Book Cover :
Iwanakereba Yokattanoni Nikki
Publication : 1958.10.31
Fukazawa Shichiro (1914-1987)
Photo : Tayama Ichiro

2010.2.02

1月の或る休日の午後、自宅で音楽を聴きながらぼんやりと寛いでいた時のこと。ふと思いつき、近くの棚から雑誌「群像」の2008年の9月号を抜き取ると、その号に連載されていた中沢新一さんの『今日の野生の思考1・頭上のコン』のページを開く。この評論はトリスタン・ツァラに関心を持つ人々の集まりに招かれた時の講演を元にテキスト化されている。ここで中沢さんは二十世紀の初頭にチーリッヒとパリでダダイズムの運動を開始したこのツァラの詩的思考の中から、彼が一人の未開人であったことを見いだそうとしている。導入部には次のように書かれている。
「さて、そのような現代芸術の冒険家たちの中で、私がとりわけトリスタン・ツァラというルーマニア出身の風変わりな詩人に引かれたのには、理由があります。ツァラが創造の原理としていたものが、非市場社会の哲学であった神話の思考の本質をなすものと、じつに多くの共通性をしめしており、しかもその共通性を探っていくと、それがじつに組織的におこなわれていたことがわかります。ツァラは一人のアフリカ人、一人のオーストラリア先住民のようなやり方で、じっさいに思考し、じっさいに詩的創造をおこなっていました。彼自身がまるで一人の未開人のように思考し創造していたのです。このようなことは、現代ではなかなかおこりようのないことですが、トリスタン・ツァラという詩人においては、それが現実におこったのでした。」(講談社刊「群像」2008年の9月号・29頁より抜粋)
ぼくたちの日常は市場社会とよばれる世界の中にある。しかし、ダダイズムの戦いの現場ではそんな市場社会の常識をひっくり返してしまうような冒険が日々試みられていた。流動するイメージはそこでは奇妙にねじれ、裏返しになったり逆転しながら、意味はばらばらに解きほぐされ、偶然にまかせて散らばってダイナミックにつくりかえられていく。それは神話が駆使してきた論理作法とそっくりなのだそうである。そして、その神話的思考は今も現代人の生活の中に受け継がれていて、深くぼくらの生活にも根を下ろしている。中沢さんはこう続ける。
「ファッションは現代人のおこなう神話の思考の一形態です。ファッションと市場は密接に連動しあっていますが、市場の論理とファッションの思考は、けっして同じものを追求していません。市場はかつては人間の無意識の自由な交換を実現する空間として生まれましたが、ファッションは今はすでに失われてしまったこの市場空間の夢を取り戻そうとする、奇妙に逆行的な思考を原動力としています。ファッションは市場空間の中につくられたユートピアのようなものです。市場は目的論と因果論によってエネルギーをくみ出している颱風ですが、ファッションはその中心部の「颱風の目」の場所にあって、神話的思考に身をゆだねようとしてきました。」(講談社刊「群像」2008年の9月号・39頁より抜粋)
なるほど、トリスタン・ツァラが身をもって生きた野生の思考は、一世紀も前からすでにぼくらの市場社会の先にある遙か彼方を見据えていたのだ。
こうして連載を読み終えたぼくは次なる本に目を移す。手にしたのは深沢七郎の「言わなければよかったのに日記」。一見ダダイズムの作法を真似たかのような何の脈絡もない選択に見えるが、ぼくの中でこの2冊はきちんと繋がっている。
今年の正月休みのこと。ぼくは中沢さんに誘われて諏訪大社へ初詣でに出かけた。当日は中沢さんの二人の友人も東京から駆けつけて、甲府から合流して現地を目指した。その二人とは美術家の内藤礼さんと里帰りしていたパリの大学で教鞭をとる社会学者の矢田部和彦さん。車中で深沢七郎のことが話題となった折、昔読んだ「言わなければよかったのに日記」がとても印象深かったという内藤さんの言葉がふと甦ったのだ。
甲州出身の作家である深沢七郎は、じつは亡父ともつきあいがあって、発刊される度に署名本が父の元に送られてきた。そんなわけでぼくも形見分けされた何冊かの深沢七郎初版本を所蔵しているのだが、蛍光ピンクやとりどりのサインペンによる署名の筆跡からは、筆者の定着したイメージからは少し異なる素朴で生真面目な一面がかいま見える。
「言わなければよかったのに日記」は中央公論社より昭和33年10月31日に初版されている。装釘者は佐野繁次郎。カバーは躍動感にあふれ、撮影・田山一郎とクレジットされたポートレートが目次の前に堂々と配されている。少々行儀の悪い筆者の魅力が簡潔に再構築されている装釘もこの初版本の魅力のひとつといえる。表題作「言わなければよかったのに日記」は毎日書かれたものではなく、思い出してまとめて書かれたものだと、あとがきにある。『楢山節考』で1958年中央公論新人賞を受賞し、文壇デビューまもない深沢七郎がその後、正宗白鳥石坂洋次郎武田泰淳伊藤整井伏鱒二といった当時の錚々たる作家たちと交流を重ねた際に感じた、自分のものをしらない滑稽さや冷や汗をかくような失敗談、そしてそのたびに「言わなければよかったのに」と後悔してしまう心情が綴られている。しかし、恥ずかしいと言っている割には、当の本人はそれをさほど気にするわけでもなく、萎縮するどころか実にあっけらかんとしているのが何とも面白い。それどころか、時折見せる観察眼は人間の本質をえぐり出すような鋭さですごみさえ感じさせるほどである。
ぼくはこのエッセイの魅力は、無知な庶民を装った深沢七郎の図太い野生の思考なんだと思う。山から下りてきた野生動物が人間社会にまぎれ込んだかのような、むせかえるほどの生命力を読後に感じるのである。彼の意識の住まう神話的世界は最初から奇妙にねじれていたり、ひっくりかえっていたりする。だからたびたびスリップしてしまう人間界での会話が残す奇妙な残像は、その場で逆走するエネルギーから生まれる摩擦音とともに読者に記憶されていくことになる。
冬の日の午後、ぼくは「見えない野生の糸」でトリスタン・ツァラ、中沢新一、内藤礼、深沢七郎と、幾重にも新旧の記憶で結び留められながら、深い森を彷徨っているかのような不思議な感覚を味わっていた。

