Sun : wikipedia
Sol : nationalgeographic

2012.2.03

先日電車に乗ってぼんやりと車窓を流れる景色を眺めていたら、沿線に立ち並ぶ住宅の屋根にソーラーパネルが随分増えているのに突然気づいた。ここにも、あっ、あそこにもあるといった具合で、新築住宅を中心にそこかしこに点在していたので驚いてしまった。たしかに昨年の震災以降、人々の意識にさまざまな変化が生まれつつあることは感じていたけど、こうした光景を目の当たりにすると現実の意識変化は報道が追いつけないほどはるかに早いスピードで進んでいるのかもしれないと感じた。

実はぼくも昨年の6月、仕事場の屋根に太陽光発電パネルを設置した。屋根いっぱいに24枚のパネルを並べるとマックス4.44kwの発電が可能だ。また、居住地域の発電効率が全国的にもトップクラスだったことも設置の後押しをした。(ちなみに第一位は北海道)タイミング良くもっとも効率的な初夏から稼働開始したので、太陽の力はすぐに実感することができた。ストックできない発電された電力は、まず自分が使用する。そして使い切れない電気は自動的に電力会社に送電されるようセットされている。室内に設置された電力モニタパネルを見ていると、リアルタイムで消費電力と売電の数値が変動していくのを確認することができる。これまで漫然と電気を消費していたのに、電力の流れが視覚化されたとたん俄然意識に変化が現れてくるから不思議だ。極力無駄な電気は使わずに、LED照明などを増やしたりして余剰電力を売電に回そうと意識するようになる。契約時の売電価格は買電の倍近くで、電力受給の契約期間は10年間保証されている。(ちなみに太陽光発電を促進するこの制度への補填のために、一律請求には太陽光促進付加金があらかじめ組み込まれている)

売電意欲が高まるのは単純な損得感情によるものだが、これも一種の省エネ意識への誘引と言えなくもない。なぜなら買い取り料金率が変わらないことを前提に売電し続けても、設置標準価格が回収できるまでには10年から20年ほどかかる計算になる。パネルの寿命は20年以上といわれているが、電気を利用できるように変換するパワーコンデショナーユニットの寿命はほぼ10年で、現在30万以上するこの機材の交換費用などを加算すれば、費用対効果としては決して割の良いシステムとはいえないからだ。

しかし、少しでも辺りが明るくなれば、とたんにパネルはせっせと働き始めてくれる。もちろん曇り日や日没後は発電しないし、いまのところこれですべてが賄えるほどの発電能力もない。それでも日々頭上で発電していることを実感していると、やはりこれは自然に対して逆らっていない正直な科学なんだという気がしてくる。別にぼくはソーラーパネルをすぐにでも設置した方がいいとか、すべきだともまったく思っていない。やりたい人はやったらいいし、興味なければスルーすればいい。これからは急速に設置費用は安くなっていくだろうし、それを考えると設置するタイミングは悩ましい問題である。

先日、ナノテクノロジー (nanotechnology) の特集番組がTVで紹介されていた。それによると、画期的な太陽光発電システムが急ピッチで実用化に向けて開発されているらしい。パネルは太陽の可視光しかエネルギーに変換できず、半分以上を占めている赤外線はまったく再利用されていない。ところがこの新しいナノテクノロジー は、地球に届く太陽の大半のエネルギーを効率的に電力変換することができるのだという。まだ乗り越えるべき課題も残されているようだが、実用化されれば地球上すべての電力をまかなうことも不可能なことではないらしい。それに設置費用もパネルに較べたらはるかに安い(およそ20分の1)。また液状の集光物質も開発されていて、これなら例えばビルの壁面などに塗れば、それがパネル替わりになるので発電スペースは飛躍的に普及することになる。こうした夢のような技術は遙か彼方の夢物語などでなく、現に実現化に向けて急ピッチで進められているのだ。また、風力発電がヨーロッパでは普及しつつあるようだが、それより日本で大きな可能性を秘めている地熱発電が、これも安価で効率のよい技術の実用化に向けて実験段階に入っているという。 だからぼくは科学を進歩させていく人間の潜在能力に対してはけっこう楽観している。ほんの10年前にデジタル技術がこんな変貌をとげると誰が予想しただろう。現実界の変化に追いつけないのは実はぼくらの意識の方であって、昔はあんな大袈裟なパネルを何枚も屋根に乗せていたんだよね、なんて笑い話になるのもそう遠い日のことではないだろう。

3.11で原発はかなり危ない科学だったと骨身に沁みた日本人。右肩上がりの経済偏重幻想からそろそろ解き放たれて、これを機に進むべき道を考え直さなければならないと漠然と考えている人はたくさんいるだろう。機を見るに敏な作家、五木寛之氏の新作『下山の思想』が最近話題となっている。こんな現象にも今の日本を覆い尽くしている気分が象徴されているようだ。

東北の太平洋沿岸で原発が唯一作られなかった岩手県について、三陸の網元の家で生まれた元首相、鈴木善幸を抜きにその歴史は語れないというコラムが朝日新聞に掲載されていた。1975年頃から岩手三陸では原発誘致をめぐって世論が割れつつあった。しかし、地元選出の善幸はいっこうに態度をはっきりさせることなく、中央と地元では別な顔を見せながら決着を先延ばしし続けた。白黒つければ禍根を残し、後戻りできない対立を生む。善幸は「和の政治」を掲げ、足して二で割る典型的な政治家だったから、粗末な漁港をせっせと改良し続け時間稼ぎをした。そして結果的にこの共同体の亀裂を忌み嫌う手法によって計画は立ち消えになったという。小泉、橋本手法と対極にあるようなこの古風な「和の政治」は一見時代遅れにもみえる。しかし敗者を生み出すだけの二項対立政治では守り切れない大切なものがこの日本にはまだたくさん残されていることを考えたら、可能性を宿す手法として記憶しておいてもいいのではないだろうか。山頂はひとつでも、下山道はさまざま。選びとることの重要性を時代が求めはじめている。

ただ、科学の進歩に楽観的なぼくでも、人間のエゴや倫理に対しては悲観的にならざるをえない。退化こそすれ、決して進化などしていないのは古今東西、歴史的にも明らかだ。どこに向かって科学技術を進歩させていくのか。地域や国家や民族性やさまざまに錯綜した問題を整えながら、本当に日本人にとって必要とされる未来を包括する深い射程をもったビジョンが今切実に求められている。ところが、震災以降出てくるのは、経済問題に終始する短期的視点によるうんざりするような議論ばかりだ。これから進むべき方向性を人々は本能的に直感しているのに、そこに重なり合う強靱な新しい理念がこの国には決定的に欠乏していた。

