ポートレート:
上からチャールズ・ダーウィン、ジャン・アンリ・ファーブル、今西錦司、福岡伸一。
絵画作品:
上から5点目より「真珠の耳飾りの女」(青いターバンの少女)1665年  マウリッツハイス美術館所蔵、
「デルフトの小道(小路)」1558-1559年頃 アムステルダム国立美術館所蔵、
レンブラント「自画像」 1640年 ロンドンナショナルギャラリー、
フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ラウテンブルフ副隊長の市民隊(通称)夜警 1642年 アムステルダム国立美術館。

2016.11.01

「突然変異」と「自然淘汰」で説明されるダーウィンの進化論は、たしか少年時代に生物の授業で出会ったと記憶する。しかし、長いあいだ常識となっていたこの進化論も、近年はとみに分が悪い。そもそも進化というものが、そのように時系列に沿って進行していくものなのか?人間について考えてみれば、大きな疑問符がついてしまう。なぜなら、自然に対しての適応力、対応力は明らかに退化しているではないか。昔の人なら苦もなく出来たであろう多くの事が、現代人にはとてつもなく困難な事となっている。それともこれは環境の変化に応じて生じる適応力の入れ替え現象にすぎないのだろうか。当のダーウィンも、進化の度合いが異常に早かった人間については、進化論が一番あてはまらない生物であると述べているし、ダーウィンの共同研究者だったアルフレッド・ウォーレスは「人間が猿から誕生することなどあり得ない」とまで言い切っている。「猿は猿」「人間はもともと人間」ということなのだ。

進化論に沿うなら、進化の過程の生物が発見されるはずなのだが、前段階の生物や中間生物はほとんど発見されていない。むしろ最初から完全に近い形で突然出現したと考える方が自然とする論が主流となっている。ファーブル昆虫記のアンリ・ファーブルも、生き物は生まれたときから完璧なシステムをもっていることを知っていたから、決して進化論には組みしなかったといわれている。では、進化は突然変異によってもたらされるのか。最近の科学はこれにも否定的だ。なぜなら、突然変異では情報が失われてしまうため、進化をもたらさないことが分かってきたからだ。四面楚歌なり、ダーウィン進化論。

ところで、生物学者である福岡伸一さんの活動はなかなかに興味深い。最近面白いコラムを見つけた。朝日新聞掲載の「福岡伸一の動的平衡」。テーマは「新たな地点へ登り続ける」。少し長いが以下に転載してみる。

*

なぜ山に登るのか。そう問われた英国の高名な登山家ジョージ・マロリーは「そこにそれがあるから」と答えたそうな。日本を代表するナチュラリスト・今西錦司は生涯に1552座もの山に登った。同じ質問に対して、今西が語った答えがふるっている。「向こうに山が見える。その山に登ったら、また向こうに高い山があった。だから次々と山に登ります」

これは学ぶことの本質を巧まざる表現で言い当てた名言ではないだろうか。一生懸命、勉強してある地点に達する。するとそこからしか見えない新たな視界が開けてくる。人はその視界の向こうにあるものを目指して、また次の一歩を踏み出す。

今西は、カゲロウの生息分布をたんねんに調べることによって、同じ川であっても流れの速度や水の深度によって、異なる種があたかも互いに他の生命を尊重するかのように「棲み分け」ている様子を発見した。そこから彼は種というものの主体性を考えるようになり、進化は「変わるべきときがきたら、みな一斉に変わる」と言った。

これは生物進化を突然変異と自然淘汰だけから説明する正統ダーウィニズムとは相いれない考え方だった。今では今西生命論は否定され、忘却の彼方にある。が、同じ京都学派の系譜に連なる者として、私は今西錦司の孤高を、いつも視界の向こうに仰ぎ見る。(2016.10.6)

*

福岡さんはここで「今西生命論は否定され、忘却の彼方にある」と書いているが、冒頭のような変化の兆しを見れば、現代科学の潮流は迂回しながら今西錦司の愛した山裾に向かっているようにも感じられるのである。

実は、この分子生物学者にはもう一つの顔がある。福岡さんは17世紀のオランダ人画家ヨハネス・フェルメールの研究者としても世界的に知られている。1988年、初めて見たフェルメールの作品に衝撃を受けて以来、フェルメール芸術を探求する旅を続けている。フェルメールは世界を解釈しようとはしていない。ただ世界をあるがままに記述しようとしている。それもまるで科学者のようにできるだけ正確に…。彼の絵の中には世界を解釈しようとか、自己主張といったエゴがなく、あくまでも静かで、公平で、透明で清明。そんなフェルメールのフェアで奢りのない精神に共鳴し、時系列で全作品を捉え直してフェルメールが目指したものや人生に目をこらし、作品のあいだに潜む文脈を浮かび上がらせようと、たんなる作品研究にとどまらない情熱を注いできた。

そこから編み出されたのが、リ・クリエイト(re create=再創造)という手法だった。それは絵画研究の方法論として、最新のデジタル技術を応用した検証方法を活用する手法だ。フェルメールが使っていた絵の具の種類や材料は記録が残っているので、350年を経て退色してしまった色彩が制作時はどのような色彩だったのか、という科学的な推測が現代では可能となっている。そこで、そうした科学的あるいは化学的な検証と膨大な資料を結集させる。そして、作家が求め描いたであろう当時の色彩をとり戻すべく、最新のデジタル技術を駆使した画像処理で本来の色彩を再現し、当時と同じキャンバスに最新デジタル印刷機で印刷をおこなうことで複製画の域を超えた、「再創造」する新しい複製手法を生み出した。もちろんそこに活用されるのは科学的、化学的検証だけではない。

例えば、福岡さんがテレビの特集番組で紹介していたのは、フランス・ブライセンハウト氏による研究成果。フェルメール作品のほとんどは彼のアトリエ内の光景がモチーフとされていて野外風景は2点しか残されていない。そのうちの1点、「デルフトの小道(小路)」が、一体どこを描いたものなのか、長いあいだ謎とされてきた。フェルメールは生まれ育った小さな町デルフトから生涯出ることがなかったから、野外風景もこの町がモチーフとなっているのである。

ところが最近謎を解く糸口となる出来事があった。デルフトの350年前の納税記録が発見されたのだ。ブライセンハウト氏が注目したのは、当時デルフトでは家の間口の広さによって納税額が決められていた事実だった。フェルメールはあらゆる細部を非常に正確に描き出したと考えられていることから、まずこの絵に描かれた家の間口サイズが割り出された。さらに描かれている2つの入口がついた路地のような特徴的な通路という、これら2つの情報が納税記録と照らし合わされ、割り出された場所はアドラントゲン・クラース家の前6.2メートル。なんとここはフェルメールの叔母の暮らす家だった。そしてそこからひとつの仮説が提出された。「小路」に描かれている女性の一人は叔母にあたる人物ではないか。家の前でおはじきで遊ぶ2人の子どもはフェルメールの従兄弟にあたる子どもたちではないのか。

現存するフェルメール作品はわずか33〜36点と言われ、展示されている美術館も世界中に分散しているが、リ・クリエイトによって複製された全作品を同一空間に作成順に並べることはできる。そこで彼の全生涯を再体験してみようという福岡さんのアイデアから生まれた「フェルメール 光の王国展」は、日本やニューヨークで2012年から2015年まで巡回開催され大きな反響をよんだ。

こうした新技術の応用はフェルメールだけにとどまらない。フェルメール同様、オランダの光を描いたと言われるレンブラントはフェルメールとほぼ同時代に活動した画家であるが、現存する絵画作品は、どれも制作された当時の姿のまま残っているわけではない。レンブラントの代表作と名高い「夜警」(通称)にも実は不運な歴史があった。「夜警」は市役所に移行されることとなり、その際設置場所に収めるために、何と左側と上下の一部が切り落とされてしまったのだ。それによって構図は台無しとなり、レンブラントの意図は致命的なダメージを被ってしまった。そこで、現代の研究者たちは本来の姿を取り戻すべく、標準的なキャンバスの幅やキャンバスを張った際に生じる布の歪みに関する現代の知識を駆使したデジタル処理で切り落とされた部分を再現したのだ。他の事例ではX線によって絵の具の下に描かれていたもう1枚の絵を探り出したり、画家が何を求めていたのかを様々な角度からアプローチする研究が盛んに行われている。2015年には、リ・クリエイトにARという3次元CGの検証手法が加わり、より重層的な謎解きが楽しめるようになった。(この拡張現実の活用法はlexues NEWSのページに詳しく説明されている)