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of CAINZ PB

2010.1.01

15、6年ほど前のことになる。県からデザイン講演会の相談を受けた時、ぼくはとっさに松永真さんを招いてデザインの話を聞いてみたいと考えた。松永さんは当時それはもうたいへんな売れっ子で、日本一忙しいデザイナーと言われていた。それまで何度かお話する機会はあったもののさして親しくもないぼくの突然の不躾な願いにもかかわらず、松永さんは快く引き受けてくださった。条件はただひとつ。作品紹介の後、ぼくがインタビューする形で自分のデザイン観を引き出してくれるのならいいよ、というご提案だった。もちろんぼくに異存があるわけもなく、こうして日頃から一度確かめてみたかった松永マジックのあれこれを直接探ることができるという幸運に巡り合えることになったのだ。
常々、松永さんは思考の原点は「半径3メートルの発想」にあると語っている。その姿勢は生活者の視点を中心に据えた堂々の正攻法で貫かれている。松永デザインから輝き出しているオーラは、そうしたゆるぎないベースの上に立ったフレンドリーで繊細な美しさなのである。
あらゆるものをのみこむ宇宙としての日常。そこに住まう生活者のまなざしから生み出される数々のデザインは常に時代のど真ん中に誕生し、シンプルで明快な強さをあっけらかんと主張しているのだが、そこにあるのはとても複雑なプロセスを経た濃密な収穫物なのであって、シンプルな形状をまとってはいるが決して単純さを追求しただけの産物なのではない。当時のぼくはこうした収穫物を育てる松永さんのデザイン姿勢に共感し、生き生きとした吸引力のあるデザインが生成されてゆく不思議に強く魅かれていた。それは単に作風に憧れるというようなことではなく、その変容の不思議には実践的な領域に関するヒントが隠されているように思われてならなかったからである。だからぼくはこの機会を捉えて制作プロセスにおける「複雑」から「シンプル」への変容の秘密をのぞき見たいと考えていた。
しかしそんなことが1、2時間の会話で解明されるわけもなく、あっというまに講演会は終わってしまったのだが、どうやらその変容は色感とか造形力なんてことではなくて、全人格的要素を集約させた生活者としてのセンスを総動員しておこなわれているらしい。松永さんはそうしたことを面と向かって語る無粋な方ではないのだが、会話の中で生活者の視点を中心に据えるその姿勢は少しも揺らぐことはなかった。難しいことを難しいまま伝えることしかできなかった当時のぼくは、難しいことをより簡単に、やさしいことはさらにやさしく伝える、堂々とした松永さんのデザイン奥義に圧倒されるしかなかった。
その日紹介された仕事は多岐にわたっていた。冷蔵庫を開けると中には紀文の缶詰めやTakaraのCAN CHU-HIやKIRINのLAGER BEER、そして清酒の福正宗。テーブルの上にはお馴染みのscottieのティッシュボックス、そして横には洒落た煙草のジタン・ブロンド、女性誌の「non-no」や「MORE」も置いてある。さらにダイニングの上に並ぶインスタントコーヒーBlendyやクリープmarimを横目に、洗面所に行けば資生堂unoやaleph。そして愛犬の側にはペットフードgaines。つまり松永さんは「半径3メートルの発想」で生活をまるごとデザインしていたのである。
これら生活用品として開花したデザインは実はある原風景から生み出されていた。記憶は定かではないが、それは作品集やインタビュー記事にも見当たらないので直接交わした会話の中で語ってくれたことだったのかもしれない。松永さんは戦中戦後の激動の時代を幼年期として過ごした。そして戦後伝わってきたアメリカの豊かさに大きな衝撃を受けたのだという。スケールの大きい陽気な豊かさ。日本の荒れ果てた大地から晴れ渡った空を見上げる子どものように、松永少年は眩しいアメリカの豊かさに目を奪われ、以来それが自分の原風景となったのだという。好むと好まざるとにかかわらず、幼少期に心の奥底に感光してしまった光景は消し去ることは難しい。そして、醸成された原風景はやがてデザインを生み出すダイナモとなっていく。
