「きゃりーぱみゅぱみゅ」
“きゃりーオフィシャルブログ”より

2013.3.03

きゃりーぱみゅぱみゅ」のフルネームは“きゃろらいんちゃろんぷろっぷきゃりーぱみゅぱみゅ”(Caroline Charonplop Kyarypamyupamyu)と申すらしい。1993年東京生まれのB型で、読者モデル出身のファッションモデル兼歌手。特に興味があるわけじゃないけど、ボイスチェンジャーを駆使するテクノポップユニットのPerfume(パフューム)同様、彼女たちのように現実感を限りなく希薄に装った女の子たちの登場は前から何となく気になっていた。 現実世界をスライスして、その隙間に不思議なバーチャル(仮想)な世界を埋め込み、そこを住まいと定める彼女らの振る舞いから悲壮感は一切伝わってこない。コミックへの共感と連動するかのように海外での人気も相当なものらしいから、こうしたファンタジックでドリーミーなアイドルたちの近未来路線は、来るべき日本の輸出文化産業へと案外密かな成長を遂げているのかもしれない。

『HARAJUKU』のアイコンとして見出された「きゃりーぱみゅぱみゅ」は、仮想を現実に反転させながら事業化を目論むプロジェクトチームの核として存在している。つまり「時代の気分」が求める、今最も象徴的なキャラクターとして掬い上げられた商品というわけだ。ほとんどのアイドルはこれと同じ構造から生み出されているのだが、近未来路線をひた走る彼女たちの新しさは、アンドロイドのように限りなく人間臭さを消し去っている点だろう。

そういえば先日、NHKの「東京カワイイ★TV」に、究極のアニメ顔の少女が登場していた。東欧はウクライナから初来日した19歳のアナスタシヤ・シパジナちゃん。彼女は、人間(3D)でもアニメ(2D)でもない、2.5次元スタイルの少女なんだという。でも、ウクライナ語をしゃべったりすると、なーんだやっぱり人間なんだと、ちょっと引いてしまう。番組テーマの「原宿+(ミーツ)アキバ」では、このほか昭和レトロ(昭和はすでにレトロとなっているらしい)バージョンで、顔を白塗りした若者たちも紹介されていた。ぼくなんか「これって山海塾(さんかいじゅく)じゃん」なんて思うんだけど、彼らは顔を白く塗ることで元の顔を葬ってしまい、さまざまなファッションアイテムでコーデ(コーディネートのことをそう言うらしい)しながら「和ってカンジ(?)」を目指しているとのたまう。現実の仮想化は、ここでもひたひたと進行している。

実在しないバーチャルアイドルとして「初音ミク」はつとに有名だが、黎明期のその原点と目されるのは『超時空要塞マクロス』(1982年〜)に登場したキャラクター「リン・ミンメイ」の存在だ。このアイドルキャラクターの劇中での歌唱曲が、現実の音楽市場でポップソングとしてヒットしたことはアニメ界のエポックメイキングな出来事と言われている。声優を担当した当時大学生だった飯島真理は、これを足がかりに歌手デビューを果たす。以前、ぼくはヴァン・ダイク・パークスをよく聴いていた頃、彼のアルバム『Calypso』の収録曲『東京ローズ』できいたこともない名前の日本人の女の子が歌っていて印象に残っていたが、それがあの飯島真理だった。実は仮想と現実の逆転現象はすでに80年代に起きていたのだった。

「リン・ミンメイ」は仮想から現実へ、かたや「きゃりーぱみゅぱみゅ」は現実から仮想へと、ベクトルは逆であっても、どちらも同じ欲望から生み出されていることに違いはない。これらの反転現象を支えているのは、現実を拒否する非現実感への本能的な共感願望なのだから、重い現実に抗おうとするこの現象は、やっぱりどこまで行っても現実的な出来事なのだ。