このように新しい技術によって修復は明らかに進化を遂げ、現代技術の応用手法は歴史の闇に埋もれていた数多くの謎に新たな光をあてる試みとなっている。それにしてもその発想が、科学と芸術の接点から生み出されているのはなんとも暗示的ではないか。知の源流はただひとつということか。

進化とは一体なんだろう。350年も昔の謎をいまだに探り続けているのである。私たちが生きている世界を流れる時間は、近代以降その速度を急速に増しているが、その流れに溺れまいと現代人が奔流にさしている棹こそが、DNA解析のヒトゲノム計画(Human Genome Project)に連なる分子生物学など、蓄積された現代知を駆使してひとつずつ解き明かしていく新技術の応用なのではないのか。地球上にはおよそ2,000万種の生物が存在するという。しかもそれらは最初から完璧なシステムをもっている希有な創造物である生命体だ。つまり、進化とは自身が完璧な生命体であることをひとつずつ確認していく過程の別称なのかもしれない。

上から
「岡田紅葉「神韻霊峰 七面山」昭和18年3月」、
「岡田紅葉「富士山」1950年」、
「岡田紅葉「霜枯」忍野村 昭和5年12月」、
岡田紅葉 近景。
Apple HP で8月11日「山の日」にちなんで
1日限定で公開された
「iPhone6sで撮影した新しい富嶽三十六景」(部分)。

2016.9.01

退職した男性が夢中になる代表的アイテムに、蕎麦打ち、陶芸、日曜大工、家庭菜園、釣り、世界文化遺産見学と並んで一眼レフカメラがランクインされているという。ずっしりとした一眼レフは、若かった頃には手の届かない高級品だった。そんな記憶をもつ人々にとってのそれは、自分もここまで来たんだという達成感の証でもあるのだろう。オヤジバンドに夢中になっている壮年ロッカーも同様で、憧れだったベンチャーズのメンバーが弾いていたモズライトをやっと手に入れて、家に帰ればトイレにまで持ち込んで抱きしめてるなんて話を聞くと、微笑ましいやら、もの悲しいやら…。

ところで、遅れてやってきたカメラ小僧はその一眼レフカメラで何を撮るのだろう。身近な人々や可愛がってるペットの撮影に夢中になるケースもあるだろうが、多くはその対象は自然へと向けられるのではないだろうか。こんな趣味もあるんですと、身をかがめて路傍の草花にレンズを向け、撮りためた作品を額装して診察室に飾る医師がいたり、トレッキングした先々で野草ばかり撮りためてネットにアップしたりと、楽しみ方もさまざまだ。

四季折々の風景を撮り残す古典的な楽しみの延長に「富士を撮る」という王道が鎮座している。日本人にとって富士は日本一の山。まさに不二の山なのである。その存在感は宗教的ですらある。その富士にレンズを向けようと、愛好家たちが山麓の撮影スポットに一年中集結してくる。中には自家用車をキャンピングカーに改造して、本格的な機材をどっさりと積み込んでは、泊まり込みでベストショットを狙う人々もいる。富士五湖周辺では日常的に大勢集結している、こうした撮影準備に余念がない重装備のアマチュアカメラマンたちを目撃することができる。

裏富士に位置するぼくの暮らす山梨では地元の富士を代表するイメージとして、富士山が鏡像として湖面に写り込む逆さ富士のカットや、青空に映える桜の花々の向こうに富士がひかえるカットなどが度々登場して目に焼き付いている。富士は四季折々、そして一日の中でも気象条件によって万華鏡のようにさまざまな表情を見せる。厳密に言えば一度として同じ表情は見せないはずの富士山なのだが、撮影された写真を見ると、どれも典型的な富士のイメージの中に見事におさまってしまっているのは何故なのか。同じ被写体なんだから似てくるのは仕方ないことだが、写真にはそうした表現としての宿命を超えていく可能性も秘められているはずなのだが…。

先日、地元にある考古学博物館に行くと、特別企画としてある写真展が開催されていた。それは岡田紅葉の撮った富士の作品展。日本に風景写真、あるいは観光写真というジャンルを切り拓いたと言われる岡田紅葉は、忍野村を拠点に富士山を撮り続けたことでも知られているが、オリジナルプリントを見るのはその時が初めてだった。

岡田紅葉は1975年、77歳でその生涯を全うするまでの58年間で、およそ40万枚にも及ぶ富士山を撮影したといわれる。彼が本格的に富士と向き合い始めた時期も関係しているのだろうが、圧倒的にモノクロ作品が多い。それも、通常の銀を感光させるモノクロプリントでなく、白金を用いたゼラチン・シルバー・プリントと呼ばれる焼き付けなので、ひきしまった黒と無限に近いグレーの階調は彼の向き合った富士の姿をさらに重厚に際立たせている。もちろん、多彩な試みが展開されているカラー作品も十分に刺激的だし、切手や紙幣の図柄に多く取り入れられた、もはや古典とも言える富士のイメージも印象深いものだったが、日本画や版画を連想させる抽象性に富んだ作品類は刺激的だった。こういう風景写真もあるのかと意表を突かれた思いだった。

岡田紅葉、本名岡田賢治郎は新潟で明治28年に生まれた。山水画の雅号をもつ衆議院議員の父や新潟初代知事を務めた兄をもつ学術一家の3男として、北国の自然のなかで自由闊達な幼年期を過ごしたという。やがて彼は早稲田大学予科に入学し、学業の傍ら友人から借りたカメラで初めて富士山に接して以来、その魅力のとりこになっていく。いったんは就職したものの、やはり写真で身を立てていくことを決意して東京府専属写真師となり、並行して富士山撮影にも情熱を傾けようとしたその矢先、あの関東大震災が起きた。運良く難を逃れた彼は荒れ果てた街に佇み、遥か先の紅に輝きだした富士の山肌を見てその荘厳さに感動する。そしてそのときふと心に浮かんだ「紅葉」という言葉が以後、彼のペンネームとなった。大正3年から65年間、原版にして38万枚もの富士を撮った紅葉だったが「1枚の快心の作がないのだ」と口癖のように語っていたという。

「今まで写した原板は大小数万枚に及ぶも、一枚として同じ富士山は写っていない。まして会心作などは1枚も見当たらない。1秒の何分の1かの時間が、どんなに尊いものかが解ってきた。そして大自然の摂理が、いかに冷厳であり、また反面、温情の恵み豊かさであるかが感得されたとき、私は限りない敬虔と感謝の念に打たれた。」(1970年 写真集「富士」 求龍堂刊)

紅葉は富士山を「富士子」と呼び「富士子に会いに行く」と言って富士への撮影に出向いたそうだが、4冊目となる写真集でこのように綴っている。

「(中略)14年前(終戦当時)ごろまでは主として彼女の外貌の美しさ、秀麗の姿に打ち込んできたが、近頃になって彼女の内面、心の良さに魅せられたからであろう。(中略)全く私は手に負えない気むずかしい恋人をもったものである。」

愛着から畏敬。写真を通じて富士と出会い、そして写真を超えて富士を愛した紅葉。

その彼の業績を残した岡田紅葉写真美術館のある忍野村には、シーズンともなれば今も大勢のアマチュアカメラマンが全国からやってくる。そして平成の紅葉よろしく、思い思いのアングルで自分の富士を写しとっていく。

趣味の領域を出ていないで、仕事のかたわら休日などに楽しみながら絵を描く人々は、職業画家とは区別されて日曜画家と呼ばれている。富士の裾野に集うアマチュアカメラマンも、いわば写真の世界の日曜画家なのかもしれない。刻々と表情を変え、ひとつとして同じ顔を見せない富士だが、何故か大半の彼らの風景写真は類型化している古典的なイメージに埋もれてしまっている。ベストアングルを狙えるスポットに競って陣取り、三脚を並べれば必然的に類型化してくるのは避けられない気もする。野山に分け入り、誰も据えたことのない場所に三脚を立てるへそ曲がりには、へそ曲がりの見たへそ曲がりの富士を写し取ることができるはず、と考えるのは門外漢の浅はかさなのだろうか。傑作と言われなくとも、それはそれで充分に「私の富士」であると思うのだが…。先日、そんな話をしていたら、知人が中学生のときに配られた夏休みの副読本の事を思い出し、その中に太宰治の見た富士の話があったと教えてくれた。そうだ!「富嶽百景」の冒頭の記述だ。