それから歳月は流れ、いつかはぼくも生活まるごとデザインしてみたい、そんな漠然とした思いが2008年のある日、現実のものとなるチャンスが巡ってきた。ある企業がPB(プライベートブランド)を見直すため、デザイナーを探しているので紹介したいと10年越しで仕事上おつきあいしてきた商環境企画施工会社の役員の方から連絡をもらった。短期間で数千アイテムにものぼるPB商品を店頭に並べるためにはシステマティックにデザイン展開するしかない。しかし次の段階にはより品質感のあるPBブランドへと底上げすることが求められてくるのだが、今回の話は丁度そんな時期に持ち込まれてきたものだった。緊急にブランド名やブランドロゴをリ・デザインする必要があったが、同時にそれらは一貫性をもって個々の製品やパッケージに品質感として反映されなければならない。やがて品質感は売り場に蓄積され、一定の期間を経てはじめてブランドイメージが実現化されていくことになるのである。そこでぼくはこれから目指すべきPBブランドの方向性を構想し、軸となるブランド名やブランドロゴ、そしてそれがどのようにパッケージに展開されていくのか視覚化して新しいブランドの全体感を提案してみようと考えた。優れた経営手腕とデザインを見極める感性を合わせ持つ希有な経営トップとの出会いという幸運によって、ぼくの生活まるごとデザインしてみたいという願いは、こうして実現化に向かっての第一歩を踏み出すことになったのである。
ひとくちに生活用品といってもそのカテゴリーとバリエーションはおそろしく広く深い。あらゆるものが含まれてくる。さらに製造を依頼するメーカーも国内外多岐にわたっているし、商品開発やパッケージの制作プロセスも不確定要素が多く相当に複雑だ。そして在庫状況に応じて切り替えていく必要があるので、期限を見据えた物件がめじろ押しとなる。昨日は洗剤、今日はスポーツドリンク、そして明日は薬のパッケージといった具合である。当然頭の切り替えも要求される。さらにNB(ナショナルブランド)と並売されるので、PBとしてのスタンスも強く意識しながらイメージをコントロールしていかなくてはならない。そんな業務の嵐の中でも、発想の原点に据えられる基軸はプレーンな生活者の視点である。松永さんから学んだことはいまも深くぼくの心に刻まれている。もちろん松永さんのお仕事はデザイナー名を冠した堂々のNB商品ばかりなので比べるべくもないのだが、国籍や年代を問わず難しいことをより簡単に、やさしいことはさらにやさしく、感性豊かに伝えるためにぼくは日々精進を重ねていこうと念じている。そして前に進もうとすればするほど、自分の原点を深く自覚する必要性も強く感じはじめているのである。ダイナモとしての原風景については、いずれまた別の機会にゆっくり考えてみたい。

というわけで新年にあやかって、サイトも久々に一新。この1年間のボスコの共同作業の成果を表玄関に移動し、Libraryとして集積しました。ノン・フラッシュで間口も広く見やすくなっています。販売上の事情もあり、終了しているデザインの半数ほどしかまだ公開することはできませんが、追々小刻みに更新してご覧いただく予定です。

L’opéra Fragile (1980)
Warner-Pioner Corpration,Japan
L’opéra Fragile (1981)
Warner-Pioner Corpration,Japan
Venèzia (1984)
CBS/SONY INC TOKYO JAPAN

2009.12.02

夢は曠野を 駆けめぐる Vodka
ピアノを苛立たせる Vodka
情熱と絶望の 間をぬって 人は踊る
運命の舞台裏で 糸を引くのは 見えない手
人生の舞台裏で 糸を引くには 見えない手