しかし、光の兆しはある。それは大震災からおよそ3週間後の中沢新一さんの発言からはじまった。中沢さん、内田樹さん、平川克美さんの3人は2011年の4月5日、Ustreamで配信される番組「ラジオデイズ」で大震災と原発事故について語り合った。まだこの時点ではどう対処すべきか思いあぐね、はっきりと発言する知識人はほとんどいなかったにもかかわらず、そこで中沢さんは果敢に根本的な問題点を指摘しながら、ドイツの「緑の党」のようなものをつくるという構想をあきらかにした。(経緯はこの対談をまとめた2011年5月出版の『大津波と原発』(朝日新聞出版)に詳しい)

さらに息つく間もなく、『すばる』(6、7月号・集英社)で「日本の大転換(上・下)」を発表。(8月には集英社新書として発刊)ここで大津波と原発事故がもたらした災禍をきっかけとして、わたしたちがとるべき選択肢を明快に提言している。特に印象的なのは原子力技術の宗教思想における対応物が、実はユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった一神教であるという指摘だ。巨大な原子炉ともいえる太陽は生態圏外に存在するが、生態圏の中に人間はもうひとつの太陽をたくさん作り出してしまった。その生態圏に「外部」を持ち込もうとする思考方法が、互いに親和性を保ちながら、科学では原子力を、宗教では一神教を、経済ではグローバル型資本主義を発達させてきたのだという。だから今回の原発問題は単なる科学や経済といった単一の領域にとどまらず、実に巨大で根深い、まさに文明の根幹にふれている問題なのだと指摘している。つまり日本は大きな試練にさらされていると同時に、今後の世界が目指すべき新しい道を指し示すことができる可能性も同時に秘めていることになる。ぼくの拙い説明などでなく、ぜひ新書を手にとっていただきたい。そこには3.11以降の危機的事態を重層的に明らかにしながら、これからぼくらが進むべき行程が示されている。願わくばもう一冊手にとってほしい本がある。1月30日角川書店から発刊された、出来たてほやほやの内田樹さんと中沢さんの渾身の対談集『日本の文脈』だ。(企画編集はチーム・ミクロでご一緒した平林享子さん)この本は『日本の王道』というタイトルで出版されることになっていたが、3.11の大震災で日本を取り巻く世界の文脈がすっかり変わってしまい、もう前のようには「日本的なもの」の原理を心安らかに語っていることができなくなってしまった。だからこの激しい変化の渦中にある日本の文脈のなかに、自分の原理をみずからの力で戦い取らなければならない。そのために送り届けられようとしているのが『日本の文脈』であると「まえがき」で中沢さんが書いている。対話集とはいえ、広くて、深くて、力強い。そして読後、日本人は本来何処によって立つべきか、ストンと腑に落ちる。

「緑の党」のようなもの発言で何やら政党部分が拡大報道されている感があるが、実は中沢さんが構想しているのは「グリーンアクティブ」というゆるやかなネットワークを基軸とした活動で、政治班はその一部分にすぎない。詳細は2月に予定されている記者会見をもって発表されるそうなので、ここで明らかにすることはできないが、こうした大いなる「贈与」に向かって一心にエネルギーを注ぎこむ中沢さんの感動的な一連の試みに、ぼくはたしかな光の兆しを感じている。 『日本の大転換』の「リムランド文明の再生」という章には、周縁の国である日本列島などで形成されてきた文明の特質についてこのように語られている。

「外部との境界には、遮断力の強い壁ではなく、透過性にすぐれたさまざまなインターフェイスの仕組みが設けられた。インターフェイスは外部に属する諸力を内部に折り畳んで組み込む働きをもっていた。外部からの力を、壁で遮断するのではなく、幾重にも媒介をほどこしながら、内部に取り組んでいく仕組みである。 火山が多く、地震にも頻繁に見舞われてきた日本列島では、自然力を外に押し戻したり、ブロックしてしまうのではなく、インターフェイスの機構をつうじて、媒介的に自分の内側に取り込む方法が、さまざまな分野で発達した。(集英社新書『日本の大転換』94ページより抜粋)」

こうしたリムランドの特性があらゆる分野にまで浸透し、長きにわたり培われてきたのが、ぼくらの暮らしてきた日本という国の文明だった。しかしここ半世紀あまり、グローバル型の資本主義によってリムランド文明は土台からの破壊にさらされてきた。そのインターフェイス分断が続く危機的時代に、今ぼくらは生きている。

「新しい日本」が目指すべき進路は見えている。そこに向かって、可能性を現実に変える理念をたずさえ歩き出すしかない。その先にはたったひとつの太陽が眩しく輝いているはずだ。

portrait_
Above : 100 Words by Paul Rusch (from 203p)
Below : GAZE Study #18 (Miranda) 1996-1998
Courtesy of Galery Roit , Amsterdam
Copyright of theartist Dsiree Dolton

2012.1.02

人生で一番古い記憶は? ぼくの場合は閃光の記憶だった。狭くて暗い部屋に家族と枕を並べて寝ていた記憶もかなり古いものだが、もっと閃光の記憶が古いと思うのは、それが怖かったから。ぼくの中では怖さだけが断片的に残っていたのだが母によれば、ぼくを床屋に連れて行ったとき鏡に反射した光に驚いて大泣きしたことがあったそうで、それを聞いてやっとその出来事だったのかと合点し、自分のもっとも古い記憶として認定することにした。 以来、ぼくが床屋にいくのをいやがったものだから、何とそれからは家まで床屋さんに出向いてもらうことになったのだそうだ。床屋さんが自宅にやってくる。当時は決してめずらしいことではなかった。そんな時代が日本にもあったのだ。秋山という床屋さんだった。数年前、新聞のお悔やみ欄で90何歳かで亡くなった秋山さんの名前を見つけたとき、半世紀以上も昔の記憶が懐かしくよみがえってきた。

生きていれば、爪は伸びるし毛も伸びる。小学生時代は母が散髪を担当してくれた。中学生になると、郵便局に父親が勤務していた同級生がいて、彼の計らいで局内にある散髪室でちゃっかり家族待遇を受け続けていた。料金は忘れたが、とにかく安かった。社食と同様に企業の福利厚生の一環でそんな値段も可能だったのだろう。民営化になるずっと昔の長閑な頃のお話だ。高校生ともなれば、頭の中はもうビートルズのことでいっぱい。もちろんヘアースタイルは学則をかいくぐってのマッシュルームカット。自分でするしかないので、ここらあたりから床屋は卒業ということになる。