「(中略)東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい。冬には、はつきり、よく見える。小さい、真白い三角が、地平線にちよこんと出てゐて、それが富士だ。なんのことはない、クリスマスの飾り菓子である。しかも左のはうに、肩が傾いて心細く、船尾のはうからだんだん沈没しかけてゆく軍艦の姿に似てゐる。三年まへの冬、私は或る人から、意外の事実を打ち明けられ、途方に暮れた。その夜、アパートの一室で、ひとりで、がぶがぶ酒のんだ。一睡もせず、酒のんだ。あかつき、小用に立つて、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。小さく、真白で、左のはうにちよつと傾いて、あの富士を忘れない。窓の下のアスファルト路を、さかなやの自転車が疾駆しつくし、おう、けさは、やけに富士がはつきり見えるぢやねえか、めつぽふ寒いや、など呟つぶやきのこして、私は、暗い便所の中に立ちつくし、窓の金網撫でながら、じめじめ泣いて、あんな思ひは、二度と繰りかへしたくない。(後略)」(「富嶽百景」太宰治)

こんな「くるしい富士」、「クリスマスの飾り菓子みたいな富士」の写真だってあって良いではないか。 風景写真におけるプロフェッショナルとアマチュアのボーダーはどこにあるのだろう。前者と後者の違いは、完成度に関して撮影した作品数に占めるパーセンテージの違いだ、とある人は言う。つまりプロフェッショナルは質の高い作品をアマチュアより高い確率で撮り続けることができると。しかし偶然であったにせよ、素晴らしい作品が1点あれば、それでよいのではないかという人もいる。あるいはこんな考え方もあるかもしれない。登山家が登った山の上で、この光景は残しておきたいと撮影した写真はいわゆる記録写真だが、こういう写真をそこに行って撮りたいのだ、というイメージが前提として存在する山岳写真家の表現としての写真。この両者の違いは決して小さくはない。

今年から改正祝日法で新設された8月11日の「山の日」にちなんで、appleサイトのトップページには1日限定でiPhone 6sで撮影した新しい富嶽三十六景が紹介されていた。一眼レフカメラでなく、片手におさまるスマホカメラでカジュアルに写しとられた富士の数々。古典的な面影を残しながら、現代の富嶽三十六景はどこか軽やかだ。この富士山とスマホカメラを隔てる空間には、新しい時代の空気感が充満しているようにぼくには感じられるのだが、そのヒミツは向き合う心持ちの軽やかさなのかもしれないと思ったりもする。

上から井伏先生の色紙と芳名。
次が山口勝弘、1992年の作品 
"Media Circus"(photo Sadamu Saito)とポートレート。
下4点はヨシダミノルの作品とポートレート。
下から2番目は1970年制作の
《バイセクシャル・フラワー》 "Bisexual Flower" 。

2016.7.02

ある日、亡父の部屋の整理をしていた兄が一枚の色紙を見つけた。そして、そこにぼくの名前があったと届けにきてくれた。大学で中国文学を専攻していた兄は流麗な筆文字を解読して色紙にはこのように書かれているのだと教えてくれた。

落ちるなよ あめ(雨)の 葉うらの蝸牛(かたつむり)

小林春生君の四人展を祝ふ

あせらず じっくり そして 求めよ

昭和四十五年 夏 井伏 (写真最上部)

高校卒業後、ぼくは上京して東京新橋にある現代美術研究所という、美術評論家、植村鷹千代先生が主宰する私塾に入所して美術の勉強を開始していた。そして2年目の夏、所員4人による展覧会に参加したのだ。会場は銀座に近い新橋にある「地球堂」というギャラリー。他のメンバー3人は、ぼくより年長で年齢もバラバラ。女性二人と年配の男性画家一名の中に若いぼくが混じって、キャリアも作風もランダムな4人展だった。

しかし、この46年も前に参加した展覧会への祝いの言葉を、ぼくに宛ててあの井伏鱒二先生が書いてくれたことはまったく想定もしていなかったし、ただただ驚いてしまった。

どうして生前、父はこの色紙をぼくに見せてくれなかったんだろうという率直な疑問がまっさきに湧く。うっかり渡し忘れるということは父の性格からしてまず考えられない。いろいろ思い巡らせたあげくに、こういう事ではないかという結論に至った。上京した我が子が東京の画廊で展覧会に出品するという知らせを聞いた父は、晴れがましい気持ちになり、文学の師と仰ぎおつきあいしていた井伏先生にそれを案内したのではないか。そして後日、若者を励ます色紙を送っていただく。しかし、そこで父は考える。もしかしたらこれは自分の勇み足だったのではないだろうか。余計なことをして、と息子にたしなめられはしないかと少し後悔する。ならば、これは封印しておこう。こんな経緯があったのかも知れない。 この蝸牛の詩は検索してもそれらしきものは見つからないから、おそらく井伏先生が創作されたものだろう。雨の中、落ちてなるものかと葉っぱの裏側にしがみつく蝸牛の姿が目に浮かんでくる。そして「あせらず じっくり そして 求めよ」。何と文豪らしい、シンプルで深い励ましか。二十歳のぼくがこの言葉と向き合ったら、その後の人生が少しは違うものになっていたのだろうか。

さらにこれには後日談がある。この展覧会の芳名帳はぼくが預かっていたのだけど、昔飼っていた猫にボロボロに引きちぎられてしまっていた。それでもこれを機にもう一度眺めてみようと思いたち、棚の奥から出した芳名帳の埃をはらう。すると何やら見覚えのある筆跡で、そこに何と色紙と同じ詩が書きつけてあるではないか。(二番目の写真)残念ながら左端がちぎれているため名前は確認できないが、たしかに色紙にあった井伏の伏の字の末尾が残っている。間違いなく会期中、井伏先生が画廊を訪れてくれていたのだ。井伏鱒二と明確に書いてあれば分かったけれど、井伏という文字はかなりクセがあるので、ぼくも含めて何人もこのページを見ているはずなのに誰も解読できなかった。たまたま発見された色紙があったからこそ判明した、偶然の出来事から半世紀近く経って明らかになった真実だった。さらに別なページにはもう1枚の切れ端が残っていた。(上から2番目の左側)まだ、大学入学まもない頃の中沢新一さんのサインだ。書いてくれたその翌日に、ぼくの頼み事をきいてくれるために渋谷の待ち合わせ場所に中沢さんはやって来てくれたから、このサインのことはよく覚えている。いまではもう馴染みとなった漢字のサインでなく、奔放なカタカナがなんとも初々しい。

ところでこの四人展、ぼく以外3名の出品作は作風は違えどキャンバスに描かれた抽象画だったが、ぼくの作品だけは毛色の違ったものだった。それはさまざまな素材を組み合わせた、いわゆるミクスドメディアによる立体作品。記憶を辿れば、ブラックライトを内蔵したステンレスフレームとアクリル板の直方体作品が確か2〜3体。そしてその背面には自分の家族の記念写真(ぼくが4歳くらいの集合スナップ)をシルクスクリーンで印刷したユニットを20枚ほど配置したパネルと、同じサイズのさまざまな配色によるユニットを床に並べて、直方体の中からはエンドレステープによる胎児の鼓動音が流れている。そんな複合的な作品だったと記憶している。当時ぼくの興味はライトアートと呼ばれる光学的表現に向かっていたので、展覧会ではたとえ米粒のような小舟でもよいから、新しい潮流に漂いながら自分のルーツについてなにか表現できないか模索してみようと考えたのだった。

ライトアートとはテクノロジカル・アートと呼ばれる科学技術を応用する芸術のひとつで、おもに人工光を取入れた光の芸術の総称とされる。テクノロジカル・アートのルーツは20世紀初頭に現れた未来派の芸術家たちが機械による拡張と動きを賛美したことにはじまる。特に1920年代のモホリ・ナギらが開拓したライト・アートは美術史上のエポックとされているが、そこから綿々と科学技術の美術への応用が展開され、磁石、サイバネティックス、レーザー光、ビデオやホログラフィーなどといった技術がめまぐるしくアート・メディアに導入されながら、さまざまな芸術領域が開拓されてきた。電気仕掛けの機械作品は電子制御装置のテクノロジー・アートへと変貌を重ね、さらにはコンピュータ性能の飛躍的向上を背景に登場してきた新しい芸術表現であるメディア・アートまで、科学技術とその応用芸術の歴史は綿々と紡がれてきた。