これは1981年に発表した加藤和彦のアルバム「Belle Excentrique」の「ディアギレフの見えない手(Diaghilev, L’homme-Orchestre)」からの1節。加藤はこの安井かずみの歌詞をビロードのような艶やかで肉厚なメロディーに乗せて歌い上げた。ぼくは「帰ってきたヨッパライ」を同時代の歌として耳にしていたが、加藤和彦の音楽を一番熱心に聴いていたのが、このアルバムをはさむ上の3枚が発表された時期だった。一番上は「うたかたのオペラ(L’opéra Fragile)」(1980年)。続く「Belle Excentrique」と、一番下が「Venèzia」(1984年)。3作ともDrumsは初期サディスティック・ミカ・バンドのメンバーでもあった高橋幸宏が担当し、他の2作には細野晴臣、坂本龍一、そして矢野顕子といった後の「チームYMO」の面々がバックを手堅くサポートしている。ジャケットデザインも「L’opéra Fragile」は奥村鞍正さん、後の2枚は渡邊かをるさん。そして妖艶なPaintingは画家の金子国義さんが担当している。これらアルバムからは80年代特有のハレの空気感が今も濃厚に伝わってくる。
3作はともに当時加藤とは私生活のパートナーでもあった作詞家・安井かずみとの共作によるものだ。これまで数多くのヒット曲をてがけてきた彼女がこの時期から仕事を加藤との共作作業に絞って、ほんとうに自分が書きたかったものだけを表現しようとしていたことを先日見たTVのアーカイヴ番組でぼくは知った。そこであらためて聴きなおしてみると、まるでミュージシャン加藤和彦がシャーマンとなって安井かずみをこの世界に再来させようとしているかのような錯覚にとらわれる。ほどなく訪れる死別によって彼らの幸福な並走に終止符が打たれるのだが、それを期にやがてぼくの中でも彼らの音楽への興味は急速に薄れていってしまった。ぼくは加藤和彦の音楽に包まれた安井かずみを見つめていたのかもしれない。
若い頃通ったことのある美術研究所に、かつて安井かずみも在席していた時期があり、当時の話を所長から何度か聞かされていた。彼女はほんとうに典型的な都会のお嬢さんだったようで、田舎育ちのぼくとは違う世界で育った人なんだと話を聞きながら思ったものだった。
この3作におさめられている曲の舞台も多くはヨーロッパやニューヨークの街々。映画のワンシーンのように異国を背景に男女の心の機微が描かれている。加藤和彦はスーツを仕立てるためだけにわざわざロンドンまで出向いたり、良いと認めたものには金に糸目をつけなかったそうだから、嗜好面においてもこの二人は深く共鳴しあっていたのだろう。行間に漂う何ともゴージャスで洗練された高尚な美意識は時として鼻につくこともあったけれど、それでもぼくが聴き続けていたのは詞の背後に忍び込む諦観とか自身を遠景に置いてみる覚めた視線、そして屈折した心情を変幻自在にデフォルメしながら包み込む練り込まれたサウンドに魅せられたからなんだと思う。そこには60年代から世界中で生み出されたポップスのエッセンスが巧みに引用されていた。即座に思い浮かぶのがアメリカ生まれのミュージシャン、ライ・クーダー。彼は学者のような緻密な分析力とあくなき探求心で世界中から素晴らしい音楽を採取し、再構築してみせるぼくの大好きなミュージシャンである。この時期の加藤和彦は和製ライ・クーダーといってもいいほどのパッションとプロフェッショナルな技を繰り出し、希有なパートナーと共に屈折した心情を音楽の中に封じ込めてみせた。
ところでぼくは、加藤和彦の音楽は本質的にはゴージャスな砂糖菓子の世界だと思っている。ドノバンに傾倒してトノバンと呼ばれていた時代の「家をつくるなら」や「あの素晴らしい愛をもう一度」、「白い色は恋人の色」などといった初期の代表曲は彼ならではの柔和な穏やかさにあふれていて、そこにわずかな含羞も含まれているのが何ともほほ笑ましい。人はリアルな世界に疲れた時、そっと砂糖菓子が欲しくなることがある。だからぼくは決して揶揄する意図があって彼の音楽を砂糖菓子と言っているのではない。本当に上質な砂糖菓子だと思っているのだ。
そしてもうひとつの側面はアジアの音楽家としてのウエットな一面。詩人サトウ・ハチローの詞をもとにした「悲しくてやりきれない」や朴世永・高宗漢の詞曲「イムジン河」の再構築、そして辞世歌「感謝」などからは、アジアンチックな郷愁漂わせる京都人としてのもう一人の加藤和彦が現われてくる。砂糖菓子の背後に潜む静謐な深い闇。常に誰かに自身を添わせ、重ね合わせて表現を模索してきた音楽家が闇の中にひっそりと佇んでいる。
偶然にも自死の前日、隣りに彼が立っていた一瞬があった。10月15日午後3時30分頃、用あって六本木ミッドタウンに車を乗り入れ、ぼくはビル内のディーン&デルーカ・ショップでコーヒーを飲みながら一休みしていた。ふと左隣りから季節はずれのマドラスチェックのハーフパンツ、そしてカラフルなストライプ・サンダルを履いた長身の人物が視界に入ってきた。頼りなげに細く伸びた白い足が印象的だった。ちらっと斜め後ろから眺めると金色の短い髪だった。ずいぶん派手な老いた外国人もこんな場所には来るんだなぁと思ってそれきり視線を外してしまった。しばらくして向かいに座っていた連れからそれが加藤和彦だったことを知らされた。彼はその時一人で赤かぶのマリネをワンカップ買い求めていたそうだ。もしそれが最後の晩餐のメニューだったとしたら、彼の人生に比してそれはあまりにも質素でつつましいものではないか。いや、だからこそ、そこにはぼくなどの計り知ることのできない必然の計らいがあったのかもしれない。ディアギレフの見えない手によって…。

