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Paper work_Gaikotsu
Drawing_Takehiko Inoue
Drawing_Takashi Murakami

2011.4.02

子どもは昔からガイコツが大好きだ。そこには生い立ちとか年齢や社会的地位などがすっかりそぎ落とされた、人間の原型が象徴されていて、生まれて間もない子どもほどそれを強く直感しているから、怖がることもなくガイコツに強い興味を示すのだと思う。それにガイコツにはどことなく愛嬌を感じさせるところがある。一番上の写真は、20年ほど前に息子が作った紙細工で、先日NHKの「日曜美術館」に登場していた中川一政を見ていたら、ふとその紙細工を思い出した。もちろん中川一政の顔がガイコツに見えたわけではなくて、それはこの画家の凝縮された人間の原型を思わせる風貌と、屈託のない表情に魅力を感じたことが引き寄せた連想だった。
中川一政は1949年から亡くなる1991年まで40年以上、神奈川の真鶴にアトリエを構え、愛してやまなかったという相模湾をのぞむ漁村風景や箱根駒ケ岳、そして薔薇の花などを精力的に描き続けた洋画家だ。自身が日本一大きなアトリエと称していた、幅30メートルほどの防波堤に数十年通ってはイーゼルを立て続けたという、執拗ともいえるその情熱は一体どこから湧き出していたのだろうか。独学の末にたどり着いた自由奔放な味わい。それは絵画のみならず詩や歌、書や随筆などにも遺憾なく発揮され、突き刺さるような色彩と荒削りな筆勢にもかかわらず、どの作品にも等しく品位が漂い立つ。「美術」ではなく「生術」を希求し続けたというこの画家は、モチーフから原型を抉り取るような向き合い方を終生貫いたそうだ。
その原型に凝縮されるものが表現物であれ、風貌であれ、心に届いてくることには変わりがない。たまたま中川一政は表現者として多くの素晴らしい作品を遺した。でも、ぼくはこうした風貌をもつ日本人が実は大勢いて、今も各地で静かに素晴らしい仕事をしているのだろうと想像している。
先月の東日本大震災のあと、印象に残った新聞記事がある。漫画家の井上雄彦さんはツイッターで「スマイル」という作品を時折アップしていたが、11日以降は被災地名のはいったユニフォームを着た子どもたちやお年寄りや動物の作品を発表し、それらをポストカードのセットにして収益を義援金にすることにしたのだそうだ。新聞に数点掲載されていた絵からは(上から2〜3段目)雄弁ではないけど表現し続けてきたものだけが発することのできる視覚を介した「今の言葉」がそこから伝わってくる。ツイッターにはこう書かれていたという。
「自分のいつもの仕事をしっかりやることが大事。僕のやってることは決してそれ以上ではありません」シンプルなコメントだが、腰をすえて自分の仕事と向き合う彼の気負いのない姿勢が伝わってくる。存在が脅かされるようなこの極限状況において、果たして表現がどれほどの力をもてるのか分からないけど、謙虚にできることはしっかりとする。非情な現実を前に、確かに表現なんて無力なのかもしれない。しかし、人間が心を生きていく寄す処とする限り、表現はその心に届くかけがえのない通路の1本となるはずだ。
この記事と向き合うように現代美術家の村上隆さんの作品も紹介されていた。涙し、そして叫ぶ2枚の自画像。( 最下段)ツイッターで震災復興応援画像の投稿を呼びかけたりするのも、戦略家の彼らしい行動。そしてコメントは「何か希望の光を芸術の力でともすことは出来ぬか、と沸き上がる思いがある」。発言は時に残酷なほどにその実像を炙り出してしまう。芸術としか名づけようにないものを生み出す人は、決して「芸術の力」などという抽象的な表現はしないものだ、とぼくは思う。
突然ふりかかる天災、そしてそれに連鎖する人災。犠牲者や被災者の方たちにはほんとうに言葉もない。安全な地域に建つ家の中から、なにか言うことなんてとてもできないし、当面できることといえば義援金を送ることくらいしか思い浮かばない。連日流されてくる被災地の映像。ぼくらの胸を打つのは、この困難の中にあって、あまたの嘆きや苦痛を心に納め、過酷な試練に黙々と立ち向かう被災地の人々の姿である。今必要なのは同情や激励でなく、ともに悲しみ、心に寄り添う姿勢なのだろう。露呈したほころびへの腹立ちをひとまず封印して、社会的な影響力のある人たちはもとより、日を追ってごく普通の人々も何か自分にできることはないものかと考えはじめているように感じられる。こうした自然発生的な気持ちのうねりは実にピュアーなものだと思う。
ところで、あの3月11日を境に、この国を覆うトーンが少し変化してきた。直後から2日間ほどはTVからCMがまったく消えてしまったが、初めて目の当たりにする現実は、いま日本が直面している状況はこういうことなんだと説得力をもって迫ってきた。やがて恐る恐る再開されたCM。そしてそれを覆い隠すようにACのCMが民放各局で、新たな津波のように溢れ出す。どんなに良識的な内容でも繰り返し同じものを見せつけられると、次第にそれは苦痛となってくる。これはもはや生理的な反応といってよい。なぜ各局の責任者たちはそのことに思い至らすことができないのだろう。想像するという人間の基本的な能力が欠如しているとしか思えない。また、メディアにあふれる発言や報道姿勢もAC的なトーン1色に塗りつぶされていくような不気味さが感じられ、何とも居心地悪い気持ちになってくる。繰り返すが、ぼくは沸き起こる善意のうねりの大半は純粋なものだと思う。しかし、多様な考え方を受け入れる度量も必要だ。それが健全な社会というものだろう。この蔓延するフラットなトーンの奥に蠢くものの正体は一体何だろう。
TVにはこんな報道もあった。東京の若者が節電を呼びかけるチラシデザインをネット募集し、たくさん集まった作品をプリントして商店街に繰り出し、手渡ししながら節電を呼びかけているというものだった。善意からスタートした若者らしい邪気のない行動で一見とても健全にみえるが、デザイナーでもあるぼくは、スタイルとしてのエコ運動と同じようにまったく共感できない。被災地のリアリティとの何という落差。ちょっとバイアスがかった意地悪な例かもしれないが、村上春樹の小説「海辺のカフカ」のある一節を思い出した。
カラスと呼ばれる主人公の少年はわけあって高松のある私設図書館に身を寄せる。管理を任されている大島という青年が、ある日現れた二人連れの女性に対して語った言葉だ。二人は、女性としての立場から全国の文化公共施設の設備を点検・レポート・公表している組織の担当スタッフで、女性的見地からこの図書館の設備の不備を厳しく指摘するのだが、大島青年はまったく動じることなくこの二人を追い返してしまう。ちなみに大島青年は意識こそ男性だが、身体的には女性なのである。彼(彼女?)はカラスにこう言うのだ。
「僕はごらんのとおりの人間だから、これまでいろんなところで、いろんな意味で差別を受けてきた。差別されることがどういうことなのか、それがどのくらい深く人を傷つけるのか、それは差別された人間にしかわからない。痛みというのは個別的なもので、そのあとには個別的な傷口が残る。だから公平さや公正さを求めるという点では、僕だって誰にもひけをとらないと思う。ただね、僕がそれよりも更にうんざりさせられるのは、想像力を欠いた人々だ。T・S・エリオットの言う〈うつろな人間たち〉だ。その想像力の欠如した部分を、無感覚な藁くずで埋めて塞いでいるくせに、自分ではそのことに気づかないで表を歩きまわっている人間だ。つまり早い話、さっきの二人組のような人間のことだよ。…中略… 想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。僕はそういうものを心から恐れ憎む。なにが正しいか正しくないか — もちろんそれもとても重要な問題だ。しかしそのような個別的な判断の過ちは、多くの場合、あとになって訂正できなくはない。過ちを進んで認める勇気さえあれば、だいたいの場合取りかえしはつく。しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこに救いはない。」(新潮社刊『海辺のカフカ(上)』312〜314p)
ここには悩ましい「私」と「公共」の問題も含まれている。震災後の新聞紙上の発言で思想家、吉本隆明さんが、この切実なときに私事と公、どちらを選ぶべきか、という問題について語っていた。レーニンとスターリンの対立を例にとり、真理に近いのはどっちだと問われたら、比較や善悪の問題でなく人間の問題として「私」をとるレーニンの立場を選ばざるを得ないと語っている。そして、日本にもこれと似た問題提起をした人物がいると、親鸞の思想を取り上げ次のように語っている。
「親鸞は「人間には往(い)きと還(かえ)りがある」と言っています。「往き」の時には、道ばたに病気や貧乏で困っている人がいても、自分のなすべきことをするために歩みを進めればいい。しかしそれを終えて帰ってくる「還り」には、どんな種類の問題でも、すべて包括して処理して生きるべきだと。悪でも何でも、全部含めて救済するために頑張るんだと。この考えにはあいまいさがありません。かわいそうだから助ける、あれは違うから助けない、といったことでなく「還り」は全部、助ける。しきりがはっきりしているのが親鸞の考え方です。」(朝日新聞、3月20日、11面「on reading」)
「往き」を全うするかのように、凝縮して生きた人の風貌は人間の原型に近づいていく。そして、その拓いた通路は太く固く人々の心へと結ばれている。
はたして「還り」は「往き」の折り返しなのだろうか。それとも「往き」と「還り」は交差しているのか、あるいは並走しているのか。いや、「還り」を実現するための「往き」であるのかもしれない。危機と試練に直面するこの浮き足だった日本で、ぼくはうろうろと親鸞の思想のまわりを逡巡している。