日本では戦後まもなく滝口修造の肝入りで結成された「実験工房」が和製テクノロジカル・アートの先駆的役割を担ったが、その中には当時ぼくがリスペクトしていたキネティック・アート(動く芸術)作家の一人だった山口勝弘もいた。また、音楽家ではオノヨーコの前の夫であった一柳慧武満徹も名を連ねている。1970年大阪万国博覧会後には「ハイテクノロジー・アート」展を主催したグループ「ART-UNI」も結成され、キネティック彫刻の伊藤隆道も参加している。そういえば、ぼくは当時四谷でその伊藤隆道が主宰していたMOV工房に何とか潜り込みたくて、友人だった中沢新一さんの縁者が伊藤隆道と親しいことを嗅ぎつけ、紹介してもらうことにした。彼がぼくの四人展に顔を出してくれたのも、そんなぼくの頼みを聞いてくれるためでもあった。しかしせっかく骨を折ってもらったのに、後日MOV工房を訪ねたが伊藤さんは不在で会うことができず、その後もすれ違いが重なってしまい、結局縁がなかったんだと漠然と抱いていた希望も尻すぼみとなってしまった。

山口勝弘はキネティック・アートの代表的作家といえるだろう。当初はガラスを用いたが、その後はアクリル樹脂を利用した光の彫刻を発表。重層するアクリル樹脂を光で浮かび上がらせるその絵画とも彫刻とも形容しがたい立体作品の直線的でシャープな印象は新しい時代の到来を予感させるものだった。

もうひとり、ぼくが惹きつけられていたキネティックアーティストは、1928年東京生まれの山口より7歳若い1935年大阪生まれのヨシダミノル(本名・吉田稔)。美術家としてだけでなく、京都出身の伝説のロックバンド「村八分」といった京都のアンダーグラウンド文化にも影響を与えた現代美術家で、ロックグループ「くるり」を2013年に脱退した吉田省念の父としても知られている。ヨシダミノルの作品でぼくがもっともグッときたのは、具体美術にも参加した70年頃に発表された、光るクラゲのような湾曲したアクリルを素材にした動く彫刻群だった。シャープな山口作品とは対照的に、有機的でエロティック。蛍光アクリル板の定番ともいえる透明グリーン板の断面にはブラックライトの光が凝縮され、一筆で描いたような曲線が際立ってくる。いわゆるエッジライティングという現象だ。本人の飄々としたインタビュー動画も微笑ましいのだが、残念ながら2010.10に亡くなってしまった。それにしても山口、ヨシダといったキネティック・アートの先駆者達も晩年は仙人みたいな風貌となっている。最先端も矢張り枯れてくるんだなぁ。

当時のぼくは、何とか有機的でエロティックな表現ができないかと模索してみたのだが、資金も技術や知識もなかったので断念するしかなく、比較的制作しやすい、イメージとしては山口作品に近い立方体でトライしてみることにした。そこでこれまで試みていたような絵画表現でなく、テクノロジカル・アートの文脈の中で「自分はいったいどこからやって来てこれからどこに向かっていくのか」という最も古典的命題を掲げてはみたものの、表現物としてはまったく拙い代物だった。何故なら、この作品は暗い空間に置かれてはじめて制作意図が伝わるもので、その意味ではまったくの失敗作。明るい展示室という制約条件下では、蛍の光を昼間眺めようとするようなもので、まったく当初の目論みを果たせるようなものではなかったからだ。今となれば、お住まいの荻窪から出向いてくださった井伏先生が、ぼくの作品の前に佇んでいる光景に身のすくむ思いである。

起源とされる洞窟壁画にはじまる絵画も当時は最新技術だったに違いはないのだが、あたかも心の窓のような平面に表現するという行為にはどうやら普遍性が宿っているらしい。そう考えなければ、今に至るこの様式の堂々たる存在感を説明することは難しい。翻って、それから続々と登場してきた技術に触発されて生まれた数々の芸術のなんと脆弱なことか。新しい技術もしばらくすれば新登場する技術に覆い隠され、やがて過去のアーカイブへと後退していくし、それとともに生み出された芸術表現も次第に色あせてくる。そうして栄枯盛衰を辿りながら、目まぐるしい変貌の渦に飲み込まれていく。そう、パンタレイ(panta rhei)。万物は流転しているのだった。

上からジオラマと鉄道模型の数々。
5点目は客車に収まる乗客のミニチュアスナップ。
下2点はウォルト・ディズニー・ワールド鉄道での
フロンティアランドとファンタジーランドに向かう
機関車の新旧スナップ。

2016.5.01

その時、蒸気機関車は噴煙を上げながら長野方面に向かっていた。やがて汽車はカーブにさしかかる。そこでぼくは、先頭で車輌を牽引している機関車を一目見ようと、親の制止も聞かずに開いていた窓から身を乗り出した。するとそのとたん、前方から飛んできた煤煙に混じった石炭の燃え滓が目の中に。「ほら、言わんこっちゃない」という親の声と目の中のチクチク、ザラザラした痛みの感覚がいまもリアルに残っている。もう一つ電車にまつわる記憶がある。今はもうなくなってしまった、地元駅にあったヨーロッパ映画のワンシーンを想わせる、重厚な煉瓦の壁に覆われた貨車の発着所の風景だ。

男の子なら誰でも一度は夢中になる電車だが、それからぼくは所謂「鉄ちゃん(鉄道を趣味とする者)」になることもなく、めまぐるしく入れ替わる趣味のリストに電車が加わることはなかった。ただ、成人してからのわずかな期間、鉄道模型に興味を示したことがあった。きっかけは覚えてないが、Nゲージと呼ばれる小さな規格の鉄道模型をレールや簡単なストラクチャー、アクセサリー、シーナリー用品で組み立てた名ばかりのジオラマで走らせてみたりしたのだが、それも長続きすることはなく、その思いつきの痕跡は段ボール箱の中に眠ったままだ。

ところで「鉄ちゃん」の分類は実に多岐にわたっている。車輌研究にのめり込む者。鉄道写真に夢中になる者。走行音や構内アナウンスの録音や音響研究にはまる者。運転や施設設備、そして業務に興味を示す者。(ここから関連業種に就くケースも多いようだ)また、時刻表や駅の研究に没頭する者や実際に乗車したり、その旅情を楽しみとする者など様々に枝分かれしている。そして、決して外すことのできないジャンルが鉄道模型である。

菓子のおまけや手軽な鉄道おもちゃとして作られたのが鉄道玩具。ここを入口にして「鉄ちゃん」になった人も多いことだろう。片や鉄道模型は、基本的に自走する車輌と線路(軌間)が常に対となっている。その歴史も相当古く、Wikipediaによれば、「最も初期の縮尺1/64の鉄道模型は1896年にイギリスの14歳の少年によって造られたMidland Railway 4-2-2。最初の動く模型は20世紀初頭にイングランドで製作された。」とある。

鉄道模型には様々なスケールがある。1番ゲージは縮尺1/32(または30.5)・軌道(レール幅)45mmでアメリカやイギリスなどで一般的なスケールだという。16番ゲージは日本国内の規格名称で縮尺1/76〜87(または〜90)・軌道(レール幅)16.5mmのものを示す。また、日本の鉄道模型の規格には35mm、縮尺1/80・軌間16.5mmのJスケール 、軌間9mm未満のU9規格がある。その他、1972年ニュルンベルク国際玩具見本市においてメルクリンから発表されたのは、商業模型において将来これより小さいものは出現しないだろうとして命名された縮尺1/220・軌間6.5mmのZゲージがある。しかし精密加工技術の裾野が広い日本には、さらに小さい指先に乗るほど小さな軌間3mm・1/450スケールの・極小鉄道模型のTゲージも誕生している。逆に大きいサイズでは縮尺1/22.5・軌間45mmのドイツ語のGross (大きい) に由来するGゲージや縮尺1/64・軌間22〜22.9mmのSゲージがあるが、現在国内で最もポピュラーとなっているゲージは縮尺1/87(3.5mmスケール) ・軌間16.5mmのHOゲージと縮尺1/148 〜1/160・軌間9mmのNゲージだろう。HOゲージとは縮尺1/43〜1/48 ・軌間32mm (国によって微妙に異なる)のOゲージの半分、つまり、Halfの頭文字をとってこのように呼ばれている。海外ではHOゲージが主流のようだが、よりコンパクトなNゲージは現在日本でもっとも普及している鉄道模型と言われている。これらHOゲージとNゲージの楽しみ方は、車輌収集や車輌工作(改造・自作)、そしてジオラマで模型を走らせて運転を楽しんだり、レイアウト・ジオラマを製作したりと分化している。

