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KRÖTE : Panzer Aufkalarug T.W-47 (detail)
S.F.3.D ORIGINAL
Poster & VI plan : Discotheque & Live REIA

2011.8.02

趣味は?と聞かれ、答えに窮するようになってからもうどのくらい経つだろう。子供の頃は漫画や切手、古銭収集、大人になってもプラモや鉄道模型、ブリキおもちゃ、読書はもちろん、レコード・CD収集、そしてギター演奏、ときには麻雀と、およそ趣味に事欠くことはなかったのに、今はどれもこれもすっかり遠ざかってしまった。もちろん読書だってするし、音楽も毎日聴いている。しかし、夢中になる度合いがまったく違うから趣味とは言えない、そんな気がする。
わずかな小遣いを貯めては、せっせと趣味につぎ込んでいた少年時代。新しい対象物に心動かされると、それまで投資してきた宝物を換金して資金を捻出する。こうして手にした新しい宝物は、次の対象物が現れるとまたその元手となっていく。こうした繰り返しからごく初歩的な経済の仕組みを知り、欲しいものを手に入れるためには相応の努力が必要とされるのだということを、幼いぼくは趣味を通じて学んできた。
少年時代にすっかりはまり、大人になってからも夢中になっていたホビーにプラモデル作りがある。なぜか自動車が多かったが、初歩的なものから、次第に手の込んだ大型スケールの模型へと移行していった。完成までには何日もかかるので、まとまった休みがとれるとワクワクしながら部屋にこもっては制作に没頭したものだった。プラモデルショップの展示用にと請われて作ったこともある。なかでも力作は、その車高の低さから「赤い絨毯」の異名をとるFERRARI(フェラーリ)TESTAROSSA(テスタロッサ)モデル。官能的なフォルムをもつ20世紀スポーツカーの傑作だ。8分の1スケールで、ダイキャスト製ボディには実車と同色のフェラーリレッドがあらかじめ塗装されている。室内の床にレザーを貼るほどディティールにこだわって作り込み、完成後は透明のアクリルケースまで特注したほどだった。(TESTAROSSAは、いまも寝室の棚に奉納されている)
こうして長きにわたってプラモに惹かれ続けてきたもっとも大きな理由は、幼いときに刻まれた渇望感だろう。欲しいものがなかなか買えず、満たされなかった思いは、いつまでたっても消えてくれない。成長してからその空いた穴を埋めるかのように次々と買い求めたが、その渇望を満たすことはできなかった。
プラモといえば、何と言っても静岡に本社を置く世界的トップメーカーの「田宮模型」の名が浮かぶ。わけても、1961〜1972年にかけて「タミヤ」のボックスアートを描き続けた小松崎茂の箱絵には、多くの少年たちが心躍らせたことだろう。漫画家の石ノ森章太郎、ちばてつや、松本零士らにも愛され、大きな影響を与え続けたといわれるこの画家の絵が、ぼくにとってはプラモの魅力の欠かせない要素となっていた。生命力の溢れ出すような箱をわくわくしながら開けると、そこには無機的に分解されたパーツが納まっているだけだ。その落差にいつも戸惑いながらも、気づくとまた箱絵に魅せられては、次のプラモを買いもとめている。
ところで「田宮模型」は精緻を極めた製品作りで知られる。メーカーから図面を入手するのはもとより、ときには実車まで購入して、分解、採寸したこともあったという逸話も残る。厳密なスケールダウンを繰り返し、最終的に隠れて見えなくなる部分までも決して手を抜くことなく、細部に至るまで実に忠実に再現していく姿勢は、はるかに玩具の域を越えていた。細部に手抜きをしない日本的特性は玩具の世界で遺憾なく発揮され、タミヤはワールドワイドにその活動の輪を広げてきた。
豆本と着せ替え人形、盆栽、ジュエリーと、あげれば枚挙にいとまがないが、こうした人間の小さなものへの情熱と愛着は一体どこからやってくるのだろう。名前は忘れてしまったけれど、イタリアのプラモデル・メーカーの話をどこかで読んだことがある。正確さを旨とする田宮模型に対し、芸術家肌揃いのこのメーカーは実に鷹揚。スケールだって大体なところがあって、部分的にデフォルメされていたりする。でも全体感が醸し出す雰囲気は、オリジナルにすごく近い。物作りの第一歩は、全体感を鷲掴みすることからはじまるという創造の真理を思い起こさせる話だった。
中沢新一さんの「幸福の無数の断片」には、さらに深い思考が残されている。「物質の抵抗」の章にある「「縮み志向」展」には、構造主義の人類学者レヴィ=ストロースの一節が引用されている。
「縮減は、寸法を縮めたり、対象のもっている属性を減らしたりするが、その効果は、ふつうのやりかたの認識過程をひっくりかえしてしまう、というところにあるように思われる。現実にあるものの全体を認識しようという場合、われわれはまず部分からはじめる傾向がある。対象はもちろん、サイズやら複雑さやらで、われわれの認識に抵抗してくるだろう。そういうときには、対象を分割してしまうというやりかたをとれば、その抵抗をいくぶんやわらげることができる。寸法の縮小は、こういう状況をひっくりかえしてしまう。小さくなれば、対象の全体はそれほど恐ろしいものとは、見えなくなるし、量的に小さくなることによって、われわれには、質的にも簡単になったと思われるのだ…縮減模型では、全体の認識が部分の認識に先立つのである。それは幻想にすぎないかもしれないけれど、知性や感性に喜びをあたえる、そういう幻想をつくりだして維持する、そのことがこういう手法が存在していることの、大きな理由なのだ。(『野性の思考』より)」
こうして日本に「俳句」や「盆栽」が生み出されてきた。だから、オ・ソレ・ミオのイタリア人に嫉妬なんかすることはない。中沢さんはテキストをこう締めくくる。
