一番上は坂田久さん近影。
2点目は祝還暦Liveでのスナップ。
3点目はSAKATO GUITARS MODELの
「New D-28M model, Serial Number 044.」
4点目はヴィンテージ「Martin D-18 (1941)」
そしてMartinを抱えるぼくの大好きな
マーク・ノップラーとエルヴィス。
下2点が永遠のスタンダード書体「Helvetica」

2017.3.01

略称「アコギ」呼ばれるアコースティックギターは、フォーク、トラッド、カントリーなどの伴奏楽器として親しまれてきたので、むしろフォークギターと呼んだ方がしっくりくるかもしれない。そのトップブランドといえば、やはりMARTINだろう。若い頃、ぼくの周りには「いつかはマーチン」と憧れていたフォーク愛好者たちが大勢いた。フォークギターにはおびただしいブランドが林立しているが、このマーチン、そしてギブソンは世界2大ブランドとして揺るぎない地位を確立している。

MARTINはギター製作を志して1833年にドイツからニューヨークに移住したクリスチャン・フレデリック・マーティンによって創業された。新天地で楽器店とギター製作を開始した彼は、紆余曲折を経て1837年にペンシルベニア州ナザレスに移住し、ギター製作を本格的に開始する。そして、いまや世界中のアコースティック・ギターの標準規格とも言われている14フレット・ドレッドノートが1934年に発表され、アコースティックギターの歴史はここから始まった。なかでもベストセラーモデルのD-28やD-35は、永遠のスタンダードとして、その後に続く様々なメーカーのお手本となり、愛され続けてきた。ちなみにシリーズ名称の“D”は、その大きなボディサイズが、当時(1910年代)世界最大のボディサイズを誇った戦艦「ドレッドノート号」のようだと例えられたことに由来した頭文字なのだという。

フォークギターにはピックガードが付いている。奏法にはピックではじく奏法と指で爪弾くフィンガーピッキングがあるが、ガット(あるいはナイロン)弦のクラシックギターは指弾きのみで基本的にピックは使わない。我が家にもくたびれたクラシックギターとフォークギターが一台づつあったのだが、大学を卒業して郷里に戻ってきた兄が大学時代にウエスタンバンドに参加していたので、新たにスティールギターやバンジョーもそこに仲間入りしていた。ぼくも学校から戻ると、これらをとっかえひっかえ見よう見まねで弾いていたが、スティール弦のフォークギターを抱えて、ピックで弾くとすぐに気分はフォークシンガーになるから不思議なものだ。英訳した辿々しい自作詩にメロディーをつけてオリジナル曲を作り、自宅の裏山にある高台に座って演奏を楽しんでいたのも懐かしい思い出だ。だからフォークギターといえば、いまだにそれはぼくの思春期を象徴する思い出のアイテムなのだ。

このアコースティックギターを自作する工芸家たちが、実は世界中にはたくさん存在していたことをぼくは最近知った。もちろん日本にもアマチュアから工房を構えるプロフェッショナルまで大勢が活動していて、ギター製作学校まで存在している。それらを、ぼくはギター製作者となった知人から教えてもらったのだ。

坂田久さんは地元で長いこと「ハーパーズミル」というカレー屋さんを経営していて、ぼくも彼の作る美味しいカレーがときおり無性に食べたくなり、細く長く通い続けていた客の一人だった。彼は青春時代の放浪期を経て、カフェカレーの原点ともいわれる吉祥寺にある老舗カレー屋「まめ蔵(まめぞう)」で修業を重ねる。この「まめ蔵」を開業した南椌椌(みなみくうくう)さんは絵本やテラコッタの作品で活動を続ける作家でもあり、奥さんは笠井叡に師事した舞踏家の山田せつ子さん。坂田久さんはこの名店で瑞々しい文化の香りと秘伝の味をたっぷりと吸収して、故郷の実家敷地内にログハウス風のお店を建てて、その経験と味を郷里に持ち帰ることにした。

坂田さんは並行して音楽活動も開始する。現在までに自作曲を収めたオリジナルアルバムを三作発表し、フォークシンガー友部正人さんとの深い交友を基点に広がったネットワークから、様々なライブを長年にわたって開催してきた。また、別棟に併設された音楽スタジオはミュージシャンたちのハブとして機能し、今では地元ミュージックシーンの重要拠点ともなっている。こうした活動から自然発生するかのように、40代半ばから坂田さんはギター製作者へとその軌道を大きくシフトしていくことになる。きっかけは奥さんの一言だったそうだ。ミュージシャンとしての大事な表現の相棒でもある数台のアコースティックギターをレストアしたり、リペアしていたが、なかなか思うようにならない。その様子を見かねた奧さんは「なら自分で作っちゃえば?」と言った。「あっ、そうか!」と、その何気ないひと言に納得し、運命の言葉に背中を押された彼はさっそくアコギ製作キットを買い求め、まったくの自己流でギター製作にのめり込んでいく。元々ミュージシャンとして、求めるサウンドの着地点がぼんやりと見えていた坂田さんは、大地から存分に水を吸い上げる若木のようにメキメキとその腕を磨いていったのである。

どの世界にも業界というものが存在する。楽器販売店が製作者と顧客の仲立ちをして商談を進める合理的販売システムによって受注と供給のバランスが保たれていく。しかし、はなから坂田さんはこうした業界という世界の中で活動する気はなかったから、それまで築いてきたミュージシャンとしてのネットワークを通じて細々と販売しながら、着実にその評価を積み重ねてゆくことにした。はじめの頃は展示会に参加しても、業界内からは冷ややかな反応しかなかったそうだ。しかし徐々に彼方此方から好意的な評価が届きはじめ、次第に風向きが変わってきた。弾いてみたらすぐに分かるその音色が力強く活動を牽引し、15年の時を経て「サカタギター」は紛う方なきブランドへと成長した。カレー屋さん、ミュージシャン、音楽プロデューサー、ライブ企画者、録音スタジオ経営と様々に展開してきた、一見回り道にも見えるこれら坂田さんの軌跡のすべてはギター製作という本流へと集約されているかのようだ。これが天職だったと予感している彼のここに至るまでの活動に無駄な瞬間などなかったのだ。

楽器は奏者と一体となって初めて花開く。だから基本的には、楽器は奏者が何を求めているのか知らなければ作り始めることすらできないものだ。そして豊かな包容力をもって奏者のイマジネーションを受けとめなくてはならない。こうした課題と来る日も来る日も向き合って、堂々とした自己流の製作者の道を坂田さんは歩み続けてきた。ギター製作を通じて自分を表現するのではない。逆に何処まで自分のエゴを消し去って製作出来るのか問われ続ける毎日なのだ。そうすれば奏者の世界観とともに成長し、並走していけるような楽器が生み出せるのではないか。そんな境地に近づきつつある坂田さんの話を聞きながら、ぼくはまったく違う、あることを思い起こしていた。

ぼくはグラフィックデザイナーなので使用する書体の選定はとても重要な要素だと常々考えている。和英ともにこれまで世界中で制作されてきた書体は膨大な数にのぼるが、その中で長い時を経て、様々な用途でその特性を発揮し、愛されてきた書体となると、かなり数は絞られてくることになる。オーソドックスで汎用性や可読性に富んでいて、しかも美しい。それがデザイナーにとってのスタンダードとなる。そんなスタンダード書体の横綱ともいえるのが「Helvetica(ヘルベチカ)」だろう。「Helvetica」とはラテン語で「スイスの」を意味する言葉だが、その来歴を辿れば当然スイスに行き着くことになる。

1950年、スイスの活字鋳造所ハース社のエドゥアルト・ホフマン(Eduard Hoffmann)は、当時多く使われていた書体グロテスク(サンセリフ)に変わる新しいサンセリフ書体を作ろうと考えた。サンセリフとは縦と横が同じくらいの太さで設計されたいわゆるゴシック体と呼ばれる原形書体で、当時はグロテスク書体を呼ばれていた。ホフマンは美的センスにも卓越した能力を持ってはいたが、あくまでも経営者でありデザイナーではなかったから、制作をスイス人タイプフェイスデザイナーのマックス・ミーティンガー(Max Miedinger)に依頼する。やがて出来上がった書体にホフマンが修正指示を出し、そのくり返しが数年にわたって続けられた。そうして1957年にやっと完成し、手組み用活字として発表されたのが「ノイエ・ハース・グロテスク」(Neue Haas Grotesk)=「ハース社の新しいグロテスク(サンセリフ)」だった。そして版権をステンペル社に移行した1960年にその名品書体は「Helvetica」と命名された。

