Cherry Blossoms at Tsutsujigasaki

2008.4.02

この時期のTVではニュースからCMに至るまで何処もかしこもサクラ色に染め上げられて、ちょっと食傷気味になることもあるけれど、パッと明るくなった風景を目の当たりにすると、あぁ、今年も春が来たんだなぁとやっぱり実感してしまう。
人生の輝かしい時はその人が考えているよりずっとわずかな一瞬にすぎない。しかもその一瞬を多くの場合、人はその時に実感することができないものだ、ってなことがどこかに書いてあった。(村上春樹かな?)何の本だったのかどうしても思い出せないけれど、そうだ、きっとそういうもんなんだろうと妙に納得してしまったことがある。「まだ来てねぇよ」とか、「俺にはそんなの一生縁がねぇ」とか、「たぶんあの時がそうだったんだろうか」と思い当たったり、人それぞれ想いは千差万別なんだろうが、その一瞬を彩る歓びにはきっと哀しみも溶け込んでいるはずである。満開の桜を見るたびにぼくはそのことを思い出す。歓びと悲哀とがないまぜとなった人生最良の一瞬と満開の桜は、ぼくの心の深い場所でひっそりと通底している。
ところで、甲府盆地の扇頂に位置する躑躅(つつじ)ヶ崎と呼ばれる一帯の東端にぼくの仕事場はある。辺りにはたくさん桜の木が植えられていて、以前は春になると大勢の花見客で賑わったものだった。近ごろは浮かれる気分になんてとてもなれないという地方の疲弊した空気を反映してか、この時期もいたって静かなものである。反対側の躑躅ヶ崎西端は武田三代の拠点となった躑躅ヶ崎館があった場所。後に館跡は信玄を祭神とする武田神社となり、今では年間を通じて観光バスが行き交う観光スポットになっている。
甲府駅から2〜3キロまっすぐ北上するとこの武田神社に突き当たるのだが、その昔、この参道の桜並木には、子供心にも「すげ〜っ」と感動した記憶がある。未舗装で一車線のデコボコ道。両脇に立ち並ぶ堂々とした枝ぶりの桜並木には神性を宿すような風格さえ漂っていた。まだ猿みたいだったぼくの脳みそにもその光景はしっかりと焼き付けられ、お陰でぼくの人生は少しだけ丈夫になることができたような気がするのだ。
ところが高度成長期、その並木は舗装二車線化という利便性と引き換えにあえなく消えてしまった。桜は植物の中でも特に移植が難しい品種だと聞いたことがある。年代物の桜はそれだけに貴重な存在だったのに、消えてしまったものはもう戻ってこない。
とりあえずの利便性を選択してきてしまったぼくらの近代。小さなものが小さなままでいられることがますます困難な時代になってしまった。いたるところで喪失感は堆積し、自然に抗う人工物に囲まれて、心の奥を暖めてくれるささやかな熾き火はいまや瀕死の状態だ。でも、軋む音の中から蘇生へと踵を返す意思の産声が聞こえてくることがある。少しづつ、少しづつ大きくなっていけばいい。人の心も桜と一緒で植え替えることができないのだから、時々立ち止まり、迷いながらも選択していけばいい。そうすれば、新世紀の桜だって未来の子どもたちの人生を少しだけ丈夫にしてくれるかもしれない。