「小さく縮められた自然や生き物の世界を目の前にするとき、人の心はこまやかな愛情にみたされるようになる。それは世界をチャーミングにする、ひとつの技術なのである。」
ホビーのお陰でぼくの人生も少しはチャーミングになってくれたんだろうか。
さて、ぼくのプラモ行脚は1990年代に転機を迎える。NITTO(日東科学教材株式会社)のS.F.3.Dシリーズとの出会いだ。ブリキのおもちゃを探して、店を閉じた玩具店の倉庫を物色していた時に不思議な商品を見つけた。箱にはSF映画をフィギュアーにしたような兵器や兵士が描かれた、見たこともない近未来的なボックスアートが印刷されていた。よく分からないけどこれは面白そうだと直感したぼくは、とにかくそこに残っていた商品をすべて買い集めることにした。あとで調べてみると、このシリーズを発売したNITTOという会社はすでに廃業していて、それらはすでに入手困難な商品だったことが判明する。偶然とはいえ、その幸運にぼくは感謝した。現在、これらのプラモはプレミア価格で取引されているが、欲しい人は(もちろん定価よりはるかに高い)神戸の六甲模型教材社から通信販売で入手することもできる。
1980年代半ばに発売されたこのS.F.3.Dシリーズの生みの親は、海外にも熱狂的なファンをもつイラストレーター&モデラーである横山宏さん。2D > 3Dを行き来しながら、アカデミックな美術知識を駆使して、ストーリーを想起させるという世界でも例をみないプラモシリーズを生み出した。「S.F.3.D」は横山氏の代表作といわれる『マシーネンクリーガー』がベースとなっている。これについてはWikipediaに詳しい説明が載っているので引用してみよう。
「『マシーネンクリーガー』は、横山がデザインし、自ら造形したオリジナルSF兵器軍を使い、リアプロダクション撮影、多重露光、デジタル合成、そして横山本人の加える画像調整とエフェクトを経て作られた戦場写真を製作、そこに見る側の想像を刺激する「ストーリー」が加えられたいわゆる「フォトストーリー」という技法を発明し、模型界に新しい表現を持ち込んだ」
並走者は編集者の市川弘さん。横山氏が造型、市川氏がサイドストーリーを担当し、1982年にHobbyJAPAN誌に連載されて人気を博したこの「S.F.3.D ORIGINAL」が引き金となって「S.F.3.D」が商品化された。製品化は日東科学が担当したが、あえなく85年に解散・廃業。あとを引き継いだホビージャパン社と横山氏は意匠権と商品化権をめぐって対立し、その後和解するまで5年にわたって法廷闘争が繰り広げられるという不幸な時期もあった。
S.F.3.Dシリーズを巡るこんな物語を知ったのは随分あとになってからのこと。入手した当時のぼくは知るよしもなく、夢中になってすぐに全キッドを作り上げてしまった。(写真:上3点がS.F.3.Dのボルフォル&チオネル社製無人強襲偵察用二足歩行軽戦車クレーテ接写画像)一番下は、ぼくのデザインしたディスコのオープン告知ポスター。(「REIA」は勿論「Star Wars」のプリンセス・レイアから命名された、バブリーな時代のお話)ちゃっかり「S.F.3.D」モデル(軽戦闘偵察機・HORNISSE=ホルニッセ)が、灼熱の星の上を飛んでいる。
仕上げ塗装には苦心した。マット感を出すためにアクリル絵の具を水気を取った固めのブラシで塗り重ねて、錆や古びた質感を再現している。意識したのは、映画「Star Wars」や「Blade Runner」の背景に使われたセットのようなイメージだ。ステレオタイプの未来型フォルムはどうも嘘っぽい。古典的な機械構造が近未来で標準機としての再生を果たしている、そんな設定の方がリアリティを感じる。 (事実、「Star Wars」に使用された模型は、日本のプラモから大きな影響を受けたとジョージ・ルーカスも語っていた)
個々のパーツはどれも見覚えのあるものなのに、合体するとなにやら未知の生物を想起させる不思議な造形ではないか。「S.F.3.D」繋がりで辿っていくと「S.F.3.D コンペ ギャラリー」というサイトがあって、ここにはぼくなどよりはるかにディープな、横山世界に触発されたプラモ愛好者たちの自信作が集結している。しかし、これは何とも男子な世界ではないか。片や女子たちは機械構造のリアリティなどには目もくれず、「バービー」、「リカちゃん」、「Blythe」といったカワイイ世界に夢中になる。両者は、永遠に決して越えることのできない川によって深く隔てられているように見えながら、実は彼らは世界をチャーミングにする技術一家の兄弟姉妹なのだと思う。
世に数多く存在し、人々を夢中にさせてきた「趣味」は、Wikipediaでこのように規定されている。生理的必要時間と労働時間を除いた余暇の時間に、習慣的に好んで繰り返しおこなう事柄やその対象のことを「趣味」という。そして、職業として成立している範囲の事柄を趣味でおこなう人はアマチュアと呼ばれる。
ぼくがすっかり趣味から遠ざかってしまった経緯を自分なりに考えてみると、ひとつの仮説として、こんな風に考えることもできそうだ。ぼくの職業はデザイナーだが、いまは労働に従事しているという意識はあまりない。しかし、昔は食べる術としての労働だと感じた時期もたしかにあった。その後紆余曲折あって、どうやら中年と呼ばれる頃から労働は「楽しい仕事」に変質してきたような気がする。そしてそれに呼応するかのように、趣味はぼくから次第に遠ざかっていった。もちろん趣味で仕事をしているわけではないけれど、「楽しい仕事」が、本来余暇におこなわれるアマチュア的行為の楽しさを吸収してしまったのだと考えている。だから、ただの仕事人間になってしまったとか、忙しいから趣味の時間も削って仕事を消化しているということでは決してない。プロフェッショナルとアマチュアがブレンドされるように、ぼくの趣味は「楽しい仕事」の中にいつのまにかそっと滑り込んできて、相変わらず生き続けている。