成人してからのことはあまり覚えていない。ただ写真をみるとずっと長髪だったから、たぶん自分で適当に散髪していたようだ。ただ、一度だけ悲惨な思い出がある。何を勘違いしたのか、おばさん相手の美容室でパーマをかけてしまったのだ。鏡に映る自分の情けないカーリングヘアを見ながら、もう二度と美容室なんかいくものかと心に誓った。

そんなこんなで、ずっと苦手な散髪だった。何とも散髪中の心持ちは宙ぶらりんで落ち着かないものである。上の写真は清里開拓の父と言われている60歳代のポール・ラッシュ氏散髪光景のワンカット。清里の人々からの尊敬を一身に集めていたポールさんが、この時ばかりはちょっと情けない表情で座っているのが何とも微笑ましい。今この瞬間にも、世界中で数え切れないくらい大勢の人々がこんな心持ちで座っていることだろう。

女と違って男は元来面倒くさがり屋なのか一度馴染みになるとそこに腰を落ち着けてあまり変化することを好まない傾向がある。ぼくもその後の30年間にたった2軒の美容室しか行っていない。

1軒目は地元のお店。銀座のビダルサスーン系列の美容室で店長をしていたHさん夫婦が独立し、縁あって甲府にお店を出すことになった。知人に紹介されてデザインを担当した30代のぼくは、それからずっとここに通っては、同年代のHさん夫婦と一緒に遊びに出かけたり、職種は違っても同時代を並走する仲間のような付き合いをしてきた。富山出身のHさんは東京時代に美容師コンテストの全国大会で上位入賞を果たすほどのテクニシャンでシャープなカットが持ち味だ。片やパートナーのTさんは粘り強い構築系で、対照的な二つの個性を両輪としたお店は根強い顧客層を獲得していく。その後順調に業績をのばした彼らは土地を購入し、分散していた店舗を統合して新店舗を建設することになった。

彼らがこだわったのはコンクリートの打ち放し建築。そこでHさん夫婦は知り合いの伝手をたどって、建築デザイナー川崎隆雄氏に設計を依頼した。川崎氏とコム・デ・ギャルソンのデザイナー川久保 玲さんは慶應義塾大学の同級生だった頃からの友人同士で、ギャルソンの店舗デザインをほとんど手がけている。その川崎氏が初めてデザインする美容室が甲府の街に誕生することになった。印象的な横に伸びる1枚仕立てのミラーやストイックでミニマルなコンクリート空間は、二人がずっと温めていたショップイメージそのものだった。ぼくも方向性は少し違っていたが、ほぼ同時期に同じようなことにトライしていたから、自分の好みを労働空間にも反映させたいという彼らの志向はとてもよく分かる。団塊直後のぼくらの世代には、前の世代の熱気から一歩距離を置き、情熱をいったんクールなベールで覆いながら自分の中で密かに温めて続け、機を見て自己表現を図るようなところがある。その心理は別に屈折したものでなくいたってシンプルなのだが、外部に共感を求めるより自分が共感できることを優先するため、一見ナイーブな頑固者に見られることも少なくない。平たくいえば、どんな風に見られたってあまり気にしない。本当に自分が心地よいのかが問題なんだ、ということを優先しようとする世代なのである。年に10回くらい出かけては、Hさんにカットしてもらいながらぼくらはとりとめもない会話を交わす。これも一種の定点観測となる。こうして20年近い時が流れた。

新世紀に入ると、時代を覆う空気感が微妙に変化してくる。コンクリート建築でその作風を確立した安藤忠雄さんが海外でも高い評価を受けるようになってくるにつれ、へそ曲がりのぼくのなかでは「いつまでもコンクリートの打ち放しでもないよな」という思いが頭をもたげてくる。盤石だった「心地よさ」のカタチも揺らぎはじめ、これまで見向きもしなかったものを少し取り入れてみようかという気持ちが生まれてくる。

そこである日、家族に紹介してもらった東京の美容室に出かけてみることにした。そのお店は六本木のミッドタウン国立新美術館の間にある、南仏プロヴァンスの別荘をイメージしたという美容室。オーナーは有名女優たちも信頼をよせる、雑誌などにも時々登場するヘアメイクアップアーティスト。六本木に2店、銀座に1店を展開していて、ぼくの行ったお店は六本木の小道沿いの瓦屋根の黄色い一軒家。民家を改造したショップには季節の風が通り抜け、なるほど行ったことないけど南仏プロヴァンスってこんな感じかと思わせる店作りだ。コンクリート打ち放しとはだいぶ趣が異なる。隣家の入口に警備員が立っているので不思議に思っていたら、大臣歴任中の与謝野馨氏の自宅だった。

カットはとてもナチュラルな仕上がりだ。ヘアカットは一種の造型表現。カチッと強引に作り上げていくのではなくて、その人のもっている毛の流れに逆らわず、外の空気を巻き込むような自然な造型をベースに、こちらの要望も巧妙に反映してくれる。よし、ここにしばらく通ってみようと決めてから、担当者の移動に合わせて銀座に行ったり、六本木に戻ったりしながら10年近く経ってしまった。その間にヒルズやミッドタウンも誕生した。そんなぼくにあきれて、美容室の近くでデザインオフィスを構える友人には「髪の毛切りに1日かけて東京まで出かけてくるなんて、お前馬鹿じゃないの」なんて言われるが、たしかにそうだなと思いつつ、髪がのびるとまた予約を入れている。忙しいときには東京滞在3時間のとんぼ返りをすることもあるけど、仕事に追われる日々が続くと、移動の車中でぼんやりするひとときも案外悪くないなという気がしてくるのだ。

このお店でぼくの担当してくれた美容師はこれまで3人いたが不思議なことに山形、福島、仙台とすべて東北出身の子たちだった。いろんな意味でいま大きな岐路に立たされているこの日本で、ぼくはのんびり髪の毛なんか切ってていいんだろうかと自問することがある。しかし、自分のできることを精一杯やりきっていく日常の先からしか何も見えてこないだろうという思いもある。