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FUSE_cover : Neville Brody
RAY GUN_cover : David Carson
RAY GUN_spread
RAY GUN_spread
EMIGRE_cover : Emigre

2011.3.02

ロンドンのネビル・ブロディ(Neville Brody )とカリフォルニアのデビッド・カーソン(David Carson)は80後半から90年代にかけてもっとも世界的に有名になったグラフィックデザイナーといえるだろう。作風の異なるこの二人に共通していたのは、デザインの重要なサブセットであるタイポグラフィと果敢に向き合い、鋭く時代に問いかける仕事を残したことだった。
文字そのものの誕生は紀元前2500年頃、メソポタミア地方のシュメール人がつくりだした楔形文字(くさびがたもじ、せっけいもじ)がその起源といわれる。複製の道具としてのタイポグラフィは活版印刷とともに誕生したが、それは印刷だけに限定されたものではない。石彫、木活字、鋳造活字とさまざまな素材を介して発展を重ね、90年代におけるデジタルフォントの誕生以降、物質素材から解き放たれたタイポグラフィは0と1とに分解され、電子媒体にフォントデータとして格納されるという劇的な変貌を遂げることになった。さらにタイポグラフィ概念の拡張に伴い、レタリングやカリグラフィ、そして書など、本来タイポグラフィの周縁に位置付けられていたものまでも呑み込んできた。
世界には固有の言語に比例して夥しい固有の文字が存在するが、現代の地球を覆い尽くすタイポグラフィのメインストリームはやはりアルファベットである。アルファベットは紀元前800年頃、フェニキア人がつくった22文字の子音からなるフェニキア文字をベースとしている。その後シナイ文字からギリシア文字へと変遷を重ね、たった26文字のローマ字が生まれた。我が国には中国から伝播した漢字に加え、ひらがなやカタカナもある。そして今やこのアルファベットも、日本語の一部といってもよいほど深くぼくらの生活に根を張っている。こうしてみると日本におけるタイポグラフィの有り様は、世界の中でも相当に特殊なものだといえるだろう。そんなぼくら日本人が、デザインを通じてアルファベットのタイポグラフィと向き合おうとすると否応なく歴史的・文化的背景の違いに直面せざるを得ない。
ひっくり返して考えてみよう。「ひらがな」は漢字の草体を起点として主に女性が用いていたといわれるが、もし、ぼくらの言語がアルファベットと同じくらいシンプルな構造をしているこの50字足らずの「ひらがな」しか持っていなかったとしたらどうだろう。何世紀にもわたってずっと「ひらがな」だけで考え、読み、語ってきた民族が「ひらがな」だけでデザインをする。単純な構成要素は次第にソフィスティケートされ、あるいは分解され、長い時間を経て思いつく限りの夥しい意匠が生み出される。やがて、最早やり尽くされてしまったのではないかという絶望感に襲われてしまったとしても不思議ではない。20世紀前半にヨーロッパに興ったモダニズム運動を、重厚な歴史・文化に対する閉塞感が生み出したリアクションだったと考えると、極東のぼくらがその運動の本質を等身大で実感することはなかなか難しい。それと似た歯がゆさを、ブロディやカーソンの仕事を見る度にぼくは感じていた。
ネビル・ブロディはMacintoshでデザインする第一世代として、ニューウエイブ・ミュージックと呼応するように80年代半ば、タイポグラフィ専門誌「Fuse」(表紙:写真最上段)のアートディレクションでデザインシーンにデビューした。彼のデザインに、ロシアアバンギャルドエミル・ルーダー(Emil Ruder)などを輩出したスイス・スタイル(International Typographic Style)の残香が漂うのは、ロンドン・カレッジ・オブ・プリンティング(LCP)卒という経歴故か。加えて、写真とタイポグラフィを大胆に対比させる手法などには、同じ頃ニューヨークで活躍していたファッション系アートディレクター、ファビアン・バロン(Fabien Baron)の力業にも通じるものがある。その後、バロンのデザインは世界中のファッション&カルチャー雑誌を中心に多くのフォロワーを生み出したが、日本では音楽雑誌「Cut」の中島英樹などのデザインにバロンの深い波動が感じられる。ともあれブロディは、ヨーロッパ人らしいお行儀の良さもわずかに残しつつ、タイポグラフィを重層的に溶解して新しいグラフィックの可能性をぼくらに見せてくれた。20年も経つとなにやら妙に懐かしさも感じるが、Macintoshという新しい道具を手に入れた若者の嬉々とした高揚感がそのデザインから伝わってくる。