簡素で落ち着いていながら力強く、用途を選ばない幅広い汎用性も備えていたので、その後半世紀以上にわたって世界中のデザイナーたちから愛され続け、出版や広告の世界では必要不可欠な書体として名高いが、その誕生の背景には当時ヨーロッパで注目されていたスイス・スタイルの存在を忘れることはできない。ヨゼフ・ミューラー・ブロックマンエミール・ルダーといったデザイナーたちが旗手として活躍していたスイス・スタイルとは、格子状に沿って配置するグリッドシステムや、黄金比などの数値基準を活用したレイアウトをその特徴とするが、思想的にも彼らは国家や宗教に依存しないインターナショナルな思想に共感していたので、そうした無国籍の象徴としてサンセリフ体を積極的に使用していた。そこに「Helvetica」が登場したのだ。

「Helvetica」がここまで書体として普遍的な存在と成り得た理由は何だったのか。諸説あるだろうが、一言でいえば「書体として特徴を持たない点」。これに尽きるだろう。表現を邪魔しない器のような無機質な中立性。つまり中立的な佇まいが、逆にあらゆるタイプの個性を包み込むことを可能にする。使われることで初めて豊かな表情を生み出す懐の深さ。使用サイズの設定や組み方や置き方で様々にその表情を変えることのできる不思議な受容体。

こうして、サカタギターが半世紀以上の時空を隔てて、実は「Helvetica」と地下水脈で繋がっていたことを発見したぼくは、もちろん即座にそのことを坂田さんに伝えたことは言うまでもない。

上から5点
SL 55 AMGの外観と内部スナップ。
下から3点目は陸送された時点の内観。
下2点
車に乗り込む最晩年のジョブスと自宅庭のスナップ。
(右側がSL55 AMG)

2017.1.01

昨年来、年配者による暴走運転事故が急増している。これも高齢化社会がもたらす現象なのだろうが、ぼくだって間違いなく高齢者に含まれるわけで、人ごとでは済まされない。まだ老化による危険性を運転中に感じることはないけれど、いつまでステアリングを握り続けられるんだろうかという漠然とした不安はある。

そこで、年が改まったのでひとつ封印を解くことにする。封印というのも大袈裟だけど、ずっと書くのを戸惑っていたのは、寄せる愛着やうんちくを聞かされたら随分うんざりさせるだろうなという躊躇があったからだ。

実はぼくは4年前からTwo Seaterオープンタイプのスポーツカーに乗っている。車のメカニックは詳しくないし、スペックにもさほど興味はないのだが、若いころから自動車には人間が生み出した単なる工業製品を超えるSomethingを感じていた。現在、人類史上最速のスプリンターであるウサイン・ボルトの世界最高記録は100m、8秒65。1時間は3,600秒だから時速に換算するとおよそ41.62kmの速度ということになる。ところが車で走るぼくらが目撃するのはその2〜3倍の早さで流れる風景なのだ。普通の人間の身体能力なら決して見ることの出来ない風景を、自動車はいとも簡単に見せてくれる道具ということになる。だから、一義的には自走移動を実現する道具なのだが、同時にそれを操る人間に様々な感覚的情報をフィードバックしてくれる道具でもあるわけだ。

動く、曲がる、止まる、これが自動車の基本動作。これを高いレベルで実現し続けているメーカーがメルセデス・ベンツと言われている。もちろん車好きの面々には異論もあるだろうが、世界で初めて車という道具を生み出したメーカーであるベンツには、理詰めで技術を積み上げていく気質が伝統的に培われている。彼らは「人間は必ず間違いを犯すものだ」という前提から出発してモノ作りをする。例えば、操作パーツの位置などはほとんど大きな変更をしないので、新しいモデルに乗り込んでも、すぐに戸惑うことなく馴染むことができるし、人間の移動をサポートするための道具として徹底的に考え抜かれ、濃密に作り込まれている。エンジン音も含めて「乗り心地」「操作性」にはフィーリングとしか言いようのない領域があるからこそ、そこには各メーカーの味わいがあるのだが、「やっぱりこの感じだよね〜」という、何ともいえないズッシリとした「これぞ王道」的な安定感がベンツにはある。

20代で免許をとってしばらくはスバルサンバ、スカイライン、スバルレオーネといった国産の中古車を乗り継いできた。(いっとき、パタパタと独特のエンジン音をたてるポンコツのワーゲンビートルにも乗ったが故障続きですぐに手放す)初めてベンツに乗ったのは、28歳の時。クライアント先のクラシックカーコレクターだった社長さんからプレゼントされた1959年製の「220b」。通称「羽ベン」と呼ばれるアメ車風のテール・フィン付きボディ車で、白い硬めのステアリングはまるでバスのように大きく、ベンチシートも相まってオールデイズなアメリカンスタイルを醸し出していた。喫茶店からパーキングに戻るとヤンキー風の若者たちが「格好いいじゃん」なんて言いながら周りを取り囲みのぞき込んでいたこともあった。今思えば、20代のぼくなんかにはまったく似合わない車だったが、堂々とした風貌とその重厚な乗り心地を味わったぼくは、そこでベンツの洗礼を受けてしまったようだ。

2代目のベンツは30代半ばで横浜の直輸入業者から購入したユーズドカーの「190E」(W201)」。“5ナンバーで乗れるベンツ”と呼ばれた初代コンパクトクラスモデルだ。重厚な乗り心地は残しながら取り回ししやすく、京都まで遠出しても疲れない優れものだったから5年ほど愛用した。そして42歳で初めて新車購入した3代目は排気量2,960cc、SOHC6気筒のステーションワゴン「300TE」。ラゲッジスペースも広く、最大で7名乗れる利便性と高出力がもたらすパワフルで快適なロングツーリングが両立されたミディアムクラスのツーリングワゴンで、まさにぼくの人生のミディアム期間を共にしてくれた思い出の一台といえる。

なぜかここまで3台のボディカラーはすべて濃紺。そして4代目からの愛車はシルバーに変わっていく。ぼくが発売を心待ちしていたのは、2000年に満を持して発表されたCシリーズの上位モデル、排気量2,597cc、SOHC V型6気筒の「C240」。Cクラスでありながら、Sクラスで培った技術を踏襲しているから、まるでSクラスに乗っているような乗り心地を実現したと評価された優れもの。フロントを印象づけているつながった丸目ライトは、赤塚不二夫の「おそ松くん」に出てきて、すぐに「タイホする〜」と叫びながら拳銃を発射する目ン玉つながりのおまわりさんそっくりでなんとも言えない愛嬌がある。ぼくはどうも直線的なデザインより、やや丸みを帯びて、シェイプされてはいるがエレガントな印象を与えるフォルムに惹かれる傾向がある。このC240はとても完成度の高い車で、それから12年乗り続け、まだ家族が乗り継いでいる現役車だ。

ところで、このところ自動車のフロントビューが不機嫌になってきたというか、恐い印象を与えるフロントデザインが増えてきたような気がしてならない。発光部にLEDが使われるようになったことも関係しているのだろうか。それと、現在デザインを担っている各社のデザイナーはガンダムのようなメカ・アニメで育った世代が増えていて、中心的購入層の世代と重なっているのも無関係ではないのかもしれない。最近のレクサスをはじめとするトヨタ車のフロントは、スピンドルグリルと呼ばれる牙を剥いたような意匠で、例えは悪いが、1987年に封切りされたアメリカのSFアクション映画『プレデター』に登場する架空の地球外生命体の顔をぼくは連想してしまう。(気に入って購入したオーナーの方は悪しからず。あくまでもぼくが勝手に抱いた印象にすぎないので)どうやらこれは最近の世界的な傾向で、ベンツも2008年以降のモデルはちょっと強面な印象に変更されてしまったから、ぼくは5代目モデルはどうしたものかと考えこんでしまった。

ちょうどその頃から仕事の関係で出張する機会が増えてきて、目的地まで電車で向かうと乗り継ぎも含めてとても時間がかかってしまう。電車に乗るのが苦手で、元々運転は嫌いじゃないから出張は自動車で移動することにした。往復約350kmの距離を最低月2回。それ以外にも遠出が増えたので、長時間でも疲れず、しかも快適に、より安全に移動できる車が欲しくなってきた。普通に考えたら長距離移動するんだから燃費の良い車種を選択するのだろうが、どこに行ってもプリウスやアクアのお尻ばかり見せつけられてウンザリしていたへそ曲がりのぼくはハイブリッド車にだけは乗るつもりはなかった。高速道路を何時間走っても疲れることなく、心地良く目的地に向かうために、ドライビングプレジャーを優先することにしたのだが、C240は良い車だけど遠出用としてはもうひとつ物足りない。