ヘアースタイルが少し変わると、何か自分がほんの少しだけ生まれ変わったような気持ちになる。事実、人間の細胞も定期的に分裂と再生を繰り返し入れ替わっていくらしい。部位によってばらつきがあるため、その周期には諸説あるが、だいたい6年周期で入れ替わるようだ。つまり同じ人間に見えても、6年前と今の体は別な細胞で構成されていることになる。こうして小さな生まれ変わりを繰り返しながら、人は老いに向かっていく。 人体は生命が乗り込む電車のようなものだ。走り続ける電車は、いつ何時その体全体に危害を及ぼすことになるかもしれないという危険性をはらんだ数々の臓器群によって支えられている。反乱のその時がくるまで、彼らは片時も休むことなく分裂・再生を繰り返しながら、生命を乗せた電車を懸命に走らせようとする。

フォークシンガーの高田渡には詩人だった父親がいた。その人はかつてこんな詩を書いていた。

田舎の電車

*

電車は走っている

車輪の音響に促されて

無意識に走っている

私は後に凭り掛かって瞑目している

私は行先を考えてはいない

運転手の目は 慣れ切っている前の

レエールなんか見てはいない

唯った4、5人の客は

てんでに人の足下を眺めていた

車掌は出口にもたれて

客の風体を全部見てしまっていた

桑畑の中を電車は真直に走っていた

夕陽の影に追駈けられて電車はいつまでも

走っていた

*

高田 豊(大正13年8月)

iPhone 4S + iPad 2
iPod touch, iPhone 4S + iPad 2

2011.12.03

以前ぼくがこのブログでiPod touchを取り上げたのは2008年の1月1日。丁度その頃、アメリカではiPhoneが発売されたばかりだった。iPod touchはいずれ日本で発売されることになるだろうiPhoneのトレーニング版という印象をもっていたので、当時のぼくはiPhoneこそが自分のパーソナル電子端末の着地点となるのだろうと考えていた。案の定それからiPhoneは世界のスマートフォン(多機能携帯電話)市場を牽引し続けてきた。しかし歴代のipod、iPod touch、そしてiPad、iPad2へとApple小型電子端末遍歴をかさねてきたぼくは、SoftBankから発売された日本初のiPhoneにも、別にただ電話機能が追加されただけじゃないかと、特に心動かされることもなくスルーしてきた。

去る10月5日、スティーブ・ジョブズ(Steven Paul Jobs)が亡くなったその翌日、後継者のティム・クックによって最新モデルのiPhone 4Sが発表された。やっとiPone 5が発売されるぞと首を長くして待っていた人々を落胆させることとなったこのモデルは、事実上ジョブズの遺作商品と言われている。4Sというモデル名も実はジョブズに捧げたiPhone for(=4) (S=)Stevenであるというまことしやかな噂もネットに流れていた。そして彼の死を待っていたかのように、取材嫌いで知られるジョブズ公認の伝記本も出版され、日本でも翻訳上下巻はまたたく間にベストセラーとなった。こうしてこの秋、「商用パーソナルコンピュータを所有すること」の喜びを生み出したと言われるジョブズは一躍世界の時の人となった。

ところでアップル社の共同設立者は3人いたそうだ。その1人、マイク・マークラは単に資産家として投資目的で声をかけられた人物だったから、実質的なアップルの設立者はジョブズと彼の古くからの友人スティーブ・ウォズニアックの2人といえるだろう。ウォズニアックはコンピュータに関してはジョブズ以上の才能を発揮した人物だったらしい。SONYの井深大と盛田昭夫をあげるまでもなく、歴史上人々の記憶に刻まれる業績を残した人物は、コンビを組むことになる相手との運命的な出会いからその創成期をスタートさせることが多いようだ。

先日、ニューヨークタイムズ紙のマガジン欄に掲載されたジョブズとビル・ゲイツを、ヴァンパイアとゾンビになぞらえて分析した記事が朝日新聞のGLOBEで紹介されていた。それによれば、人は意気揚々と動きまわるカリスマ的なヴァンパイア型と、トボトボと歩く不器用者のゾンビ型に分類されるらしい。孤高を好むヴァンパイアに対して、ゾンビは大儀をかかげて集団を組織することに長けている。しかし、対となる組み合わせによってこの分類はとたんに流動的となる。ジョブズとウォズニアックの場合、ジョブズはゾンビでウォズニアックはいかにもヴァンパイアっぽいのに、ジョブズとビル・ゲイツの場合、ジョブズがヴァンパイアでビル・ゲイツがゾンビとなるらしい。しかしヴァンパイアもゾンビも、ぼくら日本人にはいまひとつピンとこない。LennonタイプとMcCartneyタイプと言ってもらった方がぼくにはずっと分かりやすいのだけど、これも世代によって分かれるところかもしれない。

青年期のジョブズはどうみても典型的なMcCartneyタイプだったようだ。しかし、 ISSEY MIYAKEの黒いタートルにリーバイス・ジーンズとニューバランスのスニーカーをユニフォームとした晩年のジョブズは、LennonタイプがMcCartneyタイプを覆いはじめ、そしてその死によって彼はLennonタイプへと完全に変貌を果たしたかのような印象を受ける。

アップル社命名の由来を決してジョブスは明らかにしようとしなかったそうだが、そのとき彼の脳裏にビートルズの設立したレコードレーベルのアップル・コア(Apple Corps)が浮かばなかったはずはない。1978年にアップル・コアがジョブズのアップル社に対して商標権侵害を主張した訴訟を起こしてから30年あまり。幾多の紆余曲折を経て2007年、やっと両社は和解することになる。深くビートルズを愛したジョブズにとって、この商標に関する長い対立期間はいたたまれないものだったに違いない。だから、iTunesでのビートルズ配信が開始された去年の11月17日という日を、ジョブズは特別の感慨をもって迎えたのではないだろうか。アップルサイトのトップページには「ビートルズがiTunesにやってきた。」というジョブズの喜びにあふれたコピーが掲載されていた。

それから1年が経った。愛用してきたauのiida G9もそろそろくたびれてきたので、ぼくは来年の夏頃登場するのではと噂されているiPone 5を次の携帯にしようと決めていた。ところが先日、なぜか衝動的に思い立ち、iPhone 4Sを購入してしまった。消費欲望は無意識の泉からある日突然湧き出してくるものだから、本当の理由なんて決して分からないけど、この一ヶ月ほどの間に心ふさぐ出来事が相次いだことが関係しているのかもしれない。

