Earphone : SHURE SE310

2010.10.01

音楽のない仕事場はどうも落ちつかない。これまで一度も会社勤めの経験のないぼくは、ずっと何かしら音楽を流して仕事をする習慣が染みついてしまっているので、気にいったBGMは労働条件の必須アイテムとなっている。
昔はコンピレーションしたテープを持ち込んだり、1枚づつレコード(懐かしい!)をかけ直したりしていたので、思い返せば音楽を聴く合間に仕事をしてたような、それはそれはのんびりとした時代だった。CD化されてからは5枚連続再生できるプレーヤーを利用して多少仕事に集中できるようになったが、デジタル時代の到来によってそんなBGM環境は一変する。JBLのパソコン用スピーカーをセットして、もっぱらMac iTunesのライブラリーに読み込んだ曲をリピート再生する方法に移行したが、やがてそれも飽きてくると、今度はiTunesの中にあるさまざまなジャンルのラジオ局から気の向いたものをチョイスしては一日中流しっぱなしというスタイルが定着してきた。各ストリームには100〜200もの局が登録されているので、その選択肢は相当なものだ。どこもほぼ切れ目なく音楽だけが流されているので、まあ、有線放送と似たようなものだけど、世界各地のさまざまなwebラジオ局を試してみるのもけっこう楽しいものである。時折ナレーションが入る局もある。それが聞きなれない言語だったりすると、今やインターネットは世界規模でシステム構築されているんだということが実感させられる。最近はジャンルも次第に定着されて、Ambient(環境音楽)113ストリームの中から、「Groove Salad from SomaFM」とか「radioio AMBIENT」などといった局をその日の気分で選んで聴いていることが多い。
ところで前から不思議に思っていたのだけれど、これらラジオ局は一体どこで収益をあげて運営されているのだろう。コマーシャルしていても言語が理解できないからそれが広告であるとは気付かないのか、それとも音楽そのものがコマーシャルソングだったなんてことがあったりして、フシギ、フシギ。 誰か知っていたらぜひ教えてほしい。
さて、こうした鑑賞環境の変遷にともなって、必然的に音楽との向き合い方も多様化してきた。昔はそれなりにきちんと音楽と向き合って聴いていたのに手軽に扱えるようになるにつれ、音楽はなんとなく回りに漂っているという印象が強くなり、存在感が次第に希薄になってきた。車に乗って聴く音楽は、職場のBGMよりやや近く感じられ、iPodにイアホンを差し込んで聴く音楽とはしっかり対峙するという風に、ぼくの音楽の聴き方は重層化してきた。しかし、お手軽に音楽を扱ってきた報いなのだろうか、最近とみに音楽に対する興味が薄れてしまった。帰宅してもまったく聴かないこともあり、目薬の点眼中にクラシック音楽に耳を傾けることがあるくらいだった。
そこでこれではいけないと反省し、ぼくはもう一度きちんと音楽と向き合うためにイアホンを変えてみることにした。これまで使っていたものはiPodの純正品。「そんな音は論評に値しない」と本格的なオーディオマニアからは酷評されていたiPodだが、高品質なイアホンに変えてみるだけでその音は一変するときいていたので、何かよい製品はないかと探してみることにした。
ネット検索学習の末、絞り込んだ製品はSHURESE310-KJ。遮音性がきわめて高い本格的なカナル型イアホンだ。カナル型とは耳栓のような構造から遮音性を発揮しダイレクト感がより高まるイアホン構造のことで、このタイプは低音から高音までスマートな音揚感があって、同シリーズの上位機種と較べても抜群にバランス感に優れているという評価が決め手となった。さっそく購入して試してみると、やけにコードの擦れる音がして何だこりゃと戸惑ったが、セッティングが間違っていた。「シュアー掛け」と俗に言われるそうだが、コードを耳の上を通して後ろ回しに装着すると最適なフィット感が得られるという正式なセッティング方法が図解入りでSHUREサイトに紹介されていたので、これで準備OK。iPod本体より高額だったが、なるほど伊達にお金はとってないなと思わせる音質である。音の解像度が高いというか、音像がくっきりと立ち上がってくる。こんな音がここに隠れていたんだといった小さな発見もある。今まで聴いていた音はなんて平板なものだったんだろう。おかげでこれなら音楽と復縁が果たせそうだ。
ところで今回の学習過程で初めて「エージング」という言葉を知った。本来、老化(aging)を意味する言葉だが、プロダクトの場合、特にオーディオにおいては製品が安定動作するまで動作させることを「エージング(=鳴らし込み)」と呼ぶのだそうだ。測定上の違いはほとんどなくても、人間の耳にははっきりとその違いがわかるというから人間に備わる潜在能力というのは本当にたいしたものだ。早いものでは数日、通常一週間から3ヶ月、長いものは3年を要する場合もあるという。エージング用にノイズの入ったCDまで売っている。暖機運転とか慣らし運転のようなものなのだろうか。しかしそんなに長くかかると、それまでに製品自体が壊れてしまいかねないような気もする。ところでこうしたことは何もプロダクトに限ったことでなく、例えば人間関係にだってあてはまるのではないだろうか。どうエージングしてもダメな場合もあるかもしれない。ただ、さまざまなノイズを経て緩やかに能力を発揮してゆくというこのプロセスにはなにやら深淵な意味が隠されているような気がしてきた。

先日TVを見ていたら姜尚中さんが出ていて、いろんな音楽鑑賞変遷の末に最近はバッハをよく聴くようになってきたと言っていた。両親や大切にしていた親友もすでにこの世にはおらず、そんな時に還暦を迎えた自分の心にしみ込んできたのがバッハの音楽だったという。その音色は「このまま生きていきなさい」と語りかけてくる肯定の癒しであると同時に、きちんと生きなければならないという静かな叱咤激励の声でもあるという話にちょっと共感してしまった。