Magnetic Sound Recording Tape

2008.3.03

先日、部屋の片づけをしていたら随分古い音楽テープを発見した。今ではもう見かけることもなくなったオープンリール・タイプの録音テープだ。デッキはとうの昔にお払い箱となっているから、再生することも叶わない数巻のテープなのだが、目の前に積み上げると記憶が少しづつ蘇ってくる。誰だって少しくらいは封印したい過去の記憶を引きずっている。音楽を聴くだけでは飽き足らず、奏でることに夢中になったあの頃の思い出は、どちらかと言えば恥ずかしさを伴う、封印しておきたい記憶のひとつだった。
二十歳を少し越えたある頃、ぼくは趣味の音楽仲間と一度だけ地元で小さなコンサートを開いたことがある。二部構成で、一部はすべて自作曲で埋め尽くすというのがぼくらのささやかな野心だった。メンバーにはすでに会社員となっていた人もいたのだが、暇を見つけては練習を重ねコンサートに備えていた。譜面も満足に読めないくせに、作曲とリードギター&ヴォーカルを担当していたぼくは、結構その気になっていて、まったく若気の至りとはいえ無謀なことをしたものだ。折悪しくたまたま帰郷していた(まだ当時大学生だった)友人の中沢新一さんが会場に駆けつけてくれ、しっかりと恥ずかしい一部始終を目撃されてしまったのだ。それからというもの、ことあるごとにぼくは、その目撃談で冷やかされ続けている。IAAの開所式で元YMOの細野晴臣さんに「小林君は昔、細野さんの曲をコンサートで唄ってたんだよ」なんて紹介をされて赤面したこともあった。たしか二部で故・高田渡の「坑夫の唄」や「銭がなけりゃ」なんかを演奏した記憶はあるけど、細野さん(当時はエイプリールフール解散後、はっぴいえんどのメンバーとして活動していたんだと思う)の曲は決して演奏してないはずなので、これは中沢さんの記憶違い。この最初で最後のコンサートの模様も、積み上げられたテープの中にはしっかりと残されている。
これ以来、もともと内向的なぼくはコンサートなんて柄じゃなかったことを痛感し、それからは一人で音楽をつくることに夢中になり、自宅をスタジオ替わりにして何とも素朴な手法で録音を楽しむようになった。今では本格的なレコーディングやミキシングが一人で簡単に出来てしまう「GarageBand」なんて便利なソフトがあるけど、当時はワンマン・バンドとして各楽器を重ね録りしていくしか方法がなかった。まずリズムボックスとベースを同時録音し、リズムギターとリードギター、ヴォーカルの順で重ねていくのだ。アイルランドのエンヤ(enya)だって、基本的にはこの方法で音楽をつくっているという。エンヤのプロデューサー兼サウンド・エンジニアのニッキー・ライアン(Nicky Ryan)と、作詞家として曲づくりにも参加している妻のローマ・ライアン(Roma Ryan)の3人はスタジオにこもりきり、何ヶ月もかけてオーバーダビングしながらエンヤのすべてのアルバムをつくりあげてきたとライナーノーツにも書いてあった。ただぼくの場合、デッキの回転スピードに問題があったのか、録音を繰り返していくと音程が少しづつ高くなってしまうのが悩みの種だった。だからどうしても完成した曲はアップテンポになってしまう。ニールヤング(Neil Young)の初期のアルバム「After The Gold Rush」に収録されている「Birds」(当時この内省的な曲がお気に入りだった)をカバーした時には、分厚いコーラスにしようと10回くらいヴォーカルを重ねたものだから、完成した時にはまるでウィーン少年合唱団のコーラスみたいな曲になってしまった。
そんなこんなの、懐かし恥ずかしの記憶は今もテープにしっかりと記録されているはずだが、再生する勇気はない。「なら、捨ててしまえばすっきりするぞ」と言われてもそう簡単に割り切れるものでもない。若い頃感動した映画や小説や音楽も、数十年後に見直したらすっかり色褪せていたなんてことはよくあることだし、記憶の中でフリーズさせておくのもひとつの知恵というものなのかもしれない。凍結の知恵。人間、年を重ねてくると次第に狡くなってくるものだ。