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Shop Label_Antique SUB
Toy of The Tin Plate_Tricycle
Toy of The Tin Plate_Motorcycle
(Photo:Aoyagi Shigeru)

2011.7.03

ぼくは21歳からおよそ2年間ほど、古物商を経験したことがある。デザインをはじめるつもりで甲府駅前の1坪ほどの隙間スペースを借受けて事務所にしてはみたものの、その頃の地方都市なんて「デザインって何?」という時代だったから、およそ生産的な仕事なんて入ってこない。仕方なく料金はいらないからウインドーディスプレイをやらせてもらえないかと中心街にある洋装店の親父さんをくどいて、一ヶ月に、一度ほど飾り付けを担当させてもらうことになった。今考えれば素性も知れない馬の骨みたいな若者によく任せてくれたものだとその心意気には深く感謝している。
当時は銀座の和光を頂点とするウインドウディスプレイというジャンルがすでに確立していて、ぼくも興味津々だった。そこで高校時代の美術部の先輩を誘って、まるで展覧会に出品するようなノリで制作にとりかかった。ぼくらの記念すべき初仕事は、その頃好きだった女流彫刻家、エスコバル・マリソルばりの木製の立体物だった。大きな花のオブジェを顔に見立て、当時、版画家の池田満寿夫がよく作品のモチーフにしていた青空をボディに描き込んだ立体をウインドーに飾りつけてみた。洋装店の親父さんは「何だこりゃ〜」と驚きつつもそれなりに面白がってくれたのか、「まぁしばらく好きにやってみろ」と寛容さを示してくれた。そこで気をよくしたぼくらは、熱で変形させた蛍光アクリル板にブラックライトを照射してエッジを発光させたプチ・キネティックアートもどき立体物を洋服と組み合わせてみたり、自分たちの表現がはたして社会に通用するものなのか、手探りでさまざまな実験を重ねた。しかし、持ち出しばかりで商売とよぶにはほど遠く、結局それは世間知らずの若造が陥りがちな自己満足的行為にすぎなかった。
そんなぼくらを見かねたのか、ある日近所の人が事務所にやってきて仕事を少し手伝ってみないかともちかけてきた。ぼくより4つほどの年長にすぎないのに、やけに老成した印象を与えるその人物はビジネス旅館を大学生の時に親から任されていた経営者で、本業の傍ら骨董品収集にも夢中になっていた。趣味が高じたとはいえ、毎日40万円も骨董品の買い付けするこのコレクターはとうに素人の域を超えていた。(今は旅館の他に、実際に複数の骨董店も経営している)
特に心血を注いでいたのは明治・大正時代のガラス製品やランプ類、柱時計などの収集だった。元来、骨董品というものは欲しいものだけ買うということは許されないものらしい。そこで、欲しいものを入手するためにまとめ買いした余計な(?)骨董品を処分する必要が出てくる。自分で骨董屋を開業して販売したり、同業者に転売することもできるが、彼が考えたのはもっとゲリラ的な方法だった。処分品をトラックに山積みして南青山などの貸し店舗に持ち込んでは、一週間ほど「アンティークバザール」と称して出張販売するのだ。そこで声をかけてもらったぼくらは、この膠着状態から抜け出すために、渡りに船と誘いに乗ってしまった。
骨董品といっても、商品にするための工夫も求められる。たとえば文字盤が剥がれてしまった柱時計などは、あらかじめ文字盤のオリジナルをコピーした印刷物を用意しておき、それに紅茶などを霧吹きしたうえで天日干しして変色させ、経年処理を巧妙に施してから時計に貼って完成させる。複製というか、再生というか、何とも荒っぽいことをしたものである。また、骨董品を販売するためには「古物商」と「露天商」という二つの許可証(通称「鑑札」)の交付を受けなければならない。この役割は事務所の代表をしていた僕でなく、美術部の先輩が担ってくれた。こうしてぼくらは定期的に何度か東京へ繰り出しては、バザールなるものを開催した。
驚くべきことに、これがけっこう売れたのだった。都会にはさまざまなコレクターが密集していて、一週間もすると完売に近い状態になる。時には演出家としてデビューして間もない蜷川幸雄がやってきたり、女優、松尾嘉代の旦那さんが手広く飲食店を経営していて、お店に飾るのだと柱時計をまとめ買いしてくれたこともあった。この頃ぼくらの周辺にはアルバイトの男子高校生たちやヒッピーみたいな若者も集まってきて、何とも騒々しいハレの日々が続いた。それはおそらくぼくの人生でもっとも社交的に過ごした時期だったといえるだろう。しかし成り行きとはいえ、自分が好きでもないのに骨董の世界などにかかわってしまったことに、ぼくは次第に戸惑いを感じるようになっていった。
骨董品にはまず希少価値が求められる。古いだけではただのガラクタ。もちろん「用の美」の純然たる民芸品とも棲み分けられていて、骨董品は美術品に近い、年代物の工芸品といったらよいのだろうか。もちろん贋作も多い。知識の浅いコレクターは、その道のプロの餌食となることも少なくない。この世界では偽物を掴まされても、それが犯罪とされることはあまりなく、知らない方が悪いのだという見方が幅をきかす。たしかに骨董品を愛で、味わうことは文化的行為といえよう。しかしコレクター心理というのはなかなかにやっかいなもので、独占欲や背徳的な優越感を帯びていることが多い。希少性が高く高価な逸品は、めったに人目に触れることもなくコレクターの秘蔵庫に眠っていて、寝静まった深夜などに密かに限られたものだけに鑑賞される。