新しいイアホンが来てから、ぼくの心にもしみ込んできた曲がある。それは無印BGMシリーズの最新版15に収められている曲、「Holy Year Music-The Purification of the Blessed Virgin Mary」。このアルバムにはチェコ・バロック時代の作品が収録されている。この国の人々に長く愛されてきたヤン・ディスマス・ゼレンカの曲を中心に、同国で活躍中の精鋭のミュージシャンたちによって演奏されているチェコ・バロックの数々。中でも哀感を湛えたこの曲は、印象的な主旋律を奏でるメインとなる楽器が入れ替わりながら、小節ごとに一瞬途切れるという構造をもっていて、まるで真珠の連なる首飾りのような可憐な印象を与えている。ブレスをつぐ度に訪れる一瞬の静寂。その度に少しだけ切なくなる。 音楽にとって重要なリフレインは、聴くものの心を揺さぶるとても大切な要素だ。またあのメロディが繰り返されるという期待感。そして今度はちょっとだけ違ったという心地よい驚き。この反復する快感は多くの楽曲に活用されているが、すべてがその特性を十二分に発揮しているわけではない。ゆっくりとエージングを重ねながら、この小品をぼくはリフレインの名曲としてひっそりと記憶していたいと思う。

上2点:「田中孝道捜索要領」より
下:「風の旅人」14号・旅の音沙汰
「長夜のねむりは獨覚」文・姜信子
掲載写真より

2010.9.02

自分の意志で、踏みしめ歩いてきたと思っていた道が、じつはさまざまな縁(えにし)に誘われた道程だったことに気づいたのはいつのことだったか。道は偶然の素描に違いないと考えていた青春時代。そこから必然のカタチだったと納得するところまで、それなりの時間をかけて歩いてきた。前回に続き、青い時代の縁について書いてみたい。
キッタナカと呼ばれたもう一人の先輩は、田中孝道さん。田中さんを知る者は皆、親しみをこめてコードーさんと呼んでいた。ぼくも40年近くずっとそう呼んできた。高校の美術部、そして新橋の現代美術研究所、さらには広告界に入るところまで似通った生き方をしてきたのに、なぜかぼくらは時折すれ違う程度で、共に過した時期もほとんどなく、ぼくはいつも小柄なコードーさんの大きな背中を見つめながら歩き続けてきた。
芸大に入るまでのコードーさんは、夕日に涙するロマンチストで、重厚な、しかも濃密な絵をおそろしく上手に描いていた。現代美術研究所に入ると事あるごとに先輩研究員から「コードー君の場合は」と幾多の伝説を聞かされ、すっかりコードー幻想にとりつかれてしまった。芸大絵画科に入学したコードーさんは、ケネス・アンガージョナス・メカスばりの実験映画(インディペンデント映画)に夢中となり、残念ながらぼくは観ていないが、唯一の制作監督作品となった「紫の構造」を発表する。並行して、浪人時代の鬱憤を晴らすかのようにポップアートの連作を発表し、若くして当時モダンアートを志す作家たちの登竜門となっていた現展入選を果たす。しかしなぜかその直後にコードーさんは絵画表現を封印してしまう。
やがて「観念芸術の第一人者」といわれる諏訪在住の美術家、松澤宥氏らとともに急速にコンセプチャルアートに傾倒してゆく。1969年に発表した、田中孝道失踪捜索表明(写真上2点)や、魔胎工房〜密着培養シリーズなど、状況劇場に象徴される60年代末カウンターカルチャーの熱気とシンクロするような、通信物を媒体にした粘性の強い表現を展開していった。
その後、コピーライターの川部重臣氏が在籍する広告プロダクション、アド・エンジニアーズ・オブ・トーキョーに入社、クリエイティブ・ディレクターとしての第一歩を踏み出す。1973年にコミュニケーション・エンジニアーズを設立。アド・エンから組織を分社化して、代表取締役に就任。日経などをメインクライアントに広告会社の経営者としてのもうひとつの側面をみせることになる。(現在は同社代表取締役会長)
これら事業活動と並行して2000年以降は、多肉植物を自製のピンホールカメラで撮影する本格的な写真表現に取り組む。使用するフィルムはポラロイド55T。引き抜き現像したネガを定着液につけることなく自然乾燥にまかせる手法で、刻々と変容していく陰画をプリントした、いわば一点ものの写真を発表し続ける。(写真下)
2007年夏の個展「panta rhei」でコードーさんは自作についてこのような一文を寄せている。

作品対象となるのは、気流や鳥たちの航跡、あるときはキノコや波紋、雪上の樹影など。そのほとんどが、いわば「予期せぬ来訪者」の肖像。
同時に存在の断層に見出した「寓意の森」としての、ひとつの自己確認の証しでもある。
「それは、その森に存在した」「その森は存在しなかった」
一枚のネガフィルムは、ネガと鏡像関係にあるプリントの出現を保証するのが写真の常識である。だが、私のネガフィルムは定着されておらず(自然乾燥)、たえず変化している。ネガは、居場所がなく漂流している。ネガの表層に宿るノイズパターンは、無限増殖をくり返している。したがってプリントするたびに、異なるプリントが生成されることになる。
撮影によって得られた「対象の名証性」は、経年変化により変容していくことで、イメージの消失点に限りなく接近する。やがてカタストロフを迎え、イメージは崩壊する。この崩壊との出会いは、未来のある時点で必ず発生する。したがって暗室での作業は、漂流する形象を定位させるためのイメージの発掘である。いまだ肉眼に結像しない未来のイメージたちの培養に終焉はない。私の“イメージ考古学”は始まったばかりである。
「人は同じ川を二度わたれない」川は流れている、水は留まることなく流れ去る。
「パンタ・レイ」これはヘラクレイトスの言葉で、「万物は流転する」というあたりの謂いである。ー田中孝道(たなかこうどう)