2009.11.01

秋以降、政権についた民主党の関連報道が倍増している。これまで野党として露出が少なかった民主党議員たちの動向は、表舞台に移動してから連日スポットライトを浴び続けている。
とりあえずアメリカに倣って、「変化」を選択した我が国の世論。そしていまは期待と不安の入り交じる政権移行期間。政治舞台の明転は移ろいやすい人心の目にはしばらく新鮮に映るだろうが、大切なことは政治を安易に劇場化しないことだ。ほんとうに変化を選択したのかと短兵急に結論を出し急ぎせずに、しばし注視してみる忍耐力が必要とされているんだと思う。政治は生活に直結しているから当然無関心ではいられないが、ぼくは基本的に自分のことをノンポリティカルだと思っている。つまり特定の党派に属することを拒否する人々の一人であって、棄権せずにその都度支持する政党や政治家を選択している平均的な無党派層なのである。
それにしてもかつての与党の凋落ぶりには目を覆いたくなる。良質な保守、そして保守への回帰なんて何言ってんのって感じで、一体何を保ち守ろうというのか。こんな手垢のついた政治言葉にもういいかげんぼくらはうんざりしているし「一緒にやろうぜ!」と気勢をあげられても長期ビジョンそのものがきちんと描けていないのだから、何とも寒々しい気持ちになってしまう。保守と革新の対立軸なんて前世紀末に消失してしまったのに、保守へ回帰すると言われても、そんなの国を担ってきたと思い込んでいる政治家たちの本流意識を主張するお題目にしか聞こえてこない。このように組織の人材が枯渇すると、その危うさはある日突然非情な事実として顕在化する。結末は分かっているのにどうすることもできず、空ろな面持ちで進むことしかできない。これは権力に吸引された末、疲弊してしまった構造体に襲いかかり、これまで幾度となく繰り返されてきた歴史の必然でもある。いつか来るべき山を迎えるためのいまが谷越えと頭をリセットし、精進するしかないですね。
さて、そんなノンポリ・デザイナーがずっと気になっていたのが政権デビューした民主党のシンボルマーク。国旗2枚の各パーツを切断し、縫い合わせて前首相に批判され話題となったあのシンボルマークのことです。じっと眺めていると達磨さんにも見えてくるが、上下に交差する赤い円は無限大「∞」を意味しているそうだ。そして下の円の輪郭がガチガチしているのは、新しいものを生み出していく様子を示していて、まだ成長途中なので輪郭がはっきりしていないということなのだと、民主党議員・よこやま博幸さんのサイトでは説明されている。また、水平線の海面から頭を出した太陽のイメージであるという説もある。つまり真ん中の白い部分がさざ波で、下の円が歪んでいるのは海面に映った太陽だからという「日はまた昇る」のイメージ。じゃあ落日もありうるぜと意地悪なツッコミが入りそうだけど、日本の夜明けを表現しているというところだろうか。作者はArt Directionがグラフィックデザイナーの浅葉克己さん、Designが子息の浅葉弾さん。なるほどと思いつつ、ぼくはまた別な解釈をしていて、上は目指すべき国のイメージ。そして下はまだ粗削りな政党ではあるけれど、目指すべき正円に重なるべく日々研鑽を積んでいるという意志の視覚表現であるとも考えてみた。ただこの解釈の場合、2つの円が完全に重なってしまうという事態はこれまた空恐ろしい。
ま、解釈はともあれ、ずっと気になっていたのはシンボルの下の円の造形についてだ。なんとも下の円の形状は受け入れがたいものがある。作者はこう反論するかもしれない。この造形は手だれておらず素人くさいと言われても、粗削りな理想を追い求める純真さを象徴しているのだと。そういう意味を汲んだとしても、あの形状には決定的に破綻していると直感させてしまうような稚拙感が拭えない。事実ネットでも下の円についての拒否反応は決して少なくないようだ。
そこでお節介もほどほどにと言われそうだが、勝手にリ・デザイン。(ごめんなさい、浅葉さん!!)一番上がオリジナル。下はおせっかいプランの数々なのだが、民主党は寄り合い所帯なんだから、やっぱり輪郭はデコボコしてしまう。でも角はほどよくとれていて、各パーツはリベラルに連結をしている。中段のいろいろなプランのように、その時の党内事情を反映させて微妙に起伏やデコボコの数が変化するなんていうのもいいかもしれない。
シンボルは不変不動。変化してしまったらシンボルじゃなくなってしまう、これが長い間デザイン界での常識だった。でも、SONYのCIやテレビ朝日のVIのように、ロゴ自体をアプリケーションとして機能させ、動きや色を環境によってフレキシブルに変化させるデザインも続々と誕生している。これらSONYやテレビ朝日のロゴを制作担当したのは、社会心理学などをバックボーンとした方法論で注目を浴びてきたイギリスのデザイングループTOMATO。まだSONYのCIが本格的に展開される前、デザイン会議でTOMATOのこのプレゼンテーションを見る機会があった。SONYのロゴがTV画面に現われてくる時の動きや色が、放映される国によって、その日の気候によって、また放映地域の人工密度などによって、微妙にプログラムコントロールされていくというアイデアだ。なるほど、ロゴをグラフィカルでなく社会心理学的に考察すると、ビジュアルをスタイルに還元させないこんなアプローチも可能になるんだと感心したものだった。
そこで、今の民主党はこんな形であると我々は考えています、と1年ごと年頭にサイトでシンボルマークに反映させてみたらどうだろう。時代感覚の多層化したチャンネルに対応して、政治にも柔軟なコミュニケーション能力が求められているのだと思う。現行ロゴを比較的忠実にスライドしたプランが最下段の左。右は今の党の印象に一番近いとぼくが感じるプランである。

