を中止する方針を固めた」と速報が流れてきた。時事ネタはこれだからやりにくい。「組織委員会はこのあと臨時の会議を開いて最終決定し、新たなエンブレムをどうやって決めるのかなど今後の対応を検討することにしている」そうだが、ネット炎上を繰り返さないためにも、ぜひ今度こそガラス越しの検討を期待したい。

ing Direct Mail

2015.7.01

デジタルデータを保存するメディアの総称はストレージ(storage=外部記憶装置)と呼ばれ、記憶する方法によって大別される。光磁気ディスクを含む磁気ディスクにはフロッピーディスクやMOディスク、ハードディスクなどがある。それから、フラッシュメモリ記憶装置にはUSBメモリやメモリカード、SSDなどがあり、さらに光学ディスクとしてはCDやDVD、Blu-ray Discがある。その他、AppleやDropbox inc.が提供するiCloudやDropboxといった外部オンラインストレージまで登場していて、ストレージメディアは目まぐるしい変遷を辿りながら今に至っている。

わずか数十年前には最先端だったフロッピーディスクやMOディスクは、いまや化石のような存在だ。しかし、ぼくらのようにデザインを生業としてきた者には、古い仕事が記録されているこうしたメディアは、捨てるに捨てられない悩ましい存在でもある。というのも、すでに忘却の彼方にある古いデータが突然必要とされることがあるからだ。 ところが困ったことに、日々新しくなっていくOS(オペレーションシステム)では、旧式なメディアを開くインターフェイスの互換性が寸断されているため、新しいOSでは古いメディアを開くことができないという事態がおこってしまう。デジタル技術というのは便利なはずなのに、ときにはずいぶんと不便なものになってしまうことがある。やむなくぼくは、急な要請にも対応できるよう、古いデータが開ける旧式なパソコンを処分せずに緊急用として保管してきた。しかし、ハードはいつか何の前触れもなく壊れてしまうもの。

案の定、先日パソコンに内蔵されていたMOドライバーが突然作動しなくなってしまい、100枚以上保存されているMOディスクが読み込めなくなってしまった。仕方なく外付けのMOドライバー(もちろん中古品)をネットで探してみたものの、OSバージョンや適応するコネクタの問題などで、とうとう接続できる機種をみつけることができなかった。仕方なく知り合いのデザイナーたちの間を聞き回り、やっと適合する外付けドライバー借りることができたのだ。

長い前ふりとなったが、ここからが今回の本題となる。早速データの吸い出し作業に取り掛かり、おびただしい古いデザインデータを開いてみると、すっかり忘れていたその頃のことがぼんやりと像を結びはじめ、本当にたくさんつくってきたんだなぁ、としばし手を休めて感慨にふけってしまった。もちろん恥ずかしい未熟な仕事もいっぱいあった。当時新鮮だったことが、見返すと随分古くさく感じられることだってある。とはいえ、夢中で向き合っていたその瞬間、瞬間の感情の息吹は、なかなか清々しいものである。ひたすら作り続け、振り向くこともなく突き進んできた過程で、すっかり忘れ去られていた仕事と向き合うと当時の記憶が生々しく甦ってくる。それらの多くはクライアントからの依頼に応えた仕事ばかりだが、なかには自主制作物も混じっている。

ボスコをスタートさせる前に、ぼくが兄と共同経営していたアイ・エヌ・ジーというデザイン事務所には複数のデザイナーが在籍していた。そして彼らと一緒に持ち回りでデザインを担当し、数年間毎月ダイレクトメール(DM)をクライアントや交流のある方々に送っていた時期があった。

まず、年間テーマを決めて年賀状からシリーズをスタートさせる。さまざまなデザイン道具をモチーフにした「道具シリーズ」を皮切りに、色や風景をテーマにした「風・景・色シリーズ」や、縁の深い人々の文章をテーマにした「…の筆者シリーズ」。そして2年にわたり続いた「ingシリーズ」も懐かしい。これは屋号にあやかった「ing」を含むさまざまな言葉を選び出してデザインを思い思いに組み立てたもの。ただいたずらに数を重ねた感もあるが、ぼくらには何よりの稽古という思いもあった。巻頭文にも「“ひたすら心をこめて精製すれば、ついに醍醐味となる”という本来の意味からすれば、デザインの醍醐味とは正に一心に興じ、一心に行ずることではないでしょうか。」とある。そこで面映ゆいけれど、ぼくが担当した幾つかのDMをピックアップしてみたので、この意図に免じてご覧いただきたい。

上から4つは「ingシリーズ」からの抜粋で、小さくて判読できない掲載文は以下に抜き出した。 Ramblingの〈我輩は、ポチである。〉。これはいうまでもなく、漱石と賢治への拙い拙いオマージュである。(ちなみに我家では飼い猫には代々ポチと命名してきた)

*

〈我輩は、ポチである。〉ingシリーズ9

(9月のテーマ・Rambling=ぶらぶら歩き回る、散漫な、はい回る、不規則な)Drawing by Ronald Searie

はじめての人には、はじめまして。はじめてじゃない人には、こんにちは。

ぼく相変わらずポケッとしていて、元気です。

ポチと呼ばれりゃ、ニャンとなき、今年の春から小林さんちにおじゃま虫。

チャランポランは生まれつきの、身軽で気楽な猫稼業。

思いたったらじき寝てしまう性分で、平均睡眠は15時間。

夜はお酒ものまんから、魚の骨食べたらすることない。

この辺格別娯楽もないから、つい夜遊びがすぎるとごらんの通り朝からゴロゴロ。

それもこれも猫の特権。行きあたりばったりのその日暮らし。

何の役にたつわけでもなく、ただそこに居るだけの自然体。

ふぬけと言われても腹も立てず、いばる人の話を、そうかそうかと聞きながし、

しっかりしろよと言われたら、ニャーとうなずく……

そんな猫になりたいものだ、と思う今日このごろです。

*

次のLaughingとBeginningは、当時興味を抱いていた大正、昭和の芸能が色濃く反映されている内容で、改めて見かえすと進歩がないというか、今の自分の関心と相変わらず地続きとなっていることを再認識させられた。

*

〈LAUGHING〉ingシリーズ5

(5月のテーマ・Laughing=笑う、陽気な、明るい)花菱アチャコ・花井正寿/即席問答萬歳より)