ぼくはこのような表現に向かっていったコードーさんを幼年期の記憶の存在なしには語ることはできないと思っている。一度、コードーさんのお父さんの葬儀に向かうために実家のある山梨の増穂町舂米(つきよね)という土地を訪れたことがある。山深い高地には幾重にも濃い緑が折り重なっていた。これこそ無限増殖を繰り返すネガフィルムの原板そのものだった。
また2007年には、みどり夫人とともに夫人の出身地である長野県小諸市に gallery salon de vert をオープンする。週末になるとコードーさんは東京から小諸に通ってはオーナー夫人を背後から支え、春から秋まで期間限定で写真展やイベントなどを精力的に開催しているという。舂米も小諸もここでは同じ「寓意の森」なのだ。さながらコードーさん集大成の拠点といった趣きがある。
さて、即席でラフな年譜となってしまったが、こうしてみるとコードーさんはとても精力的な人物と思われるかもしれない。しかし実像はといえば、物腰も柔らかく、いつも微笑みを絶やさない穏やかな人物である。若いころは老成していてちょっとキザなところもあったけど、文學的な言い方をすると間違いなく「優しい男」なんだと思う。
でも、ぼくが本当に書きたかったことはこうしたコードーさんことではない。ここまでがコードさんの「面」だとしたら、ぼくに大きな影響を与えたのはその中のひとつの「点」であった。では、その「点」の話をしよう。
1969年の秋、上京したてのぼくは芸大の学園祭を初めて見学することにした。そこで見たものはあらかた忘れてしまったが、強烈な記憶がひとつだけ残っている。
コードーさんが連作を発表しているときいて入った部屋は真っ暗だった。隅に設置されたブラックライトに照らし出され、まるで屏風のように横に連なった絵が暗闇に浮かび上がっていた。それはキャンバスにシルクスクリーンとエアブラシを駆使して描かれたポップアートだった。マリリンモンローがグラフィカルなコンポジションの中に点在している。タイトルはたしか「電気椅子のマリリン」だったと記憶している。「電気椅子」も「マリリンモンロー」も、ちょっとしたポップアート好きならすぐにアンディ・ウォーホル (Andy Warhol)を思い浮かべるだろう。もちろんコードーさんも同時代的にウォーホルの影響を強く受けていたことは間違いない。シルクスクリーンもエアブラシも、特に目新しい技法ではなかった。にもかかわらず、ぼくはその連作に強い衝撃を受けてしまったのだ。モンローの周りに飛び交うエレクトリックで光学的なイメージが渾然一体となってぼくに迫ってくる。それは新しい時代の絵巻物だった。一瞬のうちに文字通りぼくはしびれてしまったのだ。さして大きくもない絵画がこんなにも強烈なイメージを放射していることにぼくは驚き、「何かこのようなもの」を目指してこれから前に進んでいくことができるかもしれないという漠然とした勇気が、その時わいてきたのだ。
その後、ぼくは美術から離れ、デザイナーとしての道を歩むことになったが、この出来事はぼくにとってほんとうに大きなエポックとなり、原点のひとつとなったことは間違いない。
ある人にとってさして重要でもないものが、ある人にとっては忘れがたいものになることがある。コードーさんはぼくにとって、こうして忘れられない人となった。
本人にこの思い出話をある時してみたことがある。コードーさんは「そんなこともたしかにあったねぇ」と淡々としたものだった。多分実家の蔵に保管してあるというので、「いつか再会させて欲しいな」と言いながら、同時にぼくは決して見ることはないだろうとも確信していた。そう、「人は同じ川を二度わたれない」。