さて、片や西海岸のカーソンはさらに破天荒でパワフル。テキサス生まれのカーソンは、社会学の学士号を取得して高校で教師をしたり、世界ランキングにも入るサーファーとして活躍したこともある異色の経歴をもつ。1992年に創刊された「Ray Gun」誌(表紙:写真二段目。下が本文見開きページ)のアートディレクションで一躍注目を浴びた。カーソンのデザインにはタイポグラフィ、写真、そしてさまざまなサブカルチャーのエッセンスイメージが切り刻まれ、再構築されている。「彼はやりすぎた」と批判されるほど、タイポグラフィを過激に解体化してみせた。無国籍な夥しいタイプフェイスは砕け散った波の飛沫のようにノイジーで奔放なグラフィックとして放り出されている。「Ray Gun」に掲載された、本文を読むことのできない暗号化された文字で組んだブライアン・フェリーのインタビュー・ページ(下から二段目の見開きページ)などはその極地といえよう。過去にカーソン本人とロビーですれ違ったことがある。背丈はぼくと同じくらい。白人男性としてはかなり小柄な方だ。ただ身のこなしはサーファーらしく俊敏そうだった。カーソンのグラフィックは、一貫してぼくにとっては異国に住まう異人の仕事であったが、委細構わずがむしゃらに突き進むその邁進力には理屈抜きに恐れ入ってしまう。
また、90年代タイポグラフィ・ブームの一翼を担った、同じ西海岸はバークレーのデザイン集団「エミグレ(Emigre)」によるデザインもカーソンと密接にリンクしている。フランス革命期に外国に亡命した貴族らのことを示すエミグレ (Émigré)はその名の通り、オランダやチェコからの移民たちによって設立され、オリジナル・タイプフェイスの販売や論文などの発表活動、そして実験性の高い雑誌「Emigre」(表紙:写真最下段)の発行も重ねていた。カーソンとコラボレートしたり同時代的に両者はベクトルを重ねながらも、エミグレの仕事はカーソンほどの過激さは感じさせない。初期に発売された「Matrix Script」シリーズや「Triplex」といったフォントはぼくもずいぶん愛用した。当時買い集めた「Emigre」は今見ても実験精神にあふれていて見飽きることがない。生真面目に可読性、視認性を追求してきた西欧生まれのそれまでのタイプフェイスに較べると、むしろ誘目性に特化したといわれるエミグレ書体は、人なつっこくてキュートな魅力にあふれている。
さて、デザイナーとしてアルファベットのタイポグラフィとどのようにかかわっていくのか。この問いかけはぼくにとって長年の課題だったが、いまだに解きほぐされることなく漂い続けている。定期購読しているデザイン雑誌「+81」の最新号「Inspirational Typography issue」には、世界中の先鋭的タイポグラフィの現在形がピックアップされている。まさに百花繚乱。デジタル技術を駆使した思いつく限りの試みがストックされている。しかしいくらバリエーションが分厚く集積しても基本的なタイポグラフィの構造は何一つ変わらないし、それは結局リフレインに過ぎない。新鮮な空気は次第に失われていく。するとどこからかブロディやカーソンのような人物が現れては、デザインの世界に裂け目を入れ、ぼくらは酸欠状態から少しだけ息を吹き返す。この繰り返しがタイポグラフィの歴史でもあったような気がする。
ずいぶん昔の話になるが、複数の字体が混在する不思議な日本のグラフィックデザインという観点から特集が組まれ、ドイツのあるデザイン雑誌からぼくは取材を受けたことがある。その頃、書き間違えてしまったり、鏡文字になった漢字やカタカナをTシャツなどにデザインしたりするのがヨーロッパで流行していた。しかしぼくらは、その若いデザイナーたちのエスケープへの試みを笑うことなどできないだろう。彼らは過去のぼくらでもあったのだから。当時、そのドイツ人編集者からみた日本の状況は一種のカオスとして映っていたようだ。「Magic」は「マジック」であり、「魔法」や「まじっく」、「majikku」でもある。そして実は「Magic」も、異国のアルファベット、日本語化したアルファベット、共通語としてのアルファベットと重層化している。さまざまなアルファベットがぼくらの中に存在している。物心ついたときからすでに身近にあったぼくらのアルファベット。
今の気分としてはこの重層化したアルファベットを、漢字やひらがな、カタカナと並置しておく感覚が一番自然な向き合い方ではないかとも思う。ブロディやカーソンのように背後からの重圧を感じることもなく、かといって異国様式の表層と戯れる軽薄さとも距離を置く。そして、ドグマやトレンドの枝道に迷い込まないよう注意をはらいながらすべてを均等に並置しておくこと。この自然体が好ましいと考えている。
分厚い西欧文明のリアクションとして誕生したモダンも突然出現した異国の文化運動だったと捉えるのではなく、実はそのモダンの仲間たちはずっと昔からぼくらとともにあったものだったと認識すると、様相はきっと変わってくるはず。伊勢神宮や桂離宮のシンプリシティは、江戸文化という先取りされたポストモダンによってろ過されてきた。そして近代主義という回り道はあったものの、DNAに静かに沈殿しながら不変のOS(オペレーティングシステム)として機能し続けていた古層の記憶は、ろ過されたシンプリシティとブレンドされて新しい子どもたちに託される。もはや西でも東でも北でも南でもない未来を拓く可能性は、原宿や渋谷に生息する奔放なギャルの感性の深部にすでに兆(きざ)しているのかもしれない。