実は最近、出入りしているジャズ喫茶の常連で鉄道模型にはまっている人物を介して二人のモデラーを紹介してもらうことになった。いずれも人生の先達だが模型にかける情熱は若々しく、しかもディープだ。もう一人、断捨離をしているという人物からはNゲージコレクションを格安で沢山譲ってもらったから、眠っていたぼくの収集癖はこのところまた疼き出しているのである。この断捨離の御仁は鉄道模型よりもっぱら対象を戦車に絞り込んでいて、蓄積された知識も相当なもの。ぼくも模型作りにはまったことがあるから知ってるが、戦車は模型の中でも特にパーツが多いため完成までにはかなりの集中力を要求される。キャタピラを一部品ごとに組み立てていくなんて考えただけでも気が遠くなるが、大晦日、工作に夢中になっていて、気付いたらすでに年が明けていたとその御仁は笑っていた。

さて、ぼくが常連の案内で見学したのは、鉄道模型では一目置かれているというベテランモデラーY氏の自宅の工作室。Y氏は地元高校で40年間数学の教鞭をとり10数年前に退職されたが、それからは1日の大半を工作に充てているという本格派。もっぱらHOゲージの車輌工作にフォーカスしていて、ジオラマまで手を染める余裕はないのだそうだ。ベースとなるのは様々なメーカーから発売されているキットだが、そこからいろいろな改造を加えていく。実車に合わせるため、走行時には見えない底部に装備された部品類も真鍮板を切り出して溶接を繰り返し、塗装技術を駆使してリアルに再現していく。貨車に積まれた石炭は本物の石炭を忠実な縮尺で砕いたものが固められていたり、その車輌の実走音が録音されたCIチップを模型にセットして、サウンドは走行時に再現される仕掛けだ。鉄橋にさしかかる前に必ずかけられるブレーキ音にも抜かりはない。客車の車内には虫眼鏡でないと鑑賞できないほど精密に彩色された老若男女のミニチュアが何輌にもわたって思い思いの位置に配置されている。(5点目の写真参照)しかし、車輌の窓はスモークなので外から乗客は見えない。老練なモデラーが不思議そうな顔するぼくを見ながらコントロール盤を操作すると、何と車内にセットされたLEDのミニライトが点灯し、ノスタルジックな客車の風景が出現する仕掛けに唖然。おまけに先頭車輌に取り付けられた極小カメラによって、走行用に用意された簡易ジオラマを走る光景が工作室のテレビにモニターされているではないか。この情熱とこだわりは一体どこから湧き出してくるのだろう。複雑な配線図も解読して変更を加えながら自作しているので、情熱だけでなく、工学系の知識がなければとても出来るものではない。工作室にはおびただしい車輌が陳列されていたが、並びきらない車輌は専用の箱に収まり、別室に多数保管されているのだという。車輌は高価なものでは数十万の値段もつくというので、所有数を考えると相当な金額になるだろう。マニアにとっては垂涎のコレクションも興味のないものにとっては唯の玩具の山に過ぎない。一般的に鉄道模型のモデラーやコレクターは、昔懐かしいノスタルジーに誘われた世代が多いため、高齢化が進んでいる状況は否めない。コレクターが亡くなった時にはすぐさま駆けつけらるよう情報網を張り巡らせ、査定・買付をする専門業者さえ存在するらしい。

さて、次に件の常連が案内してくれたのは老練モデラーよりさらに高齢の80歳になるK氏宅。何でも個人としてはめずらしい本格的なジオラマを自宅に再現していて、自慢のコレクションを走らせては夜な夜な楽しんでいるそうだ。ジオラマルームに足を踏み入れると、なるほどこれは年季が入っている。一部屋まるまるワンダーワールドではないか。日々、司令室となっているコントロール盤の前に座っては時の経つのも忘れ過ごしているとのこと。出色なのはジオラマ・ストラクチャーのリアリティ。様々な市販パーツや自作パーツを組み合わせては創意工夫を凝らした見事な仕事ぶり。駅舎やプラットフォームの佇まいは子どもの頃に見た記憶が原形となっているのだそうで、ジオラマの駅には「笛吹鉄道」の「雁坂駅」とか実在しないが、地元にある地域名を反映させた架空の名称がつけられていて何とも微笑ましい。こうしたディープな鉄道模型マニアを見ていると、その原動力となるルーツに思いを馳せずにはいられない。おそらくは、数十年にもわたってメラメラと燃え続ける情熱は、幼少期のかすかな遠い記憶が着火点となっているに違いない。かように記憶が生み出す力は想像を超えたものがある。

ウォルト・ディズニーが鉄オタだったのはつとに有名な話だ。大の鉄道マニアだったディズニーの鉄オタ魂に火をつけたのは1946年にシカゴで開催された鉄道博覧会での体験だった。機関室に招き入れられた彼はそこで汽笛を鳴らしたり、会場で機関車のパレードを見たり、運転体験をしたり…。それは彼にとって夢のような体験だったようで、帰宅後、妻にいままでの人生で一番楽しかったと漏らしたとか。この体験からのちのディズニーランドにつながるテーマパーク構想が誕生するのだが、まず再現されたのがアメリカの古きよき時代のパノラマ的風景を一周する架空の「サンタフェ鉄道」の蒸気機関車だ。世界中の人々を惹きつけてやまないディズニーランド誕生の原点は、ウォルト・ディズニーが抱いた鉄道を出発点とした開拓時代の古き良き時代のアメリカへのノスタルジーだった。

鉄道模型やジオラマには、凝縮されたリアリティが顕微鏡的スケールで再現されている。こうした繊細さの極限に挑むような職人芸を好むミニチュア志向は日本人のお家芸でもある。茶室しかり、盆栽しかり、俳句だって世界に類例のない顕微鏡的文学表現ではないか。

「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて蟹とたはむる」

この有名な石川啄木の歌には小さなものへと関心を集中させていく日本人特有の民族性がよく表されていると指摘する韓国の学者の話が中沢新一さんのエッセイで紹介されている。

「ほら、ごらんなさい、と彼は言う。啄木は、カメラをずんずん寄りつかせるようなやりかたで、自分の主題にせまっていこうとしているでしょう。はじめ画面には、ひろびろとした青空とそこにひろがる太平洋がとらえられています。その自然の大きさ、雄大さが主題かと思っていると、たちまちカメラは「寄り」の態勢にはいるのです。ズームアップ開始。海のなかに発見された小島の光景に画面はいっぱいになり、そこでとどまるかと思えば、さらにそこをとおりこして砂浜にたどりつく。そこにはセンチメンタルに歌人がすわりこみながら、泣いている。カメラはなおも容赦なくズームをつづけ、ついにその歌人の手もとにたどりつく。するとそこには、小さな蟹たちが這っているのです。どうですこれが「縮み志向」の発想なのですよ。太平洋から、砂浜の蟹まで、つねに自分の視野を狭くして、自然のなかの小さなものへと関心を集中させていく。大きなものをその大きさのままに受け入れたり、立ち向かったりするのではなく、日本人はまずその大きなものの縮尺モデルをつくりあげ、それをもてあそぶことが好きなのです。日本人とは、そういう特徴をもった民族なのですよ、とその韓国の学者は説明していた。」(物質の抵抗「縮み志向」展より抜粋)

この指摘を受けて中沢さんは考える。日本人はただのミニチュア愛好の民族なのか。小さな模型やモデルをつくろうとする、こういうタイプの「縮み志向」には、部分にこだわるのではなく、まず全体の認識を優先させようという、いさぎよい思いきりが潜在しているのではないか。「縮み志向」は、その背後に、全体の認識への欲望を秘めていて、つまりこれはまぎれもないひとつの芸術的な文化なのだと。小さく縮められた自然や生き物(ここには生き物がつくりあげたノスタルジーの産物も仲間入りさせてあげなくてはならないだろう)の世界を目の前にするとき、人の心はこまやかな愛情にみたされるようになる。それは世界をチャーミングにする、ひとつの技術なのである、と。そう考えれば、決して鉄ちゃんでも何でもないぼくが、鉄道模型やジオラマの世界に吸引力を感じたりするのは、自身に潜在する「縮み志向」の奥部に全体の認識を欲望するもう一人の自分が潜んでいたからなのだと腑に落ちる。少年時代から今に至るまで、精緻で濃密なミニチュアに理屈抜きで魅了されてきたこともやっと理解できるのだ。おかげでこんなぼくの心もひとときこまやかな愛情にみたされ、ほんの少し、ぼくの世界もチャーミングになってくれるのだ。