2009.10.01

9月15日の深夜、NHKの「プロフェッショナル仕事の流儀・闘いの螺旋、いまだ終わらず〜漫画家・井上雄彦」をチラ見していたら、つい引き込まれて最後まで見てしまった。吉川英治の小説『宮本武蔵』をもとにした青年漫画『バカボンド(放浪の人)』を執筆する漫画家・井上雄彦の日常に密着した取材番組だった。1998年からモーニングに連載が開始されたこの作品は、なんと10年以上も続く大長編連載漫画だ。どこかでうっすらとこの『バカボンド』を目にした記憶はあるが一度もきちんと読んだことはない。
井上雄彦という人は24時間制作に没頭する日々を切れ目なく送っているにもかかわらず、一点でしっかりと実生活に根を張り、誠実さというか堅実さを漂わせている。腕の立つ職人のように気負いや浮ついたところが感じられない。一口に漫画家といってもそれはいろんな人がいるわけで、度々TVに登場しては気の利いたコメントを量産する小利口な漫画家などを見るにつけ、ぼくはこういう職人タイプには無条件で好感をもってしまう。鹿児島県出身の42歳。幼年期には水島新司の『ドカベン』が好きだったそうだが、鋭い画風はさいとう たかをの系譜に連なるような気がする。なにしろ素晴らしく絵がうまい。台詞がなくてもわずかな表情だけで豊かな表現力を発揮できるタイプの漫画家だと思う。
ところでずいぶん乱暴な仕分けだけど、少年を傾向別に野球少年と漫画少年に分けるとしたら、ぼくは間違いなく後者だった。しかし、運動神経もないのに背番号3のついたユニフォーム姿の写真が残っているくらいだから、野球も大好きなハイブリット少年だったとも言える。親の話では、物心ついた頃から身の周りにある紙切れに少しでも白いスペースを見つけると何かしら描きつけていたそうだ。自作の落書きが整理箱に入りきらないで困ったという記憶もある。小学生になれば『少年』や『少年画報』といった月刊誌では飽き足らず、近所の貸し本屋に入り浸るようになる。小さな駅の脇に隠れるようにその店はあって、たしかぼくと同年配の双子姉妹がいた。その家にはまったく男性の気配がなかったから、もしかしたら母子家庭だったのかもしれない。ちょっと暗くてひんやりとした店内に通っては、当時お気に入りだった辰巳ヨシヒロの陰鬱でシリアスな社会派漫画なんかを抜き出しては片っ端から読み漁っていた。
やがて漫画が動き出す。ウォルト・ディズニーのアニメーション映画を劇場で初めて観た時の驚きは今でもはっきりと覚えている。それまで見た日本のアニメーションといえば、ぎこちなく動きまわるキャラクターたちばかり。いかにも作り物っぽい印象がつきまとっていてあまりイケてなかったのに、このアメリカのキャラクターたちはどうだろう。見たことないくらい動きはなめらかでリアルだし、表情豊かでファンタスティック。でも感動もそこまでだった。どんなに巧妙な仕上りでも、それはどこまでいっても作りものの世界のまま。そんなこといえば、あらゆる表現物は作りものの世界に過ぎないともいえるわけだが、そっと心に沁み込んできて、作りものでないリアルな感情と重なり合うことは有りうるわけで、そんな表現物を漫画を通じてぼくは探し求めていた。
日本漫画史の神様みたいな手塚治虫は確かに大天才だった。あれだけ漫画表現に人生のすべてを捧げた生き方を貫徹した人はそういないし、残された作品群もその生き方と才能に見合うフロンティア・スピリットの輝きを湛えたものばかりだ。そんな濃密でハイレベルな作品をたくさんつくってくれたのに、ぼくはディズニー同様に夢中になることができなかった。生来、手塚治虫は生真面目で誠実な人だったのだろう。だから作品がどんなにシリアスで革新的なものであっても、結局は理想主義的な印象がつきまとうものだから、何となく物足りなさを感じていた。その反動で、早く良い子を卒業したかったぼくは水木しげる白土三平に夢中になり、二十歳過ぎには、これでいいのだ!の赤塚不二夫ハレンチ学園永井豪も登場してきたので、この漫画の国で少しも淋しいと思ったことはなかったのだ。