「登攀者−帽子−」2002
「漂い始めた表面」2001
「油彩」 2007
「油彩」 2007

2010.8.02

今年の初春の遅い午後、ぼくは銀座の昭和通りを歩いていた。久しぶりにこちらに出向く用事があって少し時間が作れたものだから、いつも案内状を受け取るものの足を運ぶことが叶わなかった或る美術家の個展会場に向かっていた。油彩と立体作品は少し離れた二つの画廊に分けて展示されていた。最初に向かった画廊の扉を開けると、入り口付近で長身の男性が三脚を立てて作品を撮影していた。およそ20年ぶりの再会となる作家本人、橘田尚之さんだった。
高校時代から二十歳過ぎまでの間、美術を志していたぼくに最も影響を与えた人たちがいた。三つ年上の、橘田さんと田中さんという先輩である。二人は当時、キッタナカと呼ばれるほど良きライバルと周囲からも目される同級生で、ぼくは対照的などちらの才能にも惹かれていた。まず先に出会ったのが橘田さんだった。橘田さんは芸大絵画科に入学するまでの数年間、郷里に帰ってくる度に学校を訪れてはぼくらを指導してくれた。部室を訪れた数人の先輩の中でも、とりわけぼくは橘田さんから大きな影響を受けたので、いわば青春時代の師弟関係を結んでもらった人だと今でも思っている。
部活における先輩という存在は、美術に限って言えば予備校の講師のような存在といえるだろう。受験情報がほとんど入ってこない地方から美大を目指す高校生にとって、東京の予備校で浪人している先輩たちのレアな情報は何よりも貴重なものだったし、まだ入学を果たしていない先輩たちにとっても、それは後輩を指導することで自身の習熟度合いを計るよい機会となっていたのかもしれない。いま思えば信じられないほど謙虚に、ぼくらはなんでも吸収しようと身構えていた。あらゆるものがまだ青く、しなやかな芽吹きの季節だった。
石膏デッサンとは「見つめる」「描く」という単調な反復行為を通じて、存在物を形象化するプロセスの報告書のようなものだ。それを見れば、対象物をどのように観察し、解釈したのか、そして表現することができたのか如実に判断することができる。橘田さんとイーゼルを並べて石膏像に向かう度に、捉え方のスケール感の違いを痛感させられた。無口な橘田さんの姿勢は終始一貫していた。一言でいえば、それは小さく固まらないで大きく広がっていく、遠心的な絵画を目指す姿勢だ。あるいは見えないフレームの外側まで描くことができるのだと肯定する絵画を目指していたともいえる。とんだ勘違いだったかもしれないが、とにかく当時のぼくは、橘田さんの絵画と向き合う姿勢をそんな風に受け止めていた。ナビ派の画家、ピエール・ボナールのことを教えてくれたのも橘田さんだった。上京してからぼくは何度となく、その作品を見るために上野の西洋美術館を訪れた。ボナールならではの乾いた質感と、燃えたつような鮮やかな彩りは今も鮮烈に目に焼き付いている。
橘田さんの印象は一貫してぼんやりととらえどころがない。しかし出会った時から、茫洋としたヴェールの内部には強靱な意志が潜んでいることをぼくは知っていた。今ならそれをはっきりと断言することができる。当時ぼくの周囲には美術を志していた大勢の人たちがいた。そして半世紀近くたった今、表現活動を継続している人はほんの数人しかいない。
70年代は一緒にグループ展に参加していた時期もあった。その頃の橘田さんはリキテンシュタインのような歯切れの良い巨大なポップアートや、スチール部品を組み合わせたジャンクアートを出品していたこともあったが、70年代末期からは次第に作風は定まり、ぼくが美術雑誌などで橘田さんの作品を見かけるようになった頃には、酸化被膜を施したアルミニウム板による立体シリーズを本格的に展開するようになっていた。
やがて橘田さんの表現について、美術雑誌などでいくつか評論を見かけるようになる。どれもが美術界の中でしか理解されないような硬質な文章ばかりでおよそ興味をひかれるようなものではなかったが、ひとつだけ面白い指摘があった。橘田さんの立体作品は立体としての表現を目指したものではなく、平面表現を推し進める過程で結果として空間に張り出してきた平面体の集積である、とこんな大意であったかと思う。案内状には立体作品について作家自身のこんな一文も掲載されている。
「酸化皮膜を施したアルミニウム板で作った立体の内部は空洞である。一目見ればそれとわかるので視線は内部に行かず、錆の斑紋や斜めの構成等により表面を滑る。視線を風に例えると、表面の形状により浮力が生ずるのではないかと思えた。作り続けるうちに、このような身体感覚を伴った視線を得られる絵画を作りたいと考えた。」(「橘田尚之—アルミが飛ぶとき」作家訪問 美術手帳8月号1987)
立体は不思議な躍動感を宿しているのに、なぜか量感を主張することなく、あくまでも絵画的佇まいを崩さないので、鑑賞者は作家の言うように表面に視線を滑らせることになる。酸化皮膜とアルミニウムのコントラストが織りなす不思議なテクスチャーは、その境界においてさまざまな物語を紡ぎだしている。ふたつの身振りのせめぎあいから亀裂と起伏が交互に発生し、鑑賞者の視線を誘導する。それは作家がかつて辿ったであろう視線の追体験でもある。あたかも泉から同時に湧き出す悲劇と喜劇のように、対立する二項のどちらにも属さないもうひとつの場所を探し求める旅にも似た追体験とも言える。
久しぶりの再会に話もはずみ、二人して歩きながらもうひとつの会場に向かう。そこには絵画作品の小品が展示されていた。遠目には印象派絵画のようでなぜか懐かしさを覚える。このシリーズについての作家のコメントがある。
「絵画での空洞の具体化は二つの方向を生んだ。窪地や穴を描いた油彩と、キャンバスに穴をあけた作品である(キャンバスを切り抜き、アルミ板を嵌め込むと、空洞にふたをしたような気がした)。絵画を見る視線は内在するものを求めて、絵画の奥に入って行こうとする。しかし空洞が暗示されているので視線は横に逸れ、メデュームのざらつきや艶を感じながら表面を滑ることになる。」(ドローイング’90「視線の航跡」讀売新聞夕刊4/21 1990)
橘田さんは「奥行き」「視線」そして「空洞」を、常に身体感覚を仲立ちにして思考しているように感じられる。決して内部に潜り込んでいくのでなく、たわみながら外部に飛び出そうとしているかのようだ。先頃、神奈川の養護学校を勤めあげた橘田さんはやっと時間が割けるようになり、油彩制作を再開したのだそうだ。集中力を持続することが求められるという。油彩を制作するということは、そういうことだったのだ。小品を見ながらぼくは、こんな絵なら1枚欲しいなと思った。橘田さんの造形は、はじまりもなけば終わりもない。常に浮力をともなってフレームの外を希求しつづける羽ばたきの造形なのだとぼくは思う。青い時代の石膏デッサンとその原型は何ひとつ変わっていない。

from a top:
Dzogchen Institute Japan Journal
Sems 06/07 cover and inside cover
Sems 06/07 Spread
Sems 08 cover and inside cover