それまでぼくの中では長い間、漠然とオープンカーへの欲望がくすぶっていた。しかし、二人しか乗車できないし、オープン時の露出感はハンパないから、やっぱり実用的じゃないなと選択外だったが、歳もとったことだし、そろそろ乗っても生意気にはみえないかも、なんて気持ちに変化が生じてきた。「乗るんならやっぱりSLだな」と一度発火してしまった欲望はメラメラと燃え上がってしまったから大変だ。当時の2012年モデルのSLはすでに怖そうなフロントフェイスにモデルチェンジしてしまっていたし、ベンツ車のラインアップでも最上位に位置付けられる新車のSLはとても高額で手が出ない。それに、ぼくの欲しかったSL(Type R230)は丸目ライトの全体感がエレガントなデザインで、バリオルーフとよばれる歴代SLで初めて電動格納式ハードトップを採用したモデルだったが2007年で生産を終了していたので、入手するにはユーズドカーで探すしかなかった。

それからというもの、おびただしい販売業者サイトを夜な夜な検索していると、次第にユーズドカーの販売実態というものが見えてきた。例えば条件のよい個体情報を囮にして、問い合わせすると、それは直前に売れてしまったばかりだがこれはどうでしょう?と別な車を薦めてきたり、売らんかなの姿勢が露骨に感じられる販売業者が多かった。また、ぼくはデザイナーの端くれなので細部の意匠も気になってしまう。親父くさい木目調パネルやシフトノブも嫌だったし、ボディカラーはシルバーと決めていた。そして紆余曲折の末、やっとぼくの要望にかなうモデルが確定した。

それは「SL55 AMG」。ノーマルのSL500をベースにAMGが開発した5.5リッターV8コンプレッサー(スーパーチャージャー)ユニットを搭載したモデル。厳密には5,438ccとなる凄まじい加速力を発揮するこのエンジンユニットの組み立ては、レーシングカーのように1基ごとに一人の担当者がすべて手作業で行い、エンジンにはマイスターである担当者のサインプレートが添えられている。まず、大排気量エンジンのその勇ましい始動音に驚かされる。エキゾーストノートは独特の金属的な音色を含み、youtubeにはSL55 AMGのエキゾーストノートがたくさんアップされているほどだ。

それから、ハイパワーを受け止める先進のブレーキシステムSBCは電子制御で四輪独立した制動力制御を可能とし、ブレーキパッドのサイズもSL500のほぼ倍となり安全・快適性が向上されている。また、快適な乗り心地を実現するハイテク・サスペンションはABC(アクティブ・ボディ・コントロール)と呼ばれる、スプリングの代わりとなる油圧ユニットを採用した複数のパーツが複雑に組み込まれたシステムで2t近い車重をコントロールする。と、まるでCar雑誌のレビューみたいに書き連ねてしまったが、要するに電子部品の塊のようなこのモデルは発表当時、現代自動車工学の結晶と形容されたモデルだった。

当然、このような個体がオークションに出てくる可能性はあまり高くないし、素人が探し出すのは相当難しい。ここは信頼できるプロに託すしかないと考えたぼくが辿り着いたのは、京都にある欧州車専門の修理・販売会社だった。まず、サイトやブログから伝わってきたのは車に対する深い愛情だった。ここまでやるか!というほどの徹底的なメンテナンスは、本当に車が好きなければできないだろうと感じさせるものだったし、欧州車へのノウハウも蓄積されていて信頼できそうだ。さっそくメールで具体的な希望を伝えると丁寧な返信が届いた。なんでもこの会社の顧客のほぼ90%が地元以外の地域のユーザーなんだとか。これも信頼のバロメーターとなる。ワンオーナーで、屋根付きガレージに保管された禁煙車。そして毎年切れ目無く整備されて、その記録もきちんと残されている個体。それがぼくの希望した条件だった。すぐにそんな条件を満たす個体が出てくる可能性は低いものの、業者しか参加できないオークションにはそのうち必ず出てくるはず、気長に待ちましょうということですべてを託すことにした。そして待つことおよそ半年。ある日、やっと「条件にピッタリ叶う個体が出てきました」とメールが届く。オークション会場が東京だったから京都の会社が提携している業者に代理入札してもらうそうで、ぜひとも落札してくださいとお願いし、やっと夕方「無事、落札できました」と報告メールが届く。どうやら元オーナーは神田のマンションに住まう女性で、地下駐車場に保管されていたようだ。それに毎年、芝浦ヤナセでメンテナンス受けていたから、これ以上ないというほどのコンディションだという。やれやれ、待った甲斐があったというものだ。SLに乗る女性はそう多くないから、一体どんな人なんだろうと想像力を巡らせる。もしかしたら、銀座のママか?なんて馬鹿なことを考えているうちにメンテナンスを受けた注文品が陸送されてきた。配送先に指定した知り合いの自動車工場で到着した車のドアを開けると、保護シートにくるまれた室内からは新車の匂いが立ちのぼってきた。こうして一度も会ったことのない業者を介してその車は届けられ、その日からぼくの「SLな日々」がはじまることになる。

スポーツカーの宿命でシートが低いため、乗り降りは決して楽ではないが、ステアリング・フィールは思いのほか軽くて取り回しやすいし、重厚な安定感も流石。自慢のABCサスペンションはコンフォートを選択すると、道路の起伏を吸収してスポーツカーらしからぬソフトな乗り心地を味わえるし、高速道路でその加速力を試すのには検挙されないよう用心しなくてはならないが、なるほどというパワーや運転する歓びを体感することができ、やっぱりこれがSLのフィーリングなんだと実感させられる。燃費も無視できないし、環境に与える影響にも配慮しなくてはならないが、同時に車は操る喜びも与えてくれる。つまり、車は移動を可能にしてくれる道具であるとともに、心の隙間を少しだけ埋めてくれる道具でもあるのだ。たとえそれが錯覚に過ぎず、束の間の幻想なんだと分かっていても、平板な日常からもう一度生き返ったような気持ちになり、少なくともこの瞬間は自由なんだと感じさせてくれる、何ものにも代え難い素敵な瞬間を与えてくれる。

ぼくはかなり後になって知ったのだが、この「SL55 AMG」というモデルは故・スティーブ・ジョブズが讃え愛した車でもあったそうだ。なぜかジョブズはその愛車にナンバープレートをつけることを嫌い、「新車を買った場合は、ナンバープレートを登録してから車両に取り付けるまで最大6カ月間の猶予を設ける」というカリフォルニア州の車両法を活用してリース会社と協定を結んで新車に6カ月間乗ったあと車を売り払い、全く同車種の新車に乗り換えるという行動を繰り返して合法的にナンバープレートをつけない車に乗り続けていたそうだ。自分がナンバーによって規定されることを嫌うほど、彼の美意識は自由を欲していたのだろうか。ともあれ、いまでも彼の自宅の庭には、妻の車の横に寄りそうようにその愛車は保管されている。事実上のジョブズの遺作プロダクトとなったiPhone 4sにも、SL55 AMGと同質の濃密なテクノロジーと硬質な美意識、そしてエレガントな質感が凝縮されている、と「SLな日々」を過ごしてきたぼくは思っている。

さて、「愛車遍歴を辿れば、人生が見えてくる!」をコンセプトにしたBS日テレの人気番組「おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR, NO LIFE! 」では、毎回、番組終了間際に「あなたにとって、車とは?」というベタな質問をゲストにするのだが、ぼくならどう答えるのだろう。乗馬経験はないけれど、ドライビングにはどこか馬に跨り疾駆する快感にも通じるものが秘められているから、人馬一体に憧れるぼくの答えはこうなるだろう。「車とは?それは愛馬である」。

ポートレート:
上からチャールズ・ダーウィン、ジャン・アンリ・ファーブル、今西錦司、福岡伸一。
絵画作品:
上から5点目より「真珠の耳飾りの女」(青いターバンの少女)1665年  マウリッツハイス美術館所蔵、
「デルフトの小道(小路)」1558-1559年頃 アムステルダム国立美術館所蔵、
レンブラント「自画像」 1640年 ロンドンナショナルギャラリー、
フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ラウテンブルフ副隊長の市民隊(通称)夜警 1642年 アムステルダム国立美術館。

