Photograph_
Weeping Willow
by Yoshiyuki Toboshi
Shop of The Jazz Coffee Shop Aroma
by Masaki Fujii

2013.6.01

先月とりあげた「強行遠足」で、昭和32年に到達地最長記録を樹立されたのは岩間さんという方だと判明した。現在も元気に教会関係の仕事に従事されているそうだ。教えてくれたのは、日頃オアシスにしている写真屋さん「栄光堂」店主の戸星善行さん。(2009.7.02にも登場)なんでも、この岩間さんのお兄さんがよく来店していて、その方から弟さんの記録樹立の話を聞かされていたようだ。

ところでこの「栄光堂」の店内にはミニギャラリーが併設されていて、いつ行っても小ぶりな写真作品がひっそりと展示されている。中庭を望むテーブルを包み込むように作品は配置され、いつ訪れても気持ちの良い、心休まる空間だ。展示品は所縁の深いカメラマンや顧客、写真愛好家の作品などさまざま。そして、写真家でもある店主の日常スナップがときおり何食わぬ顔で(かなりの頻度で)紛れ込んでいる。

当店はライカ特約店ということで、もちろん戸星さんの愛機もライカである。ブレッソンよろしく、肌身離さず携帯して撮り溜めているというその作風には、押しつけがましさは一切感じられない。本人が自身の写真について語ることはほとんどないが、肩の力の抜け具合が実に絶妙で、その佇まいから深く写真と向き合ってきたことが伝わってくる。写しとられているのはリアルな情景なのに、詩情豊かな眼差しによって濾過された光景は不思議な抽象性を宿している。興味深いのは、戸星作品のモチーフのほとんどが身辺の風景から見出されていることだ。ことさら獲物を探してくり出すこともせず、自然体で日常に身を置き、静かにその瞬間が訪れるのを待っている。これは客商売の達人でもあるその姿勢と見事に重なりあっている。

上の写真はたまたま先日展示されていた戸星作品の1点で、住まい近くの柳をモチーフにしている。一片の雲もない晴れ渡った空。そして、そこを横切る1本の飛行機雲が柳をそっと支えている。風に踊るしなやかな新芽は清々しく、あっという間に過ぎ去ってしまう青春期を想起させる実に爽やかな一葉だ。下のカットはその直前に撮られたものだそうで、ほぼ同じアングルだが、飛行機雲が見当たらない。たったそれだけの違いなのに、写真の意味合いはまったく異なってくる。そして近似するこの2枚の違いはとても大きい。ここが写真の面白いところだ。たまたま柳に向かってくる飛行機のシャッターチャンスはほんの1、2秒。その時、カメラが手元にあり、レンズを向け、シャッターを切るという行為なくして、この瞬間の記録は決して残ることはない。

今は誰だってカメラさえあれば写真は撮れるし、選びきれないほど多くの記録方法の選択肢も用意されている。しかし、何を、どう撮るか。ただその二つだけのシンプルな要素で写真が成り立っていることも事実。プロフェッショナルとアマチュアを隔てる境界も定かでないが、ぼくらを取り巻くこの世界の不思議に目を凝らすわずかな写真家にだけ、気まぐれな世界はそっとご褒美を置いていくことがある。あっという間に消え去っていく夥しい泡沫から選び出されたたった一粒。その凍結された情景に人々が心を重ねるとき、それは写真がもたらす歓びとなる。

さて、一般的に日本では、柳といえばシダレヤナギを指すことが多い。なかなか種類も多く、生命力の強い木らしい。よく川や池の周りに植えられるのは、強靭な根を持って、埋没してもすぐに発芽してくる逞しい生命力をもっているからなんだという。ほっそりとした優雅な枝振りはどうみても女性的な風情をたたえているが「柳に雪折れなし」という言葉もある通り、一見頑強そうに見える木などより、柳ははるかにしなやかでタフな一面をもっている。これは人間にも当てはまりそうだ。馬力を誇る屈強の男性が案外ポキッと折れてしまったりするのに、ひ弱な女性が「柳に風」と、さまざまな逆風を受け流す粘り強さを見せたりして、生命力とはなかなかに奥深い。昔、中国では旅立つ人に柳の枝を折って手渡し送る習慣があったそうだが、これは「しなやかな枝はなかなか折れないので、その枝の中に『返る=帰る』という思いをめた」と、村上春樹のエッセイにも書いてあった。

また、柳がらみで、そのエッセイに紹介されていたジャズナンバーがある。ビリー・ホリデーの『柳よ泣いておくれ(Willow Weep for Me)』。失恋の想いを柳の木に切々と訴えかける内容で、これがなぜ柳なのかと考察している。英語圏ではシダレヤナギはweeping willowと呼ばれていて、weepには「すすり泣く」や「しだれて垂れ下がる」という意味があるからなのだそうだ。日本なら柳といえば怪談だが、いずれにしても柳という木にはどこかしら「擬人化」してしまいたくなる不思議な生命力が備わっているんじゃないかというお話。