Image by PhotoDisc
Retro Americana 3

2011.2.02

障害(Impairment)は「障碍」「障礙」とも書き、「ものごとの達成や進行のさまたげとなること」と解説される。また、仏教用語の「障礙」(しょうげ)は「悟りの妨げになるもの」を指している。いずれにしても、常道からはずれてしまい、社会生活に支障をきたす人格や状態のことを障害と呼ぶらしい。近視や老眼といった視覚障害には眼鏡、聴覚障害には補聴器が用いられるが、精神的な障害は何をよすがとしたらよいのだろう。心と体のバランスは本当に複雑で難しい。時には心が身体より先走ってしまったり、逆に立ち止まってしまったりもする。このバランスを一定に保つことが重要なポイントであることは間違いないが、解明されていないことの方が圧倒的に多い。
人間のストレス反応は、一定に保たれているバランスを崩れた状態から回復させようとする際に生じる反応のことだ。Wikipediaによれば、ストレスは適度な量だけ存在しなければ本来的に有する適応性が失われてしまう。つまり、人間には適切なストレスも必要であると指摘している。
近代の個人主義は高度な知性と自己統制を必要とする。そして、競争原理があらかじめ組み込まれている資本主義。これらどちらも心の栄養素となってはくれないことが明白となったいま、まったく障害なんて無縁だと言い切れる人間が果たしているのだろうか。さまたげとなるモノやコトは世の中に無数に溢れている。いや、本来人間とは大小様々な夥しい障害を背負った生き物であるという言葉もある。事実、午後のファミレスや長距離電車の車中などで喧しく聞こえてくるご婦人方の会話などには、気が狂っているとしか思えないことも少なくない。(失礼!)人の話などほとんど聞いていないし、一方的に噴き出してくるハイテンションな感情表現はなかなか理解し難い。しかし当人たちは常道のど真ん中を歩んでいると認識している節もあるものだから、つくづく人間というものは不可解な生き物だと思う。
注意欠陥や多動性障害の総称として「ADHD」という言葉がある。エジソンやレオナルド・ダ・ヴィンチ、アインシュタイン、トム・クルーズ、パリス・ヒルトン、マイケル・ジョーダン、マイケル・フェルプス、そしてビル・クリントンなどがADHDの有名人として知られるが、平均的な人間よりも、高い能力が目立つケースも珍しくない。しかしそれが何だという人もいる。さまざまな障害に苦しむ人にとっては、そんな事例は自分にとって何の慰めにもならないと。
村上春樹、河合隼雄に会いにいく」という、人気作家と人気心理学者の対談集がある。実はこの取材を通じて、村上春樹はカウンセリングを受けていたのではないかとぼくは密かに考えている。なぜなら彼の描く世界は一貫して精神の闇の領域が主題のひとつとなっていたし、この主題を際だたせるリアリティは実体験に基づいていなければ表現しきれないだろうとずっと感じていた。
このように、ぼくが障害について長々と書くのにはそれなりの理由がある。実はぼくも障害としかいいようのない悩みを複数抱えてきたからである。自分に社会性が欠如していることは幼児期から薄々感じていたが、長じて、発言と本意とのギャップが人づきあいの中で顕わになるたびに落ち込んでしまうことが度々あった。どうしてあんな言い方をしてしまったのか…、なぜ肝心なあのことを伝えられなかったのか…、集団に身を置いたあとにはきまって反省ばかりがよみがえってくる。もちろんその時にはジョークのひとつも言って場を盛り上げようとか、決して悪気があるわけではないのだが、タイムマシンがあったら、あの時のあの人に一人づつ会ってお詫びがしたい、そんな気持ちになってしまうのである。このぼくの抱える障害は、ADHDの下位分類されている、ADD(不注意優勢型)に近いものなのかもしれない。やがて集団の中に身を置くことを避けるようになってくる。必然的に社交性は後退し引きこもりがちになっていく。だからといって寂しくなったり孤独感にさいなまれることも特にないのだから、深く思い悩むこともない種類の障害なのかもしれない。
もうひとつはパニック障害。強い不安感が伴う不安神経症と呼ばれていた疾患の一部だが、ぼくの場合は時や場所を選ばず突然起きるということは少なかった。ある条件下で生じることが多かったので、自分なりの対処法も考えて過ごすようになってきたため、40歳以降は安定してきた。
まず身動きがとれないような密集状態や狭く閉じた空間が発症条件となる。いわゆる閉所恐怖症に近い。そしてこれに拘束恐怖が付加される。長時間同じ場所に強制的にとどまることを要求されることに対する恐怖とでも言えばよいのだろうか。混み合っていなくても密閉された状態が苦手なのだ。具体的には特急列車や新幹線、長距離を移動する飛行機などがその代表例となる。(混雑するほどに条件が加算される)もちろん理性的かつ論理的に考えれば何でもないことなのに、時に心と身体が分離してしまう。通常の感覚からすればそんな心理や症状はまったく理解しがたいことだろうが、理性を押しのけ理屈でない拒否反応が身体的に出てしまう状況ばかりはどうすることもできない。
トラウマとなっているひとつの記憶がある。小学生の低学年のあるとき、ぼくは兄と二人で親戚の家に遊びにいくために電車に乗った。列車は相当混み合っていて、小さなぼくは見上げる大人たちに四方を囲まれ、黒い壁に押しつぶされるような圧迫を受けながら必死でもがいた。さらにアクシデントもあった。その直前に、当日のために身につけた(小学生には分不相応なアイテムである)腕時計を押し込まれる最中にホームと電車の間に落としてしまっていたのだ。このふたつの記憶は折り重なって心の深部に刻まれてしまった。
ところで「八つ墓村」で知られる推理小説家、横溝正史(よこみぞ せいし)も大の電車嫌いだったそうだ。肺結核で長野での療養を余儀なくされた横溝は、上京しなければならないときなどには酒の入った水筒を首からかけ、度々途中下車しながら電車を乗り継ぎ、たいへんな思いをしながら東京に向かったそうだ。妻とともに乗るときには、横溝は妻の手をずっと握っていたという。こんな話を発見すると、どこかほっとしてしまう自分がいる。
以前、デザイナーの国際会議がお隣りの韓国で開催された際、一度なんとかクリアしたことがあったが、海外に行けないことはデザイナーとしてはやはりハンデキャップといえるだろう。その後仕事柄、渡航を誘われることも少なくない。自分なりに悩んだ時期もある。しかし仮に強行すれば、たぶん半月ほど前からそのことで頭がいっぱいになり、悶々としながら仕事どころではなくなるだろう。当日のことなど、もう考えたくもない。そんな思いをしてまで出かけていく必要があるのか?と自問してしまう。
ある時、デザイナーの佐藤晃一さんと話をしていてカミングアウトしたことがある。「へぇー、すでにあなたは何度も渡欧してるはずだと思っていたのに」と少しだけ憐憫の表情もにじませながら驚いていた。しかしほどなくこんな言葉を添えてくれた。お酒の飲めない人に無理強いしても、決して美味しいお酒にはならない。無理せず見聞を広げる方法は世の中にはいくらでもあるのだと。(ちなみにぼくはお酒もまったく飲めない。やれやれ。)
哲学者のパスカルは「旅の快楽」に批判的だった。心をリフレッシュするために別の場所にでかけていかなければ楽しめない心などは、まだ充分に成熟しているとはいえないと断言している。外の空間に出かけていくのでなく、精神の内部の空間で、ひとつの全体性を楽しむように別の種類の旅ができるようになったとき、その人の精神は深い成熟に近づいたと言えるのだよ、と親友である中沢新一さんはこんなぼくを慰めてくれる。しかし、自分が自由から限定付けられているという寂寥感はやはり払拭することができない。
どうやら、ぼくが自覚する障害は精神障害と区別される人格障害という分類に入りそうだ。人格には遺伝的な「気質」と後天的な「性格」が含まれる。その人格が常道からはずれてしまい、社会生活に支障を来すようになると人格障害と規定される。もちろん一般的な人格とも連続性があるので、常道と非常道の間にはなだらかなグレーゾーンが存在する。ぼくの人格障害はまだ社会生活に支障を来すほどでもないので、人格障害性の傾向のある人格ということになるのかもしれない。専門家ではないのだからいくら分析してもあまり意味はないかもしれないけれど、心と身体のバランスをとるために自身の状態を俯瞰しておくことにはそれなりの意味があると考えている。そして、もし社会生活に支障が出るような状態になってしまったら、専門医によるカウンセリングや条件反射を応用した認知行動療法、そして薬物療法を試してたっていい、と気持ちの中に幾重にもセーフティネットを張っておくことも大切だ。明けない夜は決してないのだから。
以前、あるパーティーで、故・河合隼雄氏のご子息で臨床心理学者の河合俊雄さんとお話する機会があった。雑談に終始したが、河合さんは名だたる心理療法の第一人者。なぜその時に自分の永年の悩みを聞いてもらわなかったのか。悔やんでみても後の祭りである。嗚呼!やはりぼくはADDだった。押しては返す波のように、後悔は尽きることがない。深沢七郎ではないけれど、「言わなければよかったのに日記」と「言えばよかったのに日記」を交互に飽きもせずに依然としてぼくは書き続けている。