ところで、日常の中でバーチャルなリアルが実感される瞬間がある。いつ頃からだろうか、ぼくは街中にいると不思議な感覚にとらわれることがあった。何となく自分がコミックやマンガの世界に迷い込んでしまったような気持ちになってしまうのだ。コスプレっぽいファッションの子とすれ違う時に感じることもあるし、居酒屋などの飲食店が、まるでコミックの中に登場するような店名で営業していたりすると、漫画の登場人物になったような気がしてくる。これって、まるで昔読んだ雑誌の中で展開されていた情景そのものではないか。店名に限らず、ユニフォームや商品のネーミングなど、隅々にまでこうしたコミックの感覚は染みこんでいるし、客層だって同世代であれば、きっと抵抗なくお店に溶け込むことができるはずだ。

漫画少年だったぼくは、ある時期を境にすっかりその世界から遠ざかってしまった。だから日本漫画やアニメの歴史をリニアに捉えることができないので、こうした情景を生み出したルーツが一体どの辺りにあるのかは分からない。でも、80年代前期にヒットした『うる星やつら』とか、後期の『キャプテン翼』などの洗礼を受けたコミック世代が、今の社会の中核を担う年代だと考えれば、この情景もなんとなく合点がいく。起業する時、彼らは店名はどうしようかと考える。思春期に読んだ文学全集が人生に少なからぬ影響を与えることがあるように、その時の彼らがコミックから影響を受けて発想したとしても少しも不思議なことではない。それに子どもの命名だって、一昔前ならコミックの世界でしか存在しなかったような名前が今では決して珍しくない。つまり、たかがコミックなんて馬鹿にできないくらい、サブカルチャーは甚大な影響力を秘めていたわけだ。当時のコミック制作現場で活動していた作家や編集者たちは、仮想に酷似してきたこの現実をどう感じているのだろうか。娯楽や趣味文化において、サブカルは主流派あっての少数派(マイノリティ)。ところがいまや、かつてのサブカルはポピュラーカルチャーへと変貌し、ポスト・サブカルは次々と産声を上げようとしている。

先日、六本木で1時間ほど時間つぶしをしなくてはならなくなって国立新美術館へ足を運んだ。当日は、第16回文化庁メディア芸術祭・受賞作品展と武蔵野美術大学や多摩美術大学など東京五美術大学の卒業・終了制作展が開催されていて、この2会場を駆け足で眺めてみた。内輪の観覧者ばかり目立った卒業・終了制作展に較べると、メディア芸術祭・受賞作品展の会場は盛況そのもの。若者たちであふれ返っていた。ポスト・サブカルの芽吹きに目を凝らそうとするが、(新進気鋭の出品者たちには失礼だとは思ったが)溢れんばかりの幻想の洪水にゲップが出てしまい、ぼくは早々に会場をあとにした。

以前は仮想だったはずの世界が、ふと気づくと現実にスライドしていて、仮想としか思えない現実が生み出されている。かと思えば、現実は限りなく仮想に憧れながらその世界に溶け込もうとしている。こうした雁行関係にある仮想と現実は交互に入れ替わりながら、これからも延々と移ろっていくのだろうが、そのどちらも人間の幻想から立ち現れてくるものだから、どこまでいっても人間というレンジから決してはみ出すことはないような気もしてくる。しかし「仮想」や「現実」を生み出すこの幻想は、人間にとってどんな意味をもっているものなんだろう。

先日の朝日新聞の『読書』に、横尾忠則さんの戸惑いぎみの書評が載っていた。テーマとなった書物は「死ぬのが怖い」 慶応大学教授・前野隆司〈著〉。印象的だったので一部抜粋してみる。

「…本書の目的は著者の「生きているのが楽しくて仕方ない」ということを人に伝えるためだそうだ。死を恐れないためには生は幻想であることを認識する必要がある。生も死も大差ない、本来、心もない、もともと何もない、人はすでに死んでいるのも同然。生きていること自体、勘違いで、人間は知情意のクオリアという幻想を持った生物で、人間には過去も未来もない。あるのは「今」だけ。あとは全て幻想。だから今しかイキイキと生きられない、と。…」

生は幻想なのだから、過去も未来も幻想の産物で、あるのは「今」だけ。じゃあ、幻想している「今」って一体何なんだろう。たとえそれは幻想にすぎないと言われても、幻想の過去や未来に支えられた「今」を生きているのだと思うのは、やっぱり幻想なんでしょうか、前野さん。