Flier & Portrait for The Exhibition

2008.2.02

木枯らし舞う新橋駅に降り立ち東銀座方面に歩き出したものの、久しぶりの新橋駅周辺は景色が一変していてすっかり道に迷ってしまった。それでもなんとかリクルートビル1FにあるクリエイションギャラリーG8に辿り着き、「絵とコトバ 三人展」に入場。同郷で高校美術部の大先輩イラストレーター若尾真一郎さんと、お世話になりっぱなしの佐藤晃一さん、そして3度ほどお目にかかって親しくお話ししていただいた安西水丸さん3人組による(確か2度目の?)デザイン展である。ぼくは地方都市に住んでいて余程のことがなければデザイン展には足を運ぶこともないのだが、この3氏の表現に触れることは特別な意味あいをもっている。それはデザイナーになってから節目節目で少なからぬ影響を受けてきた人物がいま何を考えているのだろうと確認することの楽しみのようなものなのかもしれない。
若尾さんと安西さんは共にデザイン界を代表するイラストレーターとして、それぞれに独自の表現世界を築いている。イラストレーションというのは不思議な領域だ。あの世とこの世の仲立ちをするシャーマンのように、企業と顧客、ワタシとアナタ、ボクらとキミたち、ココとソコを繋ぐさまざまなイメージを紡ぎ出し、代弁者であり表現者であり、そのいずれでもない謎の絵師として、寄る辺なき身でこの世を浮遊しているように感じられる。しかも画家のように老成することも許されないという過酷な職業でもある。
佐藤さんはグラフィックデザイナーの大先輩である。深くて広い知性を背景に、これまた類例のない表現世界を積み上げてきた。僭越ではあるけれど、いつも佐藤さんの作品には、クレバーな濾紙で抽出されたデザインのエッセンスが見え隠れしていると思うのだ。もちろん真似できるはずもなく、ただただ呆けたようにその出来栄えに感嘆し、見つめ続けるしかないのだが。
今回の試みは、自作の俳句にグラフィックを添えるというもので、題して「俳グラ」という新領域への挑戦。(これはますます真似できないぞ)まず何といっても佐藤さんの句が深い。安西さんらと長年本郷で続けていたという句会の成果のたまものか。素人の域をとうに超えてグラフィックとしっかり拮抗している。日本には俳画というジャンルがあるが、この「俳グラ」には縦組みの俳画に対して横組みジャンル誕生といった趣がある。もちろん、いつものクレバーな濾紙で「モダンな和」がブレンドされているから、それは作品などという肩ひじはったものでなく、上質な遊びが佐藤さん特有の含羞とともにそっと差し出されているような印象を受ける。これは決して単なる「デザインごっこ」ではないと思う。(単なる「デザインごっこ」のいかに多いことか!)そこには必然からしっかりと生み出された表現がある。
さらに佐藤さんは文章の達人でもある。その昔、ぼくは中村とうようさんが出版していた「ミュージックマガジン」(その後「ニューミュージックマガジン」に誌名変更)という音楽雑誌を定期購読していて、80年代そこに連載されていた「YES EYE SEE」というコラムを愛読していた。音楽だけでなくデザインや絵画に関する考察も多かったので、この人ちょっと風変わりな音楽評論家だなぁ、なんて勝手に思いこんでいたぼくが、筆者である佐藤晃一という人物が実は新進気鋭のグラフィックデザイナーだったことを知ったのは、それからずいぶん後のことだった。考察は明快、簡潔、そしてほんの少しのアイロニーがふりかけられている。その塩梅が実に佐藤さんらしくて、この印象はご本人と会話してみてもまったく変わることがない。最後にその名文を、『ミュージックマガジン』「YES EYE SEE」第19回1983年7月「空のパノラマ」より、文末だけちょっと長めだが抜粋してみたい。
※なお、三人展は2月8日まで開催。まだ間に合いますので機会があったらぜひどうぞ。