2016.11.01

「突然変異」と「自然淘汰」で説明されるダーウィンの進化論は、たしか少年時代に生物の授業で出会ったと記憶する。しかし、長いあいだ常識となっていたこの進化論も、近年はとみに分が悪い。そもそも進化というものが、そのように時系列に沿って進行していくものなのか?人間について考えてみれば、大きな疑問符がついてしまう。なぜなら、自然に対しての適応力、対応力は明らかに退化しているではないか。昔の人なら苦もなく出来たであろう多くの事が、現代人にはとてつもなく困難な事となっている。それともこれは環境の変化に応じて生じる適応力の入れ替え現象にすぎないのだろうか。当のダーウィンも、進化の度合いが異常に早かった人間については、進化論が一番あてはまらない生物であると述べているし、ダーウィンの共同研究者だったアルフレッド・ウォーレスは「人間が猿から誕生することなどあり得ない」とまで言い切っている。「猿は猿」「人間はもともと人間」ということなのだ。

進化論に沿うなら、進化の過程の生物が発見されるはずなのだが、前段階の生物や中間生物はほとんど発見されていない。むしろ最初から完全に近い形で突然出現したと考える方が自然とする論が主流となっている。ファーブル昆虫記のアンリ・ファーブルも、生き物は生まれたときから完璧なシステムをもっていることを知っていたから、決して進化論には組みしなかったといわれている。では、進化は突然変異によってもたらされるのか。最近の科学はこれにも否定的だ。なぜなら、突然変異では情報が失われてしまうため、進化をもたらさないことが分かってきたからだ。四面楚歌なり、ダーウィン進化論。

ところで、生物学者である福岡伸一さんの活動はなかなかに興味深い。最近面白いコラムを見つけた。朝日新聞掲載の「福岡伸一の動的平衡」。テーマは「新たな地点へ登り続ける」。少し長いが以下に転載してみる。

*

なぜ山に登るのか。そう問われた英国の高名な登山家ジョージ・マロリーは「そこにそれがあるから」と答えたそうな。日本を代表するナチュラリスト・今西錦司は生涯に1552座もの山に登った。同じ質問に対して、今西が語った答えがふるっている。「向こうに山が見える。その山に登ったら、また向こうに高い山があった。だから次々と山に登ります」

これは学ぶことの本質を巧まざる表現で言い当てた名言ではないだろうか。一生懸命、勉強してある地点に達する。するとそこからしか見えない新たな視界が開けてくる。人はその視界の向こうにあるものを目指して、また次の一歩を踏み出す。

今西は、カゲロウの生息分布をたんねんに調べることによって、同じ川であっても流れの速度や水の深度によって、異なる種があたかも互いに他の生命を尊重するかのように「棲み分け」ている様子を発見した。そこから彼は種というものの主体性を考えるようになり、進化は「変わるべきときがきたら、みな一斉に変わる」と言った。

これは生物進化を突然変異と自然淘汰だけから説明する正統ダーウィニズムとは相いれない考え方だった。今では今西生命論は否定され、忘却の彼方にある。が、同じ京都学派の系譜に連なる者として、私は今西錦司の孤高を、いつも視界の向こうに仰ぎ見る。(2016.10.6)

*

福岡さんはここで「今西生命論は否定され、忘却の彼方にある」と書いているが、冒頭のような変化の兆しを見れば、現代科学の潮流は迂回しながら今西錦司の愛した山裾に向かっているようにも感じられるのである。

実は、この分子生物学者にはもう一つの顔がある。福岡さんは17世紀のオランダ人画家ヨハネス・フェルメールの研究者としても世界的に知られている。1988年、初めて見たフェルメールの作品に衝撃を受けて以来、フェルメール芸術を探求する旅を続けている。フェルメールは世界を解釈しようとはしていない。ただ世界をあるがままに記述しようとしている。それもまるで科学者のようにできるだけ正確に…。彼の絵の中には世界を解釈しようとか、自己主張といったエゴがなく、あくまでも静かで、公平で、透明で清明。そんなフェルメールのフェアで奢りのない精神に共鳴し、時系列で全作品を捉え直してフェルメールが目指したものや人生に目をこらし、作品のあいだに潜む文脈を浮かび上がらせようと、たんなる作品研究にとどまらない情熱を注いできた。

そこから編み出されたのが、リ・クリエイト(re create=再創造)という手法だった。それは絵画研究の方法論として、最新のデジタル技術を応用した検証方法を活用する手法だ。フェルメールが使っていた絵の具の種類や材料は記録が残っているので、350年を経て退色してしまった色彩が制作時はどのような色彩だったのか、という科学的な推測が現代では可能となっている。そこで、そうした科学的あるいは化学的な検証と膨大な資料を結集させる。そして、作家が求め描いたであろう当時の色彩をとり戻すべく、最新のデジタル技術を駆使した画像処理で本来の色彩を再現し、当時と同じキャンバスに最新デジタル印刷機で印刷をおこなうことで複製画の域を超えた、「再創造」する新しい複製手法を生み出した。もちろんそこに活用されるのは科学的、化学的検証だけではない。

例えば、福岡さんがテレビの特集番組で紹介していたのは、フランス・ブライセンハウト氏による研究成果。フェルメール作品のほとんどは彼のアトリエ内の光景がモチーフとされていて野外風景は2点しか残されていない。そのうちの1点、「デルフトの小道(小路)」が、一体どこを描いたものなのか、長いあいだ謎とされてきた。フェルメールは生まれ育った小さな町デルフトから生涯出ることがなかったから、野外風景もこの町がモチーフとなっているのである。

ところが最近謎を解く糸口となる出来事があった。デルフトの350年前の納税記録が発見されたのだ。ブライセンハウト氏が注目したのは、当時デルフトでは家の間口の広さによって納税額が決められていた事実だった。フェルメールはあらゆる細部を非常に正確に描き出したと考えられていることから、まずこの絵に描かれた家の間口サイズが割り出された。さらに描かれている2つの入口がついた路地のような特徴的な通路という、これら2つの情報が納税記録と照らし合わされ、割り出された場所はアドラントゲン・クラース家の前6.2メートル。なんとここはフェルメールの叔母の暮らす家だった。そしてそこからひとつの仮説が提出された。「小路」に描かれている女性の一人は叔母にあたる人物ではないか。家の前でおはじきで遊ぶ2人の子どもはフェルメールの従兄弟にあたる子どもたちではないのか。

現存するフェルメール作品はわずか33〜36点と言われ、展示されている美術館も世界中に分散しているが、リ・クリエイトによって複製された全作品を同一空間に作成順に並べることはできる。そこで彼の全生涯を再体験してみようという福岡さんのアイデアから生まれた「フェルメール 光の王国展」は、日本やニューヨークで2012年から2015年まで巡回開催され大きな反響をよんだ。

こうした新技術の応用はフェルメールだけにとどまらない。フェルメール同様、オランダの光を描いたと言われるレンブラントはフェルメールとほぼ同時代に活動した画家であるが、現存する絵画作品は、どれも制作された当時の姿のまま残っているわけではない。レンブラントの代表作と名高い「夜警」(通称)にも実は不運な歴史があった。「夜警」は市役所に移行されることとなり、その際設置場所に収めるために、何と左側と上下の一部が切り落とされてしまったのだ。それによって構図は台無しとなり、レンブラントの意図は致命的なダメージを被ってしまった。そこで、現代の研究者たちは本来の姿を取り戻すべく、標準的なキャンバスの幅やキャンバスを張った際に生じる布の歪みに関する現代の知識を駆使したデジタル処理で切り落とされた部分を再現したのだ。他の事例ではX線によって絵の具の下に描かれていたもう1枚の絵を探り出したり、画家が何を求めていたのかを様々な角度からアプローチする研究が盛んに行われている。2015年には、リ・クリエイトにARという3次元CGの検証手法が加わり、より重層的な謎解きが楽しめるようになった。(この拡張現実の活用法はlexues NEWSのページに詳しく説明されている)

このように新しい技術によって修復は明らかに進化を遂げ、現代技術の応用手法は歴史の闇に埋もれていた数多くの謎に新たな光をあてる試みとなっている。それにしてもその発想が、科学と芸術の接点から生み出されているのはなんとも暗示的ではないか。知の源流はただひとつということか。