2010.7.02

噺家の柳家小三治さんが朝日新聞のインタビューでこんなことを言っていた。「私は私。元々、私にはライバルはいません。志ん朝さんを含めて。それぞれみんな尊敬はしている。値打ちも認めている。だけど、ライバルは自分しかいない。でも、この歳になってみると、そういうのは、いささか重いですなあ。ライバルが誰かほかにいたほうが気が楽だ。(中略)だから、私は人生100年じゃあ足りないなと思う。せめて150年あったら『どうです、私のはなし、このごろおもしろいと思いませんか』って人に言える時が来るような気がする。」
そのとぼけた口調のなかに、噺家のすさまじい執念が見え隠れする。感心しながら記事に添えられた小三治さんのポートレートをぼんやり見ていると、何かチベット僧みたいに見えてきた。
そうだ、同じようなこと確か読んだことがある。「チベット僧、チベット僧」とつぶやきながら中沢新一さんの1993年に角川書店から発刊された「三万年の死の教え(チベット『死者の書』の世界)」を開くと、この記述は第一部「三万年の死の教え」のなかに見つかった。これは河合隼雄さんが主催する「日本ユング協会」における講演の記録をもとにまとめられたもので、中沢さんがチベットで仏教を勉強していた時の回想として語られている。

「もう何日も、幾晩も、密教の教えの伝授が続いていました。私の先生(ラマ)は、その伝授が終わろうとする、まさにそのとき、私にこう言いました。「さてさて、これでこの教えはいちおう終わりだ。いまこの瞬間から、お前は競争に入る。誰がライバルか。それは死だ。お前の命などは、じつにあやういもので、こうしていて、つぎの刹那に、もう命がつきてしまうということだってありうる。どんな生き物でもそうだ。命をささえ、守ってくれるものはごくわずかで、ほとんどの力は、命を破壊しようと、たえず働きかけている。だから、お前は、そのいつ襲ってくるかもしれない、しかしそれが襲ってくることだけはたしかな死というものと、競争をはじめなければならないのだ。死がお前を打ち倒してしまうのが早いか、死が襲ってくるのよりも早く、お前が真実を悟ることができるか、競争がはじまった。ぐずぐずしていることは、できない。さあさあ、よけいなことをせず、まっしぐらに目的にむかって、進んでいくのだ」。どんな人間でも、一人の強力なライバルをもっている、しかもそのライバルには容易に太刀打ちできない。そのライバルとは死で、人の人生に登場してくるさまざまなライバルなどは、すべて相対的で、実体のないイリュージョンにすぎないのに、死というライバルだけは、リアルで絶対的なものだ、そのライバルとの競争に打ち勝てるかどうかということだけが、ぎりぎりのところで、唯一この人生で意味をもっていることなのだ、とラマはことあるごとに、語っていました。」(角川書店刊『三万年の死の教え』8〜9頁)

死を生のなかに組み込む人の仕事は、必然的に普遍性を帯びてくる。深く、厳しい探求の末に語り出される真理は、世俗生活を送る私たちの心の奥にいやおうなく染み込み、深く刻み込まれることになる。
生と死をめぐる高い真理の認識が「ゾクチェン」という深遠な教えの体系に属する密教に埋蔵されていたことを、ぼくは中沢さんの数々の書籍を通じて知った。この『三万年の死の教え』の主題となっている『チベットの死者の書』の原題は『バルド・トドゥル』という。「バルド」は中間とか途中という意味があり、「トドゥル」は耳で聴いて解脱すること。死後まもない死者は聴覚を失っていないため、死者のわずかに残された聴覚を通じて、高い真理の認識に導いていく様子が『チベットの死者の書』の主題となっている。
以前ぼくがブックデザインを担当した、中沢さんが主宰するゾクチェン研究所の通信誌『セム(Sems)』でも、合併号ではバルド(Bardo)がテーマとなっていて、巻頭頁のイメージには生と死の象徴とした太陽と月が並び、その傍らには中沢さんのこんなコピーが添えられている。

人間はいつも「途上」にある生き物だ。
生きているときも、夢を見ているときも、死を迎えたときも、
そして死でさえ最後の終着点ではなく、
死後の「心」は「途上」の旅を続けるのである。

ひるがえって、生の中に死をどのように接合しているのか、あらためて自分に問いかけてみると、これは実に心許ない。悟りは遥か彼方の陽炎のようなもので、その方向すら定かではない。「三万年の死の教え」によれば、死のバルドを通過するあらゆる死者の意識体は、自分の心の本性から発生してくるさまざまな光のヴィジョンを体験することになるのだという。次第に再生の世界に近づくと前方に微弱な光があらわれはじめ、「天上の神々の世界をしめす白い薄明かり、阿修羅の世界の赤色、人間の世界の青い色、動物の世界をしめす緑の薄明かり、餓鬼の世界の黄色の薄明かり、地獄の世界の煙のモクモクとした薄明かり(三万年の死の教え・154〜155頁)」が見えてくる。間違っても黄色や黒っぽい煙のような薄明かりの世界に迷い込んではいけないと警告している。だから自分がバルドの旅に発った時、たとえ真理の認識を得ることができず輪廻という再生の道に入ってしまったとしても、決して黄色や黒っぽい煙のような薄明かりの世界に近づかないよう念じることしか、今のぼくには思い浮かばない。
「三万年の死の教え・第二部『死者の書』のある風景」の末尾には、「人生を『空』を背景にして大肯定する単独者の思考」と注釈のつけられた、このような印象的なインド人の言葉が紹介されている。

