Left_Powers of Ten
Right_Charles & Ray Eames

2008.7.01

先月終わってしまったけれど、アクシスギャラリーで「チャールズ・イームズ写真展」が開催されていた。あいかわらず根強いイームズ人気だが、どうしてこうも人々は彼らに惹きつけられ続けるのだろう。
半世紀も前に大量生産家具として産声をあげたプロダクトなのに、イームズの家具群はいまだにきわめてドリーミー。欧米を席巻する「カワイイ」のアメリカ版元祖といえるかもしれない。
「ありふれた物にも格別な美しさを発見する」という精神は、「用の美」を掲げた日本の民芸運動にも通じる格別特有なものとも思えないが、「あらゆるものがどのように結びつているかによって、その価値が決まってくる」と言われると俄然それは現代性を帯びてくる。それこそが人々の幸せに向かって開かれたデザインの可能性なのだと位置づける彼らの先進性と楽天性は、アメリカという風土、そして彼の地で生まれた「フォーディズム」の精神と決して無縁ではないと思う。
フォード自動車の創設者、ヘンリー・フォードに由来するフォーディズムの本質は、生産効率上昇に伴う利潤の増大を、賃金にも反映させた点にあると言われている。つまりこれは私たちが日本的経営と呼ぶ、社会に奉仕する経営精神にも通じる、平等感に裏打ちされた循環によって大衆消費社会を実現しようとしたリベラルで壮大な実験でもあった。
日本だって負けてはいない。21世紀の平和学を提唱する、集英社新書から出版された中沢新一さんの「イカの哲学」には、製糸工場グンゼについての記述がある。1965年に私家版『イカの哲学』を刊行した波多野一郎さんの祖父は波多野鶴吉という人物で、京都は綾部の地で製糸と紡績の事業を興し、グンゼの基礎を打ち立てた人物なのだそうだ。その部分をちょっと引用してみたい。「波多野鶴吉は独創的な経営哲学の持ち主でした。この人の中では、キリストの教えと二宮尊徳佐藤信淵の思想とが渾然一体となって、理想の資本主義を現実に地上につくりだしてみようという、大胆な経営実践に結実していったのです。今日でも、綾部のグンゼ工場を見学してみますと、その当時の理想主義の余熱を感じることができます。波多野鶴吉は、労働をつうじて労働者の精神も身体も豊かになっていかなければならない、と考えていたので、工場内にはきめ細かい配慮のほどこされた、病院や厚生施設やホールや運動施設が設けられました。経営者と労働者は気持ちをひとつにして、協同して取り組んでいくべきものという考えから、社長宅は一般労働者と同じ敷地内につくられました。波多野鶴吉は日本のロバート・オーウェンと呼んでもおかしくない、じつに立派な経営者でした。波多野一郎は、この鶴吉の孫として、綾部のグンゼ工場敷地内で生まれたのでした。」(『イカの哲学』中沢新一・波多野一郎、集英社新書、13〜14頁より)
ひるがえって、グローバリズムの嵐が吹きすさぶこの世界において、至る所で私たちがまのあたりにする経営精神というものはいかほどのものなのか。成果主義のもと労働力をひたすら消費し続ける、不毛でヒリヒリとしたこの社会に対して、何という様変わりだ!と嘆きつつ、こうした状況へ背を向けていこうとする意識が、ドリーミーなイームズの世界へと向かわせているのかもしれない。
ドリーミーといえば、イームズと再婚したレイ・カイザーの功績も見逃すことはできない。前衛的な美術環境に身をおいていたといわれる彼女の作風には、東欧の香りが色濃く感じとれる。モダンで母性的、そして知的な可愛らしい造形。近年めざましいユニット・ブームも人気に拍車をかけているのかもしれない。「俺イズム」なんて格好悪い〜という声無き声。お洒落なアノニマスの潔さ。成果物より生成のプロセスにこそその本質を求めようとする傾向などなど、これらもすべて元祖は実はイームズだったのだと言えなくもない。
ところでぼくは以前、所属するデザイン団体、JAGDAのシンポジウム企画に参加した際、イームズを取り上げたことがある。彼らの代表作といわれる映画『パワーズ・オブ・テン』を記念上映し、イームズ・デザインを俯瞰してみる試みだった。その時配付したパンフレットに掲載するために書いた解説文がある。「見ることの力」というテーマにそったけっこうきまじめな解説で照れ臭いが、このイームズ観は今も変わることはない。
この映像から伝わってくるのは視点を移動していく、プロセスそのものが内包するパワーである。イームズはそのパワーの謎を解き明かそうとする人間の情熱や意志、能力、そして可能性をあらためて私たちに想起させようとしているのだ、と思う。今すぐ観てみたい方はこのサイトで視聴することができます。