進化とは一体なんだろう。350年も昔の謎をいまだに探り続けているのである。私たちが生きている世界を流れる時間は、近代以降その速度を急速に増しているが、その流れに溺れまいと現代人が奔流にさしている棹こそが、DNA解析のヒトゲノム計画(Human Genome Project)に連なる分子生物学など、蓄積された現代知を駆使してひとつずつ解き明かしていく新技術の応用なのではないのか。地球上にはおよそ2,000万種の生物が存在するという。しかもそれらは最初から完璧なシステムをもっている希有な創造物である生命体だ。つまり、進化とは自身が完璧な生命体であることをひとつずつ確認していく過程の別称なのかもしれない。

上から
「岡田紅葉「神韻霊峰 七面山」昭和18年3月」、
「岡田紅葉「富士山」1950年」、
「岡田紅葉「霜枯」忍野村 昭和5年12月」、
岡田紅葉 近景。
Apple HP で8月11日「山の日」にちなんで
1日限定で公開された
「iPhone6sで撮影した新しい富嶽三十六景」(部分)。

2016.9.01

退職した男性が夢中になる代表的アイテムに、蕎麦打ち、陶芸、日曜大工、家庭菜園、釣り、世界文化遺産見学と並んで一眼レフカメラがランクインされているという。ずっしりとした一眼レフは、若かった頃には手の届かない高級品だった。そんな記憶をもつ人々にとってのそれは、自分もここまで来たんだという達成感の証でもあるのだろう。オヤジバンドに夢中になっている壮年ロッカーも同様で、憧れだったベンチャーズのメンバーが弾いていたモズライトをやっと手に入れて、家に帰ればトイレにまで持ち込んで抱きしめてるなんて話を聞くと、微笑ましいやら、もの悲しいやら…。

ところで、遅れてやってきたカメラ小僧はその一眼レフカメラで何を撮るのだろう。身近な人々や可愛がってるペットの撮影に夢中になるケースもあるだろうが、多くはその対象は自然へと向けられるのではないだろうか。こんな趣味もあるんですと、身をかがめて路傍の草花にレンズを向け、撮りためた作品を額装して診察室に飾る医師がいたり、トレッキングした先々で野草ばかり撮りためてネットにアップしたりと、楽しみ方もさまざまだ。

四季折々の風景を撮り残す古典的な楽しみの延長に「富士を撮る」という王道が鎮座している。日本人にとって富士は日本一の山。まさに不二の山なのである。その存在感は宗教的ですらある。その富士にレンズを向けようと、愛好家たちが山麓の撮影スポットに一年中集結してくる。中には自家用車をキャンピングカーに改造して、本格的な機材をどっさりと積み込んでは、泊まり込みでベストショットを狙う人々もいる。富士五湖周辺では日常的に大勢集結している、こうした撮影準備に余念がない重装備のアマチュアカメラマンたちを目撃することができる。

裏富士に位置するぼくの暮らす山梨では地元の富士を代表するイメージとして、富士山が鏡像として湖面に写り込む逆さ富士のカットや、青空に映える桜の花々の向こうに富士がひかえるカットなどが度々登場して目に焼き付いている。富士は四季折々、そして一日の中でも気象条件によって万華鏡のようにさまざまな表情を見せる。厳密に言えば一度として同じ表情は見せないはずの富士山なのだが、撮影された写真を見ると、どれも典型的な富士のイメージの中に見事におさまってしまっているのは何故なのか。同じ被写体なんだから似てくるのは仕方ないことだが、写真にはそうした表現としての宿命を超えていく可能性も秘められているはずなのだが…。

先日、地元にある考古学博物館に行くと、特別企画としてある写真展が開催されていた。それは岡田紅葉の撮った富士の作品展。日本に風景写真、あるいは観光写真というジャンルを切り拓いたと言われる岡田紅葉は、忍野村を拠点に富士山を撮り続けたことでも知られているが、オリジナルプリントを見るのはその時が初めてだった。

岡田紅葉は1975年、77歳でその生涯を全うするまでの58年間で、およそ40万枚にも及ぶ富士山を撮影したといわれる。彼が本格的に富士と向き合い始めた時期も関係しているのだろうが、圧倒的にモノクロ作品が多い。それも、通常の銀を感光させるモノクロプリントでなく、白金を用いたゼラチン・シルバー・プリントと呼ばれる焼き付けなので、ひきしまった黒と無限に近いグレーの階調は彼の向き合った富士の姿をさらに重厚に際立たせている。もちろん、多彩な試みが展開されているカラー作品も十分に刺激的だし、切手や紙幣の図柄に多く取り入れられた、もはや古典とも言える富士のイメージも印象深いものだったが、日本画や版画を連想させる抽象性に富んだ作品類は刺激的だった。こういう風景写真もあるのかと意表を突かれた思いだった。

岡田紅葉、本名岡田賢治郎は新潟で明治28年に生まれた。山水画の雅号をもつ衆議院議員の父や新潟初代知事を務めた兄をもつ学術一家の3男として、北国の自然のなかで自由闊達な幼年期を過ごしたという。やがて彼は早稲田大学予科に入学し、学業の傍ら友人から借りたカメラで初めて富士山に接して以来、その魅力のとりこになっていく。いったんは就職したものの、やはり写真で身を立てていくことを決意して東京府専属写真師となり、並行して富士山撮影にも情熱を傾けようとしたその矢先、あの関東大震災が起きた。運良く難を逃れた彼は荒れ果てた街に佇み、遥か先の紅に輝きだした富士の山肌を見てその荘厳さに感動する。そしてそのときふと心に浮かんだ「紅葉」という言葉が以後、彼のペンネームとなった。大正3年から65年間、原版にして38万枚もの富士を撮った紅葉だったが「1枚の快心の作がないのだ」と口癖のように語っていたという。

「今まで写した原板は大小数万枚に及ぶも、一枚として同じ富士山は写っていない。まして会心作などは1枚も見当たらない。1秒の何分の1かの時間が、どんなに尊いものかが解ってきた。そして大自然の摂理が、いかに冷厳であり、また反面、温情の恵み豊かさであるかが感得されたとき、私は限りない敬虔と感謝の念に打たれた。」(1970年 写真集「富士」 求龍堂刊)

紅葉は富士山を「富士子」と呼び「富士子に会いに行く」と言って富士への撮影に出向いたそうだが、4冊目となる写真集でこのように綴っている。

「(中略)14年前(終戦当時)ごろまでは主として彼女の外貌の美しさ、秀麗の姿に打ち込んできたが、近頃になって彼女の内面、心の良さに魅せられたからであろう。(中略)全く私は手に負えない気むずかしい恋人をもったものである。」

愛着から畏敬。写真を通じて富士と出会い、そして写真を超えて富士を愛した紅葉。

その彼の業績を残した岡田紅葉写真美術館のある忍野村には、シーズンともなれば今も大勢のアマチュアカメラマンが全国からやってくる。そして平成の紅葉よろしく、思い思いのアングルで自分の富士を写しとっていく。

趣味の領域を出ていないで、仕事のかたわら休日などに楽しみながら絵を描く人々は、職業画家とは区別されて日曜画家と呼ばれている。富士の裾野に集うアマチュアカメラマンも、いわば写真の世界の日曜画家なのかもしれない。刻々と表情を変え、ひとつとして同じ顔を見せない富士だが、何故か大半の彼らの風景写真は類型化している古典的なイメージに埋もれてしまっている。ベストアングルを狙えるスポットに競って陣取り、三脚を並べれば必然的に類型化してくるのは避けられない気もする。野山に分け入り、誰も据えたことのない場所に三脚を立てるへそ曲がりには、へそ曲がりの見たへそ曲がりの富士を写し取ることができるはず、と考えるのは門外漢の浅はかさなのだろうか。傑作と言われなくとも、それはそれで充分に「私の富士」であると思うのだが…。先日、そんな話をしていたら、知人が中学生のときに配られた夏休みの副読本の事を思い出し、その中に太宰治の見た富士の話があったと教えてくれた。そうだ!「富嶽百景」の冒頭の記述だ。