誕生の時には、あなたが泣き、全世界は喜びに沸く。
死ぬときには、全世界が泣き、あなたは喜びにあふれる。
かくのごとく、生きることだ。

子どもの頃は得体のしれない死のイメージに脅えることがあった。特に寝付きの悪い夜などには、知ってる限り不吉なイメージを総動員して、嫌だなあ、怖いなぁと、寝返りばかりうち続けていたものだ。
あるとき物心ついたぼくは、母から実はすぐ上に姉がいたことを知らされた。生を繋ぐことはできなかったけれど、お前が産まれた時には、まるでその子が生まれ変わったような気がしたものだった、そんな意味のことを言われた記憶がある。重度の認知症となってしまった母には、今となっては確かめようもないのだが10ほど年長の姉に訊ねると、それは丁度ぼくが産まれる3年ほど前、姉が小学校にあがる前年くらいの出来事だったそうだ。身篭もっていた母は前置胎盤によって母体にも危険が及ぶ状態となり、結局その子は七ヶ月ほどで死産してしまった。戦後間もない寒村で営まれたつつましい葬儀の様子を微かに姉は記憶していた。亡がらは小さな木箱に横たえられ(すでに故人となってしまった)縁者の若者ふたりによって小高い山頂の墓地まで運ばれていったという。
また、こんな出来事もあったそうだ。働きに出ていた父の代わりに、母は実家の農作業を手伝っていたので、そんな時には乳飲み子のぼくは小動物のように小さな籠に入れられて畑で過ごしたらしい。ある日、同じように畑に連れていかれていた近所の子どもが、誤って毒苺を食べて亡くなってしまった。その男の子は丁度ぼくと同じ年で、しかも同じ名前だったものだから、彼の遺族から母はぼくにその子の分まで生きてほしいと伝えられたという。その後、我が家は甲府に移り住み、こうした寒村での出来事はぼくの記憶の底に沈殿していった。
それから前のめりに生きた季節も過ぎ去り半世紀以上経つと、当たり前に暮らしていること自体、とてつもない幸運の集積の上にもたらされているのではないだろうかと感じることがたびたびある。生は本来はかないもので常に死の可能性にさらされ続けているということが次第に実感できるようになる。そして何気なく生活を送ってきたわれわれには、実はさまざまな死の影が折り重なっていたことが、少しづつ見えてくる。
そんな時、ふっと糸電話から微かに聞こえてくるとぎれとぎれの声のように、長らく忘却の彼方にあった記憶がよみがえってくるのだ。亡くなってしまった姉が生を得ていたら、ぼくが生まれることはなかったかもしれない。戦後まもない貧しい医療事情の中で母体に危険をおよぼすような出産だったら、やはり今のぼくはいなかったかもしれない。この世界に存在している自分は、おびただしい偶然や幸運の欠片に包み守られながら、今生を旅している途上の人なのだ。
同世代の作詞家松本隆さんは、常にこれが絶筆になってもいいと思えるような仕事をしようと心がけているという。自分はもうそんな年代を生きているのだと…。そう自覚してみると、ぼくもこれからは背後にふたつの小さな守護の気配を感じながら生きていくことができるような気がしてくるのである。

Completion photograph of Bosco Company Limited
1991.4

2010.6.01

美大を志す受験生時代、すでに芸大生となっていた知り合いに会うために上野の校舎を訪れたことがある。ひんやりとした無人の室内の高い天井から差し込む自然光を浴びて、描きかけのイーゼルが立て掛けられていた。不在の作者が向き合っていたのは大理石の彫像だった。ぼくがそれまで見慣れていた石膏像とはまったく異なる重厚さで、その彫像は空間に鎮座していた。自然光に満たされた贅沢な空間で存在感のある彫像と向き合うというゴージャスな雰囲気に少し気圧されていたのかもしれないが、ぼくは描きかけのデッサンに圧倒されてしまった。ザックリと塊をわしづかみする迫力は初めて目にする種類ものだった。ディティールの装飾表現なんてどうでもいいこと。大切なことは包み込む空間との関係性の中から、確かな存在感として塊を掴み出すこと。マッスがわきあがるような描きかけのデッサンはそんな風にぼくに語りかけていた。知り合いからそれが彫刻科の学生による習作だったことを知らされ、画家とは異なる彫刻家の対象物と向き合う姿勢の違い見せつけられた出来事だった。
またある時は、建築雑誌の編集者として出版社に就職していた先輩を訪ねたことがある。この雑誌は和英バイリンガルで海外の建築情報を伝える唯一の月刊誌として1971年に創刊された「a+u(Architecture and Urbanism)」。いまだに国内外の建築界に大きな影響を与え続けている雑誌だが、まだその産声をあげたばかりの編集部の雰囲気はとても知的で硬質なものだった。建築ってちょっと難しそう、でも哲学的で頭の切れる恰好良い兄貴みたいだな、と田舎者の受験生はその時出会った新鮮なジャンルを見上げて思ったのだった。
その頃からグラフィックよりワンディメンション高次な、こうした空間表現への憧れがぼくの中には少しづつ芽生えはじめてきたのだが、人にはいくつかの能力というものが与えられていて、もちろん与えられなかった能力というものもある。存在感を塊で捉えたり、さまざまな種類の光の在りようを柔軟に構想したり、空間を造形するという能力には限界があることをやがてぼくは気づかされることになる。それでも建築や家具やさまざまなプロダクトへの興味は薄れることはなく、ならばぼくは制作者としてでなく、これからは愛好者として楽しんでいこうと思い定めた。
それからというもの、暮らし働く空間にも自分なりの楽しみを見出して生活してみたいと願い(もちろん収入に見合ったレベルでという条件付きではあるが)相応の投資もしてきた。1991年に完成した仕事場は、ある意味ではぼくの建築に示し続けた情熱へのささやかな記念碑と言えるのかもしれない。
しかし「あれもしたい、これも欲しい」と、この愛好道にはきりがない。そこでぼくはそんな自分の気持ちを一度封印してみることにした。ある人の死がそのきっかけとなった。縁あってその人は長い間ぼくを愛好道に誘ってくれた人物だったが、2003年突然病に倒れ、50代の若さでこの世を去ってしまったのである。ほどなく有志たちによる追悼誌制作の呼びかけがあり、ぼくも関連資料とともに追悼文を送ることにした。ところが残念ながらいろんな事情があって結局この構想は頓挫してしまい、その後ぼくの追悼の気持ちも数年間漂い続けることになる。この死によってぼくの中でひとつの時代が終わりを告げたのは確かなことだった。だから新たな建築を愛好する情熱が次章へと移行していくためにも、ぼくはこの場を借りてその人物に7年ぶりの幻の追悼文を捧げてみたいと思う。