「チャールズ&レイ・イームズ—その眼差しの彼方へ」
寝そべる男性の1m四方の画像を1m離れた視点からとらえる。そしてそこから10秒ごとに10倍の速度で離れていく。「パワーズ・オブ・テン」の旅はこうしてはじまる。
10の二乗が支配する単純なルールで、宇宙から原子まで視点を移動していくこの映像が与えてくれる驚きは一体何なのだろう。一定の速度で移動しているように感じられる視点は、実はミクロの世界では計測不可能なほど微細な移動をし、またマクロの空間では光の3倍もの速度に達しているのである。ここにはもはや絶対的な時間というものは存在していない。あの相対性理論のエッセンスをここで私たちは視覚をとおして直感することができるのだ。チャールズ&レイ・イームズの代表作といわれるこの映像は、20数年(注:現在では40年以上)を経た今も色褪せることなく、万人が享受できる美意識と知的刺激を私たちに与え続けてくれている。
チャールズ・イームズは1907年、アメリカ・ミズリー州セントルイスに生まれた。建築を学んだ後、あの有名な一連の「イームズ・チェア」を世に出すことになる。画期的な加工法による大量生産家具の誕生である。そして彼は画家レイ・カイザーと結婚し、以後の創作活動はすべてこの二人の絶妙なる共同作業によるものとなる。近代住宅建築に影響を与えたケーススタディハウスのひとつ、「サンタモニカハウス(自宅)」も彼らの建築における代表作のひとつといえるだろう。
あたかも彼らの美意識の幹から枝分かれするかのように、そのデザインの世界は家具、建築にとどまらず、展示や映像、グラフィック、玩具へと展開されていく。これほどまでに多分野にまたがって活躍できたのは、ポール・シュレーダー(米国脚本家・映画監督)が記しているように、彼らがそのどれにも拘束されることなく、むしろこれらすべてを包み込むような生き方に専念したからであろう。ここに彼らのひとつのまなざしがある。特異性ではなく、むしろ共通性によって様々な謎を解きあかしていこうとする精神。そして問題解決のためのプロセス自体が、ひとつの美と秩序を生み出すのだという信念。異質なものの集合にも肯定的な統合性を与えているイームズ夫妻の作品の数々は、こうした彼らの精神と信念の産物なのである。ピーター・スミッソン(英国批評家)が語る「文化的に異質なものが同居し、お互いが快適に見えるという不思議」がそこに在る。イームズらが生み出してきた、きわめて今日的なこれらの不思議から、私たちはまだしばらく目をそらすことはできないだろう。なぜなら、こうしてチャールズ&レイ・イームズの歩んできた道を私たちもまた、いまだに歩み続けているからである。
(1994年JAGDA in Yokohama シンポジウム・パンフレットより)

※なお、当日のシンポジウムでは以下の4作品が上映された。
◎トップス[Tops]/こま (7分15秒・1969・EBE社)
◎パワーズ・オブ・テン[Powers of Ten](8分50秒・1978・ピラミッド社)
◎アルファ[Alpha](1分16秒・1972・ピラミッド社)
◎累乗の指数(3分6秒・1973・ピラミッド社)

Above_Hagihara Masaru
Certified Tax Accountant Office Mark
Below_HAKUHODO Group Mark