by soil_library
Koichi Kurita Web Site

2011.1.01

年頭の第一歩は、願わくば清々しい気持ちで踏み出したい。そこでまっさきに思い浮かんだのが、様々な地域で採取した砂を使った立体作品やインスタレーションで知られる美術家、栗田宏一さん。今やその作品は多くの共感をよび、中学校や高等学校の美術教科書に集録されているほどだ。しかし、ぼくは美術家と呼ばれる栗田さんはどうもしっくりこない。本人もどこかのインタビューで、白川静中谷宇吉郎、そして南方熊楠などから大きな影響を受けたと言っていたが、やはり彼は生粋のフィールドワーカーなんだと思う。
ぼくが栗田さんと出会ったは、まだ彼が表現を模索していた時代だった。(その頃はクリタ君と呼んでいた)10代は地元で宝石研磨を学んだもののそれに飽きたらず、20代前半には舞踏パフォーマンスによる表現活動を始める。1986年頃から10年ほどは集中的に世界中を旅していたようだ。帰国後も定職につこうとしないクリタ君は、遺跡発掘のアルバイトや懇意にしていたカメラマンの助手などをして糊口をしのぎながら、列島全域での土採集を開始していた。
そんなある日、ぼくがカメラマンに撮影依頼をした現場に助手としてクリタ君はやってきた。イノセント(無垢)な若者だなぁ、これが第一印象。今も変わることがないその透明感は天性のものだろう。また、ナイーブだけどどこか深部に太々しい逞しさも秘めていた。ぼくの仕事場周辺には遺跡スポットが点在しているので、近くに発掘現場があるときには、時折、知り合いにもらったという年季もののオンボロ車でふらっと遊びにやってくることもあった。職場では「もうベテランなんだから現場監督にならないか」と勧められることもあるようだけど、少しばかり賃金が上がっても土が触れなくなってしまったら何のためにこの仕事を選んだのか分からなくなってしまう。だから給料があがらなくてもいいんです、と彼は笑っていた。
クリタ君の生家は山梨の温泉町で知られている石和の一角にある。少年時代は縄文のそれとは知らずに土器のかけらを拾っては遊んでいたというから、案外表現のルーツはその辺りから湧き出しているのかも知れない。古層の記憶を色濃く残す生粋の甲州人なのだ。息子がアジアへの長旅に発つ前に、キャリア豊富な筋金入りのバックパッカーに教えを請おうと、その仕事場を訪ねたこともある。クリタ君は長い間、アルバイトでお金を貯めては憑かれたように世界中旅して、結婚後は奥さんとの二人旅で、時にはアフリカまで足をのばすこともあったという。デンジャラスでアンビリーバブルな経験をたっぷり積んできたベテラントラベラーは、息子にその時いろいろ実践的なアドバイスをしてくれたのだった。
さて、20世紀も終盤にさしかかる頃から、クリタ君はギャラリーでの個展や京都法然院「土の散華」展などを皮切りに精力的に発表活動を開始してゆく。特に2000年以降は目覚ましい活躍ぶりをみせる。美術館でのグループ展も増え、東京都現代美術館をはじめ、いくつもの美術館に作品がコレクションされるようになってきた。また、2006年には招聘されたフランスのミュージアムとサン・ジャン洗礼堂で、2009年にもフランスはノワールラック修道院で個展を連続開催している。書籍は、2001年のINAX出版から「秘土巡礼」を刊行。雑誌「銀花」にも度々取り上げられ、2004年にはフレーベル館から「土のコレクション」、2006年には福音館書店からは「たくさんのふしぎ/土の色って、どんな色?」も出版されている。さらに、映像記録としては、1995年の塩崎登史子監督作品「土の記憶」や、1997年に放映された「いのちの響 生命交響楽」、そしてテレビ番組を中心に、CM、プロモーション映像等を手がける映像制作会社オブザアイによる「Portraits(2001)」や「hito(2006)」なども残されている。
本人のオフィシャルサイト「SOIL LIBRARY」の中には、フィールドワークの記録や仕事場のスナップ、そして彼の記憶の断片が膨大な写真を中心にストックされている。しばらくサイトを散策してみると、彼が注目される必然が見えてくる。
まず、ぼくらは各地で採集された土がこんなにも多様な色あいをもつことに驚かされる。そして、天日干ししてパウダー状になった土を使い、祈りの行為にも似たインスタレーションに昇華させようとしていることが見えてくる。そうした行為は一瞬、チベット僧が砂で描く曼荼羅を想起させるが、やがてこれが類例のない栗田宏一の表現なのだと納得する。しかし、実は必然はそこにあるのではなく、無為自然に寄り添うような彼の生き方そのものへの共感から生み出されてくるのではないだろうか。夥しい多様な世界を裸眼で目撃しながら、同数の多様な土採集を続けてきたクリタ君の日常のまなざしも、それらの写真には感光している。自分も本当はこんな人生を送ってみたかった。彼の記憶の一コマ一コマに、そんな気持ちを重ねたくなるのかもしれない。だからある意味では、栗田宏一は写真家でもあるのだと思う。ぼくは冒険家の石川直樹さんの写真集を見ていて、ふとそんなことを考えてみた。
さて、こうして国内外での土採集と発表活動を平行しておこなう多忙な日々を過ごしていたクリタ君とはその後会う機会もなく、動静はときおり送られてくるメール「ソイルライブラリー通信」で伺い知るのみだった。実は陰ながら彼の活躍ぶりを喜んでいたぼくには一抹の不安もあった。これまで知り合いの表現者の中には、名が売れるととたんに権威的になってしまったり、傲慢さが昔の面影を無残に覆い隠してしまうケースが少なからずあったので、クリタ君、お前もか!なんてことがないよう、内心願っていたのだった。
そんな矢先、思いがけずに彼と再会を果たすことになる。昨年末のある休日のことだった。地元の無印良品ショップに出かけたら偶然、栗田夫妻が買い物にきていたのだ。フランスから戻ったばかりの、めったに外出しない二人が久しぶりに出かけてきたというのだから、これも縁というものなのだろう。お店のスタッフがもの言いたげに何度も脇を行き来するほど長時間の立ち話だったが、昔のままのイノセントなクリタ君がそこに立っていた。不安は杞憂に過ぎなかったのだ。「実はねぇ…」と伝えると、「絶対それはありえませんよ」と彼は、ぼくがそんな人間だと思っていたんですかとでもいいたげな顔をした。
今いろんな意味でターニングポイントにさしかかっているという。露出することへの戸惑いも生じているようだ。インタビューを受けても、思いとズレた記事になってしまうことは度々のこと。作品をこんな形では見てほしくないといったYouTubeへの投稿も少なくない。だから最近は極力、オファーがあっても引き受けないよう心がけているらしい。でもそれはある種の有名税のようなもので、いったん露出してしまったものはなかなかコントロールできないし、あまりくよくよしても仕方がない。それを自覚していれば自ずから露出の仕方だって変わってくるはずだ。もう、がむしゃらに出て行くばかりの時代は終わったということなのだろう。彼がそれより心配していたのは、これまで採集してきた相当量の土の扱いについてだった。たった今、自分が死んでしまったら、仕事場には膨大な土のゴミが残るだけ。だからこれからの10年は採集土をどう残すのかを真剣に考えていきたいと語っていた。
クリタ君は「さかなクン」ならぬ「アース君」なのかと思っていたら、実は土が好きで好きで仕方ないというわけでもなく、自分が言いたいことを最も伝えやすいのが、たまたま土だったということなんですけど…、とやや反論ぎみに答えてくれた。でもぼくはやっぱりクリタ君には美術家なんて肩書きは似合わないと思うし、ただただシンプルに「土を集める人」が一番しっくりくるのだ。だって世界中探したって、こんなにひたすら土ばかり集めて続けている人間は見たことないし、それで十分じゃない、と言うと少年のような目をして「土を集める人」は嬉しそうに笑っていた。