「(中略)東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい。冬には、はつきり、よく見える。小さい、真白い三角が、地平線にちよこんと出てゐて、それが富士だ。なんのことはない、クリスマスの飾り菓子である。しかも左のはうに、肩が傾いて心細く、船尾のはうからだんだん沈没しかけてゆく軍艦の姿に似てゐる。三年まへの冬、私は或る人から、意外の事実を打ち明けられ、途方に暮れた。その夜、アパートの一室で、ひとりで、がぶがぶ酒のんだ。一睡もせず、酒のんだ。あかつき、小用に立つて、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。小さく、真白で、左のはうにちよつと傾いて、あの富士を忘れない。窓の下のアスファルト路を、さかなやの自転車が疾駆しつくし、おう、けさは、やけに富士がはつきり見えるぢやねえか、めつぽふ寒いや、など呟つぶやきのこして、私は、暗い便所の中に立ちつくし、窓の金網撫でながら、じめじめ泣いて、あんな思ひは、二度と繰りかへしたくない。(後略)」(「富嶽百景」太宰治)

こんな「くるしい富士」、「クリスマスの飾り菓子みたいな富士」の写真だってあって良いではないか。 風景写真におけるプロフェッショナルとアマチュアのボーダーはどこにあるのだろう。前者と後者の違いは、完成度に関して撮影した作品数に占めるパーセンテージの違いだ、とある人は言う。つまりプロフェッショナルは質の高い作品をアマチュアより高い確率で撮り続けることができると。しかし偶然であったにせよ、素晴らしい作品が1点あれば、それでよいのではないかという人もいる。あるいはこんな考え方もあるかもしれない。登山家が登った山の上で、この光景は残しておきたいと撮影した写真はいわゆる記録写真だが、こういう写真をそこに行って撮りたいのだ、というイメージが前提として存在する山岳写真家の表現としての写真。この両者の違いは決して小さくはない。

今年から改正祝日法で新設された8月11日の「山の日」にちなんで、appleサイトのトップページには1日限定でiPhone 6sで撮影した新しい富嶽三十六景が紹介されていた。一眼レフカメラでなく、片手におさまるスマホカメラでカジュアルに写しとられた富士の数々。古典的な面影を残しながら、現代の富嶽三十六景はどこか軽やかだ。この富士山とスマホカメラを隔てる空間には、新しい時代の空気感が充満しているようにぼくには感じられるのだが、そのヒミツは向き合う心持ちの軽やかさなのかもしれないと思ったりもする。

上から井伏先生の色紙と芳名。
次が山口勝弘、1992年の作品 
"Media Circus"(photo Sadamu Saito)とポートレート。
下4点はヨシダミノルの作品とポートレート。
下から2番目は1970年制作の
《バイセクシャル・フラワー》 "Bisexual Flower" 。

2016.7.02

ある日、亡父の部屋の整理をしていた兄が一枚の色紙を見つけた。そして、そこにぼくの名前があったと届けにきてくれた。大学で中国文学を専攻していた兄は流麗な筆文字を解読して色紙にはこのように書かれているのだと教えてくれた。

落ちるなよ あめ(雨)の 葉うらの蝸牛(かたつむり)

小林春生君の四人展を祝ふ

あせらず じっくり そして 求めよ

昭和四十五年 夏 井伏 (写真最上部)

高校卒業後、ぼくは上京して東京新橋にある現代美術研究所という、美術評論家、植村鷹千代先生が主宰する私塾に入所して美術の勉強を開始していた。そして2年目の夏、所員4人による展覧会に参加したのだ。会場は銀座に近い新橋にある「地球堂」というギャラリー。他のメンバー3人は、ぼくより年長で年齢もバラバラ。女性二人と年配の男性画家一名の中に若いぼくが混じって、キャリアも作風もランダムな4人展だった。

しかし、この46年も前に参加した展覧会への祝いの言葉を、ぼくに宛ててあの井伏鱒二先生が書いてくれたことはまったく想定もしていなかったし、ただただ驚いてしまった。

どうして生前、父はこの色紙をぼくに見せてくれなかったんだろうという率直な疑問がまっさきに湧く。うっかり渡し忘れるということは父の性格からしてまず考えられない。いろいろ思い巡らせたあげくに、こういう事ではないかという結論に至った。上京した我が子が東京の画廊で展覧会に出品するという知らせを聞いた父は、晴れがましい気持ちになり、文学の師と仰ぎおつきあいしていた井伏先生にそれを案内したのではないか。そして後日、若者を励ます色紙を送っていただく。しかし、そこで父は考える。もしかしたらこれは自分の勇み足だったのではないだろうか。余計なことをして、と息子にたしなめられはしないかと少し後悔する。ならば、これは封印しておこう。こんな経緯があったのかも知れない。 この蝸牛の詩は検索してもそれらしきものは見つからないから、おそらく井伏先生が創作されたものだろう。雨の中、落ちてなるものかと葉っぱの裏側にしがみつく蝸牛の姿が目に浮かんでくる。そして「あせらず じっくり そして 求めよ」。何と文豪らしい、シンプルで深い励ましか。二十歳のぼくがこの言葉と向き合ったら、その後の人生が少しは違うものになっていたのだろうか。

さらにこれには後日談がある。この展覧会の芳名帳はぼくが預かっていたのだけど、昔飼っていた猫にボロボロに引きちぎられてしまっていた。それでもこれを機にもう一度眺めてみようと思いたち、棚の奥から出した芳名帳の埃をはらう。すると何やら見覚えのある筆跡で、そこに何と色紙と同じ詩が書きつけてあるではないか。(二番目の写真)残念ながら左端がちぎれているため名前は確認できないが、たしかに色紙にあった井伏の伏の字の末尾が残っている。間違いなく会期中、井伏先生が画廊を訪れてくれていたのだ。井伏鱒二と明確に書いてあれば分かったけれど、井伏という文字はかなりクセがあるので、ぼくも含めて何人もこのページを見ているはずなのに誰も解読できなかった。たまたま発見された色紙があったからこそ判明した、偶然の出来事から半世紀近く経って明らかになった真実だった。さらに別なページにはもう1枚の切れ端が残っていた。(上から2番目の左側)まだ、大学入学まもない頃の中沢新一さんのサインだ。書いてくれたその翌日に、ぼくの頼み事をきいてくれるために渋谷の待ち合わせ場所に中沢さんはやって来てくれたから、このサインのことはよく覚えている。いまではもう馴染みとなった漢字のサインでなく、奔放なカタカナがなんとも初々しい。

ところでこの四人展、ぼく以外3名の出品作は作風は違えどキャンバスに描かれた抽象画だったが、ぼくの作品だけは毛色の違ったものだった。それはさまざまな素材を組み合わせた、いわゆるミクスドメディアによる立体作品。記憶を辿れば、ブラックライトを内蔵したステンレスフレームとアクリル板の直方体作品が確か2〜3体。そしてその背面には自分の家族の記念写真(ぼくが4歳くらいの集合スナップ)をシルクスクリーンで印刷したユニットを20枚ほど配置したパネルと、同じサイズのさまざまな配色によるユニットを床に並べて、直方体の中からはエンドレステープによる胎児の鼓動音が流れている。そんな複合的な作品だったと記憶している。当時ぼくの興味はライトアートと呼ばれる光学的表現に向かっていたので、展覧会ではたとえ米粒のような小舟でもよいから、新しい潮流に漂いながら自分のルーツについてなにか表現できないか模索してみようと考えたのだった。

ライトアートとはテクノロジカル・アートと呼ばれる科学技術を応用する芸術のひとつで、おもに人工光を取入れた光の芸術の総称とされる。テクノロジカル・アートのルーツは20世紀初頭に現れた未来派の芸術家たちが機械による拡張と動きを賛美したことにはじまる。特に1920年代のモホリ・ナギらが開拓したライト・アートは美術史上のエポックとされているが、そこから綿々と科学技術の美術への応用が展開され、磁石、サイバネティックス、レーザー光、ビデオやホログラフィーなどといった技術がめまぐるしくアート・メディアに導入されながら、さまざまな芸術領域が開拓されてきた。電気仕掛けの機械作品は電子制御装置のテクノロジー・アートへと変貌を重ね、さらにはコンピュータ性能の飛躍的向上を背景に登場してきた新しい芸術表現であるメディア・アートまで、科学技術とその応用芸術の歴史は綿々と紡がれてきた。