2008.6.02

デザイン誌を何気なく開いていたら「博報堂」の新しいグループマークとロゴが掲載されていて驚いてしまった。というのも、このマークデザインはぼくらにとって馴染みのあるものだったからである。
ボスコの設立後しばらく経った頃(おそらくは1994〜5年頃)、弊社の顧問税理士をしていただいていた公認会計士の先生から、事務所のシンボルマークを考えてほしいと依頼され、小林和美さんが担当デザイナーとなり制作を開始した。そしてほどなく、提案した幾つかのプランの中から選ばれたのが、上にあるブルーのシンボルマークである。「税理士は決して前面に出ることなく、背後から顧客である事業所を支える黒衣のような存在である」という依頼人のコメントから、彼女はじっと見つめていると背後からその事務所の頭文字であるHが浮かび上がってくるような意匠を考えついたのである。
2008年4月1日に発表され、翌5月1日から導入されたという博報堂の新しいグループマークとこの会計士事務所のシンボルは今ぼくらの前で、およそ13年の時を隔てて戸惑いながら向き合っている。
雑誌に掲載されていた博報堂マーク制作者のコメントを下に転載させてもらうが、大会社に相応しい格調高い論調で語られてはいるが、基本的にはかなり近い発想であることがうかがえる。
「コロンはあらゆるものを接続して『対』にする記号。クライアント:生活者、世界:日本、人間:環境……。あらゆるものの『関係(=:)』の中に博報堂のビジネスチャンスはあり、あらゆるものの『関係(=:)』の向こうに博報堂の未来の姿がある。コロンの向こうに広がっていく見えないHのアウトラインが博報堂の未来の姿を示しているんです」(美術出版社刊「デザインの現場」vol.25 no.159、P73より)
常識的に考えれば、博報堂マークの制作者が過去にこの地方都市で制作された会計士事務所のシンボルを見ているとは考え難いから、おそらくこれは偶然の結果であろう。特にシンボルマークのように、発想を限界にまで削ぎ落としていくようなプロセスが求められるジャンルでは往々にしてこのようなことが起きてしまうのは珍しいことではないのかもしれない。それに相手は泣く子も黙るあの大手広告代理店、博報堂である。地方のしがないデザイン事務所が文句言っても、それは宇宙戦艦ヤマトに鬼太郎の目玉親父が体当たりするようなものである。しかし、仮にそうであったとしても、13年前にこのような発想で造形化して採用され、以来その事務所のスタッフ全員に愛着を持って使い続けてもらってきたという事実は胸を張ってきちんとここで主張しておきたいのだ。
反射的に思い出されるのは、官営から民営化への先鞭をきってNTTが生まれ変わった際、その象徴として発表されたあの有名なシンボルマーク「ダイナミックループ」にまつわる裏話である。作者はもちろんデザイナー界の巨匠、亀倉雄策氏(1997年没)。発表後、山梨在住の某デザイナーが、このマークは自分の作った過去の作品の盗作であると訴えて物議を醸したことがある。この一件を覚えている人はもうあまりいないかもしれないが、ぼくの地元から沸き上がった話題だったこともあり、強く印象に残っている。この話には尾ひれがついていて、山梨県選出の故・金丸信代議士から某デザイナーの許に直接電話が入り、自分の地元で民営化という大きな流れに水を差すようなことをするとは何事か!と一喝されたという話も伝わっている。