「…雲ひとつない青空、灰色一色の空、月や星の空…今でも空はいつも、ぼくにはサイケデリックなものに見える。人からは「君はサイケデリックの正しい意味を知らぬのではないか」と言われそうだが、そんな風に空のことやサイケデリックの意味を取りちがえて風景をながめていられるうちは、ぼくも仕事が続けていけそうに思っているのだ。だから今でも仕事の手を休めて、空の写真を撮ることがある。いずれそのフィルムを使って作品を創りたいと、下心もあるにはあるのだが、どうやったらそれが作品などになるのか、現像所から帰って来たスライドをながめては、きまって途方に暮れてしまう。それでもシャッターを切ってしまうのは、自分にとって空を見ることが、今も永遠のポルノだからなのだろう。空色の向こうに広がる満天の銀河が、頭の裏がクラクラするような子供の頃のステキな視覚体験を、いまだにぼくにそそのかしてくるからなのだろう。遠くの空に向かってシャッターを落とすと、自分が光の速さで空のスクリーンに激突するような錯覚に襲われる。見ることはぼくにとって、いつも臨時ニュースなのだ。」

rom "iPod touch"
package & quick start

2008.1.01

新年にちなんで「新」つながりの話題をひとつ。新し物好きの遺伝子を引き継いでしまった息子がAppleの新製品iPod touchを衝動買いしたものの自分のIT環境では使い勝手が悪いので、ぼくの使っているiPod 30GB (Video)と交換しない?と提案してきた。ぼくは先頃アメリカで発売されたiPhoneには興味を抱いていたのだけれど、iPod touchはいずれ日本でも発売になるであろうそのiPhoneのトレーニング商品という印象をもっていたので特に購入する予定はなかった。しかし結局「元祖新し物好き」はこの交換の誘いに抗することができず、そういうわけで今iPod touchはぼくの手元にある。
Mobile Music Playerの先駆けとして登場したiPodを手に入れるのもこれで6台目。家族に分けたりして現在は残るiPod 60GBとiPod touchの2台を使い分けている。
大好きな音楽はもちろんのこと、Portfolio替わりに仕事をスライドショーにして出先で見てもらったり、録音機としてVoice Memoを残したり、テキストデータを入れておき、空いた時間を利用して出先で原稿の下読みをしたりと活用法はさまざまである。
iPodの魅力は何といってもその操作性だろう。直観的なインターフェイスによって自分がマシンを操作しているということをつい忘れてしまう。最小限の知識さえあれば十分使いこなせる簡便さがありがたい。このAppleの設計思想は進化したiPod touchにもしっかりと踏襲されていて、1-「タップ」(マウスのクリックと同じように指先で一回軽く突くこと)、2-「フリック」(上下左右に指先で移動させること)、3-「ピンチ」(2本の指先で広げたり縮めたりすること)、この3つの操作さえ覚えてしまえばすぐに手に馴染んでくれるようになる。指先の動きひとつで画面が思い通りに動いてくれるのはちょっとした快感だ。操作画面は必要な時にだけ出てきて、操作が終われば隠れてしまうので、フロントパネルの全面をディスプレイとして使えるのがiPod touchの最大の売りといえるだろう。
またWi-Fiネットワーク環境下でSafariによるWebのブラウズも可能になった。サイトがPCと変わらないクォリティで再現できるので、何だかマイクロノートパソコンを持ってるような気がしてしまう。これに電話とカメラ、そしてメール機能が付加されたらiPhoneになるわけで、この1台もってたらどこにいてもさほど不便は感じないだろう。ただiPhoneの通信規格は日本では採用されていないため国内で利用できる可能性はかなり低いという見方もあって、発売は限りなく不透明だ。
実はこの「簡単にできる」ことを実現するための裏側には「すごく困難な」ことがいっぱい詰まっているはずで「こんなことができたらいいのに」をプログラミングで実現してしまう分厚い能力集団がAppleの商品群を支えている。子どもみたいな突飛な発想をしっかりとリアルなプロダクトとして現実の世界に実現してしまう。これがSteve Jobsの標榜する彼のデザインなんだと思う。デザインは次第に視覚領域から越境しつつあるのではないだろうか。人間の生理に近づくことのできるデザインだけがこの21世紀を生き抜いていくのかも知れない。
ところでぼくはこれまで仕事に必要なツールとして、1980年代のMacintosh Plusから始まり、冗談でなく安めのPorscheが1台買えるくらいApple PCを何台も買い替えてきた。だから少しくらい苦言を呈する権利はあると思うので最後にAppleへささやかなお願いをしておこう。
1-バッテリーの問題はモバイル機器の永遠の課題なのだろうがもう少し長時間使えるような工夫をぜひ。
2-touchにはExtras-Notesが用意されてないからテキストが閲覧できないのはとても残念。
3-現在のtouchにはFlash Playerなどのアプリケーションがダウンロードできないので、Webのブラウズの楽しみが半減されてしまっているのが残念。
4-iPodの修理基本料金が一律で新製品と同価格というのは「壊れたら新しいの買ってね」と言われてるみたいでいかにもあざとい。Long Life Designをとまでは言わないけれど、せめて旧商品にも「愛情こめて作り上げたので大切に使ってあげてください」というCraftsmanshipを漂わす成熟した企業としての姿勢をぜひ示してほしい。