早いもんで、もう5月や。5月ゆうたら皐月のことや。

あら尊と青葉若葉の日の光、と芭蕉はんもゆうてはる。

一年中で一等ええ季節や。そやさかい、陽気に明る、やらなあかん。

むだ口、へらず口おおいにけっこ。遠慮せんと、やってみなはれ。

牛にカリン糖で“モウコリコリ”てな具合や。

ハハハ。けったいな洒落やな。

あー、仰山おまっせ。おまはんも、やりますかー。

ほな、よろしおまんな。

一枚でもせん(千)べいとはこれいかに。一つでも饅(万)頭というがごとし。

海で惚れてもオカ惚れとはこれいかに。岡で生まれても生み(海)の親というがごとし。

二階で相談しても市会(四階)議員とはこれいかに。三階で相談しても区会(九階)議員というがごとし。

寿司食べてもウマかったーとはこれいかに。嫌いな人と食べてもスキヤキというがごとし。

大人が乗っても自動(児童)車とはこれいかに。生きた人間が乗っても市街(死骸)電車というがごとしや。

腐ったタコ買うてもイイダコとはこれいかに。安く買うても“タコー”ってなもんや。

けったいな問答やな。寝てて煩ろうても肺(這い)病とはこれいかに。

あー、陽気に煩ろうてもインキン(陰気)というがごとしや。

きたないなー。もう、無茶苦茶でござりまするわー。

*

〈BEGINNING〉ingシリーズ1

(1月のテーマ・Beginning=初め、初期、最初、起こり、起源…)

「エー、みなさん、角つき合いをなさらずに、当店へ、トントンとおはこびくださいませ。もうケッコーというぐらいお召し上がりください。」…と、これは肉屋の宣伝口上。「足ごろの靴が、手ごろのお値段でとりそろえてございます。」と、これは靴屋。口上、旗もち、ビラ配り、楽隊とキャラクターがあやなして、ただ、ただ、満身の誠意をこめての街頭宣伝。これはもうライブ感覚で、あくまでにぎやかにやるのが身上である。

「チンドン屋」という名称は昭和4、5年からで、それ以前は東西屋とか広目屋。たとえば「ライオン歯磨」、「福助足袋」、「森永製菓」、「味の素」といった企業お雇いの宣伝隊。10〜20人の大編成で、軍服姿の楽隊と、のぼりを何本も押したてて、何ともにぎにぎしいかぎり。この陽気さと裏腹に、チンドン屋はどこかもの悲しい。世相風俗両極の明も暗も抱えこみ、そこからあまたの物売り衆が、それに連なる職人衆が大正・昭和の路地から路地へと駆けぬける。「シネマ見ましょか、お茶のみましょか」東京行進曲にのり、街頭宣伝業の誕生である。その場に応じた即興と、俊敏な感覚が身上で、得意先との信頼関係を芯に手づくり広告のネットワーク。鳴りもの、口上、扮装と三位一体に息づく宣伝業のエッセンス。まさに人肌の広告である。温もりとしたたかさの同居する、これまさにアド・フロンティア・スピリット。 さて、なにはともあれ新玉(あらたま)の年立返る初春に、Beginningの字幕入りでトザイ東西。テケドン・シャンシャンと隅から隅までズズイ、ズーイと、よろしゅうお引きたての程を、おん願い(チョーン)申し上げ奉ります。

*

Sendingは、なんとFAXが当時の最新機器だったということを念頭に置かないと成り立たないDM。その昔、すべて丸投げして自分は何もつくらない発注芸術なるものがあったけど、このDMもその手法で、イラストも書き文字もすべて当時幼稚園生だった倅に丸投げしたものだ。スタンプの「よくできました」と「もうすこしがんばりましょう」も同じく丸投げツールを活用。(文中のみついさんとは、当時事務所に在籍していたデザイナーの三井一也君のこと。彼はその後独立して三井デザイン事務所を主宰し、現在も着実に仕事を積み上げている)

*

〈ぼくのファクシミリ日記・ことしも、あとすこし〉ingシリーズ12

(12月のテーマ・Sending=送っている、届けている、送信中)

きのう うちにFAXがきた

みついさんが なんでも おくれるといった

きょうぼくは ようちえんに おくれた

とおさんが すぐおくってくれた

とおさん すごい

*

最後は「…の筆者シリーズ」からの一枚。筆者は亡母である。ぼくが育った家の庭には2月になるときまって紅梅が花開き、春の訪れを一足先にそっと告げにやってきた。

*

〈二月のこころ〉冴え返る如月の筆者 小林史子(詩人)

水甕座の

星凍り

女神たちの

悲しむ二月

きしむ

深い夜の窓辺で

その人は

書いたのだろう

〈人生は

風に鳴る

汚れたガラス窓だ〉

と。

けれど

日溜まりの紅梅の枝

満開の花の下で

わたしは思う

〈二月は

春にかざす

舞扇だ〉

と。

見えない

巨きな手が

虔しく

それを

支えている。

上から
・Aven Armandの地上風景
・地上風景の着色画像
・Aven Armandの鍾乳洞(2点)
・『洞窟へ』カバー
・インドネシアの洞窟に描かれた
 最古の大型動物絵画
・江ノ島岩屋洞窟のヘビの石像

2015.5.02

秘匿されたものに引き寄せられるのは人間の本能といえるだろう。洞穴を偶然発見した人間が吸い寄せられるように奥へと歩みを進めるのも、その秘匿性の吸引力に他ならない。地球上には夥しい数の洞穴(洞窟=cave; grotto; cavern)が存在し、その種類もさまざまだ。自然にできた鍾乳洞や溶岩洞、海食洞、氷河洞に雪渓洞。隧道跡などの人工洞窟もある。基本的には洞窟の奥部は完全な暗闇となるが、「青の洞窟パスタ」で有名なイタリア南部・カプリ島にある青の洞窟のように、水面からの光を浴びて洞窟全体が紺碧に染まる海食洞もある。日本でも沖縄の青の洞窟はシュノーケリング体験の人気スポットとなっている。

洞窟に引き寄せられるのはコウモリやホライモリ、ホラアナグマばかりではない。人間も古代から内部に壁画を描いたり、神仏を祭ったり、居住や貯蔵庫として活用したりと、洞窟には深い愛着を示してきた。また、洞窟は死後の世界や異なる世界への入り口と見なされたこともあり、危険が潜む洞窟には猛獣や魔物が棲むとされる怪奇伝説も誕生して、さまざまな冒険の舞台にもなってきた。

しかし近年では調査開発も進み、その神秘性は次第に薄れてきている。手軽に別世界を体感できる観光スポットとして広く公開されたり、ケイブカフェやレストラン・バーまで出現しているというから、もはや洞窟は自然が用意した侵入可能な秘匿スポットとは言えないほど、広くポピュラーな存在となってしまった感がある。