このNTTのCIを担当したのが、中西元男氏率いるPAOS(パオス)である。当時、PAOSは高度成長期以降、日本に巻き起こったCIブームのトップランナー・プロダクションとしてその名を馳せていて、名だたる企業がこぞってPAOSにCIを依頼する現象が話題となり、分刻みで飛び回る中西氏の姿がTVで報道されたこともあった。このPAOSの作品集『PAOSデザイン—企業美の世界』(1989年・講談社刊)をある時眺めていて、ぼくは面白い発見をした。ダイエーCIの紹介ページで「コンペ参加デザイン26案」が66Pに掲載されていたのだが、その中にダイナミックループにそっくりなプランがすでに提案されていたのだ。このコンペは1973〜1975年の間での出来事。NTTのCI導入は1984〜1985年とされているので、このふたつのデザインにはおよそ10年のブランクがある。しかもどちらも同じPAOSの提案。なんとも不思議な話だが、元来モダンなシンボルマークはその生成の性格上、結果的に似通ってしまうという宿命を背負っているのかもしれない。
近年、著作権意識の高まりもあり、事前に類似した意匠を検索してこうした問題の発生を防ごうとする動きもあるようだ。しかしこれをワールドワイドにあまり厳密に機能させようとすると、今後、新しい意匠などほとんど認められなくなってしまうのではという危惧もある。自由闊達な発想を抑圧することは避けたいし、同時に盗用は厳しく規制したい。この見極めが実はとても難しい。デザイナーが以前目にしていたことをすでに忘れてしまい、ある時深層意識から呼び起こされたものを自分の発想と思い込んでしまうことだってあるかもしれない。これに関しては昔、中西氏ご本人から意見を聞いたことがあるが、結局はデザイナー自身の倫理観に委ねるしかないんではないだろうかという、あまり有効性を期待できない結論だったように記憶している。
そもそもシンボルの起源は、紋章はもとより洞窟に残されている記号類にまで遡ることができるほど相当に古いものである。しかし識別しやすく強い印象を残すよう、単純な形象にするという発想が主流となってきたのはそう古いことでなく、20世紀半ば以降の傾向と言えるのではないだろうか。モダンデザイン華やかかりし50〜60年代を代表するCIとしてまっさきに思い浮かぶのはCBSIBMWestinghouseといったアメリカの代表的企業である。世界中の企業がこれに倣った。このモダンデザインが20世紀後半を牽引してきた潮流であったのだが、シンプルで強ければよいというものでもない。そうしたモダン神話の有効期限がそろそろ切れてきたのではないだろうか。
複雑な形象であっても愛着を感じさせ、強い印象を残すこともある。例えば、バブル絶頂期に居並ぶ石油会社が次々とモダンなシンボルに模様替えした中、出光石油はあえて一見古臭い筆文字シンボルを使い続けた。しかしどうだろう。今あらためて較べてみると、案外時代は一周した感もあり、ウルトラマンの掲げる出光シンボルが先頭に立っているようにも見えてくるから面白い。
ともあれ、博報堂の新しいグループマークは、久しぶりにシンボルマークについて考えてみる契機を与えてくれたようだ。シンボルにまつわる時代意識と美意識は密接にリンクしながら螺旋を描くように人々の心理の深層を周回し、それが定まることはない。