15 diaries

2010.12.03

人はどうして日記を書くのだろう。日記の定義も古今東西、諸説さまざま。例えば紀貫之の「土佐日記」は女性に仮託して仮名文で綴られ、たぶんに読まれることが意識されている。これは日記という様式を借りた日記文学として位置付けられている。16世紀以前の西欧の日記は聖職者や教会関係者、そして商人のものが多く残されているそうだ。そもそもの日記の起源は帳簿だったが、それが次第に個人的な覚え書きとして日記の原型をなしていき、人々の生活習慣として階層を下げながら広まっていったらしい。
中国や日本では、紙は古くから生活に溶け込んでいたのでたくさんの日記が残されてきたが、ヨーロッパでは少し事情が異なる。希少な羊皮紙などに替わって紙が伝えられた12世紀頃以降も、西欧では需要と供給のバランスがとれずに慢性的な材料不足にみまわれていた。そこで古紙が再利用されることが増え、そのために多くの古文書も失われてしまった。それがヨーロッパに古い日記が残りにくかった要因のひとつともいわれている。また、日記が定着してきた背景には、近代の自我の覚醒が密接に関連しているともいわれる。
さて、してみるとぼくに自我が覚醒するのは、遡ること25年前からということになる。最初の日記の1ページ目を開いてみると、1985年9月22日からはじまっている。以来、外泊する時などにはホテルで書いたメモ用紙を帰宅後日記帳に貼り付けたりしていたので、ほぼ毎日何かしら残してきたことになる。なぜ書くことを思いたったのか今となっては思い出せないが、たぶん気まぐれではじめたんだろう。33歳で突然禁煙しようと思った時も、はじまりは「何となく」だった。その時味わった苦しさを無駄にするのがいやで、それから一度も煙草は咥えていない。
ぼくは決して勤勉な人間などではないのだが、これら15冊の日記帳を眺めていると、案外習慣づけられやすい性格なのかもしれないという気がしてきた。判で押したように同じことを繰り返す行動パターンも、人よりとりやすいのかもしれない。起床して洗顔し、食後に歯磨きをするように、就寝前に日記帳を開くことをずっと習慣としてきたのだから。
あらかじめ日付やガイドラインのはいったダイアリーは性格的に馴染まなかった。こんな風に書きなさいと指示されるみたいで、そんなのまっぴらゴメンだという気持ちになってしまう。そのくせ自由奔放な書き方をするかといえば、細いシャープペンシルの小さな文字を律儀に隙間なく埋めていくのだから、つくづく自分でも偏屈な性分だと思う。残り少なくなってくると、その折々の気分で次なる日記帳を選ぶことにしている。基本的にぼくは無地でコンパクトな冊子を愛用してきた。近年は「ヘミングウェイ、ピカソ、チャットウィンが愛用していた伝説的ノートブック」のキャッチコピーで知られるMOLESKINE(モレスキン)の無地で小さめなタイプを選ぶことが増えている。このシリーズはオーソドックスで造りがしっかりしているので飽きがこない。
ところで書くという行為に関して、ぼくには大きなコンプレックスがある。若いころからの悪筆が悩みの種だった。これには本当に気が滅入ってしまう。どうしてきちんと字が書けないのか、真剣に考えたことがある。その結果判明したのはシンプルな事実だった。ぼくには書いている文字そのものに集中することができない致命的な欠陥がある。文字を書く時ぼくの気持ちはすでに次の文字に移ってしまい、おまけに何か急かされるように書こうとするものだから、文字はどんどん悲惨な形となって定着されていく。そこで反省して極力ゆっくり書こうと意識した時には少しだけ判読できる文字になってくれるが、長年染みついてしまったクセはなかなか治らない。おまけに、日記が他人の目に触れるようなことがあったら嫌だなという思いが悪筆ぶりにさらに拍車をかけるものだから、どのページもミミズ字が密集したほとんど暗号文状態となっている。そんなに読まれたくないなら電子化してロックをかけて保存しておけばいいのに、やっぱり紙に記しておきたいという気持ちは捨てきれない。25年分の冊子を束ねて持ち上げてみるとそれなりの重みが伝わってきて、この感覚は電子化ではけっして味わうことのないものだ。
記述内容は標準的なものである。日付、曜日、天気、起床時間に続き、その日の出来事を列挙していく。ちょっと違うのは、2000年以降の日付の前に「70」とか「69」といった数字が書き加えられていること。別にたいした意味はないが、何となくその日の気分を数値化するとこんな数字かな?といった目安となっている。平均的な気分値が70で、最悪でも65くらいだからあまり上下することはない。それから時事ネタはほとんど登場しない。「9.11」とか「地下鉄サリン事件」、「阪神淡路大震災」のようなメガトン級ニュースはさすがに素通りできないが、極力身辺にまつわる些細な出来事を淡々と記すことを心がけている。その行間にはおきまりの愚痴や悪態が挿入され、まれに訪れる嬉しい出来事も忘れずに残しておく。つまり、日記帳を開いては、ぼくはその日膨れ上がった気分のガス抜きを夜な夜なしているのである。
以前、松岡正剛さんから日々の習慣を聞いたことがある。松岡さんは布団に入り眠る前に、その日の出来事を早廻しでプレイバックすることにしているそうだ。逆廻しするのでなく一旦起床時に記憶を戻して、そこからたった今横たわった瞬間までを時系列にそってできるだけ克明に猛スピードで思い出していく。なぜそんなことをするのか、一番肝心なことは見事に忘れてしまったが、日に一回だけなら記憶をトレースする習慣も悪くはないなとその時思った。考えてみれば、日記だってこれとあまりかわらない。しかしなぜかなかなか時系列に沿って思い出せずに記憶の強弱に左右されてしまう。監視カメラと違い、人間の記憶というものは出来事のインパクトに応じて凸凹状態で焼き付けられる仕組みになっているので、凸部の隣りの凹が隠れてしまうことがままある。そして、日記を書き終えてから「そうだ、あれもあったな」と思い出すことになる。でも、書かれた内容より行為そのものに意味を見いだすならば、それでよいのだろう。
こうしたデイリーでコンパクトな記憶を記録していくことが一体何の役に立つのかぼくには分からない。確認する必要に迫られることでもなければ、まず古い日記が開かれることはない。だからぼくにとって日記を書くことは、上手にその日の記憶にさよならを言うための儀式のようなものなのだ。今日も何とか生きている。とりたててこれということもない平凡な日々が積み重ねられるささやかな幸せを、日記と向き合うことで味わっている。