ただしそれは現実界の話。実は有史以来、大地の奥深くに封印され、生き続けてきた闇の洞窟芸術はいまだに解明し尽くされてない。インドネシアの洞窟に描かれたものが4万年以上前に制作されたものであることが2014年にNatureに報告され、これまでもっとも欧州の洞窟芸術が古いとされてきた学説を覆して、どうやら最古の洞窟画となるらしい。このアジアの洞窟絵画の特長を「natureダイジェスト」は以下のように説明している。

*

測定結果から、この場所で最も古いステンシルは少なくとも3万9,900年以上前のものであることが分かった。つまり、欧州最古の手形ステンシルの最小年代を2,000年ほどさかのぼることになる。また、ナスの両端から棒状の脚が突き出たようなバビルサ(シカイノシシ)の絵(写真下から2点目)は、3万5,400年前のものと推定された。この年代は、欧州の洞窟に描かれた最古の大型動物絵画とほぼ同じだ。

手形ステンシルは、欧州のものとよく似ている。しかし動物の絵は、欧州のものとは2つの点で異なっている。1つは、描かれている動物がインドネシア現地の動物であること、もう1つは絵画様式だ。Pikeによれば、初期の欧州の絵は「指でなすりつけるように描かれている」のに対し、インドネシアの絵は「線が多く、筆で描かれているようだ」という。 こうした芸術作品がどのように発展したかについては、2つの説が考えられる。1つは、芸術作品がインドネシアで独立して生まれたとするもので、もう1つは、初期人類がアフリカを離れる時点で作品の制作能力をすでに身につけていて、それが各地に広がったとするものだ。

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最初にヨーロッパ人によって洞窟絵画が発見されたのは1879年、スペインのアルタミラ洞窟においてだったとされている。前述したアジア洞窟絵画の制作年代が明らかになるまでは、もっとも古いのはショーヴェ洞窟の絵と言われていた。そして、洞窟絵画がひとつの頂点に達したと言われたのは、あの有名なフランス、ラスコー洞窟においてである。

最上部の写真は、港千尋さんの撮ったフランスのアヴァン・アルマン(Aven Armand)の地上風景。この平穏な風景を眺めていると、平原の下に広大な洞窟空間が拡がっているなどと一体誰が想像できるだろうか。しかし、平原にポッカリと空いた入り口から降りていくと鍾乳洞の内部には、天井から落ちる水滴によって気の遠くなるような時間をかけて育った無数の円柱が立ち並ぶ別世界が拡がっている。自然現象と膨大な時間の経過によって造形されたその光景には、誰しも圧倒されることだろう。

これらの写真は港さんの著書「洞窟へ 心とイメージのアルケオロジー」のブックデザインをした際に使用したカットだ。ぼくはこの洞窟を巡る考古学的考察を展開した書籍のカバービジュアルに、洞窟内部の圧倒されるような異景でなく、あえて静謐な平原の写真を据えることで、風景の下には秘匿されたもうひとつの世界が拡がっているという、大地が密かに包み込むダイナミックな神秘を視覚的に暗示してみたいと考えた。

本書では洞窟内に人間によって残された痕跡(表現?)について、さまざまなテーマを立てて重層的考察が展開されている。なかでも興味深いのは、多くの謎に満ちたそれら表現を解釈する現代を生きるぼくらの限界性についてである。ゲーテは「わたしたちは知っていることを見る」と示唆したそうだが、逆に言えば「知らないことは見えない」ということでもある。読み取る能力をもった者にとっての自然は多種多様な痕跡に満ちていても、その能力を持っていない者は自然から何の文脈も見つけることができないということなのだ。

どうしてコンバレル洞窟には、這っていかなければ進めないような狭い洞窟の200mも奥に、赤いレーザー光をあてないと肉眼では見えないほど細かい線刻画が残されていたのか。なぜ、離れて見ることもできない狭い、きわめて鑑賞の困難な場所や条件を選んで描かれているのか。また、高い芸術的完成度を示すビゾンや馬や牛など動物の素描に重なるように、なぜ手の影の形象が残されているのか。また、これらがヨーロッパからアジア、オーストラリア大陸にいたるまで、地球全体に偏在しているのはどうしてなのか。いわゆるポジとしての手型ではなく「ネガティブ・ハンド」と命名されたネガの手型、つまり手を置いてその上から顔料を吹きかけて作られる形象の多くが、なぜその指の一部を欠いているのか。なぜ「ネガティブ・ハンド」の色のほとんどが黒と赤で占められているのか。

こうした、いかなる意図をもって残されたのかという数多くのなぜ?は、「知らないことは見えない」者にとっては依然謎のままである。そして、旧石器時代の意識から遙か遠く離れた、ぼくらの推測、考察ははたしてどのくらいその闇の芸術の謎に迫ることができるのだろうか。本書ではこうした闇の洞窟芸術にまつわる謎について、以下のように実に興味深い思考が展開されている。

*

…洞窟的(グロテスク)なものに耳を傾けよう。…(中略)…それは幼年時代における心の発達と、先史時代における心の発達が交差する部分であり、今日認知考古学が探求をはじめている、心の考古学への道である。

…自由が、脳という環境、身体という環境、脳を含めた身体の外側に広がる環境という、いくつもの異なるスペースを変形してゆくプロセスとして現れ、わたしたちが「創造性」と呼んでいる現象の、さまざまな姿を形成してゆく。この過程において、自由とは運動の別名にほかならない

…その運動は、時に奇跡的に数万年の時を超えて、別の時空に生きている人間に心に運動を引き起こす。わたしがこれらの動物の姿に動きを感じ、その美しさに感動するのは、わたしの心を身体のある部分が、三万年前のままだからである。それが起きるのは、そのようにしてしか、人間が進化してこなかったからであり、その意味で洞窟芸術は永遠のポジティブ・フィールドバックだと言うことができる。したがって洞窟とは身体化された心である。心の進化の途上で起きた、ひとつの奇跡が洞窟であり、その遠い身体的記憶を、わたしたちはルロワ=グーランの指摘する宗教的イコンや、あるいは胎内巡りに垣間見ることもできるかもしれない。しかしながら、わたしたちにとってもっともよいことは、洞窟そのものが、その内部の痕跡とともに、いまも残っていることである。同様にわたしたちの身体も、三万年前の心と身体の痕跡を残したまま、こうしてまだ生き残っている。その気になりさえすれば、三万年の「運動」をまだまだ続けることができるということである。