OLYMPUS Neon Sign (Shinjyuku)
Photo:Susumu Endo. 2008

2008.5.03

新宿駅南口を出て右手上方に目をやると、旧JR本社ビル屋上に「OLYMPUS」のネオンサインが見えてくる。もちろんネオンサインは夜見るものだが、明るくても「OLYMPUS」のロゴは確認することができる。普段何気なく目にしている夥しい数のネオンサインの中できちんとデザインされているものが一体どのくらいあるのだろう…。
この「OLYMPUS」のネオンサインをデザインした遠藤享さんは日本を代表するグラフィックデザイナーであり版画家なのだが、日本におけるネオンサインのデザインを成熟させたデザイナーでもある。近年、この「OLYMPUS」のシリーズを全国各地に展開して表現領域を拡げている遠藤さんは、熟知したガス放電管の一種であるネオン管の仕組みを高度にコントロールしながらさまざまな色と形に動きを与え、光織りなす現代の巨大絵巻ボードを次々と生み出している。ぼくは発光体とアートの融合というと、どうしても60〜70年代の日本アートシーンで活躍した山口勝弘ヨシダミノルらの作品を思い出してしまうが、遠藤さんのつくりあげたネオンデザインは、そこからさらに進化をとげた「動くハイテクノロジーアート」といえるかもしれない。
以前、遠藤さんのスタジオで、あるネオンサインのデザインを見せてもらったことがある。それは時間軸に沿って各パートの動きを指示する精緻なロールシートだったのだが、いくら眺めていてもそこからあの複雑な動きや色の変化を読み取ることはできない。いや、正確に言えば読み取る能力がぼくにはなかったということだが、これと似たものは昔見たことがある。ニット製品を織り上げるためのパンチシートやオルゴールを演奏するのに使われるオルガニート用シートである。これらは遠藤さんのロールシートに較べたらはるかに単純なものだったけど、読み取ることのできない戸惑いは同質のものである。さまざまな専用機にトランスレートする手法には、結果とは似ても似つかないモノが介在する。ここにものづくりの面白さがある。
designのdeは「いまだ見えないもの」、signは「現す」、つまりdesignとは「いまだ見えないものを現す」行為にほかならないのだが、この介在する似ても似つかないモノを眺めていると「見えないものを確かに見据える」というデザインの必須条件が浮かび上がってくる。そこには直感的な能力と論理的な能力を融合する、もうひとつの能力が要求されている。
ところで、遠藤さんのデザインはやはり「audio-technica」を抜きには語れないだろう。企業が一人のデザイナーにこれほど一貫して企業のイメージ構築を委ねてきた例はあまりないのではないだろうか。遠藤さんが長年にわたってオフセットリトグラフの版画作品を通じて展開してきた「space & space」という繊細で叙情的、そして知的な表現世界がそのままオーディオテクニカという企業のイメージに重なっている。遠藤さんが企業のデザインをしているというよりも、逆に企業が遠藤さんの世界を借りて自社イメージを発信しているようにも見えてくる。その一体感は見事であるし、広告界においては希有なケースでもあると思う。
ぼくは18年ほど前にそんな遠藤さんと出会うことができた。知人を介して紹介され、原宿駅近くの甘味処で会った時のことは今でもはっきりと覚えている。初対面でひとまわり以上年下のぼくに対し、遠藤さんは実にフランクでフレンドリーに接してくれた。何よりデザイナー同士として向き合ってくれたし、長時間楽しそうにデザインの話をきかせてくれたのだった。普段人見知りするぼくが瞬時に遠藤さんの人柄に魅せられてしまった。何年も経ってから気づくことになるのだが、ぼくはこの夜大切なことをたくさん学ぶことができたのだ。デザインをはじめてから師匠につくこともなく我流でがむしゃらにケロケロと鳴いてばかりいたこのぼくを、狭い井戸から広々とした世界に引き上げてくれた恩人なのである。本当に仕事をするということがどういうことなのか遅まきながら理解することができたし、それまで自分を呪縛していたさまざまな幻想をここからやっと解き放つことができたような気がする。
ボスコのオープニングを飾る自社展覧会で、遠藤さんは全国に先駆けてPhotoshopによる新作を発表してくれたし、建築家の息子さんである遠藤治郎さんにはボスコのリノベーションをお願いしたり、(治郎さんの兄、悦郎さんは「Adobe Photoshop AtoZ」の著者としても知られている)長年、遠藤さんと通子夫人には公私にわたりお世話になってきたので、書き始めたら連載しなければならないほどである。
先月、神宮前の自宅近くに新たにスタジオが完成したのでとお誘いを受け見学してきた。もちろん設計は治郎さん。ここはタイでの活動も本格化させている治郎さんの日本スタジオを兼ねているとか。地下は広々としたレンタルスペースでウェブの制作会社がこの春から入居するそうだ。久しぶりに遠藤さん夫妻にお会いして夕食をご馳走になった後、新宿高島屋に移動して初台側屋外デッキから「OLYMPUS」のネオンサインを眺める。久々に会った遠藤さんは、作者直々の解説付きという贅沢な観賞会を別れ際にプレゼントしてくださった。
ぜひ新宿に行ったら見上げてみてください。東京の夜空の一角で「いまだ見えないもの」が確かに今夜も「現れている」はずです。