秋政権についた民主党の反対でさっそく凍結されてしまったが、いろんな漫画を網羅してストックしていこうという「アニメの殿堂」と呼ばれる国立メディア芸術総合センター構想にまつわる騒動ついて、漫画家たちはどう感じているんだろう。応援・支援は結構だけど、本音は「ほっといて欲しい」というところじゃないだろうか。ずっと漫画になんか目もくれなかった政治家たちが、海外人気を受けて手の平を返したように「世界に誇る日本アニメ」なんて持ち上げても「今さら、そりゃないぜ、おじさん」と多くの人がうさん臭さを嗅ぎ取っているようだ。およそサブカルチャーの原動力にはエログロナンセンスもたっぷりと吸い込んだ、良識派が眉をひそめるようなパワーがおおいに含まれるわけだし、そこのところを去勢されて殿堂入りしても魂を抜かれた仏になってしまう。ハコモノありきは論外だけど、邪魔しないことが最良の支援という極端な考え方だってあるわけだし、公平論で武装されたパブリックの中にサブカルチャーを再構成することの難しさや危うさは強く認識しておく必要があると思う。
多くの日本人は子どもの頃からいろんな漫画に囲まれて成長する。そしてやがて大半の漫画少年たちは漫画に愛着を抱きつつも、結局漫画家になることもなく、それぞれの大人になっていく。ぼくも漫画を含めて映画や小説、そして音楽とジグザグ寄り道しながら年を重ねてデザイナーとなり、いつしかまったく漫画を手にとることもなくなってしまった。
ただひとつの例外は、つげ義春だった。この漫画家だけは避けて通ることができなかった。1970年代前半に活躍したガロ系漫画家の元祖的存在といわれるこの作家をいたずらに偶像化する気はさらさらないが、決して多数派に支持されることはないだろう『ねじ式』や『ゲンセンカン主人』といった作品には抗いがたい魅力を感じてしまった。小学校卒業後、メッキ工やそば屋の出前持ちなどを経て貸し本作家としての活動を開始したという来歴や、強度な赤面恐怖症に悩まされるような神経症的特質も作品に透けて見えている。温泉めぐりの旅や夢の採集をテーマとした作品も多い。1976年に講談社から刊行された文庫『義男の青春」のあとがきで故・石子順造氏は次のように的確につげマンガを評している。「いいかえれば、それは、沈黙の言葉なのである。沈黙について説明した言葉ではない。語れば語るほど、語れないことがあらわれてくるといった表現。それが、つげの作品ではなかろうか。」
表舞台では希望にあふれたドリーミーなドラマが繰り広げられている。しかし絶望あっての希望なわけで、舞台裏では合わせ鏡のようにシュールで不条理な出来事が沸々と沸き上がっている。それら表裏丸ごとの舞台こそが、ぼくらの生きている世界そのものなのだから、つげ義春ほどその事実を深く抉り出し、見事にディズニーの世界を反転して示してくれた作家をぼくは知らない。
*写真上は晶文社刊『必殺するめ固め・つげ義春漫画集』のカバーで、ブックデザインはぼくの敬愛する平野甲賀氏だ。表題作の舞台は、村じゅうの家が温泉でつながっている或るかくれ里。夫婦で夕涼みしていたら、謎の元プロレスラー男に妻が手ごめにされた上、必殺するめ固めの技をかけられて、歩くことも口をきくこともできなくなってしまった男の苦悩と悲哀が描かれている。元来寡作な作家であったが、この作品を発表した1979年以降、進行したノイローゼの治療もあって休筆状態となり、1987年の『別離』を最後に現在までほぼ沈黙を続けている。写真下は1968年に発表されたガロ時代の代表作『ねじ式』の巻頭頁。22頁にわたる悪夢のようなオブセッション(脅迫観念)がシュールにパッチワークされている。