*

さて、ぼくは先頃たまたま訪れた江ノ島に洞窟があることを知り、その岩屋で洞窟巡りをしてきた。波の浸食によってできた二つの洞窟には、弘法大師が訪れた際には弁財天がその姿を現し、また源頼朝が戦勝祈願に訪れたとも言われる信仰の対象としても親しまれてきた歴史があるという。奥に進むと、とぐろを巻いたヘビの石像が置いてある。どうやらこれは「白龍」の名に因むもので、江の島に古くから伝えられている「弁天様と五頭竜伝説」を由来とするらしい。 それは、悪さばかりしてきた五頭竜が天女に結婚を申し込むが、これまでの悪行を理由に断られる。しかし五頭竜は、その美しい弁天様と一緒になりたいという想いを諦めきれない。そこで五頭竜は自分の行いを改め、弁天様と村人のために一生懸命尽して善行を施すようになり、江の島の対岸にある龍口山で弁天様と結ばれたと言い伝えられている。どうやら洞窟と竜(龍・ヘビ)とは深い縁で結ばれているらしい。そういえば、ぼくが子ども時代に遊び場としていた梅園の中にも小さな洞窟があって、懐中電灯片手に冒険と肝試しをかねて何度か潜り込んでみたことがあったのだが、そのとき最深部に鎮座していたのは、やはりとぐろを巻いたヘビの石像だった。

ヘビは大神神社や弁才天では神使いとして男性神とされる一方、豊穣神・地母神の性格として女性と見る説もある。精神分析の始祖であるフロイトは夢分析においてヘビを男根の象徴であるとした。これに対してユングは男性の夢に登場するヘビは女性であると説いているが、それはヘビの生態(無表情・忍従・執着など)から、なにかしら女性的なものを連想させるからなのか。いずれにしても、脱皮を行うヘビは、豊穣と多産と永遠の生命力の象徴となり、原始信仰では大地母神の象徴として結びつけられることが多いようだ。事実、溶岩洞窟「船津胎内」とか富士山御胎内清宏園などのように、洞窟は胎内と見立てられることも多いのだ。神話的象徴としての死と再生、豊穣、多産、そして生命力や幸運などをキーワードとして、洞窟とヘビは分かち難く結びついている。

人は昔から、自身の心の写し絵ともいえる、さまざまな心象を洞窟に投影してきた。自分の内部に広がる無意識の大地に、幾つもの洞窟が穿たれている光景を思い浮かべてみよう。その幾重にも折り込まれた、無意識の洞窟にひっそりと刻まれている身体的記憶は、たとえ自覚することはできなくても、思いもよらず突如心の中から湧き上がってきたかと思えば、あっという間に沈殿してしまったりして、感受性や創造性の原動力として休むことなく活動し続けている。洞窟巡りをしてくるたびに、そんな気がしてくるのである。

Cover & Plates
WILLIAM EGGLESTON AT ZENITH
William Eggleston

2015.3.01

夜空の雲は見えないけれど、ときおり月光の底から浮かび上がってみせては、「ぼくらは夜も漂い続けているのだよ」と不意に語りかけてきたりする。こうして白い雲は日が落ちると黒い雲になる。太古から雲は空の一部であったし、或るときは空そのものとなる。雲はブルーの画布に溶け込みながら、自在に描きだす無限の絵画でぼくらの視線を上空に誘い続ける。足元はよく見てるぼくらも、上にある世界のことは意外と多くは知ってはいない。その存在は当たり前すぎて敢えて意識することもないのだが、誕生から生を閉じるまで、浮かぶ雲は常にぼくらの記憶に寄り添って存在している。空にふんわり漂う雲を眺めていると、強ばった心が解きほぐされていくような心地よさに満たされ、静かに移動していくその一切れに己を重ねてみたりする。

空の風景は実に多彩だ。あるとき雲は切れ間から射す光と共演してドラマチックな光景を創りだし、ぼくらの視線を釘付けにしたりする。まるで天へと続く階段のようなその美しい造形に目を奪われた経験は誰しも1、2度あるはずだ。ヨーロッパでこの現象はヤコブの梯子(Jacob’s Ladder)と呼ばれている。聖書の中に出てくるヤコブの見た夢の話に由来し、梯子は天使が天から地上へと上り下りするために架けられているのだと。この現象を晩年の開高健は好んで「レンブラント光線」と言い、宮沢賢治は「光のパイプオルガン」と表現している。

この現象は「チンダル現象」の一種である「薄明光線」であると科学的には説明されている。すなわち、「おもに、光の波長程度以上の大きさの球形の粒子によって光が散乱現象を起こす「ミー散乱」によって太陽光が散乱し通路のように見える」現象であるという。「ミー散乱」は雲が白く見える一因となっているといわれるが、科学的にどうであれ、大事なことはそこに繰り広げられる幻想的な現象が、荘厳で神秘的な美しさを湛えているという事実だ。或る日、或る時、空を見上げれば、誰でもその荘厳な光景を心に焼き付け、天に向かって意識を解き放つことができるのだ。

さて、この空に漂う雲とは如何なるものなのか?惑星表面の大気中に浮かぶ水滴や氷の粒のことを雲と呼び、地上が雲に覆われると霧となる。また、雨や雪を生み出す降水現象の発生源でもある雲は、ぼくらの頭上にいつとはなしに現れては、形を変えながら気づかれることもなく通り過ぎていく。研究者によれば雲はできる形と発生する高度によって以下の10種類に分類できるのだそうだ。

エベレスト山(8,848m)より高い5,000〜13,000mの高度に発生する雲は1-巻雲(けんうん)、2-巻積雲(けんせきうん)や3-巻層雲(けんそううん)で、これらは上層雲と呼ばれている。巻雲はハケで掃いたような繊細な形状で「すじ雲」と呼ばれ、高層の空気の流れが速くなる秋によく見られる。巻積雲は秋を代表する雲形で、形が崩れやすい小石をばらまいたような形状から「うろこ雲」、「いわし雲、あるいは「さば雲」などと呼ばれている。巻層雲は「かすみ雲」や「うす雲」と呼ばれ、空を薄いベールで覆うようにできる雲。