Cherry Blossoms at Tsutsujigasaki

2008.4.02

この時期のTVではニュースからCMに至るまで何処もかしこもサクラ色に染め上げられて、ちょっと食傷気味になることもあるけれど、パッと明るくなった風景を目の当たりにすると、あぁ、今年も春が来たんだなぁとやっぱり実感してしまう。
人生の輝かしい時はその人が考えているよりずっとわずかな一瞬にすぎない。しかもその一瞬を多くの場合、人はその時に実感することができないものだ、ってなことがどこかに書いてあった。(村上春樹かな?)何の本だったのかどうしても思い出せないけれど、そうだ、きっとそういうもんなんだろうと妙に納得してしまったことがある。「まだ来てねぇよ」とか、「俺にはそんなの一生縁がねぇ」とか、「たぶんあの時がそうだったんだろうか」と思い当たったり、人それぞれ想いは千差万別なんだろうが、その一瞬を彩る歓びにはきっと哀しみも溶け込んでいるはずである。満開の桜を見るたびにぼくはそのことを思い出す。歓びと悲哀とがないまぜとなった人生最良の一瞬と満開の桜は、ぼくの心の深い場所でひっそりと通底している。
ところで、甲府盆地の扇頂に位置する躑躅(つつじ)ヶ崎と呼ばれる一帯の東端にぼくの仕事場はある。辺りにはたくさん桜の木が植えられていて、以前は春になると大勢の花見客で賑わったものだった。近ごろは浮かれる気分になんてとてもなれないという地方の疲弊した空気を反映してか、この時期もいたって静かなものである。反対側の躑躅ヶ崎西端は武田三代の拠点となった躑躅ヶ崎館があった場所。後に館跡は信玄を祭神とする武田神社となり、今では年間を通じて観光バスが行き交う観光スポットになっている。
甲府駅から2〜3キロまっすぐ北上するとこの武田神社に突き当たるのだが、その昔、この参道の桜並木には、子供心にも「すげ〜っ」と感動した記憶がある。未舗装で一車線のデコボコ道。両脇に立ち並ぶ堂々とした枝ぶりの桜並木には神性を宿すような風格さえ漂っていた。まだ猿みたいだったぼくの脳みそにもその光景はしっかりと焼き付けられ、お陰でぼくの人生は少しだけ丈夫になることができたような気がするのだ。
ところが高度成長期、その並木は舗装二車線化という利便性と引き換えにあえなく消えてしまった。桜は植物の中でも特に移植が難しい品種だと聞いたことがある。年代物の桜はそれだけに貴重な存在だったのに、消えてしまったものはもう戻ってこない。
とりあえずの利便性を選択してきてしまったぼくらの近代。小さなものが小さなままでいられることがますます困難な時代になってしまった。いたるところで喪失感は堆積し、自然に抗う人工物に囲まれて、心の奥を暖めてくれるささやかな熾き火はいまや瀕死の状態だ。でも、軋む音の中から蘇生へと踵を返す意思の産声が聞こえてくることがある。少しづつ、少しづつ大きくなっていけばいい。人の心も桜と一緒で植え替えることができないのだから、時々立ち止まり、迷いながらも選択していけばいい。そうすれば、新世紀の桜だって未来の子どもたちの人生を少しだけ丈夫にしてくれるかもしれない。