from "DUTCH LIGHT"

2007.12.03

晩秋のある調査に同行した帰路、中沢新一さんから「オランダの光」という作品を見たことあるかと尋ねられた。「素晴らしいドキュメンタリーだよ」と勧められたので、さっそくアマゾンから取り寄せてみる。
「オランダ名画の源となった自然光“オランダの光(DUTCH LIGHT)”は、果たしてまだ存在するのか?」(DVD解説より)をテーマに、映像作家デ・クローン監督率いる撮影クルーが、地球を〈横断〉し、歴史を〈縦断〉して制作した濃密なドキュメンタリー作品。数々の受賞も頷ける出色の出来ばえだ。
日本ではまず見られないような地平線で分割され、1日に四季が訪れるといわれるくらいめまぐるしく天候が変化するオランダの様々な風景や南仏プロヴァンス、アリゾナ砂漠の映像を織り交ぜながら、全編、アーティスト、気象学者、天文物理学者や美術史家、農夫やガイドらによる分厚いインタビューで構成されている。
光そのものは見えない。しかし光が射せば物は見える。そして目に見える世界は描くことはできるが、見えたままを描くことでは世界を捉えることはできない。なぜなら描くことは解釈することで、描画法の発想も解釈の結果なのだから。このように光の存在は人間に解釈することを要求しているのだが、この不可思議な光の存在を人間は長いあいだ、科学や芸術など様々な分野を通じて考察し続けてきた。
この作品では、“オランダの光”は地形や気象条件がもたらす固有な自然現象にとどまらず、自然と向き合う人間の特性までも含めたものとして捉えようとしている。
例えば絵画について考えてみる。イタリア人はそこに物語を、スペイン人は叙情を塗りこめるが、オランダ人はただひたすらその対象物を見つめ続けるのだという。作中で指摘されているこうしたオランダ人の特性はフェルメールの作品などに如実に現れていて、見つめることを探求し辿り着いた至高の到達点がそこにある。さらにこの画家について印象的な言葉があった。フェルメールもモンドリアンも変わりはないというのだ。この2人によって描かれた光はまったく同じものであるという指摘はとてもスリリングだ。具象と抽象の両先端に位置づけられるこの2人のオランダ人画家が時空を超えて実は同じものを描こうとしていたとは!世界を見る眼に、具象も抽象もないということか。
ぼくは若い頃、どうしても風景画を描くことができなかった。風景を前にして絵筆をとると、とたんに途方にくれてしまうのだ。この作品を見ていてやっと自分のミッシングリンクが何であったのか気づかされた。混沌を解釈する眼を持ち合わせていなかったのだ。自由や感性を決して芸術の免罪符にしてはならない。
奔放さは人間の愛すべき特性のひとつだが、やはり表現にとって緻密さは欠くことのできない必須要素である。測量する眼。科学する眼。解釈する眼。思考する眼。そして技法の蓄積とその応用。そうした緻密な集積の結晶として美しく慈しみの光に満たされた空間が、或る日或るとき或る場所で、奇跡的にもこの世界に誕生するのだと思う。