そこからやや高度を下げると、中層雲と呼ばれる3雲形が現れてくる。4-高積雲(こうせきうん)、5-高層雲(こうそううん)、そして6-乱層雲(らんそううん)だ。ともに高度は2,000〜7,000m。高積雲は羊の群れのように見えることから「ひつじ雲」と呼ばれ、雲片が厚いため横から光が射す朝方や夕方に特に美しい姿を見せる雲。高層雲は空一面、薄灰色や乳白色に覆って空を平坦な一様色に染め上げる比較的地味な雲で「おぼろ雲」とも呼ばれている。そして乱層雲は長時間雨を降らせる「あま雲」、「ゆき雲」とも呼ばれ、暗く陰鬱な秋雨の季節の主役雲。

残る4種はともに富士山(3,776m)より下、2,000m付近に発生する雲で下層雲と呼ばれる7-積乱雲(せきらんうん)と8-積雲(せきうん)、9-層積雲(そうせきうん)と10-層雲(そううん)の4雲形。積乱雲は地上付近から13,000mの高さまで届く背の高い雲だが、分類上は下層雲となっていて、夏などにはお馴染みの雷や夕立を起こす「入道雲」と呼ばれる巨大雲。積雲は雲の代名詞とも言われる綿菓子のような雲。雲と言ったら真っ先に思い浮かぶのがこの雲形。そして曇り空を演出するのが層積雲。1年中発生し、「くもり雲」や「まだら雲」と呼ばれている。最後の層雲は一番低い所にできる雲で、小高い山などを覆うため山沿いに暮らす人々には馴染み深い雲である。(出典:自然人.net たった10種類だけの無限「雲の名前を覚えよう。」)

これら10種類の雲形はパレットに絞り出した単色の絵の具のようなものだ。各雲形は季節の気象条件にそって溶け合ったり重なり合いながら様々な模様を描きだしていく。日常の雑事に流されるぼくらはときおり手を休めては、宇宙に連なる広大なセシリアンブルーの空間に漂う雲を眺め、彼らに包み守られながら惑星の表皮(=大地)に住まう自身の存在を実感するのである。そして、眺める者の心情は上空の絵画とシンクロしながらゆるやかに移動を続け、決して静止することはない。静止することはないのだが、暫しとどまってみたいと願うことはある。そんな時、人は空にレンズを向けてシャッターを切るのだろう。

ところで雲の写真家には気象台OBが大勢いるようだ。そんなOBの一人、鈴木正一郎氏の写真展を見て雲の美しさ、形の面白さにひかれ、それが雲の写真を撮りはじめるきっかけになったという海老沢次雄さんも元は気象台職員だった。栃木県出身の海老沢さんは2000年4月から、ぼくの地元である甲府地方気象台に転勤し、精力的に山梨の雲を撮影し続けたことをぼくは新聞のコラムで知った。

「雲の写真は毎日が撮影のチャンスだが、出たとこ勝負みたいな一面がある。鈴木さんの写真集に『出た、見た、写せ』という言葉がある。これが雲の写真撮影の大事な点。だからカメラは常に離さず持ち歩いている」と話している。甲府は「四方を山に囲まれていることもありいろんな姿の積雲、積乱雲が数多く出る。夏は入道雲の宝庫、甲府の1年分は栃木の3年分に当たる」。赴任以来、海老沢さんはそんな甲府盆地の空に驚かされるばかりだったという。また、人気の雲の写真家といえば何といってもHABU氏だろう。ドラマチックな空と雲の風景はどれも印象的なものばかりだ。このように印象的な雲の情景を記録した写真集は数多くあるが、「ふつうが満ちている」雲ばかりを収めたものはめずらしい。そんな写真集を、ぼくは行きつけの写真屋さんで見せてもらった。アメリカの写真家William Eggleston(ウイリアム・エグルストン)の写真集『AT ZENITH』である。タイトルは「天頂で」とでも訳すのだろうか。さっそくぼくも購入してみる。本書についてはこんな紹介も見つけた。

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1978年ジョージアからテネシーに車で旅する途中で、ウィリアム·エグルストンは初期のインスタントカメラを使って車窓から空を撮影した。出来上がったイメージは、古典的なフレスコ画を思わせた。翌日エグルストンは地面に仰向けに寝転がって上空を撮影し続けた。セシリアン・ブルーの空とそこに浮かぶ雲。エグルストンはこのシリーズをウェッジウッド・ブルーと題し、1979年にシリーズ中15点を選び20部限定の写真集として出版する。本書『AT ZENITH』は1979年の『ウェッジウッド・ブルー』をベースにしたデザインに、33点の作品を収録。88p 33×25cm 2013 English

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淡いブルーの布貼り表紙の空押しされた枠内に一葉の空の写真が貼られている。見返しも同系の淡いブルー。ミニマルに配置された文字色も黒とブルーのみ。ホワイトフレームの中に収まった写真は、対向ページに何も印刷されていないので、見開きで邪魔されることなく1点づつ鑑賞できる贅沢なレイアウトとなっている。淡々と切り取られた空と雲の変化に、「淡泊すぎて物足りなさを感じてしまう」という購入者のレビューもあったが、ぼくはエグルストンの意図は、この単調で何気ない情景の配列にこそあるのではないかと思う。ページをくくっていくと、雲はやがて空を覆い尽くし、厚みを増して白からグレーに変化してゆき、陰鬱な表情を見せてくる。そして写真集の中心で青空はすべてグレイッシュなトーンに覆いつくされるのだが、やがてそこから僅かに光の兆候が現れ、後半に繋がれていく。ページをめくるにつれて雲の隙間から再び現れはじめる青空に読者は澄み切った希望を感じとり、やがて見慣れた情景と向き合う安堵感に浸ることになるのだ。この振幅する写真集の魅力は、vimeoの逆モーション映像(PhotoBookStore.co.uk)を見ると多少なりとも感じとれるかもしれない。

エグルストンの作品に満ちている「ふつうの情景」については、とても分かりやすい解説があった。それは「ほぼ日」の『写真がもっと好きになる 菅原一剛の写真ワークショップ』。「エグルストンの写真は“大切なふつう”で満ちている。」で、こんな風に紹介されていた。