まるで夢見のように話は脈絡もなくスライドしていくのだが、ぼくにはオアシスが実はもうひとつある。気が向いたとき仕事場から自転車で向かうと丁度よい距離にあるジャズ喫茶に出かけていく。ジャズの音色に満たされた店内に入るとカウンターに腰掛けて、煎れたての一杯のコーヒーを味わう。「Amoma」というこのお店を経営してるのはグラフィックデザイナー仲間のフジヰさん。デザインの仕事を絞り込み、3年と8ヶ月ほど前から久しくクローズしていたここを引き継いで好きなジャズを聴かせるお店をはじめた。マッキントッシュの真空管アンプを通して大きなJBLスピーカーから店内に流れるジャズナンバーの音色は温かく、そして深い。常連には自宅では味わえない本格的な音質を求めて、CDを携えてやってくる人もいる。

(ところで後日、ぼくのいいかげんな記憶を、ブログを読んだフジヰさんがそっと補足してくれた。正しくは以下の装備となるそうだ。スピーカーはJBLだがアンプ類は国産。プリはポピュラーな大昔のLUX MAN、CL35。パワーはAIR TIGHT ATM-1(今では軽自動車が買えるくらいするらしい)。スピーカーのホーンはアルティックだが、高・中・低ともJBL。中域のドライバーのみオリンパスで使われていた名器とのこと。これらの装備、門外漢のぼくにはちんぷんかんぷんだけど、好きな音楽を愛情を持って受け止めようとする姿勢はしっかり伝わってくる。こうして手塩に掛けたお店は、いわばフジヰさんのオーディオルームみたいなものだから、客が来なければソファーに沈み、大好きなジャズ三昧の至福の時間を過ごしているそうな)

また、フジヰさんはデザインと並行して長いキャリアをもつカメラマンでもある。気が向くと撮れたてのステキな写真をメールに添付して送ってくれたりする。ほぼ同世代のフジヰさんとは同業ということもあり共通となる話題には事欠かないが、ぼくらはさほど多くの会話は交わさない。話さなくても通じあえるということは、リラックスできるとても重要な要素だと思う。「やあ、どうも」で、それから一杯。一言、二言、そして「じゃあ、また来るね」。だから、オアシスなのである。

ただ、ジャズだけはなぜかこれまで夢中になって聴いたことがない。決して苦手だったり嫌いなわけではない。ジャズっていいなぁと思うことだってある。ジャンルを問わずこれまでいろいろな音楽を聴いてきたのに、不思議なこともあるものだ。その昔、ぼくにとってジャズは「大人の音楽」だった。60年代、甲府の中心街にあるビルの地下に一軒のジャズ喫茶があったので、高校生のぼくは興味本位でその店に入ったことがある。紫煙もうもうとたちこめる薄暗い店内は、圧倒されるような大音響のジャズで満たされていた。恐る恐る歩を進めると、ソファーに沈み込む客たちが見えてきた。皆一様に目を閉じて、難しい顔をして聴き入っていた。「あっ、こりゃ、大人の音楽だ」と、その時ぼくの中にジャズは随分と乱暴にインプットされてしまった。上京してからは新宿の「Pit inn」や「DUG」にも行ったことがある。ジャズ喫茶の草分け「DUG」を1967年に開店した中平穂積さんには一度会ったことがある。立ち振る舞いやその時いただいた名刺のデザインがとてもステキだった。そんなことはよく記憶しているのに、肝心のジャズについては何も覚えていない。中平さんは1961年に初来日したアート・ブレイキーの撮影を皮切りに多くのジャズミュージシャンを写真に残し、ジャズ・フォトなるジャンルを開拓しながら現在もジャズ人生を謳歌している経歴を見ると、日本大学芸術学部写真学科卒業とあるから、その活躍ぶりは写真とジャズが自然な形で融合した結果なんだろう。

ぼくにはそんなこともあったけど、やっぱり大人になんかなりたくないなという青臭さを引きずったまま、その後ジャズと再会することもなく歳を重ねてしまった。どうやら夢中になれない要因は、ジャズに何かが足りないのではなく、ぼくの中にジャズに夢中になる何かが足りなかったんだということのようである。

ま、ジャズの話はともかく、オアシスの主人であるこのご両人に共通するのは、忍耐と覚悟が求められる「自然体の待ちの姿勢」だと思う。もちろんこれは簡単なことではない。客商売はいつ来るか予測できない、気まぐれな来客で成り立っている。商い(=飽きない)とはよくいったものだ。ぼくも昔ちょっとだけお店の真似事をしていたことがあるから、じっと待つことに耐えられなければ成り立たない商いの苦労なら、少しだけ分かる。

ところで商いの極意だが、これは樹木の心に通じるんじゃなかろうか。子ども時分、木ってすごいなと感心したことがある。だって、大地に根を張った木は植え替えられでもしないかぎり、生まれてから死ぬまで一歩も動くことはない。そんなの当たり前じゃない、何馬鹿なこと言ってんのと笑われそうだけど、考えてみればやっぱりこれはすごいことだ。賢治の詩ではないけれど、雨の日も風の日もじっと立ち続ける樹木は、人知を越えた力によって支えられている。移動とは無縁の一見不自由きわまりない運命をただ静かに受けとめ、枝が折れても葉が散っても踏ん張りながら光合成と大地の滋養によって辛抱強く成長を重ねていく。自然体。気取らず、飾らず、身構えず。ゆったりと肩の力を抜いて、穏やかな心で淡々としなやかに日常を過ごしていく。

薫風に新芽を揺らすこの柳の写真を眺めていると、木立の彼方で楽しげに舞う、ぼくのよく知っている市井(しせい)の写真家たちがオーバーラップしてくるのである。