Bela Bartok
using a gramaphone to record folk songs
sung by Czech peasants.
Ry Cooder
大瀧 詠一

2014.2.02

一番上の写真は、昨年末に制作した中央公論新社の文庫本カバーに使用したデザイン素材。ハンガリーの民族音楽研究家でもある作曲家、バルトーク・ベーラが1908年に行ったハンガリー民俗音楽採集時の記録写真である。バルトークは1906年から仲間の研究者らと共にハンガリー各地の農民音楽の採集を始め、その後発表された彼の作品には、これら民謡採集の影響がはっきりと表れているという。写真の中央やや左寄りに見える百合の花の形をした装置が集音器。これでハンガリー各地の多くの人々の歌い声を録音したのだろう。

ずっと永いこと人間にとっての音楽はライブ・サウンドで、そこに立ち会った者だけが、音楽のもたらす歓びを享受できるのだった。しかし録音装置の発明によって、音楽を聴くことの意味はまったく変わってしまった。ライブだけに限定されることなく、この装置の登場によって、いつでも、どこでも、そして誰でも音楽の試聴が可能となり、そこに初めて「音楽を編集する」という概念が生み出されることになる。編集された音楽はさまざまに変容しながら、現代に至るまで、音楽の在り方はめまぐるしい変貌をとげてきた。

世界で初めて登場した録音機は、1877年にトーマス・エジソンが作った円筒式蓄音機だとされている。(収録曲は「メリーさんの羊=Mary had a little lamb)しかし実はそれより17年ほど前に録音された歌声があったのだという海外ニュースがLifener Netで掲載されていた。

録音してもそれが再生されなければ、聴くことは叶わない。フランス人のエドゥアール=レオン・スコット・ド・マルタンヴィルが発明したフォノトグラフは、音を記憶する装置としては最古のものであったが、当時の技術では記録した波形を音として再生することができなかった。この最古の波形を復元したのは、アメリカ・カリフォルニア州のThe Lawrence Berkeley National Laboratoryの科学者たちだった。

最古の波形とは1860年4月9日にフォノトグラフで記録された「Au Clair de la Lune(月の光に)」と題された自国の民謡を歌うフランス人女性の歌声。フランスのサイトAnecdote du Jourでは、フランス科学アカデミーが認定したこの「人類最古の録音」が公開されている。再生されるのはわずか10秒。ノイズの様な音だが、これがまぎれもない世界最古の録音された音源だ。(このページ最上部にある▲をクリックすると試聴できる)実に160年間眠り続けていた歌声が、2008年にやっとその封印が解かれることとなった。

話を写真に戻そう。このスナップでぼくが特に興味を引かれたのが、集音器の向かって右に立ち、こちら側を見つめる少女だった。(上から二番目がその拡大部分)足元を見ると彼女は何と裸足ではないか。その横に並ぶ二人の若き女性も同様に裸足だ。当時のハンガリーでは大人にならないと靴を履くことは許されなかったのだろうか。それに撮影者に向けられているこの子らの眼は、何かに怯えているように見えなくもない。ぼくは4歳の時に生まれて初めて写真を撮られてベソをかいてた自分の顔を思い出してしまった。未知の道具に対して注がれる、好奇心と怯えがない交ぜとなったまなざし。この1枚の写真には、現在に近未来の楔が打ち込まれている光景がはっきりと記録されている。

さて、古今東西、音楽家の中にはバルトークのような研究者肌の人物が少なくない。ぼくの小さな収蔵庫からも、ライ・クーダーや大瀧詠一などのミュージシャンがすぐに思い浮かぶ。