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そんなエグルストンの写真は、たしかに時にはシニカルで、とても文学的な側面も、あるにはあるのですが、何よりも、印象的だったのは、“標準レンズ”の回にお話ししたような、おそらく世界中の誰にとっても共有できる、“大切なふつう”でいっぱいだったのです。(中略)そこには土地だとか、場所を超越した、“この世界のすがた”のすべてが写っているように感じるのです。そして今回、改めて「それって何なのだろう?」と、その理由を考えてみたのですが、その時に、ぼくが一番最初に思い出したのは、京都に住む、ある職人さんの話でした。それは、ぼくがまだ20代だった頃のある日、 取材で、京都の茶筅職人さんを訪ねたときのことでした。彼は、来る日も来る日も、あの竹で出来ている茶筅作りというとても細かい作業を続けているわけです。ぼくは、その作業を見ながら「大変だなあー」と思って、「根気のいる仕事ですね。」と声をかけたところ、その職人さんは、静かにほほえみながら、「普通はな、いろんなことをしたり、いろんなものを見た方が、いろんなことを知ったようなつもりになるもんやけど、こうやって、同じことばっかりやっていても、だからこそ、見えてくることもたくさんあるんやで」と、話してくれました。

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ひとところにいるからこそ、見えてくるものがある。忘れがちな日常に潜む大切なふつうの中に、世界全体が写ることもある。エグルストンもそんなことを考えながら仰向けに寝転がり、大空に向かってファインダーを覗いていたのかもしれないと思ったりした。

ウィリアム・エグルストンは1939年7月27日アメリカ・テネシー州メンフィス出身の75歳の存命フォトグラファー。初めてカラー写真を展覧会で発表した写真家として知られている。それまで芸術的な写真作品はモノクロで発表するもので、カラー写真は主に報道や広告で使用するものとされていた。エグルストン自身も当初は学生時代に友人より譲り受けたライカでモノクロ写真を撮っていたのだが、1976年ニューヨーク近代美術館MOMAにて開催した個展でカラー写真を発表し、カラー写真の保存に関する是非を巡って全米で論争を引き起こすこととなる。この出来事はカラー写真による表現の可能性を世に問うたエポックと位置づけられ、エグルストンは1970年代後半にアメリカで起こった写真の新しいムーヴメント「ニューカラー」の先駆者として記憶されるようになった。この論争のあと、81年にはキュレーターのサリー・オークレアがカラー写真を集めた展覧会「ザ・ニュー・カラー・フォトグラフィ」を開催して、同名の写真集を刊行している。ここに収録されたカラー写真の多くが、光の効果を印象的に用いたものであったため、過渡的に「ニュー・アメリカン・ルミニズム」という呼称が用いられたそうだ。今では美術作品としてのカラー写真は当たり前の表現方法となっているが、実はニューカラー(=New Color Photography)という運動が生み出した潮流の突端に現代の写真表現は漂っていることになる。

通常、ぼくらの網膜に映し出される光景はカラー映像として再現されているのに、モノクロをもうひとつの光景として認識するのは、まだカラー再現が不可能だった当時の写真技術史の記憶の残像によるものかもしれない。たしかにモノトーンには、光と影の関係が象徴的に濃度のみで表現されるという潔さがそこに在る。モノクロ表現が芸術的といわれる所以である。着色された写真や映像は、日頃見慣れているはずなのに、いや、だからこそ、何やら通俗的で作為的な印象すら感じてしまう。エグルストン論争の背景にもこんな心理が横たわっていたのではないだろうか。

さて、そんな人間の喧噪をよそに今日も雲は大空にのんびりと漂っている。子どもの頃一人になりたい時など、よく家の屋根に登っては、エグルストンのように寝転んでぼんやり空を眺めていたことを思い出す。大人になっても、思い立ち、野原に出かけてシートを広げて寝転んだりすることもあった。そこには分厚く横たわる時の隔たりがあるのに、心が解き放たれていく心地よさは何ひとつ変わらない。雲はどこからやってきて、どこへ行くんだろう、なんて考えながら空を横切っていく鳥をぽけっと見ていたりする。

1987年に公開されたデンマーク映画『バベットの晩餐会』パンフレットのために書かれた中沢新一さんのテキストが、『幸福の無数の断片』(河出書房新社刊)のⅠ-眼のオペラ「ただ一度だけ」に収録されている。この映画に登場する人間たちは「ずっと」と「一度だけ」のあいだを大きな振幅で生きていて、はじめからおわりまで、この映画のなかでは「一度だけ」と「ずっと」というふたつの言葉が、まるで通底音のように聞こえてくる。この映画の主役は、世にもゴージャスな晩餐会の料理なのではない。

*

村人にとって、これは生涯にたった「一度だけ」の豪華な晩餐だった。そして、かつての料理長、舌と目の芸術家バベットにとっても、これが最後の晩餐となる。デンマークの小さな村で開かれたこの晩餐会は、たった「一度だけ」しか実現できないものだけに可能な、奇跡をおこすのだ。人間は「ずっと」と「一度だけ」のあいだに引き裂かれたまま、生きなければならない。でも、ここでは奇跡がおこったのだ。すばらしい料理が「ずっと」と「一度だけ」のあいだに、幸福な結婚の瞬間をつくりだしたからだ。

*

いま雲が空に描き出しているのは一度だけ、生涯にたった一度だけ見ることのできる光景で、同じものは二度と見ることはできない。なのに、この心が解き放たれていく心地よさはずっと、このままずっと、いつまでも変わることがない。だから、ふたつに引き裂かれたぼくらは、たとえゴージャスな晩餐会の料理なんかなくたって、空に光が満ちてさえいたら、いつでも「ずっと」と「一度だけ」の幸福な結婚の瞬間に立ち会うことができるのだ。

写真は上からLe Corbusier、
Le Corbusier & Charlotte Perriandのツーショット。
振り返るCharlotte Perriandと
彼女自身が横たわるLC4 シェーズロング。
1941年に来日したCharlotte Perriandと
柳宗理や工芸指導所員たち。
下の2点はダイニングテーブルLC6とLIMA Chair。

2015.1.01

松家仁之のデビュー作『火山のふもと』。「大事なことは、聞き逃してしまうほど平凡な言葉で語られる」―と書評された本作には、尊敬する建築家の事務所に入所した主人公の青年が、そこで時代に左右されることなく質実で美しい建物を生みだしつづけてきた寡黙な老建築家、村井からこんなことを話しかけられるシーンがあった。

*

先生のあとについて所長室に入り、すぐに手渡されたのは、背もたれのあるスタッキング・チェアのスケッチだった。 「このまえ、きみが言っていた現代図書館用のスタッキング・チェアをね、ちょっと考えてみたんだ」と先生は言う。 アルヴァ・アアルトのスタッキング・チェアやアルネ・ヤコブセンのセブン・チェアにも連なるような、積層合板を曲げてつくるタイプのアイディアだった。しかしそのかたちはどこからみても村井調で、背もたれもアームも、人のからだを受けとめる控えめなカーブを描いている。デザインは人のために仕えるものという先生の考えがはっきりと見てとれた。座面には着脱可能な革のクッションがはめこまれているのは、スタッキング機能優先で座り心地は二の次になりかねないところを解決しようとするものだろう。先生はぼくの疑問を先回りするように言った。