業者が買い付けに集まる「市」は毎月1日に開催されていた。骨董品の入ったダンボールが所狭しと並べられ、中を見ることが許されない状態でそれに値がつけられる。売買はこうして封をしたまま行われるのだが、「業」や「欲」がもつれ合い、騙し騙されのバトルが繰り広げられていく。そこでは誰もがみんな狸になる。狸の集会から戻ってきたぼくは、いつも深い疲労感に沈むのが常だった。
やがてぼくはこの世界はどうも性にあわないと気づきはじめ、骨董から距離をおくようになっていく。反動もあって、それなら骨董店の対極にあるような「お気軽なガラクタ屋」にしてやれと、ポップなショップに模様替えすることにした。看板には「Antique SUB」。(当時有名な「さぶ」というホモ雑誌があってよく誤解された。いまだにぼくのことをサブちゃんなんて呼ぶ人と再会することがあるとドキッとする。もちろんサブカルチャーの「SUB」です)棚には美大の友人たちから送られてきた陶器などが並ぶ。また、くるぶしから切り落とされたやけにリアルな足のローソクとか、得体の知れない不気味なオブジェを、売れたらしめたものと持ち込む作家たちもいた。こうして店内は次第に不思議な雰囲気を醸し出してくる。下北沢あたりで開業してたらけっこうイケていたかもしれないが、当時の田舎町ではなかなか理解されるものではなかった。小林君がおかしなお店をはじめたらしいという噂が流れ、時折友人たちも面白半分に覗きにやってきた。若き日の中沢新一さんもそんな一人だった。一番上の画像は、売れた商品を入れる茶袋に貼っていたショップラベル。あらためて眺めてみると、まるで香の抜けた横尾忠則のコラージュ版画みたいだ。
日銭を稼ぐためにはじめたこともある。真鍮製の丸線をペンチで変形させて作る一筆書きのネームバッチ。これは外国人が路地などで手作りアクセサリーを売っているのを見て思いついた。これがけっこう当たった。近くの女子高生などの間で評判になり、連日下校時には年頃の子たちがやってきては「asami」とか作っては、ハイ!真鍮200円、君はシルバーだから400円!なんて、なんともコマイ商売をしていたものだ。
ぼくはまったく商売と縁のない勤め人の家に育ったから、小さな頃から何となく商売には憧れに近い気持ちを抱いてた。一時期は本気で寿司職人になりたいと考えたこともある。だからこんな経験をいつかはしてみたかったのだ。商売の基本を学ぼうと出納帳を買ってきては、見よう見まねで慣れない帳簿作りにもトライした。
ある時、別の美術部の大先輩がやってきて、少しばかり事業資金(当時のぼくには大金だったが)を渡してくれた。商売なんて実際にやってみなければ分からないことばかり。だからこれを、自分が売れると思うものを仕入れて販売する、商売の基本学習資金として使ってみたらいいと言う。この人は生粋の商売屋育ちで商人根性をしっかり身につけているのに、どうしてこんな商才のなさそうな後輩に目を掛けてくれるんだろうと思ったが、根が楽天的なぼくは、儲けを渡せなくても元金が返せたらいいやと思い直し、その厚意に甘えることにした。
ほどなく、TVの「はじめてのおつかい」に出てくる子供みたいなぎこちなさで、ぼくは東京のかっぱ橋問屋街に向かった。行き当たりばったりの素人仕入れで、洋服や日用雑貨やら、かなり散漫な仕入れをしてしまった記憶がある。もちろんそんな商品が売り尽くせるわけもなく、苦し紛れの特売セールも空しく、ショップの倉庫には在庫品が積み上げられる。 この先輩にはなんの恩返しもできなかったばかりか、その後も経営上の悩みにのってもらったり、ボスコの設立時には名前だけの取締役も引き受けていただいた。
いくつもの幸運に恵まれたのにもかかわらず、結局ぼくはこの商売を続けることができなかった。当たり前のことだけど、対面接客販売は、ひたすら客が来るのを待ち続けることしかできない。「商い」とはよくいったものだ。「商い」が、客待ちを「飽きない」ことだと合点するまで、ぼくはずいぶん遠回りをした。自分が飽きずに待ち続けることができない性分だと気づいた時、勝手に自分が描いていた商売という幻想からやっと解き放された。これは自分の仕事ではない。負け惜しみかもしれないが、やってみたからこそ分かったことだった。そして、遅まきながらデザインに向かって踏み出していく覚悟をかためたそのとき、ぼくはすでに24歳になっていた。
下の写真2点は90年代、雑誌の裏表紙に連載するために撮影されたブリキのおもちゃ。骨董品への反動として収集しはじめたものだ。「開運!なんでも鑑定団」でおなじみの北原照久さんはその道の第一人者で、いまでこそブリキのおもちゃは大人の立派なジャンルとして定着してるが、その頃はまだまだ子供の玩具に過ぎなかった。廃業間近の駄菓子屋さんの倉庫から探し出しては、ショップに並べたりしていた。売れ残ったおもちゃにはパーツの足りないものも少なくないが、愛着は薄れることはない。ダンボールに保存して時々デザインモチーフとして登場してもらったりした。多くは戦後、アメリカに輸出するために作られたものだという。だからアメリカ人好みにデザインがややデフォルメされていたりするが、細部には日本人特有の繊細さが宿っている。なによりもこのチープさが捨てがたい。ぼくはこういうお店をつくりたかったのだ。