Magnetic Sound Recording Tape

2008.3.03

先日、部屋の片づけをしていたら随分古い音楽テープを発見した。今ではもう見かけることもなくなったオープンリール・タイプの録音テープだ。デッキはとうの昔にお払い箱となっているから、再生することも叶わない数巻のテープなのだが、目の前に積み上げると記憶が少しづつ蘇ってくる。誰だって少しくらいは封印したい過去の記憶を引きずっている。音楽を聴くだけでは飽き足らず、奏でることに夢中になったあの頃の思い出は、どちらかと言えば恥ずかしさを伴う、封印しておきたい記憶のひとつだった。
二十歳を少し越えたある頃、ぼくは趣味の音楽仲間と一度だけ地元で小さなコンサートを開いたことがある。二部構成で、一部はすべて自作曲で埋め尽くすというのがぼくらのささやかな野心だった。メンバーにはすでに会社員となっていた人もいたのだが、暇を見つけては練習を重ねコンサートに備えていた。譜面も満足に読めないくせに、作曲とリードギター&ヴォーカルを担当していたぼくは、結構その気になっていて、まったく若気の至りとはいえ無謀なことをしたものだ。折悪しくたまたま帰郷していた(まだ当時大学生だった)友人の中沢新一さんが会場に駆けつけてくれ、しっかりと恥ずかしい一部始終を目撃されてしまったのだ。それからというもの、ことあるごとにぼくは、その目撃談で冷やかされ続けている。IAAの開所式で元YMOの細野晴臣さんに「小林君は昔、細野さんの曲をコンサートで唄ってたんだよ」なんて紹介をされて赤面したこともあった。たしか二部で故・高田渡の「坑夫の唄」や「銭がなけりゃ」なんかを演奏した記憶はあるけど、細野さん(当時はエイプリールフール解散後、はっぴいえんどのメンバーとして活動していたんだと思う)の曲は決して演奏してないはずなので、これは中沢さんの記憶違い。この最初で最後のコンサートの模様も、積み上げられたテープの中にはしっかりと残されている。
これ以来、もともと内向的なぼくはコンサートなんて柄じゃなかったことを痛感し、それからは一人で音楽をつくることに夢中になり、自宅をスタジオ替わりにして何とも素朴な手法で録音を楽しむようになった。今では本格的なレコーディングやミキシングが一人で簡単に出来てしまう「GarageBand」なんて便利なソフトがあるけど、当時はワンマン・バンドとして各楽器を重ね録りしていくしか方法がなかった。まずリズムボックスとベースを同時録音し、リズムギターとリードギター、ヴォーカルの順で重ねていくのだ。アイルランドのエンヤ(enya)だって、基本的にはこの方法で音楽をつくっているという。エンヤのプロデューサー兼サウンド・エンジニアのニッキー・ライアン(Nicky Ryan)と、作詞家として曲づくりにも参加している妻のローマ・ライアン(Roma Ryan)の3人はスタジオにこもりきり、何ヶ月もかけてオーバーダビングしながらエンヤのすべてのアルバムをつくりあげてきたとライナーノーツにも書いてあった。ただぼくの場合、デッキの回転スピードに問題があったのか、録音を繰り返していくと音程が少しづつ高くなってしまうのが悩みの種だった。だからどうしても完成した曲はアップテンポになってしまう。ニールヤング(Neil Young)の初期のアルバム「After The Gold Rush」に収録されている「Birds」(当時この内省的な曲がお気に入りだった)をカバーした時には、分厚いコーラスにしようと10回くらいヴォーカルを重ねたものだから、完成した時にはまるでウィーン少年合唱団のコーラスみたいな曲になってしまった。
そんなこんなの、懐かし恥ずかしの記憶は今もテープにしっかりと記録されているはずだが、再生する勇気はない。「なら、捨ててしまえばすっきりするぞ」と言われてもそう簡単に割り切れるものでもない。若い頃感動した映画や小説や音楽も、数十年後に見直したらすっかり色褪せていたなんてことはよくあることだし、記憶の中でフリーズさせておくのもひとつの知恵というものなのかもしれない。凍結の知恵。人間、年を重ねてくると次第に狡くなってくるものだ。