「家具はもっとあとになってからという井口くんの考えもわかるんだが、建築というものはトータルの計画が大事で細部はあとでいい、というものではけっしてないんだよ。もちろん井口くんもそんなことは承知のうえで言ったんだろうけどね。細部と全体は同時に成り立ってゆくものなんだ。受精卵が細胞分裂をくり返してヒトのかたちになるまでを見たことがあるかい」

先生の問いに、両生類のような胎児の顔がぽかんと思い浮かんだ。

「生物の教科書で図解されてました」

先生は頷いた。「指なんていうのは、びっくりするくらい早い段階でできあがる。胎児はその指でほっぺたを掻いたりもするんだ。開いたり閉じたり、生まれる何か月も前から指を動かしている。建築の細部というのは胎児の指と同じで、主従関係の従ではないんだよ。指は胎児が世界に触れる先端で、指で世界を知り、指が世界をつくる。椅子は指のようなものなんだ。椅子をデザインしているうちに、空間の全体が見えてくることだってある」

無意識の領域をのぞけば、人には胎児のころの記憶は残らない。でもこの指がかつて、そうして世界をさぐっていたことがあったのだ。考えて手を動かすだけでなく、手を動かすことが考えに結びつく。先生の建築の作法はその両方で成り立っている。ぼくは自分の手を開き、閉じてみた。(新潮社『火山のふもと』151〜153pより抜粋)

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「細部と全体は同時に成り立ってゆく」。これはぼくもこれまで何度か仕事をしていて実感したことだった。常に全体を俯瞰しながら、細部の造形を意識する。すると精緻な細部から、再び全体が真新しい姿を現すこともある。「いつかは一度、椅子のデザインを手掛けてみたかった」。しばしば、建築家がそんな発言をするのはそういうことだったのか、とこの一文を読んで腑に落ちたのだった。

ぼくは昔から少しばかり建築に興味を抱いていたから、必然的に家具にも無関心ではいられなかった。余裕があれば欲しい家具もたくさんあった。ただ、残念ながら家具コレクターとなるほどの情熱も経済的余裕もなかったから、所有しているのは、現在の会社を立ちあげる時にちょっと奮発して入手した家具類のみ。今回はその中の、あるテーブルと椅子にまつわる話をしてみたい。

テーブルはどことなく父性を感じさせる家具だと思う。常に不動。誰かや何かと対峙するときに、テーブルはそれを仲立ちするかのように全身をさらしながら、身じろぎもせず存在している。

必然的に、椅子は母性を感じさせる家具となる。身をあずけてしまえばその姿は見えなくなり、残るのは包み込まれる感触のみ。人が「座り心地」と表現するのは、椅子の持つ母性的感触の別称なのだと思う。

テーブルを挟んで椅子に腰掛けると、ふたつの家具の持つ視覚と触覚という異なる特性を同時に味わうことになる。家具を所有するということは、この味わいのバランスを通じて、自分の好みを表現することなのかもしれないと思ったりもする。しかし、ぼくが所有しているテーブルと椅子は、実は自分が見立てたものでなく、仕事場の設計を依頼したインテリアデザイナー、K氏の薦めによるものだった。いや、先にこの家具イメージがあり、それにあわせる形で建築物が完成していったのだ。このテーブルと椅子が収まる建物だったらこうなるだろう、と…。「細部と全体は同時に成り立ってゆく」。それがぼくの仕事場作りの現場でも進行していたのである。

テーブルは「LC6」とググるとドサッと画像の検索結果も現れる、コルビジェの定番ダイニングテーブル。BrandはCassina (カッシーナ)のCassina IXC.。脚部に(設計当時飛行機に使われていた)楕円断面の金属パイプが使用されていることで有名な、ニューヨーク近代美術館所蔵作品だ。DesignerにはLE CORBUSIER(ル・コルビュジエ)、PIERRE JEANNERET(ピエール・ジャンヌレ)、CHARLOTTE PERRIAND(シャルロット・ペリアン)の3名がクレジットされている。天板はアッシュ材パネルと15mm厚のクリアーガラスの2種が用意されているが、ぼくら(K氏とぼく)が選んだのはマットブラック塗装仕上げのスティールパイプ・フレームが際立つガラス天板タイプ。LCシリーズとはLe Corbusierの頭文字による家具作品群で、特にLC2LC3のソファはモダンファニチャーの代名詞的存在となっている。

ところで先日、BSフジで放映された「永遠のデザインを考える旅」(ル・コルビュジエ特集)を見ていたら、このLC6をデザインしたのは、実はシャルロット・ペリアンだったことをぼくは初めて知った。番組で紹介されていた彼女のラフスケッチ帳の中にLC6の研究画が残されていた。『飛行機のチューブ』をテーブルの脚に使うというとてもアバンギャルドな発想がそこには確かに描きとめられていた。スケッチは完成した図面より、そこに至るまでの葛藤が記録されていて、ペリアンという人物をリアルに浮き彫りにしている。スケッチを見ると大半のLCシリーズは彼女の手によるものではないかと思えるほど見覚えのあるデザインが数多く残されていた。

1929年、フランスの美術展覧会でペリアンが出品したスツール(後にLC9となる)を見たコルビュジエは即座にその才能を評価し、そこから長きにわたる共同活動が開始されたのだそうだ。晩年までペリアンの仕事を身近で見守り続けていた一人娘のベルネット・ペリアンさんは、印象に残るペリアンの言葉は?との質問に「扇形の目を持たねばならない」。つまり「よく見ること」という意味をこめた言葉や、「頂上まで必ず辿り着くこと。決して途中でやめない事」と山登りなどのスポーツ好きなペリアンが口癖のように語っていた言葉を紹介していた。情熱と才能溢れるペリアンは、残されているポートレートを見るととてもチャーミングな女性でもあった。コルビュジエと互いに影響を与え合い、二人が多くの作品を生み出すことができたのは、揺らぐことのない互いの信頼関係があったからだろうというのは、一人娘のご主人のコメント。ハードな構造を生み出すコルビュジエという才能と、内側にソフトな視点を持つペリアンという才能。建築を内と外から考えるその視点は、互いにかかせないものだったのである。