葺き続けた、工芸の甍

私は一高美術部に入部して程無く、4年ほど年長のT.Kさんと出会った。当時大学浪人していたT.Kさんは、よく放課後になると部室にやってきては在校生にまじってイーゼルに向かい、鉛筆デッサンや静物水彩画を描いていた。時折気が向くとぼくらを誘ってはバスケットボールなどで一緒に汗を流すこともあった。T.Kさんは当時まだ珍しかった長髪をなびかせ、目に染みるような鮮やかな赤いセーターを着込んで、よくイーゼルに向かっていた。先取りした大人のイメージを重ね合わせ、そのお洒落な後ろ姿を高校生の私はかすかな憧れをこめて見つめていたことを思い出す。
T.Kさんと再会したのは、石油ショックの混乱から世間がやっと落ち着きを取り戻してきた、それからおよそ10年後の事だった。当時、何となくおさまるところにおさまってきたという感じでグラフィックデザイナーになっていた私は、結婚を機に思い切って自宅を建てようと考えていた。丁度そんな折、あのT.Kさんが甍工芸という建築設計事務所の代表をしていることを知り、相談に乗ってもらうことにしたのだ。設計は後に甍工芸に合流することになる弟のMさんとYさん夫妻が担当し、(弟さんも美術部では私の先輩にあたり、当時、夫妻はまだ共に積水ハウスに勤務していた)T.Kさんは全体をプロデュースする立場で甍工芸の運営にあたっていたのだが、黙って相手の話をじっくりと聞き込み、しばらくたってこれしかないというプランをそっと出してくる甍工芸らしい仕事ぶりはすでにその時には完成されていたような気がする。
こうしてすっかりT.Kさんへの信頼を寄せることとなった私は、再会してから15年ほどの間に、自宅の新築と増築改築、そして仕事場となる社屋の新築と増築、さらにもうひとつの社屋の新築をお願いすることになったのだ。
注文の多い、手のかかる施主だったにもかかわらず、懐深く受け止め、それぞれの時期にその要求以上の上質な空間を見事に作り上げてくれた。同じ敷地内に同じ設計事務所の作品が3棟並ぶというのもめずらしいことなのではないだろうか。今にして思えば、公私ともに人生の大半の時間を過ごすことにもなったこれらの生活・労働空間から、私たちは想定以上に多くのものを授かってきた。そしてこれまで生み出してきた仕事の数々は、T.Kさんらが構想してくれた空間から多くのインスピレーションを与えられ、加護されてきたような気がしてならないのである。
二人で出かけた神戸への視察旅行や、まだ購入は無謀だと言われていた頃のパソコン〈Macintosh Plus〉を新しもの好き同志で一緒に買ったことなど、共有してきた多くの思い出は挙げていけばきりがない。
高校時代から生粋のモダニストと信じて疑わなかったT.Kさんから、実は自分は田舎者でいつも都会的な友人には劣等感をもっていたのだと告白された時の驚きも今となれば懐かしい。聞いた時には矛盾しているという戸惑いもあったが、今ではすっかり腑に落ちている。矛盾していない人間などどこにもいないからだ。
T.Kさんには、生来授かっていた才能がいくつもあった。特に物事を大掴みして捉える直感力には傑出していたと思う。モノづくりするために一番必要とされる能力である。T.Kさんが敬愛してやまなかった故 倉俣史朗氏に年々風貌が似てきたのも、何か深い因縁を感じてしまう。若い頃、北欧デザインを全身で吸収し、じっくりと濾過しながら熟成させてきたその鋭敏な感覚は、特に家具やインテリアの分野で発揮されてきたように思う。素材感にも鋭い峻別能力を見せ、いつもそのチョイスは素早く的確であった。
私は生前、説教じみたことを言われた記憶は一度もないが、多くのことを教えられ、与え続けてもらってきたのだと実感している。やはり早世の感は否めないが、工芸という甍を葺き続け、その才能を存分に展開しきった人生だったと思う。細やかな気遣いと無邪気さが同居していた。酒好きで無類の人好き、そして何よりも「本物」を愛した人だった。T.Kさん、ありがとう。どうかやすらかにお眠りください。

Picture Book : Gorsch the Cellist
(Kenji Miyazawa & Takeshi Motai) :
Portrait : Pablo Casals (1876-1973)