2009.9.02

以前「電子書籍」のことに少し触れたことがある。どうやらこのところアメリカではその電子書籍の市場が急速に拡大しているようだ。この2年ですでに5倍の規模に成長したという記事を目にした。それでもまだ全書籍の1%強にすぎないが、書籍の売り上げは音楽の3倍もある大きな市場なので裾野は想像以上に広いと期待度も高い。
このアメリカにおける急成長のきっかけはアマゾン「キンドル」のヒットだった。さらにその後ソニーも参入してソフトや端末を投入。伸びしろの大きい市場に向けて果敢に攻め込んでいる。音楽がネット配信へと大きく流れを変えた経緯から、どうやらアマゾンとソニーの両社は書籍の電子化が進むのは間違いないと読んでいるのだろう。さらにアメリカ最大の書店大手バーンズ&ノーブルも最近ネット販売を開始したというから、どうやらひと足先にアメリカが本格的な電子書籍化時代に入りつつあるのは間違いない。
ところで先日、朝日新聞の「本の舞台裏」という連載コラムに興味深い記事をみつけた。ジュンク堂池袋本店が開催した「耳から読む・大活字で読むCDブック大活字フェア」の中で本の内容を録音した音訳CD(オーデオブック)を紹介していた。取り上げられていたのはボランティア団体が出版社の委託を受けて制作したもので、単なる朗読にとどまらず図表なども正確に読み上げるのが特徴となっている。これまでの音訳は全国におよそ30万人いるとも言われる視覚障害者を想定したものが多かった。しかし高齢化により需要は確実に広がりつつあるし、ラジオ視聴者には高齢者も多いときく。それに団塊世代だって控えている。この団体ではおよそ60人のボランティアによって単行本なら3週間から2ヶ月、雑誌「週間金曜日」は発売翌週の火曜日には利用者の手元に届れられるそうだ。音訳CDの存在がもっと世間に広まって販売する出版社や取り扱う書店が各地に増えてくれることをこのボランティア団体の代表者は願っているようだが、まだまだタイトル数は限定され、当然価格も通常本より高い。残念ながら現時点では「耳から本を読む」こうした試みは過渡的な実験段階にとどまっていると言わざるを得ない。「電子書籍」や「音訳CD」は、はたして書籍の発展型メディアとなるのか、それとも単なるIT時代のあだ花で終わるのか、着地点はいまだ霧の中である。
似たような試みは過去にもあった。ぼくの書棚に収まる角川書店刊の「ランボー詩集」(金子光晴訳)と大門出版刊の「シリーズ私の講義・西脇順三郎集」の2冊には巻末にソノシートが納められている。今となっては懐かしのソノシートなのだが、当時はバリバリの最先端メディアだった。こんな紙みたいに薄いフィルムから音が出てくることにワクワクしていたのだからほほ笑ましい。どちらも昭和42年(1967)発行で、どうやら高校生になった年に購入したものらしい。そういえば「ランボー詩集」のソノシートは何度も聴いた記憶がある。叙情的なBGMをバックに「いちばん高い塔の歌」の「束縛されて手も足もでないうつろな青春。」なんて一節を思い入れたっぷりに芥川比呂志が朗読するのだが、それはそれで文芸的なアプローチだとは思うけどやはり作品とはまったく別なもの。曲解させる危険も孕む試みでもあった。
音訳CDの可能性は、こうした試みの先には決して見えてこないような気がする。器にどう盛りつけるかでなく、どんな風にも盛りつけることを可能にする「器そのものの実現性」が問われているのだと思う。
先日、キュレーターの長谷川祐子さんと大手出版社の編集者を交えて立ち話していた際、長谷川さんが音訳CDのことを話し出した。外国人の友人が(たぶんiPodで)通勤中にキンドルの音訳された研究書を聴いているという話。目を酷使しすぎた時代から聴覚で視覚をカバーする時代に入るかもしれないから出版社でも検討してみる価値があると編集者に助言していたのだが、ぼくはあの「ランボー詩集」のことを思い出し、文学作品から専門書や研究書までカバーするためにはあまり感情移入されていない透明感のある(機械的?)音声の方が望ましいこと、案外ここがポイントなのかもしれないとその時思った。
現実的には音声による入力が一番手っ取り早い方法だろう。それを素材にしてフィルタリングし、音声から個性を除去していくような工夫がほしい。リスナーは多様だ。だからその多様性を個別に反映できる柔軟性がとても重要になってくる。例えばその時の気分にあわせて音声のスピードコントロールができたり、女性や男性に声質を切り替えられたり、あるいは性別を固定しない中性的なボイスがほしいということもあるかもしれない。もちろんBGMなんかもお好みでバックに貼り付けられる。
リスナーの多様性に応じてカスタマイズできるシステムの実現は決して夢物語ではないだろう。こうして人間の生理に違和感なくフィットできるシステムやテクノロジーが実現されたら、霧なんて案外あっという間に晴れてしまい、「電子書籍」や「音訳CD」がしっかりと大地に根をおろしている光景をぼくらは目撃することになるのかもしれない。