また、ペリアンは親日家でもあったことでも知られている。1940 年に坂倉準三の誘いで輸出工芸指導の顧問としてペリアンは日本へ招かれてから、以降数年間度々訪れている。日本の伝統的な暮らしや特有な美意識に深い感銘を受けた彼女は、自身の作品にもそうした影響を色濃く反映していった。なかでも記憶に留めておくべきことは、来日したペリアンが最も共鳴したのが柳宗悦の民藝運動だったことである。2011年に神奈川県立美術館で開催された「シャルロット・ペリアンと日本」展には彼女の手帳も公開されていて、初めて訪れた日本民藝館の印象をこのように記している。

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「柳宗悦の民藝館を初訪問。柳邸で昼食。とてもいい環境。日本に来て初めての芸術界との出会い。また会いたい。

- 柳の自宅。美しい石製の屋根組。美しい木製の骨組み。

- 美術館では、美しい石の床張りに、藁の莚が敷かれている。

- 日本では一般的に、非常に美しい自然の素材を利用する。 下の美しい陶器の展示を見る。

- 朝鮮陶磁が展示されている一階を見る。非常に美しいフォルム。かなり自由な空想力。

- 隣には、柳の書斎がある。イギリス人芸術家のデザイン・・・。要注意。伝統と同じように美しいものを作る必要があるが、新しくても劣ったものを産み出してはならない。伝統は前進を望んでいる。より良いもの、もしくは違うものを作る必要がある。よって、物真似より、民俗芸術の方から多く学ぶことができる。」

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多用される「美しい」という言葉は、民藝館が鮮烈な印象を彼女に残したことを物語っている。そして、私たち日本人は他者の眼から多くのことを学びとることもできるはずである。ペリアンがよく語っていたという柳宗理の回想にはこんな一文もある。

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「あなた方は過去にあなた方の祖先たちがつくったもの、またあなたがたが作られているものをよく手にとってご覧になることがありましょう。そこにあなた方は形だけではなくて、それを使っている人々の精神や生活、あるいはその方法等の内容を学びとることができるでしょう。逆にもしヨーロッパでできたものをあなたがたがご覧になったとき、その内容をかえりみずに形だけをとったとしたらそれは根本的な誤りだと思います。日本はどうしてヨーロッパの国々からその国の純粋さと簡明さを誇る美しい伝統をまったく失ったものばかり取り入れるのでしょうか。」

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こんな言葉を残したフランス人デザイナー・シャルロット・ペリアンのデザインによるガラステーブルLC6が今、ぼくの仕事場に鎮座している。

さて、このLC6のセットとなっているのが、Cassina IXC.のLIMA Chair。デザイナーはティト アニョーリ(TITO AGNOLI)。この椅子もMoMA(ニューヨーク近代美術館)のパーマネントコレクションとなっている。スリムな脚部によって全体感はイタリアンモダンを連想させるスタイリッシュな印象だが、座ってみると座面と背部のソフトなフィット感がすこぶる心地よい。Cassinaが扱うダイニングチェアの中でも抜群の座り心地を誇るモデルのアームレスチェアが4脚、アームチェアが1脚の組み合わせとなっている。

TITO AGNOLIは1931年ペルーのリマ生まれ。(LIMAシリーズは出生地から命名されているようだ)イタリアに移住後、バウハウスの影響と機能美を感じさせる椅子や家具作品を発表し続け、現在もイタリアを代表するデザイナーとして活躍している。何と言ってもこの椅子の特徴は、そのシャープさとブラックレザーのなめらかでソフトな質感の対照的なバランス感だろう。LC6とセットに提案される椅子は数々あるが、このLIMA Chairを組み合わせたK氏の見立ては見事というほかはない。

Cassinaはイタリアの高級家具ブランドとして名高いが、建築家やインテリアデザイナーの間では決して値引きをしないブランドとしても知られている。なのにぼくは、これらの家具を幸運にも割安で購入することができたのだ。というのも、ボスコを設立した際に、お祝い代わりにCassinaに掛け合ってくれた人物がいたからである。その人は仕事を通じてお世話になっていたゼネラルコンサルタントの泉順一氏。泉氏は浜野商品研究所のブレーンとして活躍し、マイカルや、星野リゾートが引き継ぐ前のリゾナーレ小淵沢をマリオ・ベリーニ(Mario Bellini )とともにプロデュースするなど、当時大阪でPDC (Plaza Design Consulting)を主宰していた実業家でもあるクリエイターだ。若い頃には建築家の安藤忠雄氏などとともに世界の建築を見て歩いたという、実に人間臭い大陸的なスケールを感じさせる人物だった。僅かな期間だったが、ぼくは泉氏から多くのことを教えてもらった。今となっては細部まで思い出すことは叶わないが、共に働くことの意味をこのように教えられた記憶がある。それは冒頭に引用した『火山のふもと』で、主人公が老建築家から窘められるこんなシーンだ。

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「クライアントがいて、期日がある。建築家の仕事とはそういうものだ」

「一点の曇りもない、完璧な建築なんて存在しない。そんなものは、誰にもできはしないんだよ。いつまでもこねくりまわして相手を待たせておくほどのものが自分にあるのか。そう問いかけながら、設計すべきなんだ」

「クライアントの言いなりに、納期のために働けという意味ではもちろんない。もしクライアントから不満が出たり、変更を強いられたりしたとき、ぎりぎりでやっていたらどうなる? きみが間違えていた、ということだって起こりうるだろう?いざというときのためにも、つねに時間を見ておきなさい。そういう意味では建築は芸術じゃない。現実そのものだよ」

「設計事務所があるのは、限られた時間を人の数によって増やすためでもあるんだ。一人でやっていたら一日かかる仕事も、ふたりでやれば半日で終わる。図書館の設計なんて、私がひとりでやっていたら、五年かかっても終わらない。私がきみたちに委ねるのも、きみたちが私に委ねるのも、協働ということであって、それは徒弟とか親方とか、そういう上下関係とはべつのものだ。信頼だよ。そうでなければ、いっしょに働くことなんてできないだろう」(255pより抜粋)

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仕事場の夕日をたっぷりと吸い込んだガラスウォール脇に据えられたLC6。その前にぼんやりと腰掛けていると、遙か彼方からゆっくりと去来してくるものがある。テーブルと椅子にまつわる物語はぼくの中で宙づりとなったまま、いまだ完結していない。コルビュジエとペリアン、そしてK氏と泉氏。彼らはもうこの世にはいないのだ。夕日は、ぼくが未だ知り得ない謎を抱えきれないほど高く積み上げ、その未完の風景を今日も茜色に染め上げている。