井伏鱒二直筆の「歓酒」掛け軸
若かりし日の仕事場の西野氏
端正な西野作品群

2016.3.02

父の形見分けとして遺された掛け軸がある。その中の1本を久しぶりに開いてみる。巻き紙には父の筆跡で「勧酒 この盃を受けてくれ 井伏先生筆」とある。ここには8世紀の漢詩人、干武陵(うぶりょう)の漢詩「歓酒(かんしゅ)」の一部が井伏鱒二直筆で書かれている。

「君にこの金色の大きな杯を勧める なみなみと注いだこの酒 遠慮はしないでくれ 花が咲くと 雨が降ったり風が吹いたりするものだ 人生に別離はつきものだよ」

この原詩を井伏鱒二が意訳したのが、妙訳として名高いこの一節だ。

この盃を受けてくれ

どうぞなみなみ つがしておくれ

花に嵐のたとえもあるさ

さよならだけが人生だ

「サヨナラ」ダケガ人生ダ。この最終行の突き放しが、心にずしんと沈みこむ。井伏鱒二著『因島半歳記』には、こうしたためられている。

「『左様なら左様なら』と手を振った。林さんも頻りに手を振ってゐたが、いきなり船室に駆けこんで、『人生は左様ならだけね』と云うと同時に泣き伏した。そのせりふと云ひ挙動と云ひ、見てゐて照れくさくなって来た。何とも嫌だと思つた。しかし後になつて私は于武陵の『勧酒』といふ漢詩を訳す際、『人生足別離』を『サヨナラダケガ人生ダ』と和訳した。無論、林さんのせりふを意識してゐたわけである。」

文中の林さんとは、昭和6年4月に講演のため、井伏とともに尾道から因島(現尾道市)へ行った林芙美子のことである。井伏は林のセンチメンタリズムを嫌悪しつつも、それをあっさりと切り捨てることもできずにいた。そうして意訳されたフレーズは、のちに多くの人々の心に沈殿していくことになる。

寺山修司は、この「サヨナラ」ダケガ人生ダを受けて「幸福が遠すぎたら」 でこう歌っている。

さよならだけが 人生ならば

また来る春は 何だろう

はるかな はるかな 地の果てに

咲いている 野の百合 何だろう

さよならだけが 人生ならば

めぐり会う日は 何だろう

やさしい やさしい 夕焼と

ふたりの愛は 何だろう

さよならだけが 人生ならば

建てた我が家 なんだろう

さみしい さみしい 平原に

ともす灯りは 何だろう

さよならだけが 人生ならば

人生なんか いりません

人生を諦観したつもりでも、さりとて「サヨナラ」ダケガ…と突き放すこともできない。未練もあるし、愛着だってある。こうした市井の人々に近い心情を「幸福が遠すぎるんなら、そんな人生なんかいらないや」と寺山は駄々っ子のように代弁している。

昨年の10月26日、折々で親しく語り合った友の訃報が突然届いた。そこにはこんな文面が…。

「デザイナーの西野洋氏が23日夜、逝去されました。昨日、今日と都内にて最後のお別れを執り行い、荼毘に付した後、後日故郷の茨城で葬儀となります。」とあった。遠方のぼくには諸事情により連絡が遅れたとの詫びが書き添えられていたが、そのお別れが昨日と今日というあまりにも急な知らせだったので駆けつけることは叶わなかった。

それから四ヶ月あまり、ぼくは彼の突然の死を受け入れることがなかなかできないでいた。そんなとき、あの歓酒の掛け軸を開いてみたのだ。するとまるで軸が呼び寄せたかのように、一通のメールが届く。故人を通じて共通の知人であったそのデザイナー、美登英利氏(写真最下段の掲載作品の作者)からのメールには「明日から三日間、追悼の意をかね西野事務所にて偲ぶ会をいたします。」とあるではないか。後に知ったことだが、美登さんは偲ぶ会前日の20時過ぎに突然ぼくのことを思い出して連絡をくれたのだそうだ。感謝しかない。西野さんが「さぁ、最後の別れをしましょうよ」と呼びかけてきたとしか思えなかったぼくは、なにはともあれ駆けつけねばとすぐに出席の返事を送り、翌日東京に向かうことにした。

ぼくは上京すると、たびたび西野事務所に邪魔しては深夜まで語り合ったものだった。デザインのことはもちろん、絵画や音楽、そして社会情勢や刻々と変化していく時代意識など、あてどなく、そして野放図に対象ジャンルを横断しながら時の経つのも忘れ、飽きることなく語り合った。つまり、ウマがあったのだ。たとえ、ぼくらが路線バスの運転手と測量士であったとしても、ぼくは西野事務所に通い続けただろう。大切な心の定点観測地点であったわけである。事務所はいつも几帳面に整えられてはいたが、室内はデザイン機材やおびただしい書籍で埋め尽くされていた。そして、わずかに確保された空間に据えられた小さなテーブルを挟んでぼくらは向かい合う。話が長くなると、西野さんは話の腰を折らないよう絶妙のタイミングで新しいお茶や菓子などをテーブルに並べ、甲斐甲斐しい心遣いをみせてくれた。

彼の口癖は「だと思います」。ぼくの話を受けて、まず「(そう)だと思います」と肯定してから、おもむろに持論を展開していく。だから、議論や討論をしたという記憶がまったくない。ぼくらの会話は大概まず共感から出発するのだが、それぞれのもの言いが微妙に異なる深度で重なり合うから、結果的にぼくらの認識は出発点から少しだけ広がったり深くなったりするのだ。それがぼくらの会話のご褒美となる。

また、西野さんは和洋の書体に関してとても造詣が深いので、つい軽い気持ちでフォントについての質問メールを送ったり、パソコンのアプリケーション・トラブルなどの相談をすると、恐縮してしまうほど、それはそれは丁寧に調べあげて返信してくれる。質問外でも関連した話題に新しい発見があったりすると、後日資料がごっそり郵送されてきたりする。しかし、これは何もぼくに限ったことではなく、彼の多くの友人たちも同じ体験をしていたそうなので、それが西野さんの流儀だったと知らされる。もう確認する術はないが、おそらく自分の認識を広げたり深めたりするために編み出した、ひとつの優しすぎる手法だったのかもしれない。

そんなことをぼんやりと考えながらぼくが西野事務所に到着すると、郷里の茨城から駆けつけた西野さんの長兄ご夫妻や美登さん、そして西野さんの最晩年をもっとも身近でアシストしてきた方がぼくを迎え入れてくれた。すっかり荷物は整理されていて、こんなに広かったのかと驚くほど広々とした室内には、書籍・雑誌やパンフレットなど生前の作品群が展示されていた。そのデザインプロセスを伝える版下や指定紙は、誰もが息を呑むほど根気よく調整が施され、彼の人柄そのままの精緻な実直さが残されている。聞けば、西野さんはいつも締め切り直前まで執拗に調整を繰り返していたそうだ。物静かで繊細な印象を与えることの多かった西野作品がその背後に漂わせていた硬質な透明感は、実はこうした強靱な意志によって生み出されていたものだった。

当日は三日にわたる偲ぶ会の初日だったが、三々五々故人と縁の深い人々が訪れてきては、それぞれに思い出を語り合いながら、ゆったりと静かな午後のひとときは流れていった。彼が上京してまもない頃に出会ったという人からは、ぼくの知らない一面を知らされる。急ごしらえのロックバンドに誘われたときの演奏中スナップには、にわかロッカーとなって頬ふくらませ、サックスを吹いている長髪の西野さんが収まっていた。

縁のあった人々と同じ数だけバラバラに散っていた故人の記憶は、人々が集い持ち寄ることで再びそこで統合される。再構築された記憶の集合体は、偲びの場で束の間の再生を果たすのだ。通夜の本来の意味とはそういうことなのかもしれない。まさに、その日の午後はぼくにとって忘れがたい通夜となったのだった。以前もどこかで引用したような気がするのだが、中沢新一さんの『森のバロック』の序文には、ポール・ヴァレリーのこのような言葉が引かれている。