2010.5.03

窓の外には曇り空に覆われたグレイッシュトーンのパリの街並が広がる。静けさに包まれた室内に、やがて艶やかな音色が満たされていく。チェロを奏でる一人の女性。その傍らのベッドには老人が静かに横たわっている。彼の名は、フランソワ・モリス・アドリヤン・マリー・ミッテラン(François Maurice Adrien Marie Mitterrand)。
フランス第五共和政の第4代大統領ミッテランは病の床についていた最晩年、自室にチェロ奏者を招き演奏に耳をかたむけていたという。追悼記事からの記憶だったか定かではないが、チェロの演奏を聴くとこの映画のワンシーンのような光景を時々思い浮かべることがある。
チェロはとても不思議な楽器だ。その音色は空を舞うようなヴァイオリンの軽やかさでもなく、地を這うようなコントラバスの重々しさでもない。空と地の間で人に寄り添い静かに語りかけてくるのだが、同時にもっとも無伴奏にふさわしい楽器としての超然とした孤高さも合わせ持っている。そんな親密性と孤立性を内包するアンビバレントな楽器だと思う。
一時期、ぼくはピエール・フルニエ(Pierre Fournier)のノーブルな演奏がおさめられた有名なバッハの無伴奏チェロ組曲(BWVシリーズ)のCDをくり返し聴いていた。また、ある時はチェロより古い楽器だというヴィオラ・ダ・ガンバ(Viola da gamba)に夢中になり、マラン・マレー(Marin Marais)の宮廷音楽をはじめ、さまざまなヴィオラ・ダ・ガンバの古楽曲を収集してi-Podにストックしたりしていた。
さらに忘れ難いチェロ奏者がいる。スペイン・カタルーニャ生まれのパブロ・カザルス(Pablo Casals)だ。彼のエレガントで香り高い楽曲はほんとうに素晴らしい。カザルスは生前「平凡な速度」という言葉を残しているが、ここにカザルスの本質が語り尽くされていると思う。音楽の出発点はまずその速度にあるわけで、カザルスの「平凡な速度」には、譜面や数値には決して置き換えることのできないさまざまに微妙な抑揚が宿されている。平和活動家としての側面も見せながら、終生自然に抗うことなく淡々と雄々しさと無邪気さを並走させてみせたこの演奏家は、まるで腕の立つ心優しい園丁のようだった。
さてチェロといえば、宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」も思い出深い。子どもの頃に買い与えられ、ボロボロに破れすっかり黄ばんでしまった絵本「セロ弾きのゴーシュ」は今もぼくの小さな宝物だ。この絵本は1958年に福音館書店から配刊され、賢治の原作を佐藤義美が子ども向けに書きなおしたもので、絵は茂田井武が担当しているが、それからぼくはこの絵本を超える「セロ弾きのゴーシュ」に出会うことはなかった。何と言ってもその魅力は、絵の力に拠るところが大きい。茂田井武の代表作にもあげられているこの作品は、年譜によると1956年に死の床で描き上げられたものだという。そのタッチはカザルスの「平凡な速度」と同質の、決して記号化することのできない無限といってよい豊かな調子によってつくりだされている。
音楽をつくりだす、ということはどういうことなのだろう。それはつまるところ「生きとし生けるものの生の営みにシンクロする行為なのだよ」と絵本はぼくに語りかけてくる。演奏は生の営みの息遣いにほかならない。そして音色が息遣いとなったとき、ジャンルを問わず音楽は初めて「強い音楽」として生まれ変わるのだと…。幸いにも、ぼくは人生に光沢を与えてくれるたくさんの「強い音楽」とこれまで出会うことができた。
最後に、ひとつだけ最近出会った「強い音楽」を紹介してみたい。時折ぼくは仕事の手を休め、若者にヨウツベと呼ばれる「You Tube」にアクセスをする。ここには世界中から投稿されるさまざまな動画がストックされているので、興味のあるミュージシャン名を検索してライブ動画をチェックしたりしていると、思わぬ掘り出し物が見つかることがある。
ある日探し出したのはライ・クーダー(Ry Cooder)とニック・ロウ(Nick Lowe)の2009年のツアーライブ動画。Madrid、LiverpoolやAmsterdamなど各地でのライブの模様を観客が撮影したものなので決して音質は良くないし、手ぶれしたり周りの話し声なんかも入っているけど、それはそれで実際に会場に紛れ込んでいるようなリアリティがあるというものだ。チェックしているとあっという間に20タイトルくらい集まってしまい、ちょっとしたLive Stockが出来上がる。ぼくはこの動画をフリーソフト「RealPlayer Converter」などでPCにダウンロードしてからUSBメモリーに保存し、MacBook Proにイアホーンを差し込み「Adobe Media Player」で好きな曲を再生して楽しんでいる。(いろんな動画再生PlayerアプリがあるがAdobe Media Playerは使い勝手がよくデザインも美しいので気に入っている。また「You Tube」の動画は再生しているURLの末尾に「&fmt=16(&fmt=6や&fmt=18でもOK))」と打ち込むとアラ不思議、とたんにきれいな画質になるので一度お試しあれ)
ライ・クーダーが初来日した時には、2007年に閉館してしまった虎ノ門のイイノホールまで出かけて溌剌とした音楽を堪能したが、スリムなベース・ギタリスト、ニック・ロウの横に立つ2009年のライ・クーダーは随分恰幅もよくなって、それなりに年を重ねてきたことを実感させられる。しかしその名人技は健在で、ますますその円熟味を増している。ストーンズ(The Rolling Stones)の名曲「ホンキー・トンク・ウーマン(Honkey Tonk Woman)」のリフは、実はスタジオミュージシャンとして呼ばれていたライ・クーダーの練習風景の音源をキース・リチャーズ(Keith Richards)にコピーされたものだったことは有名な話だが、キースの気持ちも分かるよと言いたくなるくらい彼のボトルネック奏法は本当に魅惑的だ。この「You Tube」に投稿された「自警団員(Vigilante Man)」で繰り広げられているスライドギターは、ぼくが最近出会った掛け値なしの「強い音楽」といえるだろう。