さて、Appleが「史上最高のiPhoneです」と胸を張るこのiPhone 4S。イチオシのiCloudは、携帯を紛失した際に場所を追尾したり、データを遠隔操作で消去できる機能もあって安心なのでさっそく設定。5枚のレンズを内蔵する高画質の光学システムカメラは、愛用のデジカメを凌駕するほどでないのでスルー。機能満載のこの1台にすべて集約させるにはバッテリーが心許ないため、とりあえず電話とメールに絞って活用することにする。以前使っていた携帯の電話帳を移動する方法もあったが、丁度よい機会なので連絡帳を数年ぶりに整理してアドレスブックを作成し、同期させることにした。ところがいざ使いはじめてみると、信じられないような使い勝手の悪さも判明してくる。例えばメール受信。バッテリーの消費を抑えるためにスリープ設定するのは常識だが、このau 版iPhone 4Sはスリープしているとメール受信が表示されない。こんな携帯なら当たり前にできることがこのiPhoneにはできないのだ。発売されたばかりだから、こうした不満に対応してくれるアプリもまだ登場していない。そこで仕方なく設定したのが、Cメール (SMS) 受信通知を利用する方法。au では特定のメールアドレスへメール転送することでメール受信通知が行える仕組みがあり、しかも受信は無料。この設定をしておけばスリープ状態であってもメールの着信通知は入ってくる。たまった着信通知を削除する手間や誰からのメールなのか分からないという欠点はあるものの、とりあえず受信を素早く知る代替手段としては使えそう。でもauキャリアメールの扱いは最短 15分間隔の受信となるため、au 版iPhone 4Sの携帯メールはすぐに届くという一般通念が通用しないことになる。不具合も決して少なくない。突然画面がブラックアウトしてしまい、電源も入らなくなったことが一度あった。これはスリープとホームボタンを同時に10秒以上押し続けてなんとか復帰。またスリープを解除したらロック画面に「不正なSIMです」と警告が出て、データ通信不能になったことも2度あった。これは再起動で復帰。この現象は数多く報告され、auやSoftBankだけでなく海外でも発生しているらしい。「史上最高のiPhone」も蓋を開ければ、こんなやれやれな裏顔も見えてくる。スマートフォン初心者のぼくはApple StoreでDockと一緒にPerfect Manualを購入して備えたものの戸惑うことばかり頻発する。ひとつ謎解きが終われば、また次の謎がすぐに浮上してきてスマートフォンの森はけっこう深い。

ジョブズの夢の道具、iPhone。思いつくかぎりの便利で楽しいことを、このちっぽけな道具に詰め込んでみよう。いやいや、探し出せばもっとなにかあるはずだと、ジョブズは比類なき情熱をもってして、彼の夢をこのコンパクトな電子端末にぎっしりと詰め込んできた。もっと自分を拡張させていくことや、もっと多くの人々と繋がることを誘い続ける電子端末。たしかにそれは、ぼくらの生活を多少変化させたかもしれない。しかし本来、電話は耳元にあらわれる「声」によって、ふたつの心がつながる神秘的な発明品だったはずだ。テレビ電話の現代版といわれるFaceTime通話は、そのふたつの心の通路から、そっと神秘性を抜き去ってしまう。便利さや楽しさの集積だけでは実現できないこともある。

ジョブズの死を悼んでSoftBankの孫正義氏がこんなことを言っていた。「これは推測にすぎないけど、ジョブズがもっと生き続け、最後に作り出したかった究極の商品は「iRobot」だったのではないか。」人に限りなく近づくことができる、科学技術の究極形をそのようにイメージしていたのではないかという。AIBOのようなペットロボットでなく、ましてやアンドロイド(人造人間)などでもない究極の「iRobot」。単なる便利さを超越し、近代人の孤独に寄り添う「iRobot」。たしかに彼なら、心の在りかを求め続けた末にそんな夢の道具を生み出すことができたかもしれない。

Portrait_
Mark Isham (1951-)
Koga Masao (1904-1978)
Andres Segovia (1893-1987)

2011.11.01

数年前、Brian Eno(ブライアン・イーノ)が好きなぼくならこれは好みかもしれないと、息子がネットから入手した音源をCDにコピーして持ってきてくれた。CDにはMark Isham(マーク・アイシャム)とペン書きしてあった。調べてみるとマーク・アイシャムはアメリカのミュージシャンだった。トランペットやシンセサイザー奏者として、ストーンズヴァン・モリソンジョニ・ミッチェルデヴィッド・シルヴィアンらのアルバムに参加しているが、本領は映画音楽。1990年にはグラミー賞も受賞しているとwikipediaにあった。なるほど収録された曲には、古きよき昭和の映画にエンディングで流れてきそうな叙情的な音楽が随所に収められていて、ぼくはしみじみとした気持ちに浸りたいときなどに、ふと思い出してはこのアルバムを何度も聴きかえしてきた。

そういえば、かつてぼくも父親に音楽を聴かせたいと思ったことがあった。闘病生活に疲弊しきっていた父は、見舞いに行ってもいつも表情は硬く、見るからに辛そうだった。そこでぼくは父が昔酔っぱらって帰宅したときによく口ずさんでいた古賀政男の曲などをセレクトしてカセットテープにダビングし、枕元で聞けるようコンパクトなラジカセにセットして病室に持っていった。それらは『影を慕いて』『酒は涙か溜息か』『人生の並木路』といった古賀メロディーの代表作や美空ひばりの『悲しい酒』など、戦後の流行歌ばかりをピックアップした、いわば昭和の叙情をテーマとしたコンピレーションだった。西日が差し込む晩冬の病室に懐かしい曲が流れはじめると、父の表情は次第にほぐれて、いつもの父の顔に戻ったかのように見えた。亡くなる一ヶ月ほど前のことだった。

日本の大衆音楽である演歌は、西洋音楽の7音階から第4音と第7音を外した、五音音階を使用する音階法を特徴とするという。そしてこの音階法を確立したのが古賀メロディであるとされることから、古賀政男は演歌の巨匠などとよばれたりする。しかし、「艶歌」や「怨歌」とも字を当てられる、いわゆる酒場唄としての演歌と古賀メロディは異母兄弟のような違いがあるのではないかという気がしてならない。

演歌は元々「演説歌」の略語であり、明治時代の自由民権運動の産物のプロテストソングとして出発している。袴姿でバイオリン片手に政治を風刺する歌を歌ったのが演歌師とよばれる人たちだった。添田唖蝉坊は演歌師の草分けとして名高いが、大正時代になると洋楽手法を導入した鳥取春陽などが登場してくる。『籠の鳥』で一世を風靡するが、まだ当時このヒット歌謡は演歌でなく「はやり唄」とよばれていた。この頃の演歌師の面影は、現代の演歌師として活動している宮村群時の演奏に偲ぶことができる。