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Live Album Cover : Murahachibu
Album Cover : Akira Kobayashi
First Album Cover : Wataru Takada

2011.6.02

つい先ほどまで見ていた夢の生々しさも、目覚めてしばらくすれば紫煙のごとく跡形もなく消えてしまう。数十年も昔の記憶も夢と同じようなもので、あらかたは見事に消失し、思い出すことも叶わない。ただ、移動中ボンヤリと車窓を流れる風景を眺めていると、思いがけない記憶の断片がふとよみがえってきたりすることがある。それらはまるで記憶の地層に行き着く途上でひっかかり、皮、へた、根がきれいにそぎ落とされた玉葱のように生々しいむき出し状態で、完結していながら、やはり見事に断片的なのである。どうしてそんな記憶が残っているのか説明することは難しいが、それがまぎれもなく自分自身のものであることだけは間違いない。

先月放映されたNHKのETV特集「カズオ・イシグロをさがして」を途中からぼんやり見ていたら、番組終盤でその作家がこんなことを言っていた。大切な人を失った悲しみは避けることはできないが、残された者の大切な記憶まで奪うことはできない。これこそが運命に対して人間の示すことのできるささやかな勝利なのだと。細かな言い回しは定かでないが、たぶんこんなコメントだったと思う。日本の血筋をもつカズオ・イシグロは、ブッカー賞受賞後、現代イギリスを代表する作家として世界中に幅広い読者層を獲得している。このコメントは一貫して記憶をテーマとしてきたこの作家が、公開中の映画化された小説「わたしを離さないで」で問いかけた、命のありようから導き出したひとつの視点だ。

実はこの番組を制作したのは、以前ぼくの地元の支局にも勤務したことのある渡辺考さん。彼は「ギャラクシー賞受賞ドキュメンタリスト」として活躍中の気鋭のTVディレクターで、平成6年には、やはりETV特集で青木ヶ原樹海をテーマとした中沢新一さんの「輪廻の森・樹海」も制作している。当時、中沢さんから託されたといって19世紀イタリアのカトリック教育家、ヨハネ・ボスコの生涯を綴った真っ赤な分厚い「聖ドン・ボスコ」を届けてくれたり、その後も何度かオフィスに遊びにやってきたことのある、衛星ハイビジョン局、番組制作局を経て現在、福岡放送局に勤務している熱い放送人だ。

その渡辺さんが制作した番組を偶然見たぼくは、ひとしきり記憶について思いを巡らせ、運命に対峙することのできる記憶をひとまず「蘇りの記憶」と名付けてみた。ぼくの蘇りの記憶の多くは青春期のものばかりだ。あらゆる可能性に向かってひらかれているはずなのに、喪失の悲しみに満たされていた時代。誰かが若さとは痛々しさそのものだといっていたが、すべてが宙ぶらりんで、なにもまだ始まっていなかった二十歳前後の記憶は、どれもこれも鉛のような重い徒労感に押しつぶされそうになっていたり、ヒリヒリする痛みをともなうものばかりだ。

やはり旅の記憶が多い。若者の特権ともいえる当て所ない旅。引きこもりがちだったぼくにもそんな旅が数回あった。東京から故郷に戻ってしばらくたった晩冬のある日、ぼくは夜行列車に乗り込み、上越、糸魚川、富山、金沢、福井と日本海沿岸路線を走る鈍行列車の旅に出た。途中下車することもなく、敦賀、大津、京都を経由して神戸に向かった。それはぼくなりのリセットの旅だった。気分としては、当時流行っていたチューリップの「心の旅」では決してなく、「窓は夜霧に濡れて都すでに遠のく」と唄いだす小林旭の「北帰行」に限りなく近かった。

また、進路を西にとったのにはぼくなりの理由があった。契機はエレックレコードから発売された「村八分」の2枚組のレコードを聴いたことだった。「村八分」は世に出ることを頑なに拒否し続け、デビュー当時からすでに伝説となっていたロックグループだった。Chahboと呼ばれたヴォーカルの柴田和志(1994年死去)は、サイケデリックなまはげのようないでたちで差別用語満載の過激なメッセージを舞台から観客に向かっては吐き出していた。元祖、忌野清志郎がすでにそこに居た。そしてギターは山口富士夫。ぼくは彼のギターにしびれていた。一介のギタリストが一介の若者にとっての聖人となる、そんなことが可能な時代だった。唯一のレコードとなった彼らのアルバムは、1973年5月5日、京都大学西部講堂でのライブ演奏を集録したものだった。これを聴いたぼくは、ラジカルの聖地は西方にあるに違いない、という根拠のない確信に誘われるように旅に出た。

何処へ行って何をして、どのように帰ってきたのかほとんど覚えていない。ひとつだけ思い出せるのは、宝塚のある上品なお宅に一泊させてもらったことだ。東京にいた頃在籍していた美術研究所に、宝塚から絵の勉強で来ていた研究生の女性がいた。ぼくは受験枠で入所したからまだ二十歳前だったが大半の研究生は社会人だったので、その女性(Tさん)もおそらく二十代半ばだったのではないだろうか。彼女は地元での縁談がまとまり(お相手はお医者さん)故郷に戻るためぼくと同時期に退所したので、それを機に少しだけ手紙のやりとりをした時期がある。そこで彼女は、関西にきたらぜひ一度遊びにきたらと誘ってくれた。一人娘だったTさんは弟のようにぼくに接してくれていたから、たぶんそれも田舎モノの若者へのリップサービスだったのに違いない。しかし真に受けたぼくは厚かましくも門をたたいてしまったのだ。心優しいTさんはそんなぼくを快く迎え入れてくれたうえに、一泊していったらいいとまで言ってくれた。KYなぼくが言葉に甘えたことは言うまでもない。Tさんのお父さんは全国の高速道路に設置されている照明灯を開発した方だとかで、自分とは縁遠い上品な家庭に押しかけてしまった居心地の悪さだけが強く印象に残っている。どこがラジカルな西方の聖地なんだと自分で自分に突っ込みを入れたくなるけれど、その後数回旅した関西の記憶はどれも似たようなものばかりだ。

うだるような真夏の旅では、先輩を頼って宿がわりに転がり込んだ京大の暗い教室でかぶりついた、生暖かくて不味い西瓜の食感が忘れられない。高田渡のファーストアルバム「ごあいさつ」の「珈琲不演唱(コーヒーブルース)」で唄われていたイノダ(京都堺三条のイノダコーヒー)に行ってみようと思い立った旅もある。そこで手の平を温めたマグカップのぬくもりと量感は今も記憶の中に残っている。あるときは、北野外国人倶楽部の建物の脇から神戸を見下ろし、この街なら暮らしてみてもいいなとぼんやりと考えたりしたこともあった。そこに吹いていた浜風の感触も懐かしい。どれもこれもしょうもない記憶の断片ばかりだ。でも、なんの役にもたちそうもない、まわり道の思い出が消えてしまわないのはなぜなんだろう。生きていくのに必要なものだから?誰か知っていたら教えてほしい。