日本では戦後まもなく滝口修造の肝入りで結成された「実験工房」が和製テクノロジカル・アートの先駆的役割を担ったが、その中には当時ぼくがリスペクトしていたキネティック・アート(動く芸術)作家の一人だった山口勝弘もいた。また、音楽家ではオノヨーコの前の夫であった一柳慧武満徹も名を連ねている。1970年大阪万国博覧会後には「ハイテクノロジー・アート」展を主催したグループ「ART-UNI」も結成され、キネティック彫刻の伊藤隆道も参加している。そういえば、ぼくは当時四谷でその伊藤隆道が主宰していたMOV工房に何とか潜り込みたくて、友人だった中沢新一さんの縁者が伊藤隆道と親しいことを嗅ぎつけ、紹介してもらうことにした。彼がぼくの四人展に顔を出してくれたのも、そんなぼくの頼みを聞いてくれるためでもあった。しかしせっかく骨を折ってもらったのに、後日MOV工房を訪ねたが伊藤さんは不在で会うことができず、その後もすれ違いが重なってしまい、結局縁がなかったんだと漠然と抱いていた希望も尻すぼみとなってしまった。

山口勝弘はキネティック・アートの代表的作家といえるだろう。当初はガラスを用いたが、その後はアクリル樹脂を利用した光の彫刻を発表。重層するアクリル樹脂を光で浮かび上がらせるその絵画とも彫刻とも形容しがたい立体作品の直線的でシャープな印象は新しい時代の到来を予感させるものだった。

もうひとり、ぼくが惹きつけられていたキネティックアーティストは、1928年東京生まれの山口より7歳若い1935年大阪生まれのヨシダミノル(本名・吉田稔)。美術家としてだけでなく、京都出身の伝説のロックバンド「村八分」といった京都のアンダーグラウンド文化にも影響を与えた現代美術家で、ロックグループ「くるり」を2013年に脱退した吉田省念の父としても知られている。ヨシダミノルの作品でぼくがもっともグッときたのは、具体美術にも参加した70年頃に発表された、光るクラゲのような湾曲したアクリルを素材にした動く彫刻群だった。シャープな山口作品とは対照的に、有機的でエロティック。蛍光アクリル板の定番ともいえる透明グリーン板の断面にはブラックライトの光が凝縮され、一筆で描いたような曲線が際立ってくる。いわゆるエッジライティングという現象だ。本人の飄々としたインタビュー動画も微笑ましいのだが、残念ながら2010.10に亡くなってしまった。それにしても山口、ヨシダといったキネティック・アートの先駆者達も晩年は仙人みたいな風貌となっている。最先端も矢張り枯れてくるんだなぁ。

当時のぼくは、何とか有機的でエロティックな表現ができないかと模索してみたのだが、資金も技術や知識もなかったので断念するしかなく、比較的制作しやすい、イメージとしては山口作品に近い立方体でトライしてみることにした。そこでこれまで試みていたような絵画表現でなく、テクノロジカル・アートの文脈の中で「自分はいったいどこからやって来てこれからどこに向かっていくのか」という最も古典的命題を掲げてはみたものの、表現物としてはまったく拙い代物だった。何故なら、この作品は暗い空間に置かれてはじめて制作意図が伝わるもので、その意味ではまったくの失敗作。明るい展示室という制約条件下では、蛍の光を昼間眺めようとするようなもので、まったく当初の目論みを果たせるようなものではなかったからだ。今となれば、お住まいの荻窪から出向いてくださった井伏先生が、ぼくの作品の前に佇んでいる光景に身のすくむ思いである。

起源とされる洞窟壁画にはじまる絵画も当時は最新技術だったに違いはないのだが、あたかも心の窓のような平面に表現するという行為にはどうやら普遍性が宿っているらしい。そう考えなければ、今に至るこの様式の堂々たる存在感を説明することは難しい。翻って、それから続々と登場してきた技術に触発されて生まれた数々の芸術のなんと脆弱なことか。新しい技術もしばらくすれば新登場する技術に覆い隠され、やがて過去のアーカイブへと後退していくし、それとともに生み出された芸術表現も次第に色あせてくる。そうして栄枯盛衰を辿りながら、目まぐるしい変貌の渦に飲み込まれていく。そう、パンタレイ(panta rhei)。万物は流転しているのだった。

上からジオラマと鉄道模型の数々。
5点目は客車に収まる乗客のミニチュアスナップ。
下2点はウォルト・ディズニー・ワールド鉄道での
フロンティアランドとファンタジーランドに向かう
機関車の新旧スナップ。

2016.5.01

その時、蒸気機関車は噴煙を上げながら長野方面に向かっていた。やがて汽車はカーブにさしかかる。そこでぼくは、先頭で車輌を牽引している機関車を一目見ようと、親の制止も聞かずに開いていた窓から身を乗り出した。するとそのとたん、前方から飛んできた煤煙に混じった石炭の燃え滓が目の中に。「ほら、言わんこっちゃない」という親の声と目の中のチクチク、ザラザラした痛みの感覚がいまもリアルに残っている。もう一つ電車にまつわる記憶がある。今はもうなくなってしまった、地元駅にあったヨーロッパ映画のワンシーンを想わせる、重厚な煉瓦の壁に覆われた貨車の発着所の風景だ。

男の子なら誰でも一度は夢中になる電車だが、それからぼくは所謂「鉄ちゃん(鉄道を趣味とする者)」になることもなく、めまぐるしく入れ替わる趣味のリストに電車が加わることはなかった。ただ、成人してからのわずかな期間、鉄道模型に興味を示したことがあった。きっかけは覚えてないが、Nゲージと呼ばれる小さな規格の鉄道模型をレールや簡単なストラクチャー、アクセサリー、シーナリー用品で組み立てた名ばかりのジオラマで走らせてみたりしたのだが、それも長続きすることはなく、その思いつきの痕跡は段ボール箱の中に眠ったままだ。

ところで「鉄ちゃん」の分類は実に多岐にわたっている。車輌研究にのめり込む者。鉄道写真に夢中になる者。走行音や構内アナウンスの録音や音響研究にはまる者。運転や施設設備、そして業務に興味を示す者。(ここから関連業種に就くケースも多いようだ)また、時刻表や駅の研究に没頭する者や実際に乗車したり、その旅情を楽しみとする者など様々に枝分かれしている。そして、決して外すことのできないジャンルが鉄道模型である。

菓子のおまけや手軽な鉄道おもちゃとして作られたのが鉄道玩具。ここを入口にして「鉄ちゃん」になった人も多いことだろう。片や鉄道模型は、基本的に自走する車輌と線路(軌間)が常に対となっている。その歴史も相当古く、Wikipediaによれば、「最も初期の縮尺1/64の鉄道模型は1896年にイギリスの14歳の少年によって造られたMidland Railway 4-2-2。最初の動く模型は20世紀初頭にイングランドで製作された。」とある。

鉄道模型には様々なスケールがある。1番ゲージは縮尺1/32(または30.5)・軌道(レール幅)45mmでアメリカやイギリスなどで一般的なスケールだという。16番ゲージは日本国内の規格名称で縮尺1/76〜87(または〜90)・軌道(レール幅)16.5mmのものを示す。また、日本の鉄道模型の規格には35mm、縮尺1/80・軌間16.5mmのJスケール 、軌間9mm未満のU9規格がある。その他、1972年ニュルンベルク国際玩具見本市においてメルクリンから発表されたのは、商業模型において将来これより小さいものは出現しないだろうとして命名された縮尺1/220・軌間6.5mmのZゲージがある。しかし精密加工技術の裾野が広い日本には、さらに小さい指先に乗るほど小さな軌間3mm・1/450スケールの・極小鉄道模型のTゲージも誕生している。逆に大きいサイズでは縮尺1/22.5・軌間45mmのドイツ語のGross (大きい) に由来するGゲージや縮尺1/64・軌間22〜22.9mmのSゲージがあるが、現在国内で最もポピュラーとなっているゲージは縮尺1/87(3.5mmスケール) ・軌間16.5mmのHOゲージと縮尺1/148 〜1/160・軌間9mmのNゲージだろう。HOゲージとは縮尺1/43〜1/48 ・軌間32mm (国によって微妙に異なる)のOゲージの半分、つまり、Halfの頭文字をとってこのように呼ばれている。海外ではHOゲージが主流のようだが、よりコンパクトなNゲージは現在日本でもっとも普及している鉄道模型と言われている。これらHOゲージとNゲージの楽しみ方は、車輌収集や車輌工作(改造・自作)、そしてジオラマで模型を走らせて運転を楽しんだり、レイアウト・ジオラマを製作したりと分化している。