ある人の生涯を書く。かれの作品、かれの行為、かれの言ったこと、かれについて言われたこと、しかし、かれの生涯のうちでもっとも深く体験されたものは、取り逃がしてしまう。かれが見た夢、独特の感覚や局部的な苦悩や驚きや眼差し、偏愛したあるいは執拗につきまとわれた心象、たとえば放心状態に陥ったときなどに、かれの内部で歌われていた歌、こうした一切は認知しうるかれの歴史以上に、かれその人なのである。

ある時期、ある瞬間に交差したぼくらの体験とその記憶は、複合的な一人の人間を構成するささやかなパーツに過ぎない。一瞬それぞれの人生を通過する瞬きにすぎない。しかし、彼の何気ない仕草や癖、独特な声のトーン、ふと垣間見せる無邪気な表情や無防備な後ろ姿。こうしたリアルな記憶の断片は、いまも生々しく甦ってくる。それらは褪せることなく、ぼくのなかに保存されているのだ。もし記憶というものに、力や喜び、そして希望さえもが秘められているのなら、ぼくは決して忘れることはないだろう。それがぼくのなかから消え去らないかぎり、そこで彼は生きつづけているのだから。

  Brochures of
  Amahata Inkstones Yahei Amemiya

2016.1.01

21世紀16年目の新春。阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件発生から丁度20年が経ったことになる。しかし、この20年という決して短いとはいえない時のスケールをぼくはいまだ掴みかねている。刻々と変化していく社会情勢は、5年はおろか1年先を見通すこともままならないし、10年あれば相当な事を為し得ることも不可能ではない。まして20年もあったなら…。そんなことを考えたのは、先日偶然或る報告書を発見したからだ。

90年代の数年間、ぼくは積極的に講演活動していた時期があったのだが、その報告書には1996年当時のぼくの講演録が掲載されていて20年ぶりに読み返してみると、今の自分のスタンスとほとんど変わりなく、まったく進歩していない。白髪がすっかり増えたり、身体にはそれなりに時の経過が刻まれている。なのに気持ちはまったくそれに対応していない。一般的にこうしたズレは10年ほど気持ちの方が若いというのが平均的であるそうだが、倍の20年というぼくは図々しいにもほどがある。さて、それはこんな講演録だった。

*

図案する園丁

創造・科学、この遥かなるもの

夏のある日、私は岐阜の黒川さんからお電話をいただきました。「自分の所属している研究会の仲間と山梨に行くので何か話をしてほしい」ということでした。一瞬尻込みをしてしまったのは、創造科学研究会の「創造」も「科学」も私にとってはおよそ遠く隔たった所にある、守備範囲外の言葉であるように思えたからです。創造力と聞くと「かつて人間は創造という言葉に値する、一体どんなものを生み出してきたのだろうか…」などと考える懐疑的臍曲がりで、しかも私は1、2、3と実証的に順序だって物事を考えることができず、思考が1から5に飛んでしまうような、およそ科学とは縁遠い人間なので、創造と科学を研究されている方々に一体何の話ができるのだろうかと戸惑ってしまったのです。そんな私の不安を軽やかに受け流して黒川さんは「私たちは好奇心のかたまりなんですよ」と返してきます。対極にいる人間ほど面白そうだ、ということなのでしょうか。

実は数年前の秋、岐阜県美術館で行われたシンポジウムに参加して、岐阜の方々と語り合ったという楽しい思い出が私にはありました。それ以来、岐阜に好感を抱いていた私は研究会の軽快なフットワークにも興味がありましたから、とにかくお受けしてみることにしました。

森の中の地方性

その5年前のシンポジウムというのは岐阜のデザイナー協会の主催で行われ、テーマは「地方デザイナーの現況と未来」といったものでした。私はそこで自分のかかわった2つの事例を通して、表現するものにとっての地方性、そして個人的な世界観が地方において持ちうる可能性についてお話をしました。

「地方デザイナーの現況と未来」というテーマ設定の背後には、中央あるいは都市に対する地方の人たちの意識といったようなものが見え隠れしていて、その部分を自分なりに少し踏み込んで考えてみようと思ったのでした。

当時私が考えていた地方性というのは、都会があって、そこから離れたところに地方があるという、空間性の中から出てきた地方性ではありませんでした。「懐かしい心の古里」といったイメージ同様、それは現代の日本人がつくりあげてきた幻想に過ぎないのではないのかと私は感じていたのです。そこで、その地方性を一度、精神性に置き換えてみたらどうだろう。そうすれば、そこに日本人が心の奥底に抱え込んできた林や森のような姿をしたローカリズムというものが見えてくるような気がしたのです。

つまり、地方性というものは決して地方だけが抱えているものではなく、都市で暮らす人をも含めた、全ての人々が共有するものなのであって、さらに言えば、これは日本だけの問題なのではなく、もっと広がりをもったものなのではないのか。堂々とした標準語の世界をすりぬけて、いわば共通語に収まりきらない方言のような存在。強固な骨格をもち、システマティックに世界を突き動かしてきた標準語的なるものに対して、人々が精神のバランスをとるために必要としているもの。そこでローカリズムは一種の緩衝材として機能しているのではないのか、そんなふうに地方性をとらえてみたのです。今、思い返してみると当時の私のそんなやや強引な解釈はさほど的はずれなものではなかったようにも思われます。もっと正確に言えば、それは地方性が内包する文化についてのひとつの解釈であったのだろうという気がします。

私の仕事は個別的なものに対する共感から成り立っているようなところがありますから、必然的にデザイナーとしての私の興味はこのような文化的側面をもつ、きわめてローカリズムに富んだ人物との共同作業に注がれていきました。そのシンポジウムでは自身のかかわった二つの事例を紹介したのですが、当然のことながらデザインはデザイナーひとりで完結するものではありません。ここに一本の植物のように根をはって成長する何ものかがいる。そこに他のどんなものにも還元することができないような個別性の輝きがあれば、それに向かって私は自分のデザインを拓いてゆけるような気がするのです。それさえあれば一本の植物は、会社という組織体であれ、八百屋さんであっても一向にかまわないわけです。「絵画は多くのことを語りかけてくるが、言葉で叙述することは何ひとつない」というのはインドの詩人・タゴールの言葉だそうです。また「デザインはデザインを通してしか相手に伝わらない」という言葉もあります。何を言っても説明が言い訳に聞こえてしまいそうですが、今日は一つだけ私がかかわったデザインのお話をしてみたいと思います。

雨宮家という大木を前にして

東北の雄勝、西日本の赤間と並んで、山梨には雨畑という硯の産地があります。この雨畑でも最も古い「甲斐雨端硯本舗」の雨宮弥兵衛という硯匠からパンフレットの制作依頼がありました。それまで使っていたのは、これ以上質素なものはないという墨1色刷の栞。しかし、お宅に伺って驚きました。「元禄三年四月、雨宮孫右衛門身延山参詣ノ途次富士川ノ支流早川河原ニテ黒一色ノ石ヲ拾ヒ来り硯ニ作リタルニ始ル」と記されるよう、当主の雨宮弥兵衛さんで12代目、現在、東京芸大で彫金を教えている息子さんが今後13代目として継がれるという、綿々と続いてきた硯匠一家であります。当家に残る顧客名簿には新島襄、池田勇人といった名前がずらりと並んでいて、何でも当時の池田首相が訪米の際には、大統領への土産として持ってゆく硯を注文してきたとか。土産品みたいな硯だったらどうしようなどと考えていたのはまったくの杞憂に過ぎませんでした。とりわけ11代目雨宮弥兵衛(号は瀞軒)の、重厚さと飄逸さが同居しているような硯にぼくはすっかり魅せられてしまいました。