Flier & Portrait for The Exhibition

2008.2.02

木枯らし舞う新橋駅に降り立ち東銀座方面に歩き出したものの、久しぶりの新橋駅周辺は景色が一変していてすっかり道に迷ってしまった。それでもなんとかリクルートビル1FにあるクリエイションギャラリーG8に辿り着き、「絵とコトバ 三人展」に入場。同郷で高校美術部の大先輩イラストレーター若尾真一郎さんと、お世話になりっぱなしの佐藤晃一さん、そして3度ほどお目にかかって親しくお話ししていただいた安西水丸さん3人組による(確か2度目の?)デザイン展である。ぼくは地方都市に住んでいて余程のことがなければデザイン展には足を運ぶこともないのだが、この3氏の表現に触れることは特別な意味あいをもっている。それはデザイナーになってから節目節目で少なからぬ影響を受けてきた人物がいま何を考えているのだろうと確認することの楽しみのようなものなのかもしれない。
若尾さんと安西さんは共にデザイン界を代表するイラストレーターとして、それぞれに独自の表現世界を築いている。イラストレーションというのは不思議な領域だ。あの世とこの世の仲立ちをするシャーマンのように、企業と顧客、ワタシとアナタ、ボクらとキミたち、ココとソコを繋ぐさまざまなイメージを紡ぎ出し、代弁者であり表現者であり、そのいずれでもない謎の絵師として、寄る辺なき身でこの世を浮遊しているように感じられる。しかも画家のように老成することも許されないという過酷な職業でもある。
佐藤さんはグラフィックデザイナーの大先輩である。深くて広い知性を背景に、これまた類例のない表現世界を積み上げてきた。僭越ではあるけれど、いつも佐藤さんの作品には、クレバーな濾紙で抽出されたデザインのエッセンスが見え隠れしていると思うのだ。もちろん真似できるはずもなく、ただただ呆けたようにその出来栄えに感嘆し、見つめ続けるしかないのだが。
今回の試みは、自作の俳句にグラフィックを添えるというもので、題して「俳グラ」という新領域への挑戦。(これはますます真似できないぞ)まず何といっても佐藤さんの句が深い。安西さんらと長年本郷で続けていたという句会の成果のたまものか。素人の域をとうに超えてグラフィックとしっかり拮抗している。日本には俳画というジャンルがあるが、この「俳グラ」には縦組みの俳画に対して横組みジャンル誕生といった趣がある。もちろん、いつものクレバーな濾紙で「モダンな和」がブレンドされているから、それは作品などという肩ひじはったものでなく、上質な遊びが佐藤さん特有の含羞とともにそっと差し出されているような印象を受ける。これは決して単なる「デザインごっこ」ではないと思う。(単なる「デザインごっこ」のいかに多いことか!)そこには必然からしっかりと生み出された表現がある。
さらに佐藤さんは文章の達人でもある。その昔、ぼくは中村とうようさんが出版していた「ミュージックマガジン」(その後「ニューミュージックマガジン」に誌名変更)という音楽雑誌を定期購読していて、80年代そこに連載されていた「YES EYE SEE」というコラムを愛読していた。音楽だけでなくデザインや絵画に関する考察も多かったので、この人ちょっと風変わりな音楽評論家だなぁ、なんて勝手に思いこんでいたぼくが、筆者である佐藤晃一という人物が実は新進気鋭のグラフィックデザイナーだったことを知ったのは、それからずいぶん後のことだった。考察は明快、簡潔、そしてほんの少しのアイロニーがふりかけられている。その塩梅が実に佐藤さんらしくて、この印象はご本人と会話してみてもまったく変わることがない。最後にその名文を、『ミュージックマガジン』「YES EYE SEE」第19回1983年7月「空のパノラマ」より、文末だけちょっと長めだが抜粋してみたい。
※なお、三人展は2月8日まで開催。まだ間に合いますので機会があったらぜひどうぞ。

「…雲ひとつない青空、灰色一色の空、月や星の空…今でも空はいつも、ぼくにはサイケデリックなものに見える。人からは「君はサイケデリックの正しい意味を知らぬのではないか」と言われそうだが、そんな風に空のことやサイケデリックの意味を取りちがえて風景をながめていられるうちは、ぼくも仕事が続けていけそうに思っているのだ。だから今でも仕事の手を休めて、空の写真を撮ることがある。いずれそのフィルムを使って作品を創りたいと、下心もあるにはあるのだが、どうやったらそれが作品などになるのか、現像所から帰って来たスライドをながめては、きまって途方に暮れてしまう。それでもシャッターを切ってしまうのは、自分にとって空を見ることが、今も永遠のポルノだからなのだろう。空色の向こうに広がる満天の銀河が、頭の裏がクラクラするような子供の頃のステキな視覚体験を、いまだにぼくにそそのかしてくるからなのだろう。遠くの空に向かってシャッターを落とすと、自分が光の速さで空のスクリーンに激突するような錯覚に襲われる。見ることはぼくにとって、いつも臨時ニュースなのだ。」