上から
山梨市正徳寺の丸石神
(撮影:遠山孝之)
山梨県三富村雷の丸石
雷の丸石と台座

2010.11.03

「丸石」と入力してネット検索すると、トップヒットの自転車メーカー「丸石サイクル」や「丸石製薬」「丸石醸造」など企業サイトのはるか後方に「丸石神-山梨の謎の道祖神・石の民間信仰」というサイト名が現れる。そこで類似ページをクリックすると、他にも10ほどの関連サイトが表示される。いずれも民間愛好家の立ち上げたもののようだが、超マイナーな存在である丸石神に今も密かに惹かれ続けている人々がいるようだ。
丸石とは読んで字のごとく、丸い形をした石のこと。河原石をはじめ、およそ球体の自然石は無数に存在するが、ここ甲州で丸石といったら丸石を祀る道祖神のことである。丸石は縄文中期の住居址から出土したといわれ、やがて道祖神として祀られるようになった。こうした球体道祖神は和歌山や三重など南紀の一部にも残っているものの、その大半は山梨県内に集中して分布する。
県外から丸石ウォッチャーが探索にやってきて地元住人に場所をたずねても誰も丸石のことなど知らない。諦めて帰りかけたら何とその家の裏手にあったというエピソードがサイトで紹介されていたが、それほど甲州では風景に溶け込んでしまっている。文化財に認定されているわけでもないし、ましてや観光資源として認識されてもいない。しかし遙か昔から丸石はこの地で泰然自若と存在し続け、代々人々に見守られながら悠久の時を過ごしてきた。かくいうぼくも長い間丸石を特に意識することもなく過ごしてきたが、ある日を境に身近に感じられるようになってきた。
2003年の暮れも押迫ったある日、中沢新一さんから電話が入り、お正月に丸石巡りをしないかと誘われた。美術家の森万里子さんから案内してほしいと頼まれたのだという。そこで、ぼくがアッシー君となり3人してお正月、丸石見学することになった。暦の変わった1月の3日、待ち合わせたのは地元駅の改札口。霊的世界の実相をヴァーチャルで夢幻的なハイパーオブジェに結晶させる試みで広く知られる森さんは、まるで未来からやってきた巫女のような白ずくめファッションでぼくらの前に現れた。挨拶もそこそこにクルマに乗り込むとさっそく丸石巡りに出発。森さんは初めて見た丸石にすぐに魅了されてしまったようだ。後に森さんは図録テキストでそのときの印象をこう語っている。

丸石は、本当に愛すべき存在です。すべてを受け入れる母性のようでもあり、また、過ぎ去ってしまった命を再生するエネルギーのようでもあります。まるで別世界が丸石に内在している。そう、直感的に感じました。そして、その世界はすべてのものと繋がっているような気がしました。過去も未来も生も死も、そこではすべてがひとつなのでしょう。

ところで、丸石に関連したテキストを読むと、かならずといってよいほど随所に中沢厚という名前が登場してくる。山梨で農山村の民族調査を続け、なかでも40年にわたって道祖神研究にたずさわった、丸石を語る際に欠くことのできないといわれる研究者である。「山梨県の道祖神」や「石にやどるもの―甲斐の石神と石仏」といった著書をはじめ、その文章からは、丸石に寄せる深い愛情がひしひしと伝わってくる。中沢家に誕生した新一さんは若い頃からその父親である厚さんと共にに丸石巡りを重ねていたそうだ。父親同様、誰よりも深く丸石を見つめ続け、多くの丸石に関わる記述も残している。だから今、案内を乞うとしたらこれ以上の適役は見当たらないわけで、森さんは何とも贅沢な丸石巡りを実現したものだ。
この日はとても穏やかな喜びに満ちた1日となった。ぼくは森さんのような若い世代の日本人が丸石と向き合っている無垢な光景を見て、日本もまだまだ捨てたもんじゃないなんて思ってしまった。こうして日が暮れるまでさまざまな丸石と向き合ったぼくらは、夕食を共にしながらゆっくり語り合い、深夜、森さんを山中湖近くにある別荘まで送り届けてこの長い1日を終えた。
数ヶ月後、7年ごとにおこなわれる諏訪の御柱祭で再び森さんと再会した。曳行の道中、美術について話し合ったひと時も思い出深い。そしてひと月ほど経ったGW明けのある日、ニューヨーク在住の森さんからメールが入った。秋の個展に向けて制作中で、正月の丸石巡りの最後に訪れた三富村雷(いかづち)の丸石(掲載写真下2点)をモチーフとした作品を構想中なのだという。ついては実物の計測をお願いできないだろうかという依頼だった。早速、採寸してきたデータを基に図面を描き上げて送信する。こうして完成したのがムーンストーン(2004年/1820×1145×1815mm/ルーサイト、コーリアン、LED、リアルタイム・コントロールシステム)という作品である。
原寸大の白い台座に乗った真っ白いコーリアンで作られた丸石は、内部から発光するLEDの光によって青からオレンジ色へと変化する。この発光は月の満ち欠けによっておこる満潮と干潮の現象と連動するようにコントロールされている。雷のクローン体、現代の丸石の誕生といった感がある。この作品は、2004年10〜12月に東大総合研究博物館小石川分館の(アート&サイエンス)プロジェクト第二弾として開催された「森万里子 縄文—光の化石 トランスサークル展」で発表された。ここで森さんは古代から繋がる一本の糸の先端にきわめて現代的な技術を介して、プライマル(最初の・原始の)な意識を甦らせようと試みた。この展覧会の図録に掲載されている森さんと中沢さんとのメールによる往復書簡で中沢さんはプライマル(はじまり)をこのように語っている。