今は中国から1個300円の硯がどんどん輸入されている時代です。ならばトラディショナルなメイド・イン・ジャパンを胸を張って売るしかないと、当家の紹介と製品カタログの2部セットにして制作することを提案してみました。基本的なイメージとして、あまり和風べったりは嫌だなという思いがありました。当主は若い女の子とディスコに行くのを楽しみにしているという工芸家ですから、21世紀の江戸時代みたいな、トラディショナルなくせにちょっとラジカルな感じで組み立ててみました。タイポグラフィに筆文字を使わなかった理由もそこにあります。その代わり私は力のある文字が欲しかったので、屋号には明治時代に刷られた活版印刷物から一文字づつ拾い出して手組した文字を使ってみました。 またシンボルマークもつくりました。こちらはシンプルモダンなマークの対極にあるような、繊細で軽快でしかも複雑なものにしたかったので、この家の硯の基本パターンをすべて正円の中に細い線だけで押し込み、重ねてシンボル化してみました。表紙には硯がぼんやりと浮かび上がるよう薄い紙が重ねてあります。カタログも同様に渋紙がかかっています。そこには原石が採れる霧深い渓谷からぼんやりと浮かび上がってくる硯のイメージがありました。裏表紙にはシンプルな直方体の玉華硯(ぎょっかけん)が、対向頁の原石のサーフェイスと対応しています。硯の原石はとても美しく、同時に厳しさをたたえています。そんな様々な表情を接写してコンピュータで彩色を施しました。

パンフレットには新旧の代表作を3点掲載しています。当初、当主の希望もあって庭の緑をあしらって撮影したのですが、何かわざとらしくて硯に失礼な気がしたので、ストレートに硯だけを撮り直したものを使いました。エッジは3本切って5ミリほどずらしてあります。どうしてこんなことをするのかと問われれば、池に小石を一つ投げ入れて、その波紋が硬質な硯をさらに堂々としたものに見せてくれるような気がしたからという答えしか思い浮かびません。また3原色の細いラインはモノトーンの写真への視覚的スパイスだと考えています。

また、家歴の中には白い月が浮かんでいます。中を開くとその場所にカラーのシンボルが現れるように配置してみました。パンフレットの中心には水墨画のような写真を入れることにしました。昔は原石が採れたという雨畑の山中に何度か撮影に出かけたのですが、残念ながら乱開発された地形がどのアングルにも入ってしまい、なかなか欲しい写真が撮れません。やむなく場所を変え、同じ山梨の渓谷で有名な昇仙峡で撮影したのがこの写真です。一方、カタログは製品を3つのカテゴリーに分けて、後から追加できるよう製本せずに挟みこみました。こちらはカラーでなく墨とグレーの2色印刷に、まったく同じ位置から再度撮影したハイライト版で、墨をさらにもう一度重ね刷りしました。それにより、質感を損なうことなく再現性にもリアリティをもたせることができたと思います。当主お気に入りの雅印を刷り込んだ帯でこの2冊を巻き、ダイジェスト版や価格表などを加えれば完成です。このパンフレットは、国内ではADC年鑑や国際タイポグラフィ年鑑などに掲載され、昨年はドイツのデザイン誌「PAGE」の日本特集でも取り上げられました。

個別性に潜む幽き(かそけき)ものたち

このように、これまで私がかかわってきたデザインの多くは、町おこしや地域の活性化といった晴れがましいものでなく、本当に個人的活動のささやかな支援です。その活動の深度が深い分、私はそこに確信をもってかかわっていくことが出来るような気がします。戦略的な町おこしとは、むしろ逆に距離をおいていたいと思います。町をおこすんじゃなくて、だったら一度倒してみることはいけないことなのか? 地域が活性化していったら本当にそこは豊かになっていくのか? にぎやかになることは豊かで楽しく、静かなことは本当に寂しいことなのか? 良質な地域性というものを、根元から再度じっくり考えてみる必要があるのではないか。特に自治体が文化を活性化のキーワードにすることには細心の注意が必要です。文化というのは大地のようなものだと思います。あらかじめそこに存在しているのだけれど、それは見たり触れたりすることができない。それはかならず個人を通して実現されてきます。だからそこに平等や公平といった概念を持ち込んだとたん、そこに在った「かそけきもの」たちは壊れてしまいます。それらは画一性や公平論によって芽をつまれてしまう、微細で個別的な不安定なものたちなのです。

水平な風景の彼方

こうした「かそけきもの」たちにとっての受難の時代でもある現代の風景は、象徴的に言えばどこまでも水平な風景なのではないでしょうか。全国津々浦々、コンビニが増殖し続けています。それらを支えているのは画一性や公平論によって裏打ちされている人々の精神のミニ東京化なのかもしれません。コンビニの利便性は強固で、しかも柔軟な経済のシステムで支えられています。

単一であること。標準であること。平等であること。これら資本主義経済が生み出してきた潮流は、私たちの風景をますます水平なものに変えようとしています。では、この加速されてきた水平化の種は一体いつ、どこで私たちの庭に蒔かれたのでしょう。60年代のヒッピームーブメントをくぐりぬけ、国境を越えて水平に同化してゆこうと夢みたアメリカのリベラルな若者たちは、コンピュータという道具を生み出しました。そして今、そこから枝分かれしたインターネットにより、60年代のビジョンだった「ラヴ&ピース」は、情報の共有化によって世界が一つの村になるという「ワン・ヴィレッジ」というビジョンへと生まれ変わり、地球規模の平均化をさらに押し進めようとしています。

幸福な循環を求めて、もうひとつの必然へ

この巨大な水平化の潮流は今や世界を覆いつくす勢いで増殖し、これを押しとどめることは困難であると言わざるをえません。しかし私たちの精神には本能的にバランスをとることの必然性があらかじめセットされているような気がするのです。私たちが今、生きるという根源的意識から切り離されてしまったような、奇妙な不安を抱きながら暮らしていて、その閉塞感からリアリティのあるものに縋ってみたりするのには、生物学的な理由があるのだと思います。

冒頭お話したローカリズムも巨大なシステムに対するささやかな異議申し立てなのかもしれません。インターネットで文字化けをおこしてしまうフランス語に、フランスが異議の申したてをしたという記事を目にしました。ちょっと目を凝らしてみると、こうした水平化への異議申し立てはいたるところに見つけ出すことができます。

ディズニーランド的なエンタティンメントによって、ますます退行していくように感じられる個別的なもの。意味や価値が無化されてしまうような一方通行のコミュニケーションに対する危機感。ナンセンスに侵されつづけられているような奇妙な無力感。これら精神の水平化が現代の用意した一つの必然であるならば、私たちはもう一つ別な必然を見つけ出す必要があるでしょう。

システムとか社会といった言葉に還元してしまうことができないような、個別性への愛着で満たされた空間。異質なものや垂直的なものが、快適な状態で同居できるということの不思議さ。これが本当の多様性なのではないでしょうか。 水平が生み出す価値は物質量として膨張し続けますが、垂直が生み出す価値は量的に増加することはありません。ただその深度を増してゆくだけです。ここには幸福な循環があります。健康的な多様性。小さなものがたくさんあるという状態。そして小さなものが小さなままで、きちんと生存しつづけること。私は豊かさのかたちを、そのような個別性がわきたつような空間で見つけ出したいと考えています。

異質なものと共生していく知恵を、私たちは生み出すことができるのか。水平化の流れの中に、垂直な小さな木々を育てることができるのか。これらはすべて、神戸の大震災やサティアンが私たちに投げかけてきた深刻な問いかけでした。そしてそれは私たちが個別なものの価値に対して、今後どのくらい鋭い感覚を持ち続けることができるのか、という問いかけでもあったような気がするのです。デザインという空間で私は幸福な循環にかたちをあたえ、水平と垂直の交点で、図案する園丁として仕事をすることができたらと願っています。 1996.10

*

20年を経た今、ますます直線に近づく「水平な風景」がもたらす深い怒りと絶望は、潜行しながら新たな不毛な戦いや暴力を日々生み出している。もはやローカリズムは巨大なグローバリズムの潮流に呑み込まれようとし、かつて存在したはずの豊かな多様性は無化されつつある。つまり、小さなままきちんと生存しつづけねばならない多くのものは、吹き荒れる NON NON NON の嵐によって消し去られようとしているのだ。膨張を続ける格差はさらなる過激な異議申し立てへの温床となり、異質なものと共生していく新たな知恵を私たちはまったく生み出せていない。そして、個別性がわきたつ空間に誕生するはずだった新しい豊かさのかたちはいまだに「願い」のまま漂っているのである。

そんな現在に生きているぼくは、20年という時の一束を前に、水平な風景に一体お前は何本の垂直な木々を立てられたのかと自問している。人生を20年の時の束で三分割してみると、絵の下地作りに費やしたのが一束目。その上に下絵を描いた二束目。そして、描き込みに集中する三束目はいまだ継続中だ。さて、筆を置くまで決して見る事はできないその出来映えや如何に。