実は最近、出入りしているジャズ喫茶の常連で鉄道模型にはまっている人物を介して二人のモデラーを紹介してもらうことになった。いずれも人生の先達だが模型にかける情熱は若々しく、しかもディープだ。もう一人、断捨離をしているという人物からはNゲージコレクションを格安で沢山譲ってもらったから、眠っていたぼくの収集癖はこのところまた疼き出しているのである。この断捨離の御仁は鉄道模型よりもっぱら対象を戦車に絞り込んでいて、蓄積された知識も相当なもの。ぼくも模型作りにはまったことがあるから知ってるが、戦車は模型の中でも特にパーツが多いため完成までにはかなりの集中力を要求される。キャタピラを一部品ごとに組み立てていくなんて考えただけでも気が遠くなるが、大晦日、工作に夢中になっていて、気付いたらすでに年が明けていたとその御仁は笑っていた。

さて、ぼくが常連の案内で見学したのは、鉄道模型では一目置かれているというベテランモデラーY氏の自宅の工作室。Y氏は地元高校で40年間数学の教鞭をとり10数年前に退職されたが、それからは1日の大半を工作に充てているという本格派。もっぱらHOゲージの車輌工作にフォーカスしていて、ジオラマまで手を染める余裕はないのだそうだ。ベースとなるのは様々なメーカーから発売されているキットだが、そこからいろいろな改造を加えていく。実車に合わせるため、走行時には見えない底部に装備された部品類も真鍮板を切り出して溶接を繰り返し、塗装技術を駆使してリアルに再現していく。貨車に積まれた石炭は本物の石炭を忠実な縮尺で砕いたものが固められていたり、その車輌の実走音が録音されたCIチップを模型にセットして、サウンドは走行時に再現される仕掛けだ。鉄橋にさしかかる前に必ずかけられるブレーキ音にも抜かりはない。客車の車内には虫眼鏡でないと鑑賞できないほど精密に彩色された老若男女のミニチュアが何輌にもわたって思い思いの位置に配置されている。(5点目の写真参照)しかし、車輌の窓はスモークなので外から乗客は見えない。老練なモデラーが不思議そうな顔するぼくを見ながらコントロール盤を操作すると、何と車内にセットされたLEDのミニライトが点灯し、ノスタルジックな客車の風景が出現する仕掛けに唖然。おまけに先頭車輌に取り付けられた極小カメラによって、走行用に用意された簡易ジオラマを走る光景が工作室のテレビにモニターされているではないか。この情熱とこだわりは一体どこから湧き出してくるのだろう。複雑な配線図も解読して変更を加えながら自作しているので、情熱だけでなく、工学系の知識がなければとても出来るものではない。工作室にはおびただしい車輌が陳列されていたが、並びきらない車輌は専用の箱に収まり、別室に多数保管されているのだという。車輌は高価なものでは数十万の値段もつくというので、所有数を考えると相当な金額になるだろう。マニアにとっては垂涎のコレクションも興味のないものにとっては唯の玩具の山に過ぎない。一般的に鉄道模型のモデラーやコレクターは、昔懐かしいノスタルジーに誘われた世代が多いため、高齢化が進んでいる状況は否めない。コレクターが亡くなった時にはすぐさま駆けつけらるよう情報網を張り巡らせ、査定・買付をする専門業者さえ存在するらしい。

さて、次に件の常連が案内してくれたのは老練モデラーよりさらに高齢の80歳になるK氏宅。何でも個人としてはめずらしい本格的なジオラマを自宅に再現していて、自慢のコレクションを走らせては夜な夜な楽しんでいるそうだ。ジオラマルームに足を踏み入れると、なるほどこれは年季が入っている。一部屋まるまるワンダーワールドではないか。日々、司令室となっているコントロール盤の前に座っては時の経つのも忘れ過ごしているとのこと。出色なのはジオラマ・ストラクチャーのリアリティ。様々な市販パーツや自作パーツを組み合わせては創意工夫を凝らした見事な仕事ぶり。駅舎やプラットフォームの佇まいは子どもの頃に見た記憶が原形となっているのだそうで、ジオラマの駅には「笛吹鉄道」の「雁坂駅」とか実在しないが、地元にある地域名を反映させた架空の名称がつけられていて何とも微笑ましい。こうしたディープな鉄道模型マニアを見ていると、その原動力となるルーツに思いを馳せずにはいられない。おそらくは、数十年にもわたってメラメラと燃え続ける情熱は、幼少期のかすかな遠い記憶が着火点となっているに違いない。かように記憶が生み出す力は想像を超えたものがある。

ウォルト・ディズニーが鉄オタだったのはつとに有名な話だ。大の鉄道マニアだったディズニーの鉄オタ魂に火をつけたのは1946年にシカゴで開催された鉄道博覧会での体験だった。機関室に招き入れられた彼はそこで汽笛を鳴らしたり、会場で機関車のパレードを見たり、運転体験をしたり…。それは彼にとって夢のような体験だったようで、帰宅後、妻にいままでの人生で一番楽しかったと漏らしたとか。この体験からのちのディズニーランドにつながるテーマパーク構想が誕生するのだが、まず再現されたのがアメリカの古きよき時代のパノラマ的風景を一周する架空の「サンタフェ鉄道」の蒸気機関車だ。世界中の人々を惹きつけてやまないディズニーランド誕生の原点は、ウォルト・ディズニーが抱いた鉄道を出発点とした開拓時代の古き良き時代のアメリカへのノスタルジーだった。

鉄道模型やジオラマには、凝縮されたリアリティが顕微鏡的スケールで再現されている。こうした繊細さの極限に挑むような職人芸を好むミニチュア志向は日本人のお家芸でもある。茶室しかり、盆栽しかり、俳句だって世界に類例のない顕微鏡的文学表現ではないか。

「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて蟹とたはむる」

この有名な石川啄木の歌には小さなものへと関心を集中させていく日本人特有の民族性がよく表されていると指摘する韓国の学者の話が中沢新一さんのエッセイで紹介されている。

「ほら、ごらんなさい、と彼は言う。啄木は、カメラをずんずん寄りつかせるようなやりかたで、自分の主題にせまっていこうとしているでしょう。はじめ画面には、ひろびろとした青空とそこにひろがる太平洋がとらえられています。その自然の大きさ、雄大さが主題かと思っていると、たちまちカメラは「寄り」の態勢にはいるのです。ズームアップ開始。海のなかに発見された小島の光景に画面はいっぱいになり、そこでとどまるかと思えば、さらにそこをとおりこして砂浜にたどりつく。そこにはセンチメンタルに歌人がすわりこみながら、泣いている。カメラはなおも容赦なくズームをつづけ、ついにその歌人の手もとにたどりつく。するとそこには、小さな蟹たちが這っているのです。どうですこれが「縮み志向」の発想なのですよ。太平洋から、砂浜の蟹まで、つねに自分の視野を狭くして、自然のなかの小さなものへと関心を集中させていく。大きなものをその大きさのままに受け入れたり、立ち向かったりするのではなく、日本人はまずその大きなものの縮尺モデルをつくりあげ、それをもてあそぶことが好きなのです。日本人とは、そういう特徴をもった民族なのですよ、とその韓国の学者は説明していた。」(物質の抵抗「縮み志向」展より抜粋)

この指摘を受けて中沢さんは考える。日本人はただのミニチュア愛好の民族なのか。小さな模型やモデルをつくろうとする、こういうタイプの「縮み志向」には、部分にこだわるのではなく、まず全体の認識を優先させようという、いさぎよい思いきりが潜在しているのではないか。「縮み志向」は、その背後に、全体の認識への欲望を秘めていて、つまりこれはまぎれもないひとつの芸術的な文化なのだと。小さく縮められた自然や生き物(ここには生き物がつくりあげたノスタルジーの産物も仲間入りさせてあげなくてはならないだろう)の世界を目の前にするとき、人の心はこまやかな愛情にみたされるようになる。それは世界をチャーミングにする、ひとつの技術なのである、と。そう考えれば、決して鉄ちゃんでも何でもないぼくが、鉄道模型やジオラマの世界に吸引力を感じたりするのは、自身に潜在する「縮み志向」の奥部に全体の認識を欲望するもう一人の自分が潜んでいたからなのだと腑に落ちる。少年時代から今に至るまで、精緻で濃密なミニチュアに理屈抜きで魅了されてきたこともやっと理解できるのだ。おかげでこんなぼくの心もひとときこまやかな愛情にみたされ、ほんの少し、ぼくの世界もチャーミングになってくれるのだ。