ライ・クーダーはロック、ブルース、ワールドミュージック、R&B、テクス・メクス、カントリー、ゴスペル、ジャズと広いジャンルにまたがって、いわゆるルーツミュージックを発掘し、自身の作品にも蓄積された造詣を存分に投影してきた。彼は極東の沖縄民謡にまでその触手を延ばし、喜納昌吉&チャンプルーズのアルバムにも参加している。また、コンパイ・セグンドらキューバのミュージシャンたちと共同制作したヒットアルバム『Buena Vista Social Club』は欧米を中心に高い評価を受けた。世界各地の民族音楽とかかわり続け、その「起源」を体現する、現在も活動中の貴重な米人 音楽家の一人。

もう一人の大瀧詠一は残念ながら、昨年末の12月30日に65歳で急逝してしまった。突然の死がもたらした音楽関係者への喪失感は決して小さくない。いうまでもなく彼は「はっぴいえんど」の元メンバーとして、そしてソロになってから設立したプライベートレーベル「ナイアガラ」などの活動で知られている。その他、『A LONG VACATION』(1982年)のミリオンヒット、三ツ矢サイダーのCMソング、そして多くのカバーを生み出した代表作「夢で逢えたら」の作者として、また松田聖子、小泉今日子らへの楽曲提供などでつとに有名なミュージシャン。加えて勉強家としての側面も忘れることはできない。それに関してはウィキペディアで以下のように紹介されている。

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諸芸能を始めとした様々な分野についての深い見識を持ち、交友関係が広いことでも有名である。自身は音楽の系譜についての勉強をライフワークとしているが(『分母分子論』『ポップス伝』のように紙上・ラジオ上でその成果を垣間みることができる)、音楽のみにとどまらず広い分野にまで“関連性”を基底に置いて研究していることが「勉強家」と称するゆえんである。大瀧と同様に、日本の大衆音楽を研究しているミュージシャンに近田春夫がいるが、近田が多数の著書を発表しているのに対し、大瀧はラジオ放送をメインの発表の場としている。

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はっぴいえんどの盟友、松本隆が自身のTwitterで「北へ還る十二月の旅人よ」と題し、大瀧にこのような追悼の辞を捧げていた。

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今日、ほんものの十二月の旅人になってしまった君を見送ってきました。 ぼくと細野さんと茂の三人で棺を支えて。 持ち方が緩いとか甘いなとか、ニヤッとしながら叱らないでください。 眠るような顔のそばに花を置きながら、 ぼくの言葉と君の旋律は、こうして毛細血管でつながってると思いました。 だから片方が肉体を失えば、残された方は心臓を素手でもぎ取られた気がします。 北へ還る十二月の旅人よ。ぼくらが灰になって消滅しても、残した作品たちは永遠に不死だね。 なぜ謎のように「十二月」という単語が詩の中にでてくるのか、やっとわかったよ。 苦く美しい青春をありがとう。(1月4日)

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岩手県生まれの大瀧には、終生東北人としての分厚い闇を、眩いばかりの光に内在させていた印象が強い。不慮の死は、自宅で家族と夕食後にデザートの林檎を食べていて倒れ、救急搬送されたというとても象徴的な報道だった。これがみかんだったらやっぱり、らしくない。やはり淡い孤独のなかに硬質な甘さをたたえる林檎こそ、彼の最後にふさわしい。 生い立ちを読むと、小学生の頃からポップスフリークで、その後も吸収対象のエルヴィス・プレスリーやビーチ・ボーイズ、小林旭や三橋美智也やクレージーキャッツの植木らを同時期に聴いていたというから、その無節操ぶりに驚かされる。また、岩手県立花巻北高等学校へ入学後、下宿暮らしを始めたものの、授業料を全部レコードにつぎ込んでしまい1年で退学させられたという逸話にも笑ってしまう。高校生時代に初めて組んだバンドで、本来はコミックバンドをやりたかったというのも何とも彼らしいコメント。多才な大瀧には多羅尾伴内、笛吹銅次、多幸福、南部半九郎、イーハトヴ・田五三九といった別名があり、そのお茶目感覚はすでにこの時期から育まれていたらしい。