「はじまり」ということばが、ぼくはとても好きです。森さんのおっしゃるプライマルですね。はじまりは過去の人間の独占物ではありません。はじまりは、人間が自分たちの知覚や思考を制限づけている壁を取り除くことができたとき、いま、ここが、はじまりの現場なのであるとわかるような、永在的な空間のあり方をさしています。永遠といわず永在と書きました。世界に秩序をもたらす神のあり方は永遠と名づけることができますが、生成と消滅をくりかえしながら、存在するでもなく存在しないでもない、絶妙な中間的空間に滞在しているものたちのことを、キリスト教は「天使」と名付けて、その天使の住まう空間を特別に永在と呼んだのでした。

丸石の背後にはプライマルが呼吸するとてつもない奥行きをもった永在の空間が広がっているのだろうか。中沢さんは、丸石は言語化できない大いなる謎であり、この謎の前に知識は無力であると語っている。そして同時に、信仰でなく、誠実な知性の働きによってこの謎に問いかけ続けなければならないとも語っている。いやはや、森さんはたいへんな世界に踏み込んでしまったようだ。
ところでつい先月までこの丸石に関連した展覧会が、旧四谷第四小学校を再利用する「四谷ひろば」を会場に開催されていた。中沢さんが所長を務めるIAAの所員でもある美術評論家、椹木野衣さんらと企画したもので、本展は一冊の本が起点となっている。
今を遡る70年代、森さんのように丸石を案内してもらおうと中沢厚さんを訪ねてきた人々がいた。美術評論家の石子順造さんとその仲間の彫刻家たちで、彼らは当時、もの派や具体派といった現代美術運動にも関わりをもっていたが、そうした人々と丸石の出会いの記録は、「丸石神—庶民のなかに生きる神のかたち」という書籍に結実した。ここには随行した写真家、遠山孝之さんの貴重な記録写真に包み守られるかのように、石子さんや中沢厚さん、新一さんらの文章が収められている。そして1980年に発刊されたこの本は、丸石調査の途次、亡くなってしまった石子さんへの追悼書でもあった。
その30年後、再び丸石は現代に呼び戻されることになる。新しい美の可能性を模索した石子さんの意思を次代に繋ごうとしたこの丸石調査報告書に、美術への根源的な問いかけを試みようとする椹木さんが再び可能性の泉を見い出したのだ。これが中沢さんの心を動かし、《現代》を切りひらく「丸石の神々」の声にそっと耳を傾けてもらおうと、IAA主催によって展覧会が企画されることとなった。会場には丸石の写真や丸石から啓示を受けて制作された作品などが半月にわたって展示され、初日にはシンポジウムも開催された。
余談だが、広報物(ボスコサイトに掲載)のデザインを担当したぼくは、ささやかな試みとして隅々まですべてを1書体のみでデザインしてみようと考えた。「A1明朝」というオールドスタイルの明朝体で、画線の交差部に写植特有の墨だまりを再現しているため温かみのある表情を持ち、小さくても大きくても高い可読性を示す書体だ。オーソドックスでありながら実はラジカル、こんな表現に憧れるぼくのいまだ道半ばのささやかな試みだった。
さて、このシンポジウムの終盤近くには印象的なやりとりがあった。椹木さんは「丸石神—庶民のなかに生きる神のかたち」の巻末に集録された石子さんのテキスト「石を選ぶ直観」で多くを割いて触れられている人造石《プラストン》の記述に注目する。石子さんの遺稿となってしまったこのテキストで《プラストン》と丸石の関係性が語り尽くされているわけではない。事実、本の編集過程でこの部分を残すべきか討論されたそうだ。ただ石子さんは丸石についてほとんど何も語ることなく亡くなってしまったので、結局残そうということになったのだと、その場に立ち会っていた壇上の中沢さんが経緯を明かしてくれた。ここで石子さんは石に関する日本人の美観を端的に表す言葉として〈いいカタチ〉をあげているので引用してみよう。

〈いいカタチの石〉というのは、たんに造形的な美しさをいい当てようとした言葉ではない。いっそう全感官的な直接性、あるいは具体性を意味する観照の謂であったと思える。つまりここでの〈いい〉は、良いでありながら善いであり、好いでもあるのであって、美学的であると同時に倫理的でもありうる評価なり判断であろう。したがって〈カタチ〉も、石の質感や色調、あるいはそれがおかれている状態までふくめて、形(フォーム)であり型(シェープ)であり形状(フィギュア)でも状態(コンディション)でも環境(エンバイラメント)でもありうる、そのような顕現(アピアランス)であるようだ。

と、このように〈いいカタチ〉を規定してみたとき、はたして人造石《プラストン》にも〈いいカタチ〉というものがあり得るのだろうか。石子さんはここで《プラストン》は〈カタチ〉の模造ではない、〈いいカタチ〉の模造であると言っている。日本人特有の美意識において、石それ自体ばかりでなく、つくばいや灯籠にしても、質感や色調までふくめて、つまるところ〈いいカタチ〉をつくるところにポイントがあったろう、と書き記している。
模造、あるいは人造物にも〈いいカタチ〉はある。この点に椹木さんは強く共感する。しかし、石子さんが「もの派」成立起源に立ち会った功績をもっと再評価すべきであると主張する出演者は、模造は所詮模造、本物はあくまでも本物であると反論し、壇上はしばし紛糾する。中沢さんは両者の間でやや戸惑いの表情だ。

しかしこのやりとりの中には、プライマルな空間の扉を開く鍵にかかわる何か重要なヒントが隠されているような気がしてならない。丸石から何を受け継いでいくのか。民俗学や歴史学のなかに史蹟として丸石を据えて凍結してしまうのでなく、大いなる謎を秘めたこの世界から、別種の宇宙感覚を取り出してみせるというとてつもない難問に挑むことが大切なのだろうと中沢さんも語りかけていた。ここで森さんの作品もオーバーラップしてくる。はじめは失敗したっていい。ローカルな思想を突き詰めたその先に潜む、奥深い普遍性への可能性に向かって、何も語らない丸石にひたすら耳を澄ませる。丸石はどこにもいかない。ずっと昔から静かにそこに在ったように、残光を集めていつだって美しく光りつづけている。