All Spread : "form + zweck"
No.11/12, magazine, 1996

2007.11.01

暗い室内に入ると、正面の壁に並列された2つのスクリーンにはすでに映像が投映されていた。海外で開催されたデザイン会議のある分科会に参加した時のことだった。この会議のゲストデザイナーとなっていたドイツのデザイン・デュオ「cyan」のプレゼンテーションが始まっていて、暗い空間は各国のデザイナーやデザイン学校の若者たちであふれかえっていた。
cyan」は1992年にベルリンで設立された、Daniala Haufe(1966〜)とDetlef Fiedler(1955〜)2名によるdesign duoである。仕事のほとんどが文化組織や政府系団体から依頼されるため、低予算あるいは予算なしという厳しい条件下でおこなわれているのだという。書籍や冊子のエディトリアルなど比較的地味な領域の仕事が多いようだが、20世紀初頭のアヴァンギャルドの伝統に強く影響を受けたと思われる彼らの仕事にぼくは以前から強い関心を抱いていたので、この機会をとても楽しみにしていた。(一番のお目当てゲストだった環境音楽家ブライアン・イーノは残念ながら急遽欠席)ところで「cyan」は「サイアン」と読むらしい。印刷用語でカラー三原色のひとつである青をシアンというが、語源であるオランダ語の「cyaan」がドイツでは「cyan」となる。
スクリーンの横では、ギョロ目で毛深くて典型的なゲルマン人といった風貌のDetlef Fiedlerと、過激なパンク・ミュージシャンみたいなスキンヘッドの女性、Daniala Haufeの2人がコンピュータを前にプロジェクターを操作していた。プレゼンテーションは基本的には彼らのグラフィック作品が並列されたスライドショーなのだが、アクセントとして時折差し込まれる蝶などのオーガニックなイメージが「cyan」の世界観を一層際立たせる効果を生み出していた。友人ミュージシャンとコラボレートしたというBGMも素晴らしく、サンプリングした生活音源をアンビエントなオリジナルミュージックとコラージュしながら延々と繰り出されるグラフィカルなイメージに伴走させていく。エンディング近くにはJudy Garlandの名曲「Somewhere Over The Rainbow」が流れ出すという演出も心憎い。
「cyan」はデザイン・サロンに居座っているグラフィックという囲いを取っ払い、表現領域を重層させた塊(かたまり)として差し出していた。これが新しいデザインなんだと実感させられる、それはちょっと衝撃的な体験だった。同時にアヴァンギャルドの伝統から派生してまったく新しい地平に根をはっていこうとするパッションに、ぼくはヨーロッパ文化の底力を見せつけられた思いだった。それに較べたら我々日本人は淡泊なものである。スーパーフラットなんて淡泊を逆手にとって美術家、村上隆が海外の美術界(市場)への反撃を試みているが、ぼくは直感的に共感することができない。結局はオリエンタリズムを利用した交換原理に基づく市場社会の住人の発想なんだと思う。淡泊の背後に潜む固有な底力は、戦略なんてものから遠く離れたまったく別な奥深い古層に眠っている、と信じたい。「cyan」に拮抗するパッションでぼくらは古層を探り続けるしかない。
「cyan」は消費活動に加担したり安易なデザインごっこを許さない、武骨な生真面目さを貫いている。彼らの作品と向き合うことは、必然的に「読解」することを要求されることになる。ファーストフード的なコミュニケーションに抗する彼らの仕事は、濃密なアプローチを欲望しているのだ。広くて深い世界の中には、こんなめんどうくさいデザインだってあっていいと思う。