ところで、亡くなる3ヶ月ほど前の2013年9月20日に「FM坂崎Kトラ」のゲストとして出演した大瀧をアルフィーの坂崎幸之助がインタビューしている様子がYouTubeにアップされていて、大瀧のそのとぼけたキャラクターぶりについ聞き入ってしまった。(1時間ちょっとの長尺物)

生い立ちで紹介されていた「小岩の製鉄会社に就職するも、出社約20日、在籍期間3ヶ月で退職。その数日前、船橋ヘルスセンターで会社の慰安会があり、余興でビートルズの「ガール」をアカペラで歌ったところ、上司から「うん、キミはこういう所にいるべき人間ではない」と諭されたという。」という逸話はこの番組でもふれられていた。そこで大瀧詠一が、今日9月20日は、実は「はっぴーえんど」が解散して40年目の命日なんだと話しはじめ、つぎは俺の命日になったりしてと冗談かましていたが、今となっては笑えない。

終盤近くで二人は、坂崎幸之助が歌うフォークルの「花のかおりに」(北山修:詩、故・加藤和彦:曲)のカバーを聴いてしんみり。改めて聴きなおすと、すでに今は亡き加藤和彦と大瀧両氏の残像が重なり合ってきて、ぼくも何だかしんみりしてしまった。ともあれ、大瀧詠一はその研究者精神を最晩年まで東北人らしい実直さで貫き通した希有のミュージシャンだった。

さて音楽界に限らず、こうしたタイプの人物は様々なジャンルに点在していると考えられる。そもそも、研究者肌の人間は、往々にしてメカニズムに興味を示す傾向が強い。彼らはそこにはかならず何らかの法則が隠されているはずだと、現象の背後に普遍性を見出そうとする。そして、いまだ誰にも解明されていない謎に向かって情熱を傾ける普遍性探索の旅人たちだ。

片や表現者肌の人間は、形をもたないもの、見えないものとの一体化を目指す。形を成さないものを認識する能力に長けている彼らは、普遍性とは発見するものでなく、一体化するものなのだと直感しているかのようだ。

実をいえば人はみな、多かれ少なかれこの二面性をあわせ持っている。メカニズムとスピリチュアルは人間にとって隣人同士なのだ。メカニズムを解明したとしても、それで心が満たされるわけでもなく、心が満たされたと感じても世界を解明してみたいという欲求が消えてしまうことはない。この中間地点で行きつ戻りつしているのが人間というものなのかも知れないと思ったりもする。

「研究と表現」、「論理と感性」、「普遍性と個別性」あるいは「男と女」と言ったっていい。 古代からこの二つの気質を包摂する人間の頭脳構造は全く変わってないが、日頃ぼくらはそれらをさほど意識することなく使い分けている。 それなのに、この対照的な「研究」と「表現」を見事に両立させているバルトークやライ・クーダー、そして大瀧詠一らの純度の高さといったらどうだろう。なぜそんなことが可能になるのか。

これはぼくの拙い仮説にすぎないのだが、彼らは「表現」をモノローグ(Monologue)で完結させてはならないと考えていて、むしろ誠実な「表現」行為というものは、普遍性と個別性が相互に理解を深めながら、共感や意識、あるいは行動の変化を引き出し合う、真に創造的なコミュニケーションのあり方として、モノローグの対義語となるダイアローグ(dialogue)を目指すべきだと考えているからなのではないだろうか。このように直感する人物であれば、必然的に彼らのような生き方を選択するはずである。そういえば、オランダにはフェルメールのように科学する眼をもった画家もいた。人間の脳に備わったエンジンとモーターのようなこのハイブリッド構造は、その絶妙なセッティングによって、如何ようにもその能力を発揮してくれる優れものなのだ。それはまさに創造の源。それが無ければ、人間はこれほど無数の耳、無数の眼、そして無数の言葉を生み出すことはなかっただろう。ところで、このブログのシリーズタイトルはMonologue。ぼくのdialogueへの道はまだ遙か彼方にあるようだ。