人にまつわる記憶も同じようなもので、人生の一点ですれちがっただけなのに不思議なことに鮮明に残る記憶も少なくない。例えば高校時代の同級生の中から実業家として在京企業で名を成した人物といえば、すぐに3人ほどが思い浮かぶ。彼らの現況が伝わってくると、不明だった消息を飛び越えて瞬時に過去の記憶がよみがえってくる。

古屋文明さんは2006年から大手出版取次企業の日販(日本出版販売)のトップとなり、現在も社長として活躍中だ。JTBの次期社長との呼び声も高い常務取締役の志賀典人さんは、200社に迫るグループ企業の経営企画や事業とIT部門を束ねるCIOとして巨大グループを牽引している。大久保好男さんは今月開催される日本テレビの株主総会で社長に昇格することが内定したそうだ。

そこでぼくは思いつき、卒業アルバムを開いて彼らの寄せ書きを探してみた。古屋文明さんは「造反有理」と書き残した。「造反有理」という言葉は「上の者に反抗するには理由がある」という意味だ。「謀反にこそ正しい道理がある」と解釈されて文化大革命では紅衛兵の掲げるスローガンにもなった。ナルホドね、「造反」を志したわけだ。中学から一緒でいつも物静かに微笑んでいる印象ばかり残っている志賀典人さんは「歴史は俺がつくる」と宣言していて、長い時を経て改めて彼の知らない一面を見せられたような気がした。一番おもしろかったのが大久保好男さん。越境通学組の秀才で、いつも背筋をのばして笑顔なんて見た記憶がないほど生真面な学生だったと思っていたのに、彼は「寄せ書きなんか書きたくねえや…    大久保」と律儀な筆跡で書き残していた。それが茶目っ気なのか直情さなのか分からないが、思わず笑ってしまった。ちなみに、同じく寄せ書きなんかしたくなかったぼくは相合傘を描き、親友のウエダマサル君を誘って二人して名前を並べてカナ書きしたが、大久保さんに較べたら何とも軟弱だったなぁ。(その後、上田優君は市川準に師事して電通プロックス[合併して現在は電通テック]のCMディレクターとなり、数多くのCMを世に出した)

いつだって若者は、押しつぶされそうな不安やいらだちを、過剰な気負いや、さもなくば覚えたてのシニカルな態度でやり過ごそうとする。やがてそんな混乱の中から何かに押しだされるようにして可能性を選別し、つまずきながらもそろそろとコースに走り出していく。そうして、みんな同じ時代をそれぞれの場所で生きてきた。

到達点あってのまわり道。そもそも人生に到着地なんてないんだとしたら、そこには近道もまわり道も存在しないし、役にたちそうもない無駄なことなんて何もないことになる。ただ生きているだけで、それはなんてステキなことなんだろうと実感するその瞬間のために、蘇りの記憶の糧となった断片たちはずっと息をひそめて待っている。

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Portraitphoto_Golden Gate Quartet
Illustration_Yanagihala Ryohei
Covers_Yoshu Mame Tengoku

2011.5.03

ゴールデン・ゲイト・カルテット(Golden Gate Quartet)=金門四重唱団」は1931年にレコードデビューした、初期ゴスペルを代表するといわれる米国のジャズコーラスグループ。白人宗教歌や黒人霊歌の面影も残しながら黒人ならではのグルーヴィーなアカペラシンギングを確立したといわれる彼らは、50〜60年代何度も来日して各地でコンサートを開いている。定かな記憶ではないが、たぶん10歳前後だったぼくは、家族に連れられて地元のコンサート会場で彼らの歌を聴いたことがある。
初めて聴いたゴスペル。間近にする異国の黒人男性たち。それはちょっとしたカルチャーショックだった。聴いたこともない音楽なのに、なぜか懐かしい。そして大きくて力強く、包み込まれるような安堵感。さまざまなジャンルのブラックミュージックを聴くたびに、なんともいえない親しみに近い感情がわきおこってくるのは、背後にいつも金門四重唱団の記憶がオーバーラップしてくるからなのだろう。
また、貧しいことが特別なことでもなかった昭和30年代、我が家には興味ひかれるようなモノはほとんどなかったが、父がどこからか入手してきたサントリー(当時は壽屋)の広報誌「洋酒天国」だけは別だった。この小さな雑誌をひそかに手にとっては眺めていると、ぼくがまだ知らない世界を少しだけ覗き見ることができるような気がしたものだった。それに「週刊プレイボーイ」などに掲載されている写真に較べたら、それはそれはかわいいお色気写真だけど、毎号水着のセミヌード・ページも挟み込まれていて、ちょっとだけ背徳感も感じながらぼくは粋な大人の世界に胸ときめかせていた。
「洋酒天国」という誌名は佐治敬三が発案したもので、創業者・鳥井信治郎の「やってみなはれ」の精神はここにもしっかりと受け継がれている。創刊人には開高健坂根進柳原良平が名を連ねる。(のちに編集部は山口瞳なども輩出している)コピーライターのさきがけとなった開高健の横断的(独断的?)編集手法。当時はまだ創世記を歩んでいた坂根進の目指したモダンデザイン。(サンアドの創設者でもある坂根さんには亡くなる数年前にお目にかかる機会があった)そしてイラストレーターの草分けでアンクルトリスの生みの親、柳原良平。この3人が伸びやかに号を重ねた洒脱なこの広報誌は、とても異彩を放っていたと思う。こんな広報誌はそれまでなかったし、宣伝色を抑えて好きことだけやるという逆説的広報手法は、今もサントリーが育んできた社風として直系デザインプロダクション「サンアド」の広告物の随所に発見することができる。それから、心ときめかされたのは「洋酒マメ天国」。姉妹本として1967年から12回に分けて刊行された豆本全集だ。創設トリオに加え、澁澤龍彦植草甚一和田誠長尾みのる秋山庄太郎なども参加してたそうだ。当時のぼくはそんなこと知るよしもないが、それでも(お金をかけたという意味でなく)贅沢に作られたものだということはすぐに分かった。何といっても雑誌イメージの要となっているカバーイラストがステキだった。「船キチ良平」と自称するほど船好きな柳原良平氏は、2000年には東海汽船の名誉船長に就任したり、好きなことして人生という海原を航海していくというなんとも贅沢な生き方を今も悠々と実践中だ。
ところでぼくは以前のブログ(2010.1.1)でこんなことを書いたことがある。
「好むと好まざるとにかかわらず、幼少期に心の奥底に感光してしまった光景は消し去ることは難しい。そして、醸成された原風景はやがてデザインを生み出すダイナモとなっていく。」
その時テーマとした松永真デザインの原風景は、戦後の日本から仰ぎ見た豊かなアメリカの姿だったが、ぼくの「金門四重唱団」や「洋酒天国」の記憶は果たしてデザインを生み出すダイナモといえる原風景なのだろうか。
そもそもぼくはどうしてデザインという職業に自分が歩み出したのか思い出すことができない。なんとしてもデザイナーになるのだと決意した瞬間の記憶もなく、気がついたらこんなことをしていたという感じなのだ。
見たこともないものが世界にはたくさんあって、それを探し出す喜びというものがある。また、人と違うことを考えたりしたりする快感や楽しさというものもある。そして、大人になっても好きなことをして生きていくのは決して不可能なことではないのだから、その気さえあれば君だってできるはずさ、とささやきかけてくる声。「金門四重唱団」や「洋酒天国」を通過しながらぼくの心に感光した幼少期の記憶を言葉にしたらこんな風になるのだろうが、それがデザインの原風景だといえる確信はない。それらは多くの少年少女たちが通過してくる、思春期の記憶の森のようなものだ。しかし歳を重ねるにしたがって、この森の記憶が自分の深部に思いのほか強く焼付けられていたことに気づくようになる。結局大人になりきっていないだけなのかもしれないが、いまだに見たこともないものを探し出し、考えてもみなかったアイデアに心躍らせ、抗いがたい美しさや明快で奥深いものに惹かれつづけている。そして実はこうした内在する断片的な欲望がデザインを吸着してきたのだということがはっきりと見えてくる。
遠く離れたスカンジナビア半島で育まれた、北方ヨーロッパの香りに懐かしさを覚えるのはなぜだろう。ユーラシア大陸を挟んで日本と対称に位置するアイルランドの民族的音楽に親しみを感じるのはなぜだろう。初めて見るはずなのに、なぜか懐かしい。気障な言い方をすれば、それらはぼくにとって「既知」を抱き込む「未知」なのだ。
三遊亭歌奴の「やまのあなあな」でもなじみ深い、上田敏訳で有名な、カール・ブッセ作「山のあなた」という詩がある。
山の彼方(あなた)の空遠く
「幸」住むと人のいふ。
噫(ああ)、われひとゝ尋(と)めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ。
直訳すれば、山の彼方には幸があり希望がある。しかしそこに幸福を求めても、結局は涙ながらに帰ってくる。幸せは実は近く足もとにあったのだという詩だが、ぼくはここに「未知」の「既知」を読み取るという誤読をあえてしたいと思う。あるいは「既知」の中にひそむ「未知」と言い替えてもよい。
故郷の山梨は四方を山々に囲まれる典型的な山国だ。太宰治は一時期暮らした甲府の町を「シルクハットを逆さにしたような」とモダンが香りたつ文学的表現をしたが、盆地を囲む稜線はもっと多様で荒々しい。西には切り立った鋭いシルエットが連なる南アルプス連峰や八ヶ岳。南から東に向かっては遠景に富士山を頂く御坂山地や大菩薩嶺の伸びやかな稜線。北には秩父まで折り重なる茅ヶ岳や金峰山の重厚な山並みが鎮座する。物心ついたときから、こうした多彩な表情を見せる稜線のシルエットが記憶のスクリーンには焼き付いている。
たとえ山が見えない土地で生まれ育ったとしても、そこにはひとり一人の山があるはずだ。暮らす人の「山の彼方」は等しく存在するはずだ。そう考えて、やっとぼくは気づかされる。ここにはぼくだけの山がある。その山の彼方(あなた)の空遠くには、探し求める「未知」の「既知」、そして「既知」の「未知」というデザインの原風景が広がっている。