さて、古賀政男は7歳で父親と死別するまでの幼年期を福岡で過ごし、その後朝鮮にわたり、故郷喪失の悲しみとともに多感な少年期を過ごした。帰国後はマンドリンやギターを通じてクラシック音楽を研鑽する青年期を送り、明治大学マンドリン倶楽部の創設にも参画する。この頃にワルツ・ギター合奏曲として発表されたのが名曲『影を慕いて』だ。

1969年に創刊された音楽雑誌「ミュージック・マガジン」(1980年まではニュー・ミュージック・マガジン)には70〜80年代の数年にわたり「日本の芸能100年」という連載記事が掲載されていた。これは数人の研究者が年代順にリレー形式で日本の芸能について執筆を重ねた、実に読み応えあるシリーズだった。おそらくこの中の記述だったと思うのだが、古賀政男はあるとき来日したスペインのギタリストAndres Segovia(アンドレス・セゴビア)の演奏に強い衝撃を受ける。セゴビアは、それまで田舎の楽器と見下されていたギターを、ヴァイオリンと同じようにクラシック音楽の楽器といわれるまでの地位に引き上げた「現代クラシック・ギター奏法の父」と讃えられているギター奏者だ。演歌師の音楽に親しみ、マンドリンやギターを通じてクラシック音楽にも触れた古賀政男は、ギター演奏の変革者、セゴビアというスペインのギタリストの音楽と出会う。そしてこの運命的な出会いが、実は演歌に連なる古賀メロディーを誕生させたのだという内容だった。この出会いが偶然だったか必然だったのかわからないが、異国間のブレンドから生み出された音楽が、昭和を生き抜いた多くの人々の心に深く染みこんだことを考えれば、やはり日本人にとって幸福な出来事だったといえるだろう。

ところで当時の「ミュージック・マガジン」には他の音楽雑誌と異なり、音楽を音楽という文脈だけで捉えるのでなく、多層な文化に連動しながら複眼的視点で捉え直そうとする姿勢が感じられた。そこには一貫して創刊者である音楽評論家、中村とうよう氏の編集理念が色濃く反映されていたと思う。しかしその中村氏は今年7月に突如亡くなってしまった。自死の直前まで、収集してきたレコード・楽器・書籍など、音楽関係の膨大な資料をすべて武蔵野美術大学に寄贈する作業を進めていたそうだ。昭和の終焉を実感させる出来事となったが、ぼくの中では昭和の残像や残響はいつまでも漂い続け、なかなか幕は下りそうにない。

昭和を色濃く縁取ってきた古賀メロディー。その底流には、リリシズムの大河が横たわっている。抒情性の歴史は、叙情詩の発祥が古代ギリシャにまで遡るとされるから相当に古いものだ。しかし近代の抒情性はこうした詩形より、音楽に見いだされることが多いのではないだろうか。そこには悲しみ、哀愁、切なさなどが含まれるが、同時にそのいずれでもない、さらに深い情緒がともなう複雑な感情表現といえそうだ。ヨーロッパのトラッドフォークには「静と動」の様式で構成された楽曲に叙情性を感じさせるものが多いといわれるが、近代人が胸を締めつけられるような切なさを超えた先に、さらに深い感動を覚える叙情性を求める理由は一体どこにあるのだろうか。

先月の中旬、地元の文学館で開催されている企画展「深沢七郎の文学」の講演会のために久しぶりに中沢新一さんがやってきて、ぼくも1日同行することになった。当日の中沢さんの「奇跡の文学」と題する講演はとても印象的なものだった。日本の近代文壇に突如登場した深沢七郎の文学は否定しようのない普遍性に深く根ざしていて、こんな文学は日本、いや世界でも類例のない奇跡の文学である。そしてそれがこの甲州で生み出されたことを、そこに生きる人々はもっと誇りに思っていいのではないかと語りかけていた。これまでこんな視点から深沢七郎の文学が語られたことがあっただろうか。それについてここで多くは触れないが、そこで深沢文学と対比させた近代文学の特性についての興味深い指摘も印象に残った。

明治維新以後、ヨーロッパから日本に伝わってきたモダンの潮流。それは個人主義や自由主義を包摂する近代意識である。子どもの頃のふるさとや母性などが一体となった共同体の記憶は深層意識の中で生きているのに、デラシネ(〔根なし草の意〕故郷を喪失した人)な孤独な個人となった近代意識は、その落差を埋めることができずに苦しみ続けることになる。そして、素顔と仮面の狭間で満たされることのない苦悩や欲求に突き動かされるかのように、太宰治や三島由紀夫といった作家から、酒や恋愛をテーマとした文学が生み出される。近代文学のほとんどは、そうした共同体から分離した眼をもって作り出されたものだったと中沢さんは言う。これはなにも文学に限らない。世界を覆い尽くす近代人の共通意識であった。

そこでぼくは共同体の記憶へと誘ってくれる水先人や伴走者として、叙情性を近代が欲したのではないかと考えてみた。文学や音楽の叙情性を湛えた物語の奥に見え隠れするのは、共同体の記憶を取り戻そうと願う祈りや希望なのではないかと。昭和初期の古賀政男の音楽。昭和37年に流れた小林旭の『北帰行』から、昭和52年の中島みゆきホームにて』まで、昭和歌謡の叙情性は途切れることはない。その中でぼくがもっとも近代意識の孤独と切なさを感じてしまう曲は、1951年生まれのフォークシンガー、そして現代美術家の朝比奈逸人が作詞・作曲した『トンネルの唄』だ。この曲は高田渡がとりあげて広く知られる曲となった。いろんなカバーがあるが、やはり高田渡の弾き語りバージョンが一番切ない。(youtube では唯一ここで5分55秒から8分57秒まで試聴可能だ。)

Botanical Art : Koji Kusunose

2011.10.02

ボタニカル・アートは植物学(Bortanical)と芸術(Art)を表すその語源通り、科学と芸術の二領域にまたがる植物画のことで、近年の自然志向を反映して日本でも静かなブームが続いている。その来歴は思いのほか古く、薬草を見分けるために古代エジプトなどで作られた図譜がその起源といわれている。まだ写真技術をもつことのなかった15〜16世紀の大航海時代には、未知の大陸で発見された植物などを記録する手立てとして発達し、17〜18世紀に入ると図鑑にまとめられたこれらの植物画は、貴族や商人たちの間でたいそう流行したそうだ。