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Paper work_Gaikotsu
Drawing_Takehiko Inoue
Drawing_Takashi Murakami

2011.4.02

子どもは昔からガイコツが大好きだ。そこには生い立ちとか年齢や社会的地位などがすっかりそぎ落とされた、人間の原型が象徴されていて、生まれて間もない子どもほどそれを強く直感しているから、怖がることもなくガイコツに強い興味を示すのだと思う。それにガイコツにはどことなく愛嬌を感じさせるところがある。一番上の写真は、20年ほど前に息子が作った紙細工で、先日NHKの「日曜美術館」に登場していた中川一政を見ていたら、ふとその紙細工を思い出した。もちろん中川一政の顔がガイコツに見えたわけではなくて、それはこの画家の凝縮された人間の原型を思わせる風貌と、屈託のない表情に魅力を感じたことが引き寄せた連想だった。
中川一政は1949年から亡くなる1991年まで40年以上、神奈川の真鶴にアトリエを構え、愛してやまなかったという相模湾をのぞむ漁村風景や箱根駒ケ岳、そして薔薇の花などを精力的に描き続けた洋画家だ。自身が日本一大きなアトリエと称していた、幅30メートルほどの防波堤に数十年通ってはイーゼルを立て続けたという、執拗ともいえるその情熱は一体どこから湧き出していたのだろうか。独学の末にたどり着いた自由奔放な味わい。それは絵画のみならず詩や歌、書や随筆などにも遺憾なく発揮され、突き刺さるような色彩と荒削りな筆勢にもかかわらず、どの作品にも等しく品位が漂い立つ。「美術」ではなく「生術」を希求し続けたというこの画家は、モチーフから原型を抉り取るような向き合い方を終生貫いたそうだ。
その原型に凝縮されるものが表現物であれ、風貌であれ、心に届いてくることには変わりがない。たまたま中川一政は表現者として多くの素晴らしい作品を遺した。でも、ぼくはこうした風貌をもつ日本人が実は大勢いて、今も各地で静かに素晴らしい仕事をしているのだろうと想像している。
先月の東日本大震災のあと、印象に残った新聞記事がある。漫画家の井上雄彦さんはツイッターで「スマイル」という作品を時折アップしていたが、11日以降は被災地名のはいったユニフォームを着た子どもたちやお年寄りや動物の作品を発表し、それらをポストカードのセットにして収益を義援金にすることにしたのだそうだ。新聞に数点掲載されていた絵からは(上から2〜3段目)雄弁ではないけど表現し続けてきたものだけが発することのできる視覚を介した「今の言葉」がそこから伝わってくる。ツイッターにはこう書かれていたという。
「自分のいつもの仕事をしっかりやることが大事。僕のやってることは決してそれ以上ではありません」シンプルなコメントだが、腰をすえて自分の仕事と向き合う彼の気負いのない姿勢が伝わってくる。存在が脅かされるようなこの極限状況において、果たして表現がどれほどの力をもてるのか分からないけど、謙虚にできることはしっかりとする。非情な現実を前に、確かに表現なんて無力なのかもしれない。しかし、人間が心を生きていく寄す処とする限り、表現はその心に届くかけがえのない通路の1本となるはずだ。
この記事と向き合うように現代美術家の村上隆さんの作品も紹介されていた。涙し、そして叫ぶ2枚の自画像。( 最下段)ツイッターで震災復興応援画像の投稿を呼びかけたりするのも、戦略家の彼らしい行動。そしてコメントは「何か希望の光を芸術の力でともすことは出来ぬか、と沸き上がる思いがある」。発言は時に残酷なほどにその実像を炙り出してしまう。芸術としか名づけようにないものを生み出す人は、決して「芸術の力」などという抽象的な表現はしないものだ、とぼくは思う。
突然ふりかかる天災、そしてそれに連鎖する人災。犠牲者や被災者の方たちにはほんとうに言葉もない。安全な地域に建つ家の中から、なにか言うことなんてとてもできないし、当面できることといえば義援金を送ることくらいしか思い浮かばない。連日流されてくる被災地の映像。ぼくらの胸を打つのは、この困難の中にあって、あまたの嘆きや苦痛を心に納め、過酷な試練に黙々と立ち向かう被災地の人々の姿である。今必要なのは同情や激励でなく、ともに悲しみ、心に寄り添う姿勢なのだろう。露呈したほころびへの腹立ちをひとまず封印して、社会的な影響力のある人たちはもとより、日を追ってごく普通の人々も何か自分にできることはないものかと考えはじめているように感じられる。こうした自然発生的な気持ちのうねりは実にピュアーなものだと思う。
ところで、あの3月11日を境に、この国を覆うトーンが少し変化してきた。直後から2日間ほどはTVからCMがまったく消えてしまったが、初めて目の当たりにする現実は、いま日本が直面している状況はこういうことなんだと説得力をもって迫ってきた。やがて恐る恐る再開されたCM。そしてそれを覆い隠すようにACのCMが民放各局で、新たな津波のように溢れ出す。どんなに良識的な内容でも繰り返し同じものを見せつけられると、次第にそれは苦痛となってくる。これはもはや生理的な反応といってよい。なぜ各局の責任者たちはそのことに思い至らすことができないのだろう。想像するという人間の基本的な能力が欠如しているとしか思えない。また、メディアにあふれる発言や報道姿勢もAC的なトーン1色に塗りつぶされていくような不気味さが感じられ、何とも居心地悪い気持ちになってくる。繰り返すが、ぼくは沸き起こる善意のうねりの大半は純粋なものだと思う。しかし、多様な考え方を受け入れる度量も必要だ。それが健全な社会というものだろう。この蔓延するフラットなトーンの奥に蠢くものの正体は一体何だろう。
TVにはこんな報道もあった。東京の若者が節電を呼びかけるチラシデザインをネット募集し、たくさん集まった作品をプリントして商店街に繰り出し、手渡ししながら節電を呼びかけているというものだった。善意からスタートした若者らしい邪気のない行動で一見とても健全にみえるが、デザイナーでもあるぼくは、スタイルとしてのエコ運動と同じようにまったく共感できない。被災地のリアリティとの何という落差。ちょっとバイアスがかった意地悪な例かもしれないが、村上春樹の小説「海辺のカフカ」のある一節を思い出した。
カラスと呼ばれる主人公の少年はわけあって高松のある私設図書館に身を寄せる。管理を任されている大島という青年が、ある日現れた二人連れの女性に対して語った言葉だ。二人は、女性としての立場から全国の文化公共施設の設備を点検・レポート・公表している組織の担当スタッフで、女性的見地からこの図書館の設備の不備を厳しく指摘するのだが、大島青年はまったく動じることなくこの二人を追い返してしまう。ちなみに大島青年は意識こそ男性だが、身体的には女性なのである。彼(彼女?)はカラスにこう言うのだ。
「僕はごらんのとおりの人間だから、これまでいろんなところで、いろんな意味で差別を受けてきた。差別されることがどういうことなのか、それがどのくらい深く人を傷つけるのか、それは差別された人間にしかわからない。痛みというのは個別的なもので、そのあとには個別的な傷口が残る。だから公平さや公正さを求めるという点では、僕だって誰にもひけをとらないと思う。ただね、僕がそれよりも更にうんざりさせられるのは、想像力を欠いた人々だ。T・S・エリオットの言う〈うつろな人間たち〉だ。その想像力の欠如した部分を、無感覚な藁くずで埋めて塞いでいるくせに、自分ではそのことに気づかないで表を歩きまわっている人間だ。つまり早い話、さっきの二人組のような人間のことだよ。…中略… 想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。僕はそういうものを心から恐れ憎む。なにが正しいか正しくないか — もちろんそれもとても重要な問題だ。しかしそのような個別的な判断の過ちは、多くの場合、あとになって訂正できなくはない。過ちを進んで認める勇気さえあれば、だいたいの場合取りかえしはつく。しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこに救いはない。」(新潮社刊『海辺のカフカ(上)』312〜314p)
ここには悩ましい「私」と「公共」の問題も含まれている。震災後の新聞紙上の発言で思想家、吉本隆明さんが、この切実なときに私事と公、どちらを選ぶべきか、という問題について語っていた。レーニンとスターリンの対立を例にとり、真理に近いのはどっちだと問われたら、比較や善悪の問題でなく人間の問題として「私」をとるレーニンの立場を選ばざるを得ないと語っている。そして、日本にもこれと似た問題提起をした人物がいると、親鸞の思想を取り上げ次のように語っている。
「親鸞は「人間には往(い)きと還(かえ)りがある」と言っています。「往き」の時には、道ばたに病気や貧乏で困っている人がいても、自分のなすべきことをするために歩みを進めればいい。しかしそれを終えて帰ってくる「還り」には、どんな種類の問題でも、すべて包括して処理して生きるべきだと。悪でも何でも、全部含めて救済するために頑張るんだと。この考えにはあいまいさがありません。かわいそうだから助ける、あれは違うから助けない、といったことでなく「還り」は全部、助ける。しきりがはっきりしているのが親鸞の考え方です。」(朝日新聞、3月20日、11面「on reading」)
「往き」を全うするかのように、凝縮して生きた人の風貌は人間の原型に近づいていく。そして、その拓いた通路は太く固く人々の心へと結ばれている。
はたして「還り」は「往き」の折り返しなのだろうか。それとも「往き」と「還り」は交差しているのか、あるいは並走しているのか。いや、「還り」を実現するための「往き」であるのかもしれない。危機と試練に直面するこの浮き足だった日本で、ぼくはうろうろと親鸞の思想のまわりを逡巡している。

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FUSE_cover : Neville Brody
RAY GUN_cover : David Carson
RAY GUN_spread
RAY GUN_spread
EMIGRE_cover : Emigre

2011.3.02

ロンドンのネビル・ブロディ(Neville Brody )とカリフォルニアのデビッド・カーソン(David Carson)は80後半から90年代にかけてもっとも世界的に有名になったグラフィックデザイナーといえるだろう。作風の異なるこの二人に共通していたのは、デザインの重要なサブセットであるタイポグラフィと果敢に向き合い、鋭く時代に問いかける仕事を残したことだった。
文字そのものの誕生は紀元前2500年頃、メソポタミア地方のシュメール人がつくりだした楔形文字(くさびがたもじ、せっけいもじ)がその起源といわれる。複製の道具としてのタイポグラフィは活版印刷とともに誕生したが、それは印刷だけに限定されたものではない。石彫、木活字、鋳造活字とさまざまな素材を介して発展を重ね、90年代におけるデジタルフォントの誕生以降、物質素材から解き放たれたタイポグラフィは0と1とに分解され、電子媒体にフォントデータとして格納されるという劇的な変貌を遂げることになった。さらにタイポグラフィ概念の拡張に伴い、レタリングやカリグラフィ、そして書など、本来タイポグラフィの周縁に位置付けられていたものまでも呑み込んできた。
世界には固有の言語に比例して夥しい固有の文字が存在するが、現代の地球を覆い尽くすタイポグラフィのメインストリームはやはりアルファベットである。アルファベットは紀元前800年頃、フェニキア人がつくった22文字の子音からなるフェニキア文字をベースとしている。その後シナイ文字からギリシア文字へと変遷を重ね、たった26文字のローマ字が生まれた。我が国には中国から伝播した漢字に加え、ひらがなやカタカナもある。そして今やこのアルファベットも、日本語の一部といってもよいほど深くぼくらの生活に根を張っている。こうしてみると日本におけるタイポグラフィの有り様は、世界の中でも相当に特殊なものだといえるだろう。そんなぼくら日本人が、デザインを通じてアルファベットのタイポグラフィと向き合おうとすると否応なく歴史的・文化的背景の違いに直面せざるを得ない。
ひっくり返して考えてみよう。「ひらがな」は漢字の草体を起点として主に女性が用いていたといわれるが、もし、ぼくらの言語がアルファベットと同じくらいシンプルな構造をしているこの50字足らずの「ひらがな」しか持っていなかったとしたらどうだろう。何世紀にもわたってずっと「ひらがな」だけで考え、読み、語ってきた民族が「ひらがな」だけでデザインをする。単純な構成要素は次第にソフィスティケートされ、あるいは分解され、長い時間を経て思いつく限りの夥しい意匠が生み出される。やがて、最早やり尽くされてしまったのではないかという絶望感に襲われてしまったとしても不思議ではない。20世紀前半にヨーロッパに興ったモダニズム運動を、重厚な歴史・文化に対する閉塞感が生み出したリアクションだったと考えると、極東のぼくらがその運動の本質を等身大で実感することはなかなか難しい。それと似た歯がゆさを、ブロディやカーソンの仕事を見る度にぼくは感じていた。
ネビル・ブロディはMacintoshでデザインする第一世代として、ニューウエイブ・ミュージックと呼応するように80年代半ば、タイポグラフィ専門誌「Fuse」(表紙:写真最上段)のアートディレクションでデザインシーンにデビューした。彼のデザインに、ロシアアバンギャルドエミル・ルーダー(Emil Ruder)などを輩出したスイス・スタイル(International Typographic Style)の残香が漂うのは、ロンドン・カレッジ・オブ・プリンティング(LCP)卒という経歴故か。加えて、写真とタイポグラフィを大胆に対比させる手法などには、同じ頃ニューヨークで活躍していたファッション系アートディレクター、ファビアン・バロン(Fabien Baron)の力業にも通じるものがある。その後、バロンのデザインは世界中のファッション&カルチャー雑誌を中心に多くのフォロワーを生み出したが、日本では音楽雑誌「Cut」の中島英樹などのデザインにバロンの深い波動が感じられる。ともあれブロディは、ヨーロッパ人らしいお行儀の良さもわずかに残しつつ、タイポグラフィを重層的に溶解して新しいグラフィックの可能性をぼくらに見せてくれた。20年も経つとなにやら妙に懐かしさも感じるが、Macintoshという新しい道具を手に入れた若者の嬉々とした高揚感がそのデザインから伝わってくる。
さて、片や西海岸のカーソンはさらに破天荒でパワフル。テキサス生まれのカーソンは、社会学の学士号を取得して高校で教師をしたり、世界ランキングにも入るサーファーとして活躍したこともある異色の経歴をもつ。1992年に創刊された「Ray Gun」誌(表紙:写真二段目。下が本文見開きページ)のアートディレクションで一躍注目を浴びた。カーソンのデザインにはタイポグラフィ、写真、そしてさまざまなサブカルチャーのエッセンスイメージが切り刻まれ、再構築されている。「彼はやりすぎた」と批判されるほど、タイポグラフィを過激に解体化してみせた。無国籍な夥しいタイプフェイスは砕け散った波の飛沫のようにノイジーで奔放なグラフィックとして放り出されている。「Ray Gun」に掲載された、本文を読むことのできない暗号化された文字で組んだブライアン・フェリーのインタビュー・ページ(下から二段目の見開きページ)などはその極地といえよう。過去にカーソン本人とロビーですれ違ったことがある。背丈はぼくと同じくらい。白人男性としてはかなり小柄な方だ。ただ身のこなしはサーファーらしく俊敏そうだった。カーソンのグラフィックは、一貫してぼくにとっては異国に住まう異人の仕事であったが、委細構わずがむしゃらに突き進むその邁進力には理屈抜きに恐れ入ってしまう。
また、90年代タイポグラフィ・ブームの一翼を担った、同じ西海岸はバークレーのデザイン集団「エミグレ(Emigre)」によるデザインもカーソンと密接にリンクしている。フランス革命期に外国に亡命した貴族らのことを示すエミグレ (Émigré)はその名の通り、オランダやチェコからの移民たちによって設立され、オリジナル・タイプフェイスの販売や論文などの発表活動、そして実験性の高い雑誌「Emigre」(表紙:写真最下段)の発行も重ねていた。カーソンとコラボレートしたり同時代的に両者はベクトルを重ねながらも、エミグレの仕事はカーソンほどの過激さは感じさせない。初期に発売された「Matrix Script」シリーズや「Triplex」といったフォントはぼくもずいぶん愛用した。当時買い集めた「Emigre」は今見ても実験精神にあふれていて見飽きることがない。生真面目に可読性、視認性を追求してきた西欧生まれのそれまでのタイプフェイスに較べると、むしろ誘目性に特化したといわれるエミグレ書体は、人なつっこくてキュートな魅力にあふれている。
さて、デザイナーとしてアルファベットのタイポグラフィとどのようにかかわっていくのか。この問いかけはぼくにとって長年の課題だったが、いまだに解きほぐされることなく漂い続けている。定期購読しているデザイン雑誌「+81」の最新号「Inspirational Typography issue」には、世界中の先鋭的タイポグラフィの現在形がピックアップされている。まさに百花繚乱。デジタル技術を駆使した思いつく限りの試みがストックされている。しかしいくらバリエーションが分厚く集積しても基本的なタイポグラフィの構造は何一つ変わらないし、それは結局リフレインに過ぎない。新鮮な空気は次第に失われていく。するとどこからかブロディやカーソンのような人物が現れては、デザインの世界に裂け目を入れ、ぼくらは酸欠状態から少しだけ息を吹き返す。この繰り返しがタイポグラフィの歴史でもあったような気がする。
ずいぶん昔の話になるが、複数の字体が混在する不思議な日本のグラフィックデザインという観点から特集が組まれ、ドイツのあるデザイン雑誌からぼくは取材を受けたことがある。その頃、書き間違えてしまったり、鏡文字になった漢字やカタカナをTシャツなどにデザインしたりするのがヨーロッパで流行していた。しかしぼくらは、その若いデザイナーたちのエスケープへの試みを笑うことなどできないだろう。彼らは過去のぼくらでもあったのだから。当時、そのドイツ人編集者からみた日本の状況は一種のカオスとして映っていたようだ。「Magic」は「マジック」であり、「魔法」や「まじっく」、「majikku」でもある。そして実は「Magic」も、異国のアルファベット、日本語化したアルファベット、共通語としてのアルファベットと重層化している。さまざまなアルファベットがぼくらの中に存在している。物心ついたときからすでに身近にあったぼくらのアルファベット。
今の気分としてはこの重層化したアルファベットを、漢字やひらがな、カタカナと並置しておく感覚が一番自然な向き合い方ではないかとも思う。ブロディやカーソンのように背後からの重圧を感じることもなく、かといって異国様式の表層と戯れる軽薄さとも距離を置く。そして、ドグマやトレンドの枝道に迷い込まないよう注意をはらいながらすべてを均等に並置しておくこと。この自然体が好ましいと考えている。
分厚い西欧文明のリアクションとして誕生したモダンも突然出現した異国の文化運動だったと捉えるのではなく、実はそのモダンの仲間たちはずっと昔からぼくらとともにあったものだったと認識すると、様相はきっと変わってくるはず。伊勢神宮や桂離宮のシンプリシティは、江戸文化という先取りされたポストモダンによってろ過されてきた。そして近代主義という回り道はあったものの、DNAに静かに沈殿しながら不変のOS(オペレーティングシステム)として機能し続けていた古層の記憶は、ろ過されたシンプリシティとブレンドされて新しい子どもたちに託される。もはや西でも東でも北でも南でもない未来を拓く可能性は、原宿や渋谷に生息する奔放なギャルの感性の深部にすでに兆(きざ)しているのかもしれない。