ボタニカル・アートはできるだけ主観を交えない科学的視点に貫かれて描かれるため、必然的に匿名性を帯びた絵画と見なされることが多い。スタイルやルールについてはさまざまな定義があるが、基本的に実物大で描き、拡大縮小する場合には倍率を入れる。植物の特性は変えずに正確に美しく描写し、季節を超えて開花や結実を同じ画面に描いてもよい。また、背景や地面、花瓶・鉢などを入れないことなど現実的にはありえないが、そこにはできるかぎり植物の特性を端的に伝えるための視覚的な再編集が求められている。

植物画を描くことは自然の生み出した造型美に宗教的ともいえる敬虔な気持ちをもって向き合う、ある意味写経にも似た行為とも言えるのではないだろうか。しかし人間とは不思議なもので、どんなに私心や自我を消し去ろうと努めても、絵にある種の歪みが生じてしまうことは避けられない。人間は決してカメラになりきることはできないのだから、そこが実はボタニカル・アートの屈折した魅力ともなっている。

上の植物画は、すべて高知で制作活動するボタニカル・アーティスト、楠瀬浩二さんによるものである。 6歳年長の楠瀬さんとの出会いは今から28年前に遡る。当時ぼくは地元企業のデザイン顧問をしていて、その企業を介して楠瀬さんと出会った。80年代早々、その企業は新工場完成と本社移転に伴い、C.I(コーポレート・アイデンティティ)を導入することになった。新しいシンボルマークやロゴを基軸に広報ビジュアルを一新するこのプロジェクトの企画会社として白羽の矢が立ったのは、在京大手代理店を経由する名高いプロダクションでなく、なぜか四国は高知に本拠をおくデザインプロダクションだった。ディレクターとなったのは浜野商品研究所のブレーンで、インテリアデザイナーの泉順一さん(残念なことに泉さんは数年前帰らぬ人となってしまった)。泉さんは高知でPlaza Design Consultingという会社を主宰。そしてともにこのプロジェクトに、グラフィックデザイナーとして参加していたのが、泉さんの旧友でInk Spotというデザイン事務所の代表をしていた楠瀬さんだった。ぼくは現地デザイナーとしてこのプロジェクトに参加することとなり、足かけ3年にわたる協同作業は実に得難い経験となった。スパンの長い視点から組み立てられたプランニングと心理学的プレゼンテーション手法。問題点の抽出や現状分析から導き出される課題点や改善点。そこを基点にして、着実な具体化へと結びつけていく提案能力。こうした企画広報のイロハを、ぼくはこの出会いを通じて遅まきながら学ぶことができたのだ。

泉さんはかつて若かりし日の建築家、安藤忠雄氏と共に世界の建築を観て歩く旅に出る。そしてその道中、安藤の建築に対する凄まじいまでの情熱と集中力を目の当たりにして、この男と同じ世界で活動してもとても適わないと思い直し、進路のベクトルを建築からインテリアにシフトしていくことにしたのだと生前語ってくれたことがある。しかし泉さんはPlaza(=広場)の命名精神を見事に貫き、人間を真ん中に据えたそのデザイン思想を実践しながら多くの実績を重ねていった。大阪に拠点を移す頃には(株)PDCの代表として400名の社員を抱える企業に育てあげるまでになっていた。ボスコ設立時にはぼくが購入を希望していたCassina(カッシーナ)の家具類を特別価格で納入するよう販売元と交渉して門出を祝ってくれた。

楠瀬さんとのおつきあいは長きにわたり、そして深いものとなった。80年代、高知に新生INKSPOTを設立し、デザインオフィスに併設したギャラリー(ギャラリー・パン)では、1987年から1993年まで67回にもおよぶ展覧会をプロデュースして、楠瀬さんは岡本太郎や遠藤享といったさまざまなアーティストと親交を結びながら、その活動範囲を高知の文化活動にまで広げていった。そんなデザイナーの枠を超える活動の中から、高知産業デザイン振興協議会の設立や土佐鰹プロジェクトなどが生み出されてきた。楠瀬さんらが中心となって企画した「黒潮グラフィティ1991・1993」にはぼくも講演者として招かれたり、ボスコの設立パーティには友人デザイナーを伴って高知から駆けつけてくれたり、途切れることのない親交を重ねてきた。それに遠藤享さんと引き合わせてくれた楠瀬さんは、狭い井戸からぼくが抜け出るきっかけを作ってくれた恩人でもあった。

ほんとうに人との縁(えにし)とは不思議なものだ。縁が縁を結び、その縁はまた別な縁を引き寄せる。 ある日、楠瀬さんから電話が入った。その頃大阪のPDCに籍を置きデザイン活動していた楠瀬さんは、東京のある企業の会社案内のデザインコンペに参加することになったので一緒に参加してみないかと誘ってくれた。基本的にコンペは参加しないことにしていたぼくも、他ならぬ楠瀬さんの誘いということもあり、思い切ってプレゼンしてみることにした。結果は意外にもボスコのプランが受け入れられることになり、そこからその企業との10年以上にわたるつきあいが開始されることになった。こうしてボスコのデザインは、グラフィックから商環境の空間デザインへと広がり、そこからまた、現在取り組みに傾注している企業の仕事へと縁のバトンが渡されていくことになる。それもこれもすべて契機は楠瀬さんが引き寄せてくれたものだった。ぼくは誰が師匠だったのかと聞かれたら、それはデザインの基本を伝授してくれた上、展開していく道筋まで用意してくれた、この楠瀬さんをおいて他にいないと思っている。

しかしその人は、ある機を境に騒々しいデザインの世界ときっぱり決別をする。2000年頃より郷里の高知嶺北に移り住み、植物画家としての創作活動を本格化させていく。日がな一日、高知の山野に出かけては草花と向き合い、時折届く個展の案内状にはこんな一文も添えられていた。

「ここら辺りでは家のまわりや道端にもツクシやフキノトウがあちこちで顔をのぞかせ、川原にはネコヤナギが春の陽ざしに輝いている。そんな穏やかな光景を眺めていると、子供の時に過ごした街の都市化がすすむにつれて遠のいていく“原っぱ”の記憶が甦ってくるようで、心のひかれるままに「春芽秋実」を描いています。」

ずっと時代と切り結んできた楠瀬さんは、いまや自身の心に広がる広野を逍遙する旅人のようだ。二ヶ月に一度ほどの割合で「どうもどうも、元気でやってますか」と懐かしい長電話がかかってくる。世俗から離れた超然を気取る風もなく「デザイナー時代とくらべたら、毎日のんびりしたもんですわ」と土佐っ子の屈託ないその声を聞きながら、かつてはグラフィックデザイナーだった楠瀬浩二さんに先導されるように歩を進めてきたぼくは、その水先人が今見つめる視線の先に目をこらしてみるのだが、手元の清々しい数葉の植物画は水先人の平穏な心情をただにじませているだけだ。

Album Jacket Photo of Asazaki Ikue
Above : Obokuri (TOSHIBA-EMI)
Below : Utaashibi (UM3-Japan)

2011.9.01

とうとう地デジカ君の角に突かれて、我が家でも衛星放送を視聴するようになった。そんなある日、NHKのBSプレミアム「新日本風土記」を観ていると聴いたことのない不思議な女性ヴォーカルが流れてきた。坂本龍一の「BEAUTY」挿入歌「ちんさぐの花」やムーンライダースの名曲「黒いシェパード」で、印象的なバックコーラスを披露していた沖縄の民謡歌手の古謝美佐子(こじゃ みさこ)みたいだ。でも、似ているが歌い方が微妙に違う。ネーネーズの他のメンバーなんだろうか。そんなこと考えていると番組のエンディングロールに、テーマ曲:朝崎郁恵と流れてきた。初めて聞く名だった。ネット検索すると、このテーマ曲のタイトルは『あはがり』とある。(この時点では番組内でしか聴けなかったけれど、今ではダウンロード配信も開始され、iTunes Storeなどで購入できるようになっている)唄っていた朝崎郁恵は、1935年に奄美・加計呂麻(カケロマ)島で生まれ、奄美島唄では第一人者といわれる唄者(ウタシャ)だそうだ。このところすっかり音楽から遠ざかっていたぼくは、この人のことを何も知らなかったが、オフィシャルサイトにはこれまで発表されたアルバムも紹介されていたので、さっそく5枚ほどCDを取り寄せてみた。

彼女は南部のヒギャ節という、上下の揺れ幅の大きな節回しを特徴とする唄い方で有名な伝統的な奄美シマ唄の継承者だった。なるほど独特のコブシはそこからきていたのか。彼女しか唄えない曲も数多く、生きた文化遺産だと評価する人もいるという。アルバムのライナーノーツを担当している音楽評論家の増渕英紀さんが、かなり専門的な解説を加えていた。誰にもまね出来ない微妙な抑揚は、彼女のおばあさん直伝の「グイン」とよばれる独特の節回しで、コブシと裏声(ファルセット)を多用したもの。彼女は口癖のように「自分の歌の原点はおばあちゃん」と発言もしている。しかし現代のシマ唄は時代とともに歌いやすいように変化してきて、昔の節回しはすでに絶えてしまったといわれる。なのになぜ、朝崎郁恵だけが遠い明治初期の奄美シマ唄の記憶をとどめているのか。その答えを増渕さんはこう推測する。おばあさんから教えてもらったシマ唄を習得した朝崎さんは、1960年にご主人の転勤で奄美を離れる。以来、福岡、東京と移り住み、結果的に本土復帰後に奄美を襲った急速な近代化の波にさらされることもなく、島外へ持ち出した古いシマ唄の記憶やスタイルはそのままタイムカプセルのように彼女の中に保存されていたのではないかと。

加えて彼女の音楽の魅力は、そこから表現領域を広げて挑戦を続けているその果敢な姿勢にある。ピアニスト、ウォン・ウィンツァン高橋全、そして彼女をリスペクトする坂本龍一、UAゴンチチ中孝介らとの共演と、さまざまなジャンルのミュージシャンたちがその不思議な音楽の吸引力を認めている。幅広い活動の成果には、イクエ&カケロマンズとしてNHK「みんなのうた」でオン・エアーされて話題となった「ありがとサンキュー」も加えることができるだろう。

ビブラートやバイブレーションとも異なる、彼女独特の唄い方がぼくは初めて聴いたときから気になっていた。ギターにはスライドギターとかボトルネックといわれる奏法があるが、それはその名の通り、貧しい黒人のストリートミュージシャンが酒瓶の首を指に差し込んで弾いたことに由来する。通常、ギターの音程はフレットによって固定されているが、ボトルネックでは弦の上をスライドさせて音程をリニアに再現していく。長くスライドさせるとハワイアンのような脱力系サウンドにもなる。初心者が弾けば不安定きわまりない奏法だが、上級者になれば、出したい音の上下を小刻みにふるわせて中間音程として感じさせるため、独特の深みや粘性をともなった音がそこから生み出されてくる。ぼくは朝崎郁恵の唄声を聴いたとき、すぐにこれはボトルネックみたいなヴォーカルだなと思った。ルーツは「ヒギャ」とか「グイン」とよばれる伝統芸の節回しに根ざすのだろうが、思わずこれぞ日本のブルースと言いたくなるほどディープに熟成させたのは、やはり彼女の天賦の才であろう。

こうした朝崎郁恵の唄は、演歌や民謡とは別な遺伝子から生み出された音楽なんだと思う。どうやら沖縄や奄美といった島々に伝えられる音楽には、大陸や本土の広々とした風土とは別なシマ特有の世界観が染みこんでいるようだ。歌詞も訳がなければ到底理解できそうもないシマ言葉。しかし、これも日本。いや、これこそ日本の原風景なのかもしれない。「あはがり」や「徳之島節 Utabautayuuna feat.Final Fantasy X」からは、遙かいにしえからずっと歌い継がれてきたかような年輪を刻んだ厚みが伝わってくるし、標準語で歌われる「阿母(あんま)」や「十九の春」などを聴くと、日本はいい国だなぁ、日本に生まれてきてよかったなぁと、しみじみ思う。そしてつい、ウルウルモードのスイッチが入ってしまいそうになるのだ。

悲しみや辛さで心が砕けそうになるときに、それを防いでくれる機能が音楽には備わっている。ヒリヒリとした記憶に、当時よく聴いていた音楽が寄りそっているのはそのためだ。南西諸島には神占いをするユタとよばれる女性がいるという。母や妻や姉や妹でもなく、叔母でもなく、ましてや近所にいるおばちゃんたちでもない、あらゆる母性的存在を呑み込んだ歌声が、朝崎郁恵の唄を通して彼方からやってくる。そして見えない衣となって